大宰府南の倭国時代の防衛ラインの存在が鮮やかに | 民営文化センター

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民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

米田良三著『柿本人麿の真実』(ハードカバー・A5版)56ページを読んでいてミスプリント(赤字部分)を発見しました。()内が修正後です。

 

531年2月の継体軍の奇襲の後、倭国軍は反撃と掃討を行ない、534年に継体を討っている。継体82才と記されており、79才の時に筑紫への奇襲を行ったことになる。

 

筑紫の京は継体軍の奇襲により壊滅した。

 

特に478年ころ整備された(都督府の)宮殿が徹底して焼かれたことは、昭和43年大宰府政庁発掘調査で明らかとなった中門遺構の焼土層(調査では純友の乱の焼土層とされているが)が示している。

 

都を再建するに当たって、延喜帝はまず城壁都市とすることを決めた。

 

下部の2メートルに巨石を積み、その上にはレンガを積み、高さ8.5メートルの城壁が造られる。

 

逢坂の関のシンボルとして入口上の城壁上には二階建ての楼館が載る。

 

白村江の戦い後の占領唐軍により、城壁は壊され、土盛りに変えられたのが水城である。

 

『日本書紀』天智天皇三年(644年)に、この年「筑紫に大堤を築いて水を貯えた。

 

これを水城と名付けた」とある。

 

この城壁は筑紫京の北を区切る。

 

筑紫京の東西は山岳の稜線が区切る。

 

南を区切る城壁は宮地嶽(岳)の尾根が高(朝)倉街道にぶつかるところから原田(はるだ)を通るラインに造られた。

 

そして城内の筑紫京では焼土層を均し、その上に土を盛り、建物が再建された。

 

 

修正するに当たり宮地岳について調べていたら興味深いネット記事に遭遇しました。

 

平成11年(1999)民間の研究者が筑紫野市で古代の山城跡(阿志岐山城)を発見したというのです。

 

以前、“大宰府の南で土塁発見”という記事を書きましたが、その中にある米田氏が述べている大宰府の南の防衛ラインの存在が鮮やかに証明されました。

 

つまり、西から基肄城跡、原田の五郎山古墳、前畑遺跡、阿志岐山城跡が見事に緩いカーブの上に並ぶのです。

 

 

ネットの書き込みの彼の発言からして、阿志岐山城跡は将来人気観光スポットになることは確実でしょう。