「日本におけるキリスト教 107 しるしを要求するユダヤ人と日本人は違うことについて」
今回はそもそも、どうして主イエス・キリストは、イスラエルの地での福音宣教において「奇跡としるし」を成されたのかを見ていきます。
「ユダヤ人はしるしを要求し、第一コリント1:22」という理由は、イスラエルの神がモーセのような預言者一人(キリスト)を立てると預言され、だれでも彼の言葉に聞き従わない者は責任を追及すると命じられたからです。
「主はそのときわたし(モーセ)に言われた。『彼らの言うことはもっともである。 わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。
彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。』申命記18章17~19節」
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イスラエルの神は、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を救い出すリーダー信仰者にモーセを選ばれました。
しかし、その事をイスラエルの民が信じることができるのか?と懐疑的なモーセに、イスラエルの神は「神から遣わされたという奇跡としるし」を与えられたのです。
「モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現れなかった』と言うでしょうから。」
主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」
すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。
主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。
「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」
主はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。
また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。
「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。
もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。出エジプト4章1~9節」
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イスラエルの神が、イスラエルの民を救い出されたのは「奇跡としるし」が伴いました。
紅海が真っ二つに分かれて、イスラエルの民は海の底を歩いて脱出に成功した話は有名ですね。
それゆえ、ユダヤ人はしるしを要求しましたし、主イエス・キリストが救世主キリストである証明として、奇跡としるしを行なわれました。
「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。
それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。ヨハネによる福音書10章37~39」
ですから、イスラエルの地での福音宣教は次の通りです。
奇跡としるしを体験したり、見たりした大勢の群衆がイエスにつき従いました。
「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。
こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群集がイエスにつき従った。マタイによる福音書4章23~25」
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しかしながら、「異邦人」は、イスラエルの神がモーセを通して、奇跡としるしを行なわれることによって、イスラエルの民を救い出されたという話は関係ありませんし、他人事です。
ですから、異邦人のところへの福音宣教に遣わされた使徒パウロとバルナバも初めは「奇跡としるし」を行なう福音宣教でしたが、次のような事になりました。
(前回記事で、奇跡としるしを行なう限られた信仰者の中に、バルナバの名前を一緒に書いていたつもりが、うっかり書き忘れたので、きちんと書いておきます。)
イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人々が信仰に入った。
しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。
それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。
ところが、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。
異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てたとき、
ふたりはそれを知って、ルカオニヤの町であるルステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、そこで福音の宣教を続けた。
ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。
この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、
大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。
パウロのしたことを見た群集は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。
そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。
すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群集といっしょに、いけにえをささげようとした。
これが聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群集の中に駆け込み、叫びながら、言った。『皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。
そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。』使徒の働き14章1~15」
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このように、異邦人の場合は、しるしを要求するイスラエルと民とはまったく違う結果になります。
ですから、使徒パウロは福音宣教において「奇跡としるし」を基本的に封印するようになります。
使徒の働き17章~18章でのテサロニケ、べレヤ、アテネ、コリントでは「奇跡としるし」を行なわない福音宣教になっています。
そして、使徒の働き19章のエペソでの福音宣教においても次の通りです。
「それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。
しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。
これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。
神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。
パウロの身に付けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」
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パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めたのです。
それから後、毎日ツラノの講堂で論じた。これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。という福音宣教でした。
ところが、神がパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれたのでした。
イスラエルの地において、11弟子たちの福音宣教は、
「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」という福音宣教でした。
初めから「奇跡としるし」が伴っているのです。
「しるし」によって旧約聖書に記されている御言葉を確かなものとされました。
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なので、旧約聖書の教えなど知らない人が圧倒的に多い「現代の日本」で、もし驚くべき「奇跡としるし」を行なう人物が出現したら、その人物が「神」のように崇められるでしょう。
当然に日本人は、聖書のイスラエルの民とは違って、「奇跡としるし」は、イエス・キリストには繋がりません。
また、イエスさま御自身が、イスラエルの民にこのように言われました。
「 イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。『なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。』マルコ 8:12 」
「さて、群衆の数がふえてくると、イエスは話し始められた。『この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。』ルカの福音書11章29-32節」
ですので、この御言葉が現代の世界及び日本にとって重要なことがわかります。
そして、決定的なことを次回に見ていきましょう。
すると、イエス・キリストの来臨も使徒パウロたちが空中で主と会ったという御言葉が既に成就していることにも繋がっていることがわかります。