「日本におけるキリスト教 93 聖書の言葉と悪魔が蒔いた悪い者の子たちは地獄行きについて」 | ルーク4のブログ

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「日本におけるキリスト教 93 聖書の言葉と悪魔が蒔いた悪い者の子たちは地獄行きについて」

 

桜吹雪が舞い散る季節となりましたが、私の投稿記事は花がたくさんの状態で、どれを先にお伝えしようか悩みの中です。しかし神さまが導いてくださって書いています。

 

さて、前回の投稿記事のコメントで次のような指摘がありました。

 

「信者でない者は、全員地獄堕ち、などというのは全くのナンセンスですが、悪人は初めから悪人という考えには同意しません。」

 

「神はすべての人が悔い改めて、神の義に立ち返ることを望まれているのではないでしょうか。」

 

 

このコメントをくださったクリスチャンの方は、「イエス・キリストを信じない人々は永遠の火に投げ込まれる」という聖書解釈と福音理解に反対されています。

 

また、悪人と善人の区別をするのではなく、すべての人が悔い改めて、神の義に立ち返ることを望む聖書解釈と福音理解だと思います。

 

私が色々と調べたところ、大きく分けると、このような聖書解釈と福音理解をされるクリスチャンたちも少なくありません。

 

現在、日本のキリスト教会の中で、洗礼を授ける人数は群を抜いている「カトリック教会の晴佐久昌英神父」は、次のような聖書解釈と福音理解をされています。

 

 「まず、『神はすべての人を救う』、これを『天の救い』と呼びましょう。

 これは決して譲れない大前提です。

 

神は愛であり、すべての神の子を親心によって生んだのであり、神の愛は完全で永遠ですから、全能の神の計り知れない恩寵の内にすべての人が救われるのは当然のことです。

 

わたしたちは生まれる前から救いのわざにあずかっているし、いつの日か神に召されて救いの完成にあずかります。」

 

引用以上

 

※ 

 

しかしながら、この晴佐久神父の教えは、プロテスタント福音派の教会では「万人救済説だ」と批判非難されて、完全に異端視する声をよく聞きます。

 

また、プロテスタント教会の中で批判非難されているセカンドチャンス論の大和カルバリーチャペルの枝教会の大塚牧師が次のようにブログ記事で発信しています。

 

「私は晴佐久神父を通して、カトリックに触れたようなものであるが、晴佐久神父の聖書理解がカトリックの聖書理解なのか疑問に思い、何人かのある権威筋のカトリック神父にお尋ねした。

 

その結論は、

晴佐久神父の「すべての人がすでに救われている」という聖書理解は、彼の個人のもので、カトリックの公式な教え(見解)ではない。

晴佐久師は元々そのような考え方を持っておられた。とのことだった。

 

そして、カトリックの教義としてはNGなのだが、晴佐久神父は”司牧的配慮(牧会的配慮)”として語り、人を導いているのでSafe、なのだそうだ。」

 

引用以上

 

 

そして、プロテスタント教会の聖書解釈と福音理解があります。

 

前述の「大和カルバリーチャペル」は、日本のプロテスタント福音派の教会の中では最も信徒数が多いので、大きな影響力があります。ちなみに、信徒数は約2000人だそうです。

 

その大川牧師の著書「永遠と復活」の中で、プロテスタント福音派の教会の聖書解釈と福音理解を次のように教えています。

 

「そして、罪が赦される唯一の方法が『イエス・キリスト」を地上にいる間に信じることで、それなくして死んでいった人たちは、天国に行くことができない。

 

つまり地獄へ行くのである、と教えてきました。

 

『罪の代価は死である』から、その帰結として、罪赦されることなく死んで行く者は、天国に行けずに、地獄へ行く……

 

私も子どもの頃から、そう教えられてきました。

 

私が幼かった頃からすでに、ほとんど例外なく、教会ではそのように教えられていたようですから、

私の生まれるずっと前から、100年以上そのような考えと教え(神学)の中で教会は営まれてきたのだと思います。」

 

引用以上

 

 

前述のように、ざっくりと大きく2つに分ければ

 

「神はすべての人を救われる」という聖書解釈と福音理解

 

「イエス・キリストを信じない人々は、罪が赦されていないために地獄へ行く」という聖書解釈と福音理解

 

この両極端の2つのタイプの聖書解釈と福音理解があるわけです。

 

そして、その両者にはそれぞれ、都合が悪い聖書の御言葉がいくつもあるのです。

 

その1つが、最近の投稿記事で繰り返し伝えているこの御言葉です。

 

イエスさまはこのように教えられました。

 

「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 

だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。(マタイによる福音書13章37~40節)」

 

 

「神はすべての人を救われる」という聖書解釈と福音理解においては、

 

悪人は初めから悪人で、世の終わりに火の池に投げ込まれるという教えは到底に受け入れることが出来ません。

 

そして、「イエス・キリストを信じない人々は、罪が赦されていないために地獄へ行く」という聖書解釈と福音理解においては、

 

地獄に行く者は「イエス・キリストを信じない人々」でなければならないし、また、イエス・キリストを信じることが出来なければならないのです。

 

それから、人類は皆、悪魔が蒔いた悪い者の子たち毒麦となり、イエスさまが蒔いた良い種は世界に1人もいないことになります。

 

なので、この御言葉は、2つのタイプの聖書解釈と福音理解において、非常に都合が悪い御言葉となります。

 

 

さて、聖書には「神の御言葉」とは次のように教えています。

 

「”いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。

 

わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ6:63)

 

「なぜなら、神の言は生きていて効力があり、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思考と意図を識別することができるからです。(ヘブル4:12)」

 

そして、イエスさまは「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。」ということを理解した者は、天の御国の弟子となった学者と評されたぐらい重要な御言葉です。

 

それゆえ、この御言葉も霊であり、またいのちです。

 

「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(イザヤ55:11)と聖書に書いてある通りです。

 

その聖書解釈と福音理解をするならば、イエスさまが教えられたすべての御言葉を受け入れることが出来るのが、聖霊が内住したクリスチャンと言えるのではないでしょうか。

 

 

聖書の中でも、パウロ書簡は、ローマ人への手紙など、それぞれのパウロが同労者に送った集会宛、個人宛書簡の体裁をとっていますので、それぞれ教えていることが異なっていることがあります。

 

それゆえ、現代の日本人には当てはまらない教えがあるのは当然でしょう。

 

また、パウロ自身がこれは個人的意見として教えていることがあります。

 

そして、ペテロの手紙やヨハネの手紙などにおいても、現代の日本人に当てはまらない教えがあります。

 

その事については次の機会にまとめて、ブログ記事にしたいと思います。

 

 

なので、イエスさまが教えられた御言葉を受け入れると、

「悪魔が蒔いた悪い者の子たちは、最初から聖絶されるべき存在でもある」と理解すると、聖書で都合が悪い御言葉がなくなります。

 

その悪魔が蒔いた悪い者の子たちは、イレギュラーな存在で、同じ人間ではなく、自分を愛せず、他人も愛せず、神を憎み、人を憎むことしか出来ません。

 

また、人間とはまるで違う生き物でもあります。

 

旧約聖書ではネフィリム(Nephilim)がそのイレギュラーな存在です。

 

 

ノアの方舟の聖書箇所の創世記6章~7章で、神が洪水で滅ぼしたのがネフィリム(Nephilim)です。

 

また、ヨシュア軍が聖絶したのは「そこに住む民は巨人であり、ネフィリムである。彼らアナク人はネフィリムの出だ」ということです。

 

『ウィキペディア(Wikipedia)』ではうまくまとめています。次の通りです。

 

「ネフィリム(Nephilim)は、旧約聖書の『創世記』および『民数記』、旧約聖書外典(続編)の『ヨベル書』、『エノク書』などにあらわれる種族の名で、一般的には「巨人」とされる。名前の意味は「(天から)落ちてきた者達」であるという。「ネピリム」とも表記される。」

 

「『創世記』第6章1–4節によれば、地上に人が増え始め、娘たちが生まれると、神の子らは人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。

 

こうして神の子らと人間の娘たちの間に生まれたのがネフィリムであった。彼らは大昔の名高い英雄たちであったという。

 

『民数記』第13章32–33節ではカナンを偵察したイスラエルの一隊が、「そこにすむ民は巨人であり、ネフィリムである。彼らアナク人はネフィリムの出だ」とモーセに語る場面がある。

 

『ヨベル書』7:21–23によれば、巨人たちが人の娘をめとり、そこからネフィリムが生まれたとされる。

 

ネフィリムは「みな仲たがいをして共食いをし、お互いを殺しあった」という。この箇所ではネフィリム以外にエルバハ、ネピル、エルヨという三種の名称があげられているが、それらも巨人をあらわしていると考えられる。

 

『第一エノク書』7章では地上に降りて人間の娘と交わった天使たち(グリゴリ)によって、巨人が生まれたという。巨人の体長は3000キュビット(1350メートル、ギリシア語の『エノク書』では3000ペーキュスもあり、人間たちの食物を食べつくすと共食いを行ったという(7:5)。

 

古代イスラエルと敵対した民族・国家を邪悪と強調するための象徴的描写とも考えられる。

 

 

現在の世界にネフィリムは存在していません。

 

ダビデ王がネフィリムの最後の末裔を殺して聖絶したと聞いたことがあります。(これから、その聖書箇所を探してみます。)

 

また、前述の「悪魔が蒔いた悪い者の子たちは、イレギュラーな存在で、同じ人間ではなく、自分を愛せず、他人も愛せず、神を憎み、人を憎むことしか出来ません。」という人たちは、存在すると思われます。

 

なぜなら、この先、憎むべき者が聖なる場所に立つのに、手下となる者たち(にせ預言者たち)が存在するからです。

 

また、ファリサイ派の人たち(パリサイ人)とサドカイ派の人たちは「まむしの末たち、誰が必ず来る御怒りを免れるように教えたのか」と言われましたが、

 

サドカイ派は、紀元70年に消滅します。この派は彼らの政治的、また祭司としてのつながりで存在していたので、ローマがエルサレムと神殿を破壊した時、サドカイ派も破滅したそうです。

 

それから、ファリサイ派の人(パリサイ人)の中でも、サウロ(後の使徒パウロ)が救われていますし、ニコデモはイエスの遺体を引き取りに行ったのです。ここに彼の信仰が表されているように思われます。

 

この世界では反社会と言われている暴力団のヤクザや海外のマフィアの人たちでも、自分を愛しているし、愛する人が1人はいるでしょう。

 

 

そして、悪魔が蒔いた悪い者の子たち毒麦は、イレギュラーな存在であり、神を憎んで、人を憎んでいる者たちです。

 

それゆえ、預言者たちを殺し、イエスをも殺し、福音を妨げました。

 

なので、神を愛することができて、人を愛することができる人間と同じというわけではありません。

 

それゆえ、現在のイエス・キリストを信じない人々と悪魔が蒔いた悪い者の子たち毒麦とはまるで違うことは明白だと言っても過言ではないでしょう。

 

次回へ続く