~原始仏典 スッタニパータ 第3章 第5節   マーガ より~(内容要約)

 

 

497 ”諸々の欲望” を 捨てて ”家なくして” 歩み

    

    よく 自ら 制して

 

       ”梭(ひ・織物で使う工具)” のように ”まっすぐ” な 人々

   

    ~そのような人々にこそ 適当な時に 供物を捧げよ。

    

    バラモンが 功徳を求めて 祀りを 行うのであれば~(以下この部分は省略)

 

 

 

498 ”貪欲” を 離れ ”諸々の感官” を ”静かに” 保ち 

    

    月が ”ラーフ (日食や月食を起こす鬼神)の 捕らわれ” から 脱したように

    

    捕らわれることのない 人々。

 

 

 

499 ”安らぎ” に 帰して

  

    ”貪欲” を 離れ ”怒る” ことなく

    

    この世で ”生存の諸要素” を 捨て去って

    

    もはや ”迷いの生存” に 行く 道のない人々。

 

 

 

500 ”生と死” を 捨てて 余すところなく

    

    あらゆる ”疑惑” を 超えた人々。

 

 

 

501 自己を ”洲(す・よりどころ)” として 世間を歩み

 

    (洲とは ”世間の激流” での ”安定した場所” の たとえ) 

    

    ”無一物” で あらゆることに関して ”解脱” している人。

 

 

 

502 これは 私の ”最後の生存” であり

 

    もはや 再び ”生を 受けることがない”  ということを

 

    この世で 如実に 知っている人。

 

 

 

503 ”ヴェーダ(経典)” に 通じ ”安らいだこころ” を 楽しみ

 

    落ち着いて 気を付けていて

 

    ”全き 悟り” に 達して 多くの人々から 帰依されている人々。

 

    

    ~そのような人々にこそ 適当な時に 供物を捧げよ。

    

    バラモンが 功徳を求めて 祀りを 行うのであれば~

 

 

 

 

(マーガが言った)

 

    私の質問は 無駄ではありませんでした。

 

    先生! あなたは この世での すべての事柄を 如実に語っています。

 

    この世で 施しの求めに応じる ”在家の施主” が 他人に飲食物を 与える場合

 

    どうしたら 祀りが 成功成就 するのでしょうか?

 

 

 

(ブッダが 答えた)

 

506 マーガよ 祀りを 行う 実行者は

 

    ”あらゆる場合” に こころを 清らかしめよ。

 

    祀り 実行者の 専心することは 祀りである。

 

    かれは ここに 安立して ”邪悪(貪・瞋・痴の3毒)” を 捨てる。(※)

   

    

 

507 かれは ”貪欲” を 離れ ”憎悪” を 制して

 

    ”無量の慈しみのこころ” を 起こして 日夜 つねに 怠らず

 

    ”無量の慈しみのこころ” を あらゆる方向に みなぎらせる。

 

 

 

(マーガが 言った)

 

   誰が ”清らか” となり ”解脱(げだつ)” するのですか?

 

   誰が (”人間の欲望”) に 縛(ばく)せられるのですか?

 

   何によって ひとは 自らが ”梵天界(ぼんてんかい)” に 達するのですか?

 

   どうしたら 私は ”梵天界” に 生まれるのでしょうか?

 

 

 

(ブッダが 答えた)

 

509 マーガよ ”三種の条件” を そなえた 完全な祀りを 実行する者は

 

    施与を 受けるに ふさわしい人々 を 喜ばせる。

 

    施しの求めに 応じる人が このように ”正しい祀り” を 行うならば

 

    (その人は) ”梵天界” に 生まれると 私は 説く。

 

 

 

マーガは このように ブッダに 説かれて ブッダを 最上級の言葉で 賞賛しつつ・・・

 

自分自身を ”在俗信者” として 受け入れてほしいと ブッダに 願い入れ・・・

 

その後 命の続く限り ブッダに 帰依したのであった。

 

 

 

以上が 第3章 第5節 マーガの 後編の 内容でした。本

 

 

 

 

こんにちは わんわん

 

 

 

私たちのような ”世俗” に 生きる者は どのように 生きるべきか?

 

それが 原始仏典 スッタニパータ 第3章に 記されています。

 

その意味は 私たちが ”苦しまない方法” を 示しているのです。星

 

 

 

 

”世俗” というのは・・・

 

自分の周囲に ”多くの人間” が ”普通に” 生きています。

 

そこでは ”人間の欲望” が ”そのまま” であり・・・

 

”人間同士の欲望” が そこで ”ぶつかり合う” ことも しばしばです。ドンッ

 

 

 

 

そして それが ”在家信者” の ”苦しみの大きな原因” であり・・・ 

 

私たちは そこから どうしたら ”脱出” できるのか? について 考える時・・・

 

そこに ブッダが 説いていた ”施与による修行法” が 役立つのです。ひらめき電球

 

 

 

 

”世俗” に 生きている ”在俗信者” としての・・・

 

”施与のやり方” が 記されているのが この ”第5節” の 内容です。

 

前回の記事の内容も それが 示されていましたが・・・

 

ここでは ”施与” における ”心構え” が 説かれています。

 

これは 私たちにとっての ”有意義なポイント” であり・・・

 

日常生活 全般に 当てはまる 内容であると 考えられます。 

 

それが 506からの ブッダのことば によって 理解されます。ひらめき電球

 

 

 

 

そして 巻末の 注釈の内容を ご紹介しますと・・・

 

506の ”あらゆる場合” とは ”三つの時期” を 意味しています。

 

① 与える前

 

② 与えつつあるとき

 

③ 与え終わった後

 

 

 

そして 509の ”三種の条件” というのは・・・

 

① 与える前 は ”こころ 楽しく”

 

② 与えつつあるとき は ”こころを 清浄ならしめ”

 

③ 与え終わった後 は ”こころ 喜ばしい”

 

 

 

・・・という ”三種類” の ”こころの状態” を 意味しています。ドキドキ

 

これらは ”施与” を 行う際での 自分自身の ”心理状態” というものが・・・

 

決して ”嫌々” でも ”仕方なく”  でもなく・・・

 

むしろ ”積極的” で ”純粋” で ”喜び”  を 感じている状態を 意味します。ニコニコ

 

 

 

 

 

しかし ”他人” に 何物かを ”与える” 場合・・・

 

そこでは ある意味 自分自身が ”損” を することになります。

 

その相手が ”無一物” の ”出家僧侶” であれば・・・

 

”与えたもの” に対する ”金銭的” ”物質的” な ”見返り” というものは・・・

 

彼らからは 全く 何も 期待できないわけです。パー

 

 

 

 

 

しかし ”宗教者” としての ”在俗信者” が 目指すのは・・・

 

”金銭的” ”物質的” な ”見返り” を 期待するのではなく・・・

 

自分自身の ”死後の来世の幸福” といった・・・

 

”人間の欲望の次元” を ”完全に超越” した レベルです。

 

私たちが ”宗教” を こころざす 場合では・・・

 

そのような ”高い次元” で ものごとを 考えるべきのようです。アップ

 

 

 

 

 

マーガは ”梵天界” という言葉でも 表現しましたが・・・

 

彼は 自分自身の ”死後の来世” において・・・

 

”梵天” である ”神の世界” を 目指していました。

 

その意味は 自分は いつか ”人間以上の存在” になることを・・・

 

その人生で 目指すために ”施与” を ”喜んで” 実践していたのです。

 

そこでは 自分が ”与えるもの” に 対しての・・・

 

”金銭的” や ”物質的” な ”犠牲”・・・

 

つまり ”損失” という概念を まったく ”度外視” しています。星

 

 

 

 

 

それゆえに 私たちが この世界で 仮に ”損失” を 受けた場合でも・・・

 

そこでも 人生に対して ”積極的” で ”純粋” で ”喜び”  を 感じる状態を・・・

 

”あなたは 維持できますか?” ということも 問われているようです。

 

つまり 自分自身の ”心理状態” が ”いかなる場合” であっても・・・

 

”落ち込む” ことが あってはならないことも 意味しているのです。

 

これが ブッダが 説いていた ”三種の条件” なのであり・・・

 

これが ”在俗信者” に 向けられた 教えなのです。目

 

 

 

 

 

”世俗に生きる者” とは  ”出家僧侶” に 比べて・・・

 

一見 ”自由な状態” で “楽ちんな状態” だと 思われるのですが・・・

 

”ブッダの教え” から 考えてみれば・・・

 

現在の 私たちは ”出家僧侶” よりも ずっと・・・・

 

きわめて ”困難な道” を 歩んでいることが 理解されてきます。あせる

 

 

 

 

 

その理由は ”世俗の生活” では・・・

 

”人間同士の欲望” が ぶつかり合って ”醜い争い” も 起こります。パンチ!

 

そして それによって あってはならない ”動揺” も 起こりやすくなります。

 

さらには 人間同士の争いに 巻き込まれて ”大損” を することも 起こります。ショック!あせる

 

 

 

 

 

しかし ”ブッダの教え” では 仮に そういう状況に 陥ったとしても・・・

 

そこで 決して ”動揺” や ”落ち込む” ことは あってはならず・・・

 

そこでも ”積極的” に ”純粋” に ”喜び” を 維持すべきなのです。

 

そう考えると ”世俗の生活” とは・・・

 

極めて ”困難な道” であることが 理解されるのです。ガーンあせる

 

 

 

 

 

私たちが 日常生活の中で ”落ち込む” ということは・・・

 

それは ”動揺” を 意味することになり・・・

 

その状態を 続ければ 私たちは ”彼岸(ひがん)” へは 到達できなくなります。(※)

 

つまり その時点で ”人間に縛りつけられる” ことになり・・・

 

”死後の来世” でも ”人間の苦しみ” を 繰り返すことを 意味するのです。しょぼん リサイクル

 

 

 

 

 

そこから 私たちが 理解すべきことは・・・

 

これまでの ”世俗の生活” での ”損得勘定” ということに対して・・・

 

そこに ”疑問を持つ” ことを 始めるべきであり・・・

 

自分自身は この人生で ”最終的に どうなりたいのか?” ということを・・・

 

改めて 考え直すべきである・・・と 思われます。目  

 

 

 

 

 

私たちのような ”世俗に生きる者” というのは・・・

 

どうしても 目の前の ”お金” や ”利益” に 目を 奪われます。¥

 

それは 私たちに ”現在の生活” への ”執着心” が あるからです。ラブラブ

 

しかし 私たちは ”その次元” に 今後も とどまっていれば・・・

 

私たちは おそらく ”永遠に苦しむ” ことに なってしまうようです。

 

それを 仏教の開祖であった ブッダは 人類に 示していたのです。星

 

 

 

 

 

 

 

皆様も ここで 第3章の 内容を 振り返られて・・・

 

”世俗に生きる者” としての ”あるべき生き方” を お考えになり・・・

 

今後の 人生設計に お役に立ててみては いかがでしょうか?ニコニコ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(※) 人間の ”3毒” についての 内容である・・・

 

    “人間を 不幸にする 3毒 とは?    の 記事は こちらから お読み下さい星

 

 

    

    ”彼岸” についての 内容である・・・

 

    ”ブッダの教え 彼岸へわたる とは?”  の 記事は こちらから お読み下さい星