2月後半が例年になく暑く、連日30度越え。からだが混乱気味だったけど、ほどなくして落ち着いた。
寒さが終わって、得した気分。
肩こりも改善し、ついついヨガをさぼってしまう。寒かった台所も快適になり、朝から凝ったものを作りたくなる。夫も早起きになり、毎朝屋上でバドミントン。
瞑想も忘れて、楽観的に明るい未来に思いを馳せたくなるけれど、
瞑想をしないと、やはりクリアではいられない。事実ではない思い込みに囚われていることに気付かないことも多い。
そんなサインを鏡のように見せてくれるのが、周りの人たちや日々の出来事かもしれない。

インドでロックダウンが始まったのが去年の3月。この1年、どんなに日々精神衛生を心がけても、心はやはり孤独だったなと改めて思う。
人との接触が最小限の生活は、不自然なエネルギーの滞りを生み出す。
自覚はないのにネガティブな妄想に絡まっていたり。
さて先週は、大家さんのお嫁さん(バビジ)がふらりと部屋に来た。部屋に来るなんて1年ぶり?
「最近、低血圧でしんどいのよー。あなたヨガの先生だから、良い方法を聞こうと思って」と。
ヨガ師範を取るのにインドに来たと一度話して以来、ずーっとヨガの先生と呼んでくる。笑
聞くとバビジ、太陽礼拝は毎朝、プラナヤーマも毎日していると言う。夕方にはウォーキングも欠かさない。それなのに、「頭の中がうるさくて、余計な事ばかり考えちゃう」と。
やってはいるけど、
うまく行ってない気がするってことか。
それで「プラナヤーマはどうやってるの?」と見せてもらうと、明らかに呼吸のリズムが早くて浅い。そう、この辺の人たち、早すぎる人が多いのだ。
お義母さんもそう、前の職場の人たちもそう。この地域の学校で習うやり方が早過ぎるのかなと思う。太陽礼拝も皆、パッパパッパと浅くやり過ごしている。
私が習ったリズムを見てもらって、必ず息を吐き切る事、彼女の場合は特に吸う事より吐く事を意識した方が良い事などを伝える。
「瞑想にも集中できないのよねー」と彼女。「朝5時に起きて暗い部屋で瞑想するのが辛くて」って。一般の人たちの間ではそれがルールのように言われてるようなんだけど、そんなルールないはず。
「1日5分〜でも良いから、毎日続けると良いみたいよ」と、彼女の常識を否定しない様に言ってみる。気分の良くなる場所があれば、そこで行うと良い。
「私も低血圧だし、お互い頑張ろう」と言うと、バビジに笑顔が戻った。「あなたはセンセイなんだから、低血圧なんて言ってないで、早く教えて稼がないとね!」と。好きにさせてくれ。笑
来た時とは別人のような晴れやかな顔で帰って行ったバビ。お互い本当に久しぶりの会話らしい会話。
5年も住むと多少行き違いはあったけど、大家さん一家もアパートの住人たちも、やっぱり心根の良い人たちなんだなぁと、改めてこみ上げるものがある日だった。
(最初の頃とは違い、口うるさい事言われても聞かないようにしてるし。笑)
でも話すことの少なかったこの1年は、私は隣のゴミが飛んで来たり洗濯物が(風で飛んだだけ)なくなってると、(今度は誰よ?)とすぐキーッとなってたことを振り返った。
マジメに「ソーシャルディスタンス」を心がけようとする程に、誰かしらウチの側のベランダで暇つぶしをしに来るのが気になるし、時間を持て余した子供たちのいたずらも始まる。
雑音もいつも響いてきて、聴覚過敏神経症にでもなったかと疑う程。
もちろん向こうには悪意なんてないし、環境不適応気味なのは私だけで、言わなきゃ分かる由もない。
(相手が〜するべき)なんて、こちらの勝手な期待は通用しないのだなーと、つくづく、今までの自分が正義&常識依存で生きて来てしまったことが思いやられた。
冷静に自分の意見を言って淡々と対処すれば良いものを、ストレートに行かず
(私がインドにお邪魔してるんだから)
(コトバも出来ない身だから)
(こっちのやり方を押し付けるのも)と、
どんどん卑屈になっていく。
そんな思考にパンデミックが重なって、時限爆弾を抱えたようなもの。
異文化の地では、こちらの思いもよらない事が多く起きる。この1年はより一層そう感じた。
その度に堪忍袋の尾が切れ、私自身の健康を害していたのかもと思う。
何が外界で起きているかに関わらず、
私が感じる攻撃的な感情は
私の中に存在しているものだ。
たくさん気が付いてしまって
いっぱい我慢をしてしまって
これ以上呑み込めないほど
呑み込んできたのかもね、私。
裏を返せば気遣いや優しさ、繊細さなのに、良い方の出番が少なかっただけ。
揺れに揺れたこの1年の労を、今は労ってあげたい。
相手のせいにしてカーッとなる時は自分に怒っているのだし、相手を哀れんで同情する時は自分を哀れんでいたりする。
相手をジャッジする時は、ありのままの自分を拒絶していて。
自分の心からのSOS。
認めてあげられられない感情の決壊が
相手の姿を鏡にして起きる時、
否定的な感情が電気ショックの様に
一瞬にして立ち上がってしまう。
トラウマが残ったままの場合も、すぐにトリガーされ追体験してしまう。
制御できずに許してしまうと
事実エネルギー的な変容が起こるので、
理性や知性で覆すことは難しいのだと思う。
嫌なことが起こった時、それがあたかも「相手から来た」ように感じるのだけれど、
自分の中に同じような否定的な感情の火種がなければ、反応すらしないだろう。
(ウチの夫、何に対してもほとんど怒ることがない。普通に反応するだけ。笑)

先日、お昼のパスタを茹でながら気がついた。
例え理屈上、相手に100%非があったとして、それに反応し続けることで結局何か良い事があるんだろうか?と。
(自己防衛本能として発動する面はあるのだろう)
自分を傷つけ相手の信頼を損なうことのダメージが大きすぎる気がした。
でも、↑に気づいても、どこかで聞いて知ってたとしても、自分なりの方法で否定的感情のルーツを辿って認めて行く作業は、その人本人の意志で行う神聖な作業。
そして、そんな作業はやる必要もなく、今生では違う分野にフォーカスしている人はもっと沢山いて、それはそれで素晴らしいのだと言う前提なのだけど。
たかが5分の瞑想が、目覚めないまま彷徨う何十年分もの時間を救済し、
どんなの専門家の意見よりも大切な声を届けてくれることは、私にとっての真実。
素直な心の声のままに
この世界を生きられたら
きっと最高だろうなー。
