今週の刃牙道/第155話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第155話/国家(くに)の為

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

警察のちからを結集させたSTATだったが、ほとんどなにもさせてもらえないまま武蔵に追い返されてしまった。光成や総理をはじめとする国の最高権力者たちが次の作戦について話し合うが、STAT以上の戦力としてすぐに思いつく自衛隊は「目立つ」という理由でつかえない。武蔵はたんにやたら強い暴れものというだけでなく、クローン技術によって誕生した存在じたいに問題が含まれている事案だ。また、そんな個人に大勢で挑んで下手すると負けるという状態も、国民に見せるわけにはいかない。武蔵が自衛隊とか米軍とかの基地や訓練所に迷い込んでくれたりしたらはなしは別だろうが、そうでない場合、街中で戦車やパラシュートを展開させるわけにもいかないだろうと、こういうはなしである。とはいえ、装備的にはほとんど軍隊のようなものだったSTATが、人目を回避して武蔵との戦闘を開始できている。その方法は、想像するしかないが、たとえば、街中に散っている警官のひとりが武蔵を見つけ本部に報告、部隊が集結するまでそのものが視認し続け、同時に警察の手によってひとを払い、立ち入り禁止と、こういうものであろうと考えられる。だとするなら、同じことを自衛隊がやればいいとも考えられる。自衛隊のものものしい服装が問題だとするなら、周辺の警備や人払いは警察に任せて、戦闘じたいを自衛隊が行うというのはどうだろう。それとももうあの迷彩みたいな服じたいをやめてみんな私服で集まってもらうとか・・・。そういうのは規則があってだめなのかな。ともかく、STAT展開後に自衛隊が目立つといわれてもなかなか首肯しがたいものはある。となると、考えられるのは、総理が自衛隊を「目立つ」というときの状況は、STATの比ではない人員や火力を用いているものなのだということだ。彼らは最初からそうだった。最初から、そうして武蔵の実力を見誤ってきた。12人の警官がダメだったから100人に、それがダメだったからテロ対策のひとたち100人に、という具合に、出動させる部隊を質や量の面で増すことで、武蔵を押さえようとしてきたのである。なぜ12人で、100人でダメだったか、そういう分析をした結果、STATが投入されたわけではないのだ。同じことを総理たちは想定のなかで行っている。もしこのあと自衛隊を派遣するのだとしたら、それはSTAT以上の物量のものでなければならない。それはさすがにもう目立ちすぎると。物量でしか対武蔵の戦力を考えていないから、戦闘機が飛んで戦車が街路樹や電柱をなぎ倒してすすむような、そういう景色を、おそらく想像したにちがいないのである。

 

 

というわけで、とにかく、おそらく武蔵には幸運なことだったろうが、自衛隊はナシ。そこで内海が提案したのが「反社会的勢力」であり「刃物」慣れしている花山薫なのであった。

内海はさすがの胆力で、花山の迫力に衝撃を受けながらも表面は冷静に、おだやかにはなしをすすめている。これは花山にとってもわるいはなしではない、国家の為に一肌脱いではくれないかと、丁寧にいう。

花山は椅子の肘を置くところをかたく握って、うかつな言葉は慎むことだと、落ち着いていう。「国()の為」というところが問題だったようだ。国家の為にヤクザつかってどうすると。御国が気の毒だと、背後にある日の丸を親指で指しながらいう。現実はどうあれ、つまりヤクザというものが現状どういう受け止められかたをしているか、どうやって生活しているかということはどうであれ、一般的にそれは反社会勢力であって、国の定めたルールにしたがっていないという点では武蔵同様反逆者である。それに頼って武蔵を制そうとしたのでは、ルールを抱えて成り立つ「国家」が気の毒だと、そういうことだ。ヤクザと警察(国家)は敵同士なのだし、逆にいえば、敵同士でないのだとしたら、もうそのありようはヤクザのものとはいえないだろう。

内海は言い方をかえる。「国家の為」などという言葉で気を引こうとした無礼をわび、正直におもうところを語り始める。テロでもない、サイコでもない、マニュアルの通用しない怪獣のようなもの、それが武蔵だと。じぶんたち警察ではもう手に負えない、どうすればよいかわからない、そこで花山が立ち上がる。内海はそういう物語を花山に聞かせる。反社会的勢力というよりは、弱きを助ける「侠客」として、花山にとってはたしかにわるいはなしではないはずだと、こういうことだ。

それはそうかもしれない。でも、今日は帰ってくれと、花山はいう。警察とヤクザの溝は深いのだ。内海はため息をついて、あきらめて帰ろうとする。だが最後に、敬語をやめて、建前の向こうの警察としての本音の、さらに向こうにある個人的な本音を語りだす。武蔵に斬られた大塚が、なんと内海の同期だというのである。たしかに年齢はそれぐらいか・・・。大塚は警部補だったとおもうが、現場が好きでじぶんからとどまっていたタイプなのかも。冷たい視線だった花山も木崎もちょっと表情を変える。内海の行動は、もっとも深いぶぶんで個人的な恨みを原動力としていたのだ。内海は、じぶんの手で、といっても彼自身のもつ拳銃でという意味ではなく、彼の指示する警察の手でということだが、仇を討とうとしたが、かすり傷ひとつつくれず、結果殉職者の山だと、そのように泣き落とすのであった。

ついに地面に膝をつき向き直った内海が花山に土下座をしようとする。しかしそれを、すぐ近くまで歩み寄っていた花山がとめる。警視総監がそれをやっちゃいけないと。はなしはわかったから、帰って一杯やっててくれと、このようにして、花山は依頼を承諾するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

うーんやっぱり花山は主人公レベルの人柄だなあ。主人公がなんだか妙な領域に悟っちゃってるころ、花山は敵の依頼を受けて死がほぼ確実な武蔵征伐に乗り出してくれちゃうんだから。

 

花山は内海に頭を下げさせない。誰もみていないので象徴的な意味にはならないとしても、警視総監がそんなことをしてはいけないと、花山はいう。これはヤクザのヤクザとしてのありかたがどのようなものか、はっきり自覚したうえでの発言だろう。ヤクザは反社会的な存在で、要するにひとことでいえば、犯罪でくちに糊している。犯罪というのは刑法で解釈したときのよびかたで、国の定めるルールに違反しているという点では反逆者であり、翻って反逆者である武蔵は刑法では犯罪者である。内海の依頼が有効かどうかという点は措いたとして、その点は変わりない。そして、ヤクザは反逆者であることをやめることができない。彼らの行いは、一般の国民がまずしないことであり、しないことだから、それで稼ぐことができる。アル・カポネが禁酒法時代に酒でもうけた件を思い返せば理解はたやすいだろう。禁止されているからこそ、酒には高値がつき、闇世界で流通するそれを支配するカポネが、実質アウトローの王者となった。しかしすべてのものが酒を当たり前に飲む世界、すなわち禁酒法のない世界では、もうその方法は通用しない。ルールがまずあり、それに違反する行為をあえてとる、そういう相対的な行動をとっているものを反社会的と呼ぶのであり、そこに組織的に関わって支配するのが彼らなのだ。だから、彼らはまず表の世界の厳然としたルールが確立しないことには、存在することができない。国家と法律、そして警察のような具体的な仕組みがないところでは、ヤクザがヤクザとして存在することはできないのである。警察はたしかに武蔵にお手上げで、花山にたよるしかないという状況になっているのかもしれないが、しかしだからといってヤクザは警察のうえに立つことはできない。もし仮に、法律が変わって、現在のヤクザ的ありようが正当なものだと認められることがあったとしても、それは別にヤクザが警察の上に立つということを意味するわけではない。禁酒法がなくなったからといってカポネ的ありようが警察の上になるわけではないのと同じことだ。彼らの本質は、その内容ではなく、ルールとの関係性にあるのだ。

 

 

花山は利ではなく義でこの依頼を受けることにする。義とか侠客とかいった概念については、ちょっとあんまり考えたことがないのだが、たとえば義賊というものがある。フィクショナルな存在といえばそうだが、ともかくそういう概念がある。金持ちからお金を奪って貧乏なひとたちにわけあたえるという、泥棒は泥棒で犯罪者だけど、やってることは一見すると正義であるという、ロビンフッドみたいなものだ。こういう場合「義」とはなんだろうか。かたいことをいえば、これが犯罪者であることはまちがいない。ひとからものを盗むことは、認めるわけにはいかない。自由にひとから奪っていいですよ、というふうに定めてしまったのでは、そのほかの法律があったとしても、少なくとも奪いあいの面では自然状態になることを免れないだろうし、それではその他の法もほとんど意味をなさないだろう。けれども、持ちすぎているものから奪い、不足しているものにそれを与えるということは、表面的には「よいこと」とどうしても考えられる。どうしてこういうことが起こるかというと、社会契約の結果生じる法というものが、そもそも万能ではないからだろう。こうした義賊がもし「よいこと」とされたとすれば、それはもう、金持ちと貧乏の格差がふつうではない状況になっているということだろう。明日にも餓死しそうな平民がいるいっぽう、日々怠惰にすごす、豪奢をきわめた金持ちがふつうに存在している、そういう状況だ。自然に契約を守り、歴史が進んでいく結果こうなってしまったのだとすれば、それは「法」の側になにか問題がある可能性を考えたほうがいいのかもしれない。その問題点を洗ったり、じっさいにどうやって世の中を変えていくか考えたりということは、もっとあとのはなしだ。いまこの瞬間、あまっているパンがあり、餓死しそうなひとがいる。義賊はそれに応えていく。いま現実に機能しているシステムに問題があるか、あるいは為政者がふつうじゃないひとなのか、ともかく悪政で、こういうことになってしまっている、つまり、いってみれば法のとりこぼしを、義賊はカバーするのである。白川静によると、「義」という漢字じたいにはまず「ただしい」という意味があるようだ。これは羊と我のふたつのぶぶんにわけて考えることができ、我はノコギリを意味していて、神への供物としての羊をふたつにわけて、内臓などすべてが完全にそろっている状態であることを示した、そういう形のようだ。孟子では羞悪の情を意味するようだが、資料もないので考えない。もちろん、「ただしさ」というものに絶対的な基準などない。理論的にはそうだろう。ここでいうただしさというのは、法にしたがっているとか、前後の関係からそうであるとしかいえないとか、そういうことではなく、ひととして理屈ぬきに胸うたれるかと、そういうくらいの意味ではないかとおもわれる。むろん、その打たれた胸の内にある感性も、環境や教育などが規定した後天的なもので、歴史的必然性はないと言い切ることはできる。しかし、たとえば大雨でずぶぬれになりながらしょぼしょぼ泣きべそかいて歩いているやせっぽちの子どもを見て、歴史的必然性を検討してから行動するものはいないだろう。おそらくここでいうただしさとは、後の文脈、あるいは場所をかえたときの文脈でどうなるかということとは無関係に、いまこの瞬間身体的に感じられる一時的なものなのだ。義賊の行いもそうしたレベルで考えると理解しやすい。泥棒じたいは悪だろう。いくら金持ちが持ちすぎているからといってそれを奪っていいということにはならない。でも、いま目の前に餓えた民が大勢いて、苦しんでおり、それをかわいそうだとわたしがおもったことは変えられない。そういう、ほんらいあるべき姿から逸脱しているという意味で「不正」な状況を目にしたとき出てくる行動を形容するもの、それが「義」であると考えられるのである。

花山においては、まず警察のいうことはきけないという必然性がある。つまり、警察を相対化する「ヤクザ」としては、この依頼を受けることはできない。しかし「義」の文脈は、この相対化を抜けることができるのかもしれない。義がしたがうところの「ただしさ」は、法のようなルールが定まる以前の身体的な、衝動的なただしさだ。「餓えているひとがいる、助けよう」という、いまこの瞬間のただしさなのだ。これにかんしては警察もヤクザもかんけいがない。花山は内海の本音をきき、最終的には警視総監という立場を忘れて土下座までしようとするのを見て、胸打たれたにちがいない。そうして、おそらくは警察としてではなく、内海個人の依頼として、このはなしを受けることにしたのである。

 

 

さて、それはいいのだけど、現実問題花山がどうするのかということはある。花山も武蔵もある意味では同じ側、反逆者であることは変わりない。ここから先は、花山がどういうアプローチをしていくかにかかっている。依頼じたいは義の文脈で受け取ったが、ヤクザとしてそれを実行していけないわけではない。徹底的に悪党として武蔵に挑めば、集団でかかることも、銃で撃つことにかんしても、STATがトラウマ的に抱えて実力を半減させていたものがないぶん、いい勝負をする可能性がある。なんなら遠くからの狙撃だってやってのけるだろう。しかし義のものとして武蔵制圧を行うのであれば、こういうことはなくなってくる。そのとき花山はおそらく、ヤクザ的手法より、いつものステゴロスタイルを優先させるにちがいない。そうなるとかなり危ない。いくら刃物なれしているとはいえ、花山のスタイルではいくらなんでも相性が悪すぎるのだ。

しかし、これまでになかった状況を生む可能性もある。というのは、これまでの警察戦は「戦」だった。ルールどうしの対決で、どちらがよいか悪いかというのは、とりあえず戦争中は放棄されるような状況だった。しかし義からの攻撃は相手を悪と規定するだろう。もちろん、花山が行動で宣言する善とか悪とかは、花山がその瞬間に身体的に感じただけのものであって、一言で言えば深い意味はない。たたかいが終わったあと、勝ったほうが善になるとか、そんなようなこともたぶんない。しかしこういう状況じたいがあまりないので(渋川が烈の件で怒ったくらいだろうか)、どうなるかは予測できない。その意味ではなにか根本的な変化が期待できるかもしれない。