今週の闇金ウシジマくん/第443話 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第443話/ウシジマくん29

 

 

 

 

 

 

 

 

今週は竹本優希の描写からはじまる。例のなんにもない家の朝で、女がひとり歯磨きをしている。これが、なんと、小百合なのである。あの、オレタチの小百合なのだ・・・。

といっても、竹本と一夜を明かしたという感じではないようだ。竹本は出版社を接待するときに「プロの素人」を雇っていっしょに遊び歩かせている。一線は越えていないとおもうのだが、商売でいっしょに酒を飲んでいるわけではない、ただの素人の女としてふるまうことを仕事にしているという、アクロバティックな女の子たちだ。でも、ある意味では、女の子たちというのはみんな飲み会では多かれ少なかれ猫をかぶっている。それなりに芝居をしているのだ。いつもどおり、合コンでしていることをくりかえしてお金がもらえるわけだから、彼女たちからしたらいい仕事なのだ。

小百合はそういう女の子のひとりで、竹本はいろいろ面倒を見ているらしい。小百合は竹本をお兄ちゃんと呼ぶ。センスもむちゃくちゃなじぶんの服も選んでくれる、東京のお兄ちゃんだと。ふむ、なるほど。マサルが父なら、小百合は兄を丑嶋に求めていたのかもしれない。昨夜はグータラの社長(楽園くんに登場)と飲んで「タクシー代」をもらっているが、節約のためにとまったようだ。小百合はまだ未成年ということである。としたら、いまは26から29歳くらいということになるか。

竹本の部屋には絶望的なほどになにもない。合気道の道場とかが開けそうなほど、広々としている。何もない、空っぽなのである。

 

 

 

そしてついに熊倉と対面することになる獅子谷だ。竹本の描写は唐突なようだが、よく考えるとこの件は竹本にもかんけいしたことなのだ。彼の部下よっちゃんがハメられて、キメセク画像をとられてしまい、そのことで獅子谷から脅迫されていたのを、地元の先輩である熊倉に相談したのである。獅子谷は熊倉にホテルにくるよういわれて、丑嶋たちの拷問を中断してそこに向かう。車には屈強な男たちが何人もいて、それぞれに例のスタンガンをもっている。見たところ彼らの耳は無事である。シシックの社員というより道場で育て上げた連中という感じなのかもしれない。現在の弟がつかっている男たちよりはまだ現実的な体型だが、それでもじゅうぶん脅威なからだの分厚さである。

よっちゃんはおそらく熊倉の用意したホテルに隠れていて連絡がとれない。彼は獅子谷と地元が同じだという。となると、そのヤクザも同じ地元ということになる。獅子谷は相手が熊倉だと見当をつけているようだ。獅子谷は部下たちに計画をはなす。ヤクザがじぶんを拉致ろうとしたら、逆に拉致って殺すと。あっさりハブや熊倉を殺しちゃう丑嶋もたいがいだけど、計画してこんなことしちゃうなんて獅子谷もすごいな。

ホテルには熊倉と滑皮が待っている。なにかハブを呼び出したときを思い出させる雰囲気だ。起立したままの滑皮は一点を見つめたまま獅子谷のほうも見ない。

最初から獅子谷はかなり不遜な態度だ。約束の時間より遅れているようだが、よっちゃんは?と、友達にでも話しかけるような気軽さである。いちおうそのことを熊倉は指摘するが、特にカッとなることもなく、座れという。少し離れたところにはその分厚い肉体の男たちが4人待機している。どちらかが拉致るのだとしても、こんなふつうのところでやったら大事になっちゃう気がするけど、そこんところどうなんだろう。

獅子谷は余裕の態度を崩さず、ひとりごとのように「二人で来たのかよ・・・」という。もっと大人数かとおもったのにと。熊倉は特に反応しないが、獅子谷のなめきった態度に滑皮はかなり怒っているようだ。いちおうこの話し合いは熊倉と獅子谷のふたりで行われるものだから、滑皮は彫像のような飾りに徹しているのだろう。

 

 

 

丑嶋サイドでも重要な展開がはじまっている。見張りの男がトイレに行ったところで、丑嶋が柄崎たちに生きているかと話しかける。ふたりとも死んでると応えるが、返事がないのはしかばねなので、彼らは元気なようだ(対偶)。腕をちょん斬られた海老名も悪態をつくほどにはまだ元気がある。でも、たぶんずっと出血しっぱなしだろうから、ほっといたら死んでしまうだろう。

そこにトイレから見張りが戻り、勝手にしゃべっていたことを咎める。男には耳がない。たぶん、丑嶋はめざとくそのことに気づいているのだろう。いや、目ざとくなくても耳がないのは目立つか・・・。

丑嶋は彼の説得に入る。獅子谷は異常者ではなしにならない、それは耳を切られたあんたならわかるはずだと。男はとりあえず丑嶋をひっぱたくが、あたまから血を流しながら丑嶋は話を続ける。俺たちがやられたら次はあんただと。次じゃなくても、いつかそのときはくるだろう。げんに彼は耳を切られている。わかりすぎるほどわかるはなしだろう。丑嶋は、じぶんが獅子谷を始末すると彼にささやく。といっても縄をほどいてくれというのではない。眼をつぶっていればよい、それは海老名がやると。見たところ海老名も縛られてるようだし、だいたい彼は片手なのに、なぜ店長に・・・。

男はなぜか少しも否定の言葉をくちにしない。じぶんには裏切るつもりはないとか、そんなはなしは理解できないとか、そういうことをまったくいわない。かわりに、丑嶋が三蔵のあたまをカチ割ったといううわさは本当かと訊ねる。丑嶋はそれを肯んじ、獅子谷の頭もカチ割ってやると宣言するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

もし丑嶋がこういうはなしを持ちかけたらこう応えろ、などと獅子谷が彼に伝えていないかぎり、おそらく見張りの男の反応は素直に受け取っていいだろう。たぶん、彼は目をつぶってくれる。

 

 

 

小百合は竹本と知り合いだった。小百合がいったいどこからどう流れてカウカウにたどりついたのか謎だったが、たぶん今後よっちゃんの件含めて竹本の会社が崩れ、面倒を見れなくなって、カウカウに流れていった感じなんだろう。しかし、ヤミ金くんで竹本が最初にカウカウを訪れたとき小百合はなぜなんの反応もしなかったのだろう・・・と18巻を発掘してみたが、これは、ひょっとすると事務所にはちょうどいなかった感じなのだろうか。「カオルちゃんいる?」といわれて、丑嶋の下の名前を知らなかったマサルが「小百合ならいるけど・・・」みたいに考えているとき、ひとコマだけ登場しているのだが、これはたんなるイメージ図で、ここにはいなかったということかもしれない。いたとしてもその後ノータッチなので、ニアミスしたという解釈は可能だろう。

 

 

竹本の部屋にはなにもない。これは、のちの竹本の思想につながるものが、この時点で完成したことを意味している。今回は、以前考察したのとはまた別の角度からこれを考えてみよう。参考にしたいのは、『幽霊学入門』に収録されている加藤耕一の「幽霊屋敷考」という短い論文である。世界最初の探偵小説である「モルグ街の殺人」を書いたのはエドガー・アラン・ポーだが、このひとは「黒猫」や「アッシャー家の崩壊」などの怪奇小説の名手としても知られている。このころのインテリアはヴィクトリア朝とされており、その特徴は大量生産によるモノの氾濫、ありとあらゆるものの蒐集・陳列、さまざまな様式が流入した奇妙な調和、ということになるようである。このヴィクトリア朝と時代的に重なるのが第二帝政時代で、こうした時代に小説家だったポーについて、ベンヤミンは『パサージュ論』で次のように分析した。

 

 

 

 

 

 

「第二帝政様式において、アパルトマンは一種のキャビンとなり、その居住者の痕跡が室内に型として残る。これらの痕跡を調べ、跡をたどる探偵小説は、ここから生まれてくる。エドガー・ポーは『家具の哲学』と「探偵小説」で、室内を対象とする最初の観相家となるのだ」『幽霊学入門』新書館 102頁

 

 

 

 

 

 

 

 

部屋のなかにはその人物が生活していた痕跡が残されており、これを「探偵小説」として解釈したとき、探偵はそこから手掛かりを探し出し、「怪奇小説」として解釈したとき、そこに住んでいたはずの人物の幽霊を予感させる。しかし、その痕跡がまったく感じられないとしたらどうなるだろう。探偵はそこには誰も住んでいなかったと推理するだろうし、幽霊もあらわれる余地がない。ここには誰もいないのである。

竹本の思想は公人であることを強く要求する。私利私欲を徹底的に排除し、神の目線から、ひととして正しい道を周囲の人間が歩めるように、個人として限界はあっても、命をかけて努めていく。このとき、彼のなかからは「私」が失われる。なぜなら、公的にこうあるべきだという彼のなかにおける判定を、私的なものと分類することはできないからだ。だから竹本はそのありかたを他人も求める。こうすべきだ、という判定は一種の真理であり、ひとにより、また状況により変化するものではない。もし変化するものであるなら、それは多少なりとも私的な価値観に依存しているものとなる。ふつうは公的なものと私的なものというのは、個人のなかでバランスよく併存している。たとえば、ある若者のなかでは、どんなことがあっても、たとえ殺されそうになったとしても、お年よりには優しくしなければならないという価値観があったとする。これは、公的な目線から若者のあるべき姿を推測した結果生まれてきた行動原理である。この推測されている対象は、一般意志である。彼は、若者のとるべきお年寄りに対する一般的行動を推測した結果、一般意志としてはそうなるはずだと推理したのである。しかし、そうは考えないものもいる。ひとによると考えるものもいるだろうし、お年寄りを目のかたきにしている、なにか事情のある若者だっているかもしれない。そのとき、彼はじぶんの目線を私的なものとして回収せざるを得ない。そういうひともいると、事実を受け止めたとき、彼はその目線も私的なものであると考えざるを得なくなるのである。しかし竹本はそうではない。かつて彼は、母親を好きだという丑嶋に対し、その感情がわからないといい、じぶんもひとを好きになってみようとおもうと応えた。ふつう、ひとは、決意のあとにひとを好きにはならない。そうした感情はまずやってくるものであり、そのあとで、言語に基づく解釈が、それが好きという感情だったと気づかせるのである。ここに、逐語訳的にしかふるまえない竹本のゆがみと、彼の融通のきかなさがあらわれる。彼にとっては、言葉の裏の意味、コノテーションなどということはほとんど無効である。だから、丑嶋がそうであったように、彼も極端に走る。彼がもし「お年寄りには優しくしなければならない」と考えたとしたら、ここにはその文面以外のどのような意味も含まれない。竹本はある種の傲慢さから、この真理に到達していないものを救おうとしていく。彼は、他人に公的なものを求めるぶん、私的な価値観を認めることもない。「お年寄りに優しくしたくない」という相手の価値観は未熟なものであり、なんらかの事情があってそうなっているものである、だから助力をしようと、こういうふうにあの行動が生まれていく。相手の私的な価値観を認めないのだから、彼が抱えている公的なふりをした私的目線が、彼の私的な価値観として、次数を下げて回収されることももちろんない。それはただ行動の指針としてあるスコラ学派的テクストなのであり、逐語訳的にそれを読み込む竹本は、そこに解釈をくだす「私」というものを、じぶんにも相手にも認めないのである。かくして神の視線を宿した竹本はいっさいの「私」を失った。探偵小説も怪奇小説も、彼に生活の痕跡を見出すことはできない。蒐集・陳列による無意識の自己表現も、決して行われることはない。表現する自己など彼にはもうないのだ。

 

 

 

ヤクザ相手に獅子谷がどのような態度に出るか見ものだったが、予想以上に強気である。彼は、熊倉たちがたった二人であることをなかば嘲っている。ヤクザにも人員の用意はあるので、別に向こうの戦力がふたりしかないということをこれは意味しないはずである。つまり、やろうとおもえば熊倉ももっと用意できるであろうことを、獅子谷だって理解している。獅子谷は彼らがじぶんをなめていること、また転じてヤクザの傲慢さを感じただろうか。それに加えて、これは余裕の表現でもあるだろう。くりかえしみてきたように、獅子谷は物量でヤクザを圧倒しようとする。というか、物量でしか彼ら半グレがヤクザを超えることはできない。今回集められた男たちは単独の物量(筋量)でも圧倒的なものたちばかりで、それがたくさん集まっているという、獅子谷のたくらんできたヤクザ打倒をそのまま表現したかのような場面となっているのだ。

熊倉はずっと表情がないので、これをどうとらえたかはわからない。まさかヤクザに手は出さないだろうと考えているのか、内心ヤバイと感じているのか、それともなんらかの策があるのか、まったく見えない。しかし滑皮はぼうっと突っ立ったままではいないだろう。年が近いぶん、半グレの心理も理解できるぶぶんがあるだろうし、また彼は獅子谷の後輩なので、彼がどういう男かもよくわかっているはずだ。そして、ひょっとすると、熊倉の兄貴がそれを理解していないということもわかっているかもしれない。もしそうだとすれば、おそらく梶尾などを利用して、なんらかの手は打っているのではないかとおもわれるのである。

 

 

 

見張りの男が三蔵のはなしを持ち出すのも印象的だ。獅子谷が名前を出して丑嶋を引き入れようとするくらいだから、わかっていたことではあるのだけど、三蔵はほんとうに恐れられていたのだ。恐れられていたというか、面倒なのでみんあスルーしていたという感じだろうか。不良たちのあいだではそれを砕いた男として、丑嶋は認識されているのである。三蔵の件にかんしては、観点が三つ考えられる。ひとつは一般の不良たちのもので、暴力の経済の影響下に、三蔵の抱えていた暴力の貨幣が丑嶋に移動したととらえるものである。次に獅子谷だが、彼はそうはとらえない。というのは、お金がお金じたいとしては無価値であるように、貨幣の暴力というのはけっきょくは合意形成に基づく幻想なので、対ヤクザということになるとあまり意味がない。たとえば、甲児をつかって丑嶋を倒させ、「あの三蔵を倒した丑嶋を倒した甲児」ということにしても、若い不良の世界では有効かもしれないが、じっさいに暴力を行使してくるヤクザ相手にはほぼ無意味である。そうではなく、三蔵を倒すほどの暴力を抱えた丑嶋それじたいを、物量として求めるのだ。そして丑嶋じしんの発想としては、これを述語としてとらえるというものだ。彼自身は、なめられないために三蔵をくだいたのだが、その結果として三蔵の暴力がじぶんに移動するということは、おそらく考えていなかった。だから、獅子谷が丑嶋に会いたがっているといっても理由を問い、そして会わないのである。彼がなめられないためにとった行動は、そういう貨幣としての暴力をどれだけ手にするかというようなものではなく、誰もとらないような行動をとる、ということだったのだ。愛沢は丑嶋と滑皮を、ひとのあたまにバットをフルスイングできる人間、と形容した。これは卓見で、彼らはその点でふつうではない。ふつうの人間を主語にしたのでは決して成立することのない述語、これを丑嶋は実現できる。その点で丑嶋は周囲を圧倒したのであり、彼自身、そのつもりでいたのである。

見張りの男の言い回しは、この丑嶋の観点に近いものだ。その信じられない行動を、お前はほんとうにとったのかと、このように聞いているのだ。そして、その、常人では述語に据えることのできないことを可能にしたことが真実だとすれば、獅子谷のあたまを砕くという言葉も信頼がおけるものとなる。三蔵のはなしは見張りの男が振ってきたものではあるが、丑嶋はこれを有効に使い、彼にじぶんのことばを信じさせるのである。

 

 

 

次週からしばらく休載。再開は9月25日発売の43号だそうです。一ヵ月後かよ!