
平安時代に再構成された『枕草子』の国文的解釈ではでは全くイメージできませんが、
米田良三氏の説によると、清少納言が牛車ともども船に乗り、にえのの池を進んで長谷寺の本堂に上がるルートが解明できるのです。
三瀬の北山湖の最南端に関屋という地名が明治時代の地図にあり、鳥居のマークと人家と思しきドットの集合が見られます。
ここが倭国の時代の船着き場と思われます。
当時も現在の北山ダムあたりに堰があったため関屋あたりは水位が保たれ、
そこから北に位置する長谷寺に向けて3kmほどの水上ルートがあったのです。
しかし、白村江の敗戦後からは土砂で埋まった沼田が大半となったものの神社は存続し、
船着き場辺りには人が住み続けたのでしょう。(にえのの池=高瀬の淀≒北山湖)
さて現在の状況をネット画像で見てみますと、水位は上昇し、神社は消えていますし、
人家のあったところはも浸食されており、かろうじて以前の池のラインが読みとれるのみです。
倭国長谷寺界隈は鐘楼のあった善正寺①、経蔵のあった萬福寺②、雲井坂③、椿市(宿)④、三門⑤、本堂⑥など、
次から次へと辻褄の合うポイント
が発見されています。