民営文化センター -125ページ目

民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever


大和長谷寺の真実は「花の寺」とか「牡丹の寺」等のキャッチコピーでことごとく伏せられている。その歴史について、国民はお伽話で見事にごまかされているが、真相の究明は、その気になれば文献的にも可能である。当たり前のことだが、今さら「法隆寺より古い」ということは絶対に認められてはならないのである。

今後も長谷寺については話題を提供し続けるつもりだが、今回は倭国時代の長谷寺の敷地を見ていただこう。中央に大悲閣が建っていた丘、手前の低く連なる潅木に囲まれた初瀬川、左手の森に杉神社、と今も未開発のままエリアは温存されているのだ。現在(移築後)の長谷寺は観光案内書、仏像の解説本等でも不当に低く扱われている。外国人の日本観光がブームであるが、『源氏物語』と直結する移築説が拡がれば、面白い展開になると思われる。まずは特急列車を長谷寺駅に停車させるよう近鉄にお願いしたい。






倭国長谷寺跡







桂離宮の図面を見ていて気づいたのだが、現代と同じ仕様のトイレのスペースが描かれている。便器は木製だと思われ、大と小は区別されている。定説では、江戸時代初期に新築されたとされているが、移築説に従えば、元は筑紫野市に建っていたものであり、平安時代の『源氏物語』より350年古いオリジナル『源氏物語』の時代にすでに整ったトイレがあったことになる。ベルサイユ宮殿にはトイレがなかったと聞いたことがあるが、千年の開きである。日本(倭)国 恐るべしである。











 

2015.2.12.に載せたものは意味不明のところが多く、書き直しました。(20174.22.)



 

毎日新聞社発行の55千円(ただし、古書市で9000円)もする桂離宮の写真集にある図面は総てメートル法で表記されており「尺」の文字は出てきません。



その数値に基づき御殿の畳の長辺(1間)を1尺=303cm(曲尺)で計算すると6.5尺となります。




この6.5と言う値を米田良三氏の提唱するィ尺(1=281cm)に換算すると6.5×303÷2817.00889・・・・



つまり7尺となります。



桂離宮が倭国の建物が移築されたとすると、倭国で使われた畳のサイズは7尺×3.5尺となり自然です。



桂離宮が江戸初期の新築だとすると、畳のサイズは6.5尺×3.25尺、と半端な数値となり不自然です。



寺院建築物の全集で図面を見る機会があったらィ尺に換算してみましよう。



ィ尺、曲尺どちらの場合にも整った数値が得られない場合は、柱の“内倒し”等が原因かを疑います。



秋篠寺とか浄瑠璃寺のように何となく可愛い感じがするのは倭国からの移築か?



興味は尽きません。

 

 

 

 


私の勝手な想像ですが・・・・


1. 日本の縄文文明が素晴らしいのみならず、学校で習う4大文明より古いと知られては困る人々(白人さんたち?)がいるようだ。


2. 発掘のためのプレハブ小屋が放火されることがある。


3. 三内丸山遺跡の復元建物はわざとみすぼらしく表現されているのではないか?


4. ひょっとしたら“合掌作り”が縄文時代の標準的な住宅だったのではなかろうか。


5. 2008年3月10日発行の『ビッグコミック』に掲載された星野之宣氏の「宗像教授異考録」に米田良三氏の取り上げたものと同じ話が載っている。コミックの中のキャプションには「2007年7月16日新潟県を襲った中越沖地震では、市街や原子力発電所に大きな被害が出たが、その陰で奇妙な現象が起きていた。震源地に近い新潟県“出雲崎”沖に突如、大量の“古木”が浮上したのだ。長い間、海底の土砂に埋もれていたものが、地震の液状化現象で解き放たれたとみられる。」とある。(W)


『列島合体から倭国を論ず』で述べたフォッサマグナにおける列島の合体は一般には認められていない。そして時間とともに起こる新しい現象は説明されないままに置かれる。

新潟県中越沖地震の発生後、日本海の震源地付近から約290トンも発見された縄文時代の古木。炭素14の割合を調べる加速器質量分析法で年代を分析した結果は4500年から5400年前のものだった。ヤナギやトチノキと判明したが、漁に影響しないように回収され、何の解明もないまま無料配布された。

芦の湖に地滑りによって沈んだ樹木と比較すると分かるが、古木は沈んだ時、生木ではなかったと判断できる。4000年前に暘谷海(ようこくかい)と呼ばれた旧日本海溝で、ユーラシアプレートと北米プレートの衝突が起こる、つまり巨大地震である。揚子江、ヒマラヤに及ぶ大規模なもので、地震による大津波が発生する。地震では壊滅的な被害を受けなかった暘谷海周辺の都市や集落も津波により壊滅。建物は流れ、壊れ、部材の重いものは沈む。暘谷海はその後の八ケ岳・妙高山等の噴火活動で埋まり大地となる。つまりフォッサマグナである。海で浮かび上がった古木は4000年前に被災した建物の部材と考えられる。

中越地震、中越沖地震、そして古木と続くが、衝突したプレート境界のその後の地震活動であるという認識が未だない。現在公表されている活断層図には4000年前に活動したプレート境界が記されていないのだ。

人間の力ではどうすることもできない自然の力、亜熱帯の日本から四季の日本に変化させた事実を受け入れる以外にないが、それを引き起こした自然の力を知ることも必要である。(米田良三)


 


縄文時代関連のニュースは、真実が分かると都合の悪い人がいるらしく、マスゴミはスルーのようだ。学校で習う世界4大文明より古いので無理もないか・・・・






ホームページでご案内した米田良三氏のAB&JC PRESS版第4作『柿本人麿と倭国・日本国』(仮題)の制作を始めました。


これからしばらくPCと格闘する日々が続きます。


このアナウンスにあたり、著者から寄稿がありましたので以下に掲載します。(S.渡辺)




          老いの宣言


71歳の私に残された時間は限られている。肉親の寿命からすると長く


20年であり、今日明日にもお迎えが来るかもしれない。



柿本人麿が104歳の長寿を全うしたことに関しては『柿本人麿と倭国・


日本国』(仮題)をご覧いただくとして、限られた時間に鑑み、小僧


と言われそうだが、 ここに老いの宣言を発することをお許し願いた


い。


           



突然ではあるが、5年後の2020年の東京オリンピック前後に東京駅辺の


直下を震源とする大地震が起こる予感がある。



東京直下型地震と呼ばれる地震で、規模的にも安政地震の再来と捉え


てよい。地表面の地震水平加速度は980ガル(=1G)以上で、数秒間


は大きい揺れが続く、阪神淡路大震災の震源域を襲ったのと同じ、震


7の地震である。



丸の内、銀座のビルは、1階部分の柱で剪断破壊が起こり倒壊する。



東京スカイツリーも同様であるが、倒壊によって続いてどのような事


態が起こるかは誰も想像が出来ない。



安政地震の場合、激震地丸の内周辺の被害に終わったのは全ての建物


が地震の被害を免れる技術で造られた伝統的日本建築(神社・寺院・


城・民家など)であったからだが、今回は明治時代に西洋から取り入


れた耐震技術で造った現代建築に代わっており、少なくとも東京都、


埼玉県、千葉県、神奈川県に被害が及ぶであろう。



取り返しのつかない事態になることは明らかだが、さらに時間がな


い。



専門家は伝統的日本建築の地震に対する技術を素直に学ぶべきである


こと、声を大にして言いたい。又私が発明した免震治具アンティシス


モは法隆寺金堂からヒントを得ており、伝統的日本建築技術の現代版だと考えている。ご理解を頂き、導入事例が少しずつ増えているのが現状である。地震対策に役立てば幸いと考えており、ぜひとも試していただきたい。

2015123日)

               米田良三














奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター発掘技術研究


室長のおかげで「法隆寺移築説」に大きな弾みがつきま


した。



ちょっとした判断のミスで心柱を切ってしまうなんて


「飛んで火にいる夏の虫」を思わせます。




『続 法隆寺は移築された』の中で米田良三氏は次のよう


に述べています。





法隆寺移築説は内容が極端なためか、これまで西岡常一


氏以外に賛同者が現れなかった。



が、突然に強力な味方が現れ、嬉しい驚きである。



2001年2月21日、朝日新聞は奈良文化財研究所の


発表を報じた。



法隆寺の五重塔の心柱は594年に伐採されたヒノキが


使われたこと、科学的な年輪年代法により年代が明らか


になったとした。



公式には五重塔の建立は711年頃の新築であり、


100年以上前に伐採した柱を再利用したのか、


また長期貯蔵したのかと識者に問うた形の報道である。



594年に伐採された用材は筑紫の観世音寺で607年


に心柱として建立され、672年以降に解体されて、


斑鳩に運ばれ、710年頃移築されたのであり矛盾はな


い。

 


心柱が594年に伐採された事実は、疑問を持つ人に


隆寺移築説を受け入れさせる力になるだろう。



太宰府 観世音寺 三十三間堂跡東にある万葉歌碑

太宰府 観世音寺三十三間堂跡東にある万葉歌碑





米田建築史学拡散のためのホームページを2010年に立ち


上げましたが、小生IT音痴のため小回りが利かず、


情報発信が遅れがちでありました。



それを解消するためと、他の分野の言いたいことも発信


したくなり、ブログを始めることにしました。



テーマが多方面にわたりますので、“文化センター”を


名乗ることにしました。



初めは一方向、言いっぱなしでやらせていただきます。