「日本におけるキリスト教 106 奇跡を行なうクリスチャンについて」 | ルーク4のブログ

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「日本におけるキリスト教 106 奇跡を行なうクリスチャンについて」

 

前回記事からの続きの聖書箇所を見ていきます。

 

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、

蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

 

この聖書箇所だけを切り取れば、イエス・キリストを信じたクリスチャンたちは皆、イエスの御名によって悪霊を追い出し、病人を癒すことが出来ると思います。

 

しかし、聖書をよく見れば、その聖書箇所の「信じる人々」=「11弟子」ということであり、11弟子が特別に手を置いたクリスチャンということが理解できます。

 

なぜなら、クリスチャンの中で、悪霊を追い出したり、病いを癒やしているのは11弟子と11弟子が特別に手を置いた7名の中のピリポ、そして使徒パウロだけなのですから。

 

もう1人「ステパノ」も不思議なわざと「しるし」を行なっていたので、病いを癒やしていたと解釈することが出来ます。

 

 

11弟子(イスカリオテのユダを除く)については次のように明確に教えられています。

 

「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。

 

さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、 熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。マタイによる福音書10章1~4節」

 

 

「また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。

 

ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。

そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。

 

ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。使徒の働き5章12~15節」

 

この聖書箇所を見れば、使徒たちだけが、多くのしるしと不思議なわざを人々の間で行うことが出来たことがわかります。

 

ですから病人たちは大通りで、使徒ペテロが通りかかるまで待つ必要があったのです。

 

もしも、イエス・キリストを信じた人々は皆、「しるし」を行なうことが出来たなら、「使徒たちの手によって」ということにはならないはずです。

 

また、病人たちが大通りに運び出されて、使徒ペテロが通りかかるまで待つ必要はありません。

他の多くのクリスチャンの誰か1人に頼めばいいのですから。

 

 

次に11弟子以外に、悪霊を追い出したり、病いを癒やしたりする「しるし」を行なっているクリスチャンがいるのか調べてみました。

 

「この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、

この人たちを使徒たちの前に立たせて、そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。

 

こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。

 

さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。使徒の働き6章5~8節」

 

 

「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

群集はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。

 

汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。

それでその町に大きな喜びが起こった。使徒の働き8章5~8節」

 

 

その11弟子(当時、マッテヤという弟子がイスカリオテのユダの代わりに抜擢されて12弟子となっていた)が手を置いたピリポは「しるし」を行なっていました。

 

多くの人たちの悪霊を追い出し、多くの人たちの病いは直されたのです。

 

それで、サマリヤの人々はイエス・キリストを信じて、バプテスマを受けていたのですが、聖霊が与えられなかったのです。

なので、使徒たちに依り頼む必要があったのです。

 

「ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。

 

シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。

 

さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。

ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。

 

彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 

使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、

「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。

 

ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。」(使徒の働き8章12~20節)

 

 

シモンの金で神の賜物を手に入れようと思っているのは論外ですが、「しるし」を行なっているピリポでさえ、聖霊を授ける権威がなかったのです。

 

当然ながら、ピリポの「しるし」を通して、イエス・キリストを信じた人々が、ピリポと同じ「しるし」を授けられるはずがないと言えるでしょう。

 

 

聖書を見れば「しるし」を行なえたのは、11弟子とピリポとステパノ、使徒パウロとバルナバだけです。

 

残念ながら、他のクリスチャンが「しるし」を行なったという記述は、聖書のどこにも書かれていないのです。

 

ですので、イエスさまは次のように警告されたのです。

 

「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

 

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

 

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。マタイによる福音書7章20~24節」

 

 

悪霊を追い出したり、病いを直すことは素晴らしいことです。

 

その事をイエスさまに切に祈り、癒やしを求めなさいと聖書は教えています。

 

しかし、それは「しるし」ではなく、神さまとその人との関係だということです。

 

私たちは、イエスさまから特別に「しるし」を授けられた11弟子やピリポ、ステパノ、使徒パウロ、バルナバと同じクリスチャンではないことを素直に認めなければ、非常に恐ろしいことになります。

 

なぜなら、現在、「私は、11弟子と同じような信仰者です」というように、病いを癒やしたりする「しるし」を行なえると自負していたり、目指したりするクリスチャンたちが大勢いるからです。

 

次回はその事について、さらに見ていきます。