実写版『美女と野獣』 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

 

 

 

 

 

 

ディズニーの数あるプリンセスアニメでも転換点的な位置にある「美女と野獣」の実写である。

アナと雪の女王もそうだったけど、ディズニーの特にプリンセス映画は鑑賞するひとの数がバカでかいので、プロの評論も含めて、数え切れないほどの解釈であふれている。そういうのを読んでいけば、プリンセス映画にたいしてくわしくなくても、作品を通して感じられたものの裏をとることはできる。美女と野獣のベルが歴史的に特殊であることにかんしては、まずその主体性があげられるだろう。ごくごくたんじゅんに考えて、たとえばシンデレラとかオーロラ姫とか、その手の古典的ヒロインは、白馬に乗った王子様を待つ存在だったろう。ベルにもその面はある。それを否定もしない。ただ、それが、なんというか、彼女を構成する要素の一部分に後退している。本が好きで、好奇心旺盛に未知を求めるそのありかたも、近代以降の女性のものだ。本が好きであることが表象するのは、「ここではないどこか」を求める知的探究心なのだ。この探究心はかなりかたちを変えてラプンツェルに受け継がれているかもしれない。ラプンツェルのばあいは、その秘めている特質・才能のために、塔の上に監禁されているが、それがむしろ彼女の外部への好奇心を高めることになっている。ただ、構造的には、ラプンツェルの誕生日にあがる無数のともし火の正体がなんであるかを解くことをもっとも大きな目標としてラプンツェルは旅立つので、あれは「じぶんが何者なのか」という一種の自分探しの旅と読むこともできる。そのように書くとあまりいい印象をもたらさないかもしれないが、これはファミリーロマンスとか貴種流離譚的な見方をしてもいいだろうし、ラプンツェルのばあいはじしんを相対化する「他者」というものがまったく欠けていたので、ことばのままに、じぶんというのがほんとうはどういう存在なのかを知的に探究する、幼いものがからを破ろうとする試みであったと考えることもできる。アナと雪の女王になるとあらゆる面で革命的すぎるが、プリンセスがふたりに分離することで、部分的に白馬の王子様を期待するアナと、他者に期待することをあきらめてひとりでストイックに生きていくことを決めたエルサが、王子の登場を待たずに合流して新しいプリンセスの位置を作り出したとか、そんなふうにいうことはできるかもしれない。特にアナと雪の女王にかんしては一回しか見ていないしそれもずいぶん前なので、これ以上深入りはしない。

 

 

ここでは美女と野獣だ。美女と野獣のなにが特殊だったかというと、ベルの女性としての主体性のあらわれももちろんだけど、見て分かるのが、王子様が野獣だということである。つまり、イケメンではないということである。美女と野獣が公開されてからずいぶんたった現在では、むしろ別の疑問も浮かんでくる。つまり、野獣が「野獣」と呼ばれるのはその見た目のせいなわけだが、そうでなかったとしてもベルは野獣を好きになったのかということだ。最初、この王子が老婆に化けた魔女を城に入れなかったあの時点では、王子にも野獣性はすでに宿っていた可能性はある。傲慢で放蕩な人間ではあったが、なにが野獣であるのかというと、それはひとことでいえば、「他人の痛みをじぶんのものとして感じることができない」というようなところになるだろうか。実写版では、なぜ王子がそういう人間になってしまったかも繊細に描かれている。独裁的に、じぶんの欲求だけを優先させて、まわりをそれに従わせる、そんなありようが、たしかに野獣的といえばそうかもしれない。魔女が呪いを解くために課した条件は、言い回しの細部は忘れたが、ひとを愛すことを学び、そしてそのひとから愛される、ということだった。あるものをこころの底から愛することは、以前の野獣でもあるいは可能だったかもしれない。しかし、王子の野獣性はそれをおそらく独占欲に読み換える。そうなると、相手からの愛は得られない。以前までの王子なら、仮にベルを愛することがあっても、父をおもうベルのために彼女を解放することはありえなかった。「愛」にもいろいろあるだろうが、おそらく魔女が含ませている意味はこのあたりだ。ただ好きであるだけなら、まだ半分の条件である、じぶんから相手への愛さえ成立していない。愛するひとの痛み、苦しみを理解し、それをカバーしようと、みずからの愛の気持ちさえ抑えて行動する、これができたとき、野獣からベルへの愛は達成された。しかし、では相手から愛されるという条件は、なにを意味するのだろう。王子の野獣性を解除するという意味では、彼がベルを真剣に愛し、彼女を帰らせた時点で成立していると考えることができる。だが条件はそこで終わらない。ベルからの愛も獲得しなくてはならないのだ。

このことについてはいくつか考えられるのだが、ひとつには現実問題として、ベルに去られたままの野獣では、呪いを解いたところで、人間として成熟していたとしても、そのまま人生を謳歌することは難しい、ということがある。そのままでは、愛とは苦しみでしかなく、それが生への意欲につながるものとはならないかもしれない。相手からも愛されて、成就し、喜びとなったとき、野獣ははじめて愛を経由した生の喜びを知ることになる。つまり、ここで魔女が求めていたのは「愛」というよりはむしろ「人生」だったのではないか、ということである。

もうひとつ考えられるのは、魔女がどこまで呪いを意図的にかけていたのかということだ。というのは、傲慢な王子を罰するために魔女は彼を野獣にしてしまうわけだが、このとき、近くにいた従者たちも家具にされてしまい、さらには、舞踏会などに参加していた近くの村のものたちにかんしては、なんと王子の、そして城の記憶を消してしまうのである。これはおそらく、あの村の極端に閉鎖的な、ベルが批判するところの排他性のようなものの原因にもなっているとおもわれる。なにしろ、王子が独断と偏見で参加者を決めていたとはいえ、それほど豊かとはおもえない村人たちがこぞって参加していたような舞踏会である、その、それに関する記憶がまるまるないというのは、ほとんど記憶喪失みたいなものではないだろうか。記憶の大部分とはいわないまでも、少なくとも一部を占めていた特定の記憶がごっそり抜け落ちてしまうのだ。フロイトの理論では、わたしたちは幼少時の思い出したくない鮮烈な記憶をトラウマとして処理し、それを語らずに済まそうとすることで個人の文法を確立する。思い出したくない嫌な記憶は、ドーナツの穴となって個人の意識を内側から縁取り、思考法や物事の優先順位などを決定するのだ。だからわたしたちは、ものの道理として、トラウマの内容について語ることができない。語るための記憶がないばかりでなく、それを語るための言葉をもたないのである。はなしはちょっと異なっているが、そのように記憶のあるぶぶんがごっそり抜け落ちてしまうことは、人格の改変を要求する可能性がある。それがたとえば事故とか病気による記憶喪失で、外部からそのように指摘されることで、現実との齟齬を記憶喪失に原因するものと解釈できる状況なのであれば、はなしはかわってくる。しかし、彼らの場合はそれを指摘するもの、指摘できるものが、物乞いに化けている魔女しかいない。そうなると、現実との齟齬、たとえば、舞踏会の記憶がない状況ではおそらく「なぜこんなものがあるのか」となったにちがいないドレスとか、そういうものにかんして、認識をむりやり書き換える必要が出てくる。そのときにおそらく彼らの人格は大きく捻じ曲げられた。それが、ガストンのようなそれほど大人物とはいえない田舎の力持ちに扇動される狭量さに直接つながっていると考えられる。だが、ここで別の考えも浮かんでくる。魔女は果たして、そこまでする必要はあったのだろうか、ということだ。たしかに、野獣の記憶をひとびとがもったままでは、なにももたないゼロの状態から愛を学ぶ、という、野獣がクリアすべき課題を与えることは難しくなるかもしれない。哀れむものも出てくるかもしれないし、逆にこれまでいいようにされてきたことの復讐をしようとおもうものも出てくるかもしれない。しかし、それはそれで王子にとっては罰になるだろうし、それほど重要なことともどうもおもえない。従者のなかには村人に配偶者がいたものもいるのだが、それらが「ズル」をする可能性も、まずないだろう。というのは、課題が「愛」であるだけに、誰がどれだけ「ズル」をしても、野獣と、ここではベルが心の底でそうおもわないことには、どうしようもないのだし、はっきりいってしまえば仮に「ズル」が行われたとしても、それで「愛」が成就されるなら結果オーライなはずなのだ。このことにかんして平仄のあう理屈としては、魔女が野獣へのオマケとして従者たちをつけくわえた、と考えることができるかもしれない。野獣がひとり呪いを抱えて生きていくことは、けっきょくはおぼっちゃんなので、難しい。そこで魔女は従者たちもそこに付け加えた。で、その際に、村人から配偶者を奪うことになるので、村人の記憶を消したと。しかし、野獣の野獣性をほどくためだけに従者の人生まで呪ってしまうというのは、この時点ではどうも厳しすぎるように感じられる。そこで思い浮かぶのが、そもそもこの呪いは、王子だけではなく、その王子のふるまいを黙って見逃してきた従者、そこに無邪気に与してきた村人、彼ら全員に向けたものだったのではないかと。あれほど困難な生き方を王子のせいでさせられながら、従者たちは基本的に以前までとかわらず王子をサポートしつつまっとうしていくのだが、それは、今回の実写版でもあったセリフだが、そのことにかんしてずっと黙っていたという、罪悪感のようなものがあるからなのだ。

そして、いうまでもなく、野獣が野獣でありながら愛を獲得するためには、ベタないいかたをすれば「内面」のつながりによるものでなければならないはずだ。もともと愛とはそういうものだが、以前までのイケメン王子のままでは、愛を獲得してもそれをホンモノとして確信できなかったかもしれないし、相手のほうも自分自身に疑いを抱える可能性だってあったのだ。ここで疑問なのは、ベルが、野獣の見た目でなくても野獣を好きになったのかということだった。つまり、もしほんとうに見た目がまったくかんけいないのであれば、野獣がどんな見た目でも、たとえばバイオハザードのリッカーみたいなヴィジュアルでも、愛は成ったはずだ。こういう問いはするだけ野暮というもので、じっさいには野獣は野獣であり、リッカーではないので、無意味である。しかし、本作では、アニメも実写も、最後にもとの姿に戻ることになる。意地悪な鑑賞者であるなら、ここで思い浮かぶはずだ。もし王子がものっすごいブサイクでも、ベルはほんとうに愛を持続したのだろうかと。もちろん、ベルは持続させるだろう。ふたりは内面のつながりで愛を成就したのだから、見た目がどうであってもかんけいない。また、ベルのばあいは未知への興味ということが強くあった。美的感覚というものはひとによって、また文化によって異なっていく。イケメンとか美女というものの絶対的な基準があるわけではない。欧化のすすんだ国では西洋的な顔立ちが美しいということがほぼ内面化されているが、そうでない国ももちろんたくさんある。なにしろ、異様に首が長いことがそのまま美である地域だってあるくらいなのだから。つまり、イケメンとか美女とかいうことは、実は他人の評価なのだ。せまい村のなかに息苦しく生きながら、ベルはじぶんの知らない評価軸というものを強く求めていた。そんなときに、おそらくじぶんにしかわからない、毛むくじゃらの魅力的な男性を見つけたのだ。彼女が既存の評価軸に沿って王子を選んだわけではないことは明白である。その野獣がふたたび王子に戻ったとしても、その事実は変わらないのだ。

 

 

ベルの実写がエマ・ワトソンだと聞いたときには、なかなか、どうしたもんだろうとおもったものだ。エマ・ワトソンの彫りの深い顔立ちは圧倒的に知性を感じさせるが、ちょっといくらなんでも知的すぎるんじゃないかと、妙な感想が浮かんだものである。アニメのキャラクターらしいやわらかさにも欠けるように感じられた。しかし見ていくうちにこれしかないとおもわれてくるから不思議なものである。とりわけ、野獣が書庫を解放し、ちょっとしたジョークを言い合う場面での表情が秀逸で、なんというかベルは、女の子らしいけなげさとか弱さとかがないわけではないのだが、それよりも、そんな野獣をキュートだと感じてしまう感性の持ち主であることが重要だったのだ。そのためには、どのような客観性もはさまない、とぎすまされた感性とそこへの信頼が必要だ。包容力とも母性とも似て異なる、なんというかことばの見当たらない、ベルらしいとしかいいようのない感性がそこにはあるのである。口角を片方だけあげたあの独特の美しい笑い方にそのあたりがよく宿っていた。

目当てのユアン・マクレガーは見事な歌声を聞かせて、いかにも楽しげに演じ切っていた。このあいだムーラン・ルージュを初めてみたときにおそらく歌声をはじめて聴いたはずなのだが、なぜか僕はこのひとが抜群の歌い手であることを歌声とともに知っていた。どこで聴いたのか・・・?ビッグフィッシュとかでうたう場面あったっけな。燭台のルミエール役で、最後にはもとの姿も披露してくれるぞ。その家具にされた従者では、時計のコグスワースをイアン・マッケランが担当している。マグニートーとかガンダルフなどのはまり役でおなじみの優しげな表情の名優である。ぬいぐるみみたいなつぶらな瞳が特徴的だが、にこにこしているときはそれもやわらかだが、すっと表情を消して無表情になるとそれがガラス玉みたいな硬質さを帯び、一転して金属的な怖さも孕むことになる。マグニートーは金属を操る悪役だし、ガンダルフも、やわらかな物腰のお年寄りでありながらときどき怖い表情を見せることもあった。今作ではそのあたりが、あまり融通のきかない真面目な執事という面に反映されていたとおもう。まあ、ほとんどがCGなので、目の感じとかはあんまり関係ないのだけど。

笑っちゃったのがガストンである。ガストンはピートタイプの非超人系悪役だが、いちど見たら忘れられないへんな中毒性のある悪役だ。これを、ロードオブザリングの続編であるホビットでバルドという人間だったルーク・エヴァンスが演じている。ディズニーの歴代の悪役と比べたらぜんぜん脅威ではないという意味で凡人なんだけど、それがむしろディズニーらしいというか、ピート的で、これをCG的誇張なしでやろうとしたら大変だとおもうけど、声とかもまるっきりガストンで、見事だった。ガストンのあのうたがまたあたまのなかでぐるぐるまわるのだ・・・。まだいまもまわってる。

 

 

アニメとの違いということでは、そんなにオリジナルにくわしくないので細かく検証はできないが、とりあえずベルが愛を告白する場面はちがったような気がする。アニメでは、バラの花びらの、最後の一枚が落ちるところでぎりぎり告白が間に合って、呪いが解除されたとおもうが、今回は間に合わない。その場面の悲しさはたいへんなものがある。ルミエールやコグスワースの芝居が胸をうつ。しかし、念のためくわしくは書かないでおくが、それはなんとかなる。このあたりにかんしては、僕ははじめて美女と野獣を見たときのことが思い出された。呪いの解除の条件は、要するに愛し合うことだ。だから、ベルが野獣を愛せば、それは達成される。これを、なんというか量的にとらえてしまうぶぶんがじぶんのなかに感じられて、それがちょっと嫌だったのだ。「ノルマ」とでもいえばいいだろうか。どう見ても野獣のこと好きなのに、この子はまだそれに確信がもてないのか、まだ言葉にしないのかと、デジタルにとらえてしまったのである。愛とはそんな、スイッチを入れるみたいに成ったり成らなかったりするものなのかと、自己嫌悪に陥ってしまったのだ。このあたりの「条件」にかんしての判定が、量的なものではなく、実写版では魔女の一存のようになっているぶぶんがあったのだ。アニメでもそれは量として、スイッチとしてとらえられていたわけではなかったとおもうが、それを判定するものが魔女としてはっきりしたことで、そういう感想を抱く余地はなくなったとおもう。そのほかにも人物などにかなりの掘り下げがあるようだ。それはまたアニメを見て比べるしかないが、個人的には実写は実写として見事に成立しているので、まあおいおいでいいかなという感じだ。とにかく予想外によくできていたので、オリジナルのファンも満足できるとおもう。男のひともふつうにみれるよ。