しばらく前に桃三昧の日々が終わり、ちょっと悲しいうにょきちです。

でも、昨年に引き続き、ひとつも腐らせることなく食べ終えたので、とても満足しています。


で、あいた桃の箱をつぶして、古紙回収に出そうとしたのですが、これがまた頑丈な箱で、なかなかつぶれてくれません。力いっぱい引っ張っても、はがれてくれないのです。暑い中、必死で作業するのが嫌になった私は、こんなに丈夫なら何かに使えないかとない知恵をしぼりました。


そして、じゃじゃ~ん!!


まんががいっぱい


漫画を入れたら、結構うまいこと入ったんですよ~♪

のんすけに手伝わせて、家にある漫画を全部入れたら、なんと4箱がいっぱいになりました。わが家にそんなにたくさん漫画があったとは…。

ちなみに、手前の青い背表紙の漫画は、『地獄先生ぬ~べ~』 です。

こうなっては、ふたをつぶしてしまったことが悔やまれますが(ふたは、桃が届いた日につぶしてしまいました。簡単につぶれたんです)、プラスチックのコミックケースを買おうかと思っていたので、得した気分ですo(^-^)o

★復学:ゆかっちの場合③★


復学の時には、学校と面談 を行ったほか、、担任と養護の先生に病院へ主治医の話を聞きに行ってもらったことは、以前書いたとおりです。


1度目の退院の時に、主治医から「よくなれば通院回数も減っていきますからね。」と言われたのですが、症状が改善されることはなく、毎週1回は通院していました。翌年、骨髄移植のために入院するまでは、通院、輸血、発熱のくり返しでした。

1度目の退院から次の入院までの297日間の通院回数は60回、調子が悪くなっての短期入院は5回、13泊でした。4.9日に1回通院していたことになり、この数字が病気がよくなっていないことを物語っています。


そういう状態なので、学校は欠席することが多く、半分位しか出席しできていないのではないかと思います。

通院のときは、行ける状態なら院内学級で勉強していました。


4月になって2年生になり、最初のうちは緊張もあったのかきちんと始業時間(午前8時40分)に間に合う様に起きられていたのですが、だんだんと起きられなくなり、4月下旬には1時間目に間に合わなくなりました。貧血のため、やはり起きづらかったのでしょう。

朝起こして、おんぶしてリビングに連れて行ってからも、またうとうとして、学校に行けるのは9時30分位。年末には10時頃になっていました。

のんすけはゆかっちが起きるよりも早く学校に行ってしまうので、ずいぶん長い間ゆかっちが遅刻して行っていることを知りませんでした。そのことを知ったときは、かなり怒っていましたね。


朝は私が車で送っていきます。登校しても午前中は調子が上がらず、まず保健室へ、2時間目が終わるとお友達が迎えに来てくれるので、そこから教室へ向かい、最後まで授業を受けるという毎日でした。授業が終わる頃には迎えに行っていました。


担任も養護の先生も、ゆかっちの状態をよく理解して下さっていたので、遅刻をとがめられることはなく、保健室で過ごす時間が多くても、体と相談しながらの登校を認めて下さっていました。

この担任の先生は、以前にも病弱児の子を受け持ったことがあるそうです。


体育は保健室で見学、掃除の時間はほこりがたって感染が気になるので、これまた保健室で待機していました。運動会も学習発表会も遠足(秋の遠足は行けたけど)も、しんどかったので欠席しました。


休みがちで、けっしてみんなと同じように学校生活を送れたわけではないのですが、ゆかっちはそのことで何か言われたことはないそうです。「みんな優しくしてくれた」とも言っていました。

先生がきちんと説明して下さっていたからか、優しい子が多かったからなのかはわかりませんが、迎えに行ったときに、私にも、「あ、ゆかっちちゃんのおかあさんや。こんにちわ。」と言ってくれる子が多く、この子達となら大丈夫と思いました。また、「バイバ~イ」とたくさんの友達と挨拶するので、友達との関係は、ゆかっちの言う通りうまくいっていたのだと思っています。


この間のゆかっちのことで、もう一つ言っておかなければならないことがあります。

朝は、貧血のために起きづらく、しんどそうなのですが、午後からは人が変わった様に元気になるのです。午後になったからと言って貧血が改善されるわけではないので、動き回るとやはりしんどいのですが、朝とは別人です。

もし、夜間の小学校があるのなら、通わせたいと真剣に思ったトムさんと私でした。

16日は大文字五山の送り火の日でした。毎年見に行って、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃん、叔父、叔母のことを思い出し、手を合わせています。

「地獄の釜の蓋が開いて、大文字の煙に乗って、お盆の間に来ていた人達があの世に帰っていかはるんやで。」と、子どもの頃から梅ママに言われていました。


学生時代、「大文字は、既に宗教行事ではなく、観光行事になった。」と言った同じ学部の学生がいましたが、私にとっては、大文字はちゃんとした宗教行事としての位置づけです。


さて、その1週間前、六道珍皇寺に六道参りに行ってきました。

8月7~10日に、冥土にも届くと言われている迎え鐘をついて、先祖の霊を迎えるのが六道参りです。

このお寺のあたりは、平安朝の時代には野辺送りをしたところで、六道の辻と呼ばれるあの世への入口があります。

また、このお寺にある六道の辻の井戸から小野篁が冥界に通い、閻魔大王の片腕となって働いていたという伝説もあります。

う~ん、ミステリアス。


小野篁  (小野篁の像)


閻魔大王  (閻魔大王の像)


迎え鐘は、あまりにもたくさんの人が並んでいたのでつくのはやめて(ごめんなさい)、お参りだけしました。


六道参りは毎年行くわけではないのですが、今回どうしても行きたかった理由は、幽霊飴を買いたかったから。

ちょっと不信心ものでしょうか。


赤ちゃんのために、毎夜飴を買いに来たおかあさん幽霊のお話しは有名ですね。その飴が売っているのです!

琥珀色で、形は不揃いですが、宝石の原石の様にきれいで、とっても美味しいのです。

もう何年も前に子どもの時に食べた幽霊飴を思い出し、食べたいとずっと思っていたのです。しかも、思い出すのはいつも季節はずれ。幽霊飴は、六道参りの時期にしか売られていないのですよ!!もう何回チャンスを逃し、秋に思い出しては悔しい思いをしたことでしょう。


今年はちゃんとゲットできました。

お店の人と話したら、「昔は六道参りの時だけだったけれど、問い合わせが多いので、年中売ってます。(月曜定休日)」とおっしゃってました。何年前から年中売られてたんやろう。悔しいよ…。まあ、ええわ。

帰ってから食べましたが、幽霊飴の形と味は、私の記憶の中にあるものと同じで、嬉しかったです。


幽霊飴


そして、大文字が終わると、一気に夏が終わる感じがします。

のんすけとゆかっちは、これから夏休みの宿題の追い込みをすることになるのです。

最近は、夏休みが短いので、ちょっとかわいそうです。

★復学:ゆかっちの場合②★


1度目の入院は1年生の11月から3月まで、2度目は2年生の1月から3月まででしたが、その間担任は同じだったので、最初からの経過をわかってもらっていたのでよかったです。


1度目の退院は、3月13日(土)でした。

主治医から、「そろそろ退院を」と言われたのが3月の初めで、最初は1年生の終業式を院内学級で終えて退院しようと思っていました。


ここで、最近の学校事情を話さなければなりません。

私の子どもの頃は、小学校では、1~2年、3~4年、5~6年と2年ごとに同じクラスで、担任の先生も持ち上がりでした。しかし、ここ最近は、クラスは2年間変わらないのですが、担任が持ち上がらず1年ごとに変更になっているのです。実際、のんすけは、3年生からは毎年違う担任でした。

ゆかっちが退院して学校に行けるのはおそらく2年生になってから、と言うことは、担任の先生が変わっている可能性が限りなく大きいのです。

担任が変わると、また一から説明しなければならないし、病気の子どもに理解のない先生だととんでもないことになります。クラスが変わる可能性も捨てきれません。

また、この退院は、一通り入院での治療が終わり、症状が落ち着いたので退院するのであって、病気が治って退院するわけではないので、しんどい状態できちんと学校生活が送れるかどうか、とても不安でした。


そういうことを院内学級の先生に相談したら、次の様なアドバイスがありました。


2年生になってクラス変えや担任の変更がある可能性があるのなら、入院したときのクラスに戻るのが一番よい。その方が、ゆかっちも学校に戻りやすい。そして、1週間でも、たとえ1日2時間だけであっても、一緒に学校生活を送ることで、ゆかっちのしんどさやゆかっちなりの学校生活の送り方を担任や友達にわかってもらえる。担任が変わったときになにかあっても、友達が「前もそうしたはったから。」と助け船を出してくれるし、クラス変えがあってもその友達が助けてくれる。なにより、ゆかっち自身が心強いはず。また、引き継ぎもしてもらいやすい。


ということで、早めに退院することにしたのでした。

しかし、7日間登校できるはずだったのですが、2日(2時間目まで)登校したあと、体調を崩し(発熱と嘔吐)たので、その後は、終業式の日に出席しただけでした。それも遅刻して行ったので、クラスにいたのは30分位でしょうか。

それでも、もといたクラスに戻れたということと、戻ったことをクラスメートがものすごく歓迎してくれたことは、ゆかっちにとって嬉しいことでした。


2年生になって、結果的にクラス変えも担任の変更もなかったので、もっとゆっくり退院してもよかったかなとも思ったのですが、それは結果論ですから、これでよかったと思います。


また、クラス変えと担任の変更はしないでほしいと申し入れしていました。クラス変えについては、申し入れたときに、「今年度は、奇数学年から偶数学年に上がるときのクラス変えはしない方針」であると説明を受けました。担任のことについては、私の申し入れをきいてもらえたのかどうかは不明です。

8月10日の朝日新聞に、


”特定疾患として補助対象となっている「パーキンソン病」と「潰瘍性大腸炎」について、患者数の増加等の理由で、軽症者をはずすなど対象枠を見直す方針を固めた。”


という記事が載っていました。


患者数が増えたからと言って、補助をはずされたらたまりませんね。補助をはずされても難病には変わりないのだし、軽症と言っても難病だけにそれなりに治療費はかかるでしょう。


特定疾患 と一緒に小児慢性特定疾患についても書きましたが、小児慢性の方の医療費は、これまでは全額公費負担だったのですが、今年の4月から特定疾患と同じように、課税所得によって決められた一部負担額を支払わなければならなくなりました。それでも、他の方と同じように保険で3割を負担するよりは費用はかからないのですが、今まで無料だったのになんだか釈然としません。(対象疾病が10疾病群から11疾病群に、通院は全ての疾病を対象とするなど、拡充された部分もあるのですが。)

特定疾患も、昔は全額公費負担だったそうです。


国の財源が不足しているのでこういうことになるのでしょうが、医療や福祉を削減する前に、もっと削減するべき所があると思います。行政の無駄遣いや裏金作りと言ったわけのわからない無駄が連日報道されているので、怒りを覚えます。もっと、使うべき所にお金を使ってほしいと思います。


また、その記事の中で、


”特定疾患の補助制度は、1972年から始まり、患者数が5万人未満で、高額がな医療費がかかるなど一定の要件を満たした病気について医療費を補助すると同時に、症例を集めて研究に生かしている。”


とありました。


症例を集めて研究に生かしているというのは、申請の時に「診断書の研究利用についての同意書」を提出するので知っていましたが、「患者数が5万人未満」というのは知りませんでした。


でも、本当に5万人いないのかなと不思議に思って調べてみました。

難病情報センターのHPを見てみると、平成16年度の受給者証交付件数は、パーキンソン病関連疾患は75,026件、潰瘍性大腸炎は80,311件と、群を抜いてやはり多いですね。その次は、全身性エリテマトーデスの52,195件です。あとの疾病はどれも5万件以下でした。


再生不良性貧血は、9,245件、全国の患者数は約5,000人となっていました。これはおとなも数に入っているので、子どもだけだとその半分以下になるでしょうか。う~ん、少ない。(もっと患者数の少ない病気もありますが)


全国骨髄バンク推進連絡協議会発行の『白血病と言われたら』という冊子に、

「再生不良性貧血は、白血病の患者の1/5と入院患者が少なく、時に不安になるでしょうが前向きにがんばって下さい。」

とありました。実際、同じ病気で一緒に入院していた子どもはいませんでした。

やっぱり、この数字ではなかなか会えませんね。本当にちょっとさみしかったです。

★復学:ゆかっちの場合①★


ゆかっちは、長期の入院を2回しているので復学経験は2回ということになります。


復学のことを書く前に、まず、入院中の本来校(入院前に通っていた学校)との関わりについて書かなければなりません。このことは、とても大切なことです。


ゆかっちは、入院中は病院の中にある院内学級に通っていました。院内学級は強制ではないのですが、通うとなると転校しなければなりません。今の学校制度では、1人の子どもが複数の学校に籍を置くことはできないんだそうです。

転校するということは、本来校に籍がなくなるということですが、引っ越しして転校するのとは違い、退院するとまた本来校に戻るので、本来校と疎遠にせず連絡を取り合った方がよいとの院内学級の先生のアドバイスがありました。籍がないので、担任が自分の生徒ではないと思い、連絡が途絶えて、退院したときに子どもが戻りにくい雰囲気になることがあると言うことも聞きました。


入院してしばらくしてから、外泊の時に担任と養護の先生に家に来てもらって、面談をしました。

この面談は、学校側か私の方からかどちらが言い出して実現したのかは忘れましたが、このときに、これからのことについての意思確認ができたので、よかったと思います。


院内学級の先生のアドバイス通り、今後も本来校とは連絡を取り合うこと、配布される連絡事項や宿題のプリントなどは全て渡して下さることをお願いし、毎週金曜日にのんすけが職員室に取りに行くことになりました。(のんすけ、ありがとうね。)


その後、毎週プリントと一緒に、

「ゆかっちちゃん、げんきにしていますか。きょうは、○○をやりました。」

というお友達からのお手紙が何通か届けられました。短いけれど、自分は忘れられていない、クラスの一員だと感じられる手紙でした。


担任の先生は、クラスメートには転校したとは言わず、入院中は病院の中にある学校で勉強していると言って下さっていました。転校は事務的なことで、退院したらまた同じクラスに帰ってくるので、子ども達に言う必要はないという考えでいて下さっていたようです。


友達が励ましてくれる、退院すればまた同じクラスの友達が待っていてくれる、学校に帰る場所があると子どもが知っていることは、とても大切なことなのだと思います。


また、情報をもらうばかりではなく、こちらからも治療の進み具合や入院生活の様子など、時々連絡帳に書いて先生に見てもらっていました。


こんな感じで本来校とやり取りをしていましたが、わりとうまくいっていたと思います。

桃

ゆかっちの復学について書く前に、桃が届きましたので、桃について一言。


実は、わが家は桃の木のオーナーになっているのです。

オーナーといっても、1本だけ(お金のある人は、何本分でもいいですが、わが家は1本だけです)。

木のお世話は農家の方がやって下さいます。オーナーは、何もしなくていいのです。お金を先に払うだけ。


4月の初め頃に、桃のお花見のお知らせが来ます。

1度行きましたが、桜よりも色が濃くて、とてもきれいでした。

桃の花ってまとまって見る機会がないので、桜とはまた違ったきれいさがありましたね。


そして、7月の始め頃に、あなたの桃の収穫はいつ頃ですよ、収穫に来ますか?、それともこっちで収穫して送りましょうか?とお知らせが来ます。

オーナーに登録してから2年めまでは収穫に行ったのですが、これがとてつもなく暑い晴れ

収穫時期は、桃の種類によっても違うのですが、大体7月終わり~8月の始め。

りんご狩りは何度か行っているので、それと同じ感覚で行ったら、とんでもない。もう大変でしたあせる

炎天下の中、ひたすら桃を取る。取っても取っても減らない感じがします。

全部取り終わった頃には、もうへとへとでした。


ということで、ゆかっちが病気になったこともあって、最近は収穫には行かず、農家の人に収穫してもらって送ってもらっています。なんとずぼらなオーナーよ。お金出すだけやん。農家の方、申し訳ありません。いつもおいしくいただいています。


送ってもらうと、写真の様に4箱来ます。今年は69個でした。

自分で収穫すると大小100個位は取れますね。


大きくてきれいなのはお世話になっている方にお裾分けします。

そして、それからは桃三昧の日々が続くのです。

朝食べて、昼食べて、夜も食べて、文字通り桃三昧です。

ものすごいぜいたくですが、その勢いで食べないと悪くなってしまうのです。

桃との戦いですね。


桃さん、りんごの様に日持ちする果物になってほしい。

そしたらもっと長く楽しめるのになあ…。

先日久しぶりに外来で会ったAちゃんのおかあさんは、「復学は、大変。」ともおっしゃっていました。

同感です。ゆかっちの場合も、思っていたよりもすんなりいかなったです。


退院したらすぐに元の生活に戻れるかというと、そういうわけではありません。

病気はよくなっていても、長い闘病のために体力は落ちています。

入院生活やつらい治療がストレスになっているので、精神的に不安定になっていることもあります。退院してすぐそのストレスが解消できるわけでもありません。

退院しても学校に通うのがまだちょっとしんどい場合は、自宅療養という事になります。


学校に通い出しても、他の子と同じ学校生活が送れるわけではなく、体力と相談しながらになります。免疫力も低い場合が多いので、生活上の制限があることも多いのです。体と相談しながらぼちぼちと、ということです。

また、病気によっては、退院後もしばらくは通院での治療がある場合があるので、そうなると学校を欠席する日数も増えます。


自分のペースで生活していた入院中や自宅療養中と違い、学校では集団での生活になるので、体力不足も手伝って、みんなとペースをあわせるのが大変なようです。

友達との関係も、再び作っていかなればなりません。お友達とトラブルが起きる場合もあります。


院内学級や訪問教育で勉強はしていても、治療がつらくて勉強できなかったときもあり、全ての勉強ができているわけではなく、授業について行けない場合もあります。


そして、復学には学校側の協力が不可欠ですが、学校側の理解が得られない場合もよくあるようです。

ゆかっちの場合に限らず、復学するときは学校と面談 をして理解を求めるのですが、それでもわかってもらえない場合が多いと聞きます。


一度、入院中に仲よくなったおかあさんに、骨髄移植後に復学するときは年度が変わっているから、担任も変わってるだろうし、「新しい担任は、病弱児に理解のある人がいいな。」と言うと、「そんな先生、いないよ!」と言われて、びっくりしたことがあります。

その方の場合、よほど学校の対応が悪かったのでしょう。

ゆかっちの学校の先生はよくして下さっていたので、私としては不満はないのですが、しんどい思いをしている子どもと親がおられるのだと改めて思いました。


エスビューロー という特定非営利活動法人が復学について行ったアンケートの総括がHPに載っているので、合わせて読んでいただいたら、よくわかっていただけるかと思います。(このアンケートは、私も回答しました)


明日は、ゆかっちの復学について書こうと思います。

先日の通院のとき、久しぶりに懐かしい顔に出会いました。

Aちゃんとそのおかあさんです。


ゆかっちは1回目の入院のあと骨髄移植までの間は、週に1回は通院していて、Aちゃんとは外来でたまに会っていました。

それまでは、挨拶をする程度だったのですが、この日は「順調そうですね。」という会話から、おかあさんと少し話ができたのはよかったと思います。

最近は、知った人にあまり会わなくなって、ちょっとさみしかったのです。

それだけみんな元気になったということで、いいことなんですけどね。


入院中は、他の入院中のおかあさん達といろいろと話が出来ますし、退院後しばらくは通院も頻繁で、外来で知った顔に会うことも多く、その後どうしているのか情報交換ができ、不安なことを相談できたりもするのですが、ある程度経過が落ち着いてきて通院間隔があいてくると、だんだんと知っている人に会うことが少なくなって、他の人はどうなのかちょっと話を聞きたいなと思っても、それができなくなるのです。

病気がよくなってからも、情報交換ができる場がほしいと、私も思っていましたが、Aちゃんのおかあさんもそう言っておられました。やっぱりみんなそうなんやなぁって、2人だけやけど。


よく考えると、患者会がその場になるのでしょうね。

K大病院小児科には患者会がありますが、私は入っていません。

入院中に世話役の方と知り合えたので、声をかけていただいたときは会合に出席させてもらうこともあります。

入会、考えてみようかな。

2003年11月9日(日)②


病院の消灯時間は、午後9時。

入院したときに、消灯前にナースステーションに子ども達が集まって何かやりますって看護師さんが言っておられたので、行ってみようということになりました。

ルートは明日入れることになっているので、身軽なのです。


午後9時少し前になると、ナースステーション前に子ども達とその付き添いのおかあさん達が集まってきました。

夕食後ロビーで話をしていて、そのまま消灯当番へという子どももいます。

午後9時になると、看護師さんの「じゃあ、始めようか。」という呼びかけで、子ども達はナースステーションに入って、マイクの前に並びました。

そして、みんなで声を合わせて言うのです。


「9時消灯の時間です。

ベッドの回りをかたづけて、歯をみがいてやすみましょう。

それでは、みなさんおやすみなさい、また明日。

今日の消灯当番は、○○でした。(1人1人にマイクを回して、自分で名前を言います)

それでは、みなさんおやすみなさい、また明日。」


そして、みんなそれぞれの病室に帰っていきます。

そう言えば午後9時頃に子どもの声で何か放送があったなあと気がつきました。

土曜日は外泊したので、入院した木曜日とその翌日の金曜日は病院で寝ているのですが、余裕がなかったのと、主治医のヒアリングやら何やらでバタバタしていたので、よくわからなかったのです。

(これは、病院全体に流れているのではなく、小児科病棟だけです。)


ゆかっちは、「はずかしかったし、もう行かへん。」と言っていました。

それでもその後、行けるときは行く様になり、消灯当番に行くことが楽しみにもなりました。


あとで気づきましたが、この消灯当番は、入院中に元気かどうかの目安の1つにもなりました。

消灯当番に行ってマイクの前で声を出せるというのは、入院中とはいえ、調子がいいということです。

調子が悪くてしんどいときは、消灯当番には行けませんし行く気もしない、体調はまあまあだけれどなんとなく行く気がしない時は、心が疲れているときなのかなと思います。

また、行きたいと思っていても、ガウン の時は病室から出られないので、消灯当番には行けません。そんなときは、お友達が代わりに名前を言ってくれるのです。

スピーカーから聞こえる自分の名前を聞いて、そのお友達への感謝とともに「早く元気になって、お当番に行かなくちゃ。」という気になるのです。


どういう理由でこの消灯当番が始まったのかは知りませんが、とてもよい行事だなと思います。

親にとっては、調子が悪いときが続いたり、ガウンだったりしたあとの消灯当番で話すわが子を見るときは、「ああ、元気になったな。よかったな。」とほっとする瞬間でもあるのです。