第12話/VSサンドバッグ
重量挙げの世界記録重量のバーベルを首投げする二代目・野見宿禰。この行為のすごさは、たんに重いものを投げ飛ばすのではなく、完全にコントロールしたうえで、地面に接する直前に止めていることである。ポテンシャルエネルギーをまったく動作に使わないのだ。
宿禰はこれを「首捻り」と呼ぶが、いまは「合掌捻り」かといいなおす。調べてみたが、「合掌捻り」も、禁じ手ということではないようだ。「首捻り」や「合掌捻り」という語が指す意味が、現代人とスクネでは異なっているのか、あるいは、危ないから使いこなせるひとが少ないとか、そんな意味かもしれない。人間(ひと)には使えない技だというのだ。
加納が、ではそれはなんのための、誰に使う技なのかと問う。そこで思案したスクネは、神を、あるいはわたしを脅かした者に使用するという。ふつうに読めば、「神を脅かした者」と「わたしを脅かした者」に使用するということで、神の守護者として当然のふるまいであるが、「神を・・・」といっているときのスクネはどこか遠い目をしており、なぜだか、この技が神に使用されるもののようにもおもえたのだった。少なくとも、神が現前する段階において使用されるレベルの技だということはまちがいないだろう。
光成たち3人が次の道場に移動する。そこには天井から吊るされた240キロのサンドバッグがある。廻しはつけていないが、スクネならどうするか、ということだ。加納はわくわくしてしかたない。蹴り技のある格闘技の道場に設置されているような馬鹿でかいやつがたしか120キロである。死刑囚篇で加藤が入ってたやつがたぶんそのくらい。ボクシングとかだともうちょっと短くて軽いだろう。240キロもあったら、通常の格闘家ではほとんど部位鍛錬みたいな稽古になってしまいそう。範馬一族やオリバとかだったらともかく、光成の家でこんなものを誰が使うのだろう、とおもったが、光成は試し割り大好きだから、こんなときのために特注させてあったのだろう。
サンドバッグに向き合ったスクネが、廻しがなくても相撲はとれるといってこれに抱きつく。廻しところかひとがいなくても相撲がとれるひとだからそれはそうなのだが、要するに光成は、スクネの技量、腕力というより、相撲の普遍性を確かめているような感じなのだ。特定の訓練に特化したバーベルやサンドバッグの歪さこそ、そうした表現にふさわしい、というはなしなのだろう。
ちょっと危なくなる、とスクネはいう。そして、表面に当てた指をそのまま食い込ませ、強く握りこんで「廻し」をつくってしまう。そして、そのまま強く抱きこむ。「鯖折り」ということだ。エドモンド本田がやってたやつですよね。
まあふつうに考えてスクネレベルのちからの持ち主にこんなものが多少なりとも手応えを与えるはずもない。そのままサンドバッグは爆発、詰め物が盛大に飛び散る。そこへ、器物破損は犯罪だと指摘するものがあらわれる。廻しをつけたオリバなのであった。
つづく。
オリバは、身長はそれほどないのだけど、やはりそれに比較したときの筋量がふつうではなく、遠目からの着衣だと肥満に見えるほどである。あそこまで量に特化したキャラでありながら具体的な数字はあまりないのだが、作中ではゲバル戦で、「180センチ余りの身長に人類史に例を見ない150キロを超える筋肉の搭載」という貴重な描写がある。バキのキャラでは花山が190.5センチの166キロということでバランスを崩しているが、花山はかなり特殊と見ていいだろう。たぶん彼のこの設定は、筋肉の密度ということを意識した結果だろう。以下ウィキ情報になるが、オリバとからだのラインには似たところのある愚地独歩が178センチ110キロである。烈が176センチ106キロ。愚地克巳が186.5センチ116キロ。ジャックが193センチ116キロ(すべて最大トーナメント時)。身長がはっきりわかる人物で、花山を除いて最大クラス、かつそれなりの強者であるとおもわれるガーレンで200センチ169キロだ。あれ、ガーレンもまあまあ重いんだな。ちなみに、実在の格闘家では、ミルコ・クロコップが188センチ110キロ。ガーレンのモデルであるアレクサンドル・カレリンが191センチ130キロ、千代の富士が183センチ126キロである。
ともかく大きいというか太いという印象のオリバだが、しばらくスクネを見たあとだとずいぶんスマート見える。それはやっぱり、「合理性」のあらわれだろう。トレーニング描写がほとんどないのでイメージこみのはなしだが、オリバの行っているトレーニングはやはりボディビルダーのものにかなり近いだろう。プレートだけではもはや満足できず、ヘリコプターを引っ張ったりとか、本人いわくいろいろやっているようではあるが、トレーニングの思想の根底にあるのは、ウェイトトレーニングであるとおもわれるのだ。といっても、ボディビルダーのトレーニングはまずなにより審美面に向かっているので、特殊といえば特殊である。筋トレの理論は日々進化しており、“現在ではそういうことになっている”という以上のことはいえないのだが、たとえばもしパワーアップを目的にするのであれば、じぶんが持ち上げることのできる最大の重量を1回あげる、という方向性になる。しかしボディビルダーは、美しく大きい筋肉を求める。そしてこれは、パワーアップの筋肉では得られない。得られないというか、より効率のよい方法がある。それが、例の、最大重量の80パーセントくらいを8~12回というやつである。
オリバは「パワーのひと」であるから、当然、最大重量更新のようなことにも取り組んでいるだろう。と同時に、前にも書いたが、オリバの動機、初期衝動は、おそらくそこにはない。まあロマンチックな男だから、後付けでそういう物語を付与しているだけとも考えられるが、彼がいうには、あの筋肉は、病気で太ってしまったマリアという恋人を抱きかかえるためのものだったのだ。つまり、初期衝動にはマリアの目線がある。だとすれば、そこに審美的な価値観が加わっていたとしても不思議はない。それが彼をパワー型でありながら審美的、すなわち筋肉愛好者に仕立て上げたのである。そのことが、彼を量と合理性に傾かせた。これは、漫画的な、ステレオタイプなアメリカ人のイメージでもある。彼は、じぶんの筋肉を、昨日より大きく、強く、美しくするために、昨日より重く、昨日より多くのレップ数行っていくのである。くどいようだが、動機がどこにあるかによって、現在の理論では、たとえば高回数が有効であるとはいえなくなってくるわけである。しかしオリバの場合は、ひたすらに筋肉を愛好する、という漠然としたところに落ち着いてもいる。こうしたところで、合理性はトレーニングそれじたいに向いていく。どのように合理的に大きく、強く、美しくするかではなく、どのように昨日より重い重量を、たくさん挙げることができるか、というところに、おそらくは向かっていくのである。
こうした、オリバの根底にある合理性が、彼をむしろスマートにしている可能性はある。無駄がいっさいないのである。しかし、合理性は、西洋の主知主義的な思想が持ち込んだ、ひとつの考え方にすぎない。合理的であることと正しさは、合理性を重視する場所でしか結びつかないのである。
だが、それをいえば、相撲も合理的な進化をとげているだろう。バキたちが疑問におもう相撲の実戦性が想像しにくいのは、そもそも相撲がそちらの方向に進化してはいかなかったからである。相撲は、競技というかなんというか、あの特殊な空間だけで成り立つ文法の内側に、相撲以外の要素をいっさい落としていくようにして洗練されていったのだ。独歩の見解もほぼそのようなところだ。相撲は「特殊」である。ふつう、定義のうえでは、「特殊」と「普遍」は交わらない。けれども、長い年月によって洗練されていったその技術が弱いわけはない、というのが、独歩の考えである。
スクネが前回と今回で示したのも、要するにそういうことだ。光成やオリバは廻しにこだわっているが、じじつ、全裸に廻しだけしめて組むというのは、非常に特殊な状況である。スクネは、それがなくても相撲の技は有効だということを示したのである。サンドバッグの「危ない」のくだりは、廻しなしで組むとしたらああやってやるしかないのだから、危ないということだろう。
だがオリバは廻しをつけている。文字通り、相手の土俵にのるということだろう。オリバのばあい、能力がちからに特化しているぶん、とりわけてじぶんに声がかかるということは相手がパワー型であるということがたやすく推測できる。それが、あの看守に向けた八つ当たりになるわけだが、オリバとしては、網羅的な筋力にかんしてはじっさいかなりの自負があるだろう。バキに打ち負けて、勇次郎に手四つで組み伏されても、総合的な筋力にはいまだにかなりの自信をもっているはずだ。そして、総合的な筋力となると、やはり相撲のように押し合うか、綱引きのようなことがぴったりだろう。オリバは、じぶんの能力にかけても、この誘いを断るわけにはいかず、なおかつ、廻しをしめるくらいのことはしなければならなかったのである。
こうみると、オリバもスクネも、特殊を普遍にまで高めた人物であるということがわかる。オリバは、ただの筋力愛好を、じっさいのパワーファイトに転用し、スクネは、限定的な相撲の技術がじっさいには状況を選ばないということを示したのだ。それが一周して相撲という特殊に返っていくというのは興味深い。もしふたりがほんとうに相撲をとるなら、そこで試されるのはふたりの能力というより、相撲の技術体系やルールのふところの深さということになるだろう。普遍にまで高められた特殊な技術が、相応のちからを発揮しなければ、ルールとしては不完全ということになるからだ。
今週ほかに気になるところといえば「神」だろうか。そもそもスクネが普段なにをして暮らしているのか、神事といっても具体的にどういう職掌なのかさっぱりわからないので、「神」といっても漠然としているが、じっさい、漠然としているのだろう。前回の考察も含めて、これはたぶん「善」のことである。スクネの出現は勇次郎の消息にかかわってのことだというはなしだが、おもえばかつて本部は勇次郎を「神」と呼んだのだった。「この世界の神」だったかな。とすれば邪神だろう。スクネの出現は、これに対抗するものか、あるいは、勇次郎がずいぶん丸くなって「邪」の要素を落としたことで存在可能になったか、どちらかによるものと考えられるのだ。
ところでこの勇次郎における「邪」だが、これと彼が最強であることは、無関係ではないが、制御可能なことのはずだ。というようなことを前回書いた。それが、郭海皇が勇次郎との最初の会話で指摘したことだ。勇次郎は、あふれでる破壊衝動をおさえることができない、その意味で、「ひと」として弱いと。しかし、本当に、「最強者」が「邪神」でないということはありえるのだろうか。とりわけ板垣作品では、強さとはわがままを通すちから、という哲学がある。原理としてはそうなのかもしれないが、それをじっさいに行使し、実現するものがあらわれたとき、そのものは必ず「邪」になってしまわないだろうか。現在の勇次郎は親子喧嘩もあって以前よりずっと丸くなっているし、もうただひとりの地上最強ではない。バキとはあんな結末になったし、武蔵、ピクルといった、勇次郎に匹敵しうるキャラも出た。現実問題彼に完勝できるものはいないかもしれないが、むかしのようなダントツの絶対者でもなくなっている。こういう状況で、バキ世界の至高の価値は、ちょっとずつ勇次郎から離れていった。「最高に価値のあるありよう」が、以前までは勇次郎とかなりぴったり合致していたのが、バキが実力をつけ、強者があらわれるごとに、ちょっとずつずれていったのだ。もはや勇次郎は至高ではない。だからこそ、スクネが登場する余地が生まれた、というのが僕の考えである。わがままを押し通し、結果邪になることが至高とされる世界で、正義が息づく余地はなかったのである。
こう考えると、板垣作品に一貫してあった「強さとはわがままを押し通すちから」ということを、スクネは相対化するものとおもわれる。これはかなり期待できる試みではないだろうか。
※noteに板垣恵介論を書きました!
作品より作家よりの批評です。250円。よろしくお願いします。
https://note.mu/tsucchini2/n/n75994596ae92
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