「日本におけるキリスト教 92 聖書の教えは、イエス・キリストを信じない人々に平安があるものです | ルーク4のブログ

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「日本におけるキリスト教 92 聖書の教えは、イエス・キリストを信じない人々に平安があるものです。」

 

私の祖母は「おばあちゃんの自慢は、誰も人様に迷惑をかけて犯罪者にならなかったことや」とよく言っていました。

 

その後、祖母が亡くなってから10年以上経っても、親戚一同で、犯罪を犯して刑務所に入った人は1人もいません。

 

そればかりでなく、近所でもいませんし、職場でもいませんので、犯罪を犯して刑務所に入るような人は自分に関わる人たちではなく、知らない人たちであり、ごく一部の人という認識を持っている人のほうが多いと思います。

 

ですが、誰もが犯罪を犯して、刑務所に入る可能性はありますので、祖父母や親や、学校でも全員に犯罪を犯さないように教える必要があるのです。

 

そして、聖書の教えは「良い種」と「毒麦」というように教えられています。

 

 

イエスさまはこのように教えられました。

 

「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

 

毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。(マタイによる福音書13章37~40節)」

 

その教えの前に次のように教えられています。

 

「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。

人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。

 

僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

 

主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 主人は言った。

 

『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。

刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』マタイによる福音書13章24~30節」

 

 

それから、聖書を読んで非常に驚いたことは、イエスさまの12弟子の中に「悪魔が蒔いた毒麦」がいたことです。

 

すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」

 

イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。(ヨハネによる福音書6章70~71)

 

 

イエスさまを信じたと言っても、その中にはイエスさまが蒔いた良い種の人々と、悪魔が蒔いた悪い者の子たち毒麦の人々がいます。

 

ですから、イエスさまは、イエスにつき従って来た群衆と12弟子の中に「悪魔が蒔いた悪い者の子たち(毒麦)」がいる時に対する教えでは、必ず地獄へ行くことも教えなければなりませんでした。

 

悪魔が蒔いた悪い者の子たちを救いたいからです。

 

しかし、世の終わりまで、より分けることはされないので、良い種と毒麦ともに教えることにされているのです。

 

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 

しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

 

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

 

もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。

 

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。マタイによる福音書5章1~30節」

 

 

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。

 

〈中略〉

 

体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。マタイによる福音書 10章5~28」

 

 

十二弟子一行はカファルナウムに来た。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。

   〈中略〉

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

 

もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。

 

もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。

 

もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。

 

地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。マルコによる福音書 9章33~48節」

 

 

このように、12弟子すなわち、その中に1人「悪魔が蒔いた悪い者の子(毒麦)」であるイスカリオテのユダがいる時には、地獄へ行く教えをしています。

 

 

しかし、悪魔が蒔いた悪い者の子である毒麦イスカリオテのユダが取り除かれて、イエスさまが蒔いた良い種の11弟子だけになれば、地獄行きの教えをしていません。

 

悪魔が蒔いた悪い者の子毒麦がいなければ、地獄行きの教えをする必要がないからです。

 

それは異邦人やサマリヤ人への福音宣教も同じでした。

 

 

イエスさまは、前述の「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と教えられてから、次のように教えられました。

 

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。

 

しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。マタイによる福音書 10章32~33節」

 

ですから、人々の前で「イエス・キリストを知らない」ということは、魂も体も地獄で滅ぼされるのかなと思います。

 

 

しかし、ペテロはその大きな罪を犯してしまうのです。

「ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。

 

ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。

ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。

 

そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。

 

しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」

 

そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。 マタイによる福音書 26章69~74節」

 

 

しかしながら、イエスさまは次のように教えられているのです。

 

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。

 

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。

 

だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 

するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。

 

イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。ルカによる福音書 22章31~34節」

 

イエスさまが蒔いた良い種であるペテロは、のろいを込めて3度も「イエス・キリストを知らない」と人々の前で、イエス・キリストを否定しても既に赦されているのです。

 

 

しかし、悪魔が蒔いた悪い者の子の毒麦イスカリオテのユダに対しては、次のように冷酷に警告しています。

 

イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。

 

人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。

 

だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

 

イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。マタイによる福音書 26章23~25節」

 

 

このように、イエスさまは、悪魔が蒔いた悪い者の子たち毒麦に対する地獄行きの教えと、イエスさまが蒔いた良い種に対する教えを明確に分けて教えられていることがわかります。

 

そのイエスさまの教えを曲解させて、「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行く」というように教えていれば、

イエス・キリストを無慈悲で冷酷非道な神であるように、でっち上げていることが明白です。

 

さらに、イエスさまは、「イエス・キリストを信じなくても地獄行きではない」ということを明確にされている御言葉があります。

 

それは次回のお楽しみです。