民営文化センター -102ページ目

民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever






平安時代に再構成された『枕草子』の国文的解釈ではでは全くイメージできませんが、


米田良三氏の説によると、清少納言が牛車ともども船に乗り、にえのの池を進んで長谷寺の本堂に上がるルートが解明できるのです。



三瀬の北山湖の最南端に関屋という地名が明治時代の地図にあり、鳥居のマークと人家と思しきドットの集合が見られます。



ここが倭国の時代の船着き場と思われます。



当時も現在の北山ダムあたりに堰があったため関屋あたりは水位が保たれ、


そこから北に位置する長谷寺に向けて3kmほどの水上ルートがあったのです。



しかし、白村江の敗戦後からは土砂で埋まった沼田が大半となったものの神社は存続し、


船着き場辺りには人が住み続けたのでしょう。(にえのの池=高瀬の淀≒北山湖)



さて現在の状況をネット画像で見てみますと、水位は上昇し、神社は消えていますし、


人家のあったところはも浸食されており、かろうじて以前の池のラインが読みとれるのみです。



倭国長谷寺界隈は鐘楼のあった善正寺①、経蔵のあった萬福寺②、雲井坂③、椿市(宿)④、三門⑤、本堂⑥など、


次から次へと辻褄の合うポイント が発見されています。








人気観光スポット室生寺は大和長谷寺の隣(2駅離れていますが)にあります。



長谷寺同様、室生寺も倭国の時代、九州に在ったのですが、その所在地を探る試みです。



まず倭国に在ったとする一番の根拠は、写真集にある弥勒堂平面図の間口の長さ(8.44m)が281mm(1倭尺)でキレイに割り切れる(=30倭尺)ことです。




次に所在地のヒントとして、倭国長谷寺の在った佐賀県三瀬村の西に「上無津呂」、「下無津呂」という地名があり、サウンドが「室生」と似ていますし「大野」と言う地名が佐賀、大和両方にあります。




移築は不自然で無いように両寺(の所在)はセットにして扱われています。(三瀬の長谷寺から遠くない位置)




さらに関連するヒントとして、移築に際し、倭国の民にもプライドがあり、嘗て在った立派な寺院を忘れられないように、例え小さくても跡地に寺院の痕跡を遺しているはずです。



例えば、倭国長谷寺における善正寺、萬福寺のように。




赤系の塗料が残存していると倭国時代の建物である確率が高いようです。



例えば、東大寺南大門、平等院鳳凰堂(最近の塗装以前)、三十三間堂(修理の際塗料が発見される)等。




その他、直感ですが由緒在る寺院には例外なく神社が隣接している。



由緒在る寺院は幹線道路から少し奥に入った所に在る。




以上の項目を満たすとすれば地図(明治時代)上の緑のラインで囲んだエリアの確率が高いと思います。




実は以前、米田氏と現地に赴いたのですが、時間に余裕がなく充分な調査は出来ませんでした。




佐賀県の山の中は本気で古代史を研究しようとする人にとって実に魅力的です。


 










飛んでいる飛行機内での話題を持ち出すと、映画「エマニエル夫人」を連想する人もいるかもしれませんが、




まあ落ち着いて!




昔のアルバムを見ていると必ず自分オンリーの連想ゲームに陥る写真があります。




ボーイング707の写真です。




学生時代、オーストラリアでホームステイする前にやっておくべきことは、“英会話が通じるかのチェック”と“洋式トイレを試してみる”の二つでした。




ぶっつけ本番のトイレのチャンスは羽田から香港の間を飛行中にやってきました。




今の人たちは初めから洋式トイレですから何とも思わないでしょうが、




我々の世代では、この初めての出来事を覚えている人は他にもいるのではないでしょうか?




「初めての western style unchiing が雲の上だった」などと蘊(うん)蓄 を傾けるなどいとおかし




羽田空港での出発前の集合写真を見るたびに思い出すのです。








2007年2月2日の「日経」のコラム記事です。




「和歌は倭歌である」との説があるようですが、これは文字通り九州王朝倭国の時代に和歌が始まったことを示しています。




米田良三氏は『大倭歌聖 柿本人麿の真実』 の中で何のためらいもなく通説(緑字の年号)をばっさり切り伏せ、




「万葉集 516(700)、「古今和歌集 617」(905)、「新古今和歌集 651」(1205)も大和朝廷以前(赤字の年号)に編纂されたとの説を理系(著者は東工大建築学科卒)の切り口で語っています。




百人一首の分析もexcitingです。




この新聞のコラムで語られている通り、年齢を取ると食の好みが和食に向くと同じように、芸術・文化の好みにも“ゆれ戻し”が来ます。




映画「ちはやふる」上の句 下の句 を観に行きたくなるのも、この延長上にあるのです。




10年以上前、百人一首の魅力にとりつかれたスェーデンの青年の新聞記事を読んだことがあります。





“ちはや現象” はここ数年でworld wideに拡がる予感がします。






30年以上前、医者向けの雑誌に載っていた記事です。




この「心得」を目標に診療所をスタートし、自分版(外傷の場合など)としては「早く、安く、美しく」をモットーにしていました。




振り返ってみると、既にあの時点で“時代遅れの考え”だったのかもしれません。




返済までに随分時間を要しました。




そして今、さらに世の中が変わってしまったのですから、医療に対する考え方が昔のままで無いのは当然ですね。




項目ごとに考察すると・・・・


 


 

① 西洋医学による劇的な治療法に目が眩んでしまい、原因不明、治らない病気に真剣に対応しなくなっていないだろうか? 



疾患によっては民間療法のほうが満足度が大きいのではなかろうか?




② 地域にもよるが、激戦区の中でパイの奪い合いをやっていると、こんなスローガンは(医者にとって)致命的ではなかろうか。




③ どうしても面食いになってしまう部分は反省しなければならないが、相性が悪いのに長く付き合うのは、お互いの為にならないし、体に良くないと思う瞬間も・・・・





受験生の医学部ラッシュがまだ進行中のようですが、今後どのような展開になるのでしょうか? 



世の中の動きとか,医療を受ける側のメンタリティー次第と思うのですが・・・・・



医療業界だけが肥大化するのは、他の産業がパッとしないせいもありますが、それ以前に世の中自体が病気じゃないかと思うのです。





紅葉のスポットとして超有名な京都・東福寺の三門 は倭国時代の建物で、元は佐賀県武雄市にありました(米田良三氏の説)。




移築の証明のひとつとして2枚重なっている礎石があるのですが、ホットケーキみたいで見苦しい限りです。




軒が垂れ下がり、支え棒が四隅に立っていますが、あのセリ出したデザインは倭国時代の建築の特徴です。




何本もある柱の下端に方形の穴が開いており、質問するとガイドは「材木を運ぶための穴である」といい加減なことを言います。




柱間を巻尺で計れば倭国時代の1尺(281mm)の整数倍であると思います。




“穴”の意味については「週刊新潮」の5月11日号の記事で閃きました。




東北・喜多方にある新宮熊野神社の“長床”と言われる壁のない建物の写真が載っており、柱の下端で角材が建物の周囲を取り巻いているのです。









この角材がズレない様に固定されるには丁度東福寺三門の柱の穴のような構造が必要となります。




東福寺の三門は九州に在った時は1階が床張りの珍しい門であったのではないかと考えます。


 



 



 



 



 







子育ても終盤になった頃、大昔の雑誌の記事です。




我が家ではこの方法を用いるには至りませんでしたが、時代の激変ぶり等、色々考えさせられる内容です。






○ テレビは勉強の邪魔という概念がハッキリしていた。



○ 親には服従という風潮がまだ残っていた。



○ 子供が電卓を使うことは禁止されていた。



○ 今では子供部屋にテレビを置いても何とも思わないことが普通に    なった。



○ ファミコンの時代が懐かしいが、現在のように子供がゲームで暇をつぶしているようでは、国の将来は文字通りヤバイ。



○ 子供の頃からゲーム漬けが続いている大人自身も当然ヤバイ。



○ 何よりもテレビ番組の崩壊が著しく、テレビ自体が見向きもされない時代が到来した。


 

○ わずか一世代でこんなにも状況が激変してしまう恐ろしさを大人は認識すべきである。





昔の状況を知っているお爺さん、お婆さんたちはもっと孫の教育に口を出し、国の将来を良い方向に導く努力を惜しんではなりません。



教育レベルが20%低下する状態が2世代続くと、0.8×0.80.64と、あっという間にレベル低下をきたし、元に戻すのが困難です。



「ゆとり教育」を推進した者たち の正体を炙り出す必要があります。






我が家では毎朝、時計代わりにNHKラジオが流れているのですが、ラジオ体操の前後の短いニュースの繋ぎ目に「チャララーン!と電子音が入ります。




音色的にはあの緊急地震警報(「チャラン!チャラン!」 )とそっくりで、一瞬ドキリとしますし、実際心臓はチクリと反応します。




これは意図的にやっているとしか思えません。




この様な音を入れなくても、今まで何も不便はありませんでした。




当然、抗議の電話 があったのでしょう。




一旦、休止していた時期があったようですが、微妙にメロディーを変え再び始めたようです。




本当に反吐が出るくらいタチが悪いですね。




Net住民の間では当たり前の「ダメリカの犬はあっち行けー」ですね。




既にNHKのダメぶり については当ブログで書いております。




緊急地震速報の音
  ≪引用≫


「チャラン!チャラン!緊急地震速報です。強い揺れに警戒して下さい。」このチャイム音を制作するにあたりHNKが求めた条件とは、、

(1)注意を喚起させる音であること

(2)すぐに行動したくなるような音であること

(3)既存のいかなる警報音やチャイム音とも異なること

(4)極度に不快でも快適でもなく、あまり明るくも暗くもないこと

(5)できるだけ多くの聴覚障害者に聴こえること


(4)は明らかに大嘘でしょう。









ある物を見て、いかなる印象を持つかによって、その人の所属年代を判定しようという試みです。




写真はある高級時計のCMで、モデルは見ての通りの白人親子です。




○ 机に座っているガキに注意もしない親父はいかがなものか?


○ 父から子へ受け継がれるのは時計じゃなくてマナーだろ!


○ 所詮、白人なんてこんなもの じゃなかろうか。


○ やはりモデルは白人でないと、売れ行きが違うよ。


○ 日本人の潔癖さは世界の標準からハズレ過ぎなんだ。


その他、色々ご意見はあるでしょう。




ちなみに、私の時計は昭和40年代風のデザインの8500円くらいの代物で、いまだに学生時代のイメージを引きずっています。




昔、お金持ちの白人宅にホームステイした際、高校生の息子がLPレコードを袋に入れないでダイレクトに絨毯の上に置いたので驚いたことがあります。


 







三瀬村にある石垣のお話の続きです。




ネット映像を漁っていると興味ある景色に出会うことがあります。




国道263号線を北上 し、三瀬中学校を過ぎて間もなく右折し、そのまま進むと米田氏が雲居坂と推定した坂を越え、再び国道263号線に合流します。




そこはもう倭国長谷寺の敷地です。




この坂は倭京(大宰府)を出発した元祖・清少納言らが通過した緩やかな坂で、写真には低くなだらかな左側の崖に小さめの石を用い階段状に積み上げた石垣が認められます。




この印象的な石垣は500年代に積まれたものかもしれません。




しっかりした造りに見えるのは名だたる倭国長谷寺の玄関口のせいでしょうか。




この坂の両側に住宅が建ち始めているのですが、住人は自分の家の前の道を、かつて紫式部ら九州王朝の貴族たちが牛車で通過したというイメージを描くことができるのでしょうか?




地元の人々に『現代を解く・長谷寺考』を差し上げたい心境です。






大和朝廷になってからの雲居坂について