~原始仏典 スッタニパータ 第3章 第5節   マーガ より~(内容要約)

 

ある時 ブッダは 王舎城の 鷲の峰 という 山におられた。

 

その時 ”マーガ” 青年は ブッダのもとに 赴いて 挨拶をかわし

 

そして 彼は ブッダに 問いかけた。

 

 

(マーガが言った)

 

ブッダ様 私は ”与える人” であり 寛仁にして ”施主” であり

 

他人からの 求めに応じて ”正しい法” に 基づいて ”財(施すもの)” を 求めます。

 

そのあとで その財物を 一人 二人 三人・・・

 

四十人 五十人 百人・・・ さらに 多くの人にも 与えています。

 

ゴータマ様 私が このように与え このように 捧げるならば

 

私には 多くの ”福徳” が 生じるでしょうか?

 

 

 

(ブッダが 答えた)

 

青年よ 実にあなたが このように与え そのように 捧げるならば

 

多くの ”福徳” が生じる。

 

誰であろうとも ”与える人” ”施主” であり 寛仁にして 施しの求めに 応じ

 

”正しい法” によって 財を求め そのあとで 法によって 獲得した財を

 

一人にも 百人に さらに 多くの人にも 与える人は 

 

多くの ”福徳” を 生じるのである。

 

 

 

(マーガが 言った)

 

袈裟をつけ 家なくして(”遍歴” の意味) 歩む ゴータマ様に お尋ねします。

 

”福徳” を求めて ”福徳” を 目指して ”供物” を ささげ

 

他人に ”飲食物” を 与える人が

 

”祀り” を 実行するときには 何者に捧げた供物が ”清らか” と なるのでしょうか?

 

 

 

(ブッダが 答えた)

 

マーガよ それは ”施与を 受けるに ふさわしい人々” とともに 

 

(あなた自身の) 目的を 達成するであろう。

 

 

 

(マーガが 言った)

 

では その ”施与を 受けるに ふさわしい人々” のことを 説いてください 先生!

 

 

 

(ブッダが 答えた) 

 

490 実に ”執着” することなく 世間を歩み 

    

    自己を 制した ”全き人(まったきひと)” がいる。

 

    ~そのような人々にこそ 適当な時に 供物を捧げよ。

    

    バラモンが 功徳を求めて 祀りを 行うのであれば~(以下この部分は省略)

 

 

 

491 一切の ”結び” ”縛め(いましめ)” を 断ち 

    

     自ら ”慎み” (さまざまな欲望から) ”解脱(げだつ)” していて 

    

    ”苦しみなく” ”欲求のない” 人々。

 

 

 

492 一切の ”結び” ”縛め” から ”解き放たれ” 

    

    自ら ”慎み” ”解脱” し

   

    ”苦しみなく” ”欲求のない” 人々。

 

 

 

493  ”貪欲(欲望のむさぼり)” と ”嫌悪” と ”迷妄(無知)” を 捨てており 

    

       ”煩悩の汚れ” を 滅しつくし

     

     ”清らかな行い” を 修めている人々。 

 

 

 

494  ”偽り” もなく ”慢心” もなく ”貪欲” を離れ

     

     ”わがもの” として ”執着” することもなく

     

     ”欲望” を 持たぬ人々。

 

 

 

495  諸々の ”愛執” に ふけらず

     

     すでに ”激流” を 渡り終わって(※)

     

     ”わがもの” という ”執着” なしに 歩む人々。

 

 

 

496 ”この世” でも ”かの世” でも いかなる世界においても

    

    ”移り変わる生存” への ”妄執(愚かな執着心)” が 存在しない人々。

 

    ~そのような人々にこそ 適当な時に 供物を捧げよ。

    

    バラモンが 功徳を求めて 祀りを 行うのであれば~

    

 

 

以上が 第3章 第5節 マーガの 前編の内容でした。本

 

 

 

 

こんにちは わんわん

 

 

私たちが ”ブッダの教え” から 学べることは 何か?

 

それは ”苦しみの存在” としての ”人間” から・・・

 

どのように ”脱出” すれば よいのか?

 

その ”具体的な方法” を 知れることです。星

 

 

 

 

前回の記事での ”第4節” では ”在家信者” として・・・

 

どのようなひとに ”供物” を 与えるべきか? についての 内容でしたが・・・

 

今回の記事で 取り上げる内容も それに続く 同様の内容が 記されています。

 

それは ”在家信者” が ”修行僧侶” に対して ”施与” を 行うこと・・・

 

つまり ”施し” としての いわゆる ”布施(ふせ)” についての 内容です。クローバー

 

 

 

 

仏教における ”在家信者” とは・・・

 

この世界における さまざまな ”執着心” というものから・・・

 

まだ 完全には ”脱出できていない状態” の 人びとを 示します。ガーンあせる

 

 

 

 

そして その ”在家の人々” が・・・

 

どうすれば この世界で ”救われる” のか? 

 

つまり この世界で ”苦しまない状態” に なるためには どうすべきなのか?

 

その方法の ひとつが ”修行僧侶” に ”施与” を 行うことなのです。

 

それは いわゆる ”間接的” に この世界で ”修行する” ことを 意味します。

 

つまり その ”施与” も ”重要な修行方法” なのです。目

 

 

 

 

そして この節に登場する ”マーガ青年” とは・・・

 

当時の ”バラモン教” における ”在家信者” の ひとりであり・・・

 

かれは ”施与” による ”最善の効果” を 得るための方法 というものを・・・

 

近くに ”遍歴” で 訪れた ゴータマ・ブッダに 問いかける という 場面です。 星

 

  

 

 

マーガは これまで ”正しい法” に 従って ”財(施すもの)” を 獲得して・・・

 

それを 百人を超える 多くの修行僧たちに ”施与” を 続けてきました。

 

しかし その行為が 果たして 自分自身の ”福徳(ふくとく)” としての・・・

 

自分自身が ”救われる” ことに なっているのか? が 疑問になったわけです。得意げ

 

 

 

 

では ”福徳” の 本来の意味を 辞書で引きますと・・・

 

① 幸福と利益。 財産や幸福に 恵まれていること。

 

② 〘仏〙 智慧(ちえ) 以外の 善行と それによって得られる 功徳(くどく)。

 

・・・と あります。本

 

 

 

つまり 自分自身の ”宗教者” としての ”善行” というものが・・・

 

はたして このままで ”有効なのか?” ということが 疑問になってきたわけです。

 

それが ”清らか” という言葉で 比喩的に 表現されています。

 

そして 彼は その ”施与を 受けるに ふさわしい人々” である・・・

 

”施与の対象者” を どのように 選ぶべきか? について ブッダに 尋ねたわけです。

 

そして ブッダは その ”対象者の選び方” を マーガに 答えたわけです。ひらめき電球

 

 

 

 

そして この節での 内容というのは・・・

 

在家信者の ”施与の対象者の選び方” を 説いていた だけでなく・・・

 

”修行者” としての ”理想の人間像” を 説いていたものです。

 

つまり ”在家信者” であっても ”修行僧侶” であっても・・・

 

この人生での ”目ざすべき目標” を 説いているわけです。星

 

 

 

 

そうでなければ 私たちは この世界で ”苦しみ” からは 脱出できず・・・

 

この世で ”死” を 迎えたとしても・・・

 

”かの世(死後の来世)” で 再び 人間や 生物に ”生まれ変わる” ことになり・・・

 

そこでも ”同じ苦しみ” あるいは ”それ以上の苦しみ” が 待つことになります。しょぼんあせる

 

そのことを 仏教の開祖であった ゴータマ・ブッダは・・・

 

修行僧たちや 在家信者たちに ”形を変えながら” 説いていたのです。 クローバー 

 

 

 

 

そのために 私たちは 人間としての さまざまな ”結び” ”縛め” という・・・

 

人間の さまざまな ”欲望” に 基づいている・・・

 

さまざまな ”執着心” を ”捨て去る” ことが まず 必要です。ラブラブ ばつ

 

 

 

 

さらには ”愛執” という ”愛する対象” も なくすことが 必要です。

 

では なぜ そうすべきなのか?

 

それは その ”愛する対象” を ”失うとき” が 確実に やってくるからです。ハートブレイク

 

そこで 人間は ”激しく動揺する” ことが 起こります。

 

それが 何を 意味するのか?・・・

 

私たちは 必然的に ブッダが 説いていた ”ニルヴァーナ” である・・・

 

この宇宙の中での ”永遠の平穏の状態” に 到達できなく なるからです。ショック!

 

 

 

 

”ブッダの教え” とは・・・

 

私たちが この世界で ”平穏の状態” を 維持する方法を 説いていたものです。

 

そして この世で つねに ”平穏の状態” を 維持できた者 だけが・・・

 

”かの世(死後の来世)” で ”平穏の状態” が 実現されるのです。星

 

 

 

 

つまり この世で それすらも 実現できなければ・・・

 

私たちは ずっと ”苦しみの状態” を ”繰り返す” ことが 待っています。しょぼん

 

だからこそ 私たちは・・・

 

現在の ”人間の状態” に 自分自身を ”縛りつける” ような・・・

 

あらゆる ”欲望(煩悩)” や ”執着心”・・・

 

さらには 人間や 生物としての ”愛執” というもの そのすべてを・・・

 

今後 ”生み出さない” そして ”捨て去っておく” ことが 必要なのです。目

 

 

 

 

 

そして 原始仏典に よく 登場する ”全き人(まったきひと)” という言葉は・・・

 

”完全に 束縛を 離れて 解脱した人” という意味です。

 

それは ”人間の欲望” によって ”縛りつけられる” 状態から・・・

 

完全に ”解脱(げだつ・脱出)” した 状態のこと・・・

 

つまり 完全に ”自由になった状態” を 意味するわけですね。星

 

 

 

 

そうすることによって 496にも 示されている・・・

 

”移り変わる生存” への ”妄執(愚かな執着心)” が 存在しない人々・・・

 

つまり ”人間や生物” に ”生まれ変わりたい” などという・・・

 

”愚かな執着心” も なくすことが できるのであり・・・

 

私たちは この宇宙の中で ”人間や生物” ではない・・・

 

”苦しみのない存在” としての ”別次元の存在” へ 移りゆくことが できるのです。

 

それが 宇宙の中での 完全なる ”自由な存在” と 考えられます。流れ星

 

 

 

 

 

私たちは ここでの内容も 慎重に 深く考えることで・・・

 

この世界での ”苦しみからの脱出方法” を 理解しておきたいですね。

 

次回の記事でも この続きの内容を 考えて参ります。ニコニコ

 

 

 

 

 

 

 

 

(※) ブッダの教えでの ”激流” についての 内容である・・・

    

    ”ブッダの教え 激流を 渡れ”       記事は こちらから お読み下さい星

   

    ”ブッダの教え 彼岸へわたる とは?  記事は こちらから お読み下さい星