前のブログで書いた瞑想の時もだけど、
昨日のヨガも共振共鳴を感じていた。
うまく行ったと満足するのは、この感覚がある時。
もっと思うようにやってごらんと、
自分以外の力に支えられているような
あるいはググッと負荷を感じて、
楽しく腕試しの勝負をしているような
インタラクションがある。
共振共鳴。
シンクロ。
グルーヴ感。
ノリ?
部屋の空気や気温や湿度、
外の野菜売りの掛け声や
唐突な南国の鳥のさえずり、
朝霧が明けて日が差す瞬間や、
赤ちゃんの泣き声、
おばあちゃんの呼び声、
マットの質感、天井の高さ、
聖域のような8畳一間と、私。
世界が完璧に調和する時。
私が我を忘れて共鳴する時、ようやく周囲の存在に気づき始める。
ちっぽけでつまらなく見えていた物が、振動で語り始める。
私が生きていること。この命は、もっと感じられるのだということ。人生はもっと素晴らしいってこと。
こっちの世界が本当で、私が見えている世界は表面でしかないと。
すべてのものは振動している。
生きて変化して恒久である。
私たちはほんの一時の命を、あれやこれやと心配したり安心したり。あっという間に、私の生は終わってしまうのに。
分かったように境界線など引かないで、共振共鳴に全身を投じ、解いてほどけて行く世界に近づきたいと思った。
ゆっくりと、じーっくりと
1つのアーサナに呼吸を5つ
今までの先生たちの言葉が
自動再生されて行った。
お腹の底まで息をまで吐き切って、、
両手両足で大地を引き裂く、、
天界から1本の糸で吊られて、、
足の裏全体で床を押し返す、、
アーサナと共に聞こえて来る、様々な場面で受け継いだ声を思い出しながら、大きな世界との繋がリを感じていた。
私だけのヨガではない。
私だけの感覚ではない。
私だけの世界ではないんだと。
「これが私」と仕切っていた境界線を越えて、エネルギーが流れる。頑張らなくても、ひとりでに加速する。一人なのに、一人じゃない感覚。
不思議、不思議!笑
鼓動も呼吸も視界も生き返り、終わったその瞬間、3日間見てなかった日光が窓から差し込んだ。本当に、うまく出来ている。
こんなに歴然とシンクロし続ける世界に、普段は気づけず心配顔な私。晩ご飯どうしよう、夫の休みが少ない、病院行きづらい、将来どうなるの、コロナは、日本は、インドは、、、と。変な趣味。笑
最善を尽くして
ニコニコ笑っている以外、
全く何も出来ないのにね。
あとは世界がどうにかしてくれる。
本当に。
こんな天国に生まれたことを
いい加減手放しで喜びなさいと
最近はあの手この手で
誰かが教えに来てくれている。笑
Ong Namo by Snatam Kaur. ヨガの先生に教わった一曲。ヨガ(シャバーサナ)、瞑想、浄化に✨
数日、雨がパラついたり風が吹いたり。
洗濯物が3日間ほど乾かない季節。湿気が多いと呼吸も浅くなりがち。こんな日に「ゆっくりしよう」なんて思うと、循環不足と浮腫みに負けてしまう。昨日はヨガが出来ず、夜ご飯もオーダー。たまにはお店のガーリックナーンも食べたいし。
動きたいように動けないご時世でもあるので、そんな時は不必要な位「よいしょ!よいしょ!」と家事にエネルギーを注ぐ。洗濯機も掃除機もなくても、その方が良かったと思う中年期。
ご近所の主婦も働き者。晴れ間を瞬時に見計らう名人や(お向かいのラプンツェル女史)、共有ベランダの手すりを占拠すべく、多分朝食前からずらーっと洗濯物を並べる強者も。
ヨチヨチの子供たちはお父さんたちが自分の爪を切りながら構ってる。ザ・共同生活。私には出来ない技の数々が興味深い。
浮腫みゾンビから回復し、昨晩はプラナヤーマをいくつか。カパラバティが必要だったようで、循環も少し戻すことが出来た。呼吸に意識を置くプラナヤーマは、忙しない思考にも邪魔されず心身をスッキリさせることができる。
今日は午後3時半に瞑想。いつもの朝でも夕方でもないのは、ちょっとしたアクシデントで。。
「やりかけの事をやってしまおう」と、壊れたままの物を直したり、使っていなかった道具を使うように細々と動いているんだけど。
。。ある部品を瞬間接着剤で付けていたら、誤って左の親指と人差し指がくっついてしまって。その形が瞑想の時のムドラ(手印)そのもので、せっかくなのでそのまま瞑想することにした。
今朝たまたまプレイヤーでかかっていた曲が素晴らしかったので、その曲をかけながら。いつもはお祭りの時にしか灯さないディヤを、自分のために灯した。
結果。今まで意識する事の少なかった
第一チャクラに、命の息吹が届いた感じがあった。
"Hare Krishna" by Hanumen. この曲はすごい共鳴力。美しい!
20分ほど、肚と肺の両方を使ってゆっくりと呼吸し、吸う息で登頂部・吐く息で座部へとエネルギーが通うイメージのクリヤ・プラナヤーマを練習していた。かけてる曲が感動的だなぁと、感情が共鳴するのを感じつつ流しつつ。
私は第七チャクラの方が通る感覚があるけど、第一チャクラは苦手で未知の怖さがある。これがまた、見事に占星図と一致しているのだけど(一室ラフー・七室ケトゥー)。
でも場の共鳴と共に呼吸がいつもより深くなって行き、今回は第一チャクラに気が通り大地に根を伸ばす感覚が。
共振するエネルギーは、ハートの辺りを上る時グンと拡大し、喉を拡張して眉間に力を入れさせ、ようやく天に抜けて行く。
そして空から戻る白い光が身体の中心を通り、第一チャクラまで共振して行った。その後はしばらく、嗚咽と涙が溢れるままにしていた。
滞ったエネルギーの出現。
冷静な部分では、そんな風に見えている。その間も気を抜くと思考や感情が、その現象にストーリーや名前を与えたがるのも分かる。
(仕方のない我慢)を(自分で蓋をしたブロック)が(解錠して)(慰められている)とか何とか。しかしそんな定義をしている暇なく、エネルギーは溢れ続けた。
それがいつの何かなんて、どうでも良いことのようだった。
このエネルギーを喩えるなら
「compassion」そのもので、
力強く私を震わせて
涙と嗚咽を押し流すように
溢れ出て止まらなかった。
大きな優しさに触れた時のようだった。オーラのある人に出会うと、共鳴して涙が出ることがあるけど(ダライ・ラマ14世にお会いした瞬間ドワーっとなった笑)、それと似ていた。
それから第一チャクラって地の意味で感じてたんだけど、ああ、これは過去世のゲートなんだなって感じた途端にまたグワーと上がって来るものが。私じゃないよ。私だけのエネルギーじゃない。って感じ。
嗚咽が出るまで泣いたのって、いつぶりだろう?
そんな風に思った。思いっっきり肚に力が入ってひっくり返る感覚。前の記憶や感覚とリンクして、未解消の何かがケロケロと昇華して行った。何者だったのかも知らないけど。
まぁそんな訳で。
大きくてあったかーい「思いやり」に
ドッカーンと癒された感覚でした。
それで、もうそろそろ終了かな?と、接着剤でくっついる左手を見た瞬間、何と、
パッカーンと、
ムドラが解けて指と指が離れた。。。笑
剥がそうとして色々するより、くっつけといた方が結果良かったのか、やっぱりプラーナが巡ったからなのか、それにしてもすごいタイミングで笑えた。
第一チャクラ。
弱いんだよね元々。一室ラフーだし。子宮に来てばかり。過去生からの、という見方も占星術にはあって、「そう言われてもどうしたら。。?」と思ってたけど、そういうことか。
求めよ
されば
与えられん。
と言うのを如実に感じるこの頃。もっと言うなら、
求めよ + 行動に移せ、だと思う。
宇宙は、打てば響いてくれる。これぞ量子物理学という感じ。
何を避けているんだろう。
何から逃げてしまっているから、
いつも何となく心に
モヤがかかって感じるのか?
初夢の一件が引っかかっていた。私の思考は、何かから逃げているに違いないという仮定を立て始める。「それ」の正体は一体何者?と、犯人を追求しそうになっていたかもしれない。
まるで「それ」が自分の外側にあって
私にはあまり責任がないかのように。
記憶にない何かなんじゃないかとか。笑

昨日は日曜日。一日中、夫と一緒に過ごすので「普段やってる事はお休み」で、仕方がないと、今まで疑問にも思ってなかった。瞑想に集中なんて出来ないし、ヨガする時間もスペースもないわ、と。
でも、、それ、違ってた。
言い訳まみれだった。。。。
最近寝ている時に感じる怒りや敵意も、自己実現出来ていないモヤモヤの負のエネルギーが満タンだったからかもしれず、現実に漏れて人のせいにするところだったよう。誰と一緒でどこにいても、意思さえあれば、やりたい事のほとんどは出来る。
昨日は、夫が朝食を作ってくれる時間にヨガをして、夫がゲームをする時間に瞑想しながら、あれれ?と勝手に書き換わった思い込み。
瞑想のステキなところは、思考を使うと陥るような、現状や自分責めをすることなく、また自己防衛の開き直りにハマることなく、絡まりがスルスルと勝手に解れて行くこと。
まるで
命は答えを知っているかのように
ちゃんと教えてくれるようで。
普段は感情や思考に囚われているけど。自らの感情と思考を含め、人からどう見られるか、どう見せたいか、どうするべきか、何が正しいか、相手のためには。。。というのは、全て自分の神性の「外側」にある幻想。
悪夢とストレスの原因で、過去生とか呪いとか悪魔とか、よー分からんものを疑ってみる前に、自分で自分のニーズや望みを叶えてあげられているかを問うのがシンプル。
思えば私の今の悩みのほとんどは、インドの下町に住んでいること、インド人家庭に嫁いだこと、プラス長期で日本に帰れないという、環境の激変によるもの。
天地がひっくり返ったような環境に長く身を置いているのに、以前の自分のアイデンティティーなんて崩壊した方が健全なのだ。慣れ親しんだ「私」の姿はもうない。
今のありのままの私しかない。
娯楽に逃げたり、楽しいことをして忘れたり、
人のせいにして当たったりしていたら、
その姿を見ることも、
ありのままの私を生きることも叶わない。

今、書きながら目に滲むのは、悔し涙かな。後悔って、こういう感情なのかな。
大きな夢に何度も破れたり
言葉も文化も何もかも違ってて
そりゃ、色々大変だったけど、
困難に負けっぱなしで
自分らしくあることを諦めるのは
生きた心地がしないもので、
けど、明後日の方向と戦っても
問題をこじらせるだけ。
頑張っても頑張っても、ってやつ。
魂の声を聞いて叶えてあげることしか、
この不毛な戦いをやめる道はないという気がする。
叶えてあげられることは
思っているより沢山ある。
1つ1つで良いから。
どんな変な事でも、良いから。笑

いや、むしろ取るに足りないと放っておいてしまうことや、
前途多難そうなこと、
人に理解されないこと、
今までやって来なかったことを
叶えてあげようと思う。
占星図でも、したいことは人それぞれ。
偽の自己満足で忘れたフリをしても、
やり残したことを、魂は知ってる。
出来なくなる前に。
(と思うのも決して早くはなく)
今日はそんな意識を得たからか、ほとんど開けない上の内窓の掃除をし、古布を切ってウエスを作り、午前中にヨガ。
迷いや停滞が少ないと
時間が有効に使えるみたい。
そして寒さが少し和らぐと、心も柔軟になる。近所の賑やかさも増していた。
1年に四季があるように、人の一生にもバイオリズムがあることを、私も実感できるお年頃。
また、何も出来ないと諦めそうになる季節も来るかもしれない。でも、それは自然なことだ。
命はきっと、終わる瞬間まで生き切ることを止めない。
魂は最後の瞬間までも、やってみたいことを私に伝え続けるんだろう。

葉を落としかけた冬の樹木にも、鮮やかな花が咲く北インド。
2021年。明けましておめでとうございます。
昨年は世界中で大変な事が続き、インドも厳しいロックダウン。ブログの発信がまるで命綱のようでした。
インドの下町が運命共同体だけど、何が起こりどう動くのか。。先の事は全く分からず、ひたすら規則正しい生活を心がけたり。
今思うと多くの自然災害や森林火災も、この人災を予兆していたかのよう。自然破壊や資源の乱用、経済・物質至上主義は終焉を過ぎたと私は感じていて。
ヴェーダの教えでは、25,920年間あるユガと言う4段階のサイクルの中でも、最後の「カリユガ」と呼ばれる無知と罪の時代は終わり、現在は少しずつ知恵を取り戻す三番目の「ドゥワパラユガ」の末の時代。
あと61年ほど、2082年には「トゥレタユガ」という2番目の時代に入る。そこでも人口増加による食料不足などの問題は懸念されるとか。
その次に来る1番目の「サティヤユガ」はゴールデンエイジと呼ばれ、真実と調和の時代なのだそう。つまり、最悪は過ぎたということ。
Sadhu Guruと Isha Foundationよる解説図。(Sadhguru on Yugas (We are in Dwapara Yuga), Significance of 108, Speed of light in Surya Sidhand より。)
ユガとは、太陽系が宇宙の中心近くにある恒星の周りを大きく一周するサイクルだそう。4つの時期に分けている。地球が太陽を一周する時に四季が生じる現象と似ている。
去年は私の日本の仕事はキャンセル、帰国も叶わなかったけど、行き当たりばったりの往復生活は見直すべき時期だったと思う。逃げ場のない中で、これまで何を避けて来たのかをしっかり見て、やりたい事や使命と向き合う努力をする時期。
夫に言わせると「2020年はずっと一緒にいられたね!」と。良くも悪くもね。笑
振り返ると、ずっと許せなかった夫の行動が、今は「どうでも良く」なった。夫の一番好きな部分(おおらかさ)と表裏一体だと気付いて。何より、夫の最善は夫にしか分からない。
私の最善も、私にしか分かってあげられない。
お互いの最善を許すことで、帰るべき場所に帰着した時のような安心感がある。
閉じ込めた心の境界線を、インドは悪気なく踏んでくる。去年も夫の家族や友人ご近所さんが、わざわざ私の心の鏡になってくれて。笑
おかげで今だかつて発揮したことのない感情が復活。それでようやく毎日瞑想する習慣が出来たようなもの。
以前「トラウマ卒業」と書いたけど、まだまだ抑圧した感情や自覚のない在り方と毎日対面している。自らを傷つけるトラウマのループから抜けても、気づきに卒業はないんだよね。
夏にひっぱたいちゃった義弟も、売られた喧嘩を倍返ししてしまった義兄も、驚いたことに全く根に持つことなく普通に接してくれる。それは(インド人=優しい)のではなくて、「悪意を持たない」という教えを守る努力をしているからだと思う。
そしてその道徳は、相手より自身の精神衛生のためらしい(←自分軸最強)。私の真意を伝えるきっかけともなり、強烈に記憶に残る日々になった。
さて昨年末。クリスマスと大晦日は料理三昧。お気に入りのワインも頂き楽しく1年を締めくくることができた。インドの祭事は祈祷がメインで食事はさっさと食べるだけ。しかしさすがに気合いを入れた食卓に夫も何かを察し、文明人ぽく(笑)会話を楽しみ、録画の紅白も見る事ができました。
夫は恒例のオンラインゲームで仲間とお年越し。ここ下町では外で子供が爆竹を鳴らす以外、まるで年末を祝う習慣がない。「爆音に心を乱されずに瞑想を続ける鍛錬」も、酔うと全然効果的じゃないけど、瞑想で終われた2020年に感謝。
元旦は一日中、大気汚染の混じった深い霧の中。どんな初夢かな?と期待していたけど、何とも不快な感覚に目を覚ます。ここ1ヶ月ほど夢がリアルだったり、不快感だけ残ったり。
瞑想を続けると、夢を見ている最中も「これは夢だ」と意識出来るそうだけど、まだそんな段階は遠いよう。
結局、潜在意識下に眠る「怒り」をハッキリ自覚した元旦だった。
それは「敵意」の様な感覚で。
現実には怒る理由はないから、毎朝目覚めると忘れてしまう。でも、寝ながらうなされている。たまに隣で寝ている夫を押しのける事も。夫、理由のない私の敵意の的になっているのか。。
今年の抱負は三次元的な望みより、まずはこの怒りを意識に上げてみることかな。
記憶にないのは幼少期や過去生の感情だからか、それとも現世で力づくで封印したのか。認めたくない過去と、どう対峙しよう。
無意識の闇と、言語化には関係性があると思う。
言霊という概念があるように、なかった事にされて日の目を見ない感情も、意識に上げて言葉で表現することで、行くべき場所に流れ行くように思う。どんな思いも、自分勝手に執着して留めてはいけない。
言葉にすることは私にとって Contemplation(塾考)という瞑想の大切な一手法。なので今年も心と繋がる試みを記して行きたい。
(お見苦しいかなって記事はアップを自粛します。笑)
見えない心の世界に惹かれ続け、20年以上前に出会ったヨガが忘れられずにインドに来て夫と出会い、今は帰国出来ずに瞑想していることを、偶然と思うのはもう止めようと思う。
私の20代はうつ病のグレーな世界の中、外聞を保つことで精一杯だった。医療機関と心理ワーク、カウンセリングは命を救ってくれたと思う。でも、私の魂を救ったのは私自身だったことは確か。
だから何事も自分次第っていう実験は続けて行きたいんだけど、それだけではなくて。
運命の半分は、この大宇宙の神秘の手中にあるのだと思う。私たちが忘れてしまった叡智の中に。この時代、ヨガや瞑想などの内なる神性と繋がる手法の復興と共に、また思い出して行くのかもしれない。
心の扉を開く方法を、秘密にする必要も商売にする必要もない。師から徒へ伝える必要があるのは、確実に継承するためだったそう。今ではオンラインで直の教えは急速に広まり、留まる事のない流れ。
インド占星術を学んでも、自由意志と外界からの作用は「五分五分」という理解に行き着く。
どんな時も、疑ったり希望を失う必要はないことが分かる。巡り巡って思いがけない幸運が与えられる事もある。人間が全てをコントロール出来るという奢りや執着に陥る必要もない。破壊的な因果応報さえ働かなければ。
この世界の環境を破壊し続ければそれなりの見返りが巡って来るのは明らかだ。
だから、もっと環境に優しく、微細な内なる声を聞ける耳を持ちたいし、相手の心からの望みに寄り添うために、それに気づける強さと繊細さ、実践を養える一貫性を持ちたいと願う新年。
手放し。共有し。循環し。
私の苦しみは私だけのものではなく、時代やコミュニティーの共通意識の中で滞っている歩みだ。
解放して行きたい。
私の喜びは私だけのものに留めずに、周りと共鳴出来るのが理想の姿。
分かち合ってみたい。
遊びでも逃避でも商売でもなく
心と繋がる道を歩いて行きたい。
(3次元で食べていく道も!笑)
たとえ短時間でも、5分でも良いから
毎日続けることが大切と言われる瞑想。
尊敬する先生の言葉に甘んじて、今日の瞑想は夕方の10分くらい。
最近定番のオルタナティヴ・ナストラル呼吸法。短時間でも、ゆーーっくり、思う存分に呼吸とプラーナを全身に行き渡らせてあげた後は、寒さで固まった身体の痛みが激減。「気持ち良くなること」も最初は大切なのだとか。ただ、目的は快楽ではない。癒しでもない。幸福でもない。
目覚めて行くこと
そのことしかない。
今日も呼吸をしながら、流れ行く思考や感覚をそのままに感じていた。昨日よりは(気が散る)感覚が多少は減った。嫌ぁな感情も浮上しない。昨日は1つ大きな気づきがあったからかな。自分で蓋をしていた負の感覚と繋がって、命を送ることが出来始めた かなと。
生理が終わりかけなのも関係あるかな。
身体的には、頭がのぼせて呼吸が詰まる感じ、背中の重さと右胸の痛みが気になった。上半身に気が集まり過ぎている。足先の冷えはないけど。
瞑想中に脳裏に現れた映像は、5年前くらいの自分の姿。最近FBで「5 Years Ago Today」って写真が表示されて、それを見たせいかな?働いていた幼稚部から学童部に移動した時で、園児たちにお別れのプレゼントを配ってる写真。お別れは寂しかったけど、充実して幸せそうな顔。
あの頃持っていた物を手放したから、
もう決して戻ることはないから
今の私がある、という事実。
ただそれだけの現象なのだけど、
ずっと歪んだ感傷に浸っていて、
今ある私の貴重さを見ることさえ
出来ていなかったんだと感じた。
時が戻ることなど物理的に、ない。
物事が素早くエキサイティングに展開している時ばかりじゃないから、英気を養い、余力を蓄えることが出来るのに。
思考に絡め取られ情動に流されて、物事を明確に見る努力をしなかったら、事実を(あの頃は良かった)(今は良くない)という不毛な二択に歪めてしまいがちな私。そんなことはないのに。
今の私は、確かにここにいた。
貴重な時間を静かに座っていた。
流されそうで翻弄されそうで、常に動いていなければ許されないと感じていて、でもがむしゃらに頑張ったところで本当に欲しいものは手に入れられないと静かに絶望していた当時。充実した表情の内心で、行き止まりを予感していた。
あれから少しずつ、どんどん手放してここに来た。まるで、手放すしかないことを知っていたんじゃないかと思うくらいに、あの頃手にしていたものは何も残っていない。
生まれ育った国での当たり前、気心の知れた人たち、一緒に頑張った仲間。そして、社会通念に真綿で締められるような閉塞感、暗黙の了解を押し付ける人、どうしても比較してしまう関係からも、自由になった。
未知の不安と闘いながら。笑
まだまだ、道半ばの不安まみれだけど。
あの頃、もう手に入らないと諦めかけていた、本当に欲しかったものは、たった一人の愛する人だったのかもしれない。何度失敗してもどこにも見つからなかったのに、あの頃の夢も理想も手放して、自分と繋がることだけは諦めなかった。
最愛の人は、自分自身。
(それと、私の分身になってくれた夫。笑)
これからも、しがみつこうとする自分の手を何度でも放そうと思う。自分のものにしようとするエゴで曇りたくないと思う。
命の本質に目覚めて行くこと。
病や、老いや、死。人として避けられない苦しみや別れ、失敗や困難、損出を恐れて生きるのは、全く逆の在り方かもしれないと感じ始めている。あらゆる経験をするための命なのかもしれないと 。
何かを得て成功し、喜びや幸せを分かち合うためだけではなくて、失意の時、病の時、老い行く時に、愛という命の本質を分かち合う方法を学ぶのも、この人生なんだと思う。
多くの人の目に弱く見えたとしても
自分を貫ける命でありたい。
失って手放した失意の底で
新たに得る夢もあるのかもしれない。
今朝は5時くらいに起きた。寝る前にパソコンでYouTubeを開いていたらしいんだけど、チベット僧による瞑想のレクチャーが勝手に流れ始め、その音で目が覚めた。
夫を起こさない様にパソコンを閉じると、ちょうど近所の寺院からもお祈りのお経が聞こえる。毎日の祈りの時間。偶然起きたことに乗じて、私も座って座禅をしてみる。
気が散ることこの上ない、という感じ最近の瞑想。ここ1週間半くらいは夢が鮮明過ぎて、情報量に脳が疲れている。火星が魚座に入ったっけ?出生図の月の場所。
クリヤヨガでやる背骨をプラーナが上下するイメージは、生理の時はやらない方が良いと先生が言ってたので、なるべく封印すべく頑張る。オルタナ・ナストラル呼吸法を12回右手でカウント。その後、外から聞こえるお寺のお経の声に合わせ、呼吸が第三の目に集まるイメージング。
夫がすぐ側で寝返りを打つ度に「起こさないかな?」って心配になって集中が途切れる。うまく出来ないやーて思って気がついた。
夫の事、気にし過ぎなんだ私。。。
夫は、家に居る間はずーっと構ってもらいたがるタイプ。気にしてあげないとスネちゃうんじゃないかって、神経使って疲れるの、無駄だよね。
夫を瞑想の(邪魔)にしてしまっているのは、
私だ。
他者のせいにするのを一切やめて行きたい。
昨日ブログで書いた様に、過去の傷ついた自分を迎えに行ってあげたかったけど、集中出来ずに上手く繋がれなかった。
でも、感じていた。辛いなーーって気持ちが、いつも心の何処かに残ってる。それが今は、日本の家族に会えない事、コミュニケーションが取れない事の辛さとリンクして共鳴してしまう。
私、助けを求めているんだって自覚が出来た。最近は何もない時でも日本の家族に電話をするようにしてる。
朝、母からスカイプが来て「インドへは郵便局の航空便が停止してるって。船便も早くて2、3ヶ月、遅くて4、5ヶ月かかって、盗難もあるからお勧め出来ないって言われちゃった」と。荷物に入れてもらう予定だった日本食も流産の時の保険給付の書類も、「お預け」かと思われた。
でも、問い合わせたら返事が来て、デジタル保険申請の対象かもしれないと。海外の入院分もデジタル申請出来るとは、アフラックのHPのどこにも書いてなかったけど。問い合わせてみるものだ。
スキャンして添付するため、流産当時のカルテやレシートを整理していたら、再び蘇る死闘の戦慄!!笑。本当に背筋が凍りつく様な震えを覚える。。カルテの一文字一文字が、当時の私の不安と期待、夢破れた心痛と身体的苦痛の歴史だったなぁと、改めて。
でも、少なくともそう「感じる」ことが出来た今日。
今までこれを感じ切る事が難しかったから、中々保険請求の作業に取りかかれなかったんだ。。(1回目はこの吐き気と悪寒と戦いながらドクターのサインをもらいに行ったのに、その後の記憶が曖昧で、結局どこかに書類を紛失した。)なのに、
「どうしてちゃんと出来ないんだろう?」って、
2年以上も内心ただ責め続けていた。
だって辛かったんだもの。直視出来なくて自然なのかもね。当時の自分は分からなくて、ただただ、無能になってしまったと勘違いし続けて。
悲しみさえ封印するしかなかった。
言葉にも表し様がない気持ち。
それを
お金に替えようだなんて
辛くて苦しくて
癒えてない間は、当然だよね。
過去の私が、応援してくれている。
そんな風に思えたのは、昨日の朝の瞑想が初めて。だからか、今日はカルテや請求書を苦々しさ以外の思いを持って見つめる事が出来たかもしれない。
大きな夢を見た私。
失敗したかもしれないけど
カルテに記された一文字一文字が
私が精一杯闘った証だった。
どんな小さな文字も数字も
本当は忘れることなど出来ない
愛と勇気と希望の証。
悲しみのまま凍結しないで、
あの時の思いを、生きた形にしたいとようやく思えた。
また次の希望に繋げるために。
(デジタル申請、うまく行きますようにーーー!)
懺悔ってすごい字だよね。。多分書けない。
自分で全然気づいてなかった自分の弱さ。コロナのお陰で、自動的にうまく行っていた事に乗っかっていただけだったこと、自分の力では何も出来てなかったことに気付いていて。
私は傲慢だった。
インドの不自由さ、インドの人たちと心を通わせられない事、どんどん孤独になる恐怖に、プリプリ怒っていた救いようのない傲慢。
周りの周波数を雑音としか感じられない日も多かった。周囲の人に歩み寄ることが出来ず、興味を持つ事も難しく、絆を築けなかった。慈善団体で働いてみても、仕事のし方がどうも肌に合わない。完全に扱いにくい奴だった。でもね、無理だった。
だからと言って、何でもない「調子の出ない日」が来る度に、(私は合わないから)(インドは合わないから)なんて普通に頭を巡ったし、
(健康じゃないから)って、普通に考える思考を止められずに、きっと呼吸を浅くして、軽く不安にかられたりして、身体に負担をかけ続けていたと思う。
私は傲慢な奴だ。
ここの人には合わせられない。
でも、その事で苦しみながら生きる意味なんて1秒もないのかもしれないよ?
これって「懺悔」?反省ってのも違う。認めたくなかった弱さ、隠していたい失敗、救いようのない状況を迎えに行って、もういいんだよって言いたい。こんなに寒い冬至の日だからこそ。
私は、健康じゃない。
健康になるためにインドに来て、ヨガを習って瞑想を習って、お肉をやめて化学調味料をやめてお酒をやめて遊び回るのをやめても、まだ、健康じゃない。
若い頃、自暴自棄になっていた時、食べたい物を食べてやりたい事をして会いたい人に会って、それで救われたこともあった事、今はすっかり忘れている。
病気になったり入院したりしなくてはならなかった事を、あの頃の自分のせいにしちゃってるのかもね。
(完全に健康にならないと、楽しんじゃいけない。)そんな風にいつ決めたんだろう?ずっと罰し続けること、いつになったらやめられるんだろう?
周りの誰も頼らずに、信じられずに、助けも借りずに、どうやったら健康になれるんだろう?笑
私は、不安に弱い。
コロナになって先行きが見えなくなって、不安に弱い自分が露呈してきた。瞑想をしないと神経が参ってしまう程、元々不安が強い。ヨガやバドミントンをしないでいると、身体が参ってしまう。
私は、自分を恥じている。
色々な事を恥じて来てしまった。人生、色々起こるものなのに。せっかく乗り越えて来た出来事も、恥にして心の片隅に押し込めてしまう事で、また膿んで来てしまう感じ。。
弱かった自分、戦えなかった自分、負けてしまった自分、無知だった自分、素直になれなかった自分。。。
どうして、あの時のありのままの自分を愛してあげられないんだろう。どうして、乗り越えた自分を誇りに思えないんだろう。
今年の夏至には感謝を書いたのを覚えてる。
今は、懺悔をして悔い改めたい。
置いてきぼりにしてしまった自分のカケラの1つ1つを、迎えに行って拾い集めてみたい。
誰に何を言われたとか思われたとか、社会でどうあるべきとか、親の期待に沿えなかったとか、彼氏や友だちと喧嘩したとか別れたとか、仕事が上手く行かなかったとか、そんな事、もう、どうでもいい。笑
気にし過ぎていたから、もういい。
誰の人生でもないし、誰のせいにも出来ないのだから。
見えなくなってしまった自分の事、分からなくなってしまった人生のこと、上手くやるために責め続けて来た私のこと、本気になって迎えに行って、もう一度ちゃんと一緒に生きてみたい。
冬至の今日は、前に一度書類を紛失してしまった入院保険の請求と、永年ビザ(OCI)の下調べ。日本から航空便が停止しているご時世で前途多難?でも、不思議と過去の自分が応援してくれている気がします。
めっちゃ冷えてるので、今晩はインドカレー作るのサボってデリバリーのターリーだ!
夫オーケーもらえたので、この時間に瞑想します。ウシシ。
昨晩の日食の時間帯、いくつかマントラを唱えていた。
夏にチベット仏教の瞑想を習う前は、私の中でマントラと瞑想は別々のものだった。しかし少しずつ瞑想が定着して来たのか、昨晩はマントラを唱えることで瞑想に入る感覚を得た。
また、プラナヤーマの呼吸法もマントラのリズムに合わせて行うと瞑想に入れるのだという感覚も覚えた。
そうしているうちに最近の寒さで冷え切った身体に、足の裏からムクムクとエネルギーが湧いてくるのを感じたところで、レイキヒーリングを行ってみると、マントラ、呼吸法、瞑想との境がなくなったのを感じた。
昨日の日食には太陽・月・ラーフー・ケートゥの他に水星、金星も近かった。更に木星、土星のコンジャンクションも21日に迫っているので、それぞれの惑星のマントラを唱える。
水星のマントラは暗唱していた。私の出生のアートマ・カルカ(一番度数の高い惑星)が水星なので、覚えてたのかな?
1時間半ばかり同じ部屋でサーダナを行う私に対し、夫はスマホゲームで盛り上がるというシュールな光景。笑。でも、お経を唱えてもお祈りを始めても、いぶかしむどころか自然に好きにさせておいてくれるのは、流石のインド人。日本でやったら「宗教の人」と偏見に遇いそうだ。
音の共振なのか何なのか、やはり呼吸法だけの時よりも足先から身体が温まる効果がテキメン。不思議過ぎて途中何度も自分の足をチェックしてしまった程。サンスクリットの音に込められた振動の不思議。
目には見えない音や空間、普段は感じることのない遠くの星々が、私たちに確かな影響を与えていることは、この世界の全てが繋がっている「空」くうの世界観を仮定すると、自然なことだけれど。
私たちは影響されるだけでなく、影響を与え返す事も出来ると仮定して、実験を続けてみる価値はありそうだと思う。マントラを通じて、空で見守っていてくれる惑星たちにもっと語りかけてみようかな。
昨晩は訃報を聞いた。夫の弟サンニと、夫の幼馴染マヌー。この2人に薬物を勧めて春頃まで一緒につるんでいたらしい人が、交通事故で亡くなったとか。お義母さん情報。(ってお義母さん本来情報通なのに、自分の息子の奇行は見抜けない皮肉。)
何だろう。サンニとマヌーは命拾いしたけど。悲しい結末を急ぐ必要なんてあるんだろうか。。
このところの気付きは、先回りして心配する事の空しさと、先回りして恐れる程にそれが現実化するという体験。
体調を崩すことを恐れて守りに入っていたら、逆にエネルギー不足のような体調不良が長引いたり。このご時世だからと早目にビザ更新を始めたのに、結局は当局とのコミュニケーションがスムーズに行かず期限切れに間に合わず罰金を受けたり。
ちょっと昔のことで言うと、もう薬物や依存症がらみで知人を亡くすまいと心に決めたのに、20年後にまた周囲で薬物依存の問題が起きてたり。
身に覚えのない事も理不尽な事も、心配しようがしなかろうが、起きる時には起きるもの。ただそれだけの事。
私が内心どんなに決心しようが、心配しようが、期待しようが、夢に見ようが、そこにアンカーを据え続けている限りは避けようがない、という様な感覚。しかも、顕在意識ではすっかり忘れてた筈なのにね。
どんな事にも過去からの体験や概念によって、アンカーを据えてはいけないんだという気がする。アンカーを付けて仮定した途端に、そこに向かって定義付けを始め、既成事実を創り続けてしまうような気がする。
期待に沿ったから喜び
期待が外れたから悲しみ
心配が当たったから怒り
不安が的中して絶望する
これだと外の条件に振り回されっ放し。
昔の少女漫画みたいな(かわい気のある)感情移入で生きていたら、自分の意志も命の強さも他人任せで、自分を生きる醍醐味なんて味わえないのだろう。
恐れも期待も両方捨てる。
過去も未来も両方捨てる。
失敗も惨めさも、達成も栄光も捨てる。
瞑想の目的はそこにある。
世界をありのままに見る目を曇らせ、現実を受け入れる能力を削ぎ、今を生きる力を失わせるものから、自由になる。
見えてなかったものが沢山見えてくる気がするけれど、そんな期待も通念も採用せずにいよう。笑
今朝は近所の部屋を見に行って来た。こんな下町らしからぬ、ゲート付き、芝生の庭付き、広い窓とバルコニー付きの物件。今の場所のような大音量の野菜売りの掛け声や犬の喧嘩、子供たちの大声、行き交うオンボロエンジンの騒音もない。きっと夜中の酔っ払いの喧嘩や警察や救急車のサイレンもない。
夢にまで見た条件なのに、急にさみしく感じたりして。笑
結局、部屋自体が狭すぎるので、見送る事になりそう。。。(庭でピクニックやバドミントンも出来るし、広くてキレイな屋上でヨガが出来そうなのに、残念!)
今の狭い上にうるさくて古くてゴチャゴチャした部屋に戻って来て、不思議とホッとしている自分もいた。。でも、この家のエネルギーは圧倒的に他人の物だ。長年大家さん一家がこの下町で築いた歴史。その他人のエネルギーに頼り切っている自分はどうよと思った。
電気のスイッチを入れるのと同じ様に、私のエネルギーを行き渡らせることが必要なんだなって。昨夜のサーダナと同じ様に、自分の中心からエネルギーを流すこと。。。壁にペイントでもしようか?(その前に掃除。笑)
午後は外国人登録書からビザの期限切れの罰金の請求が確定してモヤモヤ。向こうの担当者が休暇で手続きが進まず、めちゃくちゃ時間と労力を取られた上にこっちの落ち度にされて罰金なんて!と、全く納得出来ず何度も問い合わせても同じ結果に。
思わず、同じパンジャーブ州に住むYちゃんに電話相談してしまった。いっぱい話せてめっちゃスッキリ!こんな時期にこんな場所で日本人とインドの悩みを話し合える奇跡に救われた。宝くじ当たるより凄い確率(だってまだお会いしたことないのいに)笑
ま。
インドは、期待してた様な環境じゃなかった。
ちょっと前に夢見てた未来は、来なかった。
でも今ある幸せを味わわない手はない。笑
1つ1つ行動しながら現実を受け入れて、いつも最善を尽くした結果には満足していても良いんだと思った日。






























