今週の闇金ウシジマくん/第454話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第454話/ウシジマくん40

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最終章ウシジマくんももう40話。ヤクザくんが35話(復讐くんを入れても37話)だったからいつのまにかそれを超えていることになる。

 

 

いちどは逃げ出したが柄崎を人質にとられ、丑嶋は獅子谷甲児に指定された場所に向かうことになった。柄崎はゴミだらけの路地裏に全裸で転がっていて、それを見下ろすように階段のところに甲児が立っている。甲児から連絡を受けたのか、背後には滑皮の車が到着していて、柄崎に接近しようとすれば丑嶋は逃げることができなくなる。現時点ではまだ丑嶋は路地裏に入っていないし、滑皮も車からおりてはいないので、急に動き出して、別の路地に入り、丑嶋は取り立てで熟知しているだろうから、前みたいにかく乱すれば逃げることもできそう。しかしここまできてそうもいかないだろう。

甲児がなにかを思い出し、丑嶋に紙か布でくるんだ小さいものを投げ渡す。柄崎の右耳のようだ。地面に倒れている柄崎のあたまからは血が流れているが、これはどうやら殴られてあたまが割れているとかではなく、耳から出ているもののようだ。

ヒーヒー悲鳴をあげていたと甲児はいう。柄崎もシシック時代から大きく変わった。社長のためにじぶんの舌をかみきろうとするような男である。そりゃあ、カッターとか、あんまりきれない刃でじわじわ切ったらいたくて悲鳴も出るだろうけど、どうだろうな、悲鳴というより絶叫になりそうな気がする。甲児の言い方には悪意があるのだ。

丑嶋の反応は特にないが、これはまあ、ものすごい怒っている感じはある。基本的に三白眼で描かれることが多いとおもうのだけど、怒ったり驚いたりすると上のほうの白目も出ちゃう感じ。

 

 

滑皮が車をおりる。梶尾と鳶田は待たせて、ひとりで丑嶋と対峙するようだ。3億用意しろといわれて、無理です断ってからたぶん1日くらいしかたってないとおもうが、丑嶋としてはやはり会いたくない。しかしもうどうしようもない。

いますぐ金のあるところに案内しろということで、ふたりは行きそうになるが、その前に甲児が付け加える。柄崎が死にそうだから心配だよな、はなしがついたらすぐ連絡しろと。要は、この丑嶋拉致計画は滑皮の指示のもと行われ、じぶんもそのように動いたが、こちらの用ははそれとは別にあるということだ。

 

 

そうして丑嶋の運転で車が動き出す。丑嶋はどこに向かうつもりなのだろう。うしろからは梶尾たちがついてきているようだ。

滑皮は落ち着いたもので、こうしてはなすのは2年前のあの日ぶりだという。あのときは最強タッグが結成されたと興奮したものだが、まさかまたこんなふうに敵対することになるとはね。

丑嶋はとりあえずじぶんは3億なんてもってないというところからはじめる。買いかぶりすぎだと。じっさいどれだけの金があるのかはちょっと見当もつかないが、しかし滑皮としてはこれまで丑嶋がパクってきた金だけでも相当額になるという計算がある。10年前、海老名が隠して戌亥が持っていった獅子谷の3億、それから元ホストくんで鼓舞羅が詐欺で稼いだ金、これも3億だ。とはいっても、お金にしるしがついているわけではない。いってみれば、アウトロー的にはそれだけもうけたというだけのことだ。会社の金として使っているかもしれないし、別のものに形を変えている可能性もある。が、そのようなことはどうでもいい。シシックも鼓舞羅も、猪背とは無関係の事件ではなかった。特に鼓舞羅は熊倉をダメにした張本人である。どういう気持ちの回路かうまく追えないが、それは猪背の金だという考えが滑皮にはあるのかもしれない。

というか、丑嶋からすればなぜそこまで滑皮は知っているのかというはなしである。誰からそのガセネタ聞いたのかと丑嶋はいう。思わせぶりに応える滑皮とのあいだに深い沈黙。もちろん戌亥しかいない。丑嶋だってもうわかっているだろうし、わかっていることを滑皮だってわかっているだろう。しかしここで名前を出しはしないのは、ふたりともなかなか男前である。もし滑皮が最終的に丑嶋を殺す気でいるなら、戌亥の名前を出していたかもしれない。だが、そうではない。うまくはなしが運んで、カウカウが猪背の傘下に入ることになっても、丑嶋と戌亥の関係は続く。滑皮は丑嶋が想像する以上に長期的な目線でものを見ているようである。

 

 

そこで唐突に、お前殺されるぞと、滑皮が言い出す。いまいちばん丑嶋を殺しそうなのは滑皮か甲児だが、ふたりともその気ならとっくに殺しているという。微妙な言い方だが、「殺されるぞ」というどこか他人事っぽい言い方は、たしかに滑皮じしんや甲児によってという感じがしない。続けて丑嶋が、金をとったあとじぶんを殺す気なのかと問うが、滑皮は2年前のことをはなしはじめてこたえをはぐらかす。滑皮の認識では、ふたりでハブのもとに向かうとき、呼び出しがかかって滑皮は鳩山たちのところにいかなければならなくなった。ハブたちが鳩山の愛人を襲った件が伝わり、熊倉からはなしを聞いていなかった鳩山がとりあえずこいと滑皮を呼び出したのである。このあたり、読み返してみたけど、滑皮と丑嶋はふたりで出発したが、丑嶋に待つようにいっておろし、滑皮はその場を去っている。しかし丑嶋は柄崎に車と銃を持ってこさせて、ひとりで出発する。次にふたりが会話をするのはすべてが終わったあとで、なぜか滑皮は丑嶋がアジトに向かったんではないかといっている。しかしすぐ丑嶋が否定し、加納を見捨てたのか、などといっているので、鎌をかけただけなのかもしれない。というか、こうやってみると、滑皮のいってることってほとんどそうなのかも。言葉通りにとってはいけないのだ。

そのアジトでは銃撃戦が行われた。猪背側では熊倉と、ボディガードの福山が殺された。福山というのは、ハブがアジトに彼らを案内したとき最初に瞬殺された彼だろう。そのときの流れ弾が燃料タンクにあたってハブたちも焼死したというのが表層の認識らしい。事件のあと丑嶋と柄崎は沖縄に逃亡。これもまあ、ハブとトラブルになっていたことはたしかなので、行動としては別に不自然ではない。丑嶋が熊倉を殺していなくて、つまりヤクザくんでいっさいひとを殺していなくても、身に危険があることはまちがいないのだ。

その後しばらく、薮蛇と猪背の緊張状態が続いたという。愛人をレイプされた鳩山なんかはいまにも戦争を始めようかという気迫だったが、猪背がトラブルを回避しようと努めたのかもしれない。互いに見舞い金を払うという、つまり金銭の動き的にはなにも起きていないやりとりをすることで幕引きとなり、このはなしはタブーとなった。このときの死体の数が警察の発表では6つだったことはこのブログでも何度か考えた。じっさいの死体は7つ。熊倉、福山、ハブ、家守、獏木、最上、そして加納のはずなのである。仮に6人だったとして、しかし、現場には9人いたと滑皮がはなしはじめる。となると、生きているものが3人いることになる。ひとり目はマサル、二人目は丑嶋だと。なぜ知っているのかというと、事務所にいて動きがとれない滑皮が、梶尾を現場に送っていたのである。そこで、梶尾は瀕死の男をひとり発見した。滑皮はこれを拷問し、戌亥でさえ知らないであろう事件の細部のなにもかもを知ったのである。そしてその男とは獏木なのであった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ツイッターで獏木生存を知ったときは驚いたよ・・・。人数がちがう件は、どう考えてもつじつまが合わないので、その福山が忘れられていて数え間違えてしまったとか、そんなことだとおもっていた。あるいは最上だけ場所がちがったので、見つからずにいたとか。連載のほうでそういう細部のまちがいがあっても単行本では修正されるものだが、それもなかった。いまおもえばこれはあっていたわけである。あるいは、最初は数え間違えだったが、単行本をつくるにあたって、いっそひとり生きていることにしようとしたとか、そんなことかもしれないが、いずれにせよそれは獏木だったわけである。

 

丑嶋はハブを焼いてしまった獏木に2発撃ち込んでいる。今週の獏木をみると、左のおなかのあたりに穴のようなものがみえる。わかりにくいが、もしこれが銃による傷だとすると、丑嶋はあたまとからだをそれぞれに撃ったことになる。最初に腹を撃ち、ひっくり返りはしたが、念のためあたまも撃った、みたいなことだろうか。しかし、丑嶋は別に銃の達人ではない。せいぜい強い打撲という程度にかすって、脳にまでは弾が届かなかったのだ。いろいろたしかめるためにヤクザくんを読み返してみたのだが、丑嶋が獏木を撃ったのはハブの銃である。で、このハブの銃だが、よく考えると、例の整備不良の挿話があるのだ。ハブ組の面々に立体的な人格をほどこすあの車内での会話、あれも、ひょっとするとここにつながるはなしだったのかもしれない。

この件で問題なのは、獏木が「生きてる」なのか「生きていた」なのかということだ。ただでさえ虚実入り混じる滑皮のいうことである。これだけではまだなにもわからない。「殺されるぞ」の流れからすると、獏木は生きている可能性が高い。もし滑皮じしんが丑嶋を殺す気でいたり、あるいは甲児の殺意を感じ取っていたりしたら、殺すぞと脅すか、あるいは「死ぬぞ」というような言い方をしそうな気がする。「殺されるぞ」というのはいかにも他人事だ。ここにいない第三者に殺されるぞといっているのだとすると、これは獏木ということになるのである。しかし、滑皮が獏木を生かしておくかなということもある。鳶田を撃ったのは獏木だし、それでなくても、真相はともかく、熊倉が死んだあの事件に獏木は無関係ではない。まだ情報が出揃わない当時であれば余計だろう。

というわけで、獏木の現状の生死にかんしてはどちらともいえないが、ちょっと前の、タバコをせがむ不良少年のはなしも思い起こされる。飲み込めるものは全部吸収して利用してやるというあれだ。同様にヤクザであっても、ハブと滑皮では方向性がかなりちがう。滑皮は、熊倉の背中を見て育ったので、梶尾たちにもじぶんの背中を見せて育ってもらいたいと願う。しかしハブは、今回ヤクザくんを読み返してみておもったことだが、けっこう感情移入して獏木を育てているようである。獏木が殺さなければいけない相手として肉蝮を抱えていることを、じぶんにとっての丑嶋という瑕疵と相似形のものとして、つまり遠くじぶんの問題としてとらえているのである。ハブと滑皮ではヤクザとしての哲学が異なるのである。しかしあの甲児が丸め込まれているという事実もある。滑皮にはなにかこう、アウトローとしての魔性があるのだ。尊敬とはいわないまでも、丑嶋という目的にかんして獏木もまた丸め込まれてしまっている可能性は(生きているのであれば)高いかもしれない。たぶん滑皮は丑嶋を殺す気はないので、その意味では逆に獏木に生きていられるとまずいということもあるとおもうけど。

 

 

いずれにせよ、獏木が「生きてる」なのか「生きてた」なのかで、特にヤクザくんの読みはだいぶ変わってしまう。いままでなら、ハブとの確執はあそこで決着していた。ハブにかんする読みも、彼らの人生が完結することではじめて可能になる。うちでは毎週先のわからない状態でいろいろ読み込んでいるが、原則的に解釈というものは完結しなければ可能にならない。それは、ディベートでいうと、相手が言い終わる前に持論を言いたくてしかたないものが大声でそれを覆うようなものである。だから、週刊連載に解釈をほどこすときは「かもしれない」が肝要である。また、「そのときはそう読めた」ということも大切にしなければ、個々の読みの価値も薄れてしまう。はなしが進むごとに古い記事が無価値になってしまうのではせっせと毎週書く意味もないだろう。

そういう意味では、ヤクザくんも「そのときはそう読めた」ということで保留し、新しく読み直せばよいというはなしになるが、これはもう少し慎重にならなくてはならないだろう。というのは、ハブは、もし丑嶋を殺すことができて名誉を回復できたら、暴力の経済のなかでもとの価値を復元することになるのかもしれないが、丑嶋はちがうということなのである。仮に獏木が死んだままだとして、しかしハブが丑嶋を殺すことで得られる復元状態を、丑嶋はハブを殺すことで得ることはないのである。これらのことは、滑皮のいう丑嶋の半端さに返っていく。これまでのところの僕の読みでは、滑皮と丑嶋は複雑さをどのように受け止めるかで分岐している。そのタバコの少年が出てきた回で考察したことだが(さっき読み直して思い出した)、両者は父子の関係に対する態度で分岐している。両者ともに車内禁煙であることは、生を「ハレ」と「ケ」に分けたとき、「ハレ」たる現在の生から「ケ」をしめだす意味があったと読み取れた。丑嶋はよくわからないが、滑皮は父親にいい思い出がない。この記憶をタバコの煙に託して抑圧し、しめだすことで、車の中という「ハレ」の環境を保持するのである。通常、抑圧された記憶は病となって回帰することになる。それがどちらも父子の関係を模型的に表現した個々の生き方に反映されている。丑嶋は無意識にマサルに子を見出し、またマサルから父を見出され、滑皮はヤクザ組織にその関係を求めるのである。このようにして、ふたりは原点を同じくするが、観点じたいは異なる。滑皮は、父親にひどい目にあわされたが、父と子の関係じたいは否定しない。悪いのは彼の父という個人なのである。逆に丑嶋は、父を搾取するものとして、関係そのものを嫌う(だからその関係のなかで賦活されるヤクザも嫌い)

ヤクザである滑皮においても、丑嶋が誇張して見出すことになる搾取の関係は見て取れるし、滑皮にも自覚はある。ヤクザの家族関係の擬制は、ただあったかくて優しいだけのものではない。理不尽な要求もされるし、矛盾した命令をダブルバインド的に受け止めなければならないこともある。その点で丑嶋の考えは正しい。しかし滑皮にはそれも「込み」である。そんなことはわかっている、それが組織というものであると。その複雑さ、非論理、身の危険など、なにもかもひっくるめてうけとめたとき、彼らのプライドが完成する。滑皮からすれば、そういうものから逃げて、獅子谷や鼓舞羅の金をパクったように、いいところだけかすめとる丑嶋は、半端ものなのである。

 

 

こうした観点を導入するとどうなるだろう。ハブの件はけりがついた。しかし、現実にはその後2年、丑嶋は逃げていて、帰ってきても危険な連中に追い回されている。甲児のばあいはシシックの事件ということになるが、あれも、けりがついているといえばついている。丑嶋がからんでいるという証拠らしい証拠はなにひとつないのだから。それでいて、甲児は覚悟を決めている。猪背にかんしては、そもそもアウトローだからヤクザからは逃れられないということもあるわけだが、それを抜きにしても、丑嶋には熊倉を殺したという事実がある。彼がそうしたのは、熊倉が加納を殺したからで、それもまたハブの件から分岐したビーフである。身から出たさびといえばそうだが、どれもこれも、けりがついているようでついていない、終わるようで終わらないのだ。ということはつまり、ひょっとすると、これらの件は終わることがないのではないだろうか。

しかし、そうなると、なぜヤクザは暴力の経済のもとのんびり人殺しができるのかというはなしになるが、ここで滑皮にとっての複雑さを取り入れてみよう。つまり、ヤクザにとっては、現状の丑嶋のような、ありとあらゆる確執を背負いこんでいるような状況が、実は常態なのではないだろうかということだ。ハブがもし丑嶋殺害に成功して名誉を回復したとしても、では柄崎はどうするだろう。混乱したマサルが包丁を握らないとも限らない。そういうリスクは、実はヤクザにもある。だが、それは彼らにとってふつうのことである。であるから前景化しない。複雑さを受け止める覚悟を決めた本職にとっては、個々の事件から派生するリスクは通常の業務に含まれているものなのである。

しかし丑嶋はそうではない。獏木が生きていたことはおそらくそれを表象する。もし獏木が生きていればそのまま丑嶋にとっては大きな問題だろうし、そうでないとしても、げんにこうしてなにもかも滑皮に知られてしまっている。リスキーであることを常態として受け止めるか、すべての危険が消滅するまで逃げ続けるか。両者のちがいをつきつめるとこういうところまでいくのであり、獏木はそれを告げるものとして戻ってきたのである。