『蒲団・重右衛門の最後』田山花袋 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『蒲団・重右衛門の最後』田山花袋 新潮文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「蒲団に残るあのひとの匂いが恋しい―赤裸々な内面生活を大胆に告白して、自然主義文学のさきがけとなった記念碑的作品『蒲団』と、歪曲した人間性をもった藤田重右衛門を公然と殺害し、不起訴のうちに葬り去ってしまった信州の閉鎖性の強い村落を描いた『重右衛門の最後』とを収録。その新しい作風と旺盛な好奇心とナイーヴな感受性で若い明治日本の真率な精神の香気を伝える」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

 

 

明治期の自然主義文学を代表する作家、田山花袋の作品を読んでみた。田山花袋の本じたいは、かつて『東京震災記』というノンフィクションを読んだことはあったが、小説ははじめてだ。

 

 

明治期の自然主義にかんしては、僕では高橋源一郎の『日本文学盛衰史』が基本情報としてある。二葉亭四迷、森鴎外、夏目漱石、島崎藤村、石川啄木といった、現代にまでつながる言文一致の文体を確立し、翻訳語を定着させ、苦悩を通して内面を発見した文学界のスターたちを登場人物に、真面目にはなしていたかとおもうと急に当時の人気アイドルとか「たまごっち」とかが出てきたりする例のカオスな空気感で小説とはなにかを描き出した大作である。もちろんぜんぜんちがう作品だけど、いちばん似ているのはそにしけんじの「ねこねこ日本史」とかかもしれない、もしかしたら。むずかしいことぬきにふつうにおもしろい小説なので(分厚いけど)おすすめだけど、とりわけて印象的なのが田山花袋だった。自然主義において田山花袋は「露骨なる描写」、要するにありのままのわたしというものを追及したが、『日本文学盛衰史』では「破戒」への不満もあって、アダルトビデオの撮影を始めちゃうんだから。

印象的ではあったし、しっかり近代日本文学史の勉強をしてこなかった僕としてはそれで田山花袋の名前も覚えることができたわけだけど、だからといって小説を読もうということにならなかったのはなぜだろう。わからないが、なんとなくつまらなそうだと感じていたのだろう。鴎外とか漱石に比べるといかにも線が細そうだし、自然主義というものじたいに実をいうとそんなに興味がもてなかった。教養としていつかは読まなきゃいけないんだろうけど、ちょっとめんどくさいなと、そんな感じだった。しかしこれが意外なおもしろさである。僕はよくこういう書き方をするので(いつでも強い偏見に支配されていて、それでいながらなんにでも感激してしまうのである)信用はないかもしれないが、今回は期待がほぼなかったぶんうれしい驚きだった。もう、ひどい表現だとはおもうが、すごいクズなのである。

 

 

いまでも文学といえば日本のばあい私小説のことを指すことが多く、いつか芥川賞の選評を読んだとき、うろ覚えだが、当時選考委員だった石原慎太郎なんかは私小説以外は文学ではない的なことをいっていたくらいで(西村賢太が受賞したときだったかな。石原慎太郎は『苦役列車』をすごく評価していた記憶がある)、日本では主流となっている。そのはじまりが明治期の自然主義で、もととなっているのはヨーロッパから輸入したリアリズムの思想である。ただ、個人的な理解だが、これはどうも一種の誤解とともに育まれたもののようで、ヨーロッパでいう写実主義(リアリズム)と自然主義とは明らかに異なっている。十代のころ、僕はリアリズムということばを、深い意味なしに、なんとなく「現実っぽい」くらいの意味でとらえていたとおもうけど、はっきりその意味がわかったのは、村上春樹が『ノルウェイの森』をリアリズム小説だといっているのを読んだときだった。それ以前までの作品は、非リアリズムであって、ノルウェイの森にとりかかる際、リアリズム小説を書く訓練として『回転木馬のデッドヒート』を書いたと、こんなことをどこかでいっていたのである。そこでなんとなくではあるが納得がいった。それと同時に、リアリティというものがどういうことなのかというのも、じぶんなりに噛み砕くことができた。小説世界じたいは、フィクション、虚構のものということはまちがいないのだが、その虚構の細部にどれだけちからを注ぐのか、小説世界がそれとして自律しているように感じさせるのか、そこが、作品にリアリティを呼び込む分かれ道だったのだ。よく考えるのが、ひとむかし前のピクサーの作品と典型的ディズニーアニメのちがいである。人事のごたごたがあって、いまではアナと雪の女王のような作品まで生み出すほどになっているからこそ「ひとむかし前」ということなのだが、ディズニーのキャラクターたちというのは原則的に役者である。彼らは、カメラのまわっているときだけミッキーとしてふるまうのであり、「カメラのまわっていないところ」というのは、そもそも想像することすらできない。これはディズニーランドも同様である。というか、そのように作品が仕向けているので、テーマパークも同様の哲学によって成り立っているということだろう。たとえば、最後にはばらばらになってしまうミッキーの自宅にどう見てもトイレが見当たらなかったとしても、それは作品としてなんら問題ではない。しかしリアリズム的視点でいうと、それは破綻している。アパートでもなんでもない一軒家にトイレがないというのは、ふつう考えられないからである。グーフィーやプルートは骨がないんじゃないかというほどぐにょぐにょにからだが曲がるが、しかし縄でしばったりするとちゃんと動けなくなる。そういう世界なのだ。たほうでピクサー作品は、グラフィック技術の発達が可能にした細部描写を通して、たんなる映像の豊かさとは別に、世界観、あるいは作品哲学的な意味でリアリティにこだわった(と僕は認識している)。ここでいうリアリティというのは、たとえばニモに登場する魚たちが、それぞれの性質にあった行動を、画面のはしのほうで行っているとか、おもちゃが子供たちの前では動かないことにきちんと理由づけがされ、なおかつこれなら人間も気づかないと納得できるような説得力がほどこされているとか、そういうことももちろんあるのだけど、それだけではない。ピクサー作品にリアリティがあるのは、いまのはなしでいうと、カメラがまわっていないところでなにをしているのか想像できるという点においてなのだ。画面のなかに入り込み、カメラの向いている逆側を覗き込んでみてもきちんと同様の世界が広がっていると、確信できるほどに、細密な世界が構築されていたのである。

こうした世界を描くにあたって、たとえばニモでは、魚たちがよく観察され、作中では触れられないようなどうでもいい描写においてでさえ、彼らはその性質にしたがって行動することになる。僕の理解ではこうした方法が初期衝動的なリアリズムである(あくまで僕の理解です)。これが日本に輸入されたとき、おそらくその、あるがままを正しく描き出すこと、それじたいが特に注目され、近代の内面の発見もあって、作者が語り手となって、そのままじぶんの私生活を、醜いところまで描いていくという思想が培われていったのである。それが結果としてどうだったのか、よかったのかわるかったのかというのは、よくわからない。だが、とりあえずいえることとして、リアリズムがそのように一種の誤解を経由して輸入されたのでなければ、いまの日本文学のかたちはありえなかったのである。

 

 

 

いきなり長くなったが、非常に有名なこの田山花袋の「蒲団」は、文学を志して弟子入りしてきた女の子を好きで好きでたまらない時雄=花袋が主人公で、悶々として夜も眠れず、酒を飲んでは荒れて奥さんにあたり、この女の子に彼氏ができては憤慨し、ああでもないこうでもないといろいろかっこわるいことをしたりできもしないことを考えたりするという、なんともいえずみっともないおはなしである。なんだか湿っぽい感じの、重たい、それでいてつまらなそうな小説だなと、僕はずっとおもっていたわけだが、この恋にかんして想像以上に主人公(花袋)が振り切っており、文体もさっぱりしていて、すいすい読めてしまう(新潮文庫版は歴史的仮名遣いがなおされているというのもあるだろう)。明治時代という背景を考えるとこの「告白」はそうとうな事件であったにちがいないとはもちろんおもわれるのだが、いま読むとスキャンダラスなものを想定して書かれたという事情はまったく無効になっており、むしろごくあたりまえに存在するふつうの小説として読めてしまう。というより、やや滑稽にさえ見えてしまう、そのことが、非常におもしろいのである。

時雄には奥さんがいて、いちおう恋心(というにはいささか年を食いすぎているのだけど、恋に年齢なんてかんけいないのかもしれない)を抱くにあたって罪悪感のようなものを抱えているようではあるのだが、いかにも薄っぺらで、罪悪感を抱えるべきだからそうしたというくらいのもので、むしろ妻がなくなってしまったらどうなるだろう、というような空想をしてしまうほどである。それでいて、実はこの小説では、時雄はなにも達成しない。『日本文学盛衰史』のイメージで、僕はてっきり、時雄と女学生はいいことにはげむのかとおもったのだが、ぜんぜんそうならない。といって、プラトニックな恋愛を心掛けているということでもない。『日本文学盛衰史』によれば(つまり高橋源一郎の創作の可能性もあるということ)、田山花袋は「破戒」が、人間のほんとうのところを描ききっていないと考え、蒲団を書いた。要するに、ひとはセックスをするのである。だから、そうした性欲的なものを花袋が避けるはずはない。そしてそれが彼のみっともなさをたいへんに増大させる。彼氏ができたと聞いて、時雄がまず考えること、そして最後まで悩み続けること、それは、「やったのかやってないのか」、それだけなのである。文明開化の明治期、女子が独立するにあたって、まだ自由を謳歌するには未発達であるとか、なにやらかにやらと理由をつけて語り、またじっさいに説教するのだが(師匠なので)、けっきょくのところは、それが気になっているだけなのである。いかにもちっぽけで、非文学的な悩みであり、解説でぼろくそにいわれもするのである。しかし、僕としてはだからこそ本作は非常におもしろい。

 

 

この女学生は芳子というのだが、芳子が彼氏の田中某とどうなるべきであるか、そしてやったのかやらないのか、そうしたことを詰めるにあたって、時雄はいろいろと理屈をこねまわす。傍目にも、また実際にも、それは後付けのようなものであって、たいした意味はないと見ることは可能である。ただ、こうした理論的な見立てには、次の「重右衛門の最後」を読んでみると、自然主義的な必然性も感じられないではない。

「重右衛門の最後」は、東京で知り合った友人たちの故郷に自然の美を見出せると信じた語り手がそれを訪ね、ちょうど村を騒がしていた重右衛門という人物の最後を目撃することになるというおはなしである。どういう症状かよくわからないのだが、腸が下がって睾丸が腫れあがるという病気で周囲から馬鹿にされ続けてきた重右衛門は、祖父が村の大人物で畳にも置かぬほどかわいがってきた反動もあって、なかなかの悪人に育つことになる。悪人というか、薄情ものというか、村じたいへの反発とそこから出ては生きていけないことへの苛立ちからか、祖父がつくりあげた財産を一代で使い果たすほど放蕩を極め、家までも担保にして遊郭に入り浸り、唯一彼をかわいがっていた祖父の死を受けても涙ひとつ流さず遊郭からもどらない、そういう人物なのであった。で、語り手が村を訪れたときには、なにか妖怪のたぐいのような少女を味方につけ、これをつかって村の家に火をつけてまわっている。ふつうに放火しているのである。犯人は明らかなのだが、ビビっているのかなんなのか駐在は動かず、この少女がふつうでない素早さでとっつかまえることもできない、そんななかを重右衛門は肩で風を切って、なにか文句あるかといって歩き回っているような状態なのである。重右衛門は悲惨な最期をむかえるのだが、これにかんして、語り手はまず村の人たちの冷たさを感じる。と同時に、そこに必然性も見て取る。このあいだで、語り手はひとり葛藤する。まず自然がある。そしてそのうえに人間のつくった歴史がある。神も理想も、人工物である以上、自然より大きいということはない。だから、人間は自然を超越することはできない。解説にも文中にも記述はないのだが、註によると(217頁)本作は遺伝や環境を重視するゾライズムの影響を受けているそうである。ゾラのことは知らないが、ダーウィンなどと同じ時代なので、決定論的な、必然性の信憑を重くみるような発想とみていいだろうか。

重右衛門も、ややこしい家庭環境と大きな睾丸がなければ、こうはならなかったのかもしれない。こうはならず、悲劇を呼び込まなかった可能性は、自然の克服を意味しないが、ここで重要なことはげんにそうして自然的なものに突き動かされるしかたで重右衛門が悲劇的最後をむかえているという事実のほうだろう。村のものたちもこれを越えることはできず、それを罪悪と非難することもなぜか憚られる。それは、それもまた自然の指し示すところだからではないか。

こうした思索の果てに、ついには「大いなるもの」が登場してくる。人間の原則からすればそれらは悲劇であり、自然の発展への敗北であったとしても、「大いなるもの」の眼からすれば、そこにはおそらく必然性があるのだと。「蒲団」はこのあとに書かれた作品だが、田中といっしょに暮らしていくと芳子が決めていよいよ落ち込んだ時雄は、彼女たちの今後のことを考えて暗い気持ちになる。自己の経験も踏まえて、同棲後の倦怠、疲労、冷酷を思いやり、「自然の最奥に秘める暗黒なる力に対する厭世の情」(79頁)にとらわれる。「やったかやってないか」ばかり気にしている男なのだから、こうしたことはいかにもインテリがプライドを保つために考案した後付けである。けれども、重右衛門を踏まえてみると、こうしたところに理論的な一貫性も見られるのだ。芳子たちが、時雄たちと同様のだるい夫婦生活に落ち込むとはもちろん限らない。そもそも、芳子たちのカップル成立は文字通り時雄たちの時代のものとは条件が異なる。それだからこそ、つまり環境という点に不安があるからこそ、時雄はうるさくいうのだが、少なくとも時雄夫婦の事情はあまり参考にはならないだろう。しかし、彼はここでおそらく「大いなるもの」を呼び出しているのである。彼が、つまり花袋が、果たしてそれと同化できていたのかどうか、「大いなるもの」の思考をすっかり読み取れないまでもそれと自覚して受け取る程度には解釈者として優れていたのか、それはわからない。直感的には、そういうことはなかったとおもわれる。なんのかんのといっても、いちばん気になるのは「やったかやってないか」であって、欲望としては要するに芳子とやりたかっただけなのだろう。しかし、おそらく、時雄にはそういう自覚はなかったのではないかとも感じられる。そしてその肉欲を、彼は努めて自然主義者として解釈しようとした。もし「露骨なる描写」をほんとうに達成しようとしたら、彼はただその肉欲が内面で盛っている様子だけを描いていくことになっただろう。しかしそれは同時に「大いなるもの」がもたらす必然性を肯定しないことにもなる。彼は、じぶんの内側と外側に起こったことをただ描写していく。しかし、「ただ描写する」ということは、どういうことだろうか。人間の作為は、自然に打ち克つことはできない。自然の発展は、「大いなるもの」のもたらした必然性によって定まるのであって、それを「ただ描写する」ことは、定義上、不可能である。なぜなら、「大いなるもの」は人間の認識できる範囲の外側にいるものをそう呼ぶのであるから、必然の仕組みを見出すことは、人間にはできない。とすれば自然主義の小説家はなにをすればよいのか。小説家はひたすら自然の必然性に漸近するしかたで、成り行きを見守っていくほかないのではないだろうか。

 

 

 

「重右衛門の最後」の語り手が自然の成り行きの必然性にたどりついたあと、残された少女の手によって村のすべてが火のなかに葬られることになる。ある種の歪みを孕んだ「村」というのは、なぜかいつも最後に燃えて消滅する(この村は再興するが)。浦賀和宏『緋い猫』も、二コール・キッドマン主演の映画『ドッグヴィル』もそうだった。作中ではこれもまた自然の意ということになっていたが、ニーチェでは「火」は文明そのものである。アイスキュロスの神話においてプロメテウスは人間界に火を持ち込んだが、これはふたつの面を備えていた。つまり、火はそれじたいで人類を進歩させたが、同時に争いも生み、またその道具ともなっていったのである。この大きな矛盾を、矛盾のままに認めていかなくてはならない、というのがニーチェの考え方だった。これを踏まえると、閉じた空間で次第しだいに歪んでしまった小さな文明であるところの「村」が、その象徴である火によって自浄されるというのはなかなか感慨深いものがある。文明が、その歪みを火によって是正するというのは、本質的に正しかったのだ。これは人類の発明した「第二の自然」にほかならない。第二の自然が、それの備えたシステムの通りに、存在し、また消滅する。しかしその歪みをとらえるものは誰だろう。歪んでいると感じ取るものは誰だろう。村にやってきた語り手が徹底的に傍観者で、火事が起きてもほとんど手伝わないのは、考えてみればおもしろい。この村は「第二の自然」の模型なのであり、傍観者は、正しく、「大いなるもの」に漸近しようとする作者なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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