■『幼年時代』レフ・トルストイ著/藤沼貴訳 岩波文庫
幼年時代 (岩波文庫)
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「「しあわせな,しあわせな二度とかえらぬ幼年時代! どうしてその思い出を愛し,いつくしまずにいられよう」.文豪トルストイの生涯の出発点にはどのような苗床が用意されていたのだろうか.自伝小説『幼年時代』は,とりわけ心理描写と人物の性格づけにすぐれている.豊富な天分が遺憾なく発揮された巨匠の処女作」Amazon商品説明より
講談社から出ている沼野充義の『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』という本を読み進めているのだけど、これは批評というよりは、チェーホフが生き、作品の結ばれた時代背景とか、いかにも謎めいた(少なくとも作品からは少しも見えてこない)チェーホフじしんのひととなりとか、そういうものを研究者として掘り下げていった感じの本で、すらすら読めるんだけど、当然ロシア文学にちょいちょい触れていくことになるので、気になったもののうち、しばらくぶりにトルストイを手に取ることになった。トルストイが、じぶんの幼年時代を思い返しながら、その通りに書いていった、というはなしではないようだが、それを踏まえたうえで“自伝的に”書かれたものが、トルストイの処女作となるこの「幼年時代」である。
僕はチェーホフを除くとロシア文学には明るくなくて(チェーホフにも別にくわしくはないが)、たんてきにぜんぜん読んでなくて、トルストイとかドストエフスキーみたいな大文豪は、ただチェーホフを相対化するものとしてとらえてきたところがある。チェーホフ以前のロシアにはツルゲーネフがおり、トルストイがおり、ドストエフスキーがおり、世界的にみてもまれな大傑作が生み出され、なにもかも描きつくされたあとの荒野になんだか正体のよくわからない寡黙なチェーホフがひょっこり誕生したと、そんなイメージである。もちろんある程度のものは読んできたが、これはいつもいっていることだけど、大人になるとなかなかこのひとたちが書いてきたような長大なものを読むようなまとまった時間がとれず、「カラマーゾフの兄弟」も「アンナ・カレーニナ」もけっきょく読めていなくて、このあたりは二十歳までに理解できないとしても読んでおくべきだったなと後悔している。だからいま中高生くらいの子はとにかくいますぐこれらを買って、本棚において、夏休みとかに読んでしまったほうがいいですよ。なにがすごいのか理解できなかったとかいう感想が出てきてもかまいません。
そういうわけだから、トルストイやドストエフスキーのなにかしらを読もうとするときに、自然と薄めの1冊完結のものに手がのびてしまうのは人情というものである。しかも、このひとたちの代表作といわれているようなものを読んでいないから、けっきょくのところなにがすごくてなにがおもしろいのかを僕は知らない。つまり、ドストエフスキーはともかく、僕がトルストイを本屋で手に取るときは、トルストイ的なものを求めてそうなるのではないのだ。教養として、読んでおくかという気持ちで手を伸ばすのである。それはそれで不誠実ということはないとおもうが、本書も、沼野充義の本を読んだきっかけはあったけれども、それは「いい機会」くらいのもので、実をいうとそんなに期待した買い物ではなかったのである。もちろん、あのトルストイの処女作なのであるから、当然文学的価値は高い。しかし、そういう問題がとりあえずどうでもよくなるくらい、とにかくおもしろかったのだ。読むのが遅い僕が、仕事の休憩時間とかを使って二日くらいで読んでしまった。
語り手は10歳になったばかりのニコーレニカという少年。「私」の一人称で語られているが、しかしそれは、10歳の少年から見た世界、という書かれかたではない。これを書いたときのトルストイは24歳で、その場所から、当時を振り返るしかたで書かれている。この方法は、最近読んだものだとねじめ正一とか、あるいは前田司郎のような、いかに少年の思考、つまり文体に近づけるか、ということを挑戦的に続ける現代文学の地点からすると、逆に新鮮な感じもする。いくらトルストイが天才でも、ここに書かれているすべての洞察を少年時に行っていたとは考えにくい。また、特に母親にかんしてはほとんど創作のようで、本書でも愛するママは若くして亡くなってしまうが、じっさいのトルストイの母親は物心つく前に他界しているらしい。しかしそうした創作は些細なことかもしれない。まず、トルストイのなかに、幼年時代への憧憬と、「あの感じ」としかいいようのないなにものかがある。なにもかも記憶しているわけではないから、小説として自律させるためには、各所にフィクションとしての補強を施さなければならない。また、そうすることによって、小説じたいも中立的なものになる。たんにトルストイが美しい思い出を列挙し、そこに浸るさまを公開しているだけなのではなく、読者もまた、じしんの幼年時代の美しい景色をそこに付託し、みずから“フィクションとして”加工し、体験することになる。わたしたちが「幼年時代」を通して思い返す、わたしたちじしんの記憶も、作品を通してフィクションになるのだ。トルストイがどこまで意識してこういうことをしているのかはわからないが、おそらくこの創作されたぶぶんというのは、記憶が薄れているとか、展開上都合が悪いとか、そういう実際的な要請によるものではなく、小説として必要なことだったのだ。
僕はむかしからロシア人の名前が覚えられなくて、本書でも難儀したが(だいたい「カルなんとか」みたいな感じで記憶して、あとはバイブスで読んでいるので、似た名前のひととかが出てくるとパニックになる)、自伝的であるゆえか、ずいぶん前に括弧の補足のなかでちょっとだけ名前が出てきたひとがふつうにしゃべりだしたりして、そのあたりも独特だった。しかしそれで苦労するのも20ページくらいのもので、慣れてきたらすらすら読めてしまうから不思議である。それもこれも、幼年時代の「守られている」感覚がもたらすものと考えられる。その時代には、いろいろなひとが身の回りにいて、風景を彩っていた。あのときはあんなひとがいた、こんなひとがいた、そういえばいま思い出したけどこういうひともいたな、というような思い出しかたは、わたしたちもするだろう。子どもの属するその世界を大人たちは守り、子どもの友達や親戚は世界を豊かにする。それこそ、大人の視点からしか見えない要素もある。たしかに、少年の文体、少年の思考法で書かれた小説は、そのぶんリアルで生々しいが、どれも少年らしく一直線の目線で書かれていることが多い。非常に視野が狭く、洞察も一元的なのだ。大人が振り返るしかたの幼年時代は、それを乗り越えて、ある種の客観をそこに付け加えるのだ。その意味で、僕は太宰治を連想したりなんかもした。少年・青年時代の衝動的な、いまでいうところの“黒歴史”を語るのを太宰は得意(?)としたが、その手つきがよく似ていたのである。
ニコーレニカの家は土地を抱えた貴族で、金銭面のやりくりでそれなりに問題を抱えているとしても、公平にみて裕福な家庭である。兄弟も何人かいるが、それぞれに個性豊かな家庭教師がついており(ママはどうやら子どもたちを学校に行かせたがらなかったらしい)、メイドのような家付きの労働者も何人もいる。沼野充義の『チェーホフ』によれば、本作は「子供時代」を発見したロシア文学で最初の一冊だということだ。フランスの歴史家、フィリップ・アリエスによれば、中性のヨーロッパでは「子供」というものが存在しなかったのだという。子供は、ただ「小さな大人」であって、そのころの絵画などを見ても、いまでいう「子供らしさ」のようなものは子供の姿から見出すことができない。「子供の発見」にかんしてはルソーが有名だが、同様にして「子供時代の発見」にかんしては、ロシアでこの『幼年時代』が与えた影響は大きいようだ。しかしこの点にかんしては、のちにトロツキーが(直接トルストイ宛にということなのかよくわからないが)批判を加えている。要するに、トルストイは非常にめぐまれた環境で育ったわけである。貧乏な家で育ったものたちにとっても同様に子供時代が美しいとは限らないのだ。しかし、そうした批判をある程度認めつつも、なんだかいかにも政治的な批評というか、作品の価値という点で見たときは、些細なことにおもえる。トルストイの描き出す「幼年時代」は、たんに裕福さによって保証されているものばかりではない。
とりわけその自意識過剰なふるまいで、白眉は大好きなママが亡くなったあとの、葬式の場面だ。じっさいに物語を紡ぐトルストイがたいへんな洞察力なので見えにくくもなるが、当時のニコーレニカは、それほど傑出した才能の持ち主という感じはない。どちらかといえばふつうの感性の、素朴でおとなしい少年という感じだ。だから、愛する母親を失って、彼がたいそう悲しむことそれじたいは、なんでもない。特に、死んだ母親をいれた棺を前にして、ひとりで呆然としているときには、ほとんど忘我の境地で、この悲しみに耐えている。しかし葬式のとき、彼は一種の自己嫌悪に陥る。じぶんがいったいどう見えているか、悲しんでいることが周囲に伝わっているか、そういうことにつねに返っていきながら、母親を失った少年を演出してしまうのだ。
「葬式の前も、あとも、私はひっきりなしに泣き、悲しんでいたが、その悲しみを思い出すのは気恥ずかしい、なぜなら、それにはきまって、一種の自尊心がまじっていたからだ――ときには、自分がだれよりも悲しんでいるのを見せたいという気もち、ときには、自分が人にどんな印象をあたえているかという懸念、ときには、ミミーの室内帽や居ならぶ人たちの顔を観察せずにはいられない、目的のない好奇心などが、まじっていたのだ」
「その上、私は自分が不幸なのを知って、一種のたのしさを感じ、不幸の意識をかきたてようとつとめていた、そして、このエゴイスティックな感情が、なににもまして、私の中の真の悲しみをかき消していた」168頁から169頁
この場面に限らず、ニコーレニカはつねに「他人からどう見られるか」を意識して、いま考えると妙なことをしてしまったり、それが空回りして失敗してしまったり、そういうことをくりかえしている。こうしたことは僕にも覚えがあるし、ほとんど普遍的といっていいとおもわれるのである。ここにかんして、ニコーレニカの家が裕福であるかどうかなどということは、それほど重要な問題とはおもわれないのだ。
また沼野充義に戻るが、『チェーホフ』によれば、ドストエフスキーやトルストイは基本的に「宗教作家」なのだという。ロシアの宗教のことをなにも知らない日本人が彼らの小説を読んでなにがわかるのか、という批評家の言を、沼野充義も「一理ある」としているのだ。そうした視点でみれば、まず『幼年時代』は宗教的な愛の探究であると読めるかもしれない。トルストイの描き出したものがある普遍性を帯び、読者もそこに感性を託すことで、幼年時代を振り返ってそのまどろみに浸ることはできるが、それがなんなのかという言説はあってもいいだろう。これにかんしてはその宗教的な愛の探究、特に、信心深かったナターリア・サービシナや、母の死を経験してはじめて受け取った喪失感と、それが意味するところが重く描かれているのだと、さかしらにいうことはできるかもしれない。しかし本書が古典たるのは、もっとたんじゅんなことではないかと僕はおもう。それは、やはり「幼年時代の発見」にほかならないのである。ニコーレニカの自意識過剰なふるまいに覚えがあったとしても、ニコーレニカはわたしではないし、僕の視点からすれば、そもそも国も時代も異なっている。しかし、逆にいえば、それにもかかわらず、僕らはその感覚を「知っている」と感じてしまう。これは、厳密にいうと、「知っていることが書かれている」のではない。書かれているのを見て、「知っていたことに気づく」のである。初恋の甘酸っぱさ、たまにしか会えない親戚の美しい異性と仲良くなったときのスリル、尊敬と同時に恐怖も覚える年上の同性、いじめにも近い残酷な感性、こういうものが、トルストイの手による物語を通して、僕たちのうちでははじめて立体的になって陰影を帯び始める。ひとによっては何度目かのものかもしれないが、ともかく、わたしたちにはそういう時代があったのであり、それを思い出させるのではなく、人生の連続性のなかに埋没している美しい風景を、それは発見させるのだ。
本書にかんしては藤沼貴というひとの翻訳がすばらしかったということもあるかもしれない。50年も前の翻訳だけど、それほど古さを感じなかったし、解説なんかを読んでも「とにかく読ませる」という感じが強い。ロシア語やロシア文学の専門家である以前に非常に文章の上手いかたなのではないかとおもう。岩波文庫の小さい文字のフォントで最初は「おっと」となったけど、読み出したら止まらなかった。
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