今週の闇金ウシジマくん/第453話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第453話/ウシジマくん39

 

 

 

 

 

 

 

 

前の掲載からずいぶんたってしまった。前回は柄崎がさらわれたらしいメッセージが、なんとか獅子谷甲児たちから逃げ切った丑嶋のところに届いたのだった。前回の記事では小百合や高田もさらわれたというふうに書いたが、コメント欄やりとりを踏まえて読み返してみると、どうも場所が特定されているだけっぽい。

 

 

 

駐車場にしゃがみこむ椚。甲児は椚の母親を呼び出し、うんこをもらしたからオムツをかえるようにいっている。甲児たちは椚と父親の前で母や姉をレイプした。その母親である。どれだけおびえているかとおもいきや、もはやそういう次元は超えて、どのような感情も感じられない。甲児はペットとして椚を連れまわしているから、オムツの処理をしたら母親は帰宅するのかもしれない。ともかく甲児は、足代として母親に渡せと、部下に金を渡す。このとき甲児は、おそらく兄の形見であるネックレスに触れている。どういう心境で金をわたしているのか、なかなか難しいところである。

 

 

 

 

メッセージを受け取った丑嶋はそのまま車のなかでどうすべきか考えているようだ。柄崎のことももちろん本音をいえば心配だろうが、ふたりはもうそういう関係じゃないし、端的に柄崎は丈夫なのでしばらく放っておいても大丈夫そう。とりあえずそんなかんたんにさらわれるようなアホじゃ自業自得じゃないかと、なかば言い聞かせるように丑嶋は考えている。しかし高田と小百合はどうだろう。高田は丈夫ではないし小百合は女の子だ。丑嶋としても彼らは仲間ではあるが、柄崎や加納と比べるとまだゲスト感がないでもないのかもしれない。組織やチームはいちばん弱いものを中心にしてまわる。腕っ節からいっても、またアウトローとしての経験からいっても、彼らはまさにそれである。彼らのことはけっこうふつうに心配にちがいない。とりあえずいまこの瞬間拷問を受けているということではなさそうだが、しかし場所はバレている。問題はそこだ。柄崎はしゃべらない。そこのところは丑嶋は確信している。これは、直前のアホ云々とは矛盾しない。小百合たちを心配するほどに柄崎を心配しないのは、やはり彼がタフだからなのである。そこにかんしてだけは徹底的に信頼できる。だから痛みに負けて口を割ることはないと確信できる。しかしではどうやって高田たちの場所がわかったのか。高田も小百合も地元に帰っているだけっぽいから、獅子谷ほどの組織力があればそう難しいことではなさそうだ。だがおそらくこの件はほんの1日くらいのあいだに進んでいる。それだけ迅速に動くには、明確な情報が必要だ。丑嶋はまっさきに戌亥を思い浮かべるのだった。

 

 

携帯片手に丑嶋が進む。どうやら獅子谷の指定した柄崎の墓場とやらに向かうようだ。片手には例のタクティカルペン。顔に見えるこれは汗だろうか。

 

 

指定された場所はなにやらゴミ袋がたくさん放置されている建物の隙間である。奥のほうに、全裸の柄崎が血まみれになって倒れている。そうとうひどく殴られたようだ。柄崎がボコになっている場面はこれまでもけっこうあったが、今回はなかなかショッキングである。ゴミ置き場に全裸という、ひとをモノあつかいの感じが、カウカウサイドの人間に及ぶことがあまりないせいだろう。

そのさらに向こうにある階段に黒いシルエットが浮かぶ。丸太のようなイレズミだらけの腕だけが浮き上がって見える。甲児が腕を組んで立っているのである。最初の場面ではいないが、丑嶋がなかなか来ないから建物のなかにでも引っ込んでいたのだろう。

 

 

甲児は丑嶋をドブネズミ呼ばわりである。甲児は、兄を轢いた車の運転手が柄崎だったことをどこかで知ったらしい。だから丑嶋の前で柄崎をいたぶるつもりだったが、丑嶋が逃げ出したせいか、あるいはなかなか来なかったせいか、予定が狂い、いたぶるというかただ痛めつけるだけに終わってしまった。

梶尾に依頼された獅子谷の任務は丑嶋の拉致である。柄崎のことは梶尾も滑皮もなにもいっていない。つまり、この件に柄崎が巻き込まれているのは甲児の恣意である。が、それはただ兄の恨みをはらすためだけの行動ではない。こうすれば逃げ出したとしても丑嶋は必ずもどってくるという確信が甲児にはあった。だから、保険として、個人的にはついでに恨みをはらすつもりで、柄崎をさらっておいたのだ。続く描写で、この路地裏に柄崎を置いて丑嶋を呼びつけた時点で、甲児の任務は終了した。というのは、背後に滑皮たちが、おそらく甲児から連絡を受けて到着しているからである。だがもちろんそれだけでは甲児の気持ちは収まらない。任務的な意味ではほとんど意味のないやりあいが始まる。時間稼ぎもあるのかもしれない。

甲児は、ヤクザにビビって沖縄に逃げたのになぜいまさら戻ってきたのかという。柄崎は戌亥と飲んで二日酔いだった。おもえばそれも戌亥経由で滑皮が画策したことなのかもしれないが、ともあれ、緊張感のない柄崎はあっさりつかまった。沖縄でのことかともおもえたが、たぶんいまのこの状況のことだろう、そんな緊張感のない男は見殺しにして消えてしまえば、それはそれでまだ見どころがあるとも考えられたかもしれないが、こうしてのこのこもどってきてしまった。これらの丑嶋の行動を、獅子谷は「中途半端」という。ポイントは、これが滑皮の感想と同じだということだろうか。

いわれっぱなしも気に食わないということか、この状況で丑嶋はふつうに言い返す。獅子谷は滑皮に下った。これを丑嶋は「滑皮の犬」という。じつはこれも、滑皮の表現である。というのは、滑皮は丑嶋をじぶんの犬だと、かつて宣言したことがあるのである。つまり、そうではないと、丑嶋は甲児の状況を経由していっているのである。猪背と対等にやりあってた獅子谷兄のほうが漢気があったと丑嶋はいう。よくあの弟に兄の話を持ち出せたなこのひと。仮に兄を評価する言葉であっても、甲児の前で兄のはなしをするのは、どこに怒りポイントがあるかわからないぶん怖すぎる。

しかしそれに対する甲児の反応もなかなか意外である。お前はなにもわかっていない、滑皮と丑嶋では、横綱と幕下くらい格がちがうと。

 

 

そこへ梶尾と鳶田が滑皮を乗せて到着するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

やれやれ、これはもう、みんな仲良くわかりあってハッピーエンドということには絶対になりそうにないな。とりあえず柄崎の生死だけでも早く確認しておくれ。丈夫だから生きているとはおもうけど。

 

 

兄殺害の主犯である椚は、殺される以上の生き地獄を味わわされている。彼や、彼の家族は、死ぬことも許されない。だから、最低限の生命維持はこちらで用意しなくてはならない。今回足代として払った金のように、ある程度の費用はかけているものとおもわれる。だが、どうも今回足代として払った金は、いつもやっているものというより、なにか特殊であるような感じがする。たぶん、丑嶋をさらう過程で兄のことを強くおもっていて、そのことが引き金となって、あのような行動をとらせているのである。それは兄のネックレスをいじっていることからもわかる。しかし、では、どういう感情が甲児に金を払わせたのだろう。たとえばハブが、丑嶋に殴られた結果として丑嶋を殺そうとしたのは、ヤクザとしてそうしなければならないと考えられたからである。暴力で生きるヤクザが素人に殴られたままでなんの仕返しもしないのでは、その暴力の価値は激減してしまう、ということはやっていけなくなる。だから、それ相応の仕返しをするという身振りをとらなくてはならなかった。しかし、この身振りは、特定の誰かに向けたものではない。いってみれば「関係者」に向けてである。だから、そんな方法があるかどうかは別として、もし「関係者」が、丑嶋を殺さなくても特にハブへの意識を変えないということがあったとしたら、この身振りは必要ない。残るのはたんなる私怨だけである。では甲児の場合はどうだろう。甲児がアウトローとしてここまで登りつめた経緯がわからないのであまり適当なことはいえないが、おそらく周囲の評価は無関係であるとおもわれる。それはもちろん、兄を殺した男の両手を奪って飼っている、という事実は、絶大ではある。だが、おそらく甲児にとってそれは目的ではない。甲児にとってはただ復讐であり、兄の死に報いるよう、椚に相応の罰を与えているのだ。椚が死ぬことも許されないのは、甲児からすれば、椚の命ひとつで兄の死とつりあいがとれるはずがないからである。しかしそれは甲児の主観だ。ハムラビ法典の有名な「目には目を、歯には歯を」は同害報復といって、被害にふさわしい報復を行うことをいう。なにか復讐へのかたい決意みたいなものが感じられる文体なのだが、内田樹によれば、そうではなく、これは制約の表現なのだという。なんらかの罪人に対して、被害者や遺族が罰を求めても、その犯罪によって起こってしまった事実じたいは変えられない。甲児でいえば、どのような罰し方をしても、兄が帰ってくることは決してない。だから、この復讐は決して終わることがない。しかしそれを認めては社会が成り立たない。復讐しすぎたものに対する復讐が生じ、おそらく人類は滅亡してしまう。それをあらかじめ防ぐのがこの法である。これはつまり、目を奪われたのであれば、相手の目を奪う以上のことをしてはならないという、制限の文章なのである。

とはいえ、落としどころというものもある。なにか悪いことをされたけど、相手が土下座して、慰謝料払って、泣いて許しを求めてきたら、まあこのくらいで許してやるか、となるのもまた人間である。だが、甲児にとっての兄の死は決してそのようには収まらない。それが椚の生き地獄にあらわれる。死ぬのを許さないというのは、すなわち、決して許さないということなのだ。椚がこれからどれだけ苦しんでも、あるいはなんらかの幸運によってどれだけ甲児に尽くすことがあっても、甲児は椚を許すことはない。椚の命や行為では決して兄の命は補えないという確信が、甲児にはあるからである。その意味で、甲児の、特に兄にまつわる暴力はヤクザよりやっかいである。ヤクザは暴力の経済のなかに生きている。ハブが丑嶋殺害に成功し、周囲のものが「やっぱりハブさんは怖い」となったとして、そのあとでもハブが丑嶋への恨みを抱え続けるということはありえない。握り締めた1000円札でコロコロコミックを買い、お釣りをもらって帰ってくるように、そのやりとりはそこで完結する。だが甲児の暴力は終わらない。なぜなら、兄が復活し、シシックなどすべてが元通りになるということは絶対にないからである。落としどころを見つけず、兄の命にふさわしいだけの報いを求める限り、これは終わることがない。

甲児が椚の母親をみてなにをおもったかは不明である。ひょっとすると、なにか慈悲のこころのようなものが動いて見えかけた「落としどころ」を、兄の死を思い返すことでねじふせているのかもしれない。あるいは逆に母親を見ることで兄の死を思い出し、絶対に死なせないと決意を新たに援助金をわたしたのかもしれない。いずれにせよ、援助金は椚を生かし続ける。「死には死を」で終わらせない決意を、おそらく甲児はかためているのだ。しかし、これは自縄自縛ともとれる。なぜなら、甲児は、「決して許さない」と決めたときから、兄の命の評価を開始しているともとれるからである。兄の命はどんなものとも交換することができないという決意が、椚の生き地獄にあらわれてはいる。現状ではそうである。しかし、では、もしこれから、なにかの拍子に椚を許すときがきたとしたら、それはなにを意味するだろう。その瞬間に、兄の命がなにものとも交換不可能なものであるということの表現として開始されたふるまいが完結し、逆にそれを有限のものにしてしまうのである。甲児は、ただ私怨から、怒りから「許さない」のではない。もちろん最初はそうだったろう。しかしいまとなってはこれをやめることができない。死者である兄の面影を思い出すたびに甲児はそこにとらわれ、もはや「許すことができない」のだ。椚を殺さず生かしておくような、限度のない怒りと復讐で行動を始めたときから、甲児は怒り続けなければならない宿命にとらわれてしまったのである。

 

 

 

丑嶋と甲児のやりあいはなかなかひっかかる表現が多かった。いちばん驚いたのはやはり滑皮の評価だろうか。滑皮がどうやって甲児を屈服させたのかは不明なのだが、甲児は彼になにか大きなものを感じたようだ。このぶぶんでは、まず丑嶋は甲児を飼い犬と呼び、兄のほうがマシだったというようなことをいう。甲児からしてみれば、兄のほうが優れているというような評価について、主観的なものではあっても、たぶん否定しないだろう。彼が噛み付いているのは飼い犬発言のほうだ。つまり、甲児にとって、滑皮ほどの大人物のもとに下ることは、飼い犬などという表現では覆いきれないものなのである。そういうやりとりになるが、兄と滑皮が同じ場所で話題になって、兄のことには触れずに滑皮を評価する発言を甲児がしたことが、なかなか不思議な感じを呼ぶのである。だがこれも、甲児がなんらかの理由で滑皮を見直したのだとしたらわからないでもない。つまり、この前の段階で丑嶋は猪背と対等なものとして兄をあつかっている。現状では猪背とは滑皮のことである。だから、甲児の耳には、丑嶋の発言は、「お前は滑皮の犬に成り下がったが、兄は滑皮と対等だった」というふうに聞こえているわけである。そんなの、弟からしたら当たり前なわけである。

しかし、このぶぶんでもうひとつひっかかるのが、次の丑嶋と滑皮を比較して幕下と横綱くらいちがうというところだ。甲児の反論は、要するに、滑皮さんはすごいひとなのだから、じぶんが下についても別に不思議はない、ということだろう。その滑皮とドブネズミ呼ばわりの丑嶋が等格のわけはない。なぜここで急に丑嶋が出てきたのか。これは、丑嶋が滑皮のいうことを聞かず、対等でいるつもりであるかのようなふるまいをとっている、そのことを踏まえたものだろうか。じぶんは滑皮に下ったが、丑嶋は下っていない。そればかりか、まるでそのことを恥であるかのようにいう。だがそれはただ滑皮のことを知らないだけであると、こういうことをいっているのかもしれない。

 

 

少し戻って、柄崎の緊張感のなさだが、おもしろいのは、甲児がいっていることと、おそらく言い聞かせる意味も含めて丑嶋が内心考えていたことがいっしょだということである。つまり「緊張感のねェーアホは見捨てても自業自得だぜ」というところだ。獅子谷もまた、「緊張感のねェー馬鹿は見殺しに」すべきだったといっているのである。どんだけ柄崎は緊張感ないとおもわれてるんだというところだが、これは偶然ではないだろう。にもかかわらず、丑嶋は指定された場所にきてしまった。これを甲児は中途半端という。「馬鹿は見殺し」という思考法じたいは、丑嶋にも備わっている。それなのに、丑嶋は来ないわけにはいかなかった。前回の考察で、丑嶋と滑皮のちがい、ハンパものとそうでないもののちがいについて、複雑さをどのように受け止めるかということだと書いた。ヤクザ社会では当たり前に矛盾した命令が同時に下される。熊倉を迎えに行く滑皮がアイスを買いにいけないからといってハナクソをつけられる世界である。このダブルバインドに引き裂かれず、それなりに対応するのが組織の人間である。守るべき美学も子分もないものは、行動原理にかんして分裂することがない。ただ危険から回れ右をしてダッシュすればよい。しかしヤクザはそうもいかない。そしてそのことが彼らにプライドをほどこす。滑皮が風呂に入りながらいっていたことはおそらくそういうことだ。ヤクザではないという意味でカタギである丑嶋も、原則的には、ひとつの哲学、ひとつの行動原理で動けばよい生き方をしてきた。ヤクザをしていれば、殺したくないひとも殺さなければならないかもしれないし、身内を守りながら身内を殺さなければならないこともあるかもしれない。その分裂のなかにプライドや責任感は宿る。そのあたりは、抽象化してみればふつうの(日本の)会社勤めとなんらちがわないのだ。滑皮にとっての丑嶋の中途半端さというのは、つまりこうした理不尽を引き受けず、たったひとつの行動原理にしたがっていればよいそのなまぬるさのことなのである。

しかし甲児のいう「中途半端」はどうだろう。見たように、丑嶋の内面には甲児のいう見どころのある思考法は存在していた。にもかかわらず丑嶋はやってきた。それは、柄崎の存在が、ひいてはカウカウの築いてきたものが、丑嶋の行動原理を複雑にしてきたからである。彼らを守るために、丑嶋はただひとつの行動原理(端的に金)にしたがっていればよいという状況ではなくなってしまった。これを引き受けたとき、彼はむしろハンパものではなくなる。げんに、甲児は柄崎を見捨てたほうがよいというが、中途半端からはもっとも遠い滑皮は、決して梶尾や鳶田を見捨てないだろう。ヤクザ的視点からいえば、むしろ甲児のほうが半端なのではないかと考えられるのである。では甲児はなにをもって丑嶋の半端さを計測しているのだろうか。もちろん兄だろう。彼は兄のふるまいをそのまま真似ているわけではなく、おそらく失敗から学び、ネオシシックを立ち上げている。兄の命を奪い、シシックを崩壊させたものは、従業員たちの不和である。だから、彼はかなり部下たちとうまくやっている感じがある。が、おそらく彼の根底には、「馬鹿は見殺し」の思考法、つまり兄の非情さが流れている。つまり、彼は部下と上手くやってはいるが、それはあくまで後天的なスキルであり、彼が想像する達成の景色は、やはり兄のやりかたによるものなのである。ほんとうは、兄のようなやりかた、「馬鹿は見殺し」のやりかたでのしあがるべきであるが、それは必ず失敗する、だからやむを得ず、和をもって貴しとなし、組織を運営するのだ。前衛的な音楽をつくりたいミュージシャンが、それでは食っていけないので、本人はくだらないと考えている地方局のCMソングの作曲などで稼いでいるというようなものだ。おそらく人間としてはいまだに甲児にとって最高のロールモデルは兄である。しかし後天的な、職業アウトローとしては、複雑系を受け止める滑皮が別格なのだ。

 

 

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