今週の闇金ウシジマくん/第481話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第481話/ウシジマくん67

 

 

 

 

 

 

 

 

滑皮から預かった銃をくちにくわえて自殺を図ろうとした丑嶋。たまたまそこに柄崎の母・貴子から連絡があって、それは中止された。

貴子の誕生日ということである。玄関のカギがかかってなかったということで、勝手を知った様子の丑嶋は声をかけつつふつうに家に入ってくる。柄崎の実家は、前回丑嶋が見上げていた団地のようだ。中学生のときの描写だったかな、あのときの柄崎の実家は、狭いけど一軒家だった。しかしあれからかなりの時間がたっている。まあ、柄崎が家を出たタイミングで、なにかの事情で引っ越したのだろう。

家のことなんて些細なことである。丑嶋を迎える柄崎母の見た目は、ヤミ金くんの回想にちらっと出てきた肝っ玉母ちゃんふうのものとは大きく隔たっている。体型・顔、髪質までちがうぞ。どっかでお母ちゃん変わってしまったのか?ともおもえたが、貴子という名前はいかにも貴明の母である。どっか悪いんじゃないのかな。

丑嶋は貴子を「貴子さん」と呼ぶ。プレゼントは電動自転車だ。自転車で坂登るのきついと話していたことを覚えていて用意したものだ。丑嶋は自転車のカギを渡す。貴子は喜んでおり、センスいいとほめつつも、「電気自動車」といい間違えて丑嶋に訂正されている。プレゼントがなんであったかよりも、丑嶋がそうして話を覚えていてくれたことがうれしい感じだ。

 

 

貴子はまだごはんの準備中で、柄崎もきていないから、丑嶋は冷蔵庫からビールをもらって待つことになる。ため息をつきながら、丑嶋がぼんやりテレビを見ているという、なかなかシュールな描写だ。テーブルのうえには『虹よ消えるな』という本が置いてある。調べたら、クリスチャン作家の小川国夫のもののようだ。世代的には古井由吉や黒井千次と同じ「内向の世代」になる。ベランダでタバコを吸いながら丑嶋が眺める景色はのんびりしたものだ。ヤクザにねらわれ、ヤクザをねらえと命令されている男にはなかった日常である。

 

 

17時になって時計のアラームが鳴り出す。貴子はいつも欠かさず相撲をみているので、今日も料理を中断して丑嶋のとなりにやってくるのだ。テレビのはなしになって、普段なにをみているのかと聞かれ、ニュースとドキュメンタリーくらいだと丑嶋はいう。要するに、フィクションはみないということだ。柄崎貴明はキャラ通りに、バラエティーや格闘技の番組が大好きだという。年末は紅白と格闘技でチャンネルの取り合いだと。

相撲が終わって料理の続きをしようと立ち上がる貴子の腰が痛む。このところ肩とか腰とかがひどく痛むということだ。丑嶋が少し考えてほぐしましょうかといって、貴子もいちどは断るが、少し考えてけっきょくやってもらうことにする。丑嶋のマッサージはとても気持ちいいようだ。体系化されていない素人のマッサージは、相手の身体に同期する感覚がないとうまくできない。プレゼントのチョイスといい、やはり丑嶋は「本当に優しいやつ」なのだ。

 

 

そこへ柄崎がやってきて、状況をみてびっくりだ。とりあえず丑嶋に謝るが、別に丑嶋は強制されてやっていたわけではない。よくみると貴子は柄崎の中学生のときのジャージを着ている。冷蔵庫のなかではもったいない病で捨てられない古い食物がにおっている。お金持ちということはないわけだけど、堅実な、素朴な家庭という感じだ。

 

 

丑嶋はなにか楽しそうだ。すき焼きを食べて、だいぶ飲んだあと、貴子は寝てしまう。テーブルの片付けはじぶんがするから、お前は貴子をベッドにつれていってやれと、丑嶋はいう。

柄崎は、この大変なときにお祝いにきてくれたことの礼をいう。母親もうれしそうだった。が、それは丑嶋も同じだ。「俺も」、うれしかったというのである。柄崎なら泣き出しそうな場面だが、吐き気がやってきて、ここはどこだ、洗面所かな、柄崎はゲロゲロ吐き出すのだった。母親を運んで酒がまわっちゃったのかな。

 

 

そこへ、新たな客がまた勝手にドアを開けて入ってくる。戌亥なのであった。プレゼントには花をもってきている。丑嶋としては、微妙な感情だろう。現時点で戌亥の背後に滑皮の気配を感じずにいることは困難だ。それを、この家には持ち込みたくないだろう。

しかし、戌亥としては、真実はわからないとしても、たんじゅんに柄崎に呼ばれ、丑嶋に会いにきた、というだけのことのようだ。気まずさもゼロではないだろう。しかしどうしても行かなければならない。ベランダに出て、毎年来てない、なのになぜ今年だけ来たのだ、という丑嶋に、今日を逃したら二度と丑嶋に会えないような気がしたと、戌亥は応えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

ウシジマくんにあるまじきほのぼの日常回だったが、数え切れないほどの暗号に満ちていて、パニックになりそう。

 

 

柄崎母の激変は、やはり身体の不調と見るべきだろうか。腰や肩が痛いといっているが、まだ自覚がない感じなのかもしれない。しかし、それならそれで、やせましたねとか、そういう感じの描写があってもよさそうだが、たぶん丑嶋はけっこう会っているようなので、身近すぎて丑嶋や柄崎も認識できていないのかもしれない。ほら、いつもいっしょにいるひとより、久しぶりに会ったひとのほうが、体型とか表情の変化に気づいてくれるものじゃないですか。

 

 

今回の日常回は、明らかに、丑嶋とヤクザの関係性に宿るあの緊張感との対比で描かれたものだ。だから、丑嶋にとって柄崎母はどういう存在なのか、ということから見ていかなければならないだろう。細部を忘れて、トータルで読んだときにどういう読後感があるかというと、露骨な聖域感だ。明らかに、この世界は、ヤクザたちとのかかわりがあるあのウシジマの世界とは別なのだ。

 

 

前回までの考察をざっと振り返ろう。丑嶋が自殺をしようとしたのは、ひとことでいえば「奪われないため」である。このまま豹堂殺しを実行したら、仮に成功したとしても豹堂の子分たちに殺されるし、万が一逃げ切ることができたとしても、滑皮が待っている。また、豹堂殺しを断ることもできない。だったら滑皮を殺してしまおうか、とも考えたが、ハブの件からいままでの物語がつながっていることから類推しても、それは問題の解決にならない。このままでは、彼はずっと滑皮の奴隷か、その果てに、意にそわないかたちで命を奪われるか、どちらかしかない。だったら、じぶんの選択として死んでしまえ、というのが、あの衝動的な場面だった。ここで即座に「自殺」という選択肢が出てくるのは、このときの丑嶋がウシジマくんだからである。ふつうに生きていたら、誰にも干渉されない人生というものは考えられない。だが丑嶋は、奪われないために金融業を立ち上げ、「ウシジマくん」になった。裏社会に踏み入り、その最小単位である貨幣の管理を司り、ひとびとの欲望に接続し、なにもかもをひとつの原理、つまり金で解釈することで全能性を獲得してきたのが、ウシジマくんというありかただったのだ。全能である彼には、「迷う」ということがありえない。それは、いってみれば数学の世界のようなものである。ある明瞭な計算式のこたえが、AであるかBであるか、理論的にそこには迷いが生じることはありえないのだ。そんな彼がなぜ迷うのかというと、そのウシジマくんを支える「カウカウファイナンス」におけるかかわりが、彼に人間性をほどこしたからである。柄崎との友情、加納の死、マサルへの不思議な感情、気がかりなうーたん(高田)と小百合、こういうものが、丑嶋に即断をさせないようにしてきたのだ。「ウシジマくん」からすれば、この状況は好ましいものではないわけだが、そもそも「ウシジマくん」は彼らがあって成り立ってきたものなので、必然であるともいえる。数学でいえば、特定のある数字や記号が好きになってしまい、それが出現するたびに、それを残そうとしてしまうような感情が出てくる、みたいなことになるだろうか。

そうした迷いが、間接的に働いて、彼から全能性を奪うとともに、人間性をほどこしていった。「ウシジマくん」として自殺を選ぶことは、論理的には正しい。もしそれを止めるものがあるとすれば、彼を人間たらしめたカウカウにかんけいしたことだろうということは、あの時点でじゅうぶん推測できたことである。

 

 

しかし、じっさいにそこであらわれたのは柄崎母だった。彼女は、丑嶋にとっていったいなんなのだろうか。

ひとつには、前回のハレとケの関係でいうと、丑嶋にとっての「ケ」はうーたんであり、それは母親の象徴なのであるから、柄崎を経由するしかたで、貴子に母の面影を見ているということである。じっさい、そういうぶぶんはあるだろう。だがここではもう少しつっこんでみよう。それは、柄崎母は、あのヤミ金くんの回想の時代、中学生の、カウカウ以前どころか、三蔵以前の、あの無垢な時代の表象だという見立てである。

 

 

柄崎家の聖域感は、丑嶋が体感しているひりひりした現実とはまったくちがう時間の流れ方の感覚からきているものだろう。ベランダから眺める景色からしても、あそこではずいぶん時間がゆっくり流れているのだ。テレビにしてもそうである。丑嶋は、ウシジマくんらしく、フィクションの要素を含まない、ニュースやドキュメンタリーしか見ないという。そのいっぽうで貴子は、いつからやっているのだか、いつも同じ時間にやっている相撲を見ている。相撲中継は、どんな時代でもやっていた番組なのだ。

そうした時間感覚のずれが、なにかあの世界を別の空間であるように感じさせるのだ。丑嶋も戌亥も、小学生の男の子が友達のうちにあがりこむように、勝手にドアを開けて家に入ってくる。彼らは、訪れるにあたって、ブザーを押したりノックをしたりしたのだろうか。もししたのであれば貴子には聞こえなかったということになるだろうが、どうもしていないような感じがする。とっくに家を出た兄弟とかが、普段そこに住んでいるわけではなくても、実家に帰ってきたときはなんの合図もなくドアをがちゃがちゃやって入ってくるというのは、よく見る光景だ。あれと同じものがここからは感じられるのだ。

そして、やはりあの柄崎のジャージだ。まあ、出来事としてはよくあることだろうが、丑嶋が転入してきたのが中2の冬なので、中3といえば、丑嶋が三蔵を砕いた直後のことだ。冷蔵庫のなかには古い食物が忘れるのを惜しまれるかのように残っている。貴子は、まだ丑嶋が「ウシジマくん」ではなかったあの無垢な時代に取り残されるようにして生きているのである。構図としては、その「無垢な時代」に、みんなしていつもどおり無断で入ってきているというようなところなのだ。

 

 

そして、その母親が弱っている。見た目の激変が身体の不調のせいではないとしても、貴子は明らかに疲れきっており、あちこち痛がって、テーブルの上にはクリスチャン作家の本が置かれている。これは、丑嶋だけでなく、柄崎や戌亥にとっての「無垢な時代」が、ノンフィクションのリアリティに侵食され、気息奄々になっている、ということなのではないかとおもわれるのだ。事実、丑嶋は、「ウシジマくん」の原理にしたがって自殺しようとしたが、そのときに、迷いをもたらしたカウカウのことや、そこに至る足場となったかもしれない、その無垢な時代のことなど、少しも思い出さなかったのだ。出てきたものは、その「ウシジマくん」としての突出とバランスをとるように、金を経由した統一的な原理の外側に置かれた竹本優希である。

丑嶋は金を経由して世界を一元的に解釈してきたが、これは後天的なロゴスである。最初から、そうした統一的な目線で世界を見るということはふつうない。世界はもっとごちゃごちゃ混乱しているからだ。つまり、迷いという点でいえば、どうすべきか即座に判断できない、という状況のほうが、自然の姿により近いのである。

これが、ロゴスに制御された視点が生むしがらみによって、忘れ去られようとしている。今日が誕生日であることは、貴子が生まれたときから決まっていたことではあるが、まるで貴子はそのことがわかっていたかのように、「ウシジマくん」としてこの世を去ろうとした丑嶋を止めたのである。

 

 

もうひとつ、貴子との描写で感じたことは、異様な親密さである。これは、異様といっていいだろう。closeというよりintimateな親密さだ。どこか性的なニュアンスが感じ取れるのである。しかし、それはごく微妙なもので、そこには不思議と不道徳な雰囲気はないのだ。それはちょうど、エディプス・コンプレックスにおいて、対父親のなかで感じる、母親との親密圏の内側のようなのだ。

幼児は、母親との強い結びつきを感じているが、その実現と維持が不可能であるということを、父親の存在によって知る。父親は圧倒的な強者であり、去勢不安から、これを排除することは不可能と判断され、幼児は父親を内面化して取り込み、超自我、良心とするのである。このはなしはいやというほどしてきたので、またかという感じかもしれないが、しかし、このことと、丑嶋と滑皮が父親を抑圧して分岐した、というはなしとをむすびつけてはこなかったので、そこのところを深めてみよう。ふたりは、車のなかからタバコの煙を締め出すようにして、父の記憶を抑圧している。だが、抑圧されたものは必ずかたちを返って回帰する。それが、滑皮では「父子の構造の肯定」であり、丑嶋では「父子の構造の否定」なのではないか、というのがいままでの読みだった。では、その抑圧された父のイメージは、エディプス・コンプレックスの局面においてどのようにあつかわれるべきだろうか。滑皮も、おそらく丑嶋も、父親は脅威だったはずである。対母親の関係の前で、これは排除すべき対象だった。ふつうは、たとえばこれを倒すのではなくなろうとすることによって、内面化が果たされる。しかしどうだろう、彼らでは、超自我の成立は保留されてしまったのではないだろうか。滑皮の場合では、内面化すべき父のためにとってある空白を埋めるために、その生はヤクザの擬似家族に向かっていったのではないかと、こんなことが浮かんできたのだ。

そして丑嶋である。彼の場合は滑皮より情報が少ないのだが、奪う側である父親の存在は、脅威である以前に拒否の対象であり、丑嶋のなかにその母親との親密圏へのあこがれだけが残されたとしたらどうなるだろう。彼は、本来超自我としてセッティングされるはずの「父親の視座」をもたず、そこに、自力で「お金の原理」を組み込んだのだ。なぜなら、彼において父子の構造は否定すべきものであり、だとするなら、良心は通常とは別のかたちをとらなければならなくなるからである。

そうした奇妙なしかたでとりあえずは仕上がった丑嶋の内面で、母親との親密圏は、父の目線を通した相対化をされることがない。まるで幼児の感覚そのままであるように、無垢なものとして保存されたのである。

その表現の場所が、とりあえずはうーたんだった。「お金の原理」は、幼児期の「母親との親密圏」をそのままに保存するために組み込まれたものなのであるから、それが表現される場所が丑嶋には必要だったのだ。この意味で、うーたんは「ウシジマくん」の癒しなのではなかった。「ウシジマくん」が、うーたんのために存在していたのである。

このことは彼の「プレゼント」と「マッサージの上手さ」からも見て取れるかもしれない。たんに優しいだけではない、丑嶋の無意識の世界では、「母親との親密圏」はむかしのまま保存されている。むかしのまま、とは、快/不快の分節がなされる以前の、大洋的な認識だ。この世界において他者は存在しない。乳児は母親の感情を感じ取るという。それは、じぶんと母親との区別がないからだ。そうしたなかで、丑嶋は、貴子に必要なものを適切に選び、彼女の身体に同期して上手にマッサージをすることができるのである。

 

 

こうしたありかたは、「通常」といういいかたを用いるのであれば、ふつうではない、歪んだものかもしれない。だが、げんに彼はそうした自我によって動いている。この親密圏における貴子は、「貴子」という個人なのではなく、「母親」という象徴だ。そして、そこに無断でやってくるのが柄崎や戌亥である。この世界が、竹本のいっていたものなのかもしれない。そこに柄崎たちは住んでいるのであり、カウカウとのかかわりが、無意識下に封印されていた彼の本当の優しさを立ち上げたたのだとすれば、以後のポイントはここになってくる。「ウシジマくん」であることは目的なのではなく、この親密圏を保持するための手段なのであった。もし丑嶋がここに思い至ることができれば、自殺は回避できる。彼はそれを忘れているだけなのである。

 

 

noteに真鍋昌平論を書きました!

ブログとは異なったアプローチで書いてるので、超長いですが、よろしくお願いします。

https://note.mu/tsucchini2/n/na149bc1d8aca