何を避けているんだろう。
何から逃げてしまっているから、
いつも何となく心に
モヤがかかって感じるのか?
初夢の一件が引っかかっていた。私の思考は、何かから逃げているに違いないという仮定を立て始める。「それ」の正体は一体何者?と、犯人を追求しそうになっていたかもしれない。
まるで「それ」が自分の外側にあって
私にはあまり責任がないかのように。
記憶にない何かなんじゃないかとか。笑

昨日は日曜日。一日中、夫と一緒に過ごすので「普段やってる事はお休み」で、仕方がないと、今まで疑問にも思ってなかった。瞑想に集中なんて出来ないし、ヨガする時間もスペースもないわ、と。
でも、、それ、違ってた。
言い訳まみれだった。。。。
最近寝ている時に感じる怒りや敵意も、自己実現出来ていないモヤモヤの負のエネルギーが満タンだったからかもしれず、現実に漏れて人のせいにするところだったよう。誰と一緒でどこにいても、意思さえあれば、やりたい事のほとんどは出来る。
昨日は、夫が朝食を作ってくれる時間にヨガをして、夫がゲームをする時間に瞑想しながら、あれれ?と勝手に書き換わった思い込み。
瞑想のステキなところは、思考を使うと陥るような、現状や自分責めをすることなく、また自己防衛の開き直りにハマることなく、絡まりがスルスルと勝手に解れて行くこと。
まるで
命は答えを知っているかのように
ちゃんと教えてくれるようで。
普段は感情や思考に囚われているけど。自らの感情と思考を含め、人からどう見られるか、どう見せたいか、どうするべきか、何が正しいか、相手のためには。。。というのは、全て自分の神性の「外側」にある幻想。
悪夢とストレスの原因で、過去生とか呪いとか悪魔とか、よー分からんものを疑ってみる前に、自分で自分のニーズや望みを叶えてあげられているかを問うのがシンプル。
思えば私の今の悩みのほとんどは、インドの下町に住んでいること、インド人家庭に嫁いだこと、プラス長期で日本に帰れないという、環境の激変によるもの。
天地がひっくり返ったような環境に長く身を置いているのに、以前の自分のアイデンティティーなんて崩壊した方が健全なのだ。慣れ親しんだ「私」の姿はもうない。
今のありのままの私しかない。
娯楽に逃げたり、楽しいことをして忘れたり、
人のせいにして当たったりしていたら、
その姿を見ることも、
ありのままの私を生きることも叶わない。

今、書きながら目に滲むのは、悔し涙かな。後悔って、こういう感情なのかな。
大きな夢に何度も破れたり
言葉も文化も何もかも違ってて
そりゃ、色々大変だったけど、
困難に負けっぱなしで
自分らしくあることを諦めるのは
生きた心地がしないもので、
けど、明後日の方向と戦っても
問題をこじらせるだけ。
頑張っても頑張っても、ってやつ。
魂の声を聞いて叶えてあげることしか、
この不毛な戦いをやめる道はないという気がする。
叶えてあげられることは
思っているより沢山ある。
1つ1つで良いから。
どんな変な事でも、良いから。笑

いや、むしろ取るに足りないと放っておいてしまうことや、
前途多難そうなこと、
人に理解されないこと、
今までやって来なかったことを
叶えてあげようと思う。
占星図でも、したいことは人それぞれ。
偽の自己満足で忘れたフリをしても、
やり残したことを、魂は知ってる。
出来なくなる前に。
(と思うのも決して早くはなく)
今日はそんな意識を得たからか、ほとんど開けない上の内窓の掃除をし、古布を切ってウエスを作り、午前中にヨガ。
迷いや停滞が少ないと
時間が有効に使えるみたい。
そして寒さが少し和らぐと、心も柔軟になる。近所の賑やかさも増していた。
1年に四季があるように、人の一生にもバイオリズムがあることを、私も実感できるお年頃。
また、何も出来ないと諦めそうになる季節も来るかもしれない。でも、それは自然なことだ。
命はきっと、終わる瞬間まで生き切ることを止めない。
魂は最後の瞬間までも、やってみたいことを私に伝え続けるんだろう。

葉を落としかけた冬の樹木にも、鮮やかな花が咲く北インド。