「日本におけるキリスト教 91 聖書の地獄行きの教えを知れば、心は平安です。」 | ルーク4のブログ

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「日本におけるキリスト教 91 聖書の地獄行きの教えを知れば、心は平安です。」

 

誰もが、人間関係において、相手の悪いところを知ることが最も重要だと痛感していると思います。

人間は、誰もが良いところと悪いところがあるものです。

 

ところが結婚したり、友達になった後で、相手がこんな悪い人だとは思わなかったという理由で、離婚したり、絶交したりします。

 

そのようなことがあった時は、初めのうちに、こんなに悪すぎることがある人だと知っておけば、傷つき合うこともなかったと後悔するものです。

 

また「神さま」に対しても、そうです。

 

日本人は無神論者が多いといっても、苦しい時の神頼みをしますので、神さまの存在みたいなものを潜在的に持ち合わせていると思われます。

 

そして、その「神さま」に「悪魔」のように悪いところがあるとは思ってもみないものです。

 

 

ですので「聖書」で、神さまであるイエス・キリストが、永遠の火に投げ込むという教えを知った時は、驚きとともに、かなりの違和感があったものです。

 

しかし「聖書」は、その地獄へ行くのはどのような人で、どのような理由かを詳細に明確に教えているので、それを1つ1つ確認していけば、安心します。

 

そして、最近の投稿記事で1つ1つ確認してきましたが、現在のイエス・キリストを信じない人々のことではない事を理解しました。

 

これから残りの地獄に関する教えの聖書箇所も確認すれば、確信することでしょう。

 

 

イエスさまは地獄行きが免れることが出来ない人について、このように言われました。

 

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。

 

蛇よ、まむしの子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。 マタイによる福音書23章29~33節」

 

そして、バプテスマのヨハネも同じように言っています。

 

「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。

「まむしの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。マタイによる福音書3章7~9節」

 

 

さらに、我々の父はアブラハムだと思っている蛇であり、まむしの子と言われているファリサイ派の人が地獄行きについて詳しく教えているのが、ルカによる福音書19~31節です。

 

「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。

 

そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。

 

律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。

しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。

 

ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

 

この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

 

やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

 

そして、金持ちは陰府(ハデス)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

 

そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

 

しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

 

そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

 

金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

 

しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

 

アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 

 

この聖書箇所について、牧師の書斎というブログで書かれている聖書解釈を引用して紹介します。

「牧師の書斎」

【聖書箇所】 ルカによる福音書16章14節~31節

 

さて、イエスが公生涯におけるナザレの会堂で語られた最初のことば(ルカ4章18~19節)は、「捕らわれ人」「盲人」「虐げられている人々(圧迫されてい傷ついている人々)」といった「貧しい者」の運命を逆転させる福音でした。

 

イエスが登場した時代の社会は貧富の差が歴然とした時代でした。経済的に貧しいがゆえに、踏みつけられ、圧迫されることを余儀なくされている希望のない人々に対して、イエスは「神の恵みの年」が来たことを宣言したのです。

 

しかし逆に、そうした「貧しい人々」を搾取し、かかわりを拒絶している者に対して、特に、マモン(金銭)の奴隷となっている者たちに対しては厳しい警告を与えられました。

 

そんなイエスの警告を馬鹿にし、嘲笑して聞き続けていたのがパリサイ人(ファリサイ派の人)たちでした。

1. パリサイ人の偽善を暴くイエス(15節~18節)

イエスが15節~18節に語ったことを整理しておきたいと思います。

(1) 彼らは自らを正当化し、人前で正しい者としている。しかし神はすべてを見通しておられる。

(2) 新しい時代(神の国の福音が宣べ伝えられ)が到来し、多くの者がそこへ入ろうとしている。

(3) 律法に不忠実でる。その証拠に妻を離別して他の女と結婚をしている。それは姦淫を犯す者である。

 

特に、(2)に関連して「律法と預言者はヨハネまでです」(16節)という意味は、律法(トーラー)によってもたらされる呪いの時代はヨハネまでだという意味です。

 

律法(トーラー)は良いものであり、それは天地が滅びるよりも確固としたものであるが、同時にそれは呪いをもたらし、人々に恐れを植え付ける機能を持っています。

 

当時、律法によって神に近づこうとした人々は、その律法によって人々に恐れを植え付け、彼らを支配しようとしてきました。

しかし今や、新しい時代が到来し、律法がもたらす呪いから人々を解放して神の方から近づいてくれる時代が到来したのです。

 

神と人とを隔てている律法の呪い、罪の負債を赦し、罪の重荷から解き放ってくださる神が近づてくださる「神の国の福音」が宣べ伝えられているのです。

 

しかし律法の呪いの元に人々を置いて支配しようとしているパリサイ人はその律法に従って生きていないことをイエスは彼らに突きつけたのです。

 

2. ある金持ちとラザロのたとえ話

 

イエスは続いて、バリサイ人たちに対してひとつのたとえ話をしています。それは「ある金持ちと貧乏人ラザロ」の話です(19~31節)。

たとえ話には必ず強調される一つのポイントがあります。そのポイントからはずれて枝葉に関心が行くと、本筋から離れてしまいます。

 

「たとえ話」を解釈するうえでポイントが一つだということはとても重要で、注意しなければなりません。

 

死後、二人の状況は生前とは全く逆転しています。金持ちは「ハデス」で苦しんでいますが、貧乏人であったラザロは「アブラハムのふところ」で慰めを受けています。

 

「ハデス」と「アブラハムのふところ」の間には「大きな淵」があり、それを越えることはできません。また「ハデス」からも、「アブラハムのふところ」からも生きている人間のところにも行くことはできません。全く隔絶されています。

 

こうした運命の分かれ道をもたらした要因はいったいどこにあったのでしょうか。そこが「金持ちと貧乏人のラザロ」の話の最も重要な点です。

 

この話は「金の好きなパリサイ人」に語られた話であることを念頭に置く必要があります。

 

たとえ話に登場する「ある金持ち」は多くの良いものが与えられていましたが、自分の側にいる貧乏人に対しては全く無関心であったという点です。

 

ラザロの場合はどうであったか、聖書はなにも語っていません。焦点は「ある金持ち」に当てられているからです。

この話を通して、イエスは金銭を愛することの危険を警告していると信じます。

 

引用以上

 

 

蛇であり、まむしの末どものファリサイ派の人(パリサイ人)は、お金が大好きでした。

 

また、お金が有り余っていても、門前にいて助けを求めているラザロのような貧しい人々を見捨てている無慈悲で冷酷非道な人間でもありました。

 

そして「私の父はアブラハム」と思っていました。当時、ファリサイ派の人(パリサイ人)の中で「アブラハムの胸」という物語が流行していて、死んだらアブラハムの胸へ行くと信じていたそうです。

 

ですから、このルカによる福音書16章の地獄の話は、ファリサイ派の人(パリサイ人)たちに教えられていることは明白です。

 

 

ですので、もし、それをファリサイ派の人(パリサイ人)のことではなく、現在のイエス・キリストを信じない人々のことです。と教える人がいれば、完全なでっち上げだということがわかります。

 

私自身もそうですが、「アブラハム」の名前を聞いた時、「アブラムシ?」「食べ物の何とかハム?」などと想像したものです。

まさかアブラハムを父だと思ったことは一度もありません。

 

そして、ファリサイ派の人(パリサイ人)のように、「貧しい人々」を搾取し、かかわりを拒絶していたり、マモン(金銭)の奴隷となってもいません。

 

門前に助けを求めている人がいれば、助けます。

 

ですから、この聖書箇所で現在のイエス・キリストを信じない人々が地獄行きと教えていないので安心します。

 

また、まむしの末どものような人々が地獄へ行くのは仕方がないことだと思います。

 

 

しかしながら、この聖書箇所によって、イエス・キリストを信じない人々が死ねば陰府(ハデス)に行き、地獄の炎の中で苦しむという解釈をしている人々がいれば、

 

まず最初から「イエス・キリストを信じない人々は地獄行き」ということと「イエス・キリストは無慈悲で冷酷非道でもある」ということが土台にあり、それに基づく聖書解釈と福音理解をしているだけという事になります。

 

そういう教えを聞けば、特に純粋な小学生や中学生たちは気づいて、そのような恐ろしい教えをする人たちに気をつけるでしょう。

 

しかしながら、まったく気づかないどころか、信じる人が大勢いるのです。

 

長くなったので、次回へ続く