今週の刃牙道/第187話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第187話/引き出し

 

 

 

 

 

 

 

意識以前、無意識ともいえない、ほとんど予言レベルの読み合いがはじまった。

意識それじたいは複雑に入り組み、ある動作に集中すればするほど、バキでいえば0.5秒の空白は露出しやすくなり、武蔵でいえば動きの起こり、のさらに以前をキャッチするのはたやすくなる。だから、このばあいどうしてもたたかいは膠着しがちになる。勇次郎戦ではじっさいそうなった。そこで勇次郎は、みずから打撃を発射する前にカウントダウンをして、発射に意識を集中させた。しかしそれは、打撃を放つほうもそのタイミングを意識するということでもある。そこで、ふざけてるのか戦術的になのか、勇次郎はふにゃふにゃのパンチを打ち、動揺を誘ったのである(結果虎王をもらうことになったが)

たたかいを膠着させずに攻めるには、端的によく動くことである。バキは武蔵の句を思い出しつつ、相手を惑わすようなフットワークで動き回り、左の突きを放つ。しかし、読んでいたというかなんというか、武蔵はこれをイメージ刀で斬る。なにかが起こったことは観客にも伝わった。彼らにもありありと刀が見えていたわけだから、このリアクションはちょっとへんだが、あたまのどこかに、実在していない刀が振られたからといってなんだ、というような思い込みがあったのかもしれない。本部は武蔵の間合いゼロからの斬撃に驚愕している。たしかに、ふりかぶってるわけでもないし、もしこれがほんとうに刀をもっているていで振っているものなら、おそろしいスピードである。かつて餓狼伝で姫川勉がやっていたことだが、相撲みたいに密着した状態で上段廻し蹴りをきめるようなものだ。

 

 

 

バキにおとずれた実感はほんものである。独歩や渋川など、体験者もこれには共感している。物理的には斬られていない。だが、感覚が、肉体が、斬られたと認めてしまうのである。闘争のダメージという点では、じっさいのところ「だからなんだ」ということになる。しかし、斬られればふつうひとは死ぬか動けなくなるわけだから、この思い込みから解放されるまで、イメージ刀で斬られたものは動けなくなるはずである。斬られたと感じている以上、肉体はみずからを死んだと認識しているにちがいないからである。技術的な高度ではない、戦術としてイメージ刀が有効なのはこれである。停止したバキの腕をがっしりつかみ、武蔵は無造作に膝を股間に差し込むのである。お返しというか、金的がいかに強力か現代にきてはじめて理解した武蔵が、はじめてそれを使用したのだ。

 

 

ふるえながらよろよろ歩くバキを、武蔵がさらにイメージ刀で追撃。バキは武蔵の動作を見てもいないはずだが、攻撃の内容はくっきり届いている。からだが分断され、両手が落ちる感覚まで覚えているようだ。そしてそのすきをついて、今度は武蔵が体当たりをする。ずいぶん無造作な動きに見えるが、相当な威力があるようで、バキは数メートルふっとんでしまった。なんでもない原始的な攻撃に見えたが、凄腕のファイターたちがみんなこれにも驚いている。本部はこれを「引き出し」と形容する。戦国時代、サムライがいりみだれる戦場で、刀はすぐにダメになってしまったはずだ。その現場で、刀がないからもうたたかえませんというわけにはいかない。逃げるのだとしても、とりあえずその場をなんとかする技術はあったはずなのだ。手刀で斬り、突き、目をえぐり、首をしめ、投げる。こういうことをしていたにちがいないのである。「素手の武蔵は強くない」なんてことは、あるはずがなかったのである。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

まあたしかにいわれてみるとそうかもしれない。日にちの決まった1対1の決闘ならともかく、混乱した戦場で生き延びようとしたら、戦術の条件が狭ければ狭いほど、それは困難になる。武蔵が素手になると弱いなんてことは、冷静に考えるとありえなかったのだ。

しかし、武蔵が素手もいけることは前からわかっていた。この素手という状態にイメージ刀は含まれないとおもうが、ただの腕力だけにはなしを限っても、たとえば握力で花山に勝つことはできなくても、それなりにやることはできたわけである。ただ、本部はこれを「引き出し」と呼ぶ。つまり、本部はこれを技術的なものとして認識している感じがあるのである。どういうことかというと、日本刀のような重いものを振る技術を身につけているものは、やはりそれなりに腕力は優れていて、とりわけ握力はそうとうのものになる。高校時代の僕の同級生の剣道部も、剣道の腕はどうだったのか知らないが(あまり親交はなかったので)、握力が70キロ以上あった。武蔵の身体能力、すなわち握力をはじめとしたパワーは、剣を身につける過程で身についた副次的なものと考えられたのである。その拳を握って殴りつけるちからが、圧倒的ではないにしてもそれなりであるのは、剣をふる過程で備えられた筋力がそうさせるからなのだと。ところがそうではなかった。拳のひとつとっても、誰からも教授されず、たとえば漫画など、誰の影響も受けないままにきちんとした握り方ができるひとというのはわりと例外的である。男性はたいていのばあい、生きていく過程でそれを学んでしまうので、これは女の子を観察してみればわかる。拳を握ったこともなければ漫画などでまじまじと観察したこともなく、どうやって握るかも考えたことのない女の子は、たいていの場合、握らせてみると親指を中にしまってしまう。おそらく、拳をああいう感じのしかたにするとなったとき肉体が自然にとってしまうかたちがあれなのであって、空手のような握り方はむしろ不自然なのである。ところが、武蔵は最初からそれができていた。おもえばこの時点から不思議に感じてもよかったのである。負傷せず、しっかりとちからを伝えるにはあの握り方しかないのであり、武蔵はそれをすでに修得していたのだ。

 

 

もし武蔵が、刀ほど真剣にではないにしてもそれなりの素手の技術を身につけているのだとすると、いよいよ弱点がなくなるが、これは前回の「自在」という視点からすると、自然でもある。関ヶ原のころの武蔵はまだ若いので、こんな境地には達していない、ただのファイト馬鹿だとおもうけど、その兆しを感じてもいいだろう。要は、刀というのは強力だし便利だけど、制限でもある。刀でしか攻撃できないものは、刀がある、そしてそれを手にもてるという条件下でなければ、ちからを発揮できない。これは自在からは遠い。仏教的な煩悩をここでは動機や条件と呼ぶが、どのような動機づけや条件からも解き放たれたとき、武蔵は自在になる。ただ、これはさらに広い枠組みを必要とする。なにひとつ制限のない状態で解き放たれるのはただの悟りであり、目の前の相手から生還する、よければ勝利するという目的のベクトルを備えた環境には不向きである。ここでいえばバキの攻撃を読み、反撃するという、大きな枠組みがまず用意され、その条件内においてのみ存在しうる「自在」があるのである。だから武蔵はこれを「馴染む」と表現したのだ。この状況に特殊な、ここでしかありえない無二の自在を、個々の状況において求める作業が、まずは必要なのだ。

とはいえ、大前提として彼はサムライなので、刀が最初の障害となる。刀がなくなったときなにもできなくなる可能性は、相手がなんであれ、サムライである以上、そして自在の境地を求める以上、最初に取り組まなければならない問題なのだ。そう問えば、武蔵が素手の技術をそれなりに磨いてきた可能性はじゅうぶん考えられたのである。

その意味で、現代は武蔵の自在をさらなら高みに引き上げるための技術の宝庫である。現代にはあらゆる技術が存在する。蹴り技の技術は、最悪両手を失ってしまっても使用できる。素手の技術は「自在」向きなのである。現代にやってきたから武蔵はもうけっこうたたかっているが、そのどれもが、彼にとっては宝の山だったわけである。

 

 

 

 

↓刃牙道 20巻 2018年2月8日発売予定