北インド☆ゆるヨガライフ -5ページ目

北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

夜10時半にチャンディガールを出たバスは、早朝4時にハリドワールに到着。ホーリーの祝日は家で過ごす人が多いためか、どこのバスターミナルもいつもよりは空いていた。

 

 

車窓から見るハリドワールは、高速道路沿いやガンジス川沿いの広大な土地にクンバメラ用と見られるテントが無数に立ち並んでいた。一体どれだけの人が押し寄せるのか??ハイライトは来月(4月)だけど、既に準備万端の様子。

 

 

ハリドワールのバスターミナル前。

 

 

バスターミナルと鉄道駅が向かい合う市内で降り、乗り合いオートリキシャーでガンジス川のメイン会場へ。最初150ルピーと言われ、適正価格ポリスな夫が各20ルピー(2人で40ルピー)に値切った。それが相場らしい。

 

 

メイン会場の河川敷、ハリキパウリー(Har ki Pauri)に着くと、早朝にも関わらず橋や河川敷が明るくカラフルにライトアップ。聖地と言うよりテーマパークのよう。

 

蛍光色にライトアップ✨朝5時前でも既に沐浴する参拝者たち。

 

 

トイレとシャワーが無料で使える建物が川沿いに建てられており、参拝者の身支度に不便のないようになっていた。早起きの皆さんが会場へ向かい始めていた。

 

ゲート手前にてロッカーのオジさんに靴を預け(各10ルピー)、裸足で大理石貼りのガートへ。ゲートの下は水が張ってあり、通りながら足を清めるのが礼儀。

 

 

ここをザブザブと裸足で歩いて会場へ。滑るよ。。
 

 

ガートの手前の階段にはパンディットたちがブースを構えて座っているので、各種プージャをお願いすることが出来る。

 

 

私たちは厄払いと健康祈願(多分)の2つをお願いし、10分ほど座ってパンディットの唱えるマントラを復唱しながら儀式を行う。このパンディット相当早口で、着いて行くのがやっとだった。笑

 

 

早口王なパンディットジ。若いけど落ち着いた雰囲気。

 

 

終わってからお供物をガンガへ流しにガートを降りる。夫は一番人気の場所に突進するので、必死に後を追う私は人にぶつかりそうになって滑りそうになり、掃除の人にバケツの水で足元をバシャーと流されて、スプラッシュマウンテン状態。広いんだから安全な場所を選ぼうよー。

 

 

終わると夫は早速ガンガで沐浴をすると言う。夜明け前だよ。水、冷たいよ?色んなお供物が水に混ざってるし?とボヤいてみても夫は既に聞いておらず、パンディットのブースに服を脱ぎ捨て再び歩いて行ってしまう。

 

慌てて着いて行く私。夫はまた一番混んでいるガートからガンガに飛び込み、ザブンザブンと3回もぐって終了。濡れた子猫のようにブルブル震えながら戻って来た。

 

「冷たい!!。。僕のタオルは?」

 

自分で持って来ましょうよ!子供じゃないんだから。

 

寒そ〜!💦

 

 

夫は(どうして持ってこないの)という顔をして、ズブ濡れつま先立ちでパンディットのブースに走り去る。いや、マジでそういうのやめてくれ。持って来ようにも既に話も通じなかったじゃん。

 

ブルブル震えながら着替える夫をかわいそうに思うけど、良い薬だとも思う。誰に見てもらわなくても念願を叶えて沐浴をして、誰に手伝ってもらわなくても身支度くらい出来ないと、誰のための人生よ?(ってその時は思ったけど、相当寒かったので無理もない)

 

 

結局私は、お供物を流す時にガンガを手ですくって額に付けるだけで沐浴はナシ。次はリシケシ。オジさまオバさまで激混みしていないガート、何も混ざっていない水と自然のビーチが待っている。

 

 

お世話になったパンディットにご祈祷代を渡そうとすると、まだちょっとプリプリしている夫が代金を値切ろうとしている。たった150ルピーだよ?不機嫌を他人に八つ当たってない?祈祷もお供物もフルセットで2種類だよ?服も脱ぎ散らかして迷惑かけたのに。

 

 

色んな物に行ってらっしゃーいと流すところ。

 

 

夫は表面的な値段で物事の価値を判断してしまう。逆だよって私は思うけど。相手から十分に受け取って満足した分の対価を、感謝の気持ちで手渡すことを知らない。What goes around comes around って諺の通り。

 

 

聖職者とお代のことで言い合っているのが見ていられず、夫を無理に止めることも出来ないので、私はカバンからおやつに買ってあったムングダルとスプライトをパンディットに渡した。その後は100ルピーを手渡した夫と雑談しながら笑い合っていたので、まぁ丸く収まったのだろう。一大聖地で、たったの150ルピーよ?大丈夫か、夫?笑

 

 

このところ月末になると仕事のプレッシャーに追い詰められがちな夫。売上げノルマを達成しないとインセンティブが付かないパソコン店なので、(あと4台売らなきゃ。。!)というストレスに見舞われるらしい。正直月給だけではやれないからね。本当、頑張ってくれてる。

 

 

私が仕事をするから大丈夫と言っても、ここでは女性が家計を支えるという概念がないのだ。早く安心させてあげたいところ。

 

ガート沿いのお店では、ガンガの水を入れるための大小ボトルも売られている。10ルピー〜。

 

 

さて少し機嫌が直ったところで、ガートを後にする。預けた靴を取りに戻ると、夫から預かってポケットに入れていたはずの番号トークンがない!プージャと沐浴のワチャワチャで落としたらしい。。夫が(ほら見たことか)って顔で見てる。トークン代20ルピーと共にオジさんに謝って靴を受け取る。難易度高めのハリドワール。これは絶対一人じゃ来れない。機嫌の悪い夫でもいないよりマシ。。?

 

 

帰りはガートから一本入ったマーケットの通りを少し歩いてみる。相当古くて豪華な作りのホテルが立ち並び、歴史的に賑わって来た街の背景が伺える。今はちょっと廃墟チックだった。

 

 

歩きながら話してみると、あの激混みのハリキパウリー・ガートは、夫の亡くなったお父さんの遺骨を散骨したまさにその場所なのだと言う。だからもの凄い勢いで私を置いて突進して行ったの?笑。

 

 

どんなに普段お気楽を装っていても、夫はどこまでも長男の仕事を背負っているんだなぁと、突き動かされるような様子と見ると感じるところ。インド占星図で見ても、亡きお父さんから役割を引き継ぐ相なのだ。6人姉弟なのにねー。

 

 

古い造りの建物が軒を連ねるガンガ沿いのマーケット。
 

 

それにしても、普段は不要に言い返したり私を見下すことなど一切しない夫が、プリプリ怒ったりイライラしたり。私も負けるタイプではないので倍返しで忙しい。面倒くさい。でも沐浴の後だし、感情が乱されるような、抑えて来たものが浮上して浄化されるような感覚があるのかもしれない。

 

 

私は人工的にライトアップされたガンジス川には感動しなかったけど、夫にとっては色々な思い入れがあるのだろう。夫の唯一の味方だった大好きな伯母さんも、夫が村からここに運んで散骨したんだもんね。

 

 

バスターミナル前に戻って路上のパランタ屋さんで朝食。最初ダバ(食堂)に入ったけど、屋根があっても何だか気の悪い店もあり退散。路上でも回転が良くてピカピカ新鮮に光って見える店は美味しいし、自分で見定めた店では今まで一度も当たった事がないのだ。

 

決めるまで8割型の店をスルーするので、せっかちな夫がイラっとするけどね。てか腹痛になるのいつも夫が選ぶ店だから!(あ、私もイライラ?)

 

 

と言うことで、イライラ、ワチャワチャのハリドワールから再びバスに乗り、1時間ほど上流のリシケーシへ出発。朝日が昇り始めていた。

 

 

立ち並ぶ無数のテント群。こんな広大なテント・グラウンドが何箇所もある。来月どんなことになるの?

 

夫のホーリーの二連休があり、リシケーシに行って来ることが出来た。

 

インドに5年も住んでいてもリシケーシを訪ねるのは10年越しの夢の1つ。5年前にヨガをしに初渡印した時、何度かヨガ仲間たちに行こうと誘われたけど、まだタイミングじゃないと感じていた。コロナ禍中の去年はリシケーシのアーシュラムの夢を見たっけ。待望の聖地。

 


このホーリーに夫の実家の村に帰るかどうか、夫とよく話し合った。夫の実家の皆さんのドラマに巻き込まれて平気でいる自信がなかったし。そして何より、彼らの人生は彼ら自身のものだということを本気で尊ぶ強さが私の中に必要だった。ホーリー前日の朝まで話し合い、その夜の夜行バスに乗った。

 


リシケシのガンジス川沿い。大きな木がたくさん✨



ローカルバスを乗り継いでインド国内を移動するのは、何年住んでも容易ではない。インド人の夫がいてくれるおかげでもあり、私が嫌な場所には敏感で回避出来ているからだとも思う。それでも避けられない事は多々あり、楽しいだけの旅にはならないのが事実。

 


昨夜は帰りの長距離バスでウッタラカンド州を運行中、突然バタバタと何かが車体に当たる音の後に運転手の怒声が響いた。「バカもいい加減にしろ!」と叫んでいる。


どうも分離帯にいた人がバスに飛び込もうとして車体に当たった音らしい。皆がギョッとして、 夫は後方の窓から様子を伺うも、往来の激しい真夜中の高速道路でよく見えない。

 

「自殺か、酔っ払いか。。」しかし、先ほどより少し速度を落としても、バスが止まれる状況ではない。コンダクターがどこかに電話をかけていた。一歩間違えばバスの事故にもつながる。


私、日本では運転が好きで、列車より色々な道を行くバスが好きだったけど、列車で行ける場所は列車を利用しなければならない理由が今回解った次第。


インドのバス運転手は相当過酷な運転をするのが正直面白かったこともあり、怖いもの知らずだった事を反省中です。

 



困難を越えた先にある風景には、感慨もひとしおなのかもしれない。



そして毎回辛いのが、トイレと食事休憩。

 

ローカルバスが途中で止まる道路脇の食堂(ダバ)は、なぜか毎回質素で清潔とは言えない場所。運賃の安いバスに乗る乗客に合わせた設定なのかもだけど、自分でお弁当を持って乗る人もいるし、もう少し良い所で食事させてもらいたい。


トイレも水が流れなかったり、どんな家庭のインド人でもドン引きするレベル。(国や自治体が管理する公衆トイレの方が今はずっと清潔です。)

 


今回の旅の目的のもう1つは、リシケシのお隣りハリドワールで行われているクンバメーラに赴くこと。コロナ前は外国人観光客が大勢来ていたリシケシとは違い、インド全土からヒンドゥー教徒が訪れる一台聖地。


夫の亡くなった家族も皆ここで散骨されたという場所。しかも今年は世界最大の屋外イベントとして有名なクンバメラというお祭りの年。かなり気を引き締めて向かった。

 


ハリドワールに到着したのは初日の早朝4時。既に町は動き始めており、客引きのリキシャーが次々に絡んでくる。外国人らしき姿は全く見られない。外国人だと見られると数倍の値を言われるので、夫の横で大人しくしている。笑。夫はインドの商人なので、放っておいても値段交渉で負けることはない。(言い合いになりそうな時は止めます。笑)

 


夫がいないとこの国で暮らせないなんてと、日本にいた時のように「自立」出来ない事にずっともがいて来た私。少しばかりの年月が過ぎて今思うのは、人と支え合うこと、誰かのために頑張ること、自分のものを手放して分かち合うために、新しい環境が与えられたのかもということ。



食べ過ぎがちな夫と少食気味の私でターリーを分けて食べられるのも、知らなかった人生の醍醐味。笑

 


私の住む北インドの地方都市では、意思疎通を含めて、雇われることには色々とハードルがある。優秀なインド人女性でさえ頑張って勝ち取る僅かな雇用。私がその位置に着くのは妥当ではなかった。


そんな経験を経ながら、今できる事をして楽しく健康に暮らすこと以外、ここの誰に何を期待することも、私の最善ではないと感じる。



エゴまみれで、自意識過剰で、自分の事で精一杯だった私には、夫であってもペースを崩されるのは苦痛で笑、急に思い通りに出来なくなった辛さがあった。でもようやく最近、それも一長一短と思って水に流せるようになったかな。まだまだですが。笑

 


さてハリドワールでは、リキシャーや食堂の少々の居心地の悪さ以外は快適で、近年の市政努力で祭事の行われるガンジス川周辺は美しく整備され、巡礼者のために要所にトイレやシャワー、宿泊施設も配置。


そしてエアコンの効いたレストランやホテルも沢山ある。(歴史的建造物のオンボロもあるよ。笑)特に現在のようにクンバメラが開催される年は、清掃など環境維持にも力が入っているようだ。

 


今日はリシケシ、ハリドワールの旅のことを書く前に、少しだけ自分目線の背景を書いてみようと思った。リシケシと一言で言っても、人によってルートも見える世界も体験も、もちろん目的も違うもの。



例えばコロナ前は大勢来ていた欧米から訪れるバックパッカーの若者たち。彼らはインドに人生経験や友情、冒険を求めて訪れるのかもしれない。そしてその道の半ばで、出会った友人とゲストハウスやカフェでマリワナを回しあう姿などは、たまに見られる光景でもある。しかしインドでもマリワナは違法。


特殊な人や依存者が吸う麻薬だけど、厚意(考え方の違いにより、皆に刑罰を与えるわけではない)で見逃されている所が大きい。


でも表面的にそんな光景を見かけるからと言って北インドのヒンドゥー教の聖地を=ヒッピーの聖地と言う人は、数年暮らしたおばさんから見ると、そこしか見えてないのねと心から残念になる。


ヒマラヤ山脈の氷河を起源とするガンジス川が流れる、自然の雄大さと恩恵、2つとない環境の大切さを直接肌で感じられる大切な場所。歴史的に人々が信仰と共に自然を守り抜いて来た場所でもある。


より大きな視点では、訪れる誰もが地球や宇宙へ意識を開く場所。


どんな人も成長と共に分かるものと、パーティーする若者に地元の人は敢えて誰も何も言わない。地元の人には、他人のことをジャッジしない健全さがあるしね。

 


迷いが多く流されやすい時期こそ、無意識のレベルで答えを求めてこの地に来るのかもしれない。私も色々な迷いを正したい中年の一人。


それでも人に迷惑をかけたり、自分を傷つけたり、一寸飛ばしに覚醒の効果を求めるような過ちをおかせば、どこの世界においても自分に還ってくるのが道理。


大いなる流れと繋がって、生まれ変わる準備をするのには優しい場所かもしれない。


あのビートルズもインドを訪れて変わったのだし。笑

 


インドの家族連れや仲間同士のグループ旅行者が大勢訪れていました。外国人は本当に僅か。


ついつい若者に幸あれと願ってしまう私も、今回ついにハリドワールとリシケシを訪れることが出来、無事に帰って来られてホッとしている次第。笑。冒頭でも書いたけど、本当、タイミングってあるものだと思う。


若い頃は2度インドに来る計画をして、その度に人生の転機があり旅をキャンセルしなくてはならなかった。

 

どの国のどの地に行くのも、準備が出来たらお呼ばれしてもらえるような気持ちで、襟を正して赴きたいと思う。まぐれで行くには色々ありすぎる道中でもある。


インドには他にも、私にとっては一生かけても行ってみたい場所が山ほどある気がしているのだけれど。

 

ここ1年くらいかな。数週間の出来事を振り返ってブログに書いたりしてたけど、それがすごく難しく感じるようになってる。

 

最近、私の中で既成概念や以前の常識がガラガラ崩れてきているからか、出来事を一連のストーリーとして書くことが難しい。


出来事自体には意味なんてなくて、起承転結を付けているのは私の勝手。


その時悪いと感じた事も良い方に転じたりするだろうし、良いと思う事が悪い事に繋がっているかも分からない。


そんな表面的な一喜一憂の日々のドラマは、あえて書くこともないと思える。


今までの視点や価値観が入れ替わる過渡期のようで。

 


カシミール料理のダムアルー。じゃがいもをくり抜いた中にパニールやドライフルーツを詰めて揚げ、タルカで煮込む。手の込んだ料理。


これまでは視点が狭かった。

白か黒、勝ち負け、正悪、一か八かなど、2極的でもあった。

自分の外側に判断の基準を置いていたし。


どれだけ一時の感情や打算、過去のトラウマ、他人や情報に流されて来たことだろう。

 

そして年々、条件反射の様に過去の刷り込みを繰り返しながら行動し、そのために可能性を狭めてしまう感覚が深まっていた。


安全第一で生きるなんて墓穴を掘るようなもの。でもそう教えられて育ってしまった。でも自分を知る程に希求するのは、誰にも教わることのできない安全圏外の生き方。


自分軸の感覚が強まるにつれ、先の見通せない不安も強くなって行った。周囲で起こる出来事の一つ一つ、周りの人たち全員に批判的になっていった。


自分の外をコントロールしたいという、不安に駆られた行動を自分でも止めることが出来ず、


同時に、周りの人たちの行動が目に余ると感じる事も実際に増えて行って、


もちろん瞑想もヨガもすっ飛ばして心配事にハイジャックされた数週間。一体どうしちゃったのか。笑



シヴラトリのお祭りはゆるゆるフルーツ断食。この後めずらしく胃痛で辛かった。体調が激動中。


 

でもこの前の新月の前夜、その流れが変わった感じがした。

 

夕食の後、夫と話していた時のこと。


いつも夫が理解できるようにと子供に話すような語彙で会話するのに、急にその時、私の口から本当に言いたかった事たちが語りかけ始めた。


私は夫に謝っていた。そしてその理由を説明していた。それは私が自分でも気づかなかった理由だった。


私が謝っていたのは、私が自分たちの毎日に全力を傾けられないことだった。どんな理由があっても、私にとっては一番辛かったこと。

 


思えば私たちは最初から障壁続きだった。周囲の思惑との摩擦や体調不良、そしてもちろん文化の違い。それでも何とかやって来たけど、5年経ってもまだ不安だなんて想像を越えていた。


インドのせいじゃない。夫のせいじゃない。私は私を信用してると思っていたけど、果たしてそうだろうかと疑ってみたくなる。

 



摘んできた花でパコラというフライを作るところ。甘い香りに包まれる幸せ。


そう思って振り返ると、私の下す判断は過去の経験に基づいていて偏っていると感じた。いつも恐れの少ない方を選んでいる。恐れによる脳のコントロールの言いなりなのだ。

 

最近夫が、


「これ要る?って聞くと君は必ず最初は(要らない)って言うよね。だから○○を書いそびれたんだよ。僕が行きたい所には行くって言ってくれない」


と言っていてハッとした。

 

年々頑固なコントロール魔になる。笑

 

自分で安全と判断した時しかテコでも動かないし。

 

それは(比較的物騒な)インドにいるから仕方ないと思い込んでたけど、そうだろうか?

 

夫の意見も採用できないのに、「独りの頃はこんなにややこしくなかったのに」と思ったりして。


でも実際は、いつでも思い通りに無難な道を選ぶことで、独り人生の袋小路へまっしぐらだった。もうインドに修行に行くしかないと感じるほどに。笑

 

過去や思い込みにアタッチメントしたままの自分の判断は過信したくないなと思う。体調も環境も万全な時ばかりではないし。


 

 

オールオアナッシングの白黒思考で、

 

夫のことも、私が思い描いて来た理想のようには信じることが出来ず、そこに自己嫌悪してしまう。100%じゃないことが許せず、数%の不完全さに目が向いてしまう。地獄のさそり座的幻想。

 

でもずっと心の片隅にあった、


「いつか壊してしまうんじゃないか」


という予感は、少しだけ収まって来た。コロナ前は暇さえあれば帰る、別れると言っていたっけ。コロナに救われたものもあるってこと。

 

ここに住む事を決めたのは私。

 

周りの人たちや環境のせいにしてきて、それがどんなに消極的な選択の結果だったとしても、私の人生には変わりはない。もう意識不明で流されるのは嫌だ。そんな危ういこともう出来ないよ。

 

 

自分から生きていかなくちゃ。

 

誰の人生でもない。

誰に文句も言いたくない。

 

また失うかもしれない、また壊してしまうかもしれない、また恥をかいて、また嫌われてしまう、また人知れず1人で耐えるしかない、

 

そんなトラウマのシナリオがエネルギー体に染み渡っていて中々やめられないけれど、そんなドロドロの世界に夫まで一緒に連れて行くことはできない。


人生積み重なってくると、過去の幻影で目が曇っていて、目覚めている時間は少なくなって行くように思う。メンテナンスなしだと。


過去の幻影だって紛れもなく「私の物語」なのだからと、無意識でそこに浸る時間があっても別に問題とは感じてなかった時期は、瞑想開始と共に終わっって行った。

 

 

この新月の前の晩、視界が開けた。

 

私が使って来た自分の意思なんて、使い方を間違えていて脆弱で、振り返ると毎日毎日少しずつ弱気な方の決断ばかり繰り返してるけど、こうして宇宙の追い風みたいなものを感じる時は違う。急に我に返ったように色々な事がはっきり見え出したりする。

 

その日は、要再検査だった乳がんの細胞診が陰性と分かった日だった。それだけでも相当な心労が晴れたところ。

 

面白かったのは、急に意識がハッキリして普段は話さない頭の中の話をペラペラ話し出してしまったら、いつも簡単な言葉で話す時はほぼ聞いてない夫が、今までになく私の話を理解していたこと。


語彙や内容じゃなくて、エネルギーで夫と繋がった感覚がしたの。最近はただの同居人同士だったので、そんな感覚いつぶりだったか覚えていない。笑

 

ここ数年、


本当に「試練」と言えるんじゃ?って年月だったけど、エネルギー体を曇らせていた霧のようなものが晴れ始める時期が来たのだとしたら、本当に嬉しいし、夢なら醒めないでと願うばかり。

 

本当に近年、色々な概念が入れ替わっている。

 

今まで良いと思っていた事は、盲目の陶酔のようだったとどんどん気づいて行く。例えば以前のように、どんなに惹かれる相手、好感の持てる相手、モデルになりそうな相手でも、他人を手本にすることが出来なくなった。

 

どんなに卒無く上手くやりたくても出来ない状況が発生する。どんなにインドで周りと衝突せずに仲良くいたくても、偽りは露呈してしまう。何度理解しようとトライしても、インド式はどうしても受け入れられない事も多い。


もう、いいんだと観念したい。もう本当に疲れた。笑。いい人ぶらず、真実に観念するしかない。

 

どんなに夫を信じたくても、その行動が受け入れられなくて信じられないというのは、信じ方が違ってたってことで。

 

自分が「人とは違う」ということを本当の意味で許して実践して行くことは、相手が自分と違うことを許して行くということでもある。

 

それは相手をより深く理解して行くことかもしれない。

 

今まで信じて疑わなかった

安心感さえも脱ぎ捨てる

苦しい脱皮だけど。

 

自分の生き方をする以外はできないんだよね。

 

それは小さな事から1つずつ、不可抗力に流されず、無意識のモヤモヤの中に大切な声を置き去りにせず、喜びの 方を選んで道筋をつけるような地道な積み重ねかもしれない。


長くなりましたが、私の健忘録です。


2月後半が例年になく暑く、連日30度越え。からだが混乱気味だったけど、ほどなくして落ち着いた。

 

寒さが終わって、得した気分。

 

肩こりも改善し、ついついヨガをさぼってしまう。寒かった台所も快適になり、朝から凝ったものを作りたくなる。夫も早起きになり、毎朝屋上でバドミントン。

 

瞑想も忘れて、楽観的に明るい未来に思いを馳せたくなるけれど、

 

瞑想をしないと、やはりクリアではいられない。事実ではない思い込みに囚われていることに気付かないことも多い。

 

そんなサインを鏡のように見せてくれるのが、周りの人たちや日々の出来事かもしれない。

 


博物館にて、パンジャーブ州の家の装飾を模した扉。😍

 


インドでロックダウンが始まったのが去年の3月。この1年、どんなに日々精神衛生を心がけても、心はやはり孤独だったなと改めて思う。


人との接触が最小限の生活は、不自然なエネルギーの滞りを生み出す。


自覚はないのにネガティブな妄想に絡まっていたり。

 

 


さて先週は、大家さんのお嫁さん(バビジ)がふらりと部屋に来た。部屋に来るなんて1年ぶり?

 

「最近、低血圧でしんどいのよー。あなたヨガの先生だから、良い方法を聞こうと思って」と。

 

ヨガ師範を取るのにインドに来たと一度話して以来、ずーっとヨガの先生と呼んでくる。笑

 

聞くとバビジ、太陽礼拝は毎朝、プラナヤーマも毎日していると言う。夕方にはウォーキングも欠かさない。それなのに、「頭の中がうるさくて、余計な事ばかり考えちゃう」と。

 

やってはいるけど、

うまく行ってない気がするってことか。

 

それで「プラナヤーマはどうやってるの?」と見せてもらうと、明らかに呼吸のリズムが早くて浅い。そう、この辺の人たち、早すぎる人が多いのだ。


お義母さんもそう、前の職場の人たちもそう。この地域の学校で習うやり方が早過ぎるのかなと思う。太陽礼拝も皆、パッパパッパと浅くやり過ごしている。

 

私が習ったリズムを見てもらって、必ず息を吐き切る事、彼女の場合は特に吸う事より吐く事を意識した方が良い事などを伝える。

 

「瞑想にも集中できないのよねー」と彼女。「朝5時に起きて暗い部屋で瞑想するのが辛くて」って。一般の人たちの間ではそれがルールのように言われてるようなんだけど、そんなルールないはず。

 

「1日5分〜でも良いから、毎日続けると良いみたいよ」と、彼女の常識を否定しない様に言ってみる。気分の良くなる場所があれば、そこで行うと良い。

 

「私も低血圧だし、お互い頑張ろう」と言うと、バビジに笑顔が戻った。「あなたはセンセイなんだから、低血圧なんて言ってないで、早く教えて稼がないとね!」と。好きにさせてくれ。笑

 

来た時とは別人のような晴れやかな顔で帰って行ったバビ。お互い本当に久しぶりの会話らしい会話。

 


去年まで仔猫だったのに、今では2匹を産み育てたママにゃんに(ほぼノラ)。



5年も住むと多少行き違いはあったけど、大家さん一家もアパートの住人たちも、やっぱり心根の良い人たちなんだなぁと、改めてこみ上げるものがある日だった。


(最初の頃とは違い、口うるさい事言われても聞かないようにしてるし。笑)

 

 

でも話すことの少なかったこの1年は、私は隣のゴミが飛んで来たり洗濯物が(風で飛んだだけ)なくなってると、(今度は誰よ?)とすぐキーッとなってたことを振り返った。

 

マジメに「ソーシャルディスタンス」を心がけようとする程に、誰かしらウチの側のベランダで暇つぶしをしに来るのが気になるし、時間を持て余した子供たちのいたずらも始まる。


雑音もいつも響いてきて、聴覚過敏神経症にでもなったかと疑う程。


もちろん向こうには悪意なんてないし、環境不適応気味なのは私だけで、言わなきゃ分かる由もない。

 

(相手が〜するべき)なんて、こちらの勝手な期待は通用しないのだなーと、つくづく、今までの自分が正義&常識依存で生きて来てしまったことが思いやられた。

 

冷静に自分の意見を言って淡々と対処すれば良いものを、ストレートに行かず

 

(私がインドにお邪魔してるんだから)

(コトバも出来ない身だから)

(こっちのやり方を押し付けるのも)と、

 

どんどん卑屈になっていく。

 

そんな思考にパンデミックが重なって、時限爆弾を抱えたようなもの。

 



異文化の地では、こちらの思いもよらない事が多く起きる。この1年はより一層そう感じた。


その度に堪忍袋の尾が切れ、私自身の健康を害していたのかもと思う。

 


何が外界で起きているかに関わらず、

私が感じる攻撃的な感情は

私の中に存在しているものだ。

 


たくさん気が付いてしまって

いっぱい我慢をしてしまって

これ以上呑み込めないほど

呑み込んできたのかもね、私。

 


裏を返せば気遣いや優しさ、繊細さなのに、良い方の出番が少なかっただけ。


揺れに揺れたこの1年の労を、今は労ってあげたい。

 


自然の中に出かけるのが今できる1番の癒やし✨



相手のせいにしてカーッとなる時は自分に怒っているのだし、相手を哀れんで同情する時は自分を哀れんでいたりする。

相手をジャッジする時は、ありのままの自分を拒絶していて。


自分の心からのSOS。

 


認めてあげられられない感情の決壊が

相手の姿を鏡にして起きる時、


否定的な感情が電気ショックの様に

一瞬にして立ち上がってしまう。


トラウマが残ったままの場合も、すぐにトリガーされ追体験してしまう。


制御できずに許してしまうと

事実エネルギー的な変容が起こるので、

理性や知性で覆すことは難しいのだと思う。


嫌なことが起こった時、それがあたかも「相手から来た」ように感じるのだけれど、


自分の中に同じような否定的な感情の火種がなければ、反応すらしないだろう。

 

(ウチの夫、何に対してもほとんど怒ることがない。普通に反応するだけ。笑)

 


昔ながらのキビ砂糖工場へ。皆で笑いながら作る自然なキビ砂糖、最高👍


 

先日、お昼のパスタを茹でながら気がついた。

 

例え理屈上、相手に100%非があったとして、それに反応し続けることで結局何か良い事があるんだろうか?と。


(自己防衛本能として発動する面はあるのだろう)

 

自分を傷つけ相手の信頼を損なうことのダメージが大きすぎる気がした。

 

 

でも、↑に気づいても、どこかで聞いて知ってたとしても、自分なりの方法で否定的感情のルーツを辿って認めて行く作業は、その人本人の意志で行う神聖な作業。

 


そして、そんな作業はやる必要もなく、今生では違う分野にフォーカスしている人はもっと沢山いて、それはそれで素晴らしいのだと言う前提なのだけど。



たかが5分の瞑想が、目覚めないまま彷徨う何十年分もの時間を救済し、


どんなの専門家の意見よりも大切な声を届けてくれることは、私にとっての真実。

 

 

素直な心の声のままに

この世界を生きられたら

きっと最高だろうなー。


いつまでも生まれ変わって戻って来たい景色。

 

 

北インドは突然、強めの日差しが降り注ぎ始める季節。唐突に冬が終わり、今日はヒーターを片付けた。

 

でも春の穏やかさを楽しむ時間はあまりない。紫外線と埃、乾燥との戦い開始。

 

 

。。あれ、いつも戦ってる?笑

 

洗濯物アート🎨👕👚
 

 

春のソワソワ感もどっと押し寄せるのか、大家さんの孫(10才)のヤンチャぶりがエスカレート。私もイライラマックスの所に、何故かウチのベランダから向かいの家の屋上へ、自転車の古タイヤを力一杯放り投げていたところを、捕獲。

 

 

「何ヤッテルノ。危ナイよ」(変な片言)

 

「何やっても良いでしょ。ここ、俺ん家だもん!」

 

「は?ナニ?ここワタシの家ヨ」

 

「お姉ちゃんの場所は部屋の中だけだよ」

 

「ナニ言っタ?掃除、アナタスル?Rentアナタ払う?Fight スルカ?」

 

「ディス イズ マイハウス。俺ん家だ!」

 

「でも危ない事ダメ!アナタの家ハ、ワタシの家ヨ!」

 

逃げ去ろうとするのを、追いかけて屋上まで駆けっこ。わー!と叫びながら、若干嬉しそうなナマン君。そう言えば、越してきた頃はよく一緒に鬼ごっこしてたっけ。

 

本当、どこからどこまでがウチなのか、いつから学校始まるのか、親はどこまで放ったらかしなのか、境界線が溶けてる国なので良く分からない。笑

 

 

それからは、しばらく恐れをなして寄り付かなくなった。それ相応のエネルギーで対応しておかないと、ここの子は試し行動をやめない。等倍返しぐらいで丁度良い。(今はケロっとして一緒にバドミントンしてる)

 

 

山で見かけたワイルドフラワー🌼
 

 

この辺の大人たちも、公共の場で目も当てられないマナーを見せる。先々週は動物園に行ったら激混みで、30分待ちのチケットの列に並んだ。並んでいる1人が5、6人分のチケットを買うので、よく突然押されて割り込みされる(家族が入って来たり、マジで横入りの人)。

 

女性が少ない時に女性用の列にシレっと並ぶオジさんも。面倒だけど、その都度周りを巻き込んで相手に注意すると、「え?気がつかなかった」と大体は引き下がるから、本当に悪気はないのかもしれない。

 

 

体幹に気合いを込めて並ぶのよ。笑
 

 

さて動物園では、動物よりも東アジア人が珍しいのか、親戚一同で来て気の大きくなっている大人たちにガン見され、子供たちは口々に「チャイニーズ」と言い去って行く。悪気がなくても嫌だし、これだけは全然慣れない。泣

 

つい気分を害し、せっかくのお出かけも楽しむどころではない。

 

こういうものだと冷静に受け容れて、自分の時間をルンルン過ごすには一体どんな修行が必要なんだろう?笑

 

 

檻の外の野生動物を見つけるのが楽しい✨

 

 

先日は、山の方までツーリングに出かけた。山をいくつも越えた先の湖の畔のレストランに到着し、さぁ食事を、、と思ったら、これまた劇混み!最近、行楽地がコロナ前の5倍〜の人出なんだけど、お出かけブームが到来か?

 

しかもこのレストラン、前の人たちが席を立つ瞬間に誰かが滑り込むと言う、椅子取りゲーム方式。泣

 

夫と2人ベンチに座って待機すること10分、ようやく目の前の席が空いたので席に着いた。するとツカツカと大柄なマダムが現れ、片付けの終わらぬテーブルに大きなバッグをドン!

 

驚いて、「Excuse me...  Is this your seat?」と聞いて後から後悔。態度のデカさに、食べ終わらず戻って来た人と勘違いしてしまった。テーブルに荷を置いた手を離さずマダム、私の質問には答えず辺りを見回して家族の居場所を確認。

 

そして先に座っている私の目を見ることもなく、「We are 4 people!」と空に言い放った。

 

か、数で勝負なの?笑

 

面倒なのでシブシブ立ち上がると、ヒョロっと気の弱そうな旦那さん、小学生の娘さん、白黒のマルチーズ犬が合流したのを見てジワジワ。。。4 people。。笑

 

 

写真で見ると綺麗な場所なのに💔
 

 

悔し紛れに後で夫に「インドは中流家庭でもマナーがない。順番も守らない。自分さえ良ければいいの?大人がワガママすぎて気持ち悪いわ」と言うと、「そうだよね」と何の反論もない。つくづく、夫は戦わない人だ。。って、私が損な役回りを買って出てる?

 

 

ジャッジして

怒りに替えてしまい、

冷静に話すのを諦め

席を譲ったのは、

私。笑

 

相手を裁いて立腹したために、向き合ってきちんと主張ができなかった悔しさ。インドで生きるスキルが未熟すぎ。

 

相手にマナーがないことと、そこに感情的になり冷静に行動できず自滅することは、別物。

 

今の私には難しすぎるけど、少しずつ学んでいること。

 

 

 

しかし、夫という人は何かと面白い。今、尊厳を守るとこじゃない?って時には主張しないくせに、物を買う時は値切れるだけ値切り倒す。見栄やプライド、尊厳などはどうでも良いのだろう。

 

 

席を横取りされて悔しくないのか。。😱
 

 

夫は列の横入りなどはせず、直接カウンターに行って口を効いてもらう方式を採用。正当な理由を言うので良いのだとか。

 

旅先で初めて会った時も、運転手と仲良しになったとかで、絶対取れなそうなバスのチケットを取ってくれて驚いた。何かと都合をつけてくれる友だちが沢山いる。

 

戦ったり、クレームをつけたり、口八丁言ったり(多い)、横柄な態度を取ったり(よくいる)は絶対にしない。物を値切る時は、冷静に根気よくどこまでも言い負かす。リアル持ってけドロボー君。

 

 

戦わないのに、得をする。

感情的でポンコツの私とは正反対。

 

 

でも、この前の大家さんの孫や動物園でのガン見ストレスなど、日々の戦いのことを夫に話すと、「。。。君はまた文句を言ってるの?」と、理解してくれない。

 

 

私は「文句じゃなくて説明してるんだよ。足りない所を改善しようと思うと、ついつい戦っちゃうんだよね。あなたはインド人だから、マナーや教育がこの程度でもフツーなんでしょうけど」と、嫌味の1つも言いたくなる。

 

そして再度聞いてみたくなる。

 

「あなたにとって、幸せって何?」って。

 

 

おいしいサーグとトウモロコシのロティを作るのも幸せ。
 

 

「うーん。僕は君といればいつも幸せ。今が幸せ。」と、

 

夫は昔から同じことしか言わない。妻がジロジロ見られてチャイニーズ言われても知らん顔かよ。怒

 

「じゃあ私の幸せはどうでも良いの?私は今よりもっと幸せになりたい。そのために、今起きていることをあなたに説明してるの。文句ではありません。

 

あなたが幸せなのはいいけど、私の話もちゃんと聞いてよね。もっと興味を持ってよ。私の幸せが何なのか、あなたは興味がないの?」と。

 

オレの話を聞けー!と、言ってやった。笑。それが先々週くらい。

 

 

先週。晩御飯の盛り付けに忙しく、目の前でただニコニコ座っている夫に(手が空いてるなら手伝いませんか)と思っていたある晩、唐突に夫、

 

「ところで、君の好きなハリウッド俳優はトム・クルーズだったよね?」と。

 

。。。。は?

 

忙しいのに何よと思いながら、一応、

 

「トム・クルーズは有名だけどね。あえて言うならマシュー・マコノヒーかも(本当はジョージ・クルーニーなのは秘密)」と答えてみる。

 

夫「おお、そうなんだ!じゃあボリウッド俳優は?」

 

私「アーリア・バハーット!」

 

夫「女優じゃなくて、俳優だよ?」

 

私「えー?いないわ(インド男子嫌い発病中)」

 

夫「当ててみようか?シャールーク・カーン!」

 

私「(古いな)いや、むしろイルファン・カーンかな(死んじゃったけど泣)」

 

夫「ええぇ!君もなの?僕もイルファンが一番好きなんだよ!」

 

私「あははー!だよねー(さっさとご飯食べませんかー)」

 

 

。。。という、不自然な会話をしたことを思い出した。もしかしたら夫、「私に興味を持って」「会話をする」努力をしてたのか?笑

 

私の言うことを「ただの文句」と思わず、冷静に聞いて望みを叶えてくれようとしてるみたい。

 

また聞いてないだろうなーと思いながら言った愚痴も聞いてくれたみたいで、最近は朝お皿洗いをしてくれたり、先に起きてコーヒーを淹れ、バドミントンに誘ってくれる。

 

 

バイクで走ると色んな風景が楽しめます。
 

 

相手のことをジャッジしたり、感情をこじらせてしまうと、その先の未来の扉を閉じてしまう気がする。

 

 

夫婦と言っても性格も全然違うのに、似たようなテーマを同じような時期に、お互いを通して学んでるんだなぁと思う。

 

 

戦わなくても、無理して嫌な事を頑張らなくても、お互いがそれぞれ幸せになれる、理想のシンクロニシティを思い描いて、

 

私も、会話してみたくなるような雰囲気をかもし出してみたい(そこだよ笑)。

 

 

 

目の前に広がるこの世界は、

ただ存在しているだけではなく

 

自分が選んで築いた世界だなんて

 

受け入れられない気分の時は、

 

普通に機能しているつもりでも

不安や恐れや、嫌な妄想がBGMで。

 

リスク回避型行動は、抜かりなく。

 

でも一体いつ心から笑ったろう?

自然と踊りたくなる日もなくなった。

 



 


そんな逃げ腰の私を、

この世界は放っておいてはくれず

 

 

気づきなさい。ちゃんと見なさいよ。と、

 

感情の限界を越える出来事や

常識を覆すようなありさまが、

度々、スキを突いて侵入する。

 

それがサインだと分かるけど、

それでも怖いのだ。

 


見たいものしか見ず

話したい人としか話さず

行きたい所にしか行かない。

 

 

私を守るはずの境界線、

外と内を分けていた城壁が

 

内側に向かって崩れ始めたのは

 

時空の緩みに座ったからかな。

 



 

目の前の世界を拒むことは

自分自身を拒むことで、

 

どんなに怖くても

どんなに理解出来なくても、



しまっていた真心を持ってきて

開いて行かなくてはならなくて

 

開かざるを得ない出来事に

こじ開けられる前に


 

平和に、誰も傷つけず、争わず


それは可能なはずなのだけど、

どの 方法よりも私には難しいよ。

 


平和な世界に護られていたから

変化球と魔球しかない世界では、

心の平安の保ち方なんて知らない。

 

冷たく閉じて無視するんじゃなくて

温かで生きた気を巡らせながら


境界線を行き来することが出来たら、

 

選んだ世界で自由に生きられるのか。

 

 


 

私が選んだ目の前の世界だって

嫌われたり無視されたい筈もなく、

それなりの配慮を求めてくる。

 

特に、子供はメッセンジャー。


訳もなくいたずらしたり

ケンカ売って来たり。笑

 

(住みたくて住んでるんじゃない)

なんて、

少しでも思う度に必ずトラブル。

 

不便や難点も多い家、町だからこそ

隅々への配慮が修行級に必要なのに、

 

「逆」の考え方を採用してきた。

 

 

(他に良い物件がなかった)

(他人が決めてくれた)と、

人のせいにするのはその場しのぎ。

 

現状、1つ1つ逃げ場をなくす経験が

ここが私の居場所だという事実を

1つ1つ見せてくれてきた。

 

ギリギリ保った境界線の中で

戦うように守ってきた独りきりの自分。

 

どんなに人のせいにして

どんなにこの場所を嫌って

境界線でここの人を拒絶しても、

 

向こうから一線を越えられ

必死に守る堤防は決壊し

怒ったり憤ったり

涙ぐんだり、結局笑えたり。

 

私が正しいと思っていた事は間違いで

相手が良いと思うことは悪に見えて、

ドラえもんの漫画の話みたいに

アベコベの世界で

 

境界線なんて引けるワケがないし、

もう、引かなくていい


 不毛な闘いに疲れたし。笑



今まで「キチンと」して来た努力が

ドロンドロンに溶けて行くの?

という恐怖なのか

 

まだ世間話さえ交わせない

色黒な肌の奥に光る瞳の人たちの

心に触れるリスクを取る理由が

腑に落とせずに

 

いい歳して、いつも夫の後ろに隠れて

値段交渉も世間話も冗談も

オマケも受け取って来なかった。

 

それでも生きては来れたけど

魂は、息絶え絶えなのかもしれない。

 

日本に逃げ帰る前提ではなくて

 

この場所とこの町の人しか

私の周りにはいないという事実に

はっきりと目を覚まして、


私の世界に恐れずひるまず、

魂を震わせて生きてみたい


もっともっと生きてみたい。




 
すっかり外出が困難になっているこの頃。
 
元々、一人時間を苦に思う事がないのに加え、ここインドの下町は一歩外に出れば泥や埃やボッタクリのリキシャワラ。
 
一人気晴らしに遊びに行く女性は皆無で、タクシーを使うとジロジロ見られる。そして去年からはコロナ。
 
多分、ちょっとした外出恐怖。
 
出かけたいのに出かけられないジレンマ。
 
 
買い出し先の市場では、オレンジ売りの少年が笑顔で売り込み。
 
 
夫がいる日曜にはバイクで買い物に行けるけど、私が行きたいモールやカフェは落ち着かないらしく、行くのは雑然とした市場ばかり。
 
多分孤独から疲弊してるのに、知らない大勢と押し合いへし合い買い物してゲッソリ。それでも頑張って大量の野菜を3食料理する日々。
 
人恋しい。休みたい。笑
 
今日はリパブリック・デイというインド建国記念日。夫は休日はなく、近所の子たちは朝から騒がしい。
 
私は一週間ぶりに顔を出した太陽の下、ベランダで日光浴。今日は洗濯は休ませてもらおう。
 
先週は生理で、真冬なこともあり子宮疾患の私にはかなり重い方。でも気力はあり、初日は「生理の日のヨガ」で循環を促進。
 
 

オススメ生理の日のヨガ。体調に合わせることができれば、生理の日もヨガを諦めることはないのです。
 
 
最終日には何度か逆立ちのポーズをし、ダルさを払拭していた。大寒辺りは身体も鈍るけど、そんな時こそヨガの出番(気力を振るい起こして笑)と。
 
 
でも続けていた瞑想は風前の灯で、(この時期を乗り越えれば..)という思いで、1日置きの呼吸法と、映画を見たりして気を紛らわせてた。
 
でも多分、辛い時ほど内観しないことで溜まって行くものは甚大。辛い時ほど大事なメッセージが降りて来ていて、気付いて具現化するためのはからいが働いている。
 
今日はようやく空気が明るいので、数日ぶりに瞑想したい感じ。
 
 
昨日結婚式を挙げた俳優、Varun Dhawanの主演ではイチ押し!歌って踊らない、美しく叙情的で繊細な作品。
 
 
1年ぶりの白菜を発見!キムチ作ろう〜♪
 
 
案の定、書きたい事も色々絡まってる。ちょうど先週のダルい時期、ドイツ人のおばあちゃんハイジから久々に電話が来た。
 
実は去年の10月に心筋梗塞の症状があり、同じマンションの元外科医の友人に診てもらって何とか過ごしていたとか。
 
「最近は物忘れが酷くて」と、電話口でも同じ話を繰り返している。それから何度か「一緒に病院行きましょう」とメッセージしてみるも、都合が合わない、具合が悪いからと、様子見の状態。
 
彼女は一人暮らし、インドに親戚縁者もいない。インドで生活する上で、頼れる人のいない辛さはよく分かる。でも「明日は無理よ」と断られてると、心配だけど少し待つしかない。
 
 
アルー・ティッキ揚げ揚げ中。ストリートフード大好き。
 
 
コロナの懸念で病院に行けていないとか。それは私も同様なので、気持ちは良く分かる。でも今は感染者数が減っていて、病院にかかるなら今だという気も。
 
外出恐怖の私も、自分の用事を足しに外へ出ざるを得ない日も近い。笑
 
そう思うと、必要であれば時期は必ず来るのであって、その手前で思い悩むことも、他と比べて恥じることもなくて。
 
前の瞑想ではその事が多次元のビジョンで降って来た。
 
今、ここで生きている事が必ず次へ繋がっていること、とても大事な時期であること、心配する必要がないことが、鳥瞰図のように広がって見えた。
 
大丈夫、したい様にすれば良い。
 
 
だから、自分の中の妄想の恐れで手一杯になっていて、必要な誰かに手を差し伸べるタイミングを逃さないように、
 
こちらの押し付けで相手の意志を損なうことのないように、芯を強く過ごしたいと思う。
 
さて、良い天気に乗じて、太陽礼拝を務めてみるとしますか。
 
 
コーヒーテーブル、オンラインに好きなのがなく、倉庫で見つけた物を切断して作ってもらった。ないものは作る精神、大事。
 
 

ここ2日ほどの夢は、少し覚えていられるように。

 

一昨日は、何となーく好きではないタイプの女性2人と一緒に、なるべく楽しく仕事を完了させよう!と思って作業をしている夢。一人は暗〜くて、一人は口ウルサイ。笑

 

現実では私、キライなんて思っちゃいけない!とか、やっちゃう人。

 

でも夢の中の私は、作り笑いもお世辞も、場の取り繕いも尻拭いもしない。フツーーーに、

 

ヤなもんはヤだわいって感じで。笑


(こういう愛想のない対応、私はインドで覚えた気がする。)

 


人間関係のストレスも一切無く、

溜めてる思いが伝わる結果の

逆切れ、シカトもこうむらず、

 

とっても自然で平和な時間だった。!

 


現実では緊張したり疲れたりだけど、

この夢にすごい事を教わった感じ。。。

 

 

「キライなものはキライで良い!」と。

 


朝5時、外をお祈りの一団が歌と太鼓を鳴らして通り過ぎる音に目覚めた日。

 

さて次の日の夢は、昔の同僚の一人が出てくる。


彼が会社を買い取って経営を始めたと、風の噂で聞いた私。一時帰国したので、元職場に顔を出してお祝いを届けようとするも、何度訪れても彼は留守。

 

もうインドへ帰るから時間がない、という時に町で偶然彼に会うけど、急いでいてちゃんと会話が出来なかった。。。で、あ、私嫌われてるのか!と気付くという。

 

実在の同僚だけど、さ。笑

 

一緒に頑張った仲だけど、実際プライベートはご一緒しない。私は好きでもキライでもない。向こうもそうだろう。


でも、彼も人当たりが良く頑張り屋で、人の好きキライなんて死んでも口にしないタイプだ。笑

 

この夢で何が嫌だったかと言うと、

 

「どっちつかず」に振回される事。

 

人当たりは良いけど内心は嫌い、とか

分かりにくいし地味ーに傷つくもの。

 


起こしてもらえてラッキー!と、瞑想コーナーで瞑想する口実に(モチベーション補給)。

 

社会生活では常識的に振舞うのが大前提だけど、


素直になった夢の中では、見栄や恐れから自分を取り繕うことで、相手との関係が余計にチグハグになるのが良く見える。

 

嫌いでも、良いのにね。

 

私にも相手にも、

「嫌う権利」はあるはずで。

 


それを変に抑圧したり、無理して合わせたり、好かれようとしたりは、災害の元。そんな経験は色々とある私。


相当な良い子病だった。笑

 

 

そんな私に、本音を言える相手ができたのはやっぱり奇跡だった。

 


それから少しずつ、リハビリのように

私らしさを取り戻して来た気がする。

 

 

嫌いって、悪くない感情だ。

 


相手のポテンシャルを買っていて

もっと素敵になれと思う老婆心。



こちらが自分の真意を分かっていて、

その関係が続く見通しがあるなら、

 

マブダチにだってなれそうな

深い語らいをしたいって事だから。



嫌いな自分を、

嫌われた相手を

 

ゆるゆる、ゆるそうと思う。笑

 


寒ーい日、寒い日本の冬の料理が恋しくなって、ロールキャベツ。ひよこ豆でベジ仕様。


年末前からの夢見の悪さは、少し収まって来たみたい。

 

それと反比例する様に、今は「目にするものが現実化する」感じが来ていて。。

 

 

有機栽培の大豆。たまたまスーパーに1袋だけあったのを確保。

 

 

例えば、

ずっーとやってみたいと思っていて

何年も出来なかったお味噌作り。

気づけば材料も条件も揃ってて、

思い立ったその日速攻で出来たり。

 

 

一年以上前に買ってあって

中々手を付けられなかった分厚い本。

前に音読画像も見つけてあったのを、

急に昨日から読み始めたり。

 

 

あと、目にする記事や映像の内容に

百発百中、実体験で共感して鳥肌。

(共感しない物は偶然見ないとか?)

 

いくらなんでも、的中率が高杉君。

 

 

それから、読んでいる本の内容に

いつの間にか引き込まれるのか、

今後その場所に行くような強い予感。

 

それと、

昨晩は夫もそこに行く夢を見たって。

(本を読んでいたのは私だけ)

 

 

ヤバい人になる感じはしないけど、笑

何かの流れを感知し始めたのかな?

 

(と言うか、望みを叶える意志と行動が一致してきたからとも言える)

 

 

パラマハンサ・ヨガナンダ師の「あるヨギの自叙伝」。オーラ強めなので白い恋人のブックカバーをして読みます。笑

 

 

新年に入り、膠着していた私の現実にも少しだけ動きが出て。

 

カナダに住むインター幼稚園時代の同僚に、可愛い女の子が生まれた知らせや、数年連絡が途絶えていた中学の同級生も、チェコから5才になる娘ちゃんの写真を送ってくれたり。

 

そして昨日は、昨年5月以来話していなかった7才の甥っ子と姪っ子とビデオコールで繋がれた。

 

一回り背も伸びていて、画面越しに会えただけで胸がいっぱいになり。

 

 

ま、あとは大きな事は何もないし

 

インドの生活も相変わらず。。。

 

でも、それが今の私の望むことなんだと、現実を眺めながら感じることができる。

 

 

小さな事から、

やりたかった事を完了させたり

遠くにいても大切な人と繋がったり

習っても継続できなかったことを

自分の力で毎日の習慣にしたり。

 

 

スカスカだった毎日、やみくもに頑張るだけの年月、タテマエだけを掲げる私、犠牲をいとわない私。

 

そういう幻想から目覚めて、小さな本当を実現して行けたら、後半の人生、在るがままを生きられるだろうか。

 

 

今を犠牲にして自分を犠牲にして

他者を犠牲にして。

環境を犠牲にして。。

 

そんなエネルギーの人質は

もう要らない時代だと感じるから、

 

外側と内側を交換しながらでは

嘘でももう走れなくなってしまった。

 

世界中で犠牲に傷付いた人たちがいて。

天変地異と環境破壊を生む生活様式を

気づきも改めもしないのではなく。

 

ごめんなさい、テヘペロと

何度でも何度でも謝りながら、

 

もう一度

美しい世界を取り戻せるのは

今しかないって言われてるみたいに、

 

私は私の小さな望みを叶え続けたい。

 

 

誰の望みも犠牲にしない世界は、

 

大きな建前を振りかざす誰かじゃなく

 

本当に、

 

1人1人が作れるものかもしれないから。

 

 
生まれて初めて作る手前味噌。美味しくなりますように✨
 

 

 

 

先日中継された、ダライ・ラマ14世と環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんの対話の動画です。環境破壊問題が、次の世代に持ち越せない現状であることが良く分かります。

 

土曜日。めっちゃ天気が悪くて、朝からブルー。昨日はヨガでせっかく繋がれた感じがしたのに、、、

安定しないな。。。

。。と、悩みそうになって、ハッ!

いや、そういう結び付けをする必要はなくて。瞑想の時のように、普段も理屈をやめる努力をするのだと思い出す。


朝から濃い霧で雨模様、湿気も多く体感温度が低い。そんな日。

何がイケなかったって事はなく、循環が滞るのは自然の作用でもある。

昔、身体を壊した時にどこかで聞きかじった「身体の声を聞いて」あげる変な癖が付いていて、まだ恐れの感覚を引きずりながら、身体に対して過保護になっている私。


もーダメ。
絶対、今日はムリ。
これは無理な感じ。
また、挫折?

そんな屁理屈を、甘ったれの脳ミソが計算づくで訴えているのを、

。。はぁ。。。

と、子どもが甘えるのを聞いている時のように、それに同情して一体化するかしないか、スレスレの所で聞いていて、

でも、

「いや、出来るよ。やる。」

と、これまで完全一体化していた、甘ったれ小僧に、宣言してみていた。

「見ててごらん。」って。

それで自信のないまま、血流の鈍った身体を引きずる様にマットを敷いて、前方に立ちハァーっと大きく息を吐いた。

あとは、動くのみ。

滞りを吐き出して、

プラーナを巡らせる。


前日は汗がジワジワ滲んで熱が放射される感覚だったのが、この日は筋肉がプルプルして全身にその力をバランスで広げる感覚。


前日の繋がり感、入ってる感よりは、三次元の身体に近く意識が向いている。

低飛行のスピリットを
力技で持ち上げる感覚。

全然違って面白いなーと。


朝から大盛りパスタの日は絶好調。。笑


前回「繋がってる感じがある時が、うまく行ったと思う時」と書いたけど、早速上書き訂正ーー。


繋がるのは気持ちが良いけど、
それも1つの状態に過ぎなくて。

気分ドンヨリ、溜息混じりでも、
できる!の一言で這い上がって
筋肉に頼る力技な日もあっていい。

同じ日など一日も無いように。


確かな収穫は、甘ったれ小僧と分離出来たこと。

秘められた力を信じて。

今まで発揮した力、今まで見たことのある限界しか信じられないのなら、見たことのない境地へ行こうとしても、手前で確実にブレーキがかかる。

まだ見ぬ世界へは
目を閉じないと踏み出せないのかも。

少なくとも、色んな知識をくっつけてそれっぽい言い訳をする巧妙な私のマインド君には、実技で体感してもらうしかない。


弱いバージョンの私と、同情という名の二人羽織りの一体化をしていたんだな。。重たく苦しくなるばかりなのに。

愛情と同情をはき違えていて。

夫に対してもそうかも。
共依存って、同情関係なんだなーとか。
あれやこれやと思い浮かぶけれど。


貧血で、ホームシックで、自粛疲れで、お味噌が切れて、ああ、もうダメだって甘やかす前に。

鉄剤飲んで、実家とスカイプして、公園を歩きまくって、自家製味噌でも仕込んで、

結論を書き換えることにする。

ただ
目を閉じてマットに立つ時のように。


いつもバドミントンをする公園。きれいな公園が沢山ある街です。