障害者雇用を考える
こんにちは、ふじおです。昨日27日に「報道特集」(TBS)で障害者雇用のあり方についての特集があり視聴しました。取り上げられていたのは、SMA(脊髄性筋萎縮症)という全身の筋力が低下する進行性の難病で、顔と手以外の筋肉がほとんど動かせない女性Mさんでした。その罹患者は全国に1000人いると言います。Mさんは介助者なしでは生活ができません。Mさんを介助するのは母親のKさんです。Kさんは「毎日泣いて、何でウチの子がと思いましたが、泣いても24時間しかないし、今この子は生きているんだから、この子がどうしたら生活していく上で、幸せになれるのだろうかと考え方を変えた時に、いろいろなことがプラスになった」と言います。医師に我が子の障害を告げられた親は、多かれ少なかれ、このような思いを持つのではないでしょうか?しかし、このKさんが素晴らしいのは、Mさんの障害を受け入れ、Mさんが生活していくためには、幸せになるためには何が必要かという視点に切り替えたことだと思います。そしてKさんのプラス思考がMさんにも影響を与えることになります。私も精密検査で娘の重度聴覚障害が発覚した際、妻はやはり泣いていましたが、私は聴覚障害があることはどうしようもない現実なのだから、これからは娘の障害と向き合ってどうやったら娘が幸せになれるかを考えていこうと心に誓ったことを思い出します。Kさんは短大2年生の秋に「障害者雇用促進面談会」(44社が参加)に参加しました。当初4社受けるつもりでしたが、「車椅子の人は働ける環境にない」ということで1社しか受けることができなかったと言います。Mさんは「悔しいというか、(健常者と)同じ土俵に立つことができていない」と不満をもらしていました。この面談会では、「車椅子不可」や「身障者用トイレ無し」という条件だったそうです。「障害者雇用促進法」では、法定雇用率を民間企業は2.2%、国や自治体は2.5%と定めています。昨年世間を賑わした行政の障害者雇用の水増し問題は記憶に新しいです。しかし、介助が必要な重度の障害者を企業が雇用するまでの義務は定めていません。グレーです。重度障害者の生活を支える“公的な介護サービス”を通勤や仕事で使用することは、経済活動になるということで使えません。先日の参議院選挙で「れいわ新選組」から2名の重度障害者が当選したというニュースが取り上げられていましたが、彼らも同じ問題が取りざたされています。私は先日ブログに参加レポートを書いた講演会で、福島先生が言われていた「平等」と「公正」の話を思い出します。いくら平等に支援をされていても障害者の状態を考慮した支援でなければ「公正」な支援にはならないということです。障害者にだって「職業選択の自由」は憲法で保障されています。その職業活動をするにあたって公正な支援をすることは国として必要なことだと思うのですが、今後行政はどういった判断をするか静観したいと思います。Mさんにとってもトイレや食事などの生活面が一人では行えません。介助が必要です。障害者が就業するにあたって生活面の介助がネックになるとMさんは述べていました。「健常者を雇用した方が効率が良いというのは解るが、障害者だからこそできること、見えてくる視点があると思うのでつぶさないでほしい」とMさんは訴えていました。幸いMさんは唯一面談を受けた1社から一般枠で採用されました。Mさんを採用したE社は、障害者を採用するのは初めてでしたが昼休憩の1時間のみ介助ヘルパーを配置することにします。1ヶ月が経って、会社側はMさんがどんなサポートを必要としているかをまとめ、社員全員にメールなどで伝えたそうです。こういった取り組みは、民間企業だけでなく、学校でも必要だと思います。特別支援学級の児童一人ひとりの得手不得手を把握し、どうすれば公正な学校生活が送れるのかを考えていただきたいです。E社の社長はMさんを採用したことにあたって、「真の生産性」とは何かを問い質したと言います。Mさんが真摯に仕事に向かう姿を見て、周りの同僚も働く意欲をもって仕事に取り組む時間の生産性は、数値に現れないかもしれないが、職場の雰囲気として豊かに現れれば、障害者を雇用した意味があったとコメントしています。最後にMさんは「何ができて何ができないかは自分が一番解っているから、それを活かせる職はきっとあると思っています。諦めてしまったらそこで全ては終わるから、自分はできるんだという思いでやってきました。やってやれないことはありません」と力強い言葉で締めくくりました。Mさんを取材したプロデューサーは、「職場に介助者が入ることができれば、(障害者が)働けるケースは少なくありません。(行政からの助成は)障害者にとって充分ではありません。障害者の社会進出を制度の壁が阻んでいるし、周囲の健常者の(障害者に対する)意識も大きな壁になっています。生産性や効率性だけで判断するのではなく、多様性の価値を認めることが大事。その視点は健常者自身も生きやすい社会を作ることにもつながる」と取材を振り返っていました。23日のブログにも書きましたが、「各々の多様性を認め合い、健常者も障害者も関係なく、各々が何の違和感もなく普通に生活している社会が訪れることを願ってやみません