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ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教 121 子どもたちをつまずかせる聖書解釈と福音理解について」

 

以前、仏教が教える「地獄絵本」がブームとなり、子どもの教育に取り入れられていますが、次のように警告する専門家たちも少なくありません。

 

「地獄絵本は、特定の教育者たちの間で、幼児教育の一環として活用されることがあります。

 

その思想の根底には、「言うことを聞かない子供には地獄の恐怖を教えることで、行動改善が見込める」という認識が存在します。

 

しかしながら、この教育方法には、子供たちの心に深い恐怖心を植え付けるという重大な問題が潜んでいます。

 

この地獄絵本を用いた教育方法は、恐怖を利用した指導法の一種であり、子供たちに対する強烈な精神的プレッシャーを生み出す可能性があります。

 

子供たちは、その年齢から来る感受性の高さと、現実とフィクションの区別がつきにくいという特性から、地獄絵本の恐ろしい描写を現実と捉え、深い恐怖を感じる可能性があります。

 

このような恐怖は、子供たちの心に深く刻まれ、長期的な精神的なトラウマを引き起こす可能性があるのです。

 

したがって、地獄絵本を利用した教育方法は、子供たちの精神的健康に悪影響を及ぼす可能性があるという問題があります。」

 

引用以上

 

 

私自身も、小学生の子どもの時に修学旅行で行った寺で、住職さんが教える地獄の教えによってトラウマになりました。

大人になってからも「仏教」の寺や神社を見ると怖いです。

 

 

しかし、この仏教の地獄行きの教えと、イエス・キリストの教えとはまるで違います。

 

聖書にはイエスさまが弟子たちに対して、子どもをつまずかせることについては、地獄行きぐらいの大罪になると警告されたのです。

 

「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼ら(十二弟子)の真ん中に立たせて、言われた。

 

「まことに、あながたがに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。

 

だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

 

また、だれでも、このような子どもひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。

 

しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

 

つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。

 

もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまづかせるなら、それを切って捨てなさい。

 

片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

 

マタイの福音書18章2~8節」

 

 

仏教の教えは、子どもたちに地獄行きを教えます。

悪いことをすれば地獄へ行く。地獄へ行くとこんなに恐ろしいことになるぞ!と警告して、悪いことをやめさせるのです。

 

ところが、イエス・キリストの教えは、弟子たち、すなわちクリスチャンたちに、

 

「この小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましであり、永遠の火に投げ込まれます。」という教えです。

 

 

ですから、もしも、キリスト教会の教会学校で、地獄行きの話によって、子どもたちをつまずかせると、その教会学校の教師たちは永遠の火に投げ込まれるという覚悟をもつ必要があるでしょう。

 

 

ちなみに、仏教の「地獄絵本」がブームとなった時に、小学校の帰りに「キリスト教の教えをまとめた小冊子」をもらったことを思い出した人たちがSNSで「キリスト教のほうがめちゃくちゃ恐ろしい」というように盛り上がっていました。

 

なぜなら、「イエス・キリストを信じていない人々は永遠の火に投げ込まれる」ということを恐ろしすぎる絵と文によって教えていたからです。

 

 

子どもの時にそのキリストの教えによって、「僕(私)もお母さんもお父さんもおばあちゃんもおじいちゃんも友達もみんな、イエス・キリストを信じていないから、地獄へ行っちゃうよ~怖いよ~」と泣いていた思い出を何人かで話して盛り上がっていました。

 

そのSNSを拝見した人たちもコメントで「自分も家族も友達もみんな揃って地獄へ投げ込むという教えは恐ろしすぎる~キリストは神ではなくて悪魔や!」というようなことを発信していました。

 

 

私自身はプロテスタント福音派の教会で、「イエス・キリストを信じていない人々は地獄へ行く。」という話を高校生の時に聞きましたが、目の前が真っ暗闇になるくらいの衝撃を受けました。

 

数年前にFacebookクリスチャングループで知り合ったある人は「大好きだったお父さんとおばあちゃんが高校生の時に亡くなって、深い悲しみの中でした。

 

大学生の時にキリスト教会の牧師たちから聞いた「イエス・キリストを信じていない人々は地獄へ行く」という教えによって、耐えられない深い傷を負って、精神病院を入退院を繰り返していました。

 

 

私は無教会の内村鑑三先生の聖書解釈と福音理解によって、現在の日本のイエス・キリストを信じていない人々は地獄へ行かないことを知りました。

 

そして、自分自身でも聖書を徹底的に調べて、現在の日本のイエス・キリストを信じていない人々は地獄へは行かないことを確信したので、こうしてブログ記事で発信しています。

 

 

「日本におけるキリスト教 116 」から続いていますが、聖書の教えで地獄へ行く人々というのは、子どもたちにもわかりやすく教えれば、

 

「悪魔が蒔いた毒麦・まむしの末ども」が地獄へ行きます。

 

その理由は、何度も繰り返しますが、きちんとイエスさまは具体的に次のように教えています。

 

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、

 

『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。

 

こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。

 

おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

 

マタイの福音書23章29~33節」

 

 

つまり、預言者を殺した者たちの子孫である「まむしの末ども」は、父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たすから、地獄へ行くのです。

 

そして、「父祖たちの罪の目盛りの不足分」とは、

 

イエス・キリストを殺すことと、

イエス・キリストを恐ろしい悪魔のように教えて、他の人々がイエス・キリストを信じさせないようにすることでした。

 

それは聖霊を汚すことになるので、地獄へ行くのです。

 

 

そのことをイエスさまは次のように具体的に教えておられます。

 

また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、

 

「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

 

そこえイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。

 

「サタン(悪魔)がどうしてサタンを追い出せましょう。

 

もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。

また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。

 

サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。

 

確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。

 

まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。

 

また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。

 

しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

 

このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

 

マルコの福音書3章22~30節

 

 

このように、聖霊を汚す者たちは、イエスさまを悪霊どものかしらサタン(悪魔)のように教えて、他の人たちがイエス・キリストを信じさせないようにしたのです。

 

この当時は、新約聖書はなかったので、聖霊を汚す者たちは、イエスさまがサタン(悪魔)のように教えることが出来ました。

 

しかし現在は、新約聖書は世界№1のベストセラーと言われるくらいに全世界に普及しているので、イエスさまをサタン(悪魔)だと教えることは出来ません。

 

ですが、聖書の御言葉を曲解させて、聖書解釈と福音理解によって、イエス・キリストを冷酷非道な恐ろしい悪魔のような神に思わせることは可能です。

 

隣人に対して、表向きは神は愛だと教えながら、まるで詐欺師のように、巧妙に言葉巧みに、イエス・キリストを冷酷非道な恐ろしい悪魔のような神のように教えることによって、イエス・キリストを信じさせないようにするのです。

 

 

実は聖書の「悪魔が蒔いた毒麦・まむしの末ども」は、現在で言えば、教会の牧師・神父・宣教師・伝道師・教会学校の教師という立場の人が多いと、イエスさまは教えています。

 

そのとき、イエスは群集と弟子たちに話をして、こう言われた。

「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。

 

ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。

けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」

マタイの福音書23章1~3節

 

 

そして、弟子たちの中にも悪魔から出た者であり、聖霊を汚す者がいたので、このように教えられたのです。

 

しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

 

つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。

 

もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまづかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 120 神に敵対している者ですが、神に愛されているという教えについて」

 

聖書が教えている「イエス・キリストを信じていない人々」について、さらに見ていきます。

 

これまで見てきたように、新約聖書において、イエス・キリストを信じていない人々について、2つの人種があります。

 

その2つの人種はまったく違います。

 

その1つの人種は、「悪魔が蒔いた毒麦であり、まむしの末ども」で、最後の審判では、イエスさまから「のろわれた者ども」と言われて、父親の悪魔と共に用意された永遠の火に入ります。

 

その理由は、これまで何度も伝えているこの御言葉です。

 

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、

 

『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。

 

こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。

 

おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

マタイの福音書23章29~33節」

 

 

つまり「まむしの末ども」というのは、「預言者を殺した者たちの子孫」という事であり、父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たすので、ゲヘナの刑罰がのがれることができないと教えられています。

 

 

次にもう一方の「イエス・キリストを信じていない人々」については、次のように教えられています。

 

「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。

 

神の賜物と召命とは変わることがありません。

 

ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、

 

彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

 

なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

 

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。

 

そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

ローマ人への手紙11章28~33節」

 

 

「まむしの末ども」とは違う一方の「イエス・キリストを信じていない人々」は、福音によれば、クリスチャンたちのゆえに、神に敵対している者になります。

 

ですが、神の選びによれば、父祖たちのゆえに、「神に愛されている者」になると明確に教えられているのです。

 

さらに、神さまは、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのです。

 

ですから、生まれながらの人間が、本当の神さまを知らずのままに生きて、神さまに不従順だとしても、それは至極当然だと言えるでしょう。

 

このローマ人への手紙11章28~33節は、この御言葉から始まります。

 

「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。

 

それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

 

こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。

 

これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。ローマ人への手紙11章25~27節」

 

 

「万人救済」を説く「無教会の内村鑑三」先生の聖書解釈と福音理解は、これらの御言葉を根拠の1つとして万人救済を宣べ伝えていることがひしひしと伝わります。

 

繰り返して伝えます。

 

「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

こうして、イスラエルはみな救われる。

 

神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

 

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。

そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」

 

 

そして、イエスさまは、その「悪魔が蒔いた毒麦・まむしの末ども」については、

 

「毒麦も収穫まで育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にします。」

 

「彼らのことは放っておきなさい、」と教えられています。

 

つまり、「悪魔が蒔いた毒麦・まむしの末ども・のろわれた者ども」については救いません。

 

永遠の火に入れられます。

 

 

もう一方の大勢いる「イエス・キリストを信じていない人々」については、

 

「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。

神の賜物と召命とは変わることがありません。」と教えられています。

 

なので、福音によれば、クリスチャンたちのゆえに、神に敵対していても、神の選びによれば、神に愛されている者たちです。

 

それゆえ、イエス・キリストを信じていない人々であっても、神に愛されている者たちであり、そのまま死ぬことがあっても、のろわれた者どものように永遠の火に入ることはないでしょう。

 

神に愛されている者たちは「正しい人たち」であり、最も小さい者の1人が助けを求めていれば、助けてあげようとする善良な資質を持っているのですから。

 

 

現在の日本において、日本人は、この2つの人種のどちらに当てはまるかと言えば、

 

日本人は、預言者を殺した者たちの子孫ではないし、父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たそうとしていません。

 

ですから、「悪魔が蒔いた毒麦・まむしの末ども」ではないことが明らかです。

 

それを、現在の日本において、「イエス・キリストを信じていない人々」を、地獄行きの「悪魔が蒔いた毒麦・まむしの末ども」と同類にして教えているならば、非常に恐ろしいことになるのです。

 

つづく

 

3人、テキストの画像のようです

 

 

「日本におけるキリスト教 119 イエス・キリストを悪魔のような神にしてしまう聖書解釈と福音理解」

 

台風10号が接近していますが、皆さんが無事に過ごせるようにお祈りしています。

 

さて、この世に生きていると、何事にもそれぞれにあわせることが必要不可欠です。

 

会社でも新入社員には新入社員に対しての教えがありますし、ベテラン社員と求められることが違って当然です。

 

それは「家族」も同じです。家の大切なことに対して、子供がまだ小さければ、教えないことが多いです。

 

そして「宗教」もそうです。教会に来る「未信者(イエス・キリストを信じない人々)」は未信者として扱われるのは当然です。

 

ですが未信者の方々にも「新約聖書」を渡して「どうぞ、読んでください」とプレゼントする教会は多いです。

 

すべての教会が聖書をプレゼントしたいと思っているのではないでしょうか。

 

 

そして、未信者の方々が聖書を読むとき、このように思わないでしょうか?

 

「イエス・キリストという神さまは、未信者(イエス・キリストを信じていない人々)に対して、どのような教えをされているのか?」ということです。

 

そして、そのような主観で読んでいくと、とんでもなく恐ろしいことになります。

 

なぜなら、新約聖書において、メインとなる「イエス・キリストを信じていない人々」というのは、「悪魔が蒔いた毒麦であり、蛇ども、まむしの末ども」と言われる人々なのですから。

 

 

それでは、新約聖書において、メインとなるイエスさまを信じていない人々である「悪魔が蒔いた毒麦であり、蛇ども、まむしの末ども」に対して教えていることをピックアップしてみます。

 

新約聖書の最初「マタイの福音書」

 

「しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。

 

「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

 

『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。

あなたがたに言っておくが、神はこの石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

 

斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

 

マタイの福音書3章7~10節

 

 

わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。

 

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。

 

また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。

 

しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

 

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。

 

まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。

 

良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。

マタイの福音書12章30~35節

 

 

それから、イエスは群集と別れて家に入られた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。

 

イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。

畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。

 

毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。

 

ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。

 

人の子はその御使いたちを遣わします。

 

彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、

火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

 

マタイの福音書13章36~42節

 

 

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。

 

自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。(マタイの福音書23章13節)

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。(マタイの福音書23章33節)

 

それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。

 

『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。(マタイの福音書25章41節)

 

 

マタイの福音書を読めば、イエスさまを信じていない人々であるまむしの末どもにおいて、終始一貫として「神の御怒り・神の裁き・地獄行き」が教えられています。

 

そのイエスさまを信じていない人々に対しては「神の愛・あわれみ・恵み」の教えは一切ありません。

 

 

繰り返しますが、イエスさまは、イエスさまを信じていない人々であるまむしの末どもに対して「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」と宣告されました。

 

またイエスさまは「毒麦」とも言われて、次のように説明されています。

 

「毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。

 

毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。

 

ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。」

 

その事について、さらに詳しく次のように教えられました。

 

「イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。

 

なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。

 

あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。

 

あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。

 

悪魔は初めから人殺しであり、真理には立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。

 

彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

 

しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。ヨハネの福音書8章42~45節」

 

 

そして最後の審判では次のように冷酷非道に宣告されます。

 

『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。』

 

 

このように、新約聖書において、「イエスさまを信じていない人々」であるまむしの末どもに対して、イエスさまは終始一貫として冷酷非道の対応であります。

 

特に「最後の審判」というのは、人が地上での人生の終わりという時です。

 

この日本では「武士の情け」という言葉があります。

 

「武士の情け」とは、弱者への憐れみ、温情の気持ちを意味する言葉です。

 

どんなに悪かった人であっても、死ぬときは「弱者」のような状態です。

 

そのような死を目前にした悪い人に対して、心では「お前のようなヤツは地獄行きだ!」という言葉を言い放ってやりたくても、「あわれみや温情の気持ち」が上回るのが人間というものです。

 

 

まして、人間としての考えでは、悪い人が死ぬ時に、神さまがどのような言葉を言われるのか。

 

それは人間以上の「あわれみ」の言葉だと思います。

 

例えば、「イエス・キリストを信じていない人々は地獄へ行く」ということであっても、神さまの最後の言葉は「愛する者よ」になると思います。

 

「愛する者よ。まことにまことに残念無念であるが、永遠の火に入ってしまうのだよ。」という言葉を想像します。

 

すべての人は神さまが創造されたのであれば、すべての人は「愛する者」であるはずです。

 

それが最後の審判において、イエスさまは「のろわれた者ども」と言い放たれたのです。

 

まったくと言っていいほど「神の愛・あわれみ」を感じません。

 

 

まさにこの御言葉通りです。

 

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」

 

ですから、悪魔の子は、父である悪魔と共に永遠の火に入ることが定められた運命なのでしょう。

 

イエスさまは、父である悪魔から出た者(毒麦)に対して「毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。」と断言されているのですから。

 

最後の審判において「のろわれた者ども」と言われるのは至極当然でしょう。

 

 

ですので、もしも、イエス・キリストを信じていない人が「イエス・キリストを信じる以外に救いはない。

 

イエス・キリストを信じれば天国である。人間は死ねば天国か地獄です」という教えを聞いて、

 

イエス・キリストを信じていない人という立場で、新約聖書を読めば、

 

新約聖書において、イエス・キリストを信じていない人というのは「悪魔が蒔いた毒麦であり、まむしの末ども」のことだと思っても当然です。

 

私がプロテスタント福音派の教会にいた時の経験上、現実に求道中の中で、そういう人が何人もいました。

 

そして「イエス・キリストを信じていない人々にとっては、イエス・キリストはなんて冷酷非道であり、悪魔のような神だ!聖書を読んでわかった!」と言い放たれたものでした。

 

その時は、何でそういう聖書解釈と福音理解になるのか理解できませんでしたが、今なら明確によくわかります。

 

 

その時に理解できなかったのは何故か?

 

実は教会の牧師・宣教師・伝道師・信徒リーダーたちの一致した神学(聖書解釈と福音理解)の教えによって、マインドコントロールされていたのです。

 

つづく

 

 

 

「日本におけるキリスト教 118 イエス・キリストの教えに聞き従っているクリスチャンか確認します。」

 

このブログ記事は、無名で何の宣伝力もない私が書いているのですが、アクセス解析をみますと、前々回の116の記事から劇的に観覧者が増えたので驚いています。

 

ただ、投稿記事の内容は、既成のキリスト教会の牧師たちの教えとはまるで違うので、聞いたことがない聖書解釈と福音理解となっているために「いいね!」の数は減少しているのは当然でしょう。

 

そして、聖書の御言葉をそのまま引用して、私的解釈を施さないので、まるで違う教えであっても、誰も批判、非難、反証ができないのが大きな特徴です。

 

 

本題に入ります。

 

前回の続きですが、福音宣教において最も重要なことなので、この御言葉をさらに深堀りします。

 

「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。

 

『民の議員、また長老の方々、 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。

 

この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。

 

この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。

 

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 (使徒言行録 4章8~12節)」

 

 

この御言葉は、メシヤ(救世主)がエルサレムに到来することを待ち望んでいるイスラエルの民全体にとって、永遠の命に入るか、永遠の刑罰に入るか、ということが決まるほど重要でした。

 

なぜなら、主イエス・キリストがエルサレムに到来しましたが、メシヤ(救世主)と認めずに殺しました。

 

それから、次に滅びの子(偽メシヤ(救世主))がエルサレムに到来して、第二神殿の座に座って「メシヤ(救世主)」を宣言するからです。

 

イエスさまが殺された後に、再び地上に来られる来臨の時は、イエスさまを殺した者たちが生存中だとイエスさまは明確に教えられました。

 

それはイエスさまが捕らえられて、死刑にするための全議会においてでした。

 

「しかし、イエスは黙っておられた。それで大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

 

イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

 

すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒瀆だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。

 

マタイの福音書26章63~65節

 

 

もう一度、イエスさまが断言されたことを繰り返します。

「なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

 

つまり、イエスさまを「神を冒瀆した者」として殺した者たちが生存中に、天の雲に乗って来臨されるのを見ることになるのです。

 

その、主の来臨前に、不法の人=滅びの子(偽メシヤ(救世主)がエルサレムに到来します。

 

「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。

 

彼は、すべての神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。テサロニケ人への手紙 第二 2章3~4節」

 

 

その続きです。

 

「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、

また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。

 

なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

 

それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

 

それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

テサロニケ人への手紙 第二 2章9~12節

 

 

ヨハネの黙示録には、次のように書かれています。

 

「この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。

 

そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。

 

彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

 

地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名を書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。

耳のある者は聞きなさい。

 

ヨハネの黙示録13章5~9節」

 

 

この二つの御言葉の教えは、言い方は違うけれど一致しています。

 

「また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

 

それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

 

それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」

 

「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名を書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」

 

 

すなわち、エルサレムに到来された主イエス・キリストをメシヤ(救世主)と信じずに殺した者たちは、神が惑わす力を送り込まれます。

 

不法の人=滅びの子(偽メシヤ(救世主)が、エルサレムに到来して第二神殿に座すと、信じて拝むようになります。

 

そして、永遠の火に投げ込まれるのです。

 

「 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、

 

そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

 

そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

ヨハネの黙示録14章9~11節」

 

 

このように、イスラエルの民全体において、エルサレムに到来された主イエス・キリストをメシヤ(救世主)と信じない者たちが生存中に、その後にエルサレムに到来した不法の人=滅びの子(偽メシヤ)を信じて拝するようになり、永遠の火に投げ込まれます。

 

なので、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」という福音宣教は最も重要でした。

 

 

そして、クリスチャンたちは、その永遠の火に投げ込まれる、つまり地獄に行くのろわれた者どもに対して、どのようにすればよいか、イエスさまは次のように教えられました。

 

「そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」

 

しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。

 

彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。

マタイの福音書15章12~14節」

 

 

イエスさまは、「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。」と教えられました。

 

使徒たち、クリスチャンたちは、そのイエスさまの教えに聞き従いました。

 

つまり、地獄に行く彼らは放っておくことが、神に聞き従うことです。

 

 

そして、現在の日本ですが、エルサレムに到来された主イエス・キリストのことをよく知らないので、信じることはありませんが、エルサレムに到来した不法の人=滅びの子(偽メシヤ)を信じて拝むこともありません。

 

すると最後の審判の基準は、

 

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

という善良な資質を持っているか、持っていないかという基準になります。

 

次の御言葉通りです。

 

「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

 

彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています

ローマ人への手紙 2章14~15節」

 

 

このように、聖書の教えを詳しくみていくと、イエスさまの御言葉に聞き従うクリスチャンたちは、御霊の実を結ばせることがわかります。

 

それゆえ、教会での教えや福音宣教において、聖霊の働きに反する、不安、恐れ、憤り、怒り、敵意、争いなどは起きません。

 

しかしながら、イエスさまの教えに聞き従わず、聖書の時代のイスラエルの民全体に教えられている教えを、現在の日本の民に教えている教えにしてしまえば、聖霊の働きに反する不安、恐れ、憤り、怒り、敵意、争いなどが起きるのです。

 

そして、イエス・キリストを冷酷非道な悪魔のような神に仕立て上げてしまうのです。

 

次回は、その事について見て行きます。

 

「日本におけるキリスト教 117 イエス・キリストから見捨てられるクリスチャンたちについて」

 

使徒パウロは「福音を伝えるクリスチャンたち」とはどのような者であるべきかを、次のように具体的に教えています。

 

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。

 

ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。

 

律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

 

また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。

 

弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。

 

何とかして何人かでも救うためです。

 

福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。第一コリント9章19~23節」

 

 

この教えは、世の中の常識から考えても「至極当然の教え」です。

 

世界を見ましても、日本の憲法や常識とは異なる国がいくつもあります。

 

北朝鮮では、金 正恩(第3代最高指導者・朝鮮労働党総書記)は神のような存在として、将軍様と崇拝しなければなりません。

 

もし批判の声をあげているのが通報されれば、捕らえられて消息不明になります。

 

しかし、日本や他国では金 正恩を軽蔑する人が多く、

 

「早急に拉致した人たちを返せ!」

 

「何億円もする弾道ミサイルを何十発も発射するのを直ちに中止して、そういう大金があるなら、北朝鮮の飢餓で苦しむ貧しい人々を救え!」という声を高らかにしている人も多いです。

 

それぞれの国があり、それぞれの国の教えは違うことがあり、それぞれに合わせて対応しなければ、理解することは不可能です。

 

 

聖書を読めば、主イエス・キリストの教えもそうです。

 

イエスさまは12弟子を福音宣教に遣わされる時、次のように命じました。

 

「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。

 

イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。マタイの福音書10章5~7節」

 

この教えの大きな理由は、イスラエルのエルサレムにメシヤ(救世主)が来られると信じているイスラエルの民と、サマリヤにあるゲリジム山にメシヤ(救世主)が戻って来ることを信じているというサマリヤ人、

 

そして、メシヤ(救世主)がエルサレムに来るという話は聞いたことがないし、もし聞いたとしても他人事のように思う異邦人と、それぞれの違いがあるために、教える福音宣教が異なるからでした。

 

 

イエスさまは、12弟子たちにはサマリヤ人の町に入るなと命じられましたが、単独で行かれて、サマリヤ人の女性に、サマリヤ人が受け入れられる福音宣教を成されました。

 

サマリヤ人の女性は言いました。「私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

 

イエスは彼女に言われた。「私の言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

 

救いはユダヤ人から出るものですから、あなたがたは知らないで礼拝しています。

 

しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。ヨハネの福音書4章5~25節」

 

 

ここで、イスラエルの民がメシヤ(救世主)を求める理由について、リゴニア・ミニストリーズがわかりやすく聖書から解説しているので、引用します。

 

「イスラエルの民がメシヤ(救世主)を求める理由は、彼らの歴史と宗教的な期待に深く根ざしています。以下のポイントが挙げられます:

 

① 預言者の予言:旧約聖書の預言者たちは、将来イスラエルを救う救世主が現れると予言しました。

 

これにより、イスラエルの民はメシヤの到来を待ち望むようになりました。

 

② 王としてのメシヤ:メシヤは「油を注がれた者」という意味で、特に王を指す言葉です。

 

イスラエルの民は、ダビデ王の血筋から出る王が再び現れ、彼らを統治し、平和と正義をもたらすと信じています。

 

③ 救済と回復:メシヤはイスラエルの民を敵から救い、彼らの国を回復し、神の約束を成就する存在とされています。

 

特に、ローマ帝国の支配下にあった時代には、この期待が強まりました。

 

④ 宗教的儀式と信仰:クムラン共同体などの一部のユダヤ教徒は、メシヤが祭司的な役割を果たし、宗教的儀式や律法を完全に守る存在であると期待していました。

 

これらの理由から、イスラエルの民はメシヤの到来を強く求め続けています。」

 

引用以上

 

 

このように、聖書の時代においても、イスラエルの民はメシヤ(救世主)の到来を強く求め続けていました。

 

ですから、地上に到来したメシヤ(救世主)が、イエス・キリストであるか、そうではないかという問題は、イスラエルの民にとっては人生において最も重要で、最も大切な問題でした。

 

前回記事で紹介した御言葉もそのことを痛感します。

 

「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。

 

『民の議員、また長老の方々、 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。

 

この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。

 

この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。

 

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 (使徒言行録 4章8~12節)」

 

 

まず使徒ペテロは、「主イエス・キリストを殺した人々もイスラエルの民全体も知っていただきたい」と具体的に名指ししてから教えています。

 

主イエス・キリストは偽メシヤ(救世主)だと決めつけて殺した人々とイスラエルの民全体に対して、次のように教えることが福音宣教の真髄でした。

 

「主イエス・キリストこそ、イスラエルの民全体が待ち望んでいたメシヤ(救世主)であり、他にメシヤ(救世主)はいません。

わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 

 

そして、当然ながら、聖書の使徒たち、クリスチャンたちは、異邦人やサマリヤ人に対しては、この教えをするはずがありませんでした。

 

異邦人たちは、メシヤ(救世主)がイスラエルのエルサレムに到来する話など知らないし、聞いたとしても「へぇ~」「それが何か?」という感じになるでしょう。

 

現在の日本でも同じです。

 

誰かに「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名「イエス・キリスト」のほか、人間には与えられていないのです。」ということを教えられても、理解することはできません。

 

なぜなら、メシヤ(救世主)がエルサレムに到来することを待ち望んでいないからです。

 

そもそもイスラエルの民全体とは違い、

「メシヤ(救世主)って何や?」ということです。

 

「メシヤより飯しや!」と言う人も少なくないでしょう。

 

メシヤ(救世主)よりも、飯し(ごはん)を食べることのほうが大切だと思います。

 

 

ですから聖書は前述のこの御言葉を明確に教えているのです。

 

ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。

 

律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

 

また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。

 

弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。

何とかして何人かでも救うためです。

 

 

ですからメシヤ(救世主)のエルサレム到来を待ち望んでいるイスラエルの民全体と、メシヤ(救世主)を待ち望んでいない現在の日本人に対する福音宣教はまるで違うことがあるのです。

 

 

一致することの福音宣教の真髄は「神は愛」「隣人を愛しなさい」「互いに愛し合いなさい」という「愛」の教えです。

 

 

そして、この御言葉に逆らって、現在の日本で、メシヤ(救世主)を待ち望んでいない人々に対して、

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

 

イエス・キリストを信じる以外に救いはない!」と教えることは、非常に恐ろしいことになります。

 

イエスさまの来臨時に「わたしから離れて行け!」と言われる大勢のクリスチャンの1人になるかもしれません。

 

そのことが聖書に明確に教えられています。

 

次はその事について詳細に見ていきます。

 

「日本におけるキリスト教 116 天国行きの救いについて」

 

まずは、これまでのことを整理します。

 

聖書が教えるイエス・キリストの来臨時の日は、神の子(クリスチャン)たちは空中に引き上げられて、主イエスと会います。(第一テサロニケ4章15~17節)

 

その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。(第二テサロニケ2章8節)

 

不法の人(反キリスト・滅びの子)が「キリスト(メシヤ)」だと宣教していた偽預言者たちは火の池(地獄)に生きたまま投げ込まれました。(黙示録19章20節)

 

そして、偽預言者に聞き従って、反キリストを崇拝していた人々も最後の審判で火の池(地獄)に投げ込まれました。(黙示録13章8節、14章9~11、20章14節)

 

 

また、その日(来臨時)に、地上に残された主イエス・キリストを「主」と言っていたクリスチャンたちが大勢いましたが、次のように宣告されます。

 

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

 

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイの福音書7章21~23節)

 

 

それからイエスさまは、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。

 

おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

 

 

聖書が教えていることをすべて肯定すれば、このようにきちんと整理をすることができます。

 

イエスさまは、それぞれに、どのような理由で救われて天国行きなのか、どのような理由で地獄に投げ込まれるのかを明確に教えられています。

 

ちなみに、イエスを主と言っているクリスチャンの中でも、空中に引き上げられる神の子たちと、残されて「わたしから離れて行け!」と宣告される者たちは何が違うのかも次のように明確に教えています。

 

「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。

 

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。

 

これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1章13~14節)」

 

つまり、救いの福音を聞いて信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。

 

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。ということです。

 

そして、その真逆に、不法を行ない、聖霊に逆らっている大勢の者たちが、地上に残されて、「わたしから離れて行け!」と宣告されるのです。

 

 

そして、救いの福音を生前に聞かなかった人たちや、間違ったキリストの教えによって、信じることができなかった人たち、他にも様々な理由があって、イエス・キリストを信じなかった人々も大勢います。

 

日本では約99%の人々が、イエス・キリストを信じていないと言われています。

 

イエス・キリストを信じていなければ、約束の聖霊をもって証印を押されていませんし、神の栄光を現わすために生きてはいません。

 

しかし、「正しい人たち」として、

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』という理由で、

「正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」と明言されているのです。

 

 

だけど、このイエスさまの教え(聖霊)に逆らっているかのような教えがあります。

 

それは、次の御言葉の教えを曲解させた教えです。

 

「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。

『民の議員、また長老の方々、 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。

 

この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。

 

この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。

 

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 (使徒言行録 4章8~12節)」

 

 

さて、この使徒言行録 4章8~12節を読めば、使徒ペテロは誰に対して教えているのか。

 

それはイエス・キリストを来るべきメシヤ(キリスト)と信じずに、偽キリストと決めつけて、殺した者たちへの教えです。

 

そのような者たちに対して、イエスさまは次のように宣言されました。

 

「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

 

だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。

 

それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。

 

まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。マタイによる福音書23章33~36節」

 

 

この教えから、現代のイエス・キリストを信じていない人々への教えではないことが明確に理解ができます。

 

 

ところが、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」ということだけを切り取って、

 

「イエス・キリストを信じない人々は、救われない。つまり、最後の審判で永遠の火に投げ込まれる。」という神学(聖書解釈と福音理解)を成立させているのです。

 

この神学(聖書解釈と福音理解)だと、現在のイエス・キリストを信じていない人々は皆、地獄行きとなってしまいます。

 

すると、イエス・キリストを信じていない人々にとって、イエス・キリストは冷酷非道な悪魔のような神だと思わせます。

 

そんな冷酷非道な悪魔のような神を「心から信じる人」は極めて少ないでしょう。

 

また、前述の『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』という理由で、

「正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」と明言されたイエスさまの御言葉を否定しています。

 

イエスさまの御言葉(教え)を否定して、イエスさまを冷酷非道な悪魔のような神と思わせる神学(聖書解釈と福音理解)というものは、それは聖霊に逆らうことになると思われても無理がないでしょう。

 

次回はその事について、さらに見ていきます。

 

 

「日本におけるキリスト教 115 人間は死んだらどこに行くのか?」

 

「人間は死んだらどこに行くのか?」という問いに、日本人は不思議なことに「天国に逝く」という思想をもつ人が多く、マスコミも有名人が亡くなると「天国に逝く」という見出しを活用します。

 

有名人の葬式はよくワイドショー番組などで報道されていますが、参列者たちの中で「また、あの世or天国で逢いましょう~」という声が必ずあります。

 

また、「死んだら、神さまのもとに」という思想も受け入れられています。

 

ドラマ『Beautiful Life 〜ふたりでいた日々〜』は、主演は人気絶頂の木村拓哉と常盤貴子

ストーリーは、腕はあるが人気のない美容師の柊二と、難病に侵され車椅子での生活を強いられながらも健気に生きる図書館司書の杏子を描いたラブストーリー

 

平均視聴率32.3%、最高視聴率41.3%を記録「日曜劇場」としては平成中期の最大のヒット作となった。第26回放送文化基金賞本賞受賞(1999年度)

 

ドラマの終盤では、もう死が近い杏子が柊二に、このように告げます。

 

「生まれる前は、神さまに抱かれてるの。

 

でね、生まれてきたら、お母さんに抱かれて、大人になったら、男の人に抱かれるの。

 

それでね、死んじゃったら、また神さまの腕の中に戻るの。」

 

それを聞いた柊二は「じゃあ、神さまっていいな」と言います。

この死生観は、違和感なく、多くの人々の心に響きました。

 

 

この多くの日本人(イエス・キリストを信じていない人々)の死生観は聖書に教えられている通りです。

 

イエス・キリストは正しい人たち(イエス・キリストを信じていない人々)にこのように言われました。

 

「『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 』マタイによる福音書25章34節新共同訳聖書」

 

聖書の教えから、人間は、天地創造の時から御国に行く場所が用意されているので、死んだら「天国(あの世」」に行くという死生観や神さまの元に帰るという死生観を持っていることが必然であるといえると思います。

 

さらに、聖書はこう教えています。

 

わたしは言う。

「闇の中でも主はわたしを見ておられる。

夜も光がわたしを照らし出す。」

 

闇もあなたに比べれば闇とは言えない。

夜も昼も共に光を放ち

闇も、光も、変わるところがない。

 

あなたは、わたしの内臓を造り

母の胎内にわたしを組み立ててくださった。

 

わたしはあなたに感謝をささげる。

 

わたしは恐ろしい力によって

驚くべきものに造り上げられている。

 

御業がどんなに驚くべきものか

わたしの魂はよく知っている。

 

秘められたところでわたしは造られ

深い地の底で織りなされた。

 

あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。

 

胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。

 

わたしの日々はあなたの書にすべて記されている

まだその一日も造られないうちから。

 

あなたの御計らいは

わたしにとっていかに貴いことか。

 

詩編139篇11~17

 

 

聖書には、人間は神さまが創造されたと教えています。

 

生まれる前から、神の御手に抱かれて、死んだら、神のもとに帰るのです。

 

そこには、イエス・キリストを信じればとか、罪が取り除かれたとか、そんな条件はないと、聖書は明確に教えています。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 114 神の子たちと正しい人たちとのろわれた者どもの死後」

 

聖書には、3タイプの人間の死後について明確に教えています。

 

まずは「クリスチャン(神の子たち)」についての御言葉です。

 

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。

神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

 

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

 

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。エペソ人への手紙1章3~6節」

 

それゆえ、クリスチャン(神の子たち)は、主イエス・キリストにあって救いを得るように定められています。

 

「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。

 

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。テサロニケ第一5章9~10節」

 

 

次に、クリスチャン(神の子たち)ではない人たちがいます。

 

聖書の時代、ユダヤ教のユダヤ人たちが、キリスト教に改宗して、クリスチャンになることはハードルが非常に高いものでした。

 

次の御言葉通りに、クリスチャン(神の子たち)は、非常に過酷な迫害の人生を歩むことになります。

 

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

 

なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

 

さらに、家族の者がその人の敵となります。

 

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。マタイの福音書10章34~39節」

 

 

また、初代教会においては、地所や家を売り、持ち物すべてを皆で共有していました。

 

「 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。

 

使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。

 

彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、

 

使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。使徒の働き4章32~35節」

 

また、クリスチャンになれば、大祭司や律法学者、パリサイ人たちと敵対することになります。

 

それから、先祖代々からユダヤ教だったので、自分だけがキリスト教に改宗するわけにはいかない。という思いも強かったでしょう。

 

 

この日本でも、聖書の時代のような状況の時代がありました。

 

有名なのが、豊臣秀吉、織田信長、徳川幕府、明治政府と長年にわたり続けた「キリシタン弾圧」です。

 

この「キリシタン弾圧」によって、多くのキリシタンたちが棄教しました。

 

その時、仏教徒たちが救ってくださり、その慈愛によって、仏教徒に改宗したキリシタンたちも少なくなかったそうです。

 

そのような時代に、イエス・キリストを信じる人は皆無とも言われています。

 

また、国家をあげて、天皇を神とした時代もありました。

 

クリスチャンの内村鑑三先生が、天皇に対する「不敬事件」を起こして「国賊」となり、多くの国民から迫害されたことは、今も教科書などで語り続り続けられています。

 

 

そして、現在では、多くのキリスト教会のクリスチャンたちが教える「イエス・キリストを信じれば天国、イエス・キリストを信じなければ地獄行き」という福音によって、大勢の人々がイエス・キリストに心を閉ざしています。

 

また、教会の牧師、神父、宣教師、伝道師、クリスチャンたちの不祥事や献金などによっても、多くの人々がキリスト教会につまずいています。

 

そのような事もあり、日本のクリスチャン人口は約1%弱という状況が長年続いています。

 

 

私は今、令和の時代に、クリスチャンとして、こうしてブログなどでも発信しています。

 

ですが、聖書の時代やキリシタン弾圧の時代、天皇を神とする時代に生まれ育っていたとすれば、果たしてクリスチャンになっただろうか?

 

正直に言えば、クリスチャンにならなかった可能性があると思います。

 

神さまは、そのような、クリスチャンにならなかった人々を「正しい人たち」と愛してくださっているのです。

 

それが、何度も紹介している次の御言葉通りです。

 

「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

 

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

マタイの福音書25章34~37節」

 

 

神の子たちは、神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 

それゆえ、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになっています。

 

なので、死後に、いつまでも主イエス・キリストと共にいる場所が与えられています。

 

 

「正しい人たち」については、「世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」と言われています。

 

この正しい人たちのために備えられた御国は、神の子たちのいる場所とは違いますが、御国(天国)であります。

 

ですから、クリスチャンではないですが、正しい人たちが亡くなると、「正しい人よ。御国で逢おうね。」と言います。

 

 

そして、死後に地獄へ行く者どもについては、地獄へ行くことが決まっていることが、聖書には明確にイエスさまの教えとして書かれています。

 

「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。

 

14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

 

15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」

 

16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。

 

 

29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。

 

30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。

 

収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』マタイの福音書13章」

 

「7 偽善者たち、イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。

 

8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。

 

9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

 

10 イエスは群集を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。

11 口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。

 

12 そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」

 

13 しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。

 

14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。マタイの福音書15章」

 

 

「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。マタイの福音書25章41節」

 

 

このように、イエスさまは、地獄へ行く者どもを救おうとはされていません。

 

繰り返します。

 

「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。」

 

「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。 彼らのことは放っておきなさい。」

 

 

聖書が教える地獄行きの、のろわれた者ども、まむしの末どもが救われることはありませんでした。

 

悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入ったと、聖書は明確に教えています。

 

 

現在における私が関わる人々は、ほぼ全員が、ノンクリスチャン(イエス・キリストを信じない人々)です。

 

その人々は、クリスチャン(神の子)ではありませんが、地獄行きの「のろわれた者ども」でもありません。

 

その人々は「正しい人たち」であります。

 

「神の子たち」は、御子イエス・キリストを本当に信じているから、死後に、主イエス・キリストと共にいる御国に行くことになります。

 

そして「正しい人たち」は、マザーテレサが言う「善良な資質」を持ち、その良い行ないを行っているので、死後に備えられた御国に入るのです。

 

 

 

 

「日本におけるキリスト教 113 聖書が教える人間に対する福音について」

 

この日本でも、何事もそうですが、人についても「白か黒か」で判断することは出来ない事が常識になってきています。

 

例えば、昔であれば、勉強ができない子や注意散漫な子は「ダメな子」と決めつけられて、厳しい躾をしていたそうです。

 

しかし現在では「ダメな子か出来る子か」という白か黒かではなく、

「LD(学習障害)」や「ADHD(注意散漫多動性障害)」という様々な子どもたちに配慮することは、教育の現場では常識となっています。

 

また、昔は「男か女か」と白と黒がはっきりしているような時代に「同性愛者」と呼ばれて、忌み嫌われていた人たちも、

 

現在では「LGBTQなど性的マイノリティを理解しましょう。」などと白か黒かではない風潮が高まっています。

 

 

そして、聖書の教えも「人間」について、「白か黒か」という教えではなく、「人間」は、いくつもに分かれていて、イエスさまは、それぞれに教えていることが違います。

 

大きく分けると、「神さまを信じた人々」と「神さまを信じない人々」とに分かれています。

 

さらに「神さまを信じた人々」の中でも、3つに分かれます。

 

① 「神の子どもと呼ばれる人々」

② 「悪魔が遣わした者たち」

③ 「イエスを主と呼んで慕っているが、不法を行なっているので、イエスさまから離れ去れと最後通告される偽クリスチャン」

 

 

①についての御言葉

 

「私たちが神の子どもと呼ばれるために、—事実、いま私たちは神の子どもです—

 

御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

 

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。

 

後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

 

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3章1~3節)」

 

まだまだありますが、かなり長くなってしまうのでとりあえずはこの御言葉だけにします。

 

 

②についての御言葉

 

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。

あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。

 

それによって、今が終わりの時であることがわかります。

 

彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。

 

もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。

 

しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。(第一ヨハネ2章18~19節)」

 

「しかし、私は、今していることを今後も、し続けるつもりです。それは、私たちと同じように誇るところがあるとみなされる機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切ってしまうためです。

 

こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。

 

しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

 

ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。(第二コリント11章12~15節)」

 

まだありますが、長文になりすぎるので、この2つにとどめます。

 

 

③についての御言葉

 

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

 

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』マタイの福音書7章21~23節」

 

 

次は「イエス・キリストを信じない人々」についてですが、2つに分かれています。

 

①「正しい人たち」

②「のろわれた者ども」

この2つの人たちです。

 

最後の審判で、「神の子ども」たちは引き上げられて、空中で主イエスと会いますので、地上に残っているのが、「正しい人たち」と「のろわれた者ども」です。

 

その御言葉です。

 

王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。

 

おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

 

『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

 

 

その「正しい人たち」についての関連する御言葉です。

 

「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

 

あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。(マルコの福音書9章40~41節)

 

 

そして、永遠の刑罰に入る「のろわれた者ども」についての福音は、終始一貫、ただ戒めと神の怒りとさばきと地獄行きの警告だけです。

 

その「のろわれた者ども」をイエスさまは「狼」と言われました。

 

「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。

 

人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。マタイの福音書10章16~17節」

 

 

「のろわれた者ども」は「正しい人たち」と真逆であり、「悪」しかなく、聖霊に逆らっている者たちです。

 

「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。

 

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。

 

また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

 

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。

 

まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。

 

良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。(マタイの福音書12章30~35節)

 

 

「のろわれた者ども」について、イエスさまは、神の国は取り去られると警告されました。

 

「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。

 

また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」

 

祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。

 

そこでイエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群集はイエスを預言者と認めていたからである。(マタイの福音書21章43~46節)」

 

 

「のろわれた者ども」について、イエスさまは「わざわいだ!」と言い放ち、「天の御国に入れない!」と断言されます。

 

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。(マタイの福音書23章13節)」

 

そして、地獄行きを宣告されました。

 

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、

『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。

こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。

 

おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。マタイの福音書23章33節」

 

 

そして、地獄行きについての詳細を教えられました。

 

「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

 

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。

 

19 ある金持ちがいた。いつも紫色の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

 

20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、

21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

 

22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

 

23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

 

24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先に水を浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

 

まだまだありますが、このように、最後の審判で悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入る「のろわれた者ども」に対しての福音は、戒めと神の御怒りとさばきと地獄行きの警告です。

 

まさに、この御言葉通りです。

 

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。ヨハネの福音書3章18~19節」

 

 

このように、「イエス・キリストを信じている人たち」の中でも「神の子どもたち」「悪魔から出た者たち」「偽クリスチャン」とに分かれています。

 

そして、「イエス・キリストを信じていない人々」の中でも「正しい人たち」と「のろわれた者ども」とに明確に分かれています。

 

それゆえ、それぞれに教える「福音」の内容も違います。

 

特に「神の子どもたち」と「のろわれた者ども」とはまったく異なっています。

 

 

それなのに、もしも、ただ「イエス・キリストを信じた人々」と「イエス・キリストを信じていない人々」と2つだけに分けているなら、

 

あの新井白石がシドディ宣教師の聖書解釈と福音理解(教会の外に救いはない)に対して、「幼稚すぎる」と吐き捨てられるのも至極当然と言えるでしょう。

 

また、支離滅裂で荒唐無稽で矛盾だらけで、意味わかんないと言われてしまうこともあり得ると思われます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 112 キリストを信じなくても与えられる永遠の命について」

 

以前にも伝えましたが、日本で最も有名で愛されているクリスチャンは「マザーテレサ」だと思います。

 

マザーテレサの特筆すべき信仰の1つは「イエス・キリストを信じていない人々も救われている」ということです。

 

マザーテレサは、多くの人々にその信仰を言い現わしています。

 

日本のカトリック教会の粕谷甲一神父も体験した1人で、著書「キリスト教とは何か ①」の中で、次のように書いています。

 

「インドに行った時に、マザーテレサがわたしにこういうことを話してくれました。

 

ある夕方、修道院に帰ってきたら、玄関に小さな男の子が立っていて、「マザー、お母さんが危ないから来てください」と言う。

 

マザーはすぐに弁当を持って一緒に行きました。

 

すると本当にひどい場末に、まだ若いお母さんがぐんなりと横たわっていて、右と左に、やはりぐんなりした子どもがいました。

 

マザーがお弁当を出すと、「この半分をうちの子にやってください。この先に同じような家族がもう一軒あるから、残りの半分は向こうにもっていってください」と言ったというのです。

 

「貧しい人って偉大でしょう」とマザーが言うのです。

 

自分の子どもが飢えているのに、もう一軒の飢えている子どものことを頼んだという、

 

ああいう心はどこから来ると思いますか、とわたしに聞くのです。

 

「彼らはヒンズー教徒ですよ。よく祈るのです。」

 

だからマザーテレサは、そういう大きな心、きれいな心というのは祈りから来る、神さまから来る。

 

その神さまは、キリスト教専属の神さまではなくて、そういう心すべてに通じる神さまなのだと言う。」

 

引用以上

 

 

このマザーテレサと同じような信仰が、アフガニスタンにおいて、沙漠化した土地に水を導き、多くの人々の命を救ったクリスチャンの中村哲医師です。

 

イスラム教徒のためにいくつものモスク(イスラム教の礼拝堂やイスラム教の神学校)を建設しました。

 

つまり、イエスラム教徒もキリスト教徒も同じという信仰です。

 

その中村哲先生は、福音派の教会で洗礼を受けましたが、聖書解釈と福音理解がさっぱりわからず、無教会の内村鑑三先生の著書と出会って「本当のクリスチャンになれました。」と語ったことで、内村鑑三に着目する人々が増えています。

 

そこから内村鑑三先生の弟子の1人「斉藤宗次郎」氏がさらにクローズアップされています。

 

斉藤宗次郎氏は宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のモデルと言われているクリスチャンで、1968年に召天されました。

半世紀以上過ぎましたが、未だに語り継がれているのです。

 

その内村鑑三の特筆すべき信仰の1つが「すべての人が救われる万人救済説」です。

 

そして、中村哲先生と同じく、福音派の教会の聖書解釈と福音理解がまったく合わなかったサザエさんの著書「長谷川町子」先生が、その内村鑑三先生の弟子の1人「矢内原忠雄」先生と出会って、ようやくクリスチャン人生を歩めたのです。

 

ですから、サザエさんをクリスチャンにする必要はありませんでした。

 

サザエさんは1969年からテレビ放送が始まっています。

今年で55年です。半世紀以上、日本人に愛され続けているのです。

 

 

それから、日本では三重苦の聖女として知られる「ヘレン・ケラー」さんも半世紀以上前の1968年に召天されていますが、この日本においても未だに語り継がれているクリスチャンですが、前述のマザーテレサと同じ信仰です。

 

この日本において、群を抜いて有名で、日本人の中でも半世紀以上も語り継がれているクリスチャンたちに共通している信仰が、「イエス・キリストを信じない人々も救われている」という信仰です。

 

これは偶然ではなく、神の摂理です。

 

なぜなら聖書に明確に教えられているからです。

 

前回の記事に伝えましたが、もっと詳しく見ていきます。

 

 

主イエスの来臨時についてです。

 

それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

 

第二神殿(現在は存在しません)に荒らす憎むべき者(滅びの子)が入り、大患難時代に突入します。

 

それから、

「そのとき、畑にいるふたりといると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。マタイの福音書24章40~41」

 

「 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。

 

それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 

次に、生き残っている私たち(使徒パウロたち)が、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。

このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 

こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。第一テサロニケ4章16~18節」

 

 

このように、使徒パウロたち、イエス・キリストを信じている人々(クリスチャン)は、引き上げられて、空中で主と会い、いつまでも主とともにいます。

 

それは次の御言葉通りです。

 

「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

 

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

 

それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。ヨハネの福音書3章13~15」

 

イエス・キリストを信じる者は皆、イエス・キリストにあって永遠の命を持ったので、主イエスの来臨の時に引き上げられたのです。

 

 

そして、地上に残っているのは、「イエス・キリストを信じていない人々」だけであります。

 

イエス・キリストを信じた人々は、引き上げられて、空中で主と会っているのですから。

 

その「イエス・キリストを信じていない人々」は3つに分かれています。

 

イエスさまは次のように明確に教えられています。

 

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

 

そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

 

羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

 

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

 

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 

「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。

 

おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

 

わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

 

こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。マタイの福音書25章31~46」

 

 

「イエス・キリストを信じていない人々」の中でも正しい人々は永遠の命に入ると、イエスさまは明確に教えられています。

 

その人々が、永遠の命に入る理由は「イエス・キリストを信じた」という理由ではありません。

 

「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』という理由です。

 

この正しい人々は、様々な理由があり、イエス・キリストを信じるまで至りませんでした。

 

やはり、先祖代々から「ユダヤ教徒」だから、自分だけが「キリスト教徒」になることは出来ないという理由もあったでしょうし、

 

大祭司やパリサイ人、律法学者たちの敵になりたくないから、イエス・キリストを信じなかったという理由もありました。

 

しかしながら、人として、最も小さな者たちが助けを求めている時に、助けてあげたのでした。それは当然のことでした。

 

それは、クリスチャンたちが激しい迫害の時に散らされた時でしたが、その助けた行為に恩を着せることはなかったのです。

 

 

その一方で、悪魔が蒔いた毒麦であり、まむしの末どもであり、クリスチャンたちを迫害する者、見捨てる者たちがいました。

 

イエスさまは永遠の刑罰に入ることを以前から次のように予告されました。

 

「その者たちは こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。

 

おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

 

だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。

 

それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。

 

まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。マタイの福音書23章31~36節」

 

 

そして、もう1つは、自称「イエス・キリストを信じているクリスチャン」であって、主イエスの御目には「偽クリスチャン」という人々です。

 

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 

その日(主の来臨時)には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

 

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』マタイの福音書7章21~23節」

 

この「偽クリスチャンたち」が大勢いるのです。

 

 

このように、イエス・キリストを信じていない人々は3つに分かれています。

 

マザーテレサや中村哲先生、ヘレン・ケラーたちの信仰は、「イエス・キリストを信じていなくても正しい人々は救われている」というイエスさまの教えと一致しています。

 

次回は、その事について、さらに詳しく見ていきます。