■『読者はどこにいるのか』石原千秋 河出ブックス
「私たちは本を読むとき、さまざまなことを期待している。その期待は満たされたり、裏切られたり、覆されたりする。そのとき、私たちはどういう読者なのか、どういう感性を持っているのか、そして、どこにいるのか―近代読者の誕生から百年。作品論・作家論、テクスト論、構造主義、ニュー・アカデミズム、カルチュラル・スタディーズ…文学研究と現代思想のトレンドの変遷を跡づけ、「内面の共同体」というオリジナルの視点も導入しながら、読む/書くという営為の奥深き世界へと読者をいざなう」Amazon商品説明より
作業中に目に入って衝動買いした。どこかでお見かけしたことのあるような著者名なのだけど、ブログ内検索しても出てこないので、なにか気になる本がむかしあったけど忘れてしまった、みたいなことかもしれない。
内容としてはかなり網羅的なので、ずいぶん勉強になった。僕は系統的に文学を学んだことがないので(大学も理工学部)、実をいうと文学理論については完全に素人、ぶっつけ本番の筋肉と根性で読み解いていくスタイルである。それでよくあんなに毎回自信満々に文章公開できるなというところかもしれないが、文学部で小説や批評をちゃんと学んだひとからすると当たり前のことが僕には大発見で、とっくのむかしに名前がついている理論をじぶんの創見であるかのように書き立てて陰で恥をかいているタイプである。ときどき入門書的なものを読みはするが、考えてみれば読者の立ち位置からの批評理論についての本を読むのははじめてかもしれない。作者はテクスト論者だが、おもえばじぶんをテクスト論者であると明言するひともあまり出会ったことがない。もちろん、テクスト論は特にブログ的な文体で批評をするときは不可欠なので、そういうひとに出会ったことがないというわけではないが、文学の批判精神のためか、すでにテクスト論は破綻しているという向きの文章を見ることはあっても、直球でテクストのみを(最終章では作者のミスですらテクストのいちぶとして読み込んでいる)読解しているひとというのは意外と見かけないのである。
「大学生以上、知的な大人まで」が河出ブックスの指定した読者層なので、研究者というのはこんなにもたくさんの本を読んでいるのかと、この手の本を読むたびに驚愕するが、広く、たくさんの小説的実例や研究に触れつつ、難しいところはそれなりに難しく、じつに勉強になる。そして内容が読者とはなにかということであるというのもなんだかおかしい。読者といえば、この本と僕の関係性でいうときは僕のことだが、広く「読者」というとき(つまり河出ブックスが指示するとき)、それは誰を、なにを指しているのだろうか。こうしたことを、明治以降の日本文学からはじめて、海外の思想も含めて、少しずつ検証していく。くどいようだが、たぶん大学で文学や文学史や批評について学んだひとにはごく常識的な内容なのだろう。逆に言えば、それだけカバーされている話題については広いということだ。この手のラディカルな批評は(テクスト論はいつだってラディカルである)時間がたつと古びてしまって、考古学的な意味や「当時の発言」的な価値しかもたないようになってしまいがちだが、その点でも初版が2009年なので、まだまだ新鮮である。
いくつか衝撃を受けたポイントもあった。ひとつは、小説が書かれる(読まれる)物質的条件が、小説じたいのジャンルや傾向も規定してしまうという歴史的事実、もうひとつはリアリズムの起源である。年末であまり時間もないので、とりあえずこの2点を紹介してこの記事はおしまいにしよう。
ひとつめの物質的条件だが、それはたとえば印刷技術である。アルベール・ティボーテというひとの『小説の美学』では、書物がラテン語で書かれたものとロマン語(要するにヨーロッパ各国の母語のことらしい)で書かれたものに分類される。ラテン語はおもに僧侶など、教養の高い専門家が個人的に読むものであり、ロマン語で書かれた書物は公衆の面前で朗読するためのものだったという。この「朗読」は、ひとことでいえばひとりの男が深みのある男らしい声でご婦人たちに聞かせている、という景色と了解してまちがいなさそうだ。ロマンはご婦人たちのものだったのである。しかし印刷技術が発達し、書物を平準的な教養のものが手に取るようになり、誰もが内面での思弁をするようになって、朗読にふさわしいロマンではなく、現実を描き出したリアリズムが好まれるようになっていった。印刷技術が、小説の形式を変えてしまったのである。
このはなしの要諦はつづくリアリズム小説の起源、まただいぶ後半まで引き続いて論じることになるフェミニズム的な視点にまで広がっていくところにあるので、このあたりはさらりと流れるのだが、しかし、2009年当時はどうだったかもはや記憶にないが、これはなかなか大事な論点のようにおもえるのである。スマホで小説を、それどころか漫画を読むことが当たり前になっている現代では、ことはどのように運んでいるだろうか。電子書籍もまた「物質的条件」のひとつである。印刷技術が朗読を滅ぼして個人的思弁に走らせたように、電子的な指先での読書もまた形式に影響を及ぼすであろうことは、皮膚的にも疑いがないのである。げんに、いま僕がこうして書いているこの文章はどうだろう。果たしてあなたは、この文章が仮に一冊の本にまとまるほどの分量、またそれだけの品質にあるとして(さらに条件を下げて、無料だとして)、それを読もうとするだろうか。あるいは、読んでいる状況を想像することができるだろうか。おそらく僕もまた、パソコンでパチパチ叩いて、長くても10000文字におさまる程度の文章にするという枠組みのなかで書き、無意識にスマホやパソコンで流し読みしている読者を想定することで、この状況でなければ成立しない文体で書いているにちがいないのである。極端なはなし、この世から紙媒体がすべて消失し、全人類がタブレットなどで読書をする時代がきたとき、おそらく『カラマーゾフの兄弟』のような大長編はもう読まれていないだろうし、新しく生まれてくることもなくなっているのだ。いや、粘り強い性格のひとなら、電子書籍で長編も読めるのかもしれないが、とりあえず僕は絶対に無理である。
そしてもう一点が、そのことによって誕生したリアリズム小説である。リアリズム小説の定義は僕もあいまいだが、ひとことでいえば、客観的な現実原則に基づいて構築されている小説は、リアリズムということでいいのではないかとおもう。これが日本に輸入されたとき、微妙にまちがった理解がされて、田山花袋に代表される自然主義に変わっていったことは蒲団の書評などで書いた(はずである)。では、じっさいのヨーロッパにおけるリアリズムがなにをモデルにして誕生したかというと、科学、とりわけ医学だというのである。人間はこの世のなにもかもを理解しているわけではない。だから、以前までは「神」が、その見えない場所や機能、世界を包み込む人間には知ることのできない原理を担保していた。しかし現代では科学がそれを代行する。しかも科学は、ただその見えない原理の存在を保証するだけでなく、想像的には未来のどこかの段階において目に見えるかたちで暴いているのである。こうした経験が、リアリズムの土台を形成した。そうした想像的な原理の先取りがなければ、そもそも客観ということが成り立たないし、それ以前までは客観とは神の視点、現実原則は神のはからいだったにちがいないのである。
そうした背景で生まれたリアリズム小説は、カルテを文体のモデルにした。エミール・ゾラのリアリズム小説論『実験小説論』は、クロード・ベルナールという生理学者の『実験医学序説』を参考にして書かれたというのである。それまでは、病気と病人が区別されてこなかった。現代の感覚からすると、ウイルスであったり外傷であったり精神的負荷であったり遺伝だったり、病気にはだいたいの場合原因が想定できる。だが医学は最初からこうではなかったのである。おそらく、感覚としては、現代では、ノーマルな状態の人間に病的ななにかしらの要素が付着ないし欠損したものを病人として認識している。しかし以前までは、その本人そのものが変容するような認識だったのだ。しかし研究がすすみ、病と病人は分離していくことになる。病そのものは、症状としてあらわれるので、医者はそれをカルテに書きとめる。これがそのリアリズム的文体の起源なのだ。医療系のドラマでよく患者をひととみなしていないような手術マシンみたいなひとが出てくることがあるが、あれはこれを踏まえると不自然ではないのである。症状は人間に巣食う外部的な病のあらわれであり、それを除去するのが医者の仕事である。ノーマルな状態の人間に付着した病という汚れを除き、欠如を補うのが医者なのだ。だからこそ、病院ドラマには必ずといっていいほど汚れの向こう側にいる人格を顧みない非情な人物が登場するのである。
最終章では東野圭吾の『容疑者Xの献身』を取り上げ、この探偵小説の明らかにおかしいあるぶぶんを取り上げる。それは、ふつうに考えると作者のミスなのだが、テクスト論者はそれをミスとはあつかわない。そのうえで、豊かな読みを引き出していく。このあたりをみて、ああじぶんは完全にテクスト論者ということでまちがいないなと感じたのであった。
臨床医学の誕生
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