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ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教 101 聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない」

 

今朝、就寝時に、人生で初めて御言葉が何度も響き渡る経験をしました。

 

それがこの御言葉です。

「 何よりも次のことを知っていなければいけません。

すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。

 

なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神のことばを語ったのだからです。第二ペテロ1章20~21節」

 

この御言葉を忘れずに、今回のブログ記事を読んでくださらなければ、理解することは出来ないと思われます。

 

ちなみに、前回のブログ記事に「いいね!」してくださった方々が思ったより多かったので、これからの日本のキリスト教会にも希望があると思いました。

 

今回の内容は、既成のキリスト教会の神学(聖書解釈と福音理解)を覆す内容になっています。

 

 

それでは本題に入ります。

 

前回記事で「大患難時代」は既に終わっていると伝えました。

 

パウロはキリストの来臨の時のことを次のように教えました。

 

「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。

 

なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。

 

この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。テサロニケ人への手紙第二2章3~4」

 

この教えはイエスさまの教えです。この教えをイエスさまとパウロが教えた時期はいつか、それはエルサレム神殿(第二神殿)が建っていた時期でした。

 

(第二神殿は、紀元前516年から紀元後70年までの間エルサレムの神殿の丘に建っていたユダヤ人の重要な神殿である)

 

つまり、イエスさまと使徒パウロが一致した預言は、「荒らす憎むべき者である滅びの子は、エルサレム神殿(第二神殿)に座を設けて、それから大患難時代(三年半)に突入し、その大患難時代の終わりに、イエス・キリストの来臨の日が来るのです。

 

 

そして、前回記事で伝えたように、荒らす憎むべき者である滅びの子が、エルサレム神殿(第二神殿)を占拠し、紀元66年~70年における大患難時代に入り、エルサレムとエルサレム神殿(第二神殿)は破壊されました。

 

以後エルサレム神殿は再建されることはなく現在に至ります。

 

 

使徒パウロは伝承によれば「紀元65年頃、皇帝ネロに処刑されて殉教」ということが全世界の教会に宣べ伝えられて、そのように信じられています。

 

しかし、聖書の教えは「使徒パウロの預言」として、次のように明確に教えられているのです。

 

「私たち(使徒パウロたち)は主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

 

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 

次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 

こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。テサロニケ人への手紙第一4章15~18節」

 

 

使徒パウロはこのように明言しています。

「主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たち(使徒パウロたち)が」

 

「次に、生き残っている私たち(使徒パウロたち)が、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」

 

 

さて、前述にこの御言葉を忘れずにと伝えました。

 

「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。

 

なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神のことばを語ったのだからです。第二ペテロ1章20~21節」

 

つまり、人間の意志ではなく、聖霊に動かされた使徒パウロが預言したことを信じることが、真のクリスチャンです。

 

ですから、使徒パウロたちは、紀元66~70年の大患難時代後に、生き残っていて、たちまち、よみがえったキリストにある死者たちといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会われたのです。

 

そして、使徒パウロたちは、肉の死を体験することなく、いつまでも主とともにいるのです。

 

その聖書に書かれているイエスさまと使徒パウロの預言を信じます。Amen!!!

 

 

ところが、まだ大患難時代や主の来臨はまだ来ていないと教えると、どういうことになるでしょう?

 

明らかに、イエスさまと使徒パウロは、滅びの子はエルサレム神殿(第二神殿)に立ち(座り)あらゆる悪の欺きが行われる。

 

その時には、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難(大患難時代)となる。と教えられました。

 

そして、その通りの大患難時代が起きました。そしてエルサレムとエルサレム神殿(第二神殿)は破壊されて、エルサレム神殿(第二神殿)は、わずかに嘆きの壁があるだけです。

 

そんな嘆きの壁に滅びの子が現われても、誰も相手にしないでしょう。

 

また、「これから第三神殿が建つんだ」という教えもありますが、そんなことを聖書のどこにも教えていませんし、現実に建ってはいないのです。

 

 

さらに、そのような教えは、使徒パウロの預言に私的解釈を施し、使徒パウロの預言は虚言ということになり、聖霊を欺いていることになります。

 

また、使徒パウロたちではなく、現在の私たちが、生きたままで、よみがえったキリストにある死者たちといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うことになる。という教えとなり、

 

使徒パウロたちよりも、現在のクリスチャンたちのほうが特別な主の恩計らいにあずかることができるということになります。

 

なんて傲慢すぎると思いませんか、

 

現在の牧師やクリスチャンたちは、イエスさまから御言葉と預言を授かり、あの大迫害、大患難時代を信仰によって乗り越えられた使徒パウロたちよりも優れているでしょうか?

 

そして、反キリストと大患難時代がこれから来るぞ!という恐怖の教えで、多くの平信徒や求道中のクリスチャンたちを苦しめているのです。

 

 

旧約聖書の中で、生きたまま空中に引き上げられて、神に逢えるという特別な神さまの恩計らいをあずかったのは、エリヤとエノクだけです。

 

そして新約聖書では、使徒パウロたちです。

 

(これは私的解釈になりますが、おそらく使徒ペテロたちの中でも恩計らいにあずかった使徒がいるのではないかと推測しています。)

 

 

以前は私自身も、大患難時代と主の来臨はこれからだという教えを信じさせられていました。

 

なので、以前のブログ記事に間違ったことを教えていたのでお詫びします。

今朝、神さまから直接、そのことを教えられました。

 

これからは、聖書の預言に私的解釈を施す教えを退けて、ただ聖書の御言葉と預言を誠実に忠実に伝えていきますので、よろしくお願いいたします。

 

 

「日本におけるキリスト教 100 神の御怒りと大患難時代は成就しています。」

 

私はNHK朝ドラを楽しみに見ています。ちょうどタイムリーに素晴らしいことを教えられることがあるからです。

現在は「虎に翼」という主人公が初の女性弁護士を目指す物語です。

 

今日は、主人公の父親が冤罪で逮捕された事件の裁判の判決があり「無罪判決」で感動しました。その判決文です。

 

「検察側が提示する証拠は、自白を含め、どれも信憑性に乏しく、本件において、検察側が主張するままに事件の背景を組み立てんとしたことは『あたかも水中に月影をすくい上げようするかの如し』。

 

すなわち、検察側の主張は証拠不十分によるものではなく、犯罪の事実そのものが存在しないと認めるものである」

 

 

担当した弁護士は、裁判官の判決文について次のように絶賛します。

「それにしても名判決文だった」

「蟻一匹通さぬ、見事なまでに一分の隙もない判決文だった。あれじゃ、控訴のしようがないね」と褒めちぎりました。

 

 

私はこのドラマを見ていて、今の自分自身と重ね合わせて、ものすごく感動しました。

 

私が教えられた「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行く」という聖書の教えによって、私に関わるすべての人々が皆、地獄行きということと、イエス・キリストは無慈悲で冷酷非道な神ということは、でっち上げの冤罪であることを信じて、戦っていることと共鳴したからです。

 

いわゆる「未信者は地獄行き」裁判ということになりますが、聖書を徹底的に調べると「無罪判決」です。

 

イエス・キリストを信じなかったという理由で、絶対に地獄へは行きませんし、イエス・キリストは無慈悲で冷酷非道な神ではないことを証明できます。

 

「イエス・キリストを信じない人々は地獄行き」という聖書解釈と福音理解は、どれも信憑性に乏しく、そういう神学が主張するままに聖書の御言葉の解釈を組み立てていることは『あたかも水中に月影をすくい上げようするかの如(ごと)し』である。

 

 

そして、「蟻一匹通さぬ、見事なまでに一分の隙もない聖書解釈と福音理解だった。あれじゃ、反証のしようがないね。」と言われるためには、3つが重要だと痛感しています。

 

① イエスさまと悪魔が対峙された時、聖書の御言葉だけを言われたことを通して、ただ聖書の御言葉を引用にして、念入りに繰り返して伝える。

 

② そして、その御言葉は「誰に対して教えられているのか」を明確にすること。

 

③ さらに、その聖書に書かれている時代の状況を確認すること。(ユダヤ人、ファリサイ派の人(パリサイ人)、テサロニケ人、エフェソ人、ガラテヤ人など、それぞれの状況や背景を調べる)

 

預言であれば、あれから約2000年も経っているので、既に成就しているのかを確認すること。

 

この3つだけを伝えるだけにして、私的解釈や誰々の聖書解釈と福音理解やどこそこの神学を根拠にしないこと。

そうすれば、これまでの投稿記事に反証してくる人(牧師やクリスチャン)はいなくなりました。

 

以前はよく反証されて、コメント欄が荒れたりしました。

また、執拗にイエスキリストを信じない人々は地獄へ行くというプロテスタント教会の神学と聖書解釈と福音理解を押しつけてくる牧師たちもいましたが、この3つを守っていると、いなくなったのです。というか、まるで詐欺師が慌てるように逃げ去りました。

 

 

さて、本題に入ります。前回の反キリストと大患難時代についてです。

 

「Josephology」氏が、イエスさまが預言された聖書箇所と、その預言がイスラエルで成就された歴史的事実をまとめていましたので、以下に抜粋して引用します。

 

かなり長くなりますが、徹底的に聖書を調べることと、その後、聖書に書かれている預言が成就したことを知る必要があります。

それに「大患難時代の恐怖」を理解するために必要ですから、興味深く読んで頂ければと思います。

 

◯マルコによる福音書13章14節

「さて、『荒廃をもたらす憎むべきもの』が立つべきではない所に立つのを見たなら、──読者は悟れ──その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。」

 

紀元六六年に勃発したユダヤ人のローマ帝国への大反乱において、前線から首都エルサレムに撤退した敗残兵たちは地方から都に流れ込んで来た無法者たちと結託して武装勢力を形成、

 

神殿の聖所を占拠してそこを根城にエルサレム市民たちに対し虐殺や略奪など暴虐の限りを尽くし、また先祖伝来の律法に背く行為を市民たちに強要した。

 

当初は武装勢力を自分たちの守護者と見なしていたエルサレム市民は、こんなことならばローマ軍の手に落ちた方がよほどましだと考えて、城外への脱出を試みる者たちが続出した。

 

マルコ13章14節の「立つべきではない所」とは、マタイ24章15節の「聖なる場所」と同様に神殿の聖所を意味している。

◯ルカによる福音書19章28節、41節~44節

 

「さて、イエスはこれらのことを語り終えると、先頭に立って、エルサレムへ上って行かれた。」

「都に近づき、イエスは都をご覧になると、そのためにお泣きになって、仰せになった、『もしこの日、お前も平和をもたらす道が何であるかを知ってさえいたら……。

 

しかし今は、それがお前の目には隠されている。いつか時が来て、敵が周囲に塁壁を築き、お前を取り囲んで、四方から押し迫る。そして、お前と、そこにいるお前の子らを打ち倒し、お前のうちに積み上げられた石を一つも残さないであろう。それは、訪れの時を、お前が知らなかったからである』。」

 

◯ルカによる福音書21章20節~24節

「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいているのを悟りなさい。その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。

 

また、都にいる人はそこを立ち去り、地方にいる人は都に入ってはならない。それは、書き記されていることがすべて成就される、報復の時だからである。

 

それらの日に、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸である。地上には深い苦悩が、この民の上には神の怒りが臨むからである。

人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国に連れていかれる。そして、異邦人の期間が満たされるまで、エルサレムは異邦人に踏みにじられる。」

 

「軍隊」はルカ19章43節の「敵」と同様にローマ軍に他ならないが、ローマ軍がエルサレムを包囲した時点で神殿の聖所を占拠していたのは、無法集団と化していたエルサレム市内の武装勢力であった。

 

よってマタイ24章15節やマルコ13章14節との比較から、この無法集団こそが「荒廃をもたらす憎むべきもの」「憎むべき破壊者」ということになる。

 

エルサレム市内において無法集団は、略奪や暴行そして虐殺また放火にいたるまであらゆる悪事をほしいままにしていた。

 

ルカ福音書のこれらの引用箇所では紀元七〇年のエルサレム滅亡について語られている。

 

ルカ19章44節の「訪れ」とは「主の来臨」に他ならない。さらにルカ21章21節において主イエス・キリストは、エルサレムが包囲されようとしている時にはその都を脱出すべきであると警告され、また地方にいる人々は山に逃げるべきでエルサレムがいかに堅固な都であろうとそこに入って籠城すべきではないとも警告された。

 

 

そしてルカによる福音書21章22節には、「それは書き記されていることがすべて成就される、報復の時だからである。」とあり、

ここにおいて主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡(紀元七〇年)をもって旧約聖書の預言が全て成就し、旧約時代──すなわち、エルサレム神殿の時代が完全に終焉を迎えることを、明らかにされた。

 

ルカ21章23節には「地上には深い苦悩が、この民の上には神の怒りが臨む」という主イエス・キリストの御言葉があり、当然この箇所は、マタイ24章21節やマルコ13章19節に対応しているが、

 

プロテスタントの文語訳聖書である『改訳 新約聖書』(1917年)においては、ルカ21章23節の同じ箇所を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳しており、

 

ある人々がいわゆる「大艱難時代」「大患難時代」などと呼んでいる時期が実は第二神殿滅亡の前後に他ならないことを、既に暗示している。

 

 

なお、聖書における「地上」という表現の「地」とは、文脈によってはルカ4章25節やローマ9章28節やヤコブ5章17節などの場合と同様、古い契約(旧約)における神の民の居住地(居住範囲、居住領域)すなわち、ユダヤ世界を指す場合がある(ダニエル9章6節やバルク1章9節も参照)。

 

黙示録18章24節の「預言者たちや聖なる人々の血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」の「この都で」と日本語訳されている箇所のギリシア語原文は「彼女において(εν αυτη – en autē)」という表現であるが、

 

この場合の「~において」は地理的な所在地というよりは、責任の所在(マタイ23章35節~37節やルカ11章50節~51節や黙示録16章6節などを参照)を意味している。

 

そしてルカ21章23節「地上には深い苦悩が」の「地上」も、文脈からはユダヤ世界を指している。

エレミヤ書7章では11節で神殿(第一神殿)をまさに「盗賊の巣」と呼んだ上で、12節以下で神殿の滅亡について預言されている。

 

そして主イエス・キリストも、エルサレム入城の後、神殿(第二神殿)を「強盗の巣」と呼んだ上で(マタイ21章13節、マルコ11章13節、ルカ19章46節)、神殿の滅亡について予告された(マタイ24章3節、マルコ13章2節、ルカ21章6節)。

 

その予告は紀元七〇年に現実のものとなった。エレミヤ書7章12節に登場する「シロ」は、かつては「会見の幕屋」すなわち神殿が建てられていた土地であった(ヨシュア記18章)。

 

しかし、サムエル記上の最初の四つの章にある通り、当時イスラエルを裁き治めていた祭司エリの息子たちの悪行に感化されてイスラエルの民のあいだに悪がはびこり、やがてペリシテ人の侵攻を受けて壊滅的な打撃を蒙ることになった。

 

主イエス・キリストの言葉には大祭司(祭司長)たちの一族の行いを告発するニュアンスも、当然ながら含まれている。

 

◯ヨエル書3章3節~6節

 

「わたしは天と地に不思議な徴を現す。血と火、そして煙の柱である。偉大な、恐るべき主の日を前にして、太陽は闇(やみ)と化し、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。それは主が仰せになったように、シオンの山とエルサレムに救いがあるからだ。主が呼ばれた残りの者たちのうちにも。」

 

この箇所においては、「恐るべき主の日」において、(地上の)エルサレムにいる者で救われるのは、ただ「主の名を呼ぶ者」のみであることが、預言されている。

 

◯ヨハネの黙示録6章12節~17節

「小羊が第六の封印を解いたとき、わたしは見た。激しい地震が起こり、太陽は毛織りの粗布(あらぬの)のように黒くなり、月は全面血のようになった。天の星は地上に落ちた。

 

それはあたかも、いちじくが大風に煽(あお)られて、その青い実を振り落とすようであった。天は巻物が巻かれるように消え失せ、山と島はことごとくその場所から移された。

 

地上の王、高官、千人隊長、富豪、権力者、そして、すべての奴隷と自由な身分の者も、洞穴(ほらあな)や山の岩間に身を隠した。そして、もろもろの山や岩に向かって言った、『わたしたちの上に倒れて、玉座に座っておられる方の顔から、また小羊の怒りからわたしたちを隠してくれ』。あの方々の怒りの大いなる日が来たからである。誰がそれに耐えられようか。」

 

黙示録6章の12節以降がエルサレム(および第二神殿)の滅亡と強く関連していることは、前掲のヨエル書3章との関連でも明らかである。

 

15節の「洞穴や山の岩間に身を隠した」という表現は、既に何世紀も昔に預言者イザヤがユダ王国と都エルサレムについて受けた啓示を、想起させるものである。

 

◯イザヤ書2章1節、10節~11節、19節、21節

 

「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて啓示されたこと。」

「岩の間に入り、塵(ちり)の中に隠れよ。主の恐ろしさとその威光の輝きを避けて。その日には、人間の高ぶる目は低くされ、人の慢心は卑しくされ、主ただひとり、高く上げられる。」

 

「主が立って、地を揺り動かされるとき、人々は、主の恐ろしさとその威光の輝きを避けて、岩場の洞窟(どうくつ)、塵の穴に入る。」

 

実際に、紀元七〇年のエルサレム滅亡の際、エルサレムを支配していた武装勢力の指導者たちは、自分たちだけは生き延びようとエルサレム城外へ通じる秘密の地下通路に逃げ込んだ。

 

黙示録6章15節「地上の王」を「ユダヤ世界の王」と解釈すると、ローマ帝国側は武装勢力の指導者の一人シモン・バル・ギオラのことをユダヤ側の「王」と見なしていたが、このシモン・バル・ギオラもやはり地下通路で逃亡を図るも成功せず、結局はローマ軍に投降し、処刑された。

 

ローマ帝国でネロ皇帝に対する反乱が起こり、ネロの自殺後ローマ帝国が内戦状態に入り、ローマ軍の脅威がいったん去ったかのように見えると、三派が割拠した状態でエルサレムを支配していた武装勢力は、市民たちをも巻き込んで血で血を洗う内部抗争を展開した。

 

大反乱の時期のエルサレムにおいては、それぞれの武装勢力各派が敵対する勢力の支配地域を攻撃する際、穀物市場に放火して小麦だろうと大麦だろうと焼き払う、という蛮行が行なわれていた。

 

ユダヤ人の歴史家ヨセフスやローマ人の歴史家タキトゥスが、大反乱の時期のエルサレムで大量の穀物が焼き払われていたことを書き残しており、

 

さらにユダヤの伝承の集大成であるタルムードにおいてまでも、武装勢力がエルサレム市民を対ローマ戦争に駆り立てる目的であえて小麦や大麦を焼き払って見せたことが記録されている。

 

◯ヨハネの黙示録6章5節~6節

 

「小羊が第三の封印を解いたとき、わたしは第三の生き物が『出てこい』と言うのを聞いた。そして、わたしは見た。見よ、一頭の黒い馬が現れた。それにまたがっている者は、手に天秤(てんびん)を持っていた。

 

そして、わたしは四つの生き物の中から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた、「小麦一升は一デナリオン、大麦三升は一デナリオン、オリーブ油とぶどう酒には害を加えてはならない』。」

 

最終的に、滅亡を前にしたエルサレムは深刻な食糧不足に苦しむこととなった。

 

本来、エルサレムには数年の籠城でも持ち堪えられるほどの莫大な量の穀物が備蓄されていたはずだったが、武装勢力同士の内部抗争による放火で穀物の大部分が灰燼に帰してしまっており、

 

またユダヤ各地からのあまりにも膨大な数の避難民をエルサレムが収容してしまっていたため、ローマ帝国軍がひとたびエルサレムを包囲して兵糧攻めの構えに入ると、物流が完全に途絶えてしまったエルサレムは、ほどなく大飢饉に陥った。

 

そして、紀元七〇年のエルサレム及び第二神殿の滅亡の後、三百年以上過ぎてから一人のキリスト教の歴史家が、真の意味での「大艱難時代」「大患難時代」において、実際の戦闘行為よりもある意味では残酷な出来事が起こったことを、次のように書き記した。

 

◯スルピキウス・セウェルス『世界史』二・三〇・三【再掲】

 

「そのうちユダエア人は包囲網の中に完全に封じ込まれ、平和や降伏を求める機会を全く与えられなかったので、最後に餓死した。道路は至る所死体で埋もれ始めた。」

 

「人々はもう埋葬の義務を断念していたからである。のみならず、食物についても、思いきって忌わしいものまでことごとく試み、このような食物のうち、腐敗が食べる切っ掛けを奪っていたものを除き、人の肉体すら食べるのを憚(はばか)らなかった。」

 

「都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」(ルカ21章21節〔新共同訳〕)という、主イエス・キリストの御言葉の持つ意味をあらためて深く考えさせられる、まさに大惨事、大艱難(大患難)であった。

 

そして黙示録6章は、上で引用した箇所から次のように続いている。

 

◯ヨハネの黙示録6章7節~8節

「小羊が第四の封印を解いたとき、わたしは第四の生き物が『出てこい』と言うのを聞いた。そして、わたしは見た。見よ、一頭の青白い馬が現れた。

 

それにまたがっている者の名は『死』であり、その後ろには陰府(よみ)が従っていた。彼らには、剣(つるぎ)と飢饉(ききん)と死病と地上の野獣によって、地上の四分の一の人々を殺す権力が与えられた。」

 

黙示録6章8節の記述を目にした(耳にした)紀元一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒の多くは、次の瞬間にはエゼキエル書14章の次の箇所を連想したに違いない。

 

◯エゼキエル書14章21節~23節

「まことに、主なる神は仰せになる。剣、飢饉、獰猛(どうもう)な獣(けもの)、疫病という四つのきびしい裁きをエルサレムにもたらし、その地の人間と獣を滅ぼす時はなおさらである。

 

しかし、そこには必ず生き延びる者を残しておく。息子や娘たちは救い出され、お前たちのもとへ帰ってくる。

お前たちは彼らの歩みと行いを目にして、わたしがエルサレムにもたらした災い、そこにもたらした出来事のすべてに慰めを見出(みいだ)す。お前たちは彼らの歩みと行いを目にして、彼らによって慰めを得る。

 

その時、わたしがわけもなくその地に災いをもたらしたのではないことをお前たちは知るだろう──主なる神の言葉。」

 

 

ただし黙示録6章8節もエゼキエル書14章21節も、その「おおもと」となる言い回しは、既に申命記32章における「モーセの歌」の中に存在していた。

 

これもまた、紀元一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒にとっては、もとより熟知していた箇所であろう。

◯申命記32章23節~25節

「わたしは、彼らの上に災いを増し加え、わたしの矢を彼らに向けて射尽くす。

 

彼らは飢えて痩せ衰え、熱病と激しい疫病で滅びる。わたしは野獣の牙(きば)を、地を這うものの猛毒とともに彼らに送る。

外では剣(つるぎ)が殺し回り、家の内では恐れが、若い男にも女にも、乳飲み子にも白髪の老人にも等しく襲いかかる。」

 

 

また黙示録6章15節以下の、「地上の王、高官、千人隊長、富豪、権力者、そして、すべての奴隷と自由な身分の者も、洞穴(ほらあな)や山の岩間に身を隠した。

 

そして、もろもろの山や岩に向かって言った、『わたしたちの上に倒れて、玉座に座っておられる方の顔から、また小羊の怒りからわたしたちを隠してくれ』。」という箇所は、

 

次に示すルカ福音書23章30節の「そして、その時、人々は山に向かって、『わたしたちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かっては、『わたしたちを覆え』と言い出すであろう。」という箇所と、明らかに対応している。

 

◯ルカによる福音書23章28節~31節

「そこで、イエスは彼女たちの方を振り向いて、仰せになった、『エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣かなくてもよい。むしろ、自分自身のため、また自分の子供たちのために泣きなさい。

 

それは、人々が『不妊の女、子を産んだことがない胎(たい)、吸わせたことのない乳房は幸いである』と言う日が来るからである。そして、その時、人々は山に向かって、『わたしたちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって、『わたしたちを覆え』と言い出すであろう。生木でさえこうされるのなら、いったい枯れ木はどうなるであろうか。」

 

黙示録によって滅亡を暗示されている「都」が一体どこなのか、もはや疑う余地はなかろう。

 

◯ヨハネの黙示録18章4節~8節

 

「わたしの民よ、彼女から逃げ去れ。それは、その罪に与(くみ)せず、その災いに巻き込まれないためである。

彼女の罪は積もり積もって天にまで達し、神はその不正を心に留(とど)められた。彼女がお前たちに報いたとおりに、彼女にも報い返してやれ。彼女の仕業に応じて倍にして返してやれ。

 

彼女が混ぜものを入れた杯に、その倍の量を混ぜて注いでやれ。彼女が驕り高ぶり、贅沢をほしいままにしたのと同じほどの苦しみと悲しみを彼女に与えよ。

 

彼女は心の中で、こう言っているから、『わたしは女王の座にあり、やもめではなく、決して憂き目を見ることはない』。それ故、一日のうちにさまざまな災い──死と悲しみと飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされる。彼女を裁く神なる主は、力ある方だからである。」

 

ルカ21章21節で主イエス・キリストは、エルサレムが包囲されようとしている時にはその都を脱出すべきであると警告され、地方にいる人々は山に逃げるべきでいかにエルサレムが堅固な都であろうともそこに籠城すべきではないとも警告された。

 

黙示録18章4節ではその警告がもう一度繰り返されている(「わたしの民よ、彼女から逃げ去れ。それは、その罪に与(くみ)せず、その災いに巻き込まれないためである。」)。

 

 

8節の「死と悲しみと飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされる」という「大淫婦」「大バビロン」の末路は、紀元七〇年のエルサレム滅亡の歴史的光景そのものであり、ルカ福音書の主イエス・キリストの御言葉ともよく符合している。

 

ユダヤ人がローマ帝国に大反乱を起こし、それに対して派遣されたローマ軍がエルサレムを一回目に包囲したのは、紀元六六年のことであった。

 

紀元七〇年におけるエルサレムと神殿との滅亡、そしてそれに先立つ数年間に都で展開される惨状に、決して巻き込まれることのないよう、主イエス・キリストは御自分の弟子たちに、何度も繰り返し警告されていたのであった。

 

◯マタイによる福音書24章1節~3節 マルコによる福音書13章1節~2節 ルカによる福音書21章5節~6節

 

「イエスが神殿の境内を出ていかれると、弟子たちが近寄ってきて、イエスに神殿の建物を指し示した。すると、イエスは仰せになった、『あなた方はこれらのすべてを見ているのか。あなた方によく言っておく。積み上げられた石が一つも残らないまでに、すべてが破壊される』。」

 

引用以上

 

 

聖書に書かれているイエスさまとヨハネの黙示録と旧約聖書の、これからエルサレムに起こる恐ろしすぎる預言は、既に成就しています。

 

私自身も聖書に預言された「大患難時代」が現実に起きた時のことの恐ろしさに驚きました。

もう一度、書き記します。

 

紀元七〇年のエルサレム及び第二神殿の滅亡の後、三百年以上過ぎてから一人のキリスト教の歴史家が、真の意味での「大艱難時代」「大患難時代」において、実際の戦闘行為よりもある意味では残酷な出来事が起こったことを、次のように書き記した。

 

◯スルピキウス・セウェルス『世界史』二・三〇・三【再掲】

 

「そのうちユダエア人は包囲網の中に完全に封じ込まれ、平和や降伏を求める機会を全く与えられなかったので、最後に餓死した。道路は至る所死体で埋もれ始めた。」

 

「人々はもう埋葬の義務を断念していたからである。のみならず、食物についても、思いきって忌わしいものまでことごとく試み、このような食物のうち、腐敗が食べる切っ掛けを奪っていたものを除き、人の肉体すら食べるのを憚(はばか)らなかった。」

 

 

旧約聖書に預言されたメシヤ(救世主キリスト)を拒絶したエルサレムのユダヤの民に対する神の御怒りは成就しました。

 

そして、「これはイエス・キリストの再臨の時ではない!」というツッコミがあろうと思いますが、次回はその事について見ていきます。

 

 

 

「日本におけるキリスト教 99 非常に耐えられない重荷を負うクリスチャンたちについて」

 

私が聖書を徹底的に調べると「イエス・キリストを信じていない」という理由では絶対に地獄に行かない。」ということを確信しています。

 

以前は「イエス・キリストを信じない人々は、罪を赦されることがないので、最後の審判において永遠の火に入れられる。つまり永遠の地獄に行く。」という聖書解釈と福音理解のキリスト教会に所属していました。

 

その教会に所属していた年月は、非常に耐えられない重荷を背負わされていました。

 

なぜなら、私の家族、親戚一同、友達家族、世話になった人々、大好きな歌手、俳優、スポーツ選手は全員がイエス・キリストを信じていないからです。

 

その愛する人々が、このまま死ねば、永遠の火に入り、永遠に地獄の炎の中でもがき苦しむことになるのです。

 

このイエス・キリストの教えは、なんて無慈悲で冷酷非道なのでしょう。

 

その愛する人々が地獄行きから救われるためには、クリスチャンの福音伝道にかかっているのです。

なんて、非常に耐えられない、苦しすぎる、悲しすぎる、苦痛に満ちた重荷でしょうか。

 

 

しかしながら、自分自身はイエス・キリストを信じているので、永遠の命を得て、過去・現在・未来におけるすべての罪は赦されているという教えによって、自分自身は救われているので安心して暮らしていたのです。

 

人間は自分自身がよければ、他人はなんとかなるさというような、とても都合よく生きていけるものです。

 

 

しかし、プロテスタント教会は情け容赦なく、さらに大きな恐怖を与える聖書解釈と福音理解を植え付けます。

 

それが、ヨハネの黙示録の「反キリストが支配する大患難時代」の教えです。

 

ヨハネの黙示録13章1~18節&14章9~12節

抜粋して引用します。

 

「わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。

竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。 この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。

 

そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。

 

竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。」

 

この獣にはまた、大言と冒瀆の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。

 

そこで、獣は口を開いて神を冒瀆し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒瀆した。

 

獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。

 

地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。

 

耳ある者は、聞け。捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。

剣で殺されるべき者は、剣で殺される。

 

ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。

 

わたしはまた、もう一匹の獣が地中から上って来るのを見た。

この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。 そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。

 

更に、先の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、また、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。

 

第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。

 

また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。

 

そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。

 

この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。 ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」

 

 

「また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。

 

『だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、

その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。

 

その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。』

 

ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。」

 

 

現在、多くのプロテスタント教会が、このヨハネの黙示録で書かれている反キリスト(二匹の獣と竜)が支配する大患難時代に突入するのは近いと教えています。

 

しかし、この大患難時代に突入する前に本当のクリスチャンは天に引き上げられる「携挙」があり、本当のクリスチャンではなかった者と、イエス・キリストを信じない人々は地上に取り残されるという聖書解釈と福音理解を教えている教会が多いです。

 

その大患難時代前携挙説の小説「レフト・ビハインド」は何本か映画制作されて、そのビデオを鑑賞したクリスチャンは多いです。

 

プロテスタント教会でも「大患難時代前携挙説」と「大患難時代中携挙説」、「大患難時代後携挙説」と3つの解釈に分かれていますが、「大患難時代前携挙説」を教えている教会が急増しているようです。

 

 

いずれにしても、ヨハネの黙示録が教える「大患難時代」は非常に恐ろしいものです。

 

「この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。」

「獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。」

 

「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、 その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。 」

 

 

クリスチャンになったことにより、周りのすべての愛する人々が、このまま死ねば、最後の審判で永遠の火に投げ込まれると教えられて、非常に耐えられない重荷を背負わされました。

 

そして、クリスチャンになっても、大患難時代があり、取り残されて、獣の像を拝んだり、獣の刻印を受けると、神の怒りのぶどう酒を飲み、火と硫黄で苦しめられることになるという、非常に耐えられない重荷を背負います。

 

つまり、二重の非常に耐えられない重荷を背負わされているのです。

 

 

しかしながら、この二重の非常に耐えられない重荷を背負わされているのは真面目な平信徒と、信仰歴が浅いクリスチャン、求道中の人たちが多いと思います。

 

平信徒のレベルで、本当のクリスチャンと認めてもらえるだろうか?と悩んでいる人の声をよく聞きました。

 

私自身もかなり不安でした。それで、礼拝と祈祷会の出席に力を入れて、献金や奉仕などをがんばったものです。

ですが、それも動機が不純と思われないだろうか?と余計に不安になったものです。

 

 

けれども、牧師や伝道師、宣教師、執事や信徒リーダーたちは、信仰がしっかりしていると自負しているので、大患難時代に取り残されるとは思っていないというのが伝わってきました。

 

また、不真面目なクリスチャンたちは適当にクリスチャン生活を送っているので、深く考えることはないと思います。

しかし、深く考えると重すぎる重荷に気づくでしょう。

 

 

さて、聖書には、イエスさま御自身が次のように教えておられます。

 

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

 

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが与えられるであろう。

 

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。マタイによる福音書11章28~30節」

 

 

この世に生きていれば、病いの心配が常にあります。

 

また、人間関係のトラブル、交通事故、ケガ、事件事故、火事、地震や台風などの災害はいつ自分や家族、友人などに降りかかるかわかりません。

 

関東大震災や南海トラフ巨大地震などの大震災が起きれば、日本は相当なダメージを受けて、失業者は急増します。

 

新型コロナウイルス禍が世界を襲った時、休業に追い込まれたり、ワクチン接種で亡くなったり、ワクチン接種していないという理由で解雇されたりしました。

 

また未曾有のウイルスに襲われる可能性もあります。

 

なので、すべての人は、重荷を負うて苦労していると思います。

 

イエス・キリストは「わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」と言われました。

 

神さまは柔和で心のへりくだった者であるから、神さまのくびきを負うて、神さまに学ぶと、あなたがたの魂に安らぎが与えられると言われるのです。

 

神さまのくびきは負いやすく、荷は軽いからです。

 

 

つまり、クリスチャンになれば、重荷は取り除かれて、休むことができて、魂に安らぎが与えられます。

 

それゆえ、聖書解釈と福音理解においても当然に重荷が取り除かれて、休むことができて、魂に安らぎが与えられる聖書解釈と福音理解になるのです。

 

 

このヨハネの黙示録の大患難時代の教えにおいてもそうです。

 

長くなったので、次のブログ記事で、イエスさま御自身が教えられる世の終わり、反キリストについて見ていきます。

すると、ヨハネの黙示録の大患難時代というのも、重荷が取り除かれます。

 

 

 

「日本におけるキリスト教 98 イエスキリストを信じない人々は地獄へ行くという教えの呪縛」

 

私のブログ記事を見た方々から次々と相談が寄せられています。

 

教会の牧師やクリスチャンたちから「イエス・キリストを信じない人々は、最後の審判で永遠の火に入れられると聖書は教えている」と教えられて、苦悩している人たちからです。

 

その苦悩している方々が、SNSで検索して、私のブログ記事にたどり着いたようです。アクセス解析でも「検索」がかなり多いです。

 

最近の投稿記事は「地獄行き」についての聖書箇所を1つ1つ丁寧に見ていますが、イエス・キリストを信じていない人々が地獄へ行くという教えは、まるで聖書の教えと違うことがわかりました。

 

それでも、相談して来られる方々は、教会で「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行く」という教えの呪縛から解放されないのです。

 

 

実は、私自身も同じでした。

 

2021年「第29回FNSドキュメンタリー大賞」を受賞した番組

「アフガニスタンで65万人を救った中村哲。医師でありながら用水路を作った理由とその源流」

 

この中村哲医師がクリスチャンで、無教会のキリスト者「内村鑑三」の教えと出逢って本当のクリスチャンになることができた。と著書や過去のインタビューで言われているのを知って、内村鑑三先生の信仰を学びました。

 

すると、中村哲先生もそうなんですが、内村鑑三先生もプロテスタント教会の教えを毛嫌いしていました。

 

それは、プロテスタント教会の聖書解釈と福音理解とは真逆で、「イエス・キリストを信じない人々もイスラム教徒も地獄には行かない」という聖書解釈と福音理解だからということが大きな理由だと思いました。

 

つまり、普遍的な神の愛の信仰者でした。

 

さらに、無教会のクリスチャンでは、サザエさんの著者「長谷川町子」先生がいました。

 

長谷川先生もプロテスタント教会の教えは超苦手で、著書の中で「泣く泣くプロテスタント福音派の教会に行くハメになりました。」と、母親の命令で、少しの時期だけプロテスタント福音派の教会に通っていたことを漫画で描いています。

 

そして、日本では最も愛されているクリスチャンと思われるカトリック教会の「マザーテレサ」と、日本でも「三重苦の聖女」と大歓迎された「ヘレン・ケラー」も同じく普遍的な神の愛の信仰者であり、

 

「イエス・キリストを信じていない人々も他宗教の人々も地獄には行かない」という聖書解釈と福音理解です。

 

 

私の関わる人々(イエス・キリストを信じていない人々)は、この方々「中村哲、長谷川町子、マザーテレサ、ヘレン・ケラー」を知っていますし、すごく尊敬しています。

 

日本の中で、最も有名で尊敬されているクリスチャンの方々と言えるでしょう。

 

しかし、私は長年、プロテスタント福音派の教会に所属していましたので、この方々の聖書解釈と福音理解は違和感を持ちましたし、間違っていると思ったものです。

 

なので、プロテスタント福音派の教会の教えを消し去って、白紙にした状態で、聖書を徹底的に調べた結果、日本で、最も有名で尊敬されているクリスチャンの方々と同じ聖書解釈と福音理解になったわけです。

 

ですから、プロテスタント福音派の教会の教えを消し去って、白紙にした状態で、聖書を徹底的に調べない限り、「イエス・キリストを信じていない人々は地獄へ行くという教え」の呪縛から解放されないと思いました。

 

 

それでは、前置きがかなり長くなりましたが、未信者は地獄行きという教えの呪縛から解放されるためにも、今回も聖書の教えを見ていきます。

 

「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。

 

すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。

 

このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。

 

わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。

 

神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。

 

ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。

テサロニケの信徒への手紙一 4章3~8節」

 

 

この聖書箇所をプロテスタント福音派の教会では、「神を知らない異邦人」=「イエス・キリストを信じていない人々」と解釈しています。

 

それゆえ、イエス・キリストを信じていない人々は地獄へ行くという教えの根拠となる聖書箇所の1つとなります。

 

「これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。」という教えは、まさにその通りですね。

 

福音派諸教会や諸団体の信仰基準作成に多大な影響を与えてきた福音主義同盟の9項目の第4項が、原罪を持って生まれた人間の全的堕落という教義です。

 

 ④アダムの堕落の結果としての人間の全的堕落

 

【全的堕落(根本的な堕落、または蔓延する堕落とも呼ばれる)】は、原罪の概念から派生したプロテスタントの神学的 教義です。

それは、人間の堕落の結果として、この世に生まれたすべての人は、堕落した性質の結果として罪の奉仕に奴隷にされ、神の効果的な(抵抗できない)または先行的(可能にする)恵みは別として、自分で神に従うこと、悪を控えること、救いの賜物を受け入れることを完全に選択することはできません。

 

引用以上

 

 

今度は、そのようなプロテスタント教会の教えを消し去って、個人的にこのテサロニケ第一4章3~8の聖書解釈をしてみます。

 

さて、「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。

 

すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」ということですが、

 

日本人は、根本的に、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するようにしています。

 

 

また、情欲におぼれる人もいますが、そのような人たちは大きな罰を受けています。

 

情欲が自制できない人たちは、相手が人妻だろうと、未成年者であろうと、情欲を満たすために行動します。

 

それゆえ、不倫もしたり、淫行もしたり、性的暴行も行なったりするのです。

 

そのような情欲におぼれる人たちは、この日本では罰せられるので、隠れたところで極秘に行ないます。

しかし、必ずといっていいほど発覚して、大きな代償を支払うのです。

 

不倫が発覚すれば、「ゲス不倫」などと言われ、職場では立場が危うくなります。

 

職を失う場合も少なくありませんし、近所でも噂が広がります。

 

淫行や性的暴力が発覚すれば、逮捕され、マスコミが一斉に実名で報道します。

 

 

数年前には、プロテスタント福音派の教会の有望若手牧師が未成年の買春で逮捕されました。

教会の牧師の不祥事も珍しくありません。

 

閉塞感がある教会の中では、不倫、淫行、性的虐待が起こっています。

 

「カトリック教会の性的虐待事件」は、21世紀に入ってローマ・カトリック教会を揺るがすことになった、聖職者による児童への性的虐待問題である。

 

全世界のカトリック教会で、調査の結果、膨大な数の被害者と多数の加害者がいたと次々に報告されています。

 

そのうちの1つ、2021年10月5日の朝日新聞の記事です。

 

「フランスのカトリック教会の神父らが、21万6千人の子どもたちに性的虐待などの性被害を加えたとする報告書が5日、公表された。70年間にわたり、2900~3200人の聖職者が関与したという。」

 

引用以上

 

また、プロテスタント教会でも世界で次々に性的虐待事件が発覚しています。

 

産経新聞の2024/1/26の記事です。

 

「ドイツのプロテスタント教会で1946年以降、少なくとも聖職者ら1259人が未成年者ら2225人を性的虐待していたことが分かった。

 

ドイツ福音教会の要請で被害の実態を調査した研究者らが25日、報告書を発表した。特定した被害者数は「氷山の一角に過ぎない」としている。

 

多くの資料が既に破棄されるなどしており、入手できたデータなどを基にした推計ではプロテスタント教会全体で被害者は約9300人、加害者は約3500人に上る可能性があるという。

 

報告書によると、特定した被害者の大半が当時14歳未満で、約65%が男性、約35%が女性だった。加害者の約40%が聖職者で、残りの多くは教会で教育に携わるスタッフだった。ほとんどが男性。」

 

引用以上

 

 

私自身、この日本で、プロテスタント福音派の教会に長年所属して、たくさんの教会に行き来しましたが、この情欲の問題はどこの教会でも見聞きしました。

 

実際に事件は起こしていなくても、言動や行ないで「この牧師、伝道師、宣教師、信徒リーダー、クリスチャンは危ない」という声はよく聞きましたし、

 

私自身も「この人は危ないな」と思ったことは多々あります。

 

世の中よりも教会のほうが危険だと思った人は少なくありません。

 

世の中では、そういう危ない人とは関わらないように出来ますが、教会では「兄弟姉妹、愛し合いましょう」という聖書の教えによって、関わらないようにするのに苦労します。

 

まして、相手が、牧師など教師の立場であれば、拒むことが難しいです。

 

 

このような現状から、このテサロニケ第一4章3~8の聖書箇所の教えから、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するようにしているのが「イエス・キリストを信じたクリスチャン」であり、

 

神を知らない異邦人のように情欲におぼれているのが、「イエス・キリストを信じていない人々」である。と定義することは出来ないはずです。

 

なので、「全的堕落」という神学的教義もかなり荒唐無稽で、信じることが出来ないものです。

 

 

現在の多くの日本人は、聖書の教えを知る前から、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように心がけています。

 

そして、情欲におぼれる人たちは、陰で恥ずべき行為をして、それが明るみに出される日が来ます。

 

それから、それぞれが大きな罰をうけたり、罪悪感で苦しんでいます。

 

日本では「天罰がくだった」と言われています。

 

これは、聖書の教えが、あらゆる形で全世界に宣べ伝えられている証明だと思います。

 

 

つまり、テサロニケ第一4章3~8で教えられている「神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」という「神を知らない異邦人」というのは、「イエス・キリストを信じていない人々」と定義することは間違いだということが明確にわかります。

 

この聖書に書かれている当時のテサロニケの異邦人というのは、前々回の記事で詳しく書いたように情欲におぼれていました。

 

長くなり過ぎたので、次回へ続きます。

 

「日本におけるキリスト教 97 “あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。” 」

 

“あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。” この御言葉は聖書に8回でてきます。

その理由が次のように明確に教えられています。

 

「 “あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。” この二つより大事な命令は、ほかにありません。マルコ 12:31」

「律法の全体は、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。” という一語をもって全うされるのです。ガラテヤ 5:14」

 

 

ところが、私が最初に導かれたプロテスタント福音派の教会では、最も信者数が多い大和カルバリーチャペルの大川主任牧師が次のように教えている通りの聖書解釈と福音理解です。

 

「罪が赦される唯一の方法が『イエス・キリスト」を地上にいる間に信じることで、それなくして死んでいった人たちは、天国に行くことができない。

 

つまり地獄へ行くのである、と教えてきました。

 

『罪の代価は死である』から、その帰結として、罪赦されることなく死んで行く者は、天国に行けずに、地獄へ行く……

 

私の生まれるずっと前から、100年以上そのような考えと教え(神学)の中で教会は営まれてきたのだと思います。」

 

 

現在、私の周りには、毎日会う人の中で「クリスチャン」は1人もいません。

 

それどころか、日本のクリスチャンは人口の約1%弱といわれているので、自分自身も周りの会う人は全員がイエス・キリストとは無関係という人が圧倒的多数でしょう。

 

なので、プロテスタント教会の聖書解釈と福音理解では、周りの人すべてが地獄行きという神さまイエス・キリストは、なんて無慈悲で冷酷非道な神だと思います。

 

また、自分の愛する人々が地獄行きと聞けば、怒りと憤りが湧きあがります。

 

そして、本当にそれが本当の教えなのか、聖書を徹底的に調べることが、愛を現わす行動でしょう。

 

自分の愛する人たちは、絶対に地獄へ行く人間ではない!という確信がありました。

 

その確信が、隣人を自分自身のように愛するということだと思います。

 

それから、無教会のキリスト教の内村鑑三先生の「そんな神なら信じない!」という叫びに共鳴し、とても勇気と励ましを受けて、聖書を徹底的に調べて、こうしてブログ記事で伝えています。

 

 

前々回、前回と聖書が教える異邦人の実態を伝えました。

 

まだ伝えていない異邦人の中で「べレヤ」の人々がいます。

 

その「べレヤの人々」については、使徒の働き17章10~15節に書かれています。

 

「兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に入って行った。

 

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

 

そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。

 

ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神のことばを伝えていることを知り、ここにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした。

 

そこで兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して海べまで行かせたが、シラスとテモテはベレヤに踏みとどまった。

パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。」

 

 

パウロの異邦人の町での福音宣教は、その異邦人の町に住むユダヤ人たちが大勢、ユダヤ教からキリスト教への改宗の報告がなされていますが、その異邦人の町において、異邦人がイエス・キリストを信じたという報告はごくわずかでした。

 

ですが、この「べレヤ」の人々は異邦人の中でも特別で、数多い異邦人がイエス・キリストを信じたのです。

 

その異邦人の町べレヤに住んでいるユダヤ人たちは良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べたのです。

 

また、パウロを守って、海岸まで逃れ、そこから250km南下してギリシヤの中心都市アテネまで送るのです。

 

ですから、他の異邦人たちについては神の怒りについての教えがありますが、べレヤの人々についてはありません。

 

 

それゆえ、「異邦人」といっても、「エフェソス」はあらゆる種類の悪霊崇拝の中心地であり、様々な形態の魔術が行なわれていることで世界中に知られていました。悪霊が特に活発に働いていました。

 

そのような聖書に書かれている当時の「エフェソの人たち」に対しては、次のように厳しく警告されています。

 

「生まれながら神の怒りを受けるべき者」

「こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。」

「悪魔に機会を与えてはいけません!」

「神の聖霊を悲しませてはいけません!」

 

また、聖書に書かれている当時の「コリントの人たち」「テサロニケの人たち」「ガラテヤの人たち」も同様に悪魔が支配している状況でした。

 

ですから当然に神は怒っていることを伝えています。

 

 

聖書に書かれている当時のテサロニケの人たちは、偶像崇拝によって,甚だしい不道徳が蔓延していました。

 

テサロニケの守護神カベイロス,ディオニュソスとアフロディテ,およびエジプトのイシスなどの崇拝には,乱飲乱舞の儀式や浮かれ騒ぎを事とする性的色彩の濃い崇拝という共通点がありました。

 

妾を囲うことや売春が大っぴらに行なわれました。

 

民衆にとって淫行は罪ではありませんでした。

 

 

このような聖書に書かれている当時の「テサロニケ」と現在の「日本」は同じでしょうか?

 

例えば、「淫行」についても、テサロニケの民衆にとっては罪ではなかったので、淫行が日常茶飯事に繰り広げられていたでしょう。

 

しかし、現在の日本ではどうでしょうか?

 

デイライト法律事務所のホームページでも「淫行」に対する法律を次のように教えています。

 

基本的に「わいせつ行為」は「淫行」よりも広く性的行為全般を指し、「淫行」はその中でも性交・性交類似行為を指す、と整理することができます。

 

淫行条例は青少年との性交を規制したものです。

 

青少年自身が警察に通報した場合はもちろん、家族や学校の通報をきっかけとして警察が捜査を開始することが考えられます。

「第十八条の六 何人も、青少年とみだらな性交又は性交類似行為を行ってはならない。」

 

警察が通報を受け、青少年の供述やスマートフォンの解析結果をもとに、容疑者の特定ができれば、実際に逮捕に踏み切る可能性は充分にあります。

 

東京都の青少年健全育成条例を例にとると、淫行規制違反の刑罰は2年以下の懲役又は100万円以下の罰金となっています(東京都青少年の健全な育成に関する条例第二十四条の三)。

 

引用以上

 

このように、現在の日本では「淫行」は非常に大きな罪です。

 

 

悪魔が支配している状況のテサロニケでは、淫行は罪ではなく、我が子が淫行されていれば、その親も他人の子を淫行している状況です。

 

そうしてお互いに欲望を満たしているのです。

 

しかし、この日本では真逆です。

 

我が子が誰かに淫行されたら、激怒し、その者を通報し、警察が逮捕します。

 

そしてテレビ報道などで、実名とともに淫行で逮捕された無様な姿が全国に流されます。

 

それから、刑務所でも淫行の罪や婦女暴行の罪の囚人は、囚人の中でも最低だと見下されるそうです。

 

その他でも、悪魔礼拝などしませんし、

 

聖書に書かれている当時の「テサロニケの人たち」と「日本人」はまったく違います。

他の「エフェソ人」や「コリント人」「ガラテヤ人」とも、まったく違うのです。

 

 

聖書は、きちんと誰に対して教えているかを明確に教えています。

 

また、それぞれの人たちに対する教えは、まるで違うことがあります。

 

きちんと「テサロニケ人」に対しては「テサロニケ人への手紙」で、「コリント人」に対しては「コリント人への手紙」で、「ガラテヤ人」に対しては「ガラテヤ人への手紙」で、というように。

 

そして、「主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、 異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げて、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているために、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。」と言われているのは「ユダヤ人たち」です。

 

さらに「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」と言われているのも「ユダヤ人たち」です。

 

また、ある金持ちと貧乏人ラザロの話で、金持ちが死んだ後で、ハデスで炎の中でもがき苦しんでいるという教えは、

「蛇ども、まむしの末ども、お前たちは、地獄の刑罰を免れることができない」とイエスさまが言われた「ファリサイ派の人(パリサイ人)」に対して教えられたものです。

 

イエスさまは、ファリサイ派の人(パリサイ人)に地獄の刑罰の恐ろしさについて詳細に教えられたのでした。

 

 

こうして、聖書を徹底的に調べると、現在の日本のイエス・キリストを信じない人々が、「イエス・キリストを信じなかった」という理由で地獄にいくことは絶対にないことがわかります。

 

イエスさまが次のように教えられた通りです。

 

「だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、霊”に対する冒瀆は赦されない。

 

人の子(イエス・キリスト)に言い逆らう者は赦される。

 

しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。マタイによる福音書12章31~32節」

 

 

こうして、私が毎日、会う人は皆、イエス・キリストを信じていませんが、イエス・キリストを信じていない理由で、地獄へは行きませんので、安心します。

 

そして、クリスチャンである自分自身のように愛することが出来ます。

 

もしも、このままでは地獄へ行く人たちであれば、クリスチャンである自分自身のように愛することは不可能です。

 

日本人は、聖書に書かれている異邦人でいえば、「ベレヤの人たち」と思われます。

 

 

まとめると、

 

プロテスタント教会の教えは、

聖書に書かれているファリサイ派の人(パリサイ人)、ユダヤ人たちに対する地獄の教えと、

異邦人のテサロニケの人たち、エフェソの人たち、コリントの人たち、ガラテヤ人たちに対する神の怒りの教えは、

 

すべて「イエス・キリストを信じない人々」に対する教えという聖書解釈と福音理解です。

 

とにかく、イエス・キリストを信じていない罪人は、全人類すべて同じである。

 

現在の日本人、聖書に書かれている当時のファリサイ派の人(パリサイ人)やユダヤ人、

また、異邦人のテサロニケの人たち、エフェソの人たち、コリントの人たち、ガラテヤ人たち、またはベレヤの人たちなど、まったく関係がない。

 

そんなの関係ない!そんなの関係ない!おっぱっぴ!(数年前に流行ったギャグ)という感じです。

 

昔も今も、イエス・キリストを信じていないすべての人類は地獄行きという解釈に帰結させているようです。

 

 

そして、無教会のクリスチャンの立場で、聖書を徹底的に調べると、これまでの投稿記事と前述のような聖書解釈と福音理解になるわけです。

 

引き続き、続きます。

 

 

「日本におけるキリスト教 96 聖書が教える異邦人について」

 

聖書は「異邦人」について次のように教えています。

「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。ガラテヤ人への手紙2章15節」

 

そして「異邦人」といっても、それぞれ違いがあり、それゆえ、それぞれへの教えがまるで違うことを「聖書」は明確に教えているのです。

 

前回記事の「エフェソ人」への手紙では「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」と教え、さらに次のように厳しく警告しています。

 

「悪魔に機会を与えてはいけません!エフェソへの手紙4章27節」

「神の聖霊を悲しませてはいけません。エフェソへの手紙4章30節」

 

前回記事で詳細に伝えましたが、当時のエフェソ人の実態を知れば、当時のエフェソ人は地獄に行くと言われても当然だと思いますが、なんと、そこまでは言われていないのです。

 

 

それでは次に聖書に書かれている当時の「異邦人」について見ていきます。

 

まずは、「コリント人」の実態を見てみましょう。

 

その事について、プロテスタント教会とは違って、「ものみの塔」は誠実に調べて次のようにまとめて教えています。

 

「コリントの町は高さ566メートルの岩山のふもとにあります。この岩山の頂上の平地に,コリントの城砦がありました。

 

ここにはまた,肉欲の愛の女神アフロジテあるいはヴィーナスの神殿がありました。

コリント人は他にも多くの神を崇拝しましたが,女神への献身は最も深いものでした。

 

1,000人もの女官は売春婦として女神に仕えていました。

 

この事は,コリントが不道徳な町として知られた大きな原因となっています。

 

金持ちの男は,この女神に仕えさせるため自分の所有する一番美しい女奴隷をささげる事を名誉と考えました。

 

偶像崇拝と堕落した不道徳に囲まれたコリントのクリスチャンには,神の前に清さを保つため,強い戒めが必要でした。

そのため使徒パウロは彼らに宛てた手紙の中で,偶像崇拝と道徳の汚れを強く戒めました。―コリント前 5,6章。コリント後 6:14-18。

 

 

「聖パウロの足跡をたどる」という本はこう述べています。「そのような二つの港に挟まれたコリントは,洗練された国際都市として発展する一方で,港に停泊する外国船から持ち込まれる様々な悪徳にまみれるようになった」。

 

東と西からの大小さまざまな悪徳がコリントで融合しました。

 

その結果,コリントは道徳的退廃と放縦の都市,古代ギリシャで最も不道徳でみだらな都市となりました。

 

「コリント風に生きる」という表現が,不道徳な放とう生活を送るという意味で用いられるようになっていたほどです。

 

この好色的な生き方は,コリント人の行なった崇拝,とりわけ女神アフロディテ(ローマ人のウェヌス[ビーナス],フェニキア人やカナン人のアスタルテ,およびバビロニア人のイシュタルに対応する女神)の崇拝の所産でした。

 

こうした物質主義的で不道徳な風潮は,クリスチャンの霊的健康を脅かしました。」

 

引用以上

 

 

次に聖書に書かれている当時の「テサロニケ人」の実態を見てみましょう。同じく、ものみの塔の記事から引用します。

 

テサロニケには,ゼウス,アルテミス,アポロといったギリシャの神々や,エジプトの神々の神殿が数多くありました。

 

皇帝崇拝も盛んで,市民は皆その儀式に参列しなければなりませんでした。そうしないことは,ローマに対する反逆とみなされました。

 

偶像崇拝によって,甚だしい不道徳が蔓延するようになりました。

 

テサロニケの守護神カベイロス,ディオニュソスとアフロディテ,およびエジプトのイシスなどの崇拝には,乱飲乱舞の儀式や浮かれ騒ぎを事とする性的色彩の濃い崇拝という共通点がありました。

 

妾を囲うことや売春が大っぴらに行なわれました。

 

民衆にとって淫行は罪ではありませんでした。

 

そこはローマの文化に影響された社会で,ある文献によると,「人の欲望を満足させる仕事に携わる男女が大勢いて,市民はそのサービスを利用でき,医者たちも,そうした欲望を抑えるべきではないと助言した」のです。

 

ですから,パウロがテサロニケのクリスチャンたちに,「淫行を避ける」よう,また「貪欲な性欲」や「汚れ」を避けるよう訓戒したのも無理はありません。―テサロニケ第一 4:3-8。

 

引用以上

 

 

次は聖書に書かれている当時の「ガラテヤ人」について見ていきます。同じく、ものみの塔の記事からです。

 

「この手紙(ガラテヤ人への手紙)は、パウロの時代のガラテアの人々の多くの特徴を反映しています。

 

北方から来たガリア系のケルト人が西暦前3世紀にこの地域を侵略したため,この地にはケルト人の影響が色濃く見られました。

 

ケルト人,またはガリア人はどう猛で野蛮な民族とみなされ,彼らは戦争捕虜を人身供犠としてささげたと言われています。

 

ローマ文学の中でも,彼らは多くの儀式を好む,非常に感情的で迷信深い民族として描写されており,この宗教的な特徴が,キリスト教のような,儀式のほとんどない崇拝様式から彼らを離れさせる影響力になっていたものと思われます。

 

引用以上

 

 

さらに、ゼノ哲学さんのブログ記事から引用します。

 

「時は紀元前278年。ガラテアはアナトリア現在のトルコ中北部の地域でケルト系ガリア人が定住しました。「ガリア」はギリシャ語で、ラテン語では「ガリ」と呼ばれたようです。

ガラテアに移住したケルト人はガラテア人と呼ばれるようになります。

 

ガラテヤ人は徐々に周囲の人々と同化し、シリア・ギリシャやフリギア人の習慣や服装を取り入れ、様々な王国や諸侯国の傭兵として、今日まで受け継がれている伝統的な役割を繋いできました。

 

3部族の全ての州300人の代表からなる元老院に対して責任を負わなければならず、ドル ネメトンと呼ばれる神聖な場所で定期的話し合われました。

 

ちなみにネメトンというのは、ネメトン(複数形:ネメタ)は古代ケルト宗教の異質な神聖な空間とされている場所です。

 

ネメトンには鳥も巣をつくらず、動物も近くに潜んでいなかった。そよ風もないのに、葉は絶えず震えている。

すべての木は犠牲の血で染まっていた。大地はうめき、枯れた針葉樹は蘇り、消費されなかった木々は炎に包まれ、巨大な蛇が樫の木に絡みついていた。

 

人々は木立に近づくことを恐れ、司祭でさえ、神の守護者に会わないよう、真昼や真夜中にそこを歩こうとはしなかった。

 

ローマ軍将校の義理の息子で、おそらく最初のローマ軍のアングルシー侵攻の目撃者であろうタキトゥスは、ローマ軍が(ガラテヤに)上陸したとき、次のように報告している。

 

海岸には、武装した戦士が密集した敵軍が立ちはだかり、隊列の間には、髪を乱し、烙印を振りかざした、フューリーのような黒い衣装を着た女たちが飛び交っていた。

 

周囲では、ドルイド教徒が両手を天に掲げて恐ろしい呪文を唱えており、見慣れぬ光景に兵士たちは怯え、まるで手足が麻痺したかのように立ちすくみ、傷だらけになった。

 

その後、将軍の呼びかけと、熱狂的な女たちの群れの前ではくじけないという互いの励ましに後押しされ、彼らは軍旗を掲げて前進し、すべての抵抗を打ち破り、敵を自らの焼き印の炎で包んだ。

 

次に、征服された人々の上に軍隊が配置され、非人間的な迷信に捧げられた木立が破壊された。

 

彼らは祭壇を捕虜の血で覆い、人間の内臓を通して神々に相談することを義務としていた。

このような場所の記述は、ケルト世界のいたるところで発見されている。

 

引用以上

 

 

このように、聖書に書かれている当時の「異邦人」たちの実態を知れば、使徒パウロが「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」というのも非常に理解が出来ます。

 

そして、聖書に書かれている当時の「異邦人」たちと「現在のイエス・キリストを信じない異邦人」とはまったく違うことがわかります。

 

また「偶像崇拝」などについても現在とはまったく違うのです。

 

 

ところが、「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行く」という聖書解釈と福音理解では、

 

「現在のイエス・キリストを信じない人々」というのは、

 

聖書に書かれている当時の「蛇ども、まむしの末ども、お前たちは、地獄の刑罰を免れることができない」とイエスさまが言われた律法学者とファリサイ派の人(パリサイ人)たちであり、

 

主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、 異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げて、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているために、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。と言われたユダヤ人たちであり、

 

聖書に書かれている当時の「あらゆる種類の悪霊崇拝の中心地で、様々な形態の魔術が行なわれていることで世界中に知られていて、悪霊が特に活発に働いている様々な種類の悪霊崇拝が行なわれていたエフェソ人」たちであり、

 

聖書に書かれている当時の「肉欲の愛の女神アフロジテに献身して、1,000人もの女官は売春婦として女神に仕え、不道徳な町として知られ、古代ギリシャで最も不道徳でみだらな都市となったコリント人」たちであり、

 

聖書に書かれている当時の「偶像崇拝によって,甚だしい不道徳が蔓延するようになり、乱飲乱舞の儀式や浮かれ騒ぎを事とする性的色彩の濃い崇拝をして、妾を囲うことや売春が大っぴらに行なわれて、民衆にとって淫行は罪ではなかったテサロニケ人」たちであり、

 

聖書に書かれている当時の「どう猛で野蛮な民族とみなされ、古代ケルト宗教の異質な神聖な空間とされている場所ネメトンで犠牲の血で染まり、祭壇を捕虜の血で覆い、人間の内臓を通して神々に相談することを義務としていたケルト世界のガラテヤ人」たちであり、

 

というように、「現在のイエス・キリストを信じない人々」を、聖書に書かれている当時のイエス・キリストを信じない人々(ユダヤ人、ファリサイ派の人(パリサイ人)、異邦人)と同じように教えることは、

 

現在のイエス・キリストを信じない人々は、非常に相当に激しく超絶に恐ろしすぎる「罪人」と教えていることになるのです。

 

長くなったので、次回へ続く

 

 

 

「日本におけるキリスト教 95 生まれながら神の御怒りを受けるべき子らについて」

 

前回記事の中で、パウロはイエスさまが蒔いた良い種と伝えました。

 

その事が聖書に次のように明確に教えています。

 

「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。

 

わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。

 

しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、

御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、ガラテヤの信徒への手紙 1章13~16節」

 

 

使徒パウロは、母の胎内にある時から神に選ばれていました。

 

その教えは、エフェソの信徒への手紙 1章でも教えています。

 

「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

 

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

 

イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。エフェソの信徒への手紙 1章3~5節」

 

 

しかしながら、使徒パウロは、イエスさまが、「蛇ども、まむしの末どもよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」と告げられたファリサイ派の人(パリサイ人)の家系で生まれ育ったのです。

 

それは、童話「みにくいアヒルの子」のように思えます。

 

実は白鳥の子が、アヒルの子として生まれ育ち、同じアヒルと思えない「みにくいアヒル」として差別されていました。

 

使徒パウロは、実は、母の胎内にある時から神に選ばれている「イエスさまが蒔いた良い種」なのですが、悪魔が蒔いた悪い者の子たち毒麦の中で生まれ育ち、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていたのです。

 

 

その事について、前述のエフェソの信徒への手紙 1章の続きの2章で詳細に教えられています。

 

「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。

 

わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、

 

ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。

 

しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― エフェソの信徒への手紙 2章1~4節」

 

 

使徒パウロは、「蛇ども、まむしの末どもよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」と告げられたファリサイ派の人(パリサイ人)として生きてきました。

 

まさに、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。

 

そして、このエフェソの人々も同じだったのです。

 

その事について色々調べてみると、詳しく教えているのが「ものみの塔」だったので、そこから引用します。

 

ちなみに、プロテスタント教会では都合が悪いのか、詳しくは教えているところを見つけることは出来ませんでした。

 

 

「エフェソス(エフェソ)」は異邦人の中でも,放とうやみだらな行ない,つまり甚だしい不道徳で知られた都市でした。

 

ギリシャ人もアルテミスを崇拝していました。しかし,エフェソスで崇拝されていたアルテミスはギリシャのアルテミスと同じではなく,幾分似ていたにすぎません。

 

ギリシャのアルテミスは狩猟と出産の処女神でした。エフェソスのアルテミスは多産の女神です。

 

エフェソスにあったその巨大な神殿は,世界の七不思議に数えられました。天から落ちてきたと考えられていたその彫像は,多産の化身としてのアルテミスを表わしており

 

使徒パウロが背教を予告したのは,エフェソスにあったクリスチャン会衆の長老たちに対してでした。パウロは,背教者たちが起こって「曲がった事柄」を言うであろうと警告しました。(使徒 20:17,28-30)

 

アルテミスの神殿は一種の聖域だったため,犯罪が助長され,エフェソスの犯罪者の人口は増加しました。

 

どんな犯罪を行なった人でも,その神殿の城壁の周囲の一定の領域内に入れば,逮捕されずにすむことがありました。

その結果,神殿の周囲には泥棒や人殺しなどの住む集落が生じました。

 

ですから,悪意のある苦々しさ,わめき,有害な事柄などと共に盗みに関して述べたパウロの言葉は不適当なことではありませんでした。

 

エフェソスはあらゆる種類の悪霊崇拝の中心地でした。

 

実際,この都市は様々な形態の魔術が行なわれていることで世界中に知られていました。

 

それで,エフェソスでは悪霊が特に活発に働いていました。

 

ですから,パウロが神の霊により奇跡を行なったのは,魔術や呪術の影響を相殺し,心の正しいエフェソス人がそのような悪霊崇拝の慣行から離れるのを助けるためだったに違いありません。

 

そのような奇跡には,邪悪な霊を追い出すことさえ含まれていました。―使徒 19:11,12。

 

「エフェソス文字」は世界中で有名でした。

 

「それは文字や単語の特定の組み合わせでできていたものと思われる。

 

その文字を特定の抑揚を付けて発音すると,病気を除去したり,邪悪な霊を追い出したりするのに有効であるとか,それを皮紙<パーチメント>の上に書いて身に着けると,邪悪な霊や危険から身を守る護符,もしくはお守りの働きをするなどと考えられた。

 

したがって,プルタルコス(「シュンポシアカ」,7)はこう述べている。『魔術者は悪霊に取り付かれた者が「エフェソス文字」をある特定の順序で自分で復唱したり,発音したりするようにさせる』」―「使徒行伝に関する解説的実用的注釈」,A・バーンズ著

 

エフェソスの遺跡から出土した碑文は,エフェソス人が甚だしい精神的な暗闇の中で生活していたこと,

 

また使徒パウロがその都市のクリスチャンに,「もはや,思いのむなしさのままに歩む諸国民と同じように歩んでは(なり)ません。彼らは精神的な暗闇にあり(ます)」と書き送った理由を暗に示しています。(エフェ 4:17,18)

 

城壁や建造物に刻まれた碑文は,民衆の生活が迷信,占い,吉凶判断などに支配されていたことを示唆しています。

 

聖書の記述に,「魔術を行なっていたかなり大勢の者が自分たちの本を持ち寄って,みんなの前で燃やした。そして,それらの値を計算してみると,合わせて銀五万枚[デナリであれば,3万7,200㌦]になることが分かった」とあるからです。(使徒 19:19)

 

エフェソスで魔術がそのように広く行なわれており,様々な種類の悪霊崇拝が行なわれていたことからすると,パウロがエフェソスのクリスチャンに,「完全にそろった,神からの武具」を身に着けることによって邪悪な霊の勢力と戦うようにという優れた助言を与えたのは極めて適切なことでした。

 

悪霊崇拝に関するそのような書物を破棄したことは,それら初期クリスチャンが最初に行なった事柄の一つで,それが今日,悪霊の影響や嫌がらせから逃れることを願う人々のための手本となっているのは,注目すべきことです。―エフェ 6:11,12

 

引用以上

 

 

こうして、聖書に書かれている当時のエフェソ人の実態を知れば、

 

使徒パウロが、エフェソ人への手紙において「エフェソ人は、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 」と教えることは正しいことだとわかります。

 

また、現在のイエス・キリストを信じない人々と、当時のエフェソ人たちとはまるで違いすぎます。

 

そして「エフェソ」は、現在は遺跡が残っているのみです。

 

現在に「エフェソ」があれば、世界で最も危険な場所として、誰も行くことはないでしょう。

 

長くなったので、次回へ続く

 

「日本におけるキリスト教 94 地獄に行く者は悪魔から出た者について」

 

前回記事で「イエス・キリストを信じない人々は、罪が赦されていないために地獄へ行く」というプロテスタント教会の聖書解釈と福音理解を紹介しました。

 

プロテスタント福音派の最も信者数の多い教会の大川主任牧師は「『罪の代価は死である』から、その帰結として、罪赦されることなく死んで行く者は、天国に行けずに、地獄へ行く……」というプロテスタント教会の聖書解釈と福音理解に、心の奥底では納得していなかったそうです。

 

それで「セカンドチャンス論(死後にも福音を聞いて救われるチャンスがある)」という聖書解釈と福音理解に変えたのです。

 

 

それから、前回のコメントで「最後まで、神を憎み、悪を選ぶ者は、滅びに至る(地獄に堕ちる)という古代のギリシャ教父の説を支持しているのです。」という古代のギリシャ教父の説の福音理解も聞きました。

 

いずれにしても「人間」は生まれながらにしての罪人であり、神の御怒りを受けるべき子らであり、そのまま死ねば永遠の火に投げ込まれる運命である。

 

『罪の代価は死である』から、その帰結として、罪赦されることなく死んで行く者は、天国に行けずに、地獄へ行く。

 

その地獄へ行く罪人たちが悔い改めて、イエス・キリストを信じれば永遠の命にあずかる者となる。という聖書解釈と福音理解ということになると思いました。

 

 

そして、そのような聖書解釈と福音理解から離れて、無教会となって、聖書の御言葉をそのまま受け入れると、まるで違う聖書解釈と福音理解となったわけです。

 

さらに、これまで個人的に、人を憎んでいる人たちとの出会いがあり、話を聞いてきたことが思い起こされました。

 

多いのは、親から虐待されていたり、捨てられたりして、その後でも愛する人や信頼していた人たちから裏切られて、不幸が重なってしまって、人を憎むようになったケースです。

 

そのような人を憎んでいる人に、神さまの話をすると、「神さまが本当にいるなら、私をこのような酷い目にあわせている神を絶対に許さない!」と憎悪を現わしました。

 

それは仕方がないことです。

 

自分がその立場になれば、人を憎み続け、神を憎むでしょう。

 

 

2001年6月に起きてしまった「池田小事件」

ウイキペディアでは次のように書かれています。

 

「加害者の宅間被告は池田付属小学校に忍び込み、1年生・2年生の児童8人を出刃包丁で殺害、

15人(児童13人および教職員2人)を負傷させた日本の犯罪史上稀に見る無差別大量殺人事件として、社会に衝撃を与えた。」

 

引用以上

 

この宅間被告は当然のように死刑判決がくだされて、刑が執行されています。

 

 

その亡くなってしまわれた児童の御遺族の1人、本郷優希ちゃんのお母さんの「本郷由美子」さんは、

 

2023.03.18「池田小児童殺傷事件」で愛娘を亡くした母が「加害者と向き合う」と決めた理由というタイトルの記事で次のように語っておられます。

 

「多くの場合、犯罪被害者の家族にとって、刑務所や少年院に収容されている加害者たちは、なるべく接したくない存在ではないかと想像するのですが、本郷さんが逆に彼らを訪ねて直接対話するというのも驚きで、強い信念と覚悟を感じました。

 

本郷) 刑務所や少年院で加害者たちに話を聞いて、それまで想像もしなかった現実をいろいろ知りました。

 

子供の頃から親の暴力や虐待を受けていた人、ネグレクトされ続けた人……。

 

「朝起きたら殴られる毎日だった」「ご飯をちゃんと食べたことがなかった」などと語る少年たちもいた。

 

幼い頃から自分を否定され、傷つけられ、大きな生きづらさやかなしみを抱えるようになったわけです。つまり、彼ら加害者の多くは、最初は被害者だったのではないでしょうか。

 

池田小事件の加害者もまた、何重もの喪失を経験して、大きなかなしみを抱えていた人間なのだろうと思います。

 

彼は幼少期から暴力などの問題行動や犯罪を繰り返し、あの事件の前に十数回の逮捕歴がありました。一方で自殺を試みたり、心療内科を受診していたりもしています。

 

私は事件後、心の底から加害者を憎みましたが、裁判を通じて彼の生育環境について聞いたときは驚きました。

いわゆるネグレクト状態の中で育ち、親からは暴力を振るわれていただけでなく、「生まなければよかった」とも言われていたそうです。

 

これは親から存在を否定される言葉ではないか。こんなことを言われたら、誰だって自分も他者も大事にできなくなる。殺人者を生み出すきっかけになった言葉ではないか……。そう感じたのですね。

 

本人でなければわかりませんが、幼少期や少年期の問題行動や犯罪の一部は、誰にも寄り添ってもらえず、かなしみを1人で抱えきれなくなった彼の「自分の苦しみをわかってほしい」というSOSだったのかもしれない。

 

そのときは被害者の立場だったのではないかと感じたのです。

 

やがて自暴自棄になって、本当に身勝手な考え方だと思いますが、「自分の苦しみを社会にも味わわせてやる」と憎しみのエネルギーを外に向け、加害者になってしまったのではないだろうか。

 

どこかで誰かが彼のかなしみに気づき、寄り添って話を聞いていたら、もしかしたらここまでの事件は起きなかったのではないかと思いました。」

 

引用以上

 

 

この、天国にいる本郷優希ちゃんのお母さん本郷由美子さんの証は、前述のキリスト教会の聖書解釈と福音理解とはまるで真逆です。

 

キリスト教会は、人は生まれながらに神の御怒りを受けるべき子らで地獄へ行く。という教えです。

 

なおさら、宅間死刑囚のような罪人は、悔い改めて、神を信じなければ、当然に地獄行きでしょう。

 

宅間死刑囚は、最終意見陳述で

「死ぬことには全くびびっていない」「今まで、散々不愉快な思いをさせられて生きてきた」

「しょうもない貧乏たれの人生やったら今回のパターンの方が良かった」

 

「幼稚園ならもっと殺せたと、今でもこんなことばかり考えてしまう」などと話し、謝罪の言葉は述べなかった。

 

それにも関わらず、本郷由美子さんは、最初は被害者だったのではないでしょうか。と、宅間死刑囚を殺人鬼のような罪人ではなく、傷つけられて殺人者にさせられてしまった被害者だった。と言われるのです。

 

 

今度は、聖書の教えを見ていきます。

 

その事についても中心になる御言葉が、「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔」というイエスさまの教えです。

 

この毒麦である悪い者の子たちが、良い種を悪くさせていきます。

 

サウロ=使徒パウロ(クリスチャンになってパウロに改名)がその証人です。

 

せせらぎのアーカイブではサウロ=パウロの詳しい生い立ちが次のように書かれています。

 

「どのユダヤの名家もそうですが、パウロの家もファリサイ派に属し、中でもパウロは特に厳しい躾を受けて育ちました。

 

父親は彼を、早くから将来ラビ(律法の教師)にすると決めていましたが、慣習に従って手に職を持たせました。それがテント工で、当時キリキウムと呼ばれたキリキア産の厚い布地でテントを作る職人でした。

 

パウロは律法という、外面的な型にはまったやり方でしか人々を動かすことができませんでした。

 

形式を重んじるばかりに、自分と同じように考え、行動しない人たち、特にキリスト者に対して、迫害という形で裁きを下そうとします。

 

そしてそれは、ファリサイ派の律法を重んじる当時のパウロにとって、人々に救いを得させるための、「神の前に正しい行い」だったのです。」

 

引用以上

 

使徒の働き 8章1~3節には、サウロの罪が書かれています。

 

サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

 

敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。

 

サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

 

この当時のエルサレムの教会のクリスチャンたちは、世界の光でした。

 

使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。

ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。

 

そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。

 

ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。

 

また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。使徒の働き5章12~16節

 

 

サウロは、この人々が尊敬し、すべての病人と悪霊に苦しめられている人々を全部いやすクリスチャンたちを捕らえて殺していったのです。

 

現在の日本では、サウロのこの行為は、人類史上でも空前絶後の猟奇的な殺人鬼として、逮捕されて、死刑判決は確実です。

 

まさに、ファリサイ派の人(パリサイ人)は、イエスさまが、「蛇ども、まむしの末どもよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」と告げられた通りだと思います。

 

 

ところが、このサウロに、十字架上で殺されたイエス・キリストが現われたのです。

その時のことを使徒パウロ(サウロ)は次のように証言しています。

 

「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。

この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。

 

以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。

 

しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。第一テモテ1章12~13節」

 

 

なんと、神を冒瀆して、クリスチャンたちを無差別に男も女も捕らえて殺していった猟奇的な殺人を犯した罪は、イエスさまを信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けたと証言しているのです。

 

 

ファリサイ派の人(パリサイ人)の中で、蛇ども、まむしの末どもであり地獄の刑罰を免れることができない悪い者の子たち毒麦がいます。

 

その悪魔の手下たちは、この世の終わりには燃える炉の中に入ります。

 

最期の審判で『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使いたちとのために用意されている永遠の火に入れ!』(マタイによる福音書25章41節)と教えられている通りです。

 

 

しかし、ファリサイ派の人(パリサイ人)が全員そうではありません。

 

サウロのように、イエスさまが蒔いた良い種のファリサイ派の人(パリサイ人)がいるのです。

 

悪い者の子たちが支配してきた環境で育ち、現在の日本でいえば猟奇的な殺人鬼に育て上げられたのです。

 

けれど、その当時のイスラエルでは、猟奇的な殺人鬼の行ないではなく、「神の前に正しい行ない」でした。

 

その事からも、聖書に書かれているイエス・キリストを信じない人々と、現在の日本のイエス・キリストを信じない人々とはまるで違うことがわかります。

 

 

使徒パウロは、このように証します。

 

「以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。

 

しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」

 

現在の日本、世界で、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者がいても、その人たちは元は良い種で、悪い者の子たちが支配する環境に於いて、そのような罪人にさせられてしまい、そのまま死んだとしても、

 

神さまの教えは「信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」ということです。

 

次回へ続く

 

「日本におけるキリスト教 93 聖書の言葉と悪魔が蒔いた悪い者の子たちは地獄行きについて」

 

桜吹雪が舞い散る季節となりましたが、私の投稿記事は花がたくさんの状態で、どれを先にお伝えしようか悩みの中です。しかし神さまが導いてくださって書いています。

 

さて、前回の投稿記事のコメントで次のような指摘がありました。

 

「信者でない者は、全員地獄堕ち、などというのは全くのナンセンスですが、悪人は初めから悪人という考えには同意しません。」

 

「神はすべての人が悔い改めて、神の義に立ち返ることを望まれているのではないでしょうか。」

 

 

このコメントをくださったクリスチャンの方は、「イエス・キリストを信じない人々は永遠の火に投げ込まれる」という聖書解釈と福音理解に反対されています。

 

また、悪人と善人の区別をするのではなく、すべての人が悔い改めて、神の義に立ち返ることを望む聖書解釈と福音理解だと思います。

 

私が色々と調べたところ、大きく分けると、このような聖書解釈と福音理解をされるクリスチャンたちも少なくありません。

 

現在、日本のキリスト教会の中で、洗礼を授ける人数は群を抜いている「カトリック教会の晴佐久昌英神父」は、次のような聖書解釈と福音理解をされています。

 

 「まず、『神はすべての人を救う』、これを『天の救い』と呼びましょう。

 これは決して譲れない大前提です。

 

神は愛であり、すべての神の子を親心によって生んだのであり、神の愛は完全で永遠ですから、全能の神の計り知れない恩寵の内にすべての人が救われるのは当然のことです。

 

わたしたちは生まれる前から救いのわざにあずかっているし、いつの日か神に召されて救いの完成にあずかります。」

 

引用以上

 

※ 

 

しかしながら、この晴佐久神父の教えは、プロテスタント福音派の教会では「万人救済説だ」と批判非難されて、完全に異端視する声をよく聞きます。

 

また、プロテスタント教会の中で批判非難されているセカンドチャンス論の大和カルバリーチャペルの枝教会の大塚牧師が次のようにブログ記事で発信しています。

 

「私は晴佐久神父を通して、カトリックに触れたようなものであるが、晴佐久神父の聖書理解がカトリックの聖書理解なのか疑問に思い、何人かのある権威筋のカトリック神父にお尋ねした。

 

その結論は、

晴佐久神父の「すべての人がすでに救われている」という聖書理解は、彼の個人のもので、カトリックの公式な教え(見解)ではない。

晴佐久師は元々そのような考え方を持っておられた。とのことだった。

 

そして、カトリックの教義としてはNGなのだが、晴佐久神父は”司牧的配慮(牧会的配慮)”として語り、人を導いているのでSafe、なのだそうだ。」

 

引用以上

 

 

そして、プロテスタント教会の聖書解釈と福音理解があります。

 

前述の「大和カルバリーチャペル」は、日本のプロテスタント福音派の教会の中では最も信徒数が多いので、大きな影響力があります。ちなみに、信徒数は約2000人だそうです。

 

その大川牧師の著書「永遠と復活」の中で、プロテスタント福音派の教会の聖書解釈と福音理解を次のように教えています。

 

「そして、罪が赦される唯一の方法が『イエス・キリスト」を地上にいる間に信じることで、それなくして死んでいった人たちは、天国に行くことができない。

 

つまり地獄へ行くのである、と教えてきました。

 

『罪の代価は死である』から、その帰結として、罪赦されることなく死んで行く者は、天国に行けずに、地獄へ行く……

 

私も子どもの頃から、そう教えられてきました。

 

私が幼かった頃からすでに、ほとんど例外なく、教会ではそのように教えられていたようですから、

私の生まれるずっと前から、100年以上そのような考えと教え(神学)の中で教会は営まれてきたのだと思います。」

 

引用以上

 

 

前述のように、ざっくりと大きく2つに分ければ

 

「神はすべての人を救われる」という聖書解釈と福音理解

 

「イエス・キリストを信じない人々は、罪が赦されていないために地獄へ行く」という聖書解釈と福音理解

 

この両極端の2つのタイプの聖書解釈と福音理解があるわけです。

 

そして、その両者にはそれぞれ、都合が悪い聖書の御言葉がいくつもあるのです。

 

その1つが、最近の投稿記事で繰り返し伝えているこの御言葉です。

 

イエスさまはこのように教えられました。

 

「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 

だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。(マタイによる福音書13章37~40節)」

 

 

「神はすべての人を救われる」という聖書解釈と福音理解においては、

 

悪人は初めから悪人で、世の終わりに火の池に投げ込まれるという教えは到底に受け入れることが出来ません。

 

そして、「イエス・キリストを信じない人々は、罪が赦されていないために地獄へ行く」という聖書解釈と福音理解においては、

 

地獄に行く者は「イエス・キリストを信じない人々」でなければならないし、また、イエス・キリストを信じることが出来なければならないのです。

 

それから、人類は皆、悪魔が蒔いた悪い者の子たち毒麦となり、イエスさまが蒔いた良い種は世界に1人もいないことになります。

 

なので、この御言葉は、2つのタイプの聖書解釈と福音理解において、非常に都合が悪い御言葉となります。

 

 

さて、聖書には「神の御言葉」とは次のように教えています。

 

「”いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。

 

わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ6:63)

 

「なぜなら、神の言は生きていて効力があり、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思考と意図を識別することができるからです。(ヘブル4:12)」

 

そして、イエスさまは「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。」ということを理解した者は、天の御国の弟子となった学者と評されたぐらい重要な御言葉です。

 

それゆえ、この御言葉も霊であり、またいのちです。

 

「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(イザヤ55:11)と聖書に書いてある通りです。

 

その聖書解釈と福音理解をするならば、イエスさまが教えられたすべての御言葉を受け入れることが出来るのが、聖霊が内住したクリスチャンと言えるのではないでしょうか。

 

 

聖書の中でも、パウロ書簡は、ローマ人への手紙など、それぞれのパウロが同労者に送った集会宛、個人宛書簡の体裁をとっていますので、それぞれ教えていることが異なっていることがあります。

 

それゆえ、現代の日本人には当てはまらない教えがあるのは当然でしょう。

 

また、パウロ自身がこれは個人的意見として教えていることがあります。

 

そして、ペテロの手紙やヨハネの手紙などにおいても、現代の日本人に当てはまらない教えがあります。

 

その事については次の機会にまとめて、ブログ記事にしたいと思います。

 

 

なので、イエスさまが教えられた御言葉を受け入れると、

「悪魔が蒔いた悪い者の子たちは、最初から聖絶されるべき存在でもある」と理解すると、聖書で都合が悪い御言葉がなくなります。

 

その悪魔が蒔いた悪い者の子たちは、イレギュラーな存在で、同じ人間ではなく、自分を愛せず、他人も愛せず、神を憎み、人を憎むことしか出来ません。

 

また、人間とはまるで違う生き物でもあります。

 

旧約聖書ではネフィリム(Nephilim)がそのイレギュラーな存在です。

 

 

ノアの方舟の聖書箇所の創世記6章~7章で、神が洪水で滅ぼしたのがネフィリム(Nephilim)です。

 

また、ヨシュア軍が聖絶したのは「そこに住む民は巨人であり、ネフィリムである。彼らアナク人はネフィリムの出だ」ということです。

 

『ウィキペディア(Wikipedia)』ではうまくまとめています。次の通りです。

 

「ネフィリム(Nephilim)は、旧約聖書の『創世記』および『民数記』、旧約聖書外典(続編)の『ヨベル書』、『エノク書』などにあらわれる種族の名で、一般的には「巨人」とされる。名前の意味は「(天から)落ちてきた者達」であるという。「ネピリム」とも表記される。」

 

「『創世記』第6章1–4節によれば、地上に人が増え始め、娘たちが生まれると、神の子らは人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。

 

こうして神の子らと人間の娘たちの間に生まれたのがネフィリムであった。彼らは大昔の名高い英雄たちであったという。

 

『民数記』第13章32–33節ではカナンを偵察したイスラエルの一隊が、「そこにすむ民は巨人であり、ネフィリムである。彼らアナク人はネフィリムの出だ」とモーセに語る場面がある。

 

『ヨベル書』7:21–23によれば、巨人たちが人の娘をめとり、そこからネフィリムが生まれたとされる。

 

ネフィリムは「みな仲たがいをして共食いをし、お互いを殺しあった」という。この箇所ではネフィリム以外にエルバハ、ネピル、エルヨという三種の名称があげられているが、それらも巨人をあらわしていると考えられる。

 

『第一エノク書』7章では地上に降りて人間の娘と交わった天使たち(グリゴリ)によって、巨人が生まれたという。巨人の体長は3000キュビット(1350メートル、ギリシア語の『エノク書』では3000ペーキュスもあり、人間たちの食物を食べつくすと共食いを行ったという(7:5)。

 

古代イスラエルと敵対した民族・国家を邪悪と強調するための象徴的描写とも考えられる。

 

 

現在の世界にネフィリムは存在していません。

 

ダビデ王がネフィリムの最後の末裔を殺して聖絶したと聞いたことがあります。(これから、その聖書箇所を探してみます。)

 

また、前述の「悪魔が蒔いた悪い者の子たちは、イレギュラーな存在で、同じ人間ではなく、自分を愛せず、他人も愛せず、神を憎み、人を憎むことしか出来ません。」という人たちは、存在すると思われます。

 

なぜなら、この先、憎むべき者が聖なる場所に立つのに、手下となる者たち(にせ預言者たち)が存在するからです。

 

また、ファリサイ派の人たち(パリサイ人)とサドカイ派の人たちは「まむしの末たち、誰が必ず来る御怒りを免れるように教えたのか」と言われましたが、

 

サドカイ派は、紀元70年に消滅します。この派は彼らの政治的、また祭司としてのつながりで存在していたので、ローマがエルサレムと神殿を破壊した時、サドカイ派も破滅したそうです。

 

それから、ファリサイ派の人(パリサイ人)の中でも、サウロ(後の使徒パウロ)が救われていますし、ニコデモはイエスの遺体を引き取りに行ったのです。ここに彼の信仰が表されているように思われます。

 

この世界では反社会と言われている暴力団のヤクザや海外のマフィアの人たちでも、自分を愛しているし、愛する人が1人はいるでしょう。

 

 

そして、悪魔が蒔いた悪い者の子たち毒麦は、イレギュラーな存在であり、神を憎んで、人を憎んでいる者たちです。

 

それゆえ、預言者たちを殺し、イエスをも殺し、福音を妨げました。

 

なので、神を愛することができて、人を愛することができる人間と同じというわけではありません。

 

それゆえ、現在のイエス・キリストを信じない人々と悪魔が蒔いた悪い者の子たち毒麦とはまるで違うことは明白だと言っても過言ではないでしょう。

 

次回へ続く

 

「日本におけるキリスト教 92 聖書の教えは、イエス・キリストを信じない人々に平安があるものです。」

 

私の祖母は「おばあちゃんの自慢は、誰も人様に迷惑をかけて犯罪者にならなかったことや」とよく言っていました。

 

その後、祖母が亡くなってから10年以上経っても、親戚一同で、犯罪を犯して刑務所に入った人は1人もいません。

 

そればかりでなく、近所でもいませんし、職場でもいませんので、犯罪を犯して刑務所に入るような人は自分に関わる人たちではなく、知らない人たちであり、ごく一部の人という認識を持っている人のほうが多いと思います。

 

ですが、誰もが犯罪を犯して、刑務所に入る可能性はありますので、祖父母や親や、学校でも全員に犯罪を犯さないように教える必要があるのです。

 

そして、聖書の教えは「良い種」と「毒麦」というように教えられています。

 

 

イエスさまはこのように教えられました。

 

「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

 

毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。(マタイによる福音書13章37~40節)」

 

その教えの前に次のように教えられています。

 

「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。

人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。

 

僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

 

主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 主人は言った。

 

『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。

刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』マタイによる福音書13章24~30節」

 

 

それから、聖書を読んで非常に驚いたことは、イエスさまの12弟子の中に「悪魔が蒔いた毒麦」がいたことです。

 

すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」

 

イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。(ヨハネによる福音書6章70~71)

 

 

イエスさまを信じたと言っても、その中にはイエスさまが蒔いた良い種の人々と、悪魔が蒔いた悪い者の子たち毒麦の人々がいます。

 

ですから、イエスさまは、イエスにつき従って来た群衆と12弟子の中に「悪魔が蒔いた悪い者の子たち(毒麦)」がいる時に対する教えでは、必ず地獄へ行くことも教えなければなりませんでした。

 

悪魔が蒔いた悪い者の子たちを救いたいからです。

 

しかし、世の終わりまで、より分けることはされないので、良い種と毒麦ともに教えることにされているのです。

 

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 

しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

 

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

 

もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。

 

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。マタイによる福音書5章1~30節」

 

 

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。

 

〈中略〉

 

体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。マタイによる福音書 10章5~28」

 

 

十二弟子一行はカファルナウムに来た。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。

   〈中略〉

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

 

もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。

 

もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。

 

もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。

 

地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。マルコによる福音書 9章33~48節」

 

 

このように、12弟子すなわち、その中に1人「悪魔が蒔いた悪い者の子(毒麦)」であるイスカリオテのユダがいる時には、地獄へ行く教えをしています。

 

 

しかし、悪魔が蒔いた悪い者の子である毒麦イスカリオテのユダが取り除かれて、イエスさまが蒔いた良い種の11弟子だけになれば、地獄行きの教えをしていません。

 

悪魔が蒔いた悪い者の子毒麦がいなければ、地獄行きの教えをする必要がないからです。

 

それは異邦人やサマリヤ人への福音宣教も同じでした。

 

 

イエスさまは、前述の「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と教えられてから、次のように教えられました。

 

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。

 

しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。マタイによる福音書 10章32~33節」

 

ですから、人々の前で「イエス・キリストを知らない」ということは、魂も体も地獄で滅ぼされるのかなと思います。

 

 

しかし、ペテロはその大きな罪を犯してしまうのです。

「ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。

 

ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。

ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。

 

そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。

 

しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」

 

そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。 マタイによる福音書 26章69~74節」

 

 

しかしながら、イエスさまは次のように教えられているのです。

 

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。

 

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。

 

だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 

するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。

 

イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。ルカによる福音書 22章31~34節」

 

イエスさまが蒔いた良い種であるペテロは、のろいを込めて3度も「イエス・キリストを知らない」と人々の前で、イエス・キリストを否定しても既に赦されているのです。

 

 

しかし、悪魔が蒔いた悪い者の子の毒麦イスカリオテのユダに対しては、次のように冷酷に警告しています。

 

イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。

 

人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。

 

だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

 

イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。マタイによる福音書 26章23~25節」

 

 

このように、イエスさまは、悪魔が蒔いた悪い者の子たち毒麦に対する地獄行きの教えと、イエスさまが蒔いた良い種に対する教えを明確に分けて教えられていることがわかります。

 

そのイエスさまの教えを曲解させて、「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行く」というように教えていれば、

イエス・キリストを無慈悲で冷酷非道な神であるように、でっち上げていることが明白です。

 

さらに、イエスさまは、「イエス・キリストを信じなくても地獄行きではない」ということを明確にされている御言葉があります。

 

それは次回のお楽しみです。