世界の嘘がどんどんバレ始めましたが、日本もその例外ではありません。
本日のテーマは蟻の一穴となる可能性を秘めています。
講堂の北側にある礎石群についての解説が余りにもひどいので、自分なら、と書いてみました。
先ず、現在の案内板を見てみましょう。
観世音寺僧房跡
僧房は僧侶の研究室兼寄宿舎の性格をもっており、細長い建物を教室に間仕切し、各室毎に数人づつの僧侶が共同して生活していた。
1975~76年に実施した発掘調査の結果、長さ347尺(約102m)、巾34尺(約10m)ほどに復原される東西棟の建物が検出された。
礎石の位置をみると、中央に通り抜け用の馬道、その両側に小部屋がつき、さらに東西にそれぞれ5室、計10室の部屋がつくられていたと考えられる。
延喜五年(905)の『観世音寺資財帳』によれば、観世音寺僧房は大房、小子房、馬道屋、客僧房の6棟からなっていた。
今回検出された僧房跡はこのうちの大房と規模がほぼ一致しており、大房跡と判断される。
僧房跡の環境設備にあたって理解の一助として礎石を復原配置しており、本来の礎石ではない。
昭和54年3月
現地解説ボード
自分ならこう書く:解説ボードのサンプルです。
観世音寺三十三間堂跡
此処の礎石群の上にあった建物の大きさは桁行33間(約102m)、梁行は未発掘部分を加えると5間(約15.5m)であり、観世音寺古図にある長細い御堂(三十三間堂)に一致する。
観世音寺伽藍は607年に創建されたが、約10年遅れて御堂は講堂の北側に完成する。
白村江の敗戦を経て、伽藍の大部分が斑鳩に移築された672年以降も この御堂は此処に残り、第2次(大和朝廷としての創建)観世音寺の一部を形成していたが、1164年京都に移築され、現在の“三十三間堂”となる。
移築された三十三間堂は平清盛による新築とされ、その後 火災に遭い再建されたというが、いずれも虚偽の記録である。
その一番の証拠は現在の建物が倭国の物差し(1尺=281cm)で建てられていることからも明らかである。
以上は建築史学家・米田良三氏の研究による。
礎石についての解釈はこれで正しいと言えるでしょうか?
南側柱列が未堀であったり、復元配置と称して礎石を並べ替えたりして、発掘の初歩が守られていません。
昭和56年淡交社発行『古寺巡礼 西国 6 観世音寺』の巻末にある髙倉洋彰氏の解説によれば「大房は寺の中軸線を中心として左右対称に配置された東西棟の礎石建物で、講堂の北に位置する。規模は資材帳とわずかに相違し、桁行33間(347尺)×梁行4間(34尺)と推定される」とあります。
未掘部分を足せば梁行は5間となり、現在京都にある三十三間堂と同じです。
観世音寺古図のどこに通り抜け用の馬道があると云うのでしょう?
このように、御堂の奥行きを、京都の三十三間堂と一致しない、と思わせる小細工が行われてきました。理系の研究だったら一発でアウトのケースではないでしょうか。