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民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

前回からの続き



しかし白鳳地震によって扶桑国時代に造られた寺院や建物の多くが倒壊し、当初の計画を進めることに加え、九州の多くの建物を移築することとなった。その結果、700年頃の筑紫は何もない状態になったのである。(完)




九州に、やたら廃寺が多い理由がお分かりでしょうか。





この素晴らしい国の歴史や文化を嫉んで火を放つ者が現れんとも限りません。油をかけるのはその予行演習かもしれません。みんなで注意しましょう。



以下の動画が参考になります。

http://junchan2461.at.webry.info/201505/article_22.html




今回でこの9回シリーズは終わりです。



落ちぶれたとはいえ、現在でも日本人の評価が高いのは倭国時代のトップがすばらしかったからです。そのトップとは阿弥陀如来と見做された倭国王・倭薈と聖徳太子のモデルとされた上宮王の二人です。
















何度でも言わせてもらいます。現在の大和長谷寺の建物が世界で一番古い木造建築です。法隆寺は移築の際、もたついたので、材木が真っ黒けになっただけなんです。517年創建の建物が現存していては困る奴等がいるのです。パンフレットの解説はまるで御伽噺です。


 



 


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 当初、大和朝廷は数件の移築を計画したようだ。一つは斑鳩の法隆寺で、観世音寺の中心伽藍を用いて、観世音寺の伽藍配置と異なる伽藍配置の寺を造ることを計画した。二つ目は後の平城京の薬師寺で、条坊に矩形の左右対称である伽藍を計画し、宇佐の霊山の三重塔を移築して東塔とし、金堂に薬師三尊(霊山の阿弥陀坐像と二王子立像)を安置する計画である。三つ目は奈良の長谷寺で、九州の初瀬の大悲殿と長谷観音を解体移築して、山の中腹に大悲殿を造り、長谷観音を安置する計画で、創建長谷寺の特徴であった長い水平な回廊を、山の中腹に登る階段・登廊に変えた。四つ目は奈良東大寺で、宇佐の東大寺大仏殿と阿弥陀大仏を移築・移動して、間口の小さい大仏殿とし、上半身を鋳直して盧舎那大仏とする計画である。(続く)


 


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法隆寺を造るために大和朝廷は観世音寺の調査を行い、斑鳩での事前の準備である基礎工事を行っている。そして678年に高知県沖を震源とする白鳳地震(現在問題となっている南海トラフ地震と同じ震源地震)が起こる。この地震により、斑鳩の若草伽藍は倒壊・焼失し、飛鳥のすべての寺の塔は倒壊した。また山田寺では液状化現象が起こり、回廊が埋没した。一方筑紫の観世音寺をはじめ全ての建物は地震の被害を受けることは無かった。(続く)


 


通説では684年とされているが、米田氏は678年と説く。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-d.htm

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664年唐軍は筑紫京に進駐し、日本国王室は潰れる。城壁を解体して、水城と呼ばれる土塁に変えたことに象徴されるように、人・文物・建物(事前に唐と扶桑国の分け前は決めていたと思われる)を略奪し、672年五月に唐軍は撤退した。672年六月扶桑国軍(大和朝廷)が筑紫京に進駐し、同様に略奪した宝物は現在正倉院にある御物であるが、唐軍が持っていったものに比べると劣る。同様に唐軍が解体して持って行った石山寺は石造であり、大和朝廷が移築しようとした観世音寺は木造で質的に異なる。

(続く)


 


http://chimei.sakura.ne.jp/f-24dazaifu.htm


 


山田寺は法隆寺より古い YES

これを 山田寺>法隆寺 と表す

山田寺は太宰府にあった観世音寺を意識して作られた

すなわち

観世音寺>山田寺

しかし、観世音寺=法隆寺(移築)

ゆえに

法隆寺>山田寺

(法隆寺の方が山田寺より古い)簡単でしょ!


 



 


http://www.google.co.jp/search?q=%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%AF%BA+%E5%9B%9E%E5%BB%8A&nord=1&biw=738&bih=361&site=webhp&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=Hv9jVez2GYj48QXfvIDwCg&ved=0CC8QsAQ&dpr=1.75



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618年自立することになった扶桑国は、630年頃から高麗、新羅、唐との交流を深めたようで、高句麗から僧侶が多く渡来した。639年には「大宮と大寺を造る」の(詔)により、百済大寺が造られ、641年には山田寺の整地が始まり、伽藍が造られた。飛鳥地方に造られた寺院の伽藍配置はすべて高句麗形式のものである。やがて多くの塔が立ち並ぶことになる。この時期、斑鳩の地には若草伽藍と呼ばれる寺院が造られた。伽藍配置は高句麗様式である。(続く)




画面手前が南大門の在った所、奥に東大寺伽藍がありました。現在は田圃になっております。ボーリング調査をやったら、日本の歴史がひっくり返る面白い結果がでると思います。




前回からの続き



535年に起こった複数の奇跡を経て、奈良帝は阿弥陀如来と看做され、奈良帝を慕う形で阿弥陀信仰が発生する。宇佐東大寺に阿弥陀大仏を鋳造し、570年には金光明四天王護国之寺が落成する。また並行して諸国に国分寺・国分尼寺が造られ、阿弥陀信仰は隆盛を極める。観音信仰・阿弥陀信仰と東アジアの国々に教えは広まってゆく。その後、阿弥陀信仰は宗教者のための信仰、原理主義の傾向が強くなり、問題が発生したと思われる。598年、上宮王は法華勝鬘等経を説かれる。その在家仏教を主体とした法華経的価値観を具現化した観世音寺を607年に造る。主仏は釈迦如来である。落成に合わせ、500年以降百年以上続いた新羅の占領と、534年以降の扶桑国への監視の終了を決め、618年の観世音寺の落成式紅葉賀が行われた。(続く)







宇佐小倉山の麓の小倉池です。古代からある池ですが、表の歴史では江戸時代に作られた溜め池ということになっております。



前回からの続き


 


531年継体(天皇)は筑紫への六万の兵による奇襲(磐井の乱)を行うが、倭国軍の反撃により敗れ、534年に死亡する。継体軍の奇襲により多くの人が殺され、追い詰められた宇佐では奈良帝と千人の修行僧が殺された。前者は装飾古墳に埋葬し、後者は追悼施設として小倉山を中心とする法域霊山を落成させた。そして連邦倭国の内戦の戦後処理として、扶桑国を大倭の監視下に置いたと思われるが、その実情を知るすべはない。(続く)




拝観料1000円は高い。しかしそれだけの価値はある。倭国時代の紫式部、清少納言の感動をあなたも!





前回からの続き



宗主国である倭国は509年神功帝が亡くなり、510年倭薈(後の奈良帝)が即位、514年から522年の間、都を奈良京(現吉野ヶ里辺)に移した。その間517年に初瀬に神功帝をモデルとした十一面観音像を造り、522年には長谷寺落成を迎える。長谷観音の霊験により観音信仰は爆発的に広まり、長谷寺と同じ寺を持ちたいという人々の願いから諸国長谷寺が一斉に作られる。そこには十一面観音像と奈良帝を讃えた大日如来像が一緒に祀られた。(続く)





現在制作中の『大倭歌聖 柿本人麿の真実』からの抜粋を9回にわたって連載します。学校では絶対習うことのない内容です。初めての人は理解不能と思います。受験参考書でも、いきなり「総まとめ」のページを読んでも理解しづらいのと同様です。長谷寺の本当の歴史を理解するためには、全体を俯瞰することが必要です。この連載中を利用して、一気に本作りを進行させます。(手抜きと思われても仕方ないですが・・・)





もう一度扶桑国の歴史を中心に振り返ってみよう。418年神武が狗奴国(熊野国?)を破って打立てた国が扶桑国であり、倭国の連邦国を構成していた。458年頃、天皇家は大陸から若狭辺に進出し、507年には扶桑国のトップとなった。(続く)





長谷寺駅に特急を停めてください。本当の最古の木造建築は長谷寺です。(法隆寺が古そうに見えるのは、太宰府から移築の際に運ばれた用材が約20年間、野ざらしになっていて風化が進んだためです。)現行のダイヤですと、最高の観光資源が全く生かされません。外国人観光客のためにも利便性にご配慮ください。その結果、きっと収益は大幅にアップすることと思います。


 


https://www.youtube.com/watch?v=6OBaqw9tuXY


 


https://www.youtube.com/watch?v=ro91gINW2DQ






本当の初瀬は佐賀県の三瀬村です。初瀬川も流れています。(建物は移築、地名は移動)


 



 


長谷寺の本当の歴史を知られたくない人にとっても、特急が停車することがマイナスに作用するとは思われません。


 


移築後のスポットがチヤホヤされるのは当然のことですが、長谷寺については、以前あった所が全く開発されていないので、感動すること間違いなしです。


 


http://abandjc-press.com/content20/index.shtml