民営文化センター -123ページ目

民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever



長谷観音を含め全国で24(4/10現在)、仏像等に油がまかれる事件がおきているといいますが、ただの愉快犯のニュースで終わらせていいのでしょうか。そもそも、ばちあたりの日本人がそんなにいるはずがないし、非日本人にしか出来ない犯行は、おそらく100万人以上いるといわれる工作員の仕業でしょう。199812月の高圧送電線のボルトが抜かれた事件(新聞記事)、同じ頃、新幹線のレールのボルト(写真)が抜かれた事件も素人では絶対に出来ない業です。




JR、自衛隊の中にも工作員はいるでしょう。政治家、官僚、警察、裁判所、の中に工作員がいたら確実に国はつぶされますね。天海祐希のドラマ「女王の教室」の中の台詞「いい加減目覚めなさい!」が思い出されます。


http://blog.livedoor.jp/north_village_you-galois/archives/1020616347.html


倭国の時代、博多市街の大半は海でした。住吉神社は海に面していました。大阪の住吉神社は大和朝廷がパクッたもので本家ではありません。天神はすべて海の中でした。ビルを建てる際、ボーリング調査をすると、どこを掘っても、均質で、同じパターン土の層を示します。中州が形成され始めたのは鎌倉時代です。つまり地震に強いホテルはもともと陸地だった博多駅界隈ということになります。移築説を認めない人たちが扱う古代の地図は、現在とほぼ同じものが多いようで、米田氏が解説する(写真)「博多古図」は眼中にないようです。






http://www.google.co.jp/search?q=%E5%8D%9A%E5%A4%9A%E5%8F%A4%E5%9B%B3&nord=1&biw=1034&bih=544&site=webhp&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=_rcnVfaiNeO0mwX_zYGIDw&ved=0CBwQsAQ



現在、出回っている仏像解説書は何故つまらないのか? それは、倭国九州王朝の存在を隠しているからなんです。そのため、観音、菩薩、如来等について解説するものの、実在の人物が像に投影されていることには言及できないのです。十一面観音は倭王武の奥さん(筆頭は長谷観音)で、その息子が阿弥陀如来(筆頭は薬師寺の阿弥陀如来[薬師如来と誤魔化されている])で、日光、月光菩薩はその息子たちで、地蔵菩薩は阿弥陀の幼少時を表しているのです。三十三間堂の千体は倭国の時代、実際に生きていた人達です。





高校時代の友人H.吉田君が描いてくれた百済観音の絵です。彼女は上宮王(法興帝)=救世観音の奥様で、韓半島経由で倭国王朝に嫁ぎ、生まれたのが光源氏なのです。どうゆうわけか、私には百済観音と女優の北原三枝さんがダブって見えます。




hasezannkannnonnjikara


この写真は倭国長谷寺の所在地を突き止める以前に撮った写真です。「宿」から街道を横切り、東に進んだところに長谷山観音寺跡があり、そこからの景色を闇雲に撮ったところ、(後でわかったことですが)偶然、倭国長谷寺のエリアが写っておりました。画面中央にあるビニールハウス群のあたりです。



ごく最近、タイのチームがドラマ撮影のため三瀬を訪れたそうですが、


http://www.thaich.net/news/20150207a.htm




「倭国時代、東南アジアから長谷寺や観世音寺に留学生が来ていた」と米田氏が言っていましたので、何かしら「縁」を感じます。三瀬は長谷寺の敷地、初瀬川、門前町の椿市、二本の大木伝説の杉神社、等がすべて開発を免れており、おまけに外国からの訪問者もあり、上記のようなタイトルを付けることになりました。 





宿


この写真は200711月に撮った「宿」のメインストリートです。この通りは博多から三瀬峠を超え、佐賀に向かう街道そのものだったのですが、少し離れた東に新しい道が整備され写真のような昔のままの街道が残りました。これはとてもラッキーな出来事であって、そのまま拡幅されていたら昔の雰囲気が損なわれてしまうところでした。ここが倭国オリジナル『源氏物語』の椿市で、600年代の門前町のムードが漂っています。麺処「じゅげむ」の店長によれば、このエリアは宿泊施設を含めた村おこしが計画中であるらしいのですが、紀貫之や玉鬘が歩いていた元祖長谷寺の門前町の再現と考えれば胸ワクですね。



名古屋から近鉄で長谷寺へ行く途中“名張”を通る。何度通っても必ず条件反射的に“毒ブドウ酒”を連想する。地域の人たちにとっては迷惑な話なのだが、子供の頃から聞かされているので、私の中では怖い地名の一つになっている。車窓から見る風景もなんだか暗い。奥西さんは超高齢になって頑張っている。本当に殺(や)っていれば、犯罪心理学的にみて、あの年齢まで生きられるとは思えないのだが・・・・  無罪になれば、地域の悪いイメージは改善されるのだろうか?





長谷観音


長谷寺の本堂と観音様は517年に作られたオリジナルで、法隆寺よりはるかに古い。近鉄は外国人観光客のためにも長谷寺駅に特急を停車させるべきである。何度でも言わせてもらう。





東大寺法華堂(三月堂)は天平時代のお堂に鎌倉時代 増築されたと云うが、見た目の古さに違いはない。

小学校の修学旅行の際「木造建築は年月が経てばどちらが古いのかわからなくなってしまうんだなあ」、「柱の間隔がなんとなく違うのはなぜかな」と気になったことを覚えている。

1.柱間の寸法は天平側と鎌倉側と明らかに異なっているのは誰の目にも明らかである。2.鎌倉側が曲尺で造られているのは、ほぼ間違いないので、天平側は異なるのものさしで造られていると考えられる。しかし、3.天平時代は既に 曲尺の時代になっている筈なので、辻褄が合わない。オリジナル法華堂は米田氏の言う「ィ尺」で造られているのではないか? 13より法華堂の古い方は倭国時代のもの(宇佐からの移築)と思う。全国的に見て唯一(?)、二種類のものさしで作られていることになり、移築論的に興味の尽きない建築物といえる。詳細な図面が見たい!




3月12日にお知らせしました 米田良三 著『大倭歌聖(やまとうたのひじり) 柿本人麿の真実』(仮題)は都合で編集作業は休止しています。



太宰府と聞いて連想するものは天満宮、菅原道真。白村江の戦いまで思いつく人はほとんどいない。都府楼跡にある展示館の年表は白村江以前は白紙である。それ以前を問題にすると、大半はついて来れないが隆寺築説ニアは燃える。


最近の天満宮は中国語、ハングルが飛びかっている。都府楼跡や観世音寺まで足をのばすことを省略する観光客が見受けられる一方、隆寺築説ニアは増えつつある。五重塔心礎を熱心にカメラに納めていれば、そうに違いない。お互いアイ・コンタクトで「お宅も・・・」といった塩梅。

観世音寺五重塔心礎

清水山観世音寺と呼ばれる由縁は、寺の北西に大昔から清らかな水が絶えることなく沸き出ている「弘法水」と呼ばれるスポットがあるからである。ガイドブックには載っていないが、書道を習う人は行くとよい。ここの水で墨を擦ると上達できると言われている(最近は水量が減っているようだ)。この清水山→清水寺=観世音寺というトリックが不徹底のため、『平安・源氏物語』の中で1ヶ所不自然な“観世音寺”が残ってしまったのではなかろうか? この付近の今以上の宅地開発は禁止となっている。景観を守るということだが、発掘されては困る(九州王朝を証明する)ものが出土するかもしれないからだとも言われている。

 

観世音寺界隈では、お食事処が見当たらないが、1軒紹介しよう。観世音寺の石碑の前で県道を渡って1本目の十字路を左へ入り、次も左、その次右へ回って右手に「筑紫路 松井」という和食のお店(写真)がある。観光客向けというよりは、地元住民向けの店である。お店の人はまだ移築説を本気にしていない。

新しい九州国立博物館もぜひ行ってみたい。ミュージアムショップは充実していて『太宰府は日本の首都だった』も置いてある。体制派にしては太っ腹であるが、脇が甘いとも言う。

syuusei



AB&JC PRESS のホームページは   

http://www.abandjc-press.com/  




ヤマト朝廷成立以前の北部九州は文明的に明治維新頃よりも上であった。巨大な石造アーチ橋が博多のウォーターフロントに、石を積んだ城壁をベースにした逢坂の関(写真)(下が跡地である現在の水城)もあった。台北の故宮博物院の「清明上河図」は白村江の戦いの時の進駐唐軍が戦利品として持ち去った日本(倭)国王室の絵巻物を模写したもので、一見中国風だが、当時の博多の雰囲気を知ることができる。http://www.npm.gov.tw/masterpiece/fPreview.aspx?sNo=04000988 「清明上河図」は現在、世界に41本もの模写本があり、白人社会でも研究が進んでいるのだが、(今のところ)いつの時代の、どこの地域が描かれているのか特定されていない。中国歴代の皇帝(現代の権力者も含め)は原本を世界に示し自慢したかったのであろうが、一目で日本(倭)国王室のものと判ってしまうジレンマの狭間で、原本は一切門外不出にし、御用絵師に模写させたのが真相のようだ。




李登輝氏ほどの最高権力者であれば「清明上河図」の原本を目にしていると思われるので、彼の目には現在の日本の政治的惨状が歯がゆくて仕方なく映っているのではないか。史上稀に見る完成度の高い王朝を地上から消し去るという則天武后と大和平野の売国奴たちとの密約が現在も有効であるため、邪馬台国は近畿でなければならないのだ。邪馬台国と九州王朝倭国が一連であっては困るのである。


米田氏の説を私なりにブログ用にまとめてみました。




逢坂の関




AB&JC PRESS のホームページは   http://www.abandjc-press.com/  


 

 

 倭薈終焉の地を巡るにはJR柳ヶ浦下車、タクシーの利用(1時間4000円)がよい。まず、巡礼の出発点、法鏡寺廃寺に寄るが、発掘の後、すべて埋め戻されており、のどかな田園住宅地の風景のみである。次に上拝田よりさらに南の鷹栖観音へ向うが、駅館川にせまる崖は何かしらスピリチュアルな奮囲気がただよう。来た道を戻り虚空蔵寺跡では薬師寺の東塔が建っていた礎石(写真)
薬師寺東塔跡
を見る。周りは薬師寺古図の奮囲気がまだ残っている。

 次に小倉山へ向うが、途中 iichiko を造っている酒造メーカーの前を通る。小倉山は会社の敷地なのか、裏山なのか、山に登る気分になれないのが残念。小倉山を取り巻くように走り山下へ向う。宇佐別府道路のガードのあたりが大門(現在の東大寺南大門)の跡である。南に向って田んぼの中をまっすぐに走る道の先が上元重で、東大寺の伽藍があったところである(写真)。
宇佐東大寺跡
背後の山々はまさしく「東大寺縁起」にある山々とそっくりである。

 今となっては建築物は何も残っていない宇佐地方であるが、少し勉強して行くだけで、景色の見え方が全く異なってくる。聖地を巡った後で宇佐神宮へも寄ったが、大和朝廷製の施設と思うだけで(宇佐神宮を)低く評価している自分に気づき思わず笑ってしまった。風土記の丘にある大分県立歴史博物館は寄ってみる価値充分あり。そのパンフレットに小倉池のことを「江戸期にできた灌漑用ため池」としているのは気に入らない(古代からある)。