『杳子・妻隠』古井由吉 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『杳子・妻隠』古井由吉 新潮文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「杳子は深い谷底に一人で座っていた。」神経を病む女子大生 〈杳子) との、山中での異様な出会いに始まる、孤独で斬新な愛の世界……。現代の青春を浮き彫りにする芥川賞受賞作『杳子』。都会に住まう若い夫婦の日常の周辺にひろがる深淵を巧緻な筆に描く『妻隠』。卓抜な感性と濃密な筆致で生の深い感覚に分け入り、現代文学の新地平を切り拓いた著者の代表作二編を収録する」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

 

古井由吉は、名前は知っているが読んだことのなかった作家で、今回ようやく手に取ることができた。又吉直樹の「夜を乗り越える」で紹介されていたからである。小説のほうはまだ読んでいないのだが、やはり自発的にたくさんの本を読んできて、小説というものを心底愛しているひとなので、少なくとも本を紹介することにかんしてはすごいものがあるのだ。(それ以外には中村文則の「何もかも憂鬱な夜に」を購入済。こちらも激賞なので期待している)

それ以前までは、又吉直樹も書いていることだが、古井由吉をもっと古い時代の作家だとおもっていた。昭和の戦前くらい・・・。たぶん名字のせいだとおもうけど、深沢七郎とか、そのくらいの世代かと(深沢七郎も未読だけど)。カバーのプロフィールによると1937年生まれで、芥川賞を受賞したこの「杳子」が71年だそうだから、ちょうど学生運動が終わりかけているころだろうか。村上春樹とかよりひと回りうえの世代だ。

 

 

作風としては・・・といってもこれがはじめての古井作品なので、本書を読んだ限りではということだが、これまで見たこともないほど内向的なものだった。じっさい内向の世代というふうに呼ばれていたこともあるらしい。内向的であることは、別に珍しいことではない。それをいったら村上春樹だってずいぶん内向的だろうし、古井由吉より先の世代の、第三の新人に属する作家たちだって、内面的なことを描いてきたといえるかもしれない。村上春樹の場合は、内側に沈潜することで出てくるものをメタフォリカルに描くうちに築かれた、長大で堅牢な物語が普遍性を帯びていき、第三の新人は他者との関係性においてそれを浮かび上がらせて、むしろ表面的には語り手の内面はからっぽである、なんていうふうにいっていいだろうか。しかし、とりわけ「杳子」には、そういう領収書の但し書きのようなものはつかない。ひたすらに内面を描いていくことにこだわり、物語らしい物語もないままで、小説をそれとして動かす技法さえ内面の葛藤から生み出されているかのようである。

 

 

「杳子」も「妻隠」もふたりの男女の物語で、解説の三木卓はこのふたつの作品を延長線上にあるものとしてとらえている。ごくあっさりと今風の言い方をしてしまえば、「杳子」の杳子は、じゃっかん、いやかなり「病んでいる」女の子である。これと、主人公の男が谷底で出会う。うずくまって動かない杳子を、男がリードするかたちで下山し、不思議なつきあいがはじまっていく。ほとんど動きのないその、いってしまえばカップルの親密さの深度の推移を、彼がああでもないこうでもないと考えていくだけなのだが、まあこう、じっさい書いてみてよくわかったが、ぜんぜんそんな小説ではない。見たこともないような、粘度の高い表現がいっぱいで、難しいことばがつかわれているわけでもないのに僕は読むのにずいぶん時間をかけてしまった。まず、いま書きつつ確認してびっくりしたのだが、「杳子」は一人称小説ではなかった。僕はいま、彼のことを「語り手」と書いてから、まてよとなって確認し、「主人公」と書き直したのである。それだけ、思考の粘度にとらわれて、事物の境界線があいまいなのである。

「病んでいる」杳子の影響なのか、男もなかなかふつうではない感じが、遠目には感じられるのだが、これもまちがっていた。というのは、ふたりが谷底で出会ったとき、というか彼女を目視し、話しかける前から、この異様に重みのある文体は開始しているのである。つまり、男は最初からこうだったのだ。

 

 

というようなわけで、内容の説明も、そこから受け取った事柄も、非常に説明が難しいのだが、細かく言質をとるようなことはせず、いまおもっていることをそのまま書いて、その都度作品に戻ることにしよう。いま見たように、読みつつ思い込んでいたことと事実がずれている可能性はかなり高いのだが、これはじっさいそういう小説なのだ。

おそらく、本書を置いてしばらくしてからこの小説のことを思い返してみてまず出てくるイメージは、女体の円みではないかとおもう。生々しい女性のからだのまるみ、これが、においまで感じられるほど間近に迫ってくる。しかしそこにはエロスはなくて、容器というとくっきりしすぎているが、一種のとらわれとして動いている。意のままにはできない外部的なものがあって、いわゆる「病んでいる」という様態は、その外部的なものとの衝突によって病症をあらわにする。しかしもちろん、杳子の抱える病気のようなものがけっきょくは相対的なものであるとか、正しさなんてものは不確定だとか、そういうようなことが描かれているわけではない。だがとにかく、その外部からのとらわれは、じっさい苦しみとして彼女に、また彼にやってくる。そういう齟齬みたいなものが、まず女体にあらわれる。というのは彼が男性で、親密になれば当然肉体関係も生じてくるわけで、彼の目線からすれば記号としても、欲情の対象としても、とらわれの顕現としても考えられる肉体のまるみの内側に、最初に出会ったときのように、彼女はうずくまっているのである。しかし、肉体関係を通したときには、まるみよりも輪郭が淡くなっていくような感じもある。関係を通して、肌の向こうに杳子の病気と結ばれるような感覚が訪れ、頻出する表現だが、周囲の鮮明さが際立っていく。ときには、杳子を病気につなぎとめているのはじぶんじしんなのではないか、と考えることもある。三木卓は、こういうことを延々と考え続ける彼も、杳子の精神的近縁者であるとしている。事実、彼は杳子を守ったり治療したりという存在であるというよりは、病気にともに寄り添って苦しんでいるもののようにおもえる。主人公の男と作者はおそらく遠いが、それでも、こうしたことを考えていると、たぶん彼にとっては言語というものが思考の中心にあって、周囲をくっきりととらえようとしたときまずそれが起動することが、彼を杳子に近づけたのではないかと僕にはおもわれる。杳子は、病気がやってきても谷底でうずくまっていればいつかは波が過ぎ去るので、ただ待てばよかった。しかし、彼がひょっとして彼女を病気にとどめているのはじぶんではないかと考えるように、杳子はむしろ彼との関係性において内部に沈潜することをみずから選んでいるように見える。そして、彼においては、外部の規範として言語というものがある。それは一種の正しさであって、現状を捕捉するために彼が使うことのできる唯一の道具だろう。しかしそれも、杳子の肉体がそうであるように、ときに輪郭を曖昧にし、ありかを不確定にしてしまう。この文体は古井由吉に一貫しているもののようだが、書くほどに、外部からの連絡を重ねるほどに、事物のコアのようなものは逃げてしまう。

 

 

「杳子」は大学生くらいの男女のはなしだが、「妻隠」は、30歳くらいだったかな、狭いアパートに暮らす夫婦のはなしで、こちらの礼子はとりたてていうほど「病気」ということはないが、たしかに、これは続けて読むことの可能な作品だ。礼子のぶぶんを杳子とかえてしまえば、彼らのその後といわれても気がつかないかもしれない。

そして、両者に通して非常に印象的なのが「癖」についての描写だ。まず「杳子」では彼女の姉の描写である。杳子の姉も、かつては妹とまったく同じ症状を見せる病気だった。しかしいまでは、結婚と出産を経験したせいか、「健康」な暮らしをしている。その同居中の姉が、主人公の男が杳子を訊ねて家にやってきたときにみせるふるまいだ。部屋に紅茶とケーキを運んできた姉を、杳子はそっぽを向いて一瞥もしない。しかし、にもかかわらず、姉がどういう動作でなにをしていったのか、正確に言い当ててみせる。つまり、誰が訪ねてきたときでも、姉は必ず同じ動作を行ってきたのである。杳子はそれを「健康」と呼ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの人の一日はそんな繰返しばかりで見事に成り立っているんだわ。廊下の歩きかた、お化粧のしかた、掃除のしかた、御飯の食べかた・・・、毎日毎日、死ぬまで一生・・・、羞かしげもなく、しかつめらしく守って・・・、それが健康というものなのよ」163頁

 

 

 

 

 

 

 

「妻隠」では、主人公の寿夫が妻を見るときの姿勢にじぶんで癖があることに気づく、という場面が2箇所もある。仰向けに寝そべったまま妻のほうをみるときに、首を斜めにそらせて、へんなふうなポーズで見るのが「癖」なのだ(214頁、220頁)。彼はそれを最初醜悪といい、次に憮然とする。習慣的に、意識せずにとられるそうしたふるまいが「健康」を保証するのだとしたら、なにがそんなに醜いのだろう。おそらくこの「癖」の宿しているものが、杳子たちが耐え難い鮮明さで受け取る外部なのである。外部といっても、他者的なもの、社会関係的なものばかりとは限らない。ひとりではどこにも出かけられない杳子を鍛えるためもあって、彼らはいろいろ試みるが、たしかにそうした人ごみのなかで杳子がひどい状態にならないこともないが、問題になっているのは関係性それじたいのほうではない。そこで彼女の肉体や精神になにが起こっているのか、ということのほうなのだ。杳子は、姉の「健康」を憎んでいる。はっきりってよく似た姉妹なわけだが、姉のように「癖」を無意識にまとって、じぶんがなにを行っているのか自覚のないまま生きていくことが耐えられない。むろん、癖というものは、マスターしようとしたり、そうならないように気をつけたりしてかんたんに着脱できるものではない。自然としぐさに宿ってしまっているものだ。自我のコアみたいなものが肉体のなかにあるとして、わたしたちはその肉体をよく乗りこなすことによって生きており、その過程に癖は染み付いていく。ところが杳子はそれに耐えられない。だから、肉体に翻弄される。からだの重みにとらわれ、不自由に、谷底にしゃがみこむことになる。

杳子のそうした要素が、寿夫にもある。「杳子」に比べると「妻隠」のふたりは結婚もしているし寿夫は社会人なので、少し物語の幅が広くなっている感じはあるが、それでもどことなく閉鎖的であることは変わりない。外部的なものに翻弄されるコアどうしが、病気的な要素で連帯する、その点では二作とも通じている。「妻隠」の印象的な風呂場の「ぴしりと定まった」描写は、この連帯を同棲という状況において守るものだろう。しかし「妻隠」ではもう少し、文字通りの外部的要素が彼らの版図を揺さぶってくる。寿夫に女を紹介しようとする老婆と、礼子と同郷のヒロシという男だ。また、「妻隠」には夫婦が相手の顔を認識できないという箇所がふたつも出てくる。高熱で早引けした寿夫は家の真ん中で横になっているのだが、これが夫だということが礼子はだいぶわからない。顔がわからないのだ(208頁、209頁)。また、寿夫は寿夫で、眠っている妻を見て、「まるで見も知らない女がいつのまにか部屋の中に入りこんで寝ているように見えてくる瞬間があった」という(228頁)。「妻隠」は基本的に寿夫の高熱による1週間の休日の物語だが(後半のほうではもうとっくに治っているのだが)、おもえば高熱というのは肉体が精神についていかないもっとも一般的な状況である。これを経て、寿夫は外部から一時的に離れることになった。ここでいう「外部」とは、会社を中心にした文字通りの生活上のものと、コアの外側という意味のふたつを含んでいる。高熱は、そのときだけ、寿夫を「癖」から解き放った。「癖」は、精神がしっかり肉体に馴染んでいなければ発動しないからである。そうして、結婚と同棲の結果として馴染ませざるを得なかった肉体と精神、癖とコアが乖離した。しかし、家に引きこもっていても、外部的要素は周囲に満ちていて彼らを放ってはおかない。礼子とヒロシが同郷であるというのは動かし難い数量的事実であって、夫婦にはない外部的連帯を彼らにもたらす。結果として、「杳子」の輪郭が曖昧にぼやけていったように、彼らは互いの顔がよく見えなくなる。結婚とか同棲とかいうことも、ある意味では外部的要素であり、「癖」にちがいない。いってみれば、「杳子」のふたりあやうい足場のまま、どこにたどりつくのかもわからない刹那的連帯をしていたのの先に、連帯の社会化としての「同棲」があるのである。しかしそれは、そうすることによって信頼のおけるものになる、というようなものではない。彼らの連帯は、病気を保存するものとしながら、「癖」をそれなりに認めていこうと努力するものだろう。そうすれば、肉体は輪郭を結び、相手の顔も見えてくる。うまくいけば「健康」になって、それを憎んでいたことも忘れることができるかもしれない。しかし高熱が、彼らをその羈束から放ってしまう。不意に自覚された癖は醜悪なものとなり、ふと目にした妻の顔が他人に見える。その自覚が、精神的連帯の社会化としての同棲も無効にしてしまう。少なくともその不安を呼び込む。それが、闖入者としてではなく、すでにあったものとしてのヒロシや老婆という存在を再認識させるのかもしれない。

 

 

「杳子」の主人公も寿夫も、病気的要素を抱えて、言語による世界の再構築をくりかえししているような人間で、いってみればその思考の経過そのままがこの小説だ。僕としてはずいぶんむかしにこういう小説の書き方が成立していたということに驚きなのだが、とはいえ、性質上すらすら読めるものではないから、ずいぶん時間もかかったし、疲れてしまった。若いときに読んでいたら強い影響を受けていたかもしれないなと、そんなふうにおもった。