以下noteでも全文公開で同一の投稿をしています。
最近ひっかかっているのは、一人称をなににするべきなのかということだ。
一人称というのは書き手にとっての書き手じしんを指す呼び名であって、要するに「僕」のことだ。ぼくはこれまで、小説も評論もこのような日記的なものも、書き物という書き物はすべて「僕」という語で書くようにしてきた。深い意味などない。くわしくは覚えていないが、ただたんに、村上春樹が好きで、一人称小説を書き始めたら気づかないうちにそれを選択していただけのことかとおもう。(まだ「小説」と呼べるようなしろものではない、いわば黒歴史的なものとして、小学生のときに書いていたようなものは、だいたい三人称小説だったとおもう)
しかし最近どうもこれが気に入らなくて、お気づきのかたもおられるかもしれないが、このごろの書き物でぼくは「ぼく」というひらがなの語を使い始めている。「僕」の、なにかこう、こりっとした硬度の存在感がうっとうしくて、シュウマイのうえのグリーンピースのような、耳たぶのなかの小石のような、異物感というほどでもない、よけいな調子を感じてしまうのである。
さりとて「ぼく」を気に入っているということでもない。意味的には「僕」と変わらずに、語のこわばりだけをほどいて横に開いている感覚で、解決のようでもあるが、これはこれで、「僕」の「ぼく感」のようなものが誇張される結果となって、別の問題が発生してもいる。一種の若作りとでもいうか、客観性を欠いたままただ流行だけを寄せ集めてコーディネートしているおじさんのような物悲しさが感じられてしまうのである。
しかしこれは考えすぎかもしれない。というのは、ぼくがすんなり「僕」から「ぼく」へ移行したのは、たとえば東浩紀のような、いくつかの「ぼく」使用者を目にしたからだ。そのひとたちの文章からは、別にそうしたことは感じられない。しかし、よくよく考えると、ぼくはそうしたひとたちがじぶんのことをなんと書いていたか改めて調べてみるまで、わからなかったりしたのである。つまり、人称代名詞というものは、代名詞である以上、それじたいではないのであるから、そこに存在感が宿ってしまうのはあまり好ましくない、それどころかどの語が使われていたか読者が思い出せないくらいのほうが自然なのではないかと、こういうふうに考え始めたのだ。村上春樹が『アフターダーク』より前までずっと「僕」を使ってきたこと、そしてそれ以降さまざまな呼び名に挑戦していることは、深い読者ならよく知っていることであるが、それは、村上春樹の小説というものが、意識の底に沈み込んでいくような、「僕」やそれを構成するものと対決するような作風だからこそだろう。だから、村上春樹が「僕」を使い、また使わなくなったことをだれもが知ってはいても、その原因は違和感・異物感ではないのである。通常は、なにが使用されていたかもういちど開いてみないとわからない程度であるのがふつうなのではないか。要するに、その文体にふさわしい、溶け込んで見えなくなる人称代名詞があるはずなのである。ぼくのばあい、最近では、noteの自己紹介で、たわむれに「わたくし」という語を使ってみた。その結果、どうしたわけかぜんたいの文体まで変わって、宮沢賢治みたいになってしまった。そのときに、なるほど、じぶんのことをどうやって呼ぶかで、ここまで変わってしまうものなのだな、と気楽に考えたわけだが、事実は少しちがうのかもしれない。じぶんの呼び方がぜんたいの雰囲気を決定する、という言い方は一方的で、おそらくぼくは自然に、「わたくし」が浮き上がらないような言葉遣いを選んでいたのだ。
しかしだとすれば、ぼくは、「僕」を選ぼうと「ぼく」を選ぼうと、適切な文体を採ってこれの異物感を回避しているはずである。しかしそうならない。可能性としては、自己紹介の内容がやや物語ふうであったこともあって根本から普段とおもむきを異にしており、「わたくし」との合致はたまたまである、ということだ。それも考えられないことではないが、書いているときの手応えはそうではなかった。あのときぼくは明らかに、「わたくし」に引っ張られるようにして、文章を是正していたのである。
たぶん、ぼくが「僕」や「ぼく」で書いているときに起こっているのは、こういうことだ。「ぼく」とは、代名詞ではなく、これをいままさに書いている「ぼくという存在」を強く宿したものなのだ。ぼくは、いつも履いているジーンズをなにも考えずに着けるようにして、まず「ぼく」で書き始めてしまう。そのときのぼくにとっては、じっさいのところそれはなんでもいいのである。重要なことは、「ぼくという存在」がこれから即興的に吐き出していこうとしている内容物のほうだからだ。ぼくは、いつも着ているジーンズのことなんか忘れて、上になにを着るか、アクセサリーはつけるか、つけるとしたらなにか、髪型はどのようにするか、こういうことを考え始める。完成したところですぐに外出、ぼくは駅のトイレの鏡の前で、ジーンズが奇妙なアンバランスをかもしだしていることに気がつくのである。だが、ぼくの着こなしのメインは、重ね着したTシャツの色の組み合わせだとか、アクセサリーのチョイスだとか、ひげのかたちだとか、そういうところにある。少なくともぼくはそう考えている。そうしてジーンズのことは忘れ去られ、毎朝「風呂からあがってとりあえず(なにも考えず)ジーンズを履く」という習慣が飽きもせずくりかえされることになるのである。これは、服どうしの組み合わせ、ぜんたいのバランスということを反省せず、「流れる時間のなかで突進しつつあるわたくし」というセルフイメージのなかで書き続ける限り、そしてその“とりあえず”でチョイスされるものがジーンズである限り、偶然を除いて必ず起こってしまうことなのである。ぼくが「わたくし」と書くことで文体が変化したのは、おそらく普段着慣れないシックな着用物を使用したときに生じる緊張感と同じものだろう。そのことで、“とりあえず”はいったん解除されて、ぜんたいのバランスに慎重になることができたのである。
では、そもそもその“とりあえず”をやめればよいのではないかと、こういうことになりそうだが、下手くそながらぼくの文章がそれなりのドライブ感を備えていることについては、「流れる時間のなかで突進しつつあるわたくし」なありようによるところが大きいということは否めないのである。むろん、たとえば小説を投稿したり、あるいはどこかから依頼でもあれば、きちんと推敲していくことになるので、こうした問題は生じないだろうが、この疾走感を保存しつつ浮き上がらない万能な代名詞があるのではないかと、どこかで期待してしまうのだ。
候補としてはほかに、「ボク」「わたし」「わたくし」「私」「おれ」「オレ」「俺」「吾輩」「某」「小生」などがあるだろう。ひらがなで「わたし」「わたくし」と書くことには、じつはあまり抵抗がない。批評などで、わりと普遍的なことを述べるとき、英語のweの翻訳語のつもりで「わたしたち」ということばをよく使ってきたからだ。以前までは「我々」ということばを使っていたが、いうまでもなくこれも村上春樹の影響である。それから抜け出ようとしたというほどでもないが、ぼくの文章にはひらがながふさわしいということもあって、自然とそうなっていった。たぶん、その“自然と”ということが大切なのだろう。また、「僕」や「ぼく」の文体のなかでも、「ほかならぬこの」というようなニュアンスや、あるいは軽い笑いの要素を含めようとするときなど、「わたくし」もよく使っている。わたくしにとって人称代名詞とはその程度のものなのである。
ここまで書いておいてアレだが、文中でどのような人称代名詞が用いられていたかわからないほうが自然だ、ということは、まだ確信があるわけでもなく、理論的な裏づけもない。たぶん、それをどうあつかうかということは、見た目よりも重要な問題かもしれない。特に小説だとそうだろう。あの村上春樹が試行錯誤しているほどの事柄なのだから。したがって、これらの選択肢のなかからなるべく存在感のないものを、というたんじゅんなはなしでもない。つまり、どうすればいいのかまだよくわからないのである。この記事を書いたもっとも大きな理由は、これからそうしたことを実験していくかもしれないということだ。「ぼく」だったり「わたくし」だったり「小生」だったり、呼び方がふわふわ安定しなくても、そういうことかとおもっていただきたいと、こういうおはなしである。