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ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教 92 聖書の教えは、イエス・キリストを信じない人々に平安があるものです。」

 

私の祖母は「おばあちゃんの自慢は、誰も人様に迷惑をかけて犯罪者にならなかったことや」とよく言っていました。

 

その後、祖母が亡くなってから10年以上経っても、親戚一同で、犯罪を犯して刑務所に入った人は1人もいません。

 

そればかりでなく、近所でもいませんし、職場でもいませんので、犯罪を犯して刑務所に入るような人は自分に関わる人たちではなく、知らない人たちであり、ごく一部の人という認識を持っている人のほうが多いと思います。

 

ですが、誰もが犯罪を犯して、刑務所に入る可能性はありますので、祖父母や親や、学校でも全員に犯罪を犯さないように教える必要があるのです。

 

そして、聖書の教えは「良い種」と「毒麦」というように教えられています。

 

 

イエスさまはこのように教えられました。

 

「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

 

毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。(マタイによる福音書13章37~40節)」

 

その教えの前に次のように教えられています。

 

「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。

人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。

 

僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

 

主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 主人は言った。

 

『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。

刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』マタイによる福音書13章24~30節」

 

 

それから、聖書を読んで非常に驚いたことは、イエスさまの12弟子の中に「悪魔が蒔いた毒麦」がいたことです。

 

すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」

 

イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。(ヨハネによる福音書6章70~71)

 

 

イエスさまを信じたと言っても、その中にはイエスさまが蒔いた良い種の人々と、悪魔が蒔いた悪い者の子たち毒麦の人々がいます。

 

ですから、イエスさまは、イエスにつき従って来た群衆と12弟子の中に「悪魔が蒔いた悪い者の子たち(毒麦)」がいる時に対する教えでは、必ず地獄へ行くことも教えなければなりませんでした。

 

悪魔が蒔いた悪い者の子たちを救いたいからです。

 

しかし、世の終わりまで、より分けることはされないので、良い種と毒麦ともに教えることにされているのです。

 

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 

しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

 

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

 

もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。

 

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。マタイによる福音書5章1~30節」

 

 

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。

 

〈中略〉

 

体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。マタイによる福音書 10章5~28」

 

 

十二弟子一行はカファルナウムに来た。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。

   〈中略〉

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

 

もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。

 

もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。

 

もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。

 

地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。マルコによる福音書 9章33~48節」

 

 

このように、12弟子すなわち、その中に1人「悪魔が蒔いた悪い者の子(毒麦)」であるイスカリオテのユダがいる時には、地獄へ行く教えをしています。

 

 

しかし、悪魔が蒔いた悪い者の子である毒麦イスカリオテのユダが取り除かれて、イエスさまが蒔いた良い種の11弟子だけになれば、地獄行きの教えをしていません。

 

悪魔が蒔いた悪い者の子毒麦がいなければ、地獄行きの教えをする必要がないからです。

 

それは異邦人やサマリヤ人への福音宣教も同じでした。

 

 

イエスさまは、前述の「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と教えられてから、次のように教えられました。

 

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。

 

しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。マタイによる福音書 10章32~33節」

 

ですから、人々の前で「イエス・キリストを知らない」ということは、魂も体も地獄で滅ぼされるのかなと思います。

 

 

しかし、ペテロはその大きな罪を犯してしまうのです。

「ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。

 

ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。

ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。

 

そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。

 

しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」

 

そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。 マタイによる福音書 26章69~74節」

 

 

しかしながら、イエスさまは次のように教えられているのです。

 

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。

 

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。

 

だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 

するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。

 

イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。ルカによる福音書 22章31~34節」

 

イエスさまが蒔いた良い種であるペテロは、のろいを込めて3度も「イエス・キリストを知らない」と人々の前で、イエス・キリストを否定しても既に赦されているのです。

 

 

しかし、悪魔が蒔いた悪い者の子の毒麦イスカリオテのユダに対しては、次のように冷酷に警告しています。

 

イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。

 

人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。

 

だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

 

イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。マタイによる福音書 26章23~25節」

 

 

このように、イエスさまは、悪魔が蒔いた悪い者の子たち毒麦に対する地獄行きの教えと、イエスさまが蒔いた良い種に対する教えを明確に分けて教えられていることがわかります。

 

そのイエスさまの教えを曲解させて、「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行く」というように教えていれば、

イエス・キリストを無慈悲で冷酷非道な神であるように、でっち上げていることが明白です。

 

さらに、イエスさまは、「イエス・キリストを信じなくても地獄行きではない」ということを明確にされている御言葉があります。

 

それは次回のお楽しみです。

 

 

「日本におけるキリスト教 91 聖書の地獄行きの教えを知れば、心は平安です。」

 

誰もが、人間関係において、相手の悪いところを知ることが最も重要だと痛感していると思います。

人間は、誰もが良いところと悪いところがあるものです。

 

ところが結婚したり、友達になった後で、相手がこんな悪い人だとは思わなかったという理由で、離婚したり、絶交したりします。

 

そのようなことがあった時は、初めのうちに、こんなに悪すぎることがある人だと知っておけば、傷つき合うこともなかったと後悔するものです。

 

また「神さま」に対しても、そうです。

 

日本人は無神論者が多いといっても、苦しい時の神頼みをしますので、神さまの存在みたいなものを潜在的に持ち合わせていると思われます。

 

そして、その「神さま」に「悪魔」のように悪いところがあるとは思ってもみないものです。

 

 

ですので「聖書」で、神さまであるイエス・キリストが、永遠の火に投げ込むという教えを知った時は、驚きとともに、かなりの違和感があったものです。

 

しかし「聖書」は、その地獄へ行くのはどのような人で、どのような理由かを詳細に明確に教えているので、それを1つ1つ確認していけば、安心します。

 

そして、最近の投稿記事で1つ1つ確認してきましたが、現在のイエス・キリストを信じない人々のことではない事を理解しました。

 

これから残りの地獄に関する教えの聖書箇所も確認すれば、確信することでしょう。

 

 

イエスさまは地獄行きが免れることが出来ない人について、このように言われました。

 

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。

 

蛇よ、まむしの子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。 マタイによる福音書23章29~33節」

 

そして、バプテスマのヨハネも同じように言っています。

 

「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。

「まむしの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。マタイによる福音書3章7~9節」

 

 

さらに、我々の父はアブラハムだと思っている蛇であり、まむしの子と言われているファリサイ派の人が地獄行きについて詳しく教えているのが、ルカによる福音書19~31節です。

 

「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。

 

そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。

 

律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。

しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。

 

ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

 

この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

 

やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

 

そして、金持ちは陰府(ハデス)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

 

そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

 

しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

 

そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

 

金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

 

しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

 

アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 

 

この聖書箇所について、牧師の書斎というブログで書かれている聖書解釈を引用して紹介します。

「牧師の書斎」

【聖書箇所】 ルカによる福音書16章14節~31節

 

さて、イエスが公生涯におけるナザレの会堂で語られた最初のことば(ルカ4章18~19節)は、「捕らわれ人」「盲人」「虐げられている人々(圧迫されてい傷ついている人々)」といった「貧しい者」の運命を逆転させる福音でした。

 

イエスが登場した時代の社会は貧富の差が歴然とした時代でした。経済的に貧しいがゆえに、踏みつけられ、圧迫されることを余儀なくされている希望のない人々に対して、イエスは「神の恵みの年」が来たことを宣言したのです。

 

しかし逆に、そうした「貧しい人々」を搾取し、かかわりを拒絶している者に対して、特に、マモン(金銭)の奴隷となっている者たちに対しては厳しい警告を与えられました。

 

そんなイエスの警告を馬鹿にし、嘲笑して聞き続けていたのがパリサイ人(ファリサイ派の人)たちでした。

1. パリサイ人の偽善を暴くイエス(15節~18節)

イエスが15節~18節に語ったことを整理しておきたいと思います。

(1) 彼らは自らを正当化し、人前で正しい者としている。しかし神はすべてを見通しておられる。

(2) 新しい時代(神の国の福音が宣べ伝えられ)が到来し、多くの者がそこへ入ろうとしている。

(3) 律法に不忠実でる。その証拠に妻を離別して他の女と結婚をしている。それは姦淫を犯す者である。

 

特に、(2)に関連して「律法と預言者はヨハネまでです」(16節)という意味は、律法(トーラー)によってもたらされる呪いの時代はヨハネまでだという意味です。

 

律法(トーラー)は良いものであり、それは天地が滅びるよりも確固としたものであるが、同時にそれは呪いをもたらし、人々に恐れを植え付ける機能を持っています。

 

当時、律法によって神に近づこうとした人々は、その律法によって人々に恐れを植え付け、彼らを支配しようとしてきました。

しかし今や、新しい時代が到来し、律法がもたらす呪いから人々を解放して神の方から近づいてくれる時代が到来したのです。

 

神と人とを隔てている律法の呪い、罪の負債を赦し、罪の重荷から解き放ってくださる神が近づてくださる「神の国の福音」が宣べ伝えられているのです。

 

しかし律法の呪いの元に人々を置いて支配しようとしているパリサイ人はその律法に従って生きていないことをイエスは彼らに突きつけたのです。

 

2. ある金持ちとラザロのたとえ話

 

イエスは続いて、バリサイ人たちに対してひとつのたとえ話をしています。それは「ある金持ちと貧乏人ラザロ」の話です(19~31節)。

たとえ話には必ず強調される一つのポイントがあります。そのポイントからはずれて枝葉に関心が行くと、本筋から離れてしまいます。

 

「たとえ話」を解釈するうえでポイントが一つだということはとても重要で、注意しなければなりません。

 

死後、二人の状況は生前とは全く逆転しています。金持ちは「ハデス」で苦しんでいますが、貧乏人であったラザロは「アブラハムのふところ」で慰めを受けています。

 

「ハデス」と「アブラハムのふところ」の間には「大きな淵」があり、それを越えることはできません。また「ハデス」からも、「アブラハムのふところ」からも生きている人間のところにも行くことはできません。全く隔絶されています。

 

こうした運命の分かれ道をもたらした要因はいったいどこにあったのでしょうか。そこが「金持ちと貧乏人のラザロ」の話の最も重要な点です。

 

この話は「金の好きなパリサイ人」に語られた話であることを念頭に置く必要があります。

 

たとえ話に登場する「ある金持ち」は多くの良いものが与えられていましたが、自分の側にいる貧乏人に対しては全く無関心であったという点です。

 

ラザロの場合はどうであったか、聖書はなにも語っていません。焦点は「ある金持ち」に当てられているからです。

この話を通して、イエスは金銭を愛することの危険を警告していると信じます。

 

引用以上

 

 

蛇であり、まむしの末どものファリサイ派の人(パリサイ人)は、お金が大好きでした。

 

また、お金が有り余っていても、門前にいて助けを求めているラザロのような貧しい人々を見捨てている無慈悲で冷酷非道な人間でもありました。

 

そして「私の父はアブラハム」と思っていました。当時、ファリサイ派の人(パリサイ人)の中で「アブラハムの胸」という物語が流行していて、死んだらアブラハムの胸へ行くと信じていたそうです。

 

ですから、このルカによる福音書16章の地獄の話は、ファリサイ派の人(パリサイ人)たちに教えられていることは明白です。

 

 

ですので、もし、それをファリサイ派の人(パリサイ人)のことではなく、現在のイエス・キリストを信じない人々のことです。と教える人がいれば、完全なでっち上げだということがわかります。

 

私自身もそうですが、「アブラハム」の名前を聞いた時、「アブラムシ?」「食べ物の何とかハム?」などと想像したものです。

まさかアブラハムを父だと思ったことは一度もありません。

 

そして、ファリサイ派の人(パリサイ人)のように、「貧しい人々」を搾取し、かかわりを拒絶していたり、マモン(金銭)の奴隷となってもいません。

 

門前に助けを求めている人がいれば、助けます。

 

ですから、この聖書箇所で現在のイエス・キリストを信じない人々が地獄行きと教えていないので安心します。

 

また、まむしの末どものような人々が地獄へ行くのは仕方がないことだと思います。

 

 

しかしながら、この聖書箇所によって、イエス・キリストを信じない人々が死ねば陰府(ハデス)に行き、地獄の炎の中で苦しむという解釈をしている人々がいれば、

 

まず最初から「イエス・キリストを信じない人々は地獄行き」ということと「イエス・キリストは無慈悲で冷酷非道でもある」ということが土台にあり、それに基づく聖書解釈と福音理解をしているだけという事になります。

 

そういう教えを聞けば、特に純粋な小学生や中学生たちは気づいて、そのような恐ろしい教えをする人たちに気をつけるでしょう。

 

しかしながら、まったく気づかないどころか、信じる人が大勢いるのです。

 

長くなったので、次回へ続く

 

「日本におけるキリスト教 90 地獄に行く者どもの永遠に赦されない罪について」

 

イエスさまは、ファリサイ派の人々に対して次のように明言されました。

 

「蛇よ、まむしの子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。 マタイによる福音書23章33節」

 

その理由を明確に教えられているのが、次の聖書箇所です。

 

「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。

 

群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。

 

しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。

 

イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。

 

サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。

 

わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。

 

しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。

 

また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。

 

わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。

 

だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、霊”に対する冒瀆は赦されない。

 

人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

 

木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。

 

まむしの子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。

 

人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。

 

善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。マタイによる福音書12章22~35節」

 

 

ファリサイ派の人々は「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言って、イエス・キリストを悪霊の頭であるサタン(悪魔)だと言いました。

 

それは聖霊に言い逆らう事になり、この世でも後の世でも赦されることがないのです。

 

それゆえ、最後の審判で地獄の刑罰を免れることはできません。

 

 

現在は「聖書」が人類史上の最大のベストセラーと言われています。

 

「過去数千年にわたって読み継がれてきた世界的なベストセラーは聖書である。1815年 - 1998年の間だけで推定約3880億冊発行されている。2000年の1年間だけでも世界中の聖書協会によって約6億3300万冊が発行された(国際聖書協会の発表)」

 

それゆえ、地獄の刑罰を免れることはできない「まむしの末ども」が「イエス・キリストはサタン(悪魔)」というように教えても、信じさせることは困難です。

 

ですから、聖書の教えを曲解させて、「イエス・キリストはサタン(悪魔)のように無慈悲で冷酷非道な神でもある」とでっち上げるのです。

 

すると、聖書に書かれている素晴らしい愛の教えも懐疑的にさせることが出来ます。

 

また、「そんな無慈悲で冷酷非道な神など信じられるはずがない!」と大勢の人々は思います。

 

 

それゆえ、イエスさまは次のように教えられています。

 

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。

自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。

 

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。

 

改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。マタイによる福音書23章13、15節」

 

ですから、聖書の教えによって、人々が「イエス・キリストはなんて無慈悲で冷酷非道な神なんだ」と思わせることを教えている者たちがいれば、

 

その者たちは不幸であり、聖霊に言い逆らっている者たちだと理解することができるでしょう。

 

 

「日本におけるキリスト教 89 聖書の教えは、人の死を体験した時によって、天国に行く人と地獄に行く人との明確な違いがわかります」

 

今回の内容は、ここ最近の投稿記事で伝えていることが更に読解力がある「小学生」でもかなり理解するようになると思います。

 

「聖書」は、天国に行く人たちと地獄に行く人たちとの明確な違いを要所に教えられています。

 

その中でも最も分かりやすい聖書箇所を見ていきます。

その前にもう一度、天国に行く人と地獄に行く人についてです。

 

「イエスはお答えになった。『良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。

 

人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。

彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

 

そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。』マタイによる福音書13章37~43節」

 

 

このように、聖書は、人間には2つのタイプがあり、1つは、イエス・キリスト(人の子)が蒔く種である正しい人々で、御国(天国)で太陽のように輝きます。

 

もう1つは、悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たちで、燃え盛る炉に投げ込まれると教えます。

 

当然に、正しい人々と悪い者(悪魔)の子たちはまるで違う性質・人間性です。その事は非常に重要ですので、聖書は要所に教えているのです。

 

その中で、最もわかりやすい教えが「人の死」を体験した時です。

 

 

まずは正しい人々の「人の死」を体験した時についての性質・人間性を見ていきます。

 

「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。

 

主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。

 

イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。

すると、死人は起き上がってものを言い始めた。

 

イエスは息子をその母親にお返しになった。

 

人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。

 

イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。ルカによる福音書7章12~17節」

 

 

私自身もこの聖書箇所は何度読んでも感動します。

 

イエス・キリストは、死んだ息子を生き返らせて、母親にお返しになったことで、人々は神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 という教えは

 

「神さまと人間って、ものすごく素晴らしい」と感動します。

 

人々は、自分の息子ではなく、他人の息子が死んだことを深く悲しんで、心を痛めています。

 

しかし、神さまが生き返らせてくださったことで、神を賛美して、歓喜に満ちます。

 

そのような人々が神を愛し、隣人を愛する人々であり、最も小さき者の1人が助けを必要としている時に、救いの手を差し伸べる人々であることがわかります。

 

 

次は、その事をさらに明確にさせてから、悪い者(悪魔)の子たちの性質・人間性を教えている聖書箇所を見ていきます。

 

イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

 

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。

人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。

 

しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

 

こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 

マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

 

しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。

 

そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。

「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

 

この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。ヨハネによる福音書39~53節」

 

 

この聖書箇所では特に、正しい人々と悪い者(悪魔)の子たちとの違いが明確に理解できます。

 

イエスさまは、「父よ。わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。

わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」と言われて、死んだラザロを生き返らせました。

 

そして、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じました。

 

人々はラザロの死に深く悲しんで、心を痛めていました。

しかし、神さまが来られて、生き返らせてくださったのです。

 

イエスさまがなさったことを目撃した多くのユダヤ人たちは、イエス・キリストを信じました。

 

 

しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいたのです。

 

そして、「このままにしておけば、皆がイエス・キリストを神だと信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」という理由で、イエス・キリストを殺そうと計画します。

 

死んだ人たちを生き返らせてくださり、多くの人々の嘆き悲しみを喜びへと変えてくださる「主イエス・キリスト」を殺そうとするのは、なんて無慈悲で冷酷非道な者たちであることがわかります。

 

 

このように、「人の死」を体験している時の人々が、イエスさまが生き返らせてくださった時に、

 

正しい人々は、神を賛美し、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言い、喜びに満ちて、イエス・キリストを信じました。

 

そして、悪い者(悪魔)の子たちは、イエス・キリストを殺そうと計画するという無慈悲で冷酷非道な者どもです。

 

ですから、この悪い者(悪魔)の子たちは、神を憎み、人々も憎んでいることがわかります。

 

当然ながら、最も小さき者の1人が助けを求めている時に、見捨てるのです。

 

 

さて、現在の日本人は、世界中の人々はどちらでしょうか?

 

他人の死を悲しみ、心を痛めて、もしも神が生き返らせてくださるなら、喜びに満ち、そのような神を賛美して、信じるようになる人ならば、

 

その人々は聖書で教えられている「正しい人たち」になります。

 

そして、他人の死を喜び、生き返らせてくださる神を憎み、その神の御業に喜んでいる人々も憎み、その神を殺したいと思う人々は「悪い者(悪魔)の子たち」になるでしょう。

 

聖書が教えていることを、そのまま信じれば、そうなります。

 

 

そして、すべての人の罪を背負って、十字架上で死なれ、三日後によみがえられるという「主イエス・キリストの十字架の贖い」を成し遂げられるには、殺そうとする悪い者(悪魔)の子たちによってではなく、正しい人々によるものでなければなりませんでした。

 

イザヤが預言したように「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。」

 

 

それから異邦人の救いのためにも、神は、イスラエルのユダヤ人の中から、神を信じさせないようにされたことが教えられています。

 

「また、では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。

 

「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。

 

ダビデもまた言っています。

「彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。

つまずきとなり、罰となるように。

彼らの目はくらんで見えなくなるように。

彼らの背をいつも曲げておいてください。」

 

では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。

 

かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。

 

彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。ローマ人への手紙11章7~12節」

 

 

ですから、「正しい人たち」の中でも、神が、神を信じさせないように、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで。と教えられているので、

 

正しい人々の「救い」においては、イエス・キリストを信じるとか信じないとかは「救いに関係がない」ことがわかります。

 

 

また、悪い者(悪魔)の子たちが救われるには、イエス・キリストを信じる以外に救いはないこともわかります。

 

悪い者(悪魔)の子たちは、イエスの羊に属していないために、信じることは出来ないと教えられていますし、ファリサイ派の人(パリサイ人)は地獄の刑罰を逃れることができないと教えられましたが、パウロやニコデモのようにファリサイ派の人の中でも信じる人がいたとも教えられています。

 

長くなったので、次回へ続く

 

 

「日本におけるキリスト教 88 この世の悪魔の策略に基づく聖書解釈と福音理解について」

 

現在、世界の状況は増々混沌としてきました。

特にロシアのウクライナ侵攻とイスラエルのガザ全域への攻撃は、尋常ではない異常すぎる事態です。

 

この状況は、いよいよ「荒らす憎むべきもの」が、イスラエルの聖なる所に立つ道が備えられてきた状況だとも思えます。

 

イエスさまは、この世の終わりについてこのように教えられました。「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)マタイ24:15」

 

これは旧約聖書に教えられたダニエルの預言のことだと言われています。「彼は一週の間、多くの者と固い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせ、荒らす憎むべき者が翼に現れる。ついに定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。ダニエル9:27」

 

 

その事についての詳細が次のように教えられています。

 

「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 

彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。Ⅱテサロニケ2:3~4」

 

 

しかし、この悪魔の計画は「聖書」で具体的に明らかにされているために、聖書の教えを知っている人々はだまされることはないはずです。

 

これから先に、イスラエルの聖なるところに立ち、神の宮の中に座を設け「自分こそ神である」と宣言する者が「悪魔が遣わした滅びの子であり、憎むべき者であり、偽キリストであり、反キリスト」だと理解します。

 

 

なので、悪魔は策略を立てます。

 

憎むべき滅びの子が「自分こそ神のキリストである」と宣言するためには、聖書に書かれているイエス・キリストを悪魔のように思わせなければなりません。

 

しかし「聖書」の教えがある限り、完全にイエス・キリストを悪魔のようにでっち上げることは不可能です。

 

けれど「聖書」の聖書解釈と福音理解によって、イエス・キリストを無慈悲で冷酷非道な悪魔のような側面があることを信じさせることは可能です。

 

それは、誰の心の中にもある善の面と悪の面が、神の御子であるイエス・キリストにもあるという教えです。

 

ちょうど、イエス・キリスト御自身が何度も、永遠の火に投げ込むことを教えているので、その教えを悪用できます。

 

 

人が生きて行くうえにおいて、すべてにおいて善の面と悪の面があります。

 

結婚するのも、結婚相手の善のところに惹かれて「良い」と思ったから結婚する人が多いと思います。

 

ところが、悪の面に耐えられなければ、離婚したり、夫婦間は冷めてしまいます。

 

また、職場においても良い条件だと思ったので就職希望をして、面接をして受かれば入社します。

 

ところが、悪いところに耐えられなければ「辞めたい」と思ったり、退職します。

 

友達関係も同じです。「良い」と思ったので友達になりますが、「悪い」ところに耐えられなければ、縁を切ります。

 

 

しかも、良いところが10や20あったとしても、たった1つ悪すぎるところがあれば、関係が終わってしまうケースも多いです。

 

例えば、たくさんの好印象を持ち、結婚相手にいいな~と考えていた女性が、ある日、意地悪な面を目撃した時は、気持ちが冷めてしまい「こんな女性と結婚したくないな」と思う時もあります。

 

テレビやインタビュー記事などで、たくさんの好印象を持っていた大好きなアイドル歌手が、もしも、不祥事を起こしたスクープが報道されれば、そのスクープ記事を見た瞬間に、今まで大好きだった気持ちが吹き飛んで、嫌いになるケースもあります。

 

たとえ、100や200の好印象を持っていても、たった1つの悪すぎるところを知れば、その多くの好印象が吹き飛ばされることが多々あるのです。

 

 

それと同じく、もしも「神」の教えに「善の面」と「悪の面」があるとすれば、悪い面の教えに耐えられずに、「こんな神は本当の神ではない!」と信じません。

 

この日本は、イエス・キリストを信じる人は約1%弱という極端に少ない国です。

 

なので、「イエス・キリストを信じない人々は、神の怒りがその上にとどまり、滅びに向かっていて、そのまま死ねば地獄へ行く」という教えを聞けば、

 

聖書に書かれているイエス・キリストのたくさんの素晴らしい愛の教えと行ないは吹き飛ばされてしまいます。

 

そして「イエス・キリストを信じないという理由」で永遠の火に投げ込むという教えは、信じられないほど無慈悲で冷酷非道な神さまだと思います。

 

イエス・キリストは、素晴らしすぎる愛の教えがたくさんある「善い面」もあるけれど、まるで悪魔のような教えの「悪すぎる面」があれば、そのような神を信じることは非常に困難です。

 

日本であれば、約99%がイエス・キリストを信じない人々だという状況も納得できます。

 

 

そして、これから先に、悪魔が遣わした憎むべき者が、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言して、大きなしるしや不思議な奇跡を起こすと、多くの人々がその憎むべき者を本当の神キリストだと信じるようになる可能性が高まります。

 

 

さて、どうしてクリスチャンの多くは「イエス・キリストを信じる者は永遠の命にあずかり、イエス・キリストを信じない者は永遠の火に投げ込まれる」ということを信じるのか?

 

それには悪魔がもたらす巧妙な策略の聖書解釈と福音理解があります。

 

例えば、この聖書箇所があります。

 

「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。

 

しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、 罪から解放され、義に仕えるようになりました。

 

あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。

 

あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。

 

あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。

 

罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。ローマ人への手紙6章19~23節」

 

 

この聖書箇所を読めば、「罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらか」ということです。」

 

そして、イエス・キリストを信じた者は、罪から解放されて、神に従順に仕える奴隷となって義に至る者です。

 

それから、イエス・キリストを信じない者は、罪に仕える奴隷となって死に至る者になります。

 

つまり、この教えから「イエス・キリストを信じる人々は永遠の命にあずかる者で、イエス・キリストを信じない人々は永遠の火に投げ込まれる者」という教えにもなるのです。

 

すると、イエス・キリストは、イエス・キリストを信じない人々にとって無慈悲で冷酷非道な神であると言うことになります。

 

 

ところが、そのような教えは、イエス・キリスト御自身が繰り返して教えられた本当に大切な次の御言葉を非常に巧妙にまったく違う教えに変えているのです。

 

「イエスはお答えになった。『良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

 

毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。

 

人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。

 

彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

 

そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。』マタイによる福音書13章37~43節」

 

 

そして、この大切な教えに基づいて、ローマ人への手紙6章の「つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。 」という教えを解釈すれば、

 

現在の日本のイエス・キリストを信じない人々と、罪に仕える奴隷の人々とはまったく違うことがわかります。

 

「罪に仕える奴隷」の者たちは、まさに罪に仕える者たちであり、このような者たちのことだと、イエスさま御自身が明確に教えられています。

 

「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。

 

蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。

 

人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。

 

善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。マタイによる福音書12章33~35節」

 

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。ルカによる福音書6章43~44節」

 

 

ですから、聖書の教えは、「神」は、悪魔が蒔いた毒麦である悪い者(悪魔)の子たちにとっては「100%無慈悲で冷酷非道な神」になりますが、

 

イエスさまが蒔いた良い種の正しい者たちにとっては「100%愛の神さま」なのです。

 

すると、イエス・キリストは無慈悲で冷酷非道な神ではないことが理解できます。

 

なので、その事について、一つずつ、詳しく聖書の教えを見ていく記事を書いているのです。

 

長くなったので、次回へ続く

 

 

「日本におけるキリスト教 87 悪魔の策略に対抗して立ち向かうこと」

 

聖書はこう教えています。

「 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

 

わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。エペソ6章11~12」

 

 

最近の投稿記事のテーマは「最後の審判で地獄へ行く者について」です。

 

その事について、イエスさま御自身が明確に繰り返して教えられています。

 

イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

 

毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。マタイ13:37~40」

 

つまり、イエスさまは、世の終わりの最後の審判において、永遠の火に投げ込まれる者は「悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たち」だと明確に教えられています。

 

さらに、その最後の審判で、永遠の火に投げ込まれる悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たちは、イエスさまの羊ではないために、イエスさまの言葉を信じることができないと教えられているのです。

 

イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。

 

しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。

 

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 わたしは彼らに永遠の命を与える。ヨハネによる福音書10章25~28節」

 

 

そして、律法学者とパリサイ人(ファリサイ派の人々)は、イエスさまから地獄行きを免れることはできないと言われました。

 

「こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。

蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。マタイ23章32~33節」

 

さらに、イエスさまは次のように宣告されました。

 

「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 

祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、 イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。マタイによる福音書21章43~46節」

 

 

イエスさまから「地獄の罰を免れることができようか。」「神の国はあなたたちから取り上げられる。」と言われたファリサイ派の人々(パリサイ人)や祭司長たちは、イエスを捕らえて殺そうとしました。

 

しかし、その時(イエスさまがエルサレムに入られた時)、群衆はイエスを預言者と信じていたために、捕らえることができなかったのです。

 

もしも、そのまま、群衆がイエスを預言者と信じていれば、悪魔の欲望を満たすためにイエスを捕らえて、イエスを神を汚している者として死刑に処することが出来なかったのです。

 

 

なので、その後、次の事が起きるのです。「イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。

祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。マタイ26章47節」

 

イエスを捕らえて「十字架につけろ!」と激しく叫ぶ「群衆」が起こされたのです。

 

彼らが信じることができなかった理由を、イザヤは次のように言っている。

「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。」

 

 

こうして、神が「群衆」の目を見えなくし、その心をかたくなにされたことで、イエス・キリストの十字架の贖いが成就します。

 

ここが重要ですが、悪魔の力では、イエスさまを十字架につけることは不可能だったのです。

 

すると、イエス・キリストの十字架の贖いは、悪魔の力によってではなく、神の御心であり、御計画だということを信じることができます。

 

 

ところが、主イエス・キリストが繰り返して教えられていることに反逆して、

 

世の終わりの最後の審判において、永遠の火に投げ込まれるのは「悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たち」ではなく、

 

「イエス・キリストを信じない人々」が永遠の火に投げ込まれるというように、でっち上げてしまえば、悪魔の欲望を満たす教えになります。

 

 

イザヤの預言通りに、神は彼ら(イスラエルの民)の目を見えなくし、その心をかたくなにされました。

 

それ以後、現在に至るまで続いています。

 

現在も、イスラエル中央統計局によると、2016年時点でイスラエルの全国民うちどの割合の人たちがどの宗教を信仰しているかと言えば、74.7%がユダヤ教、17.7%がイスラム教、2.0%がキリスト教そして1.6%がドゥルーズ派です。

 

イスラエルの全国民のうち、イエス・キリストを信じている人は約2%です。

 

約98%はイエス・キリストを信じていないという状況です。

 

 

主イエス・キリストが地上で福音宣教されたのが、イスラエルです。

主イエスの御父は「イスラエルの神」と言われています。

 

イエスさまは御父に聞き従っています。

 

そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。

父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。

 

父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。ヨハネ5:19~20」

 

つまり、「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行く」という教えは、イスラエルの神が、約2000年前から現在に至るまでのイエス・キリストを信じない「イスラエルの民」を永遠の火に投げ込まれるということになります。

 

しかも、神が、彼ら(イスラエルの民)の目を見えなくし、その心をかたくなにされて、信じられないようにして、永遠の火に投げ込むというのです。

 

 

それゆえ、イエス・キリストが、非常に大勢のイスラエルの民も、非常に大勢の異邦人も、イエス・キリストを信じないという理由で、永遠の火に投げ込むというのは、

 

もはや「神」というのではなく、相当めちゃくちゃ激しく超絶にいけにえを好む「悪魔」です。

 

「イエス・キリストは、史上最悪の無慈悲で冷酷非道な悪魔のような神」と思われてしまうのです。

 

現実に、悪魔や地獄の話を教える雑誌や単行本などにおいて、「イエス・キリストを信じない人々は地獄行き」という教えを根拠にして、

「イエス・キリストの正体は悪魔」

「本当の悪魔はイエス・キリスト」

「イエス・キリストが恐怖の大王」などと教えているのを見たことがあります。

 

 

そして、世の終わりに起こることは次の通りです。

 

「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。

 

預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。 マタイ24章14~15」

 

「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。

神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。

 

そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。

偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。 あなたがたには前もって言っておく。 マタイ24章21~25節」

 

 

悪魔は、世の終わりに、憎むべき破壊者を聖なる場所に立たせて、「わたしがキリスト(メシヤ)」だと宣言させます。

 

そのためには、聖書が教えているイエス・キリストを「悪魔」のように思わせなければなりません。

 

そうして、悪魔が憎むべき破壊者を聖なる場所に立たせるための道を備えるのです。

 

それが現実に起こされています。

 

それゆえ、クリスチャンは「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

 

わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。エペソ6章11~12」という御言葉に堅く立たなければならない時代になっています。

 

 

「日本におけるキリスト教 86 黙示録の最後の審判で地獄へ行く者たちについて」

 

前回の続きです。前回は、最後の審判において、永遠の命にあずかる者と、永遠の火に投げ込まれる者についてイエスさま御自身の教えを見ていきました。おさらいをします。

 

まずは「永遠の命にあずかる者たち」についてです。

 

世界という畑に、イエスさまが良い種を蒔きます。良い種は御国の子たちで「正しい人たち」と言われています。

「正しい人たち」は、世の終わりの最後の審判では、イエスさまの父の国で太陽のように輝きます。

 

「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と言われて、永遠の命にあずかるのです。

この「正しい人たち」の特徴は、最も小さい者たちの1人が助けを必要としている時に助けてあげることです。

 

 

次は「永遠の火に投げ込まれる者たち」についてです。

 

世界という畑に、悪魔が毒麦を蒔きます。毒麦は悪い者の子らです。

世の終わりの最後の審判では、悪い者(悪魔)の子たちが集められて、永遠の罰を受けて、火で焼かれます。

 

その呪われた者どもは、イエスさまから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入るのです。

悪い者(悪魔)の子たちの特徴は、最も小さい者たちの1人が助けを必要としている時に見捨てることです。

 

 

聖書には「最後の審判」については、「ヨハネの黙示録」でも教えていますので、イエスさま御自身の教えと一致しているか見ていきます。

 

「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。ヨハネの黙示録13章8節」

 

「また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、

 

その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。

 

その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。ヨハネの黙示録14章9~11節」

 

「あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。

 

地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前いて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう。 ヨハネの黙示録17章8節」

 

「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。

 

死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。 海は、その中にいた死者を外に出した。

 

死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。

 

その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。ヨハネの黙示録20章12~15節」

 

 

イエスさま御自身の教えでは、永遠の命にあずかったイエスさまがこの世界に蒔かれた「正しい人たち」は

「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と言われました。

 

「正しい人たち」は、イエスさまが蒔かれたので「天地創造の時から」と教えられたのは至極当然です。

 

そして、「ヨハネの黙示録」では、悪魔が蒔いた「悪い者(悪魔)の子たち」について、次のように教えています。

 

「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。」

 

この教えも、悪魔が蒔いたのだから「天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝む」と教えるのは至極当然であり、イエスさまの教えと一致しています。

 

まとめますと、こうなります。

 

悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たちは、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちです。それゆえ獣を拝みます。

 

なので、最後の審判では、悪い者(悪魔)の子たちは皆、火の池に投げ込まれるのです。

 

 

それから、イエスさまは次のように教えられました。

 

「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。

 

人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。

 

彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 

ここだけの教えでは、天使たちは問答無用で粛々と、毒麦である悪い者(悪魔)の子たちを集めて、火の地獄に投げ込むように思います。

 

ですが、ヨハネの黙示録では、さらに詳細に教えています。

 

別の第三の天使も続いて来て、「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、 神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。」と、大声で警告し、必死で救おうとします。

 

ところが、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、「救いの声」を聞いても信じることができず、悪魔に聞き従い、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に投げ込まれるのです。

 

 

こうして、聖書に書かれている最後の審判の教え「イエスさま御自身の教えとヨハネの黙示録の教え」を見てみると、永遠の火に投げ込まれる(永遠の火の地獄に行く)のは、悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たちであり、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちということがわかります。

 

 

それなのに、永遠の火に投げ込まれる(永遠の火の地獄に行く)のは、「イエス・キリストを信じない人たち」にすり替えてしまえば、

 

聖書の教えが荒唐無稽で、支離滅裂で、矛盾だらけで、意味の分からない、かなり幼稚で、粗悪な教えとなってしまいます。

 

まず、世界の人々は皆、「悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たち」となります。

 

その「悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たち」がイエス・キリストを信じると救われるという教えになるのです。

 

そして、イエスさまが蒔いた「良い種(正しい人たち)」は、「この世界にいない」という教えになります。

 

 

すると、「イエス・キリストを信じない人々は救われるのか!」と猛反発するクリスチャンは大勢いるでしょう。

 

その事についても、聖書はきちんと教えているのです。

 

もしも、イエスさまが地上におられる時代において、ユダヤ人全員がイエス・キリストを信じれば、イエスさまが十字架で殺されることはありませんでした。

 

イエスさまの十字架上での死と復活は、大いなる神の御心であり、御計画です。

 

その事について、これからの記事で書いていきます。

 

気になる方のために、そのうちの1つの聖書箇所を紹介しておきます。

 

「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。

 

預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。

「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。

主の御腕は、だれに示されましたか。」

 

彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。

「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。

 

こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」

 

イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ヨハネによる福音書12章37~42節」

 

 

このように、預言者イザヤの預言で、彼らが信じることができなかった理由を「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。」と教えているのです。

 

それは現代にも当てはまります。

 

自分の意志ではなく、神の御計画によって、神を信じることができない人々も大勢いるということです。

 

そのような人々が、永遠の火に投げ込まれることは絶対にありません。

 

他の聖書箇所を見ていけば、そのことが確信していくでしょう。

 

次回からも、その事についての聖書箇所を見ていきながら、最後の審判では「義人」ではなく「正しい人たち」であり、その「正しい人たち」は罪を犯すことなど、様々な疑問を聖書箇所から見ていきます。

 

すると、すべてのイエスさまの教えは「神は愛」という普遍的な神の愛の聖書解釈と福音理解のクリスチャンになるでしょう。

 

 

「日本におけるキリスト教 85 最期の審判について、イエスさまから天の国のことを学んだ弟子たちの福音理解」

 

前回の聖書箇所は、イエスさまが繰り返して教えられるほど、クリスチャンとして非常に重要な教えになりますので、これから何度でも取り上げていきます。

 

イエスさまは「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」と言われました。

 

その教えは次の通りです。

 

イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

 

毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。

 

人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。

彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

 

そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 

 

その教えをさらに詳細に教えられているのが次の御言葉です。

 

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

 

そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置く。

 

そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

 

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。

 

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

 

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

 

『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』

こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 

 

このイエスさまの「世の終わりの教え」を整理すると次のようになります。

 

世界という畑に、イエスさまが良い種を蒔きます。良い種は御国の子たちで「正しい人たち」と言われています。

 

「正しい人たち」は、世の終わりの最後の審判では、イエスさまの父の国で太陽のように輝きます。

 

「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と言われて、永遠の命にあずかるのです。

 

この「正しい人たち」の特徴は、最も小さい者たちの1人が助けを必要としている時に助けてあげることです。

 

 

次は「悪い者の子ら」についてです。

 

世界という畑に、悪魔が毒麦を蒔きます。毒麦は悪い者の子らです。

 

世の終わりの最後の審判では、悪い者(悪魔)の子たちが集められて、永遠の罰を受けて、火で焼かれます。

 

呪われた者どもは、イエスさまから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入るのです。

 

悪い者(悪魔)の子たちの特徴は、最も小さい者たちの1人が助けを必要としている時に見捨てることです。

 

 

そして、イエスさまは次のように断言されて教えられました。

 

「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。

 

蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。

人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。

 

善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。マタイによる福音書12章33~35 」

 

つまり、世界の畑に、イエスさまが良い種を蒔きます。良い種は御国の子たちで「正しい人たち」と言われています。

 

そして、悪魔も毒麦を蒔きます。毒麦は「悪い者(悪魔)の子たち」です。

 

良い種は毒麦になることはあり得ないし、毒麦は良い種になることもあり得ないと教えられているのです。

 

 

なので、聖書に書かれている「悪い者(悪魔)の子たち」が永遠の火に投げ込まれるというイエスさまの教えを忠実に教えているクリスチャンたちが「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」となります。

 

ところが、この教えに反逆するかのように「悪い者(悪魔)の子たち」を「イエス・キリストを信じない人たち」にすり替えてしまうと、悪魔の欲望を満たす教えになります。

 

イエスさまは無慈悲で冷酷非道な神さまとなり、すべての人類の敵となるからです。

 

 

なぜなら、「悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たち」ではなく、「イエス・キリストを信じない人たち」が永遠の火に投げ込まれるということは、

 

日本の状況で言えば、「正しい人たち」であるクリスチャンは約1%弱です。

 

そして約99%のイエス・キリストを信じていない人たちは、このままでは永遠の火に投げ込まれる「悪い者(悪魔)の子たち(毒麦)」という状況になるということです。

 

「悪い者(悪魔)の子たち」が約99%という状況は、かなり治安が悪いはずです。

 

蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。

 

悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくるのです。

 

また、最も小さい者たちの1人が助けを必要としている時に見捨てるのです。

 

それから、次のようなことも指摘されています。

 

「あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。

「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。

 

あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。ローマ2章21~23」

 

まだまだありますが、この世界に悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たちが約99%という状況の国は、相当めちゃくちゃ激しく超絶に治安が悪い国となるはずです。

 

 

しかし現実の「日本」は、「2023年海外旅行で治安が良い国ベスト20」の中で、次のように紹介されています。

 

「日本は、世界でも非常に治安の良い国として知られています。犯罪率は低く、日本全体で見ても夜間でも安全に外出できる場所が多いです。日本人は一般的に規則を守ることを重視し、他人のプライバシーと安全を尊重します。」

 

 

そして、「イエス・キリストを信じない人たち」を永遠の火に投げ込まれると定義してしまえば、イエス・キリストを信じていない人々は、この世界に悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たちとなり、イエスさまの敵になります。

 

聖書の教えでは、そういう人々は、イエスに属さないと言われていて、イエスの言葉を信じることができず、イエスを殺す人たちになるからです。

 

 

また、日本の約1%のクリスチャンを「正しい人たち」とするならば、その正しい人たちが集まる教会は、日本でも数少ない「安全な場所」となるはずです。

 

その「正しい人たち」が集まる安全な場所において、深く傷つけられることは考えられません。

なぜなら、他の場所は「悪い者(悪魔)の子たち」が集まる治安が悪い場所なのですから。

 

しかし現実は違います。

 

キリスト教会で深く傷ついた人々は後を絶たない状況です。

 

特に「牧師」や「牧師婦人」「伝道師」「宣教師」という教師の立場の人々は異常なぐらいプライドが高い人が多いです。

 

また世の中ではセクハラ・パワハラになることを行っている人も少なくありません。

 

世の中ではセクハラやパワハラで罰せられることでも、教会の中では見過ごされることも多々あります。

 

 

特に、自分が教えていることと違うことを教えている人に対する攻撃は半端ではありません。

 

私の投稿記事もそうです。

ただ聖書の御言葉を字義通りに繰り返して教えているだけです。

 

御言葉に私的解釈を付け足すことはありません。

ほとんど聖書箇所をコピーして貼り付けるだけなので楽です。

 

けれど、多くの牧師やクリスチャンたちから「危険人物」だと認識されます。

 

「教会の牧師たちの教えとはまったく違う」という理由です。

 

そして、それを聞いたクリスチャンたちは皆、右へ倣えします。同じく「危険人物」と認識して、離れ去っていくのです。

 

だけど、世の中では、そのような事になりませんし、そのようになる事のほうが「危険」だと認識してくれます。

なので、世の中のほうが、とてもよく理解してくれると実感しています。

 

 

さらに言えば、キリスト教会に深く傷ついて、離れ去った人々は多いです。

 

その事実はSNS上で広がっています。

 

その人々の多くが、切実に言うことは「教会は恐ろしい。二度と行きたくない。世の中のほうがまだ良い」ということです。

 

長くなったので、次回へ続く

 

 

「日本におけるキリスト教 84 イエス・キリストが教えられた『地獄へ行く者たち』について」

 

聖書には、イエスさま御自身が、明確に地獄に行く者たちがいることを教えられています。

 

その教えはマタイによる福音書13章18~51節に書かれています。次の通りです。

 

すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。

イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

 

毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。

だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。

 

人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。

 

彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 

「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。

網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

 

 世の終わりにもそうなる。

天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。

 

そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

 

 

イエスさまは、天使たちを遣わして、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、 燃え盛る炉の中に投げ込みます。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりすると繰り返し教えられました。

 

その地獄へ行く悪い者たちがいることについて、イエスさまが「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」と確認されると、弟子たちは、「分かりました」と言ったのです。

 

つまり、弟子たちは、悪魔が蒔いた悪い者たちが存在しているけれど、世の終わりに、正しい人々の中からより分けられて、火の地獄に投げ込まれることを信じたのです。

 

 

それゆえ、イエスさまは悪い者(悪魔)の子たちは、イエスさまを信じることができないと、次のように説明されています。

 

イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。 ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。

 

アブラハムはそんなことはしなかった。 あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。

わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。

 

あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。

 

悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。

悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。

 

 しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。(ヨハネによる福音書8章40~45節)」

 

「こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。

 

蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。(マタイによる福音書23章31~33節 」

 

 

そして、ユダヤ人の中でも、イエスさまの羊とイエスさまの羊ではない者と2つに分かれることを教えられています。

 

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。

こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。

 

だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 

この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。

 

多くのユダヤ人は言った

「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」

 

ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」

 

すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」

 

イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。

 

しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。

 

 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。

わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。

 

わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

 

ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。

 

すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」

 

ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」

 

 

悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たちは、「彼(イエス・キリスト)は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼(イエス・キリスト)の言うことに耳を貸すのか。」 と言います。

 

イエス・キリストは悪霊に取りつかれていると主張して、信じさせないようにするのです。

 

そして、イエス・キリストを殺そうとします。

 

しかし、ほかの者たちは「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」と言って、イエス・キリストを信じます。

 

 

また、火の地獄へ投げ込まれる理由として、イエス・キリストを悪霊に取りつかれていると言うことは、聖霊を汚すことだと教えられているのです。(次回で見ていきます)

 

それゆえに「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。ヨハネによる福音書3章36節」などの御言葉が必要不可欠なことがわかります。

 

 

さて、聖書が教える「世の終わりに、火の地獄に投げ込まれる者ども」について学んでいると、火の地獄に投げ込まれる悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たちと、現在の日本人とはまるで違うことがわかります。

 

そのことは、読解力がある小学生でも理解ができるでしょう。

 

長くなったので、次回へ続く

 

 

 

「日本におけるキリスト教 83 聖書を正しく読むために最も重要なことについて」

 

世界のもはや常識として「5W」の教えがあります。

 

ビジネス界では、5W1H/5W2Hで情報を伝達すると、必要事項を漏れなく伝えることができるため、業務指示や報告書作成の際等に活用されます。

 

メディア エンタープライズが発信する記事の中では次のように教えます。

 

「いまさら5W2Hかよっ!」と思われた方もいるかもしれません。

 5W2Hは、状況や事実をもれなく、端的に伝える方法として有効な考え方ですが、問題を過不足なく分解する場合にも、とても有効な切り口になるのです。

 

 5W2Hは、いまさら説明の必要もないですが、Why、When、Where、Who、What、How、How Muchの頭文字をとったものです。

 

状況や事実を「何のために」「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「どのように」「いくらで」……という問いかけに答えることで、整理し、モレのない記述ができます。」

 

引用以上

 

 

また、子供たちへの教育においても「5W」はものすごく重要になっています。

 

いつでも、どこでも、ママに寄り添う情報を「ママスタ セレクト」が発信する記事の中に次のような記事がありました。

「物事の説明が苦手な小3のわが子。どうすれば会話が上手になるの?」

 

会話が苦手な子どもにどうやって言葉を教える?

「いつ、どこで、誰が」という会話の柱を意識するように話す。

 

小6の娘もいきなり「楽しかった」と言うから、こっちは「はい?」となる。「誰とどこで何をして楽しかったのかがわかるように言わないと、相手に伝わらない」と娘には言っています』

 

自分の頭の中では状況が整理されていても、いざ会話となると「誰が」や「どこで」など肝心な部分が抜けてしまうことがあります。

 

子どもと会話するときは、Who(誰が)、When(いつ)、Where(どこで)、What(何を)、Why(なぜ)、How(どのように)を明確にして話をするようにさせたいですね。これらを意識していけば、使う言葉も増え、相手にも状況が伝わりやすくなって、会話が続くようになるかもしれません。」

 

引用以上

 

 

聖書も同じです。小学生でも理解できるように、これ以上ないほど親切丁寧に「5W」によって教えられています。

 

マタイによる福音書から、イエスさまが福音宣教を開始されたところを見てみましょう。

 

「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。

 

人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。

 

こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

 

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

 

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。

 

しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」

 

 

この聖書箇所を読めば、イエス・キリストは、イスラエルのガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から来た大勢の群衆に教えられました。

 

その大勢の群衆は「ユダヤ人」です。

 

そのイエスに従ったイスラエルのユダヤ人たちには「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」という非常に厳しい教えをされています。

 

また「火の地獄に投げ込まれる。」という非常に恐ろしい教えもされたのです。

 

 

そして、イエスさまは福音宣教を弟子たちと始められる時に、きちんとユダヤ人、サマリヤ人、異邦人と区別されています。

「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。

 

『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。』マタイによる福音書10章5~6節」

 

つまり、イスラエルのユダヤ人と、サマリヤ人、異邦人に教えることが違うことがあるからです。

 

その違いも聖書は明確に教えています。

 

 

イスラエルのユダヤ人に教えていることで、サマリヤ人と異邦人に教えていないことについて、直ぐにわかったことがあります。

 

それは、イスラエルのユダヤ人たちと弟子たちには何度も「神の怒り」&「火の地獄に投げ込まれる」という教えがありましたが、

 

サマリヤ人と異邦人に対しては「神の怒り」&「火の地獄に投げ込まれる」という教えがまったく無かったのです。

 

念には念を入れて、何度も何度も聖書を調べましたが、サマリヤ人と異邦人に対しては「神の怒り」と「火の地獄に投げ込まれる」という教えは一切ありませんでした。

 

異邦人については、パウロの福音宣教がメインになります。

 

パウロは一度も異邦人に対しては「神の怒り」&「火の地獄に投げ込まれる」という教えを一切していないのです。

 

けれど、パウロもイエスさま同様に、ユダヤ人に対しては非常に厳しく警告しています。

 

ローマ書にはユダヤ人たちに対して、次のように厳しく警告しています。

 

「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

 

あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 」

 

「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。

 

また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。

 

それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか

 

あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。

 

この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。

 

「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。 」

 

 

パウロは使徒の働き18章のコリントでの宣教において、ユダヤ人に対して次のように見捨てる発言をしています。

 

「 そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。

 

しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と言った。」

 

 

このパウロがユダヤ人たちに言った「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ」という理由がマタイによる福音書27章に次のように詳細に教えています。

 

「ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。

しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。

 

すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。

 

ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。

 

すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。

そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。」

 

 

「イエス・キリストを十字架につけて殺せ!その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」と叫んだユダヤ人たちには、神の御怒りがその上にとどまったことが第一テサロニケ2章15~16節に明確に教えられています。

 

「ユダヤ人たちは主イエスと預言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせず、すべての人に逆らい、

 

わたしたちが異邦人に救の言を語るのを妨げて、絶えず自分の罪を満たしている。そこで、神の怒りは最も激しく彼らに臨むに至ったのである。」

 

 

そして、サマリヤ人と異邦人たちは、主イエスと預言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせず、すべての人に逆らっているユダヤ人たちとは無関係です。

 

当然に、当時のユダヤ人たちのような恐ろしいことをしていない「サマリヤ人と異邦人」たちには、神の御怒りがあるはずがありません。

 

 

今度は、イエスさまの来臨による「最期の審判」の聖書箇所を見てみましょう。

 

マタイによる福音書25章に最期の審判のことが次のように教えられています。

 

『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 

この教えは、誰に教えているかというと、24章3節から始まっています。

 

「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」

 

つまり、イエスさまは、来臨による最期の審判についての教えを弟子たちだけに教えられているのです。

 

 

その続きは次の通りです。

「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」

 

そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、 計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。」

 

それから、弟子の一人が裏切ります。

「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。

 

そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」

 

 

これらの聖書の教えでわかることは、当時のイエス・キリストを信じていないユダヤ人たちは、悪魔から出た者で、イエスを殺そうとする悪魔に聞き従っているのです。

 

その事についても、聖書は明確に教えているのです。

 

聖書は5W Where(どこで)Who(誰が)What(何を)

Why(なぜ)いつ ということを明確に教えています。

 

ユダヤ人に対して、サマリヤ人に対して、異邦人に対して、それぞれ教えが違うことがあります。

 

 

もしも、「その当時のイエスを殺したユダヤ人たちと現在の日本人たちに対しての教えは同じ」として教えているとすれば、ものすごく荒唐無稽で、支離滅裂で、相当めちゃくちゃ激しく意味の解らない教えになります。

 

小学生たちにも失笑されて「ちゃんと5Wを学ぼうね」と言われてしまうでしょう。

 

それから、約99%になる日本人のイエス・キリストを信じていない人々の上に神の御怒りがその上にとどまり、滅びに向かっていて、そのまま死ねば地獄へ行くという非常に恐ろしい教えとなって、

 

「イエス・キリストは、なんて無慈悲で冷酷非道な神なんだ」と、神の名は日本人の中で汚されてしまいます。

 

長くなったので、次回へ続く