宇佐小倉山の麓の小倉池です。古代からある池ですが、表の歴史では江戸時代に作られた溜め池ということになっております。
前回からの続き
531年継体(天皇)は筑紫への六万の兵による奇襲(磐井の乱)を行うが、倭国軍の反撃により敗れ、534年に死亡する。継体軍の奇襲により多くの人が殺され、追い詰められた宇佐では奈良帝と千人の修行僧が殺された。前者は装飾古墳に埋葬し、後者は追悼施設として小倉山を中心とする法域霊山を落成させた。そして連邦倭国の内戦の戦後処理として、扶桑国を大倭の監視下に置いたと思われるが、その実情を知るすべはない。(続く)