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民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

これは April Fools’ Day 記事です。

 

 

コロナウイルス対策に多忙な毎日を送る大○秀○愛知県知事は、自らの周辺から提案のあった、東京都山手線原宿駅舎を同県へ移築保存する案に興味を示した。

 

オリンピックに向けて新築された駅舎に隣接して残った旧駅舎は取り壊されることになっているが、大正時代に建てられたメルヘンチックな外観を惜しむ声は多い。

 

知事は東大生だった頃、原宿駅をデートの待合場所にした思い出があり、この案にはまんざらでもない様子だ。

 

愛知県犬山市には移築建築のメッカとも言うべき明治村もあり、県民の理解は得られやすい、と見られている。

 

具体的な移築先は愛知万博会場跡に予定されているジブリ・パーク内がスペース的にも、内容的にもマッチしているとの評価だ。

 

もうひとつは、建物の外観だけでなく、機能も生かす方法として、新幹線とクロスする三河安城駅在来線の駅舎として復活させる案も考えられている。

 

建物の老朽化に伴う強度の面について心配する向きもあるが、江戸時代の初め、太宰府で崩壊寸前だった桂離宮を京都の現在地に移築した実績が我が国にはあるので全く心配は無い、と建築史学の専門家は語っている。

 

                                (4月1日 記)

このような会話が交わされる日が待ち遠しい。

 

 

 

身近な業界新聞を読んでの感想ですが・・・・

 

 

“医学部進学熱の実態はこの程度だ”とか“最近の学生は・・ ”とか云うつもりはありません。

 

 

身につけたい教養・情報量は彼等の祖父さん、祖母さんに当たる我々の頃に比べて莫大な質・量に膨らんでいます。

 

 

学生諸君に同情すべき点は僅かながらあります。

 

 

ここで感じるのは、この学生の無防備ぶりなのです。

 

 

簡単に「それ何ですか?」とストレートに言っちゃいけません。

 

 

我々の頃は、知らなかったら、その場を“むにゃ、むにゃ”とうまく切り抜け、後で調べたものです。

 

 

ことわざを熟知し、とっさに反応できれば世渡りは半分成功したも同然です。

 

 

PC・スマホ時代では自分のハードディスク(脳味噌)の中身は少なくても、外付け(スマホ)があればOKと思いがちですが、実生活ではとっさの反応の連続ですので、世の中を甘く見ないほうが良いのです。

 

 

この新聞の別ページにあった訃報欄です。医学部(ブ)―ムに水を注(さ)すくらい早死にですね。

 

 

コロナの件もありますので、生っちょろい根性で医学部を目指す受験生は減るかもしれません。

 

 

自分だったら、いくら若くても、防護服に身を固め飛び回る気にはなれません。


 

 

BS TVを見ていたら30年以上前の山手線原宿駅舎が目に飛び込んできました。

 

 

美しく輝いています。噂には聞いていましたが、駅舎は間もなく解体されるそうです。

 

 

ネットで見る建物の老朽化は明らかなのですが、新駅舎の設計を工夫すれば遺す方法はいくらでもある筈です。

 

 

多くの都民・利用者の思い出を一瞬に消してしまう解体は、人間にたとえれば死刑執行に当たります。

 

 

死刑宣告をされた現在の建物のオーラは日に日に消滅しています。

 

 

予定されている解体業者の目にはそうでもないでしょうが・・・ 。

 

 

同じような例は愛知県立旭丘高校の建替えでも経験しましたし、現在の名古屋城天守閣の立場もそうです。

 

 

あの天守閣は現状で十分に市民の宝です。

 

 

一方、都民は無反応かなと思うのですが、結局この国ではマスコミが動くかどうか次第なのでしょう。

 

 

森羅万象すべてが・・・・

 

 

 
 
 
 
 
 

 

この説に始めて触れる殆んどの人が拒否反応を示します。

 

自分の知識に反する内容は認めたくないのでしょう。

 

はまる人は少数派ですが、著者の理系的推論に惹かれるようです。

 

10年前、この図を始めて見た時と現在とでは見え方が全く異なります。

 

今では九州北部は自分の庭のようです。

 

逆に近畿の地名に違和感を覚えるほどです。

 

消された王朝を蘇らせる理系アマチュア歴史研究者の手腕に乾杯。

 

 

現代を解く・長谷寺考 』からの引用

 『列島合体から倭国を論ず』、『逆賊磐井は国父倭薈だ』では、1000年頃の作品とされる『源氏物語』が600年代の九州北部を舞台とする作品だと読み解いて来た。

 

その後の修正を経た地図「源氏物語の舞台」(図)を説明する。

 

現在の地形と異なるのは糸島半島が島であったことと、福岡市街が内海であったことだ。

 

石山寺(三宅廃寺)もこの内海に面していた。

 

難波から京、現在の太宰府都城へは大道が整備されていた。

 

 『源氏物語』若紫の巻で、源氏が北山、現在の大野城跡に登り、眼下を見渡しながら海辺の眺めの説明を受ける場面があり、難波津の先の明石の浦が話題となる。

 

その明石の先に須磨が、さらに先に伊勢がある。

 

福岡市西区に海に臨んだ長垂山があり、兵庫県の明石と須磨の間に垂水という地名があることから推定した明石、須磨、伊勢の位置である。

 

伊勢の対岸には志摩がある。

 

また京から南に下がると吉野に至る。

 

現在の吉野ケ里遺跡で、中心となる墳丘墓にはだれもが知る卑弥呼が埋葬されていた。

 

墓の上には当初覆(おお)い屋が設けられ、その形状から象山(きさやま)と呼ばれ親しまれていたが、300年頃に神体が移動する。

 

移動は隠国(こもりく)に入り、初瀬の辺を経由して、伊都国の神在の地に至り、伊勢神宮として祀られたと考えられる。なお当時は玄界灘を響灘と呼んでいた。(中略)

 

京(みやこ・大宰府都城)は倭京(ゐきょう)とも呼ばれ、高さ十数メートルの垂直な城壁に囲まれた都市であった。

 

現在に残る水城(みずき)は、白村江の戦(たたかい)後の占領唐軍が取り壊した後に造られた代替物である。

 

人や車などが通る城門は逢坂(おうさか)の関(せき)と呼ばれた関所である。

 

賀茂川 (現在の御笠川)  は逢坂の関の並びに城壁をくり貫いて流れており、夜には鉄格子の扉が降り船の出入が閉ざされる。

 

 

城壁の外に船溜りが在り、船を降り逢坂の関を利用する場合もあったようで、外町を形成していた。

 

一方、城壁の中では賀茂川は小さい湖を形成しており、船溜りとなっていた。そこが淀(よど)である。

 

そして大宰府都城が京(みやこ)で、現在の政庁跡に内裏があった。(以下略)

 

 

 

 

おかげさまで、この期間中、計15冊お求めいただけました。

 

41日から元の価格に戻させていただきます。

 

「法隆寺移築説」等、嫌いな説に反発する人は絶対に買ってくれないことがよく分かりました。

 

自分だって、嫌いな説にはビタいちもん払う気にはなりませんし、読みません。お互い様です。

 

とりわけ古代史は気に入った項目を組み立てるのが常ですので、人の数だけ「歴史」があって当然です。

 

議論の末、考え方を変更するなんて聞いたことがありません。

 

大学で教授の説に反発する人は、その世界で生き残れないでしょう。

 

利害関係は抜きで、ひたすら真実を求めるのは楽しいものです。

 

紐付きの研究者は、お気の毒としか言いようがありません。

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アビガンは2・3年前から話題の薬で、中国ではジェネリック版が効を奏して、コロナ終息宣言の原動力になっているようですが、我が国では騒ぎの真っ只中でも使われていません。

 

上流国民の非常用に備蓄されている、との噂もあるとか無いとか・・・

 

いずれ、この騒ぎは収まるとして、問題はその後です。

 

不勉強で偉そうなことは言えませんが、例えば、関節リウマチの初期なんか、アビガンを使えば一発で治ってしまう気がします。

 

その他、神経内科の難病特定疾患でも行けそうに思います。

 

昔の話ですが、スモン病の原因に関してウイルス説を唱えていた教授が、途中で薬害説に寝返った事がありました。

 

この出来事にヒントがあるように思います。

 

今後の展開によっては、医療の世界は一変してしまい、医者・コメディカルを中心に、人材の裾野にまで甚大な影響が及び、凄まじい阿鼻叫喚に到る予感がします。

 

高偏差値君達が医学部に殺到しなくなり、バランスの取れた良い国に生まれ変わる時代が到来するかもしれません。

 

 

 

 

 

  

    方言は地域住民を惹き付ける魔力。

 

 

                  毎日が事前運動。

 

 

              対抗馬が育つ余地なし。

 

 

         彼のやり方は


 

     親しみが沸く、というより狡猾。

 

 

 

 

 

 

 

 

椿市の推定地は当然関西ですが、『「平安」源氏』より350年古い『オリジナル(倭国)源氏』では、博多から佐賀に向かう早良街道沿いに在ります。

 

三瀬峠を下って右折して、すぐ左折して南に向かう細めの道が椿市のメインストリートです。

 

現在は「宿」という集落で、西に初瀬川が流れています。

 

地図は少し昔のもので、現在は赤いラインのように旧道に平行して新道が走っています。


 

ピンクのドットで示した界隈は一見、見放されたエリアのように見えますが、昔からの道幅が温存され、今後の観光資源価値も上がることでしょう。

 

写真は約10年前のものですが、玉鬘が現れるかもしれない雰囲気が好きです。

 

次の動画(https://www.youtube.com/watch?v=pUkNK-dDsb8はバイク・マニアの方がUPしたものですが、終わりの方(2:48~)で旧椿市のシーンを見ることが出来ます。

 

そこにある“じゅげむ”というおいしい麺処の店長に『倭国源氏物語』の件をお話した所、共感していただいたのですが、店長自身がブログに話題を取り上げ、間もなくしたところで店仕舞いとなってしまいました。

 

流行っていた店なのに・・・・

 

上記エリアに関する記述は、米田良三氏と二人で現地調査を実施し、倭国長谷寺の存在を確信した体験に基いています。

 

当然のこととして、現段階ではアマチュアによる仮説ですが、プロの方も含め多くの方々に興味を持っていただきたいと思いUPしました。

 

立場によっては絶対に認めたくない人々がいるのは承知しています。

 

 

 

 

写真は『世界の酒類事典』のCMページから。

 

犬猫好きの方には、たまんないショットでしょうね。

 

It  is raining cats and dogs.

 

懐かしい受験時代の例文です。

 

英語でcat and dogは“仲の悪い者どうし”の例えですが、我が国では“犬猿の仲”ですね。

 

桃太郎は家来の犬と猿の扱いに苦労したかも。

 

“むかしばなし”で倭国の連中が大和朝廷の奴らを揶揄している、と米田良三氏は言っていました。