ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「戦争を行なう国を告発する キリスト教への信頼感が一挙に崩れ去りつつある ㊼」

今日は広島原爆の日です。1945年8月6日午前8時15分に広島市へ原子爆弾が投下された日を記憶し、犠牲者を追悼し平和を祈ります。

前回では、聖書の神さまの教えは、戦争を行なう国を告発されることを見てきました。

戦争を行なう国は、誠実さも慈しみも、神を知ることもないからです。

流血に流血が続いている。

それゆえ、この地は渇き

そこに住む者は皆、衰え果て

野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される。」

(ホセア書4章1~3節)

 

 

聖書の神さまがどれだけ戦争に対して激怒されているのか、主イエス・キリストが来臨される最後の審判の判決理由に最も現わされています。

 

『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

 

そして、何もしなかった者たちに言い放ちます。

 

『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

 

『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』

 

こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

(マタイによる福音書25章34~46節)

 

 

2023年10月に起きたイスラエルのネタニヤフ政権によるガザ地区へのジェノサイド(大量虐殺)は、その主イエス・キリストの最後の審判における御言葉を世界中は痛感しました。

 

ガザ地区のパレスチナの人々と子どもたちは、容赦なく空爆で虐殺されました。

 

そして、飢えて、渇き、旅人(難民)となり、裸同然で、病気で倒れ、牢に入れられました。

 

特にイスラエル軍による子どもたちを皆殺しにする計画によって、90%以上の学校が空爆被害にあいました。

 

そしてイスラエル軍は、医療システムを崩壊させ、食料も断ち切ったのです。

 

そのイスラエルのガザで虐殺され、餓死寸前の子どもたちの姿に、戦争を知らない世界中の人々、子どもたちは、戦争の悲惨さをまざまざと痛感したのです。

 

この日本でも長期にわたって報道され、わたしの周りでも、縁もゆかりもない遠い地のイスラエルのガザの最も小さき者たちを助けようとする声で満ちあふれました。

 

私は感動しました。また、最後の審判でも多くの日本人は用意された国に入ることができると確信を得たのです。

 

その国はクリスチャンたちの行く国とは違うことを聖書は教えていますが、クリスチャンたちの行く国に行きたいとは思っていないので、まさに神は愛であり、最高の教えですね。

 

 

そして、世界中の多くの国と人々も敏速に立ち上がり、救援物質の配送や医療団体や救助活動をする人々がガザ地区に着任したり、「条件付きパレスチナ国家承認」によって、死力を尽くして、最も小さき者たちを救おうとしました。

 

すると、ネタニヤフ首相は「ハマスが悪だ!」「テロとの戦いである!」「ハマスやパレスチナのプロパガンダにだまされるな!」「イスラエルを批判する国や人々は反ユダヤ主義だ!」「ガザに飢餓はない!」などと徹底的に妨害しました。

 

さらに、救援物質を止めて、医療団体や救助に来た人たちを排除したり、牢獄に入れたり、虐殺しています。

 

最近のガザ地区で緊急対応にあたる国境なき医師団のスタッフの言葉です。

「停戦から9カ月がたった今も、人びとはがれきの下から子どもを救い出し、死者を埋葬し続けています。

 

200万人もの人びとが狭い空間に押し込められ、人道援助も妨げられています。

これは停戦ではありません。ジェノサイド(集団殺害)の継続であり、命を奪い続ける構造的暴力です。」

 

まさに、ネタニヤフ政権の実態は、最も小さき者たちを救おうとさせず、虐殺を遂行するのに全力を挙げていることが判明しています。

 

さらに、そのネタニヤフ政権のイスラエルを終始一貫として支持しているのが多くのキリスト教の牧師やクリスチャンたちなので、キリスト教に大きくつまずいた人たちはかなり多い状況です。

 

 

それゆえ、これから神さまは、御心に聞き従うクリスチャンたちを大きく用いられて、神さまの御心を成し遂げられます。

 

用意はいいですか?日本にいる非戦のクリスチャンたち。

 

あなたのクリスチャン人生は、今までとこれからはまったく違ってくるのです。

 

神さまが御心にかなうクリスチャンたちを大きく用いられて、御心を成し遂げられる時が来ました。

 

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。

苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

わたしたちは決して恐れない

 

主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。

主はこの地を圧倒される。

 

地の果てまで、戦いを断ち

弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。

 

「力を捨てよ、知れ

わたしは神。

国々にあがめられ、この地であがめられる。」

万軍の主はわたしたちと共にいます。

(詩編46:2,3,9~12」

 

戦争で深く傷ついたすべての魂に主の平安がありますように

 

 

「日本人は人間を愛す キリスト教への信頼感が一挙に崩れ去りつつある ㊴」
前回記事では、プロテスタント教会のように、すべての人間を地獄行きに定めて、イエス・キリストを信じれば救われるという神学には、それに合わせたような御言葉がいくつもあります。

その真逆に、善い人々は天地創造の時から用意されている国を受け継ぎ、イエス・キリストを信じる人々については「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」という福音理解のクリスチャンたちには、それを確信させる御言葉がいくつもあることを見てきました。



今回は日本人について考えてみます。

新約聖書のイエスさまと12弟子の福音宣教は次の通りです。

「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。』」(マタイによる福音書10章5~7節)

「イスラエルの家の失われた羊」たちは旧約聖書に約束されている「メシヤ(救世主)」を待ち望んでいました。

国からも両親からも見捨てられた盲人や足なえ、らい病の人々は「ダビデの子よ、あわれんでください!」と切望している状況でした。

それゆえ、人間たちよりもメシヤ(救世主)を愛していました。



そして異邦人になる「日本人たち」はまったく違います。

愛する人間を愛する人が圧倒的に多く、メシヤ(救世主)など聞いたことがないし、どうでもいい存在です。
メシヤと聞けば、飯屋でご飯を食べることだと思います。

聖書の時代の異邦人たちもメシヤを知らないので「異邦人の道に行ってはならない」と命じられたのでしょう。



私の母親が生前、2018年の8月に行方不明の2歳児発見で一躍時の人となったボランティアの尾畠春夫氏を特集したドキュメンタリー番組「情熱大陸」を録画して見て、涙腺崩壊するほど感動していました。

今も拡散されているその特集番組の記事から引用します。

「お袋に抱きしめてもらいたい」ボランティア尾畠さんの涙と被災地へ行く理由に大反響

尾畠春夫さん
報酬は一切受け取らずに全国の被災地で活動を続ける78歳(当時)だ。彼は一体なぜここまでして人助けに勤しむのだろうか。

2018年9月23日放送のドキュメンタリー番組「情熱大陸」で、その理由が小学生の時に死に別れた母親への想いが関係していると本人によって明かされると、ネット上には「神回!」など絶賛するコメントが相次いだ。

店をたたんだ65歳からは被災地のボランティアに専念し、東日本大震災の時には南三陸町で500日にわたって活動を続けた。

以来、講演やメディアの出演依頼も殺到しているが、有償のものは基本的に「お断り」。

(尾畠)
「10万円じゃろうが、100万円じゃろうが、1000万円でも私はいらない」
そう断言するには理由があった。

(尾畠)
「変わるのが怖い。恩返しさせてもらいたい、なんでもやらせてもらいたいという気持ちが、揺らぐのがこわいから(報酬は貰わない)」

しかし、何か一つ欲しいものはないのか。
そうたずねると、尾畠は溢れ出す涙とともに、60年以上胸に秘めて来た言葉を口にした。

「もう78になるけど、おふくろに思い切り抱きしめてもらいたい」

尾畠がたったひとつだけ欲しいもの。
それは、小学5年生の時、突然病気でこの世を去った自慢の母・富日(とみか)さんに甘えたいという願望だった。

「多分、今現在やってることも、行動言葉諸々のことをウチのお袋はじぃっと、オバタハルオのこと見てくれてると思う。

だから、いつか自分が逝った時に、お袋から思いっきり、背中の骨が折れるくらい、胸のあばら骨が折れるくらい抱きしめてもらいたいね」

それが尾畠の情熱の源泉。

引用以上



さらに、昭和の超名優の石原裕次郎氏の告別式に参列された渡哲也さん、吉永小百合さんら数多くの超名優の方々たち、そして当時の多くの日本人の人々の心に沁みているのが勝新太郎氏の弔辞です。

勝新太郎による石原裕次郎への弔辞

「生きていながら死んでいる奴が多い世の中で、死んでまた生きかえちゃったというこの凄さ」

「何処かでまた会うんだから」



尾畠春夫さんのように「いつか自分が逝った時に、よくやったと、お袋から思いっきり抱きしめてもらいたい!」

勝新太郎さんのように「死んでも生き返って、何処かでまた逢える」

そのことに共鳴する日本人が多いのです。

芸能人の方々の告別式では「また逢おう!」という弔辞があり、皆が感動します。

まさに、多くの日本人は、愛する人と死んで終わりではなく、また逢えることを切望しているのです。

また逢える日まで、天国で見守ってくれている愛する人を悲しませる生き方ではなく、褒めてもらえる生き方をしようと思うのです。



イエスさまは、そのような愛する人間を愛する日本人に対する心優しい御言葉も宣べ伝えられています。

それが何度も伝えさせて頂いているこの御言葉です。

「もしわたしが、わたしの父の御業を行なっていないのなら、わたしを信じてはなりません。

しかし、行なっているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。(ヨハネの福音書10章37~38節)新改訳2017新約聖書」

つまり、「わたし(イエス・キリスト)を信じられなくても、死んで終わりではなく、愛する人たちとまた逢えることを信じなさい。」という福音宣教です。

そのことを信じるなら神の栄光が見られると言っておいたではないか。(ヨハネによる福音書11章39~48節)



特に愛するわが子が先に亡くなってしまった御遺族の心は張り裂かれます。後を追って死んでしまいたいとさえ願います。

池田小事件の御遺族の方々は、子どもたちは天使となって生きているように「8エンジェルス」と名付けられました。

聖書の教えでは、ナインの町のやもめの一人息子が死んだ後で、イエスさまが来られました。

愛する人を亡くした御遺族に対して、イエスさまは内臓がちぎれるぐらいの痛みを覚えられ、あわれみ、「もう泣かなくてもいい」と生き返らせてくださったのです。

すると、ナインの町の人々が「神がその民を顧みてくださった。」などと言って、神を崇めました。(ルカ7:11~17)

たとえイエス・キリストが信じられなくても、イエス・キリストのわざを信じてください。

死んで終わりではなく、愛する人(わが子)とまた逢わせてくださることを信じなさい。という福音宣教です。

このように、イエス・キリストという神さまは、

メシヤ(救世主)を愛するユダヤ人にはユダヤ人のように、

愛する人間を愛する日本人には日本人のように、

それぞれが心から受け入れられるように教えてくださっています。

まさに、イエス・キリストは、すべての人々にとって「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」という神さまです。

このような福音を教えてくださったのが、無教会の内村鑑三先生、サザエさんの著者「長谷川町子」さん、中村哲医師、ヘレン・ケラーさん、マザーテレサさんでした。

長くなったので次回へ続く

 

「相反する教えについて キリスト教への信頼感が一挙に崩れ去りつつある ㊳」
前回記事をさらに追及しますと、人間についての結論がまったく違うことが挙げられます。

プロテスタント教会の神学は「すべての人間は罪人のために地獄行きに定める」ということから始まります。

そして、イエス・キリストの十字架の贖いによって、キリストを信じた人々の罪は赦されて、地獄行きから救ってくださるという教えです。

つまり至極当然に「イエス・キリストを信じなければ救われない」ということになります。

日本基督神学校の校長を務めたプロテスタント教会の重鎮「堀越暢治」牧師は、著書「日本人の心とキリスト」の中で、どうして人間が地獄へ行くのかを聖書から次のように教えています。

「神道は人間の本性を善とみ、聖書は悪とみます。どちらの人間観に立つかによって、私たちの生き方や宗教の在り方に大きな影響を与えるので、このことは極めて大切なことです。

聖書が言うように人間の本性を性悪の立場(性悪説)をとれば、人間のいかなる努力も拒絶されてしまうことになります。聖書はすべての人を『失格者』としています。(全的堕落)」

「すべての人は、罪を犯したので、神(創造主)からの栄誉を受けることができ」(ローマ三・二三)ません。

聖書のように、人間の本性は『悪』の立場をとれば、人間は死んだら神になるとか、仏になるとかいうように。自動的に祝福されることは絶対にありません。絶対にないのです。

すべての人は、厳しいさばきを受けるのです。(黙示録二〇・一〇ー一五、二一・八参照)。」

引用以上



さらに、カトリック教会の中核の「教会の外に救いなし」という教えは、この御言葉によるものです。

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

(ヨハネによる福音書14章6節)



次に無教会の内村鑑三先生の教えを見ていきます。

内村先生は、人間の本性は「性善」と「性悪」を併せ持つと教えています。

人間の本性に「性善」がなければ、どうして神の御子イエス・キリストが人間となられたのかを説明できませんから。ということです。

「人間」は、神に似せられた「性善」があるために、イエスさまが人間となられたという聖書解釈と福音理解です。

「神は人をご自身のかたちとして創造された。

神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1章27節)



イエスさまは、人間には「悪い人」と「善い人」の2つのタイプがいると教えられ、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされると明言されました。

「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。

蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。

人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。

善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。

あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

(マタイによる福音書12章33~35,37節)



さらに、聖書の時代の「異邦人」は次のような罪人です。

「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。

彼らは愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。

そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。

しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。

(エフェソ信徒への手紙4章17~20節)



私の愛する人々は、生前にイエス・キリストを信じていない人々ですが、良いことをたくさん教え、互いに愛することを求め、罪を犯さないように教え、罪を犯せば悔い改めることを教えてくれたので「愛する人々」となりました。

それは多くの人たちも同じだと思います。

つまり、聖書の時代の異邦人とはまったく違います。

そして、イエスさまの教えでは「善い人」になります。

その人々は良心があり、その良心についてはイエス・キリストの義と同じで、その良心によって救われる判断がされるという教えが次の御言葉通りです。

「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。

たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。

こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。

彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

(ローマの信徒への手紙2章13~15節)」

つまり、地獄行きに定められていないことがわかります。

そのような人々に対して、死後に『選民』として住む場所を用意されているとイエスさまは教えてくださいました。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』

それから、イエス・キリストを信じなければ、父(イスラエルの神)の元に行くことは出来ませんが、ユダヤ教信者じゃあるまいし、まったく行きたいと思わないでしょう。

選民は義人とされたクリスチャンとは違うのですから。



そして、クリスチャンになった人々も、地獄行きから救われたのではなくて、生まれる前からクリスチャンになることが定められていたという次の御言葉を確信しています。

「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。

わたしの栄光のために創造し

形づくり、完成した者。」

(イザヤ書43章7節)

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。

神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」

(エペソ人への手紙2章10節)



まとめますと、プロテスタント教会の教えのように、すべての人間を地獄行きが定められている罪人だと信じるクリスチャンにとって確信が持てる御言葉がいくつもあります。

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリスト)のほか、人間には与えられていないのです。」

(使徒言行録4章12節)



その真逆に、良心を持って実行している人間は義と認められると信じるクリスチャンにとって確信が持てる御言葉が前述のようにいくつもあるのです。

この両タイプは相反するものですが、両タイプとも正しいとするのが内村鑑三でした。

長くなったので次回へ続く

 

 

 

「神さまについて キリスト教への信頼感が一挙に崩れ去りつつある ㊲」
前回の続きです。「国際宗教調査2023」によれば、日本は、聖書やコーランなどの聖典に記されている神を信じている人がわずか3%しかおらず、26カ国の中でも群を抜いて少ないことが指摘されていました。

そして、「宗教は世界で善よりも害をもたらしている」に同意する人は52%で、高い割合となった。この割合は、前回調査に比べ26ポイントも増加しているということです。

今、調査すれば、ガザ戦争とイラン戦争を行なうイスラエルやアメリカを支持する「キリスト教会」の影響でもっと高くなっているでしょう。



しかしながら、神や高次の力を信じることが、「人生の意味を与えてくれる」に同意した人の割合は47%もいるのです。

つまり、「どのような神さまであるか」を伝えることは非常に重要です。

私自身は4名の信仰者たちから学んで、サザエさんの著者「長谷川町子」さんと同じような信仰を持つクリスチャンです。

なので、プロテスタント教会やカトリック教会の教えとは違いますが、聖書の御言葉をそのまま正直に伝えているのでまったく問題はありません。

聖書が教える神さまはこのようなお方です。

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。

あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。

あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。

たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。

私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、

そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。

たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、

あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。

それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。

私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。

(詩編139篇1~3,8~17節)



それゆえ、神さまを信じられなくても大丈夫ですよと、イエスさまは明確に教えられました。

「もしわたしが、わたしの父の御業を行なっていないのなら、わたしを信じてはなりません。

しかし、行なっているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。(ヨハネの福音書10章37~38節)新改訳2017新約聖書」



日本では様々な宗教の教えが根付いていたり、また、キリスト教の教えでも「イエス・キリストを信じなければ救われない!」という教えをよく聞くので、神さまの御思いを知るのはなんとむずかしいことになっています。

しかし、人間は神を信じることなく生きていても、神さまのほうは愛しておられ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

そのような人間は、助けを求めているもっとも小さき者が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねます。

さらに、最近では、縁もゆかりもない遠いイスラエルの地のガザ地区で、ジェノサイド(大量虐殺)が行われた時、「やめろ!」という声をあげ続け、飢餓で苦しむ子どもたちを助けようという声が日本中に響き渡りました。

そのような人々に対して、死後に『選民』として住む場所を用意されています。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』

そして、神を信じた本物のクリスチャンは『義人』として、死後はイエスさまと共にいることになります。

「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。
わたしの栄光のために創造し
形づくり、完成した者。」
(イザヤ書43章7節)

このように、「選民」と「義人」とは違いますが、聖書が教える神さまは、多くの人たちが受け入れられる神さまです。



さらに、日本は天皇を神として、戦争を行ないました。

天皇が現人神(あらひとがみ)といわれた昭和戦前期、昭和天皇は自分を神扱いする側近にこんなことを言われたそうです。「私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういう事を云(い)われては迷惑だ」(昭和天皇独白録)

しかし、天皇陛下の意志に反して、最大の大罪が行われました。

「一億玉砕!国のため!」人の命は軽んじられました。

「天皇陛下万歳!」と言って多くの人が戦死されました。

そのような日本の許せざる罪のためにも、また、すべての人が背負う罪のためにもイエス・キリストの十字架の贖いがありました。

長くなったので次回へ続く

 

「死後の世界 キリスト教への信頼感が一挙に崩れ去りつつある ㊱」
前回に続いて、私が長年、プロテスタント福音派の教会に所属していた時に信じ込まされていた教えが「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3章16節)」を聖書の中の聖書とすることです。

それゆえ「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネによる福音書3章36節)」という御言葉を中核とする福音宣教です。

なので、「イエス・キリストを信じなければ救われない」

「クリスチャンは天国、未信者は地獄」という教えを成立させています。



ところが、内村鑑三先生は「そんな神など信じない!それはアメリカのキリスト教の教えであって、日本には日本の教えがある!」という聖書解釈と福音理解を宣べ伝えています。

その教えは、多くの日本人が心に響いているわけです。

私自身にとっても耐えられない重荷が取り除かれて救いが与えられた教えでした。

そのことを宣べ伝えるイエスさまの御言葉があります。

「もしわたしが、わたしの父の御業を行なっていないのなら、わたしを信じてはなりません。

しかし、行なっているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。(ヨハネの福音書10章37~38節)新改訳2017新約聖書」

つまり、聖書に書かれているイエスさまの御業が行われていないなら、信じることはできなくて当然だということをイエスさまは十分に理解されています。



それゆえ、イエスさまは、最後の審判の判決理由は「イエス・キリストを信じたか、信じないか」ということではなく、4つに分けられました。

まず「クリスチャン」に対しては、2つに分けられます。

「主御自身が天から降って来られます。

すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、

それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。

このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。

ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。

(テサロニケの信徒への手紙4章15~18節)」

しかしながら、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

(マタイによる福音書7章21~23節)

あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。

(ルカによる福音書13章28節)



つまり、天の御国でいつまでも主と共にいることになる「義人のクリスチャン」と、

外で泣いて歯ぎしりして暮らす「不法を働いていたクリスチャン」

この2つのタイプです。



そして、イエス・キリストを信じることはなかった未信者の人々に対しては

『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

そして、『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

(マタイによる福音書25章31~43節)

このように2つに分かれています。

合わせると4つに分かれています。



そのイエスさまの教えはエノク書に基づいているものです。

「義人と選民はその日に救われ

もはや罪人と不義な者の顔を見なくなる

諸霊の主は彼らの上にとどまり

彼らはかの「人の子」とともに食し

とこしえに彼とともに寝起きする」

(エノク書62章13~14節)

「義人(本物のクリスチャン)」

「選民(助けを求める小さき者たちを助けている未信者)」

「不義な者(不法を行なっていたクリスチャン)」

「罪人(助けを求める小さき者たちを見捨てる未信者)」



「そのとき山々は牡山羊のようにおどり

丘は乳を心ゆくまでのんだ仔羊のようにとびはねる

天のすべての天使の顔は喜びにかがやく

大地はよろこび

義人はその上に住み

選民はその上を歩く」

(エノク書51章4~5節)

〈死後の世界〉について

「選民は選民と共に住みはじめる。」

「義人のすまいを、諸霊の主のみつばさの陰にみた。」

このような教えに、ヘレン・ケラーさんも私も心は喜びいさみました。



エノク書は初期ユダヤ教や初期キリスト教に影響を与え、ユダの手紙がエノク書を引用していることもよく指摘されます。

エノク書がなければ前述のイエスさまの最後の審判や、ユダの手紙とか、ノアの箱舟の時代の「ネフィリム」のことやヨシュア記などが理解できないので、聖書に必要不可欠です。

また、エノク書があれば「義戦」や「正戦論」の教えは現在の世界に適用されることは困難になっていたでしょう。

それから、同性愛者の方々を地獄行きに定める聖書解釈も根底から覆されます。

それでも正典に採用されなかったのは、当時の教会指導部が整理したい神学と合わない部分があったなど「宗教的な情報を統一しようとする中で、教会が外に置く判断をした」と見る研究者も多いです。というAIの回答でした。



プロテスタント教会は、人間の死後を「天国か地獄か」と2つに分けているので、「イエス・キリストを信じれば天国、信じなければ地獄」と結論付けて当然です。

それゆえ「イエス・キリストを信じなければ救われない」と確信しています。



しかし、私はイエスさまの教えと基づいているエノク書から前述の4つに分けています。

サザエさんの著者「長谷川町子」さんが召天されるまで、サザエさん一家がクリスチャンにならなかったのは、「選民」であるサザエさん一家は死後も「選民」として暮らし続けると信じていたからでしょう。

長谷川さん自身はクリスチャンですが、死後、イエスさまと共にいることになるのは畏れ多いので、「私は『選民』の皆さまと共に暮らします。」と言っている感じがします。((笑)

私自身も同じ思いです。

長くなったので次回へ続く

 

「皆が信じる福音宣教 キリスト教への信頼感が一挙に崩れ去りつつある ㉟」
ヘレン・ケラーさんは著書の中で「教会は、主がどのように眼に見える姿で来臨され、どのように一人の人間として群衆の中に住まわれたか、という単純で素直で啓発的な物語から遠ざかっています。」と指摘されています。

このイエスさまの教えが思い起こされます。

「よく聞きなさい。心をいれかえて幼子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」

単純に素直になって、イエスさまの福音宣教を見てみます。

死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。

イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。

わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。

しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。

あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。

マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。

そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。

「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。

このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。

(ヨハネによる福音書11章39~48節)



イエスさまは、周りにいる群衆のために「あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 と言われて、死んだ人を生き返らせて、また逢わせてくださいました。

そのことを目撃した多くの人々はイエスを信じました。

また、信じない祭司長たちとファリサイ派の人々は「このままだと、皆がイエス・キリストを信じるようになる」と痛感しました。



イエスさまの福音宣教は、「わたしを信じなくても、その業を信じなさい。」ということでした。

「もしわたしが、わたしの父の御業を行なっていないのなら、わたしを信じてはなりません。

しかし、行なっているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。(ヨハネの福音書10章37~38節)新改訳2017新約聖書」

つまり、「わたし(イエス・キリスト)を信じなくても、死んで終わりではなく、愛する人たちとまた逢えることを信じなさい。」という福音宣教です。

そのことを信じるなら神の栄光が見られるのです。

人間の最も大きな重荷は愛する人を失って生きることでしょう。

しかし、イエスさまの福音宣教は「死んで終わりではなく、愛する人たちとまた逢えることを信じなさい。」ということなのです。

まさに、次の御言葉が心に響きます。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。

そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

(マタイによる福音書11章28~30節)



聖書を幼子のように単純に素直に読めば、イエスさまの福音宣教は、多くの人々が心の底から願い求めているものです。

それゆえ、至極当然に「皆が信じるようになる。」という福音宣教です。

この日本においても「「わたし(イエス・キリスト)を信じなくても、死んで終わりではなく、愛する人たちとまた逢えることを信じなさい。」という福音宣教は、大勢の人々に受け入れられる福音宣教です。

個人的にはこの福音宣教を伝えていきます。

現状ではプロテスタント教会の「イエス・キリストを信じなければ救われない」」という福音宣教によって多くの人たちが救われています。

カトリック教会の「教会の外に救いなし」という福音宣教でも多くの人たちが救われていますね。

また、「すべての人はすでに救われている」という福音宣教も広がっていくでしょう。

福音宣教は様々な教えがあっていいでしょう。

次回は、さらに確信がもてるために、イエスさまが教えてくださっている死後の世界を見ていきます。

その教えはヘレン・ケラーさんが心は喜びいさんだように、私自身も心が喜びに満ちるものでした。

 

 

「福音宣教について キリスト教への信頼感が一挙に崩れ去りつつある ㉞」
これまで日本でも賛同者が圧倒的に多い4名の信仰者の聖書解釈と福音理解を伝えさせてもらいましたが、予想通りに賛同するクリスチャンはごくわずかです。

それは、プロテスタント教会の教えは「主イエス・キリストを信じれば救われる」

カトリック教会の教えの中核である「教会の外に救いなし(救いはすべて、頭であるキリストからそのからだである教会を通して来ることを意味します)」という福音宣教が根本的な理由だと思われます。



日本ではノンフィクションライターの「最相葉月」さんの著書「証しー日本のキリスト者」が、大手の出版社「角川書店」から2023年1月に発売されました。

その著書は、キリスト教とクリスチャンを知るための史上最高のツールとして用いられるようになりました。

日本全土の多くのキリスト教会を訪問して、話を聞いた結果、最相氏は次のように結論付けられました。

「私は全国のキリスト者の声を聞くうちに、贖罪信仰がいかに信者を追いつめてきたかを知った。

そんな中、無教会の荒井克浩先生の信仰の変化は暗闇に差す光だった。

信じれば救われるのではなく、すでに救われている。それが信仰の出発点なのだ。」

この「信じれば救われるのではなく、すでに救われている。」という教えは、著書「証しー日本のキリスト者」の中で目立つように紹介されているカトリック教会の晴佐久昌英司祭の福音宣教と同じです。



晴佐久司祭は次のように教えています。

「今、私は、キリストの十字架と復活は、天の父の無限の愛の現れであり、すべての人はそれによってすでに救われているという普遍主義的な福音を明確に宣言する司祭として、多くの人から支持されています。

福音を聞いて、自らがすでに救われていることに目覚めると、大きな喜びと真の自由がもたらされます。

『救われていることに目覚めて、救われる』のです。」



「セカンドチャンス論」の町田カルバリーフェローシップの大塚牧師もこの聖書理解にはさすがに驚いたようで、ブログ記事に書いているのを引用します。

「晴佐久神父の聖書理解がカトリックの聖書理解なのか疑問に思い、何人かのある権威筋のカトリック神父にお尋ねした。

その結論は、
晴佐久神父の『すべての人がすでに救われている』という聖書理解は、彼の個人のもので、カトリックの公式な教え(見解)ではない。

そして、カトリックの教義としてはNGなのだが、晴佐久神父は”司牧的配慮(牧会的配慮)”として語り、人を導いているのでSafe、なのだそうだ。」

引用以上

それゆえ、カトリック教会の中では晴佐久司祭の福音宣教に賛同する司祭はごくわずかのようです。

しかしながら、多くの未信者には賛同者が多く、信じた人たちも群を抜いていて、晴佐久司祭は次のように語ります。

「前任の教会では、6年間で500人以上に洗礼を授けました。おそらく、今、日本で最も多くの洗礼を授けている司祭だと思います。」



私がプロテスタント福音派の教会に所属していた時は、人々の救いのために一生懸命に路傍伝道に励んでいた時期もありました。

それで何人かがイエス・キリストを信じましたが、その後は離れています。

この日本では、「イエス・キリストを信じれば救われる!」という福音宣教は、圧倒的に多くの未信者の方が賛同しないことを痛感しています。

「日本は宣教師の墓場です。」という話もよく耳にしました。

ところが、その真逆の「すべての人がすでに救われている」という福音宣教は数多くの未信者の方が賛同しているということです。

さらに、これまで伝えてきた4名の信仰者の方々の福音理解は非常に多くの日本人の心に響き続けています。

それもそのはず。すべての日本人の状況は、愛する人々はイエス・キリストを信じることなく亡くなっているからです。

使徒パウロの福音宣教です。「日本人には日本人のように」



4名の信仰者のうちの「マザーテレサ」が伝えた有名な御言葉がこの御言葉です。

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。

たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを決して忘れない。

見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻んだ。イザヤ49:15~16」

「人間の親とは、自分の子を忘れることはなく、あわれまないことはない。

しかし、もしも、その親から見捨てられて、孤独ですさんだ人生を歩んでいても

人間を造られた神は、決して、あなたを忘れない。神の手のひらに刻まれているほど愛されている存在だから。」

ただ、それだけを伝えるにとどめる福音宣教です。

あとは、神さまにすべてをお任せます。

人間に人を救うことはできないのですから。

人間は、神さまの大いなる愛を伝えることだけが役目という福音宣教を私は4名の信仰者から学びました。

長くなったので次回へ続く

 

「救いとは何か? キリスト教への信頼感が一挙に崩れ去りつつある ㉝」
前回記事の続きです。私が最も驚いたクリスチャンが「見えない、聞こえない、話せないという三重苦」のヘレン・ケラーさんです。
聖書には「しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。(ローマ信徒への手紙10章14,17節)」と教えているからです。

そのヘレン・ケラーさんがサリバン先生の献身的指導のおかげで、指文字から始まり、点字の本で物事を知るようになり、聖書を読まれて、次のように語っています。

「心優しいイエス・キリストの物語を除いては、私はバイブルにある話に特別夢中になったりしませんでした。」

「火の池に投げこまれる者たちの無限の責め苦と、キリストがその本質は愛であると言明された神とを、いったいどのように結び付ければよいのでしょうか?」

「クリスチャンでない者はすべて罰せられる、と心の狭い人たちから聞かされてきて、私の魂は当然反発を感じていました。

というのも、異教徒であっても彼らなりに真理を見いだし、その真理に殉じて生きて死んでいったすてきな人たちを私は知っていたからです。

”イエス”というのは、”神の善”とか”行為として現われた善”を意味しており、

また”キリスト”というのは、新しい考え、新しい生命や歓びを人々の心に送り込む”神の真理”を意味しているのであって、

だからこそ神を信じて正しく生きている人はだれも罪に問われることはない、」

神さまに大きく用いられた「ヘレン・ケラー」さんはこのような聖書解釈と福音理解のクリスチャンでした。

それは根本的に、マザーテレサや中村哲医師、内村鑑三先生と同じ聖書解釈と福音理解です。



イエスさまのイスラエルの地での福音宣教の土台と大前提はこの御言葉です。

「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。

しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

(ヨハネによる福音書10章37~38節)

そして、主イエス・キリストの十字架の贖いが成されて、イエスさまは「完了した。」と宣言されました。

「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。

その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、

また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。

十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。」

(テトスへの手紙2章11~15節)



「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。

この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」

(テトスへの手紙3章3~5節)



ヘレンケラーさんは、異教徒の真理も「あらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民とする」ということなので、その真理はどこから来るのか

”イエス”というのは、”神の善”とか”行為として現われた善”を意味しており、

また”キリスト”というのは、新しい考え、新しい生命や歓びを人々の心に送り込む”神の真理”を意味している

つまり、その真理はイエス・キリストの教えから来ている。ということです。

マザーテレサも同じようなことを言っています。



そのヘレンケラーさんの福音理解に次のことが思い起こされます。

日本で最も信者が多いのは「浄土真宗」ですが、聖書の教えをいくつも盗用していると指摘されています。

まるでそっくりなのです。

また、日本では「愛」という言葉は女性などを「めでる」「かわいがる」ということに使用されていて、それを現在のように最高に尊い言葉に変えたのが「キリスト教」の教えです。



そして、不信心と現世的な欲望(イジメ、虐待、強姦、淫行、セクハラ、パワハラ、モラハラ、差別、戦争、人殺し、盗み)を持ち、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らしている人々は、助けを求める小さき者たちや弱い者たちを見捨てて、それどころか傷つけることを愛する人々がいます。

そういう人々は、死後その行いに相応しい場所(場合によっては地獄)に行くことになるという聖書解釈と福音理解も支持されています。

「万人救済説」の内村鑑三先生も次の最後の審判の御言葉を信じて、聖書研究で教えています。

「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』」

(マタイによる福音書25章41~43節)



神の業(その恵み)は、わたしたちが不信心と現世的な欲望などを捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教えることです。

そして、そのような神さまの救いを信じますか?ということです。



ところが、このような聖書解釈と福音理解は、聖書の権威が人間の感情に置き換えられる「自由主義的キリスト教」、「ヒューマニズム」に流されていて、「本当のキリスト教ではない」などとかなりの批判を浴びています。

なぜなら、プロテスタント教会の教えは「すべての人間は罪を持っているために地獄へ行くので、主イエス・キリストの救いとは地獄行きからの救い」と定めているからです。

それゆえ、イエス・キリストを生前に信じなければ救いはないと確信しています。

日本基督教団や福音派でも大川従道牧師たちの「セカンドチャンス論」がありますが、生前でも死後でも「イエス・キリストを信じれば救われるが、信じなければ地獄行き」ということは絶対的な教えです。

長くなったので次回へ続く

 

 

「聖書の教え キリスト教への信頼感が一挙に崩れ去りつつある ㉜」
前々回のクリスチャングループへの記事で、プロテスタント教会のクリスチャンからこのようなコメントがありました。
「どんなに素晴らしい人格者も、主イエスを信じなければ救われません。此れは解釈ではありません。聖書が語っていることそのものです。」

私もプロテスタント福音派の教会に長年いましたので、多くの牧師たちから同じことを教えられています。

しかし、前々回からの4名の方の聖書解釈と福音理解を学んでいると、そのプロテスタント教会の教えに重大な欠点があることに気づきました。



イエスさまのイスラエルの地での福音宣教の土台と大前提はこの御言葉です。

「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。

しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

(ヨハネによる福音書10章37~38節)



その教え通りに、業(しるし)を見て、ニコデモは信じました。

「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。

ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。

神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

(ヨハネによる福音書3章1~2節)

それゆえ、この御言葉を教えることが出来ました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)



使徒ペテロたちも同じです。イエスの御名によって病人を癒した業(しるし)が土台であり、大前提です。

そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、

あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。

この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。

この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

(使徒言行録4章8~12節)

それゆえ、このように祈っています。

「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」

祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」

(使徒言行録4章30,31節)



しかし、プロテスタント教会は、「御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われる」 というイスラエルの地における福音宣教の土台と大前提を排除しています。

その土台と大前提がなくて、「主イエスを信じなければ救われません。」ということを宣べ伝えると、荒唐無稽な話となり、キリストはいけにえを超好む神となり、独善的で排他的となってしまいます。



それゆえ、ヘレン・ケラーさんは著書「私の宗教」でこのように語りました。

「クリスチャンでない者はすべて罰せられる、と心の狭い人たちから聞かされてきて、私の魂は当然反発を感じていました。」

また、文学博士の菊地章太教授の著書「日本人とキリスト教の奇妙な関係」では、カトリック教会のシドティ宣教師と新井白石の詮議を記した西洋紀聞を取り上げて、次のように書いています。

「新井白石はそれを聞いて思う、そうした教え(キリスト教)があることを知らない者がいるとしても、とがめる理由などないはずだ。

それなのに、最後に(イエス・キリストを信じない人は)誰も彼も滅ぼしてしまうとはどういうことなのか。

『いかむぞまた、これを生じこれを養ふ大父大君(イエス・キリスト)とは称ずべき』と、かつはあきれ、かつはいきどおったのだ。」

シドティ宣教師は「教会の外に救いなし」という福音宣教を忠実に宣べ伝えたのですが、新井白石からすれば呆れる神であり、憤る神である。キリスト教には学ぶことなしと結論付けました。



さらに「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。」ということが、イエスさまの教えです。

まさに、イエスさまは心優しく、へりくだっておられ、くびきは負いやすく、荷は軽いと言われた通りです。

それゆえ、イエスさまが来臨される最後の審判の判決理由は、至極当然ながら「イエス・キリストを信じたか、信じなかったか」ということではありませんでした。



このように、プロテスタント教会の聖書解釈と福音理解も致命的な欠点があります。

そもそもイスラエルの地での福音宣教と、現在の日本での福音宣教を同じに考えていいのかという問題があります。

その聖書の時代の福音宣教とは違うと思います。

しかしながら、そのプロテスタント教会の聖書解釈と福音理解によって、多くの人々がイエス・キリストを信じています。

「イエス・キリストを信じなければ、その罪のために地獄へ行く」という福音を信じます。

「私は地獄へ行って当然の罪びとです。その地獄行きからイエスさまは救ってくださった。」という証であふれています。



ですが、日本において、クリスチャンは人口の約1%という状況です。つまり、約99%はイエス・キリストを信じていない人々ということです。

それゆえ、内村鑑三先生はプロテスタント教会の聖書解釈と福音理解を「少数救済説」と名付け、自らの聖書解釈と福音理解を「万人救済説」と名付けました。

内村先生自身は、プロテスタント教会の教える神なら信じない!と断言しています。

それに賛同する日本人はかなり多いと思います。

このまったく違う教えは対立関係が生じるので、次のように説きます。

「そしてたいていの場合において『わが教会の信者のみが救わるるのである。』と言うのが普通である。これがために幾多の宗教戦争が戦われたか、わからない。」

「さらば少数救済説と万人救済説と二者いずれが真理なるか。

両説ともに聖書の証明するところたるを見て、聖書に根本的矛盾の無きかぎり、両説いずれも真理であると言わざるを得ない。」

どちらも正しい、それぞれが自分が共鳴する聖書解釈と福音理解のキリスト教で救われれば実に喜ばしい。

これにて一件落着ということです。

「万人救済説」というのは、前回記事で伝えているように、十字架につけられたキリストの御言葉を伝えるということです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

この御言葉は戦争を行なった日本人とアメリカ人に「愛と赦し」を劇的にもたらしました。

長くなったので次回へ続く

 

「十字架の愛と赦し キリスト教への信頼感が一挙に崩れ去りつつある ㉛」
前回記事の続きです。4名のクリスチャンたち(内村鑑三、中村哲、マザーテレサ、ヘレン・ケラー)に一致していることは、人の残酷非道な罪を経験されたことでした。

しかし、この使徒パウロが教える御言葉通りに生きた信仰者でした。

「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」

(コリント信徒への手紙二1章8、9節)



人間の罪深い残酷さは非情ですが、それによってイエスさまだけを頼りにするようになったのです。

それゆえ、この聖書解釈と福音理解にたどり着かれます。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(コリント信徒への手紙一1章23節)

「十字架につけられたキリスト」を具体的に教えているのが「詩編 22章2~19節 ダビデの詩」です。

「わたしの神よ、わたしの神よ

なぜわたしをお見捨てになるのか。

なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず

呻きも言葉も聞いてくださらないのか。

わたしは虫けら、とても人とはいえない。

人間の屑、民の恥。

わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い

唇を突き出し、頭を振る。

『主に頼んで救ってもらうがよい。

主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。』

苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

雄牛が群がってわたしを囲み、バシャンの猛牛がわたしに迫る。

餌食を前にした獅子のようにうなり

牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。

わたしは水となって注ぎ出され

骨はことごとくはずれ

心は胸の中で蝋のように溶ける。

口は渇いて素焼きのかけらとなり

舌は上顎にはり付く。

あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。

犬どもがわたしを取り囲み

さいなむ者が群がってわたしを囲み

獅子のようにわたしの手足を砕く。

骨が数えられる程になったわたしのからだを

彼らはさらしものにして眺め

わたしの着物を分け

衣を取ろうとしてくじを引く。」



十字架につけられる前には、先に動物の骨や金属片などを埋め込んだムチ打ちを無数に受けました。

それゆえ、体の肉は無数に裂かれて、骨も見えて、多くの血が流されて重症です。

両手両足への釘打ちも手首の骨と骨の間、足のかかとの骨にくぎが刺さっていました。

そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

(マルコによる福音書15章32節)

しかし、その罪深い残酷非道な人々に対して、十字架につけられたキリストは、ののしりかえさず、愛と赦しの言葉だけを言われたのです。

「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』

(ルカによる福音書23章34節)」

それを聞いた十字架につけられた犯罪人の一人は劇的に改心して、イエス・キリストを信じたのです。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。(ルカによる福音書23章42節)



その「十字架につけられたキリストの福音」を伝えているのがステファノでした。

ステファノはひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。(使徒言行録7章60節)



マザーテレサは、住む場所を放火され、銃を突きつけられ「殺すぞ!」と脅されても、そういう人々に対してののしりかえさず「愛と赦しの言葉」だけを伝え続けられました。

内村鑑三も「不敬事件」によって、国賊・非国民となったために、多くの人々は残酷非道な行為をしました。

「不敬事件」を扱った新聞や雑誌の数は56,主要記事ないし論説の形で登場したのが143,これらの多くが虚説をこだまのように広げていき、報道は全国的であり長期にわたった。

連日、自宅に押しかけてくる人たちが、罵声罵倒の言葉を浴びせ、石を投げつけました。

自宅の中に押し入り、放尿して帰って行く者たちもいました。

その時、内村鑑三は病いに倒れて生死をさまよってしまったために、最愛の妻と母が矢面に立たされました。

その重すぎる心労の中で、妻も病いに倒れ天に召されてしまいました。

また、内村個人への非難は「キリスト教」そのものに向けられていき、キリスト教が日本の秩序を乱し、国を滅ぼすものだという非難が浴びせられました。

それゆえ、キリスト教会の牧師たちが「キリスト教会」を守ろうと「内村鑑三は偽キリスト教徒」などと非難の声を一斉にあげて見捨てたのです。



その体験によって内村鑑三は「十字架につけられたキリスト」以外は伝えまいと決心して「万人救済希望・万人救済説」という聖書解釈と福音理解によって、「愛と赦しの言葉」を伝え続けたのです。

明治天皇の孫 小林隆利牧師は著書の中で、明治天皇は、内村鑑三を誉め、あれが本物だと評価され、講義を依頼されたことを語っています。

そして、内村鑑三の「十字架につけられたキリスト」=「愛と赦し」のキリスト教の教えは日本全土に広がります。

長くなったので次回へ続く