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民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

長谷寺の本堂は1650年建立(新築)と案内板にあります。

観音様は8代目で室町時代の作と言われます。

 

 

 

自分が撮った本堂の東側の写真を最近になって見直しました。

 

以前、このブログでも“本堂は新築に匹敵する解体修理”と書きましたが、どう見ても新築でないことがこの写真からもわかります。

 

上層部の組物(A)は風化がなく、周辺より明るく見えます。

下層部の組物(B)は全て周辺の柱等と同じ色調・質感であり、風化も認められます。

 

これらの部材は建物をバラさないと交換できない位置にありますので、薄い色のそれが所謂創建時(1650年・江戸時代の初期)のもので、他はそれ以前ということになります。

 

本当の創建時(520年)からの部材の%はかなりのものと思われます。

 

  根継ぎされた柱が何本もあると調査報告書に書かれていますし、内内陣の柱には素晴しい絵(倭国時代のものの可能性大)が描かれています。

 

 

 

 

 

 

 

あるブログを丸ごと引用します。皆さん凄く勉強していますね。旧王朝の存在を悟られない努力は大和朝廷の始まった直後から現在に至るまで、たゆまず神経質なくらい続けられていることが分ります。御伽噺的な歴史で簡単に国民を騙すことが出来る時代は終わったのです。

 

引用文中の「肥前神埼の荘」は倭国長谷寺の跡地周辺のことだろうか?

 

2018年05月13 | 古代史

 (以下の論は「米田良三『建築から古代を解く』新泉社一九九三年十一月に相当の部分依拠しています)

 現在京都に「三十三間堂」という建物があります。(「通し矢」などのイベントで有名です)この「三十三間堂」は、「平忠盛」が「鳥羽上皇」に寄進したものとされ、当時「得長寿院」という名称でした。(一一三二年創建とされます)
 平家物語にもそのことが語られています。

「(平家物語)巻の第一」「殿上闇討」の段
「しかるを忠盛備前の守たりし時、鳥羽院の御願、得長寿院を造進して、三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏をすゑ奉る。」

 彼は(平家は)この後「肥前神埼の荘」へ赴任しており、九州にも勢力を伸ばしている時期であったと見られます。
 その後「一一八五年」に起きた「元暦大地震」により「得長寿院」は大被害を受けています。
以下平家物語の記事の当該部分。

「巻の十二」「大地震」の段
「赤県(せきけん:都に近いところ)のうち、白河(白川。京都市左京区)のほとり、六勝寺皆やぶれくづる。九重の塔(法勝寺にあった九重塔)もうへ六重ふりおとす。「得長壽院」も三十三間の御堂を十七間までふりたうす。皇居をはじめて人々の家々すべて在々所々の神社仏閣、あやしの民屋、さながらやぶれくづる。くづるる音はいかづちのごとく、あがる塵は煙のごとし。天暗うして日の光も見えず。老少ともに魂をけし、朝衆悉く心をつくす。また遠国近国もかくのごとし。(以下略)」

 このように「一一八五年」に「近畿」地方に大地震が襲ったことが窺えるわけですが、この時点で「得長寿院」が存在していたことが確認できます。また、この時「得長寿院」は上に見るように多大な被害を被ったこととなっていますが、その後それが再建されたかどうかについては記録がありません。
 現在京都にある「三十三間堂」(正式には「蓮華王院本堂」と言う)は、「一一六四年」に「平忠盛」の子「清盛」が「後白河法皇」に寄進したものとされています。これも直後に火災に遇いその後「一一六六年」に再建されたものとされています。
 この経緯を見ると、「得長寿院」と「蓮華王院」とは同時に存在していたように見えます。しかも、上で見た「一一八五年」に起きた「元暦大地震」の際にはこの「蓮華王院」については『平家物語』中には何も触れられておらず、建物は倒壊しなかったようにみられますが、それもまた不審です。つまり「年次」から言うとこの地震の際には「京」には「三十三間堂」が二つあったと言う事となりますが、かなり不審であるように思われます。
 この辺の年紀にも不可思議な部分があり、「得長寿院」の創建記事が載っている資料には「蓮華王院」の創建記事が載っていなかったりします。

ところで、現「太宰府天満宮」の所蔵資料の中の「一〇〇一年次」の記録に(大房の中に)「千躰観音像」がある、という記事が存在します。そして、京都に「三十三間堂」が出現する直前の記録には「筑紫観世音寺で大房が転倒し消失した」という記事が残っています。
 このような流れから見ると、
「大房」がこの時期に「都」へ「移築」されたものと考える事ができると思われます。
 つまり、「三十三間堂」は「筑紫」の地から「観世音寺」の「大房」が移築されたものと考えられるのです。(これが現在残っている「蓮華王院本堂」なのかどうかは前述したように「得長寿院」と「蓮華王院」の変遷から考えると不明です)
 そして、「平忠盛」もそしてその息子である「清盛」も、送られた側の「後鳥羽上皇」も「後白河法皇」も、関係者一同この「大房」がそもそも「何」であるかをよく承知していたものと考えられます。
 この「大房」の持つ意味を双方が把握していなければ「寄進」の意味がありません。これは「歴史的」な遺産ともいうべきものであり、また「法華経世界」の上等の表現としての「千躰仏」とそれを納めた「三十三間堂」は、彼等にとって最高の価値のあるものであり、寄進の意味もそこにあったと思われます。
 この「寄進」については、「天皇」は行幸しなかったとされ、それは「異例」という表現がされています。
これが「旧王朝」の遺物であり、いわば「公然の秘密」ともいうべきものであったと考えられますから、「寄進」に際しても大々的なイベントも行わず、天皇自身行幸もしなかったものでしょう。
 この当時「末法思想」の蔓延で、誰もが「西方浄土」での救済を願っていました。そのような中で「由緒」ある「三十三間堂」が「寄進」されたとすると、「上皇」の喜びも特に極まったものとなったでしょう。彼はこの功績で「殿上人」に加えられ、「昇殿」を許されています。

 ちなみにこのような「筑紫」からの移築という前例はかなりあったと思われますが、同じ「平安」時代(「平安」の初期)に「筑紫尼寺」を(少なくともその「梵鐘」を)移築して「檀林寺」としたという可能性を指摘しましたが、このような先例が彼等には重要であったのではないでしょうか。
 「とわずがたり」でも示されたように
「鎌倉時代」においても「筑紫」から「寺院」に関する多くのものが移動されている現実があった模様であり、王権に近い人々には「筑紫」が「仏教」特に「法華経」の聖地として映っていたものと思われ、そのような地から寺院その他を自家のものとすることは彼等にはいわば「贅沢」でありまた「至上の幸福」であったものと思われるわけです。


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2015/03/13)(ホームページ記載記事に加筆)

 

 

 

 

 

 

 

541年、倭国の時代 延喜帝が「奴隷解放令」を発布します。

  リンカーンなんかより1320年も前の話です。移築の為の建築部材を運ばせる仕事は大和朝廷が再開した奴隷労働なのです。

  ボーっと暮らしている日本人は何も知らずに博多の祗園山笠に熱狂しています。

  あの祭りは現政権に反抗を示すデモンストレーションなのです。

 

 

      『1日8時間40時間』の法定労働時間

 

 労働基準法に基づいた労働時間は1日8時間、週40時間以下です。 この労働時間は『法定労働時間』といい、が原則として適法と認める労働時間です。 第三十二条 使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて、労働させてはならない。2019/01/22

 

 

中学校か高校時代に「仕事は1日8時間以内(労働基準法)」と学んだのですが、現状は見るも無残、残酷、酷使、使い捨て時代であると、ウチに来るお客さんが言っていました。

そろそろ日本もオシマイか、と不安が頭をヨギリます。

まず年月を掛けて社会の構造や雰囲気を変え(例えば、コンビニの24時間営業、深夜放送)、狂った生活リズムを日常茶飯事にし、体力限界まで働かせることを可能にした上、この国(就中、自動車城下町)では犯罪的労働条件が当たり前になっています。

 

彼によると、仕事は8:00に始まり21:00まで続き(残業も毎日となれば定時です)、入れ替わりの夜勤者が遅刻すれば、延長となります。

昼休みは45分間ですが、社員食堂でモタモタすれば実質30分です。

仕事内容は膝、手首、腰への負担がハンパなく、機械化可能な部分もカイゼンなし。

欠員が生じても補充なし。タイムカードを押してから1~2時間働くのは当たり前。

更に2週間刻みの夜勤があり、バイオリズムは目茶苦茶になります。

2交代夜勤が如何に犯罪的かといえば、昼夜逆転に備え体調を整えようとして積極的な生活態度が全くなくなり、体調維持に時間を費やしているにもかかわらず、全く評価されません。

 

このような状況下で大人しく従ってきた彼のような日本人が、せっかく外国人の部下に仕事を覚えさせても簡単にやめてしまうし、中間管理職も数が少ない上、負担は重く、会社の中に幸せな人は誰もいません。

国際競争に勝つためと言うのですが、初めから負けています。

戦争中の「欲しがりません勝つまでは」を連想します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高校生諸君が一連の米田本を読んだとすると、日本史の入試問題は回答不能に陥る場合が充分に考えられます。

 

従来の説もある程度は知っておくべきと思い、手元に山川出版の『詳説 日本史研究1998』を置いているのですが、その中に日本史においては、常に「一つの正しい歴史」が存在するわけではない。また過去の出来事がすべてわかっているわけでもない。今日、わかっている出来事は、ぼう大なわかっていない出来事に比べれば、ほんの一部――「九牛の一毛」にすぎない。したがって、新しい史料の発見、埋もれていた史実の解明、異なった見方・考え方や解釈の導入が、これまで常識となっていた定説を大きく書きかえ、歴史の意味やイメージを全く変えてしまうことも珍しくはない。その点では歴史をできる限り多角的にとらえ、さまざまな視点から、いわば複眼的に見直す努力も必要であろう。」とあります。この通りなら、とっくに「法隆寺移築説」は世の中に広まっている筈。

 

それはさて置き、これは歴史に向き合う姿勢を示していると思うのですが、高校生にとって当面の問題は大学入試合格です。先ずは定説を頭に叩き込むことが先決です。めでたく入学すると「歴史に向き合う姿勢」はどこへやら、定説が頭の片隅に曖昧でも少し残っていればOKでオシマイ。社会人ともなれば・・・  あとは言うも無駄。  

 

若者たちに迷惑をかけてはいけないと思い、今まで静かにしていました。

しかし、気がつくと『続 法隆寺は移築された 建築史学入門』のコラムの記事の対象は無意識のうちに若者に向けられていました。

 

書いた以上は読んで欲しい、しかも一定以上の影響力を伴うように。行動しなければ、現状のままと考え、米田本を読んでも入試に影響を受けない生徒諸君に著書をプレゼントしようと思いつきました。トップ写真のようなカスタムメイドの装丁にすれば、より愛着が湧くと考えたのですが如何でしょうか?

 

古文の授業で「琵琶湖の鯨問題」、日本史の授業では「白村江敗戦後の唐による日本占領」等のテーマで、教師を教壇に立ち往生させる楽しみが待っています。青春はこうでなくっちゃ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

どちらの側につくか? は問わない。

 

 

“この様なことが話題になっている”

くらいは書いても罰は当たらないだろうに。

 

 

一生懸命、本気で書かないから、

新聞はどんどん売れなくなるんだ。

 

 

忖度番組ばかり流すから、

スイッチが切られるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Time flies.

 

まずは古今東西(南北)高校生較べ

 

 

        旭丘高校 1962  16203学級写真

 

焼け跡時代のイメージが残り、殆んど「3丁目の夕日」の世界です。

 

旭丘高校 2019 71期 卒業式 

 

すっかり垢抜けています。55年前と同じ場所ですが、校舎は建て替えられています。

 

      シドニーの某高校 1972 修学旅行で

          名古屋駅西の某和風旅館にて

 

 ジョン・レノン似の子がいます。

 

現在のように日本旅行が大ブームになる前、オーストラリアの若者たちが船旅で来日し、良い印象を持って帰ったにもかかわらず、“黄禍論”を勘違いした政治家が日本を排除し、中国、韓国に接近し、今になって後悔している・・・のではないか?

 

 

PENNANT HILLS HIGH SCHOOL ホームページより

 

こちらは垢抜けています。

 

この高校は私が1969年シドニー郊外で10日間ホームステイしたお家の娘さん(J.C.)が通っていた学校で、前の年にステイした関西のお嬢さん(Y.T.)がJ.C.から記念にプレゼントされたスクール・ピンバッジ(TOPの写真)を最近、私に託したことから校名がわかりました。

 

程なくしてY.T.さんの喪中はがきを彼女のお嬢さんからいただき、自分の死を予見した上での行動であったのか、と理解しました。

 

今はそうでもないのですが、以前の私のオーストラリア熱が彼女にそうさせたものと思われます。

 

 

 

You-Tubeを見ていると、日本の高校留学体験動画

(フランス人) (ドイツ人)がアップされており、

一様に日本の高校をベタ褒めしています。

 

施設面の良さ、年間行事の楽しさ、等々・・・  

 

何といっても一年限定、お客様的扱い(得意のおもてなし)、の影響が大きいのですが、究極は日本文化の奥深さが彼らに与える影響が一番大きいと思います。

 

外国と日本の優劣については、自分の高校時代に描いていた海外のイメージ(コンプレックス)とは真逆であることに驚くのですが、この逆転はいつ頃起こったのか? 

 

それとも、もともと日本はズバ抜けていたのか?

 

自虐史観のせい? ハッキリしたい。

 

 

 

 

 

 

 

AB&JC PRESS版「米田建築史学シリーズ」の四作目に当る本書の編集が大詰めになった頃、出版社からオファーがあり、著者米田良三氏による一般受けする文章への書き換え等、新たな動きが始まっていました。出版社から声がかかった時点で、ボランティア出版は役目を終えることになりますので、めでたい事には違いないのですが、一抹の寂しさを覚えました。このような経緯の最中、せっかく乗りかけた船でもあり、従来通りの編集方針で制作したのが本書です。

 

米田氏の文章は不慣れな建築用語に加え、独特の言い回しで取っ付きにくいというのが定評ですが、「特に噛み砕くことはしない」という著者の方針と、「特に著者に注文をつけない」アマチュア編集者との二人三脚で、今まで『続 法隆寺は移築された 建築史学入門』、『現代を解く・長谷寺考』、『日本国王室全滅亡 東アジアの悲劇』の三作を発表することができました。

 

米田氏は十年来の闘病生活の中で、四作目を出版社に託そうとしたのですが、病のコントロールに無理があり、願いは叶いませんでした。結果として、前述の三作に最後となる本書を加えた四部作が完結したのです。新泉社の四部作を(前期)と呼ぶとすれば、AB&JC PRESS版(後期)とを合わせ、プロの歴史学者、国文学者を足元にも寄せ付けない、建築史学の金字塔が打ち立てられたのです。(自画自賛?)

 

御用歴史学者たちが千三百年以上守り続けてきた我が国のフェイク・ヒストリーに疑問を呈する者は少なからずいたのですが、圧倒的な説得力で見破ったのが、歴史についてはアマチュアである建築家・米田良三氏だったのです。

 

歴史学に名を残したものの、古代寺院建築にヒントを得て自ら開発した免震装置の評価、実績を見ぬまま、この世を去るのは無念であったに違いありません。その免震装置・アンティシスモの売り込みの際、取引先の若い社員の感触は良いのに、上層部がロクに検討もしないで却下する、とぼやいていた米田氏。「法隆寺移築説」も「開発した装置」も共に行く手を阻まれて悔しかったことでしょう。  

 

そんな中、有言実行の信念で挑戦し続けた米田氏には尊敬の念を抱いています。十年以上にわたり、氏の原稿の単行本化に向けてパソコンと格闘しつつ、多くのことを学ばせていただいたことは私の誇りであり、悦びでもあります。

「天才の業績に対する評価は遅れてやってくる」と信じつつ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    現在書きかけの原稿です。本書とは『柿本人麿の真実』のことです

 

 

AB&JC PRESS版「米田建築史学シリーズ」の4作目に当たる本書の編集が大詰めとなったところで、出版社からオファーがあり、著者 米田良三氏による一般受けする文章への書き換え等、新たな動きが始まりました。出版社から声がかかった時点で、ボランティア出版は役目を終えることになりますので、めでたい事には違いないのですが、一抹の寂しさを覚えました。このような経緯を辿ったのですが、せっかく乗りかけた船でもあり、従来通りの編集方針で制作したのが本書です。

 

米田氏の文章は不慣れな建築用語に加え、独特の言い回しで取っ付きにくいというのが定評ですが、「特に噛み砕くことはしない」という著者の方針と、「特に著者に注文をつけない」アマチュア編集者との二人三脚で、今まで『続 法隆寺は移築された』、『現代を解く・長谷寺考』、『日本国王室全滅亡 東アジアの悲劇』の3作を発表することができました。

 

米田氏は10年来の闘病生活の中で、最後の4作目を出版社に託そうとしたのですが、病のコントロールに無理があり、願いは叶いませんでした。結果として、前述の3作に本書を加えたAB&JC PRESS版4部作が完結したのです。新泉社の4部作を“前期”と呼ぶとすれば、AB&JC PRESS版(後期)とを合わせ、プロの歴史学者、国文学者を足元にも寄せ付けない、建築史学の金字塔が打ち立てられたのです。

 

1300年以上見破られなかった我が国のフェイク・ヒストリーは、今後グローバルに波紋を広げることは必至で、旅行・グルメを始めとした日本ブームに及ぼす影響は計り知れません。

 

『源氏物語』が350年遡る、という驚きは、間もなく始まる911、117、311、・・・ の種子明かしにも匹敵するのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

名古屋のいいイメージを体現している歌手です。

 

テレビの歌番組への露出度が控えめだったように思います。

 

その分、隠れファンが其処彼処に潜んでいるのが面白いですね。

 

彼女の全盛期を過ぎた頃、自分の青春が終わった頃から聴き始めたせいもあって、歌の内容にのめり込むというよりは、曲調、雰囲気に浸ると言う愉しみ方に落ち着いたのは勿体無い事でした。

 

いい歳こいて名古屋・ファルコのタワー・レコードでファースト・アルバム『高木麻早』を求めて20年以上経ちますが、いい1枚です。

 

その後の曲はYou-Tube経由で愉しんでいますが、別バージョン、スタジオライブ、大学祭学園ライブもなかなか聴き応えがあります。

 

彼女はシンガーソングライターと言われますが、他の作曲家、作詞家も曲作りに加わってアルバムに纏ているので、様々な曲調が楽しめます。

 

声質は中島みゆき、ユーミン、山本潤子らと同様、独特の揺らぎと音程に伴う微妙な変化が感じとれますが、彼女にしかない装飾的な隠し味が大きな魅力となっています。

 

ブルー・ノートは毎回Sold Outだったというのも肯けます。

 

 

 

 

 

米田良三著『柿本人麿の真実』(ハードカバー・A5版)56ページを読んでいてミスプリント(赤字部分)を発見しました。()内が修正後です。

 

531年2月の継体軍の奇襲の後、倭国軍は反撃と掃討を行ない、534年に継体を討っている。継体82才と記されており、79才の時に筑紫への奇襲を行ったことになる。

 

筑紫の京は継体軍の奇襲により壊滅した。

 

特に478年ころ整備された(都督府の)宮殿が徹底して焼かれたことは、昭和43年大宰府政庁発掘調査で明らかとなった中門遺構の焼土層(調査では純友の乱の焼土層とされているが)が示している。

 

都を再建するに当たって、延喜帝はまず城壁都市とすることを決めた。

 

下部の2メートルに巨石を積み、その上にはレンガを積み、高さ8.5メートルの城壁が造られる。

 

逢坂の関のシンボルとして入口上の城壁上には二階建ての楼館が載る。

 

白村江の戦い後の占領唐軍により、城壁は壊され、土盛りに変えられたのが水城である。

 

『日本書紀』天智天皇三年(644年)に、この年「筑紫に大堤を築いて水を貯えた。

 

これを水城と名付けた」とある。

 

この城壁は筑紫京の北を区切る。

 

筑紫京の東西は山岳の稜線が区切る。

 

南を区切る城壁は宮地嶽(岳)の尾根が高(朝)倉街道にぶつかるところから原田(はるだ)を通るラインに造られた。

 

そして城内の筑紫京では焼土層を均し、その上に土を盛り、建物が再建された。

 

 

修正するに当たり宮地岳について調べていたら興味深いネット記事に遭遇しました。

 

平成11年(1999)民間の研究者が筑紫野市で古代の山城跡(阿志岐山城)を発見したというのです。

 

以前、“大宰府の南で土塁発見”という記事を書きましたが、その中にある米田氏が述べている大宰府の南の防衛ラインの存在が鮮やかに証明されました。

 

つまり、西から基肄城跡、原田の五郎山古墳、前畑遺跡、阿志岐山城跡が見事に緩いカーブの上に並ぶのです。

 

 

ネットの書き込みの彼の発言からして、阿志岐山城跡は将来人気観光スポットになることは確実でしょう。