「日本におけるキリスト教 94 地獄に行く者は悪魔から出た者について」 | ルーク4のブログ

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「日本におけるキリスト教 94 地獄に行く者は悪魔から出た者について」

 

前回記事で「イエス・キリストを信じない人々は、罪が赦されていないために地獄へ行く」というプロテスタント教会の聖書解釈と福音理解を紹介しました。

 

プロテスタント福音派の最も信者数の多い教会の大川主任牧師は「『罪の代価は死である』から、その帰結として、罪赦されることなく死んで行く者は、天国に行けずに、地獄へ行く……」というプロテスタント教会の聖書解釈と福音理解に、心の奥底では納得していなかったそうです。

 

それで「セカンドチャンス論(死後にも福音を聞いて救われるチャンスがある)」という聖書解釈と福音理解に変えたのです。

 

 

それから、前回のコメントで「最後まで、神を憎み、悪を選ぶ者は、滅びに至る(地獄に堕ちる)という古代のギリシャ教父の説を支持しているのです。」という古代のギリシャ教父の説の福音理解も聞きました。

 

いずれにしても「人間」は生まれながらにしての罪人であり、神の御怒りを受けるべき子らであり、そのまま死ねば永遠の火に投げ込まれる運命である。

 

『罪の代価は死である』から、その帰結として、罪赦されることなく死んで行く者は、天国に行けずに、地獄へ行く。

 

その地獄へ行く罪人たちが悔い改めて、イエス・キリストを信じれば永遠の命にあずかる者となる。という聖書解釈と福音理解ということになると思いました。

 

 

そして、そのような聖書解釈と福音理解から離れて、無教会となって、聖書の御言葉をそのまま受け入れると、まるで違う聖書解釈と福音理解となったわけです。

 

さらに、これまで個人的に、人を憎んでいる人たちとの出会いがあり、話を聞いてきたことが思い起こされました。

 

多いのは、親から虐待されていたり、捨てられたりして、その後でも愛する人や信頼していた人たちから裏切られて、不幸が重なってしまって、人を憎むようになったケースです。

 

そのような人を憎んでいる人に、神さまの話をすると、「神さまが本当にいるなら、私をこのような酷い目にあわせている神を絶対に許さない!」と憎悪を現わしました。

 

それは仕方がないことです。

 

自分がその立場になれば、人を憎み続け、神を憎むでしょう。

 

 

2001年6月に起きてしまった「池田小事件」

ウイキペディアでは次のように書かれています。

 

「加害者の宅間被告は池田付属小学校に忍び込み、1年生・2年生の児童8人を出刃包丁で殺害、

15人(児童13人および教職員2人)を負傷させた日本の犯罪史上稀に見る無差別大量殺人事件として、社会に衝撃を与えた。」

 

引用以上

 

この宅間被告は当然のように死刑判決がくだされて、刑が執行されています。

 

 

その亡くなってしまわれた児童の御遺族の1人、本郷優希ちゃんのお母さんの「本郷由美子」さんは、

 

2023.03.18「池田小児童殺傷事件」で愛娘を亡くした母が「加害者と向き合う」と決めた理由というタイトルの記事で次のように語っておられます。

 

「多くの場合、犯罪被害者の家族にとって、刑務所や少年院に収容されている加害者たちは、なるべく接したくない存在ではないかと想像するのですが、本郷さんが逆に彼らを訪ねて直接対話するというのも驚きで、強い信念と覚悟を感じました。

 

本郷) 刑務所や少年院で加害者たちに話を聞いて、それまで想像もしなかった現実をいろいろ知りました。

 

子供の頃から親の暴力や虐待を受けていた人、ネグレクトされ続けた人……。

 

「朝起きたら殴られる毎日だった」「ご飯をちゃんと食べたことがなかった」などと語る少年たちもいた。

 

幼い頃から自分を否定され、傷つけられ、大きな生きづらさやかなしみを抱えるようになったわけです。つまり、彼ら加害者の多くは、最初は被害者だったのではないでしょうか。

 

池田小事件の加害者もまた、何重もの喪失を経験して、大きなかなしみを抱えていた人間なのだろうと思います。

 

彼は幼少期から暴力などの問題行動や犯罪を繰り返し、あの事件の前に十数回の逮捕歴がありました。一方で自殺を試みたり、心療内科を受診していたりもしています。

 

私は事件後、心の底から加害者を憎みましたが、裁判を通じて彼の生育環境について聞いたときは驚きました。

いわゆるネグレクト状態の中で育ち、親からは暴力を振るわれていただけでなく、「生まなければよかった」とも言われていたそうです。

 

これは親から存在を否定される言葉ではないか。こんなことを言われたら、誰だって自分も他者も大事にできなくなる。殺人者を生み出すきっかけになった言葉ではないか……。そう感じたのですね。

 

本人でなければわかりませんが、幼少期や少年期の問題行動や犯罪の一部は、誰にも寄り添ってもらえず、かなしみを1人で抱えきれなくなった彼の「自分の苦しみをわかってほしい」というSOSだったのかもしれない。

 

そのときは被害者の立場だったのではないかと感じたのです。

 

やがて自暴自棄になって、本当に身勝手な考え方だと思いますが、「自分の苦しみを社会にも味わわせてやる」と憎しみのエネルギーを外に向け、加害者になってしまったのではないだろうか。

 

どこかで誰かが彼のかなしみに気づき、寄り添って話を聞いていたら、もしかしたらここまでの事件は起きなかったのではないかと思いました。」

 

引用以上

 

 

この、天国にいる本郷優希ちゃんのお母さん本郷由美子さんの証は、前述のキリスト教会の聖書解釈と福音理解とはまるで真逆です。

 

キリスト教会は、人は生まれながらに神の御怒りを受けるべき子らで地獄へ行く。という教えです。

 

なおさら、宅間死刑囚のような罪人は、悔い改めて、神を信じなければ、当然に地獄行きでしょう。

 

宅間死刑囚は、最終意見陳述で

「死ぬことには全くびびっていない」「今まで、散々不愉快な思いをさせられて生きてきた」

「しょうもない貧乏たれの人生やったら今回のパターンの方が良かった」

 

「幼稚園ならもっと殺せたと、今でもこんなことばかり考えてしまう」などと話し、謝罪の言葉は述べなかった。

 

それにも関わらず、本郷由美子さんは、最初は被害者だったのではないでしょうか。と、宅間死刑囚を殺人鬼のような罪人ではなく、傷つけられて殺人者にさせられてしまった被害者だった。と言われるのです。

 

 

今度は、聖書の教えを見ていきます。

 

その事についても中心になる御言葉が、「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔」というイエスさまの教えです。

 

この毒麦である悪い者の子たちが、良い種を悪くさせていきます。

 

サウロ=使徒パウロ(クリスチャンになってパウロに改名)がその証人です。

 

せせらぎのアーカイブではサウロ=パウロの詳しい生い立ちが次のように書かれています。

 

「どのユダヤの名家もそうですが、パウロの家もファリサイ派に属し、中でもパウロは特に厳しい躾を受けて育ちました。

 

父親は彼を、早くから将来ラビ(律法の教師)にすると決めていましたが、慣習に従って手に職を持たせました。それがテント工で、当時キリキウムと呼ばれたキリキア産の厚い布地でテントを作る職人でした。

 

パウロは律法という、外面的な型にはまったやり方でしか人々を動かすことができませんでした。

 

形式を重んじるばかりに、自分と同じように考え、行動しない人たち、特にキリスト者に対して、迫害という形で裁きを下そうとします。

 

そしてそれは、ファリサイ派の律法を重んじる当時のパウロにとって、人々に救いを得させるための、「神の前に正しい行い」だったのです。」

 

引用以上

 

使徒の働き 8章1~3節には、サウロの罪が書かれています。

 

サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

 

敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。

 

サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

 

この当時のエルサレムの教会のクリスチャンたちは、世界の光でした。

 

使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。

ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。

 

そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。

 

ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。

 

また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。使徒の働き5章12~16節

 

 

サウロは、この人々が尊敬し、すべての病人と悪霊に苦しめられている人々を全部いやすクリスチャンたちを捕らえて殺していったのです。

 

現在の日本では、サウロのこの行為は、人類史上でも空前絶後の猟奇的な殺人鬼として、逮捕されて、死刑判決は確実です。

 

まさに、ファリサイ派の人(パリサイ人)は、イエスさまが、「蛇ども、まむしの末どもよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」と告げられた通りだと思います。

 

 

ところが、このサウロに、十字架上で殺されたイエス・キリストが現われたのです。

その時のことを使徒パウロ(サウロ)は次のように証言しています。

 

「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。

この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。

 

以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。

 

しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。第一テモテ1章12~13節」

 

 

なんと、神を冒瀆して、クリスチャンたちを無差別に男も女も捕らえて殺していった猟奇的な殺人を犯した罪は、イエスさまを信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けたと証言しているのです。

 

 

ファリサイ派の人(パリサイ人)の中で、蛇ども、まむしの末どもであり地獄の刑罰を免れることができない悪い者の子たち毒麦がいます。

 

その悪魔の手下たちは、この世の終わりには燃える炉の中に入ります。

 

最期の審判で『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使いたちとのために用意されている永遠の火に入れ!』(マタイによる福音書25章41節)と教えられている通りです。

 

 

しかし、ファリサイ派の人(パリサイ人)が全員そうではありません。

 

サウロのように、イエスさまが蒔いた良い種のファリサイ派の人(パリサイ人)がいるのです。

 

悪い者の子たちが支配してきた環境で育ち、現在の日本でいえば猟奇的な殺人鬼に育て上げられたのです。

 

けれど、その当時のイスラエルでは、猟奇的な殺人鬼の行ないではなく、「神の前に正しい行ない」でした。

 

その事からも、聖書に書かれているイエス・キリストを信じない人々と、現在の日本のイエス・キリストを信じない人々とはまるで違うことがわかります。

 

 

使徒パウロは、このように証します。

 

「以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。

 

しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」

 

現在の日本、世界で、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者がいても、その人たちは元は良い種で、悪い者の子たちが支配する環境に於いて、そのような罪人にさせられてしまい、そのまま死んだとしても、

 

神さまの教えは「信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」ということです。

 

次回へ続く