「日本におけるキリスト教 111 最後の審判とイエス・キリストを信じない人々について」
今回は予定を変更して、さらに前回までの内容について詳しく伝えることにしました。
109記事では、主イエスの来臨について、聖書のイエスさまの御言葉をそのまま信じれば次のようになりますと伝えました。
イエスさまは、大祭司たちが生存中に「来臨する」と言われたのに対して、聖霊に逆らう大祭司は「神への冒涜だ」と、「来臨」を否定したのです。
そして、使徒パウロが「私たち(使徒パウロたち)は主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、主の来臨時に、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」と教えた御言葉をそのまま信じれば、使徒パウロたちが生存中に「主の来臨」が成就します。
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さらに前回記事で紹介した御言葉です。
「イエスは弟子たちに言われた。 『わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。』マルコの福音書9章40~41節」
主の来臨が、主の御言葉通りに、大祭司と使徒パウロや使徒ヨハネたちが生存中に成就したことを信じれば、
この「あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」と言われた主の御言葉も成就したことが明確にわかります。
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それは主の来臨における最後の審判においてです。
主の来臨時に、使徒パウロや使徒ヨハネ、クリスチャンたちは引き上げられて、空中で主イエスと会います。
すると、地上にはノンクリスチャン(イエス・キリストを信じていない人々)だけが取り残されている状況になります。
その時の御言葉が次の御言葉です。
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたづねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイの福音書25章31~40節)
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このイエスさまが言われた「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」という事が起きたことが聖書には次のように書かれています。
「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。
その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。(使徒の働き8章1節)」
この教会に対する激しい迫害の時に、クリスチャンたち(イエスさまの兄弟たち)は逃亡生活に入りますが、その中でも最も小さい者たちは空腹であり、渇き、裸であり、宿もなく、病気にかかったりしながら、放浪の旅をしていました。
また、捕らえられて牢の中に入れられました。
その状況の時に、ノンクリスチャン(イエス・キリストを信じない人々)たちの行動は二つに分かれました。
激しい迫害が起きる前はこのような状況でした。
「また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。
ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。(使徒の働き5章12~13節)」
このクリスチャンの交わりに加わろうとしなかった人々は、つまりノンクリスチャン(イエス・キリストを信じない人々)ですが、使徒たちとクリスチャンたちを尊敬していました。
そして、尊敬する使徒たちとクリスチャンたちが激しい迫害にあっている時に、色々と助けたのです。
しかしながら、イエスさまが言われた通りに、水一杯を飲ませるだけが精いっぱいだった人も多かったのでしょう。
それから、その人々とは真逆の、もう一方のノンクリスチャン(イエス・キリストを信じない人々)は、クリスチャンたちを迫害して、助けを求めても見捨てたのです。
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ですから、来臨時の最後の審判では、「最も小さい者たちのひとりにしたのはわたしにしたのです。」と言われて「祝福された人よ。わたしの父の家にお入りなさい」と永遠の命に入れられました。
まさに、イエスさまの来臨は、激しい迫害の時にクリスチャンの中でも最も小さい者たちを助けてくれたノンクリスチャン(イエス・キリストを信じない人々)が生存中に行なわれたことがわかります。
そして、イエスさまが言われた「あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」という主の御言葉が成就したのです。
ものすごく感動しました。
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しかしながら、「主の来臨はまだです。これからです。」という聖書解釈と福音理解をしているなら、イエスさまの教えはものすごく奇怪で荒唐無稽なものになってしまいます。
イエスさまが来臨されて、最後の審判の基準が次の通りです。
『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。(マタイの福音書25章45~46節)」
すると、次の御言葉は何の意味もなくなってしまいます。
「 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネの福音書3章36節)」
この矛盾をどう解き明かすのか?ものすごく難解となります。
そもそも、前述のイエスさまの来臨の時についての教えを否定しているのですから、他の御言葉からも様々な矛盾が起こされています。
そして「のろい」の中にいるように、「ああでもない、こうでもない」と珍走してしまいます。
「これが正しい聖書解釈です!」というのが現われて、「それだ!」と多くの牧師やクリスチャンが食いつくのはいいが、何年かすれば、また他の聖書解釈が現われて、「それだ!」と食いつきを繰り返します。
それゆえ、口論や論争が絶えません。
これから現れる反キリスト(滅びの子)はローマ法王だと断言する牧師やクリスチャンたちもいますし、
また、反キリストによる大患難時代における主の空中再臨は、大患難時代前だとか、大患難時代後とかという、論争が過熱しています。
そして「主の来臨は近い!」ということも熱心に語られています。
それらの聖書解釈と福音理解は全部、どこかの聖書箇所を抜き取ったり、都合のいい御言葉を切り取って集めたり、
現状のイスラエルの状況や世界情勢を都合よく合わせながら、ああでもない、こうでもないというものです。
そして、進展することはなく、二転三転していたり、他の聖書解釈と福音理解に変わったりすることも珍しくありません。
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さて、話を戻しますが、
イエスさまの御言葉をそのまま信じれば、ノンクリスチャン(イエス・キリストを信じない人々)の中でも2つに分かれています。
一方は、イエスさまやクリスチャンたちに反対しない人々であり、使徒たちやクリスチャンたちを尊敬している人々です。
そして、人として、最も小さい者たちが助けを求めている時に助けています。
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もう一方が「悪魔が蒔いた毒麦」であり、「まむしの末」であるので、やみ(悪魔)を愛し、悪いことをしているので、光(イエス・キリスト)とクリスチャンたちを憎んでいる人々です。
次の御言葉通りです。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(ヨハネの福音書3章18~20節)」
そして、最も小さい者たちを迫害したり、見捨てます。
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このように、イエスさまの御言葉を否定せずに、誠実に純粋に信じていれば、大きな矛盾は起きませんし、聖書解釈と福音理解は1つにまとまります。
そして、祝福されるのです。
この日本でも、多くの人々に素晴らしい影響を与えているクリスチャンは、イエスさまの御言葉を否定せずに誠実に純粋に信じている人ばかりです。











