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民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

現在制作中の米田良三 著『大倭歌聖(やまとうたのひじり) 柿本人麿の真実』(仮題)の前書きの一部を公開します。




前々著『現代を解く・長谷寺考』を書くにあたり、長谷寺に関係する和歌を資料として取上げ、九州佐賀県の山中に長谷寺の背景となる隠国を確認する作業を行い、長谷寺の創建が奈良帝と柿本人麿により行われたことを明らかにし、人麿の巻向歌群が詠われた場所を明らかにすることが出来た。さらに飛鳥川、石上布留も隠国にその所在を確認することが出来た。これら和歌とその示す地名を地図上に確認できると、和歌は史料としての価値・意味を持つ。それらの歌は『源氏物語』、『大和物語』、『万葉集』、『古今集』、『新古今集』他の勅撰集にあるが、その多くは『万葉集』の歌であり、柿本人麿の歌であった。



AB&JC PRESS のホームページは 

http://www.abandjc-press.com/ 




法隆寺の西院伽藍から夢殿へ行く途中にある東大門はアカデミズムも移築であることを正式に認めている。観世音寺古図に描かれる三十三間堂の北に位置する門が東大門の移築前の姿だと思うのだが、それを認める人は殆んどいない。伽藍全体の移築を認めることになってしまうからだ。


2015228日付け「日本経済新聞」に宮大工の小川三夫氏へのインタビュー記事があり、その中で彼は「俺が一番好きなのは東大寺の転害門」と発言している。この門は国宝にしては珍しく民家に近く、すぐ傍を車道が通っている。遠くからでも大きく立派に見え、存在感のある門である。これも倭国の時代に宇佐にあったものであろう。巻尺を当てて倭国のものさしで造られているのか調べてみたいものだ。宇佐500年代の東大寺の建築関係者の中に柿本人麿がいたことを小川氏が知ったらなんと言うのか興味深い。


東大寺南大門


東大寺南大門は数ある寺院建築の中でも異彩を放っている。間近に接した人は、その建物の発するオーラに圧倒される。その建築様式については、昔は天笠様とか云っていたが、近頃は大仏様(だいぶつよう)と云われる。どんな議論の末に呼称が変わったのか知りたい所だ。



南大門は1199年(鎌倉時代)に重源が再建したとされるが、定説を鵜呑みにしてよいのだろうか?あの風化の度合いはハンパでない。ちなみに法華堂(三月堂)は天平時代のお堂に南大門と同時期、増築されたと云うが、風化の程度は他の寺院と違わない。南大門は、その三月堂の風化をはるかに上まわっており、この点に関して誰も疑問を持たないことが不思議でならない。



米田説では、南大門の創建は定説より何と約700年古い。私はそれが建っていたとされる宇佐の小倉山の南を2007年に訪れた。伽藍と思しき所を発掘すれば、世界をアッと驚かせる結果が出るものと期待している。





全国にあまたある古代史の研究グループの中でも古田武彦氏の率いる「九州王朝」を唱える人たちの集まりはその規模、内容からして影響力があると思われるが、アカデミズムは全く彼らを無視、今のところ安泰と高を括っているが、本当は怖くて仕方がないであろう。密かに「トロイの木馬」を送り込んでいるようだ。

 邪馬台国「九州説」VS「畿内説」の争いは今まで両派を争わせておけばアカデミズムは安泰と思っていたようだが、いよいよ強引に「畿内説」定着させたいようだ。アカデミズムは定説を守ることが仕事、アマチュアはひっくり返すのが喜びであるが、両者の戦いはいよいよ大詰めである。法隆寺も「新築説」、「再建説」に新たに「移築説」が加わり、この期に及んで学者の中には観念したのか「移築説」は認めるが観世音寺からではないと往生際の悪いことを言っている者もいる。つまり、いつまでたっても真実を追求しようという気迫が感じられない。「移築説」を認めてしまえば日本の歴史は音をたてて崩れてしまうのであるから無理もない。全国の書店に並んでいる歴史書の90パーセント以上が全て無意味になってしまうのである。

米田氏は『続 法隆寺は移築された』の中で次のように述べているので勝敗は明らかであろう。

法隆寺移築説(1989年)を唱えてまる12年が経つ。建築史学会の重鎮には当然読んでいただいたが、極端な内容であるためか、まともな反応は貰えずにいる。奈良の薬師寺の工事事務所に西岡常一氏を訪ね、解体修理工事の時の話を聞けたのは幸いだった。めずらしい人に会うからと、その場に今の建築学会長の仙田満 氏を誘ったことが思い出となった。そのためか、細かな部分の質問には丁寧に答えてもらったが、移築を示す内容は何もないの一点張りであった。しばらくして、移築を認める内容の手紙をいただいたのはその償いかも知れない。その後、太田博太郎氏のご教示で解体修理工事の責任者であった浅野清 氏に会って話を聞いた。前もって送っておいた本を読んでくれていることは、質問に対する答えから分かったが、まだ読んでいないと言い続けられた。肝心の話は西岡氏と同じで、移築を示す内容は何もないの一点張りであったのは正直に言って驚きであった。






トンネルを抜けたら三瀬村


 2006年の秋に長谷山観音寺の跡地を訪れ、倭国長谷寺についてのヒントを掴もうとした。その時撮った景色の中に、後になって突き止めた長谷寺がかつてあったエリアが偶然写っていた。その2年後、米田氏と博多で落ち合い、三瀬村を訪れ、建築のプロの鋭い眼力を目の当たりにし、倭国時代の長谷寺の全貌を確信した。その前日の晩、二日市の宿で夕食をご一緒し、初対面にもかかわらず話題はまったく尽きることはなかった。賀茂真淵と本居宣長の「松阪の一夜」を髣髴とさせる出来事であった。
 

 その後も何とかして一般受けする本を作りたい一心で改善を重ね『続 法隆寺は移築された』が出来上がった。PCの扱いが未熟なため見栄えがしないが、内容的には一~四書の総括がうまく出来たと考えたい。さらに断続的に米田氏から原稿が届き、二人だけの電話・FAX編集会議が続き、『現代を解く・長谷寺考』『日本国王室全滅亡 東アジアの悲劇』が出来上がり、まだ誰も唱えていない驚くべき説がまとまりよく発表されることとなった。これらの私家・試作版三書についてはAB&JC PRESSのホームページに載っているのだが、ブレークはまだ先のようだ。覚醒とはこんなにも遅いのかと歯がゆい思いである。

「法隆寺移築説」に魅了された後の展開はまったく予想外のものだった。人並み以上の建築マニアを自負する私は第二書建築から古代を解く法隆寺・三十三間堂の謎 も読みたくなり、出版元に尋ねるも在庫はなし。今ならアマゾン経由ということになろうが、なんと米田氏に直接ファックスを送り譲ってもらった。その後、疑問点などを質問したりしたが、米田氏には優しく応えていただいた。第一書、二書の影響をもろに受け、法隆寺、観世音寺を妻とともに訪れた。太宰府の旅は興奮の連続であったが、定説を好む妻は私に対してブレーキ役でしかなかった。第三書列島合体から倭国を論ず地震論から吉野ヶ里論へ では古代からの博多の変遷ならびにその分析・考察に感銘し、第四書逆賊磐井は国父倭薈だ薬師寺・長谷寺・東大寺 では長谷寺の倭国時代の所在地を突き止めたい衝動に駆られた。このような発揚した精神状態の最中に米田氏から電話があり、建築雑誌に連載した「地震と建築と」というタイトルの原稿を出版社に持ち込んだが相手にしてくれない、何とかならないかとのこと。やっとPCを使い始めた頃ではあったが、まずは建築と並んで編集が趣味である私が本にまとめようということになった。世界で一番早く米田氏のまとまった原稿を読むことが出来る喜びは例えようもないものであった。苦労の甲斐あって一応、本の形にはなったものの、歴史と建築の話の組み合わせでは万人向けとは言いがたく、手作り本『地震と建築と』は不評であった。

鶴舞交差点(名古屋市昭和区)界隈で残っているのは老舗の二軒のみとなってしまったが、およそ二十年前にはユニークな古本屋がもう数軒存在していた。

その頃、今は無い書店で手にした『法隆寺は移築された』という不思議なタイトルの本が米田建築史学との出会いであった。元々、自宅や仕事場の設計を手掛けたくらいであるから建築には興味があったが、いざ読み始めてみると知らない日本建築の用語に満ちており、読み進むに困難を極めた。わからないところは飛ばして一通り眼を通したところ、書いてあることは直感的に本物であると思えた。著者は「地震に備える建築法」 を軸にインスピレーション鋭く「移築説」を語り、そのストーリーにはロマンがあり、謎解きの楽しさもあり、さすが理系の著者による歴史だと感心させられた。

さっそく、高校の同窓会の席で、東大出身の仲間に 「法隆寺移築説」 を披露したところ、「バカヤロー!そんなことあるかーっ、教科書に書いてないがや!」と名古屋弁での反応。本で知識を得た側が否定されてしまえば議論はそれでお終いである。

米田良三氏の唱える「法隆寺移築説」、その前提となる古田武彦氏の「九州王朝説」等は歴史アカデミズムの最も嫌うところであり、未だにまともな議論は交わされていない。

 1993年3月から8月にかけて国内4箇所で特別展覧会「倭国 -邪馬台国と大和王権‐」が開催された。その時のピクチャーガイドブックには大和王権以前の発掘品の写真が多数掲載されている。それらを見ると、学校で習う弥生時代のイメージよりは高度なものを感じるが、レベル的にはせいぜい「倭の五王」の時代までである。国民の大半は漠然と「倭国イコール弥生時代」とマインドコントロールされているが、倭国の時代は初めの頃と終わりの方ではまるで違う。その終わりの部分(6~7世紀)は日本が世界に誇る文明のハイライトなのだが、強引に(例えば飛鳥に目を向けさせることにより)関心を持たないように仕組まれている。「空白の5世紀」と呼ばれる時代の直後だけに盲点となっている。「時空を超える倭国の旅」とは、この時代に遊ぶことに他ならない。決して弥生時代の遺跡発掘の旅ではない。信じられないと思うが、その頃の寺院を巡ることは可能なのだ。奈良の法隆寺以前の寺院群である。読者の訝しがる顔が目に浮かぶようだ。キーワードは“移築”である。


「謎の寺」と云われる法隆寺であるが、その謎のほとんどが移築説で説明可能である。「秘密を隠すと謎になる」のは何もこの寺に限ったことではない。NHK-TVの特集で建築学者のS氏が「法隆寺の謎は謎のままでいいのではないでしょうか」と発言した時は思わずのけぞってしまった。完全に守りの姿勢がみてとれる。


 しばらく訪れていないので、現在は改善されているかもしれないが、救世観音の御開帳に出掛けた時はひどかった。暗い雨の日だったが、夢殿の中を金網越しに中を覗くも、ぼんやりと金色のかたまりが見える程度だった。金堂の内部も暗い。観光タクシーの運ちゃんが懐中電灯で照らしながら「ここではライトが必須だよ」と教えてくれた。サービス精神が全く感じられない。

 

一方、人気の百済観音は展示館も新築され、ガラスケースに納まり、かなり近い距離で鑑賞できる。米田説では救世観音と百済観音は夫婦である。妻はスポットライトをあび、夫は注目されないように暗い空間に閉じ込められている。二人がそろって展示されない限り、現在の日本のツキは落ちたままで、国難は解決されないだろう。この二人は九州王朝の法興帝とその皇后であり、二人の間に生まれた子が光源氏(のモデル)である。


 わかりますか? この楽しさ!

米田建築史学の本は東京の出版社から4冊刊行されたのを最後に、新しい原稿の引き受け手が現れず、編集が趣味の私が手作りで制作しております。編集には苦労を伴いますが、世界中の誰よりも早く新しい情報に接する楽しみは、何物にも変えがたいものがあります。現在、4冊目に取り組んでおりますが、今までの3冊と同様、発行部数は少なく、インナーサークルのテキスト的なイメージがあり、バーコードも付いておらず、アマゾンで扱われることもありません。そんな中、読者からの反応が時々あり、楽しませてもらっています。以下は玄界灘に面した某市に住んでおられるAさんからの便りですが、米田史学の真髄をズバリ一言で表しておられます。この手紙文が理解不能の方は是非米田史学にチャレンジすることをお勧めいたします。      


 


米田氏の他の本もほとんど購入し、『国父磐井』を一気に読み終え、現在は「列島合体から倭国を論ず」の「博多論」を読んでいるところです。渡辺様からのお手紙にもありましたが、まさか近所の神在が伊勢とは驚きでした。そして私が今、難波から(淡路を見ながら)明石、須磨を通り、志摩に通勤しているとは。高校のころ源氏物語にあこがれ、博多から京都の大学に進学したことが可笑しく思えてきました。米田氏の倭国論は地元で生まれ育った私にとってすべてが納得行くもので、大変な知的興奮を感じています。関西が倭国のコピーであるという新しい視点は、地理や歴史、日本文化に興味のある私の、今後の人生を楽しくしてくれそうです。