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ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教 131 どうしてクリスチャンが地獄へ行くと教えられたのか?」

 

最近の記事では、聖書を読むとイエスさまは、イエスさまにつき従って来た群衆と十二弟子たち、また十二弟子たちに、地獄に投げ込まれるという「クリスチャンたちの義」を教えられたことを伝えさせて頂いています。

 

前回記事では、現実に昔から起き続けている「教会の不祥事」が多すぎることから、その理由の1つに、このように思いました。

 

教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるために必要不可欠な教えだった。

 

 

さらにもう1つの理由が思い起こされました。

それは悪魔の策略です。

 

悪魔は聖書の御言葉を利用して、滅ぼそうとします。

 

「また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。

 

『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、

『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」

 

するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」

(ルカの福音書4章9~12節)」

 

このように悪魔は御言葉を使って、悪魔に聞き従わせようとします。

 

 

神が私たちに対する愛を教えられている御言葉は次の通りです。

 

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

 

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

 

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

(ローマ人への手紙5章6~8節)」

 

なんと、神は、イエス・キリストを信じた者たちのためではなく、不敬虔な者のために死んでくださいました。

 

イエスさまの十字架の贖いは、私たちがまだ罪人であったときに、つまり、まだイエス・キリストを信じていない時に成し遂げられたのです。

 

 

悪魔にとってこの御言葉は相当めちゃくちゃ激しく都合が悪いので、この御言葉を信じさせないようにするはずです。

 

そのためには他の御言葉を利用して、キリストの十字架の死は、不敬虔な者たちのためではない。罪人のためではない。

 

つまり、イエス・キリストを信じていない人々は滅びに向かっていて、地獄行きになるというように教えていきます。

 

すると、イエス・キリストを信じていない人たちにとって、イエス・キリストは地獄に投げ込む悪魔のような存在になります。

 

そんな冷酷非道な悪魔のような神を信じるよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいでしょう。

 

 

そのような悪魔が教えるような聖書の教えに対して、イエスさまのように御言葉で対抗すれば、悪魔は逃げ去るしかないのです。

 

例えば、今年の春の名作ドラマ「花咲舞が黙ってない 第3シリーズ」のようにです。

 

主演の花咲舞は、臨店班の銀行員です。正義感が強く、不正行為や理不尽な慣習の犠牲になる人々を見過ごす事ができずに、間違っていると思えば徹底的に追及します。

 

そして、相手がどんなに偉いひとであっても、反論する時は「お言葉を返すようですが」と切り出します。

 

悪事を暴かれた相手が激怒して「誰にものを言ってるんだ!黙れ!」と一喝しても「(いいえ)黙りません!」「そんなの絶対間違ってます!」と言い返すのがお約束です。

 

ちなみに花咲舞を演じているのは、個人的にものすごい俳優だと思って注目している今田美桜さんですから、すごく感動しながら毎回ドラマを見ていました。

 

 

もしも「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。使徒の働き4章12節と書いてある。

 

だから、イエス・キリストを信じた人々は救われる。地獄に行くことはない。

 

そして、イエス・キリストを信じていない人々は救われない。そして永遠の火に投げ込まれます。それが聖書の教えです!」

 

そのように教えてくる人たちがいれば、

 

「お言葉を返すようですが」とお言葉を1000倍返しにします。

 

「イエス・キリストは、イエスさまにつき従って来た群衆と十二弟子たちに、わたしはあなたがたに言います。『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 

また、だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

 

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりはよいからです。と教えられています。マタイの福音書5章22~30節!

 

また、十二弟子たちには、つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。

 

もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまづかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。と教えています。マタイの福音書18章7~8節!

 

つまり、イエスさまを信じてつき従って来た群衆とイエスさまの十二弟子でも永遠の火に投げ込まれるという教えがあるのです!」

 

 

それから、このように教えてくるでしょう。

 

「 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。ヨハネの福音書3章36節

 

つまり、イエス・キリストを信じた者たちは永遠のいのちを持ちます。神の怒りはなくなるのです。

 

そして、イエス・キリストを信じていない者たちは、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまっているので、滅びに向かっていて、そのまま死ねば当然に永遠の火に投げ込まれます。

 

これが聖書の教えです。」というように教えてくる人たちがいれば、

 

「お言葉を返すようですが」とお言葉を1000倍返しにします。

 

「聖書はこのように教えています。

 

私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。

 

ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

 

このようなことのために、神の怒りが下るのです。

 

コロサイ人への手紙3章4~6節

 

つまり、イエス・キリストを信じたクリスチャンでも、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりをしていれば神の怒りが下ると明確に教えられています。

 

 

また、このようにも教えてくるでしょう。

 

「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。ヨハネの福音書3章16~18節

 

つまり、イエス・キリストを信じた人々は、ひとりとして滅びることはなく、永遠のいのちを持ちます。

 

しかし、イエス・キリストを信じない者たちは、すでにさばかれているので、滅びに向かっていて、永遠の火に投げ込まれます。

 

これが聖書の教えです!」というように教えてくる人々人たちがいれば、

 

「お言葉を返すようですが」とお言葉を1000倍返しにします。

 

「聖書はこのように教えています。

 

私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。

 

ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。

 

私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。

 

舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。

ヤコブの手紙3章1~6節

 

つまり、クリスチャンの教師たち(牧師・牧師婦人・神父・宣教師・伝道師・執事・信徒リーダー・教会学校の先生たち)は、格別きびしいさばきを受けると教えられています。

 

もしも、イエスさまと聖書の教えとはまるで違った教えを教えていれば、ゲヘナ(火の池)の火によって焼かれると聖書は教えているのです!

 



つまり、イエスさまがクリスチャンたちに永遠の火に投げ込まれるという「クリスチャンたちの義」を教えられた理由の一つに、

聖書の御言葉を悪用して、イエス・キリストを信じていない人たちを地獄行きに定めさせないためという理由もあると思いました。

 

そして、クリスチャンたちに対して次のように厳しい警告が教えられています。

 

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。

 

私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。ガラテヤ人への手紙1章8~9節」

 

長くなったので、次回に続く

 

 

 

「日本におけるキリスト教 130 神から出た者か、悪魔から出た者か」

 

聖書を読めば、主イエス・キリストは「神から出た者」と「悪魔から出た者」がいると次のように教えられました。

 

「 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。

 

あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。

 

悪魔は初めから人殺しであり、真理には立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。

 

彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

 

しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。

 

あなたがたのうちのだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。

 

神から出た者は、神のことばに聞き従います。

 

ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。

(ヨハネの福音書8章43~47節)」

 

 

そして、悪魔から出た者たちを使った「悪魔の策略」については次のように教えられています。

 

「ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。

 

なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、

 

あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。コリントの信徒への手紙二 11章3~4」

 

「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。

 

だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。

 

だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。

 

彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。(コリントの信徒への手紙二 11章13~15節)」

 

 

そして、主イエス・キリストの教会について、次のように教えられています。

 

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。

 

キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、

 

しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。

 

そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。(エフェソの信徒への手紙 5章25~28節)」

 

 

教会を清めて聖なるものとし、 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためには、「クリスチャンたちの義」が必要不可欠です。

 

ですから、イエスさまは、イエスさまにつき従って来た群衆と十二弟子たちに、次のような「クリスチャンたちの義」を教えられたわけです。

 

「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

 

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

 

兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 

『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 

しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

 

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

 

 

これが、律法学者やパリサイ人の義にまさる(現在でいえば世の中の義にまさる)「クリスチャンたちの義」であります。

 

このイエスさまの教えに聞き従えば、イエスさまに聞き従うクリスチャンは、教会の中で、「バカ者」などと人を傷つける言葉に最大限に気をつけますし、情欲を抱いて女性を見たりすることも最大限に気をつけます。

 

キリストの御霊を持っているクリスチャンは、助けぬし「聖霊」には「自制」という実がありますので、自制が働きます。

 

 

それから、「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

 

もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまづかせるなら、それを切って捨てなさい。

 

片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」と教えられました。

 

ですから、イエスさまの御言葉に聞き従う教会では、「教会のクリスチャンは、子どもの一人でもつまずかせると永遠の火に投げ込まれる」と教えるはずです。

 

そして、子どもたちにこのように教えます。

 

「もしも教会で、教会の人が、裸にさせたり触れてきたり、また、裸になって触れさせたり、気持ち悪いことをしてくれば、それは子どもたちをつまずかせることです。

 

ですから、そういうことをする人が地獄に行くとイエスさまは教えています。

 

だから、万が一、そんなことをする人がいれば、その人に向かって『こんなことをすれば地獄にいくよとイエスさまが教えています』と言いましょう。」

 

 

すると、もしも、教会に子どもたちと不自然な肉欲を追い求めようとする人たちがいても防げます。

 

それどころか、そういう人たちは教会に居場所がなくなって、出て行くしかなくなるでしょう。

 

このように「クリスチャンたちの義」の教えは、超絶に厳しいものですが、理にかなっているのです。

 

ですから、神から出た者は、神のことばに聞き従います。

 

神のことばに聞き従うことによって、教会を清めて聖なるものとし、 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会へと築き上げられるでしょう。

 

 

その反対に、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装っている教会は、この非常に都合が悪い「クリスチャンたちの義」の教えを、他の御言葉を悪用して曲解させると思われます。

 

例えば、この聖書箇所です。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

 

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

(ヨハネの福音書3章16~18節)」

 

この聖書箇所から、このように説きます。

 

「イエス・キリストを信じているクリスチャンたちは、さばかれないし、滅びることがない。永遠の命を持っている。

 

しかし、イエス・キリストを信じていない人たちは、すでにさばかれているので、滅びに向かっている。そのまま死ねば地獄へ行ってしまいます。」

 

 

それゆえ、必然的に、イエスさまの地獄行きについての教えは、イエス・キリストを信じていない人たちに対して教えていると思い込まされてしまいます。

 

すると、イエスさまが教える「クリスチャンたちの義」は曲解されてしまいます。

 

「クリスチャンたちの義」の教えは「イエス・キリストを信じていない人々を地獄行きにする神の義」へと変貌するのです。

 

そうなれば、教会は非常に恐ろしいことになることは、火を見るよりも明らかです。

 

そして次々と、子どもたちをつまずかせる教えを生み出します。

 

 

被害者の方々の証言から、教会で、司祭(神父)や牧師たち、クリスチャンたちが、子どもたち(未成年者)と不自然な肉欲を追い求めるのに、無理やりに乱暴するケースより、地獄行きの教えを悪用していることが判明しています。

 

「これ(性的虐待・性的いたずら)を拒めば地獄に堕ちる」

 

「誰かに言えば地獄に堕ちるよ」などと脅して、子どもたちを汚すのです。

 

被害を受けてしまった方々は「地獄へ行きたくないから、受け入れるしかなかった」

 

「地獄に行きたくないから、誰にも言えなかった。」というようなことを伝えています。

 

子どもたちを汚す者たちは、イエス・キリストを信じている者(牧師・司祭・信徒リーダー・先輩クリスチャンたち)ですから当然に地獄へは行かないという教えです。

 

そして、被害にあう子どもたちは、クリスチャンの大人たちに汚されたことにより、トラウマとなって、キリスト教会から離れたり、イエスさまに不信感をもったとしても不思議ではありません。

 

 

イエスさまはイエスさまにつき従って来た群衆と十二弟子たちに対して、子どもたちをつまずかせると永遠の火に投げ込まれると教えられたのです。

 

また、兄弟に対して「バカ者」という者や、情欲を抱いて女性を見る者も同じですね。

 

それが「クリスチャンたちの義」です。

 

その教えは教会を清めて聖なるものとするのに必要な教えです。

 

教会の中で、一人の子どもでもつまずかせないためであり、人を傷つける言葉を言わせないためであり、情欲を抱いて女性を見ることをさせないためです。

 

そのイエスさまが教えられた「クリスチャンたちの義」に聞き従う者たちが、神から出た者です。

 

 

この「クリスチャンたちの義」を曲解させてしまえば、教会の中で、イエス・キリストを信じたクリスチャンたちによる悪がなされて、教会はしみだらけ、しわだらけ、罪だらけの強盗の巣になってしまいます。

 

前々回から教会で現実に起きていることを伝えていますが、その通りになっています。

 

読解力を学んだ小学生でもわかることを、どうして曲解させてまで聞き従わないのでしょう?

 

「あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」

 

つづく

 

テキストの画像のようです

 

「日本におけるキリスト教 129 クリスチャンたちの義について」

 

前回の、聖書のイエスさまが教えている「クリスチャンたちの義」について、さらに詳しく見ていきます。

 

昔の人がよく言っていた「末は博士か大臣か」というフレーズは、子どもの将来に期待を込めて使われる言葉だそうです。

 

近年では、その大臣たちを含めた政治家たちの失言がよくあります。

 

イミダスの2014/06/26の香山リカ医師のコラムでも「政治家はなぜ失言を繰り返すのか?」というタイトルで、次のように発言しています。

 

「それにしても、なぜ政治家はこうして『もっとも言ってはいけないこと』を平気で口にするのだろう。

 

それはひとことで言えば、彼らが『有権者の代表』という“建前”とはかけ離れた保身、かけ引き、打算の世界で日ごろ生きているからではないか。」

 

引用以上

 

 

それ以後も政治家たちの失言は繰り返して行われています。

もはや名物になっている感じがあります。

 

政治家たち、特に大臣たちの「たった一度の失言」によって、多くの人々が傷ついたり、怒ったりしますので、そのことによって支持率が下がったり、総理大臣の任命責任を追及されることもあります。

 

そして、事実上更迭された大臣たちもいます。

 

ですので、政治家になれば、たった一度の失言も許されない覚悟を持つことが「政治家の義」と言えるでしょう。

 

 

ですが、政治家たちの失言の釈明を聞いていますと、これが一般の社会であれば、どこでも同じ失言をしている人たちはいるものです。

 

周りで失言を言っている人はたくさんいますが、政治家と違って、問題になることなく、相手にされていないものです。

 

 

また、女性週刊誌やワイドショーなどで、佳子さま(佳子内親王は、日本の皇族)の話題がよく取り上げられています。

 

それで道や駅のホームなどで佳子さまと遭遇した人たちが、すぐさまスマホで撮影してYouTubeなどでアップしていますが、どれも「神対応 佳子さま」と絶賛されています。

 

いつでもどこでも自然に好感を持てる対応をされているのを見れば、日本の皇族で生まれ育てば「皇族の義」というものがあると思わされます。

 

もちろん、人を傷つけたり不信感をもつような失言は、あってはならないと、非常に気をつけていますし、付き添いの職員もあるようです。

 

 

そして「クリスチャン」ですが、

 

クリスチャンとは「世界の光」であり、「地の塩」であります。

 

また、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」という者です。

 

エペソ人への手紙4章には次のように教えています。

 

「 ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。

 

まさしく真理はイエスにあるのですから。

 

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、

 

またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

 

悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。

 

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

 

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」

 

 

それから、聖霊はいつまでもクリスチャンと共にいると教えられています。

 

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

 

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。

 

その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

 

その方は、真理の御霊です。

 

世はその方を受け入れることができません。

世はその方を見もせず、知りもしないからです。

 

しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

 

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

(ヨハネの福音書14章15~18節)」

 

「 肉にある者は神を喜ばせることができません。

 

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。

キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 

(ローマ人への手紙8章8~9節)」

 

クリスチャンとは、心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、御霊(聖霊)がうちに住まれている者です。

 

 

ですから、そのクリスチャンが罪を犯すということは次のようになります。

 

キリストと共に十字架につけられて、そのうちにキリストが生きていて、心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された者であり、聖霊が住まれているクリスチャンが、兄弟に向かって「バカ者」と言い、情欲を抱いて女性を見て、子どもたちをつまずかせます。

 

その罪は、イエス・キリストの十字架を無意味にして、御霊に逆らう冒涜と思えます。

 

「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。

 

また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

(マタイの福音書12章31~32)」

 

 

なので、そのクリスチャンが犯す罪は、キリストの御霊を持たない人々よりも非常に重いものになっても至極当然です。

 

イエスさまが「両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられる」と言われるものです。

 

それが「キリストの御霊を持たない人々の義」をまさる「クリスチャンたちの義」と言えるでしょう。

 

そのクリスチャンたちの義を肝に銘じて遵守することを努めているわけです。

 

 

ですが、クリスチャンたちでも、人を傷つける言葉を発したり、情欲を抱いて女性を見たり、子どもをつまずかせたりする「罪」は持っているわけです。

 

その罪を犯してしまえば、悔い改めます。

悔い改めれば赦されます。

 

しかしながら、たった一度の罪でも失脚する可能性がある、政治家たち、皇族の方たち、長年にわたって活躍されている芸能人の方たち以上に、罪を犯さないように努めなさいと非常に厳しく聖書は次のように教えています。

 

「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

 

私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。

 

ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。

 

このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

このようなことのために、神の怒りが下るのです。

 

(コロサイ人への手紙3章3~6)」

 

 

しかしながら、前述のことはすべてのクリスチャンに当てはまる聖書の御言葉ではありません。

 

「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。第一コリント3章1節」

 

クリスチャンには「御霊に属する人」「肉に属する人」「キリストにある幼子」と3つのタイプがあるからです。

 

しかし、教会の教師たち(司祭、牧師、牧師婦人、伝道師、宣教師、信徒リーダー、教会学校の教師など)は「御霊に属する人」でなければならないでしょう。

 

 

その「御霊に属する人」たちが、もしも、「クリスチャンが犯すすべての罪は赦されている」という教えをして、

 

イエス・キリストを信じていない人々(キリストの御霊を持たない人々)の罪の重さよりも、御霊に属するクリスチャンの罪を非常に軽くしていれば、

 

それはイエスさまの教えに反逆しています。

 

そして、イエスさまの教会は、罪人の温床となってしまいます。

 

また、その「御霊に属する人」たちは罪を犯している自覚がうすれてしまいます。

 

平然とウソを言い、平然と「お金」を愛して、平然とえこひいきをし、平然と人を傷つける言葉を発しています。

 

また、情欲を抱いて女性を見たり、子どもをつまずかせたりする者たちも少なくありません。

 

まるで失言をする政治家と同じです。

それゆえ、教会の中で被害者が続出しています。

 

 

私自身もプロテスタント福音派の教会の牧師たちとは二度と関わりたくないほど、多くの牧師、牧師婦人、伝道師、宣教師たちに傷つけまくられた経験が何度もあります。

 

そして、教会を離れました。

 

それでも、かすかな希望をもって、信じられる牧師やクリスチャンと出会えるかなと思ったFacebookクリスチャングループでも、同じ目にあいました。

 

私と同じ経験を持つクリスチャンたちはたくさんいます。

 

また、このブログのコメント欄には、牧師や牧師婦人、教会の人たちに深く傷つけられた人たちの怒りや抗議のコメントであふれた時期がありました。

 

SNSで調べると、牧師や牧師婦人、神父や、教会の人たちに深く傷つけられた人々の叫びであふれています。

 

教会を離れていった人は100万人以上いるとも言われています。

 

韓国のプロテスタント教会では、教会を離れていった人の異常な多さに驚愕して、反省した時がありました。

 

 

私自身は、もう既成のキリスト教会とは離れて、内村鑑三先生のように無教会で、聖書解釈と福音理解を発信していこうと決心した次第であります。

 

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

 

わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれ生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。

 

エレミヤ書17章9~10節」

 

つづく

 

 

「日本におけるキリスト教 128 クリスチャンたちが世の光になれない理由」

 

私が長年、プロテスタント教会に所属していて、陰でよく聞く本音の声は「教会の牧師や信徒リーダーよりも世の中で尊敬している人のほうが信頼できる」という声でした。

 

もちろん教会では建前で「牧師を尊敬している」と言っていますが、本音は違いました。

 

現在、無教会となってからの聖書解釈をすれば、その理由を明確に説明することができます。

 

 

まずは、世の中の人々に影響を与えている人は、テレビで長年にわたって活躍されている人たちが挙げられるでしょう。

 

その中でもテレビドラマや映画などで長年にわたって主役に抜擢されている人たちは貴重な存在です。

 

その方々は私も大好きですし、私の周りの人たちに聞いても好印象です。大ファンの人も大勢います。

 

個人的には、渡哲也さん、田村正和さん、柴田恭兵さん、水谷豊さん、三浦友和さん、中村雅俊さん、木村拓哉さん、福山雅治さん、反町隆史さん、その方々の主演ドラマは必ず見ています。

 

(この中には天国に逝かれた方もいて非常に残念で寂しいです。)

 

この方々に共通していることはスキャンダルがないことです。

 

主演すれば、非常に魅力的な女優の方々と次々に共演するわけですが、スキャンダルをスクープされることはありません。

 

その中の1人「三浦友和」さんは著書「相性」の中で次のように語っています。

 

「浮気はしない」これは結婚する時に、自分の中で決めました。

 

浮気をしたら、というより自分でいったん誓ったことを破るとダメだ、という意味合いですかね。

 

「悪いことをしたらバチが当たるよ!」と子供の頃、おばあちゃんによく言われた戒めの延長上です。

 

〈中略〉

 

これは、誰かにバレる、バレない、という話じゃありません。バレなきゃいいだろうと、いい加減なことをしたら、結局、それが自分に跳ね返ってくる。

 

そう強く思っているということなんです。

 

私は無宗教ですが、神さまはいると信じているんです。

誰に言われたわけでもないけど、そうなんだから仕方がない。

 

世の中よくできたもので、ズルいことをやってその時はうまくいっても、長い目で見れば、やっぱりマイナスなんです。

 

〈中略〉

 

もちろん、妻以外の女性を見て、「イイ女だなあ」と思うことはありますよ。そういう感情を押し殺すことは無理な話です。

 

ただ、絶対に浮気はしない、というルールをつくった。そういうことです。これは妻に宣言したわけでもなく、自分の中で決め、そして遵守しているものです。」

 

引用以上

 

 

長年にわたって主役に抜擢される方々の話などから次のことが思わされました。

 

奥様とお子さん、世の中の人々を愛しているので、裏切って悲しませることはしたくない。

 

また、自分の力で今の立場に立っているのではなく、皆さまのお蔭で立たせて頂いている。

 

もしも、スキャンダルを起こせば、多くの方々に多大なご迷惑をおかけし、裏切ることになり、失望もさせることになるので、そのような事を絶対にしたくないというプライドがある。

 

なので、長年にわたって「世の光」となって、活躍されていると思いました。

 

 

今は多くの人々がスマホで直ぐに写真を撮って、Twitterなどで拡散する時代です。

 

どこの道で歩いていたら、どこの店にいたら、あの有名人がいたよ!という感じです。

 

また、週刊文春など、スクープ記事を狙った者たちもつけ狙っています。

 

長年にわたって活躍されている方々は特に狙われていて、もしもスキャンダルがあれば、発覚する可能性は極めて高いです。

 

数年後、10年以上経ってからでも明るみにされるケースも増えてきました。

 

 

次に「キリスト教」の聖書のイエス・キリストの教えを見ていきます。

 

マタイの福音書4章25節

「 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群集がイエスにつき従った。

 

この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。

 

そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

 

「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

 

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

 

兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。

 

また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(5章20~22節)」

 

「 『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 

しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

 

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

 

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(5章27~30節)」

 

 

この教えは、あなたがた(イエスを信じてつき従って来た群衆と、イエスさまの12弟子たち)について教えられたことが、小学生でもわかります。

 

「あなたがたの義」つまり「クリスチャンたちの義」についての教えです。

 

その理由は「もしあなたがた(イエスを信じてつき従って来た群衆と、イエスさまの12弟子たち)の義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」だということも、文章力を学んだ小学生たちもわかるでしょう。

 

 

この「クリスチャンたちの義」の教えは、非常に厳しすぎる教えです。これだとイエス・キリストを信じなかったほうが楽に生きれるでしょう。

 

この教えをする前に、イエスさまはこのように言われました。

 

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。

もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

 

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

 

また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

 

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(5章13~16節)」

 

 

イエスさまを信じて、つき従う者たちは「地の塩」であり、「世界の光」です。

 

その「クリスチャンたちの義」は、現在で言えば「世の中の義」よりもまさるものです。

 

そして、イエスさまの12弟子たちには、さらに追加して、次のように教えられました。

 

「 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」

 

そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。

 

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」

 

「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、

もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまづかせるなら、それを切って捨てなさい。

 

片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

 

また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。

 

片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。マタイの福音書18章1~9節」

 

 

イエスさまは12弟子たちに、「クリスチャンたちの義」を追加して、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、燃えるゲヘナ(火の池)に投げ込まれると教えられました。

 

 

ですから、イエスさまの12弟子たちと、イエスさまを信じてつき従って来た群衆は、この非常に厳しい「クリスチャンたちの義」」の教えを遵守するように心がけたことでしょう。

 

それゆえ、クリスチャンたちが集まる「教会」では、兄弟姉妹に対して「バカ者」などという心を傷つける言葉をいうのを自制するでしょう。

 

また、情欲を抱いて女性を見ることも自制されます。

 

そして、子どもたちをつまずかせることもありません。

 

 

イエス・キリストを信じた「クリスチャン」とは次のような者です。

 

「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

 

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

 

いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

 

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。(ガラテヤ書2章19~21節)」

 

 

そしてキリスト教の「教会」とは次のような教会です。

 

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

 

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙1章22~23節)」

 

 

ですから、イエスさまが教えられた「クリスチャンたちの義」についての教えは、地獄に投げ込まれるという非常に厳しい教えですが、至極当然なことだと言えるでしょう。

 

 

前述の世の中で、長年にわたって世の光となって活躍されている方々は、ものすごい誘惑が何度もあったり、悪い人たちもたくさんいる世界にいます。

 

もしも、一度でも、他人を傷つける言葉を発したり、情欲を抱いて女性を見たり、子どもをつまずかせることがあれば、すべてを失う可能性があるわけです。

 

ですから、この聖書のクリスチャンに対する厳しい「義」の教えは理解されると思います。

 

「世の光」として活躍し続ける立場は、それぐらいの「義」が必要です。

 

 

しかし、多くの「キリスト教会」は違います。

 

プロテスタント教会の場合ですと、

 

「イエス・キリストを信じる者は救われる。信じない者は救われない。」という神学・聖書解釈と福音理解です。

 

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。ヨハネの福音書3章36節」という教えが土台です。

 

それゆえ、イエス・キリストが教える地獄行きの教えは、すべて「イエス・キリストを信じていない人々」に対してでなければなりません。

 

クリスチャンになれば、過去・現在・未来におけるすべての罪は赦されるのだから、

 

それゆえ、クリスチャンたちは、兄弟に「バカ者」と言ったり、情欲を抱いて女性を見たり、子どもをつまずかしても、すべて赦されます。

 

もちろん、相手が傷ついたと訴えたら、加害者のクリスチャンは謝罪します。

 

しかし、被害者には「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(マタイによる福音書18:22)」という御言葉が適用されます。

 

また、イエス・キリストを信じた者は、罪を犯しても地獄に投げ込まれることはないことにしないと、神学・聖書解釈と福音理解が崩壊してしまいます。

 

ですから、イエスさまが教えられる「クリスチャンたちの義」を曲解させるしかありません。

 

「イエス・キリストを信じていない人々は罪を持っているために地獄に行く。神は罪を赦されないからである。それが神の義です」というように教えています。

 

そうなれば、クリスチャンたちは、陰で罪を犯し放題になります。

 

特に、牧師や伝道師、宣教師、信徒リーダーたちは罪を犯しやすい環境が整います。

 

 

そして、カトリック教会も未だに「教会の外に救いはない」という教えが深く残っているそうです。

 

それだと、イエスさまが教えられている「クリスチャンの義」を正確に教えているのでしょうか?

 

 

それは、前々回(126)前回(127)の投稿記事で一部を紹介しましたが、

 

世界各国でプロテスタント教会とカトリック教会で次々と公表され続けている「少年少女たちに対する性的虐待の実態」を見れば明らかです。

 

その公表は氷山の一角なのです。

 

そのような神学・聖書解釈と福音理解のキリスト教会のクリスチャンたちが「世の光」として輝くことがあるでしょうか?

 

現在、日本の既成のキリスト教会に属していて、その日本のキリスト教会の中では有名な人たちがいます。

 

しかし、世の中の人々に聞けば「誰それ?知らんわ!」という状況も至極当然と言えるでしょう。

 

さらに、次回は「クリスチャンたちの義」について、それは地獄行きの恐ろしさで罪をやめさせる教えではないことを見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 127 どうしてキリスト教会で性被害が多いのか?」

 

前回の記事の性被害問題を更に追及していきます。

 

昨年の9月に、ジャニー喜多川氏の少年たちに対する性加害問題をめぐり、ジャニーズ事務所が会見を開きました。

 

東山新社長は「本当に人類史上最も愚かな事件だと思います。やってることは鬼畜の所業だと思っています。」と糾弾しました。

 

「鬼畜(きちく)は、人を人とも思わないような残酷な行為、また性的行為を含む非道な行為をする人間を指して言う。(ウイキペディア)」

 

東山新社長の「鬼畜の所業」という発言をマスコミも国民も異議を唱えることなく、的を得ているような反応でした。

 

 

日本では、18歳未満の未成年との性行為はこのように定めています。

 

「青少年保護育成条例違反(2年以下の懲役または100万円以下の罰金)」

 

「児童福祉法違反(10年以下の懲役または300万円の罰金)」

 

「強制わいせつ罪(6か月以上10年以下の懲役)」

 

まだまだ重くすべきという声は多いです。

 

日本では、18歳未満の未成年との性行為はこのように大きな罪であり、強制わいせつ罪を行なえば、実名報道で、逮捕された恥ずかしい姿が全国に知れ渡ります。そして刑務所に入れられます。

 

 

普通の人間は、少年少女たちと不自然な肉欲を求めることはありません。そんなことを思ったこともないでしょう。

 

また、一生涯において、少年少女に性的ないたずらをしたこともないでしょう。

 

しかしながら、一部の人間に不自然な肉欲を求める人たちもいますし、小児愛者という者たちもいるそうです。

 

そのため、この日本では、少年少女たちと不自然な肉欲を求める人々が罪を犯させないように努力しています。

 

また、少年少女たちと不自然な肉欲を求める人々にとっては非常に危ない橋を渡ってまで罪を犯すことになります。

 

 

しかし、「キリスト教会」はまるで違うのです。

 

不自然な肉欲を求める人々にとって、犯罪がやりやすい環境が整っているのです。

 

それゆえ、不自然な肉欲を求める人々が教会に集まって来る。

 

そして、頑張って神学校に入りさえすれば、教会では「神学生」として尊敬されます。

 

卒業すれば、どこかの教会で伝道師か信徒リーダーとして用いられます。

 

すると教会の少年少女たちにも信頼されて親密になれるのです。

 

ですから、キリスト教会の中で少年少女たちの性被害が多く、絶えることはありません。

 

 

アメリカの巨大教会の一つプロテスタント教会の「ハイポイント教会」では、2018年にこのような事がありました。

 

ジュールス・ウードソンさんが自身のブログ記事で、今から20年前の17歳の時に、教会のサヴェッジ牧師に性的暴行を受けたことを告白しました。

 

事件当時、ウードソンさんは、他の牧師に性的暴行事件のことを相談したのですが、「内密にする」という一言だったのです。

 

そして、サヴェッジ牧師は別の教会に移って、事件をうやむやにしたのです。

 

ところが、20年経って、ウードソンさんの告白が大きな波紋を起こしたために、サヴェッジ牧師は教会で、20年前に17歳の少女を性的暴行した罪を認めて悔い改めました。

 

すると、教会の信者たちは、サヴェッジ牧師に対して「素晴らしい!」と絶賛し、拍手喝采をしながらスタンディングオベーションをしたのです。

 

そして、その巨大教会のクリス・コンリー主管牧師は「被害者女性の心の傷が癒えておらず、我々は残念に思う。」とコメントしたのです。

 

このニュースを聞いた世界中の人々や日本人たちは非難ごうごうでした。

 

「牧師は未成年の少女を強姦しても平然と牧師を続けて天国へ行ける。。。とち狂っている!」

 

「懺悔すれば、それで赦される。。。だからキリスト教は大嫌いだ!」

 

「何が、被害者女性の心の傷が癒えていないことに残念だ、そういうコメントをすることが恐ろしい!」などなどです。

 

 

2017年に始まった「#ChurchToo」運動があります。

 

聖職者による虐待を経験した人、虐待の事実を訴えたものの、無視されたり、隠蔽されたり、被害者本人のせいにされた人たちが、SNSなどのオンラインの場で告白したり連帯するために作られたものです。

 

ジョイさんの一連のツイートは、こんな告白から始まりました。

 

「16歳のとき、イリノイ州ピオリアにある福音派の大規模な教会『ノースウッズ・コミュニティ教会』に通っていました。

 

ここで青年会担当のリーダーをしていた30代前半の男性に虐待されたのです」

 

そして、このツイートを見て行動を起こしたのが、ディングルさん。

 

彼女の投稿に返信する形で、「#ChurchToo」のタグと共に自身の経験を告白することにしたのです。

 

すると24時間も経たないうちに二人のツイートが<Time誌>で取り上げられ、この運動が広まるきっかけとなったのです。

 

 

#ChurchToo 調査の中でこのような事実が判明しています。

 

性的虐待の告発があった場合、教会では「(性行為をすることが)神の意図だったから」などと、加害者側に寛大な態度をとる傾向があるとも言われています。

 

そして被害者は無力感にさいなまれ、ガスライティング効果などにより「悪いのは自分」だと思ってしまうことも。

 

教会は長きにわたり、性的虐待の事実をうやむやにし、なかったことにしてきました。公にさえならなければ教会側の権威に傷はつかない―― そういう姿勢だったのです。

 

さらに前述のことについても、#ChurchToo は、このように発信しています。

 

「加害者が自らの不正行為を認めると、すぐに許されるだけでなく『立派な人だ』と褒められることさえある…という事実には驚愕する人も多いでしょう。

 

2018年、アンディ・サベージ牧師(既婚者、5児の父)は、メンフィスのメガチャーチで“ある告白をしました。

 

1998年、サベージ牧師が22歳のとき、女子高生に対して犯した性的事件を信徒の前で話したのです。

 

なんと、公の場で「許しを請うた」姿勢はスタンディングオベーションで称賛されました。

 

被害者であるジュール・ウッドソンさんは<ニューヨーク・タイムズ>のインタビューに対し、こう答えています。

 

「彼がズボンのチャックを下ろし『ペ〇スをしゃ〇って』と言ったのを覚えています。

 

当時の私は彼を尊敬し信頼していたので、彼にそうして欲しいと言われたとき『彼は神に仕える人なのだから』と思ってしまったのです」

 

パーシュさんによれば、「男性の教会リーダーは権威そのものであり、神の言葉を伝える人だと考えられている」とのこと。

 

そのため、良き教徒でありたいという葛藤が被害者の中で生まれてしまうのです。

 

「被害者は『これは信徒の間で起きた罪であり、神はあなたが加害者を許すことを望んでいるはず』と説得され、『許さなければ良い教徒ではない』と思い込まされるのです。

 

サベージ牧師の例は、教義を加害者に都合の良く解釈している、わかりやすい例のひとつでしょう」

 

また、「告発は、氷山の一角」だと「#ChurchToo」は、キリスト教会に対して大きな危機感を持っていました。

 

それゆえ、虐待被害者やサバイバー、特にこれまで見過ごされた存在だった「聖職者から性的虐待を受けた女性被害者」から共感を持って受け止められています。

 

 

さらに、このような記事がありました。

 

「米最大のプロテスタント教派である南部バプテスト連盟(SBC)で、過去20年間に牧師や執事、日曜学校の教師ら約380人が性的虐待を行い、被害者が700人以上に上ることが報じられた。

 

テキサス州の新聞2紙が共同で調査報道したもので、SBCの指導者らは被害の究明に乗り出す考えを示している。」

 

 

福音派の教会の確信している教えは、次の通りです。

 

イエス・キリストを信じたクリスチャンは、どんな罪を犯しても赦される。さばきを受けることがない。

 

「御子を信じる者はさばかれない。ヨハネ3:18」と書かれている通りです。

 

 

個人的に、聖神中央教会事件のことで、このような疑問がわきました。

 

「少女たちを汚した牧師はイエス・キリストを信じているので天国へ行く。

 

しかし、もしも被害にあった少女がつまずいて、イエス・キリストを信じることが出来ずに死んだとすれば地獄へ行ってしまうのか?

 

そうだとすれば理不尽すぎる」と

 

それで、いくつもの福音派の教会の牧師、伝道師、宣教師、信徒リーダーたちに質問しまくったことがあります。

 

そして、その答えを集約すれば、このようになります。

 

「何人もの少女たちを汚した牧師は、イエス・キリストを信じているので永遠の命を持ち、天国へ行ける。この救いは取り消されません。

 

御子を信じる者はさばかれないと聖書は約束しているからです。

 

そして、牧師に汚された少女たちは、キリスト教会での性的暴行が原因で、イエス・キリストを信じることを出来ず、死んでしまったら、地獄に行きます。

 

人間にとっては、それは理不尽に思えますね。

 

しかし、それが聖書が教えていることなのです。

 

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。ヨハネの福音書3章36節」

 

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。使徒の働き4章12節」

 

ですから、どんな理由があれ、イエス・キリストを信じずに死ねば、

 

その少女の罪(アダムの原罪とウソをついたり日々犯す罪、何よりもイエス・キリストを信じないという罪)は赦されることはなく、

 

最後の審判で、命の書に名の記されていない者は地獄へ行ってしまうのです。」

 

ですから、福音派の教会の牧師、伝道師、宣教師、信徒リーダーたちは

 

「少年少女を性的暴行した牧師やクリスチャンたちはイエス・キリストを信じているので天国へ行きます。

 

そして、教会で牧師やクリスチャンたちに汚された少年少女たちがイエス・キリストを信じることなく死ねば、非常に残念ながら地獄へ行ってしまうのです。」という教えで一致していました。

 

 

このような神学・聖書解釈と福音理解ですので、少年少女たちに不自然な肉欲を求める人たちが、キリスト教会に集まり続け、少年少女たちに対する性被害は絶えることはないのも当然だと言えるでしょう。

 

「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

 

つまずきを与えるこの世はわざわいだ。

 

つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。

 

もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまづかせるなら、それを切って捨てなさい。

 

片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

マタイの福音書18章6~8節」

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 126 キリスト教の司祭(神父)や牧師たちの正体と性的虐待について」

 

今年の夏ドラマ「スカイキャッスル」を興味深く見ていますが、受験講師のマインドコントロールによって次々に死に導かれていることがわかってきました。

 

これは「キリスト教会」も同じだと思います。教会の牧師の教えによって「イエス・キリストを信じない人々は滅びに向かっている」ということを信じ込まされている。

 

また「不自然な肉の欲を求めた者たち」=「同性愛者」ということを信じ込まされたりします。

 

つまり、マインドコントロールされているわけです。

 

そして恐ろしいことに、実はマインドコントロールされているほうが滅びに向かっていることもあるわけです。

 

聖書はそういうクリスチャンたちが大勢いる。

イエスさまの来臨時に「不法をなす者ども、わたしから離れ去れ!」と言われることが明確にされています。

 

その事を最近になって気づいたので、ブログ記事で発信しています。

 

 

「NHK国際ニュースナビ」の2022年8月30日の特集記事のタイトルです。

 

「地獄に行くのが怖いから…」男の子たちが受けた性的虐待

 

記事の内容をピックアップしますと

 

「2021年10月、フランスでは、ある報告書が発表されました。

報告書をまとめたのは、フランスの司教の団体などが立ち上げた独立委員会。

 

世界各地でカトリック教会の聖職者による未成年者への性的虐待が明らかになっていたことを受けてのことでした。

 

その報告書は、フランスのカトリック教会で、1950年から2020年にかけて、少なくとも2900人から3200人の聖職者が、未成年者に対して性的虐待を行ったと推計しています。

 

被害者の数は21万6000人に上り、その8割近くが男の子で、被害を受けた時の年齢は、10歳から13歳に集中しているとしています。

 

現在18歳以上のフランスの男性、約100人に1人(1.3%)が、未成年のころ、なんらかの被害を受けたという推計になります。」

 

「司祭は、よく天国と地獄の話をしていました。

 

『天国に行きたければ、やらなければいけないことがある。そうでなければ、地獄で焼かれることになる』。

 

子どものころの私たちは、地獄が怖いから、司祭の言うとおりにしたのです」

 

今回取材に応じてくれたフラモンさんは、当時の心境についてこう話しました。」

 

引用以上

 

 

これはフランスのカトリック教会の話だけではなく、世界各国のカトリック教会の調査で同じことが起きています。

 

また、カトリック教会だけではなく、世界各国の「プロテスタント教会」でも同様の性的虐待の調査報告が公表されています。

 

日本でもプロテスタント福音派の教会の中では尊敬されていた「聖神中央教会」の主管牧師による「聖神中央教会事件」は日本中を震撼させました。

 

信者の少女7人に対して計22件の性的暴行を繰り返したとされる事件で、強姦、同未遂、準強姦の罪に問われた。

 

ウィキペディアによれば

主管牧師は「霊肉祝福」「これは祝福だ」

「拒否すると地獄に落ちる」と称して性的虐待を行った。

 

京都地方裁判所は「『姦淫するなかれ』との教えとはまったく逆に、欲望の赴くままに被害者らを次々と強姦したもので、自己中心的で身勝手だ」

 

「主管牧師の地位を乱用し常習的に犯行を重ねており、性犯罪事案の中でも極めて悪質」と断罪し、主管牧師に懲役20年の判決を言い渡した。

 

引用以上

 

 

世界各国で、カトリック教会で、プロテスタント教会でも「キリスト教会」の中で「少年少女たちに対する性的虐待」が起き続けています。

 

しかも多すぎます。

 

その要因はいろいろあるのですが、根本的に言えるのは間違った神学・聖書解釈と福音理解が主な原因だと確信しています。

 

カトリック教会は「教会の外に救いはない」という教えが根強くあるそうです。

 

第二バチカン会議ではそうではない教えに変革されましたが、保守派をはじめ、そう簡単には変えられないようです。

 

プロテスタント教会では「御子イエスを信じる者は永遠の命を持つが、御子イエスに聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

 

つまり、イエス・キリストを信じていない者たちは、滅びに向かっていて、そのまま死ねば永遠の火に投げ込まれる。」という神学・聖書解釈と福音理解です。

 

なので、司祭や牧師たちが、少年少女たちを性的虐待にあわせる時に「地獄行き」の教えを効果的に必ずといっていいほど使っています。

 

 

それでは聖書の教えを見てみますと、これまで見てきたように、地獄へ行くのは次のような人々です。

 

「悪魔が蒔いた毒麦であり、蛇ども、まむしの末どもと言われる人々」であり、

 

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」という人々であり、

 

「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう」という人々です。

 

そして最後の審判では、

『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』という理由で、永遠の刑罰に入ります。

 

このように聖書の教えを正しく教えている者であれば、少年少女たちに「地獄行き」の教えでつまずかせたり、深く傷つけたりすることは出来ないのです。

 

 

そして、聖書の教えは、少年少女たちに性的虐待することは地獄の炎の中に投げ込まれるほど恐ろしい罪だと教えています。

 

イエスさまは12弟子たちに「この小さな子どもの1人にでもつまずきを与える者は、永遠の火の中に投げ込まれる」と警告されました。

 

 

また、このように教えています。ソドムの罪です。

創世記‬ ‭19章1~13‬ ‭節 新共同訳聖書

 

二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、 言った。 「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。」

 

彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、 わめきたてた。

 

 「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」

 

この「なぶりものにしてやるから」の翻訳は他の聖書解釈では「知りたいから」と御使いたちとの不自然な肉の欲のこととなっています。

 

その事について、ユダの手紙に詳しく書かれています。

 

「一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。

 

ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。ユダの手紙6~7」

 

つまり、御使いたちとの不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けたと教えています。

 

 

現在では、御使い(天使)はわかりませんが、小さな子どもたちは「天使」と呼ばれています。

 

もしも、その子どもたち(少年少女)に性的な欲の満足を求めることがあれば、それは不自然な肉の欲の満足を追い求めることになります。

 

体が未熟すぎて、少年少女たちに性行為は不可能です。

 

もし強引に行えば、裂傷します。傷害罪です。

 

また、それが原因で死に至るケースもあります。

 

大人になってから市販薬の過量摂取(いわゆるオーバードーズ)によって自殺未遂した女性の多くは少女時代に性的虐待を受けたことが判明しています。

 

何より、少年少女たちにとっては地獄の恐怖を与えるだけの行為です。

 

聖書の教えでは、子どもの1人にでもつまずきを与える者は、永遠の火に投げ込まれます。

 

さらに、不自然な肉の欲の満足を追い求める者たちは、永遠の火の刑罰に入ります。

 

ですから、少年少女たちに対する性的虐待を行なう人々は、永遠の火に投げ込まれる。

 

それが、聖書とイエス・キリストの教えであります。

 

 

ところが、カトリック教会やプロテスタント教会ではそうではない。

 

そういう教えをしていません。

 

あくまでもイエス・キリストを信じる者たちは永遠の命を得て、イエス・キリストを信じない者たちが地獄(カトリックでは煉獄)へ行くのです。

 

牧師や司祭(神父)、伝道師、宣教師、クリスチャンたちは地獄へ行かないのです。

 

また、プロテスタント教会では、イエス・キリストを信じたクリスチャンたちは過去・現在・未来において、すべての罪が赦されると教えているところが多いです。

 

そうなれば、牧師やクリスチャンたちの中で、少年少女たちに肉の欲の満足(性的行為)を追い求めても、地獄には行かないという聖書解釈と福音理解となります。

 

まして、教会の中という閉塞感がある中です。

 

なので、平然と性的虐待を行なうことが可能となり、その加害者は数多い現実も当然だと思います。

 

 

そして、「不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。ユダの手紙6~7」というのは、「同性愛者」のことです。と教えている教会の牧師は数多いです。

 

 

これでは、キリスト教会の中で、少年少女たちに対する性的虐待が数多く起きていているのも不思議ではありません。

 

イエス・キリストは次のように弟子たちに警告しました。

 

「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。

 

まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

マタイの福音書18章10節」

 

つづく

 

写真の説明はありません。

「日本におけるキリスト教 125 自分の滅びを招くクリスチャンたちについて」

 

ここ最近、使徒パウロが書いた手紙の中からこの御言葉を続けて伝えています。

 

「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。

神の賜物と召命とは変わることがありません。

 

彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

 

なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

 

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。ローマ人への手紙11章28~32節」

 

この御言葉を曲解せずにそのまま信じれば、不従順のうちに閉じ込められていることは、神のあわれみであって感謝すべきことです。

 

それは、まさに「主イエスの忍耐深さによる救い」と考えることができます。

 

 

その事について、使徒ペテロは次のように教えています。

 

「また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。

 

それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。

 

彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。

 

その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。

 

それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。 ペトロの手紙二 3章15~17節」

 

 

この中で着目すべきはこのことです。

 

クリスチャンの中で、無学な人や心の定まらない人たちは、使徒パウロからの手紙を聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いているというのです。

 

その事について、イエスさまも次のように警告されました。

 

「同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。

良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。

 

良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

 

こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

 

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

 

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』マタイの福音書7章17~23節」

 

 

この「不法をなす者ども」は、イエスさまが来臨された時に、大勢いるのです。

 

 

以前、「不法をなす者ども」については、クリスチャンで悪い人たちだと思っていました。

 

では自分自身に悪いことはないのでしょうか?

 

私自身、初めにプロテスタント福音派の教会のクリスチャンになってから、音楽制作など夢にも思いませんでした。

 

けれど、教会で自分の進路に悩んでいる女子高生が、「ゴスペル音楽を習いたい」と言うので、ゴスペル教室の講師を探し出したことがきっかけでした。

 

それから教会の無名のクリスチャンの歌い手たちとタッグを組んで、児童養護施設や老人ホームなどでコンサートを企画して行ないました。

 

すると、次々に夢が芽生えました。

 

ゴスペル教室を全国に立て上げる。無名のクリスチャンの歌い手によってCDを制作してミリオンセラー、NHK紅白歌合戦出場などです。

 

そして、音楽制作で金を儲ければ、児童養護施設を建設するという夢が出来ました。

 

結局、関西で6つの教会でゴスペル教室を開校しましたが、5つは、ゴスペル講師と教会の牧師が手を結んで、こちらは不要だということで排除されました。

 

あとの一つは、新しく来たゴスペル講師がほとんどの生徒を引き抜いていったので、存続不可能になったのです。

 

 

また、自分が企画したことが新聞報道されて当たれば、ゴスペル講師が「私の企画を奪われた」と陰で言い広めていました。

 

それで、協力してくださった有名ゴスペル歌手が、私に対して怒っていました。

 

それだけでなく、当時、関西で一番のゴスペル会社の社長が、NHK大阪ホールでゴスペルコンサートを開いて成功させたことで激怒していました。

 

他にもゴスペル会社同士の醜い争いや、不祥事などをたくさん見聞きしました。

 

日本のゴスペル界は「キリスト教会」という狭い世界の中でビジネスをしているので、仕方がありません。という声もありました。

 

だけど、クリスチャンたちの「日本のゴスペル界」は、教会の牧師たちと密接になって、「金」や「名声」など、世の中の芸能界と同じで失望しました。

 

けれど、それは自分自身も同じです。

 

全国にゴスペル教室を立ち上げたり、クリスチャン歌手がミリオンセラーやNHK紅白歌合戦出場などは、

 

それは「主イエスの栄光のためです。音楽制作で儲けた金で、児童養護施設も建設します。」という大義名分がありました。

 

しかし、主がすべてご存じです。

 

音楽で一発当たれば、何億という金が入ってきますし、地位と名声も手に入ります。

 

ゴスペル教室には若い女性がたくさん来ていました。

 

野心はほんの少しでもないか?と確認されるようでした。

 

それで、悔い改めて、「教会では何もやるまい」と決めて、粛々と御言葉からの作詞作曲の音楽制作だけが与えられました。

 

 

この経験から、野心を持ってしまったり、排除されたりすることも、「不法をなされた」というより、自分自身や相手にとって悔い改めに導く方法でもあると思いました。

 

なので、「不法をなす」ということは、

 

使徒パウロからの手紙を聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いていることに他ならないですね。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 124 私がクリスチャンをやめた理由と無教会について」

 

今日も35℃という真夏の暑さが続いています。

寝る時もクーラーが必要で、真夏が9月になっても続いているので、夏バテ気味ですが、ZARDの「負けないで」にも励まされて、ブログ記事も頑張って書いています。

 

ここ最近、「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。」という御言葉を伝え続けているうちに、私がクリスチャンをやめた理由を痛感させられています。

 

 

私はプロテスタント福音派の教会に長年在籍しており、音楽制作やゴスペル教室の開校の働きをしていましたので、何十という超教派の教会と交わりを持っていました。

 

その時に、教会でイエス・キリストを信じた人が洗礼を受ける日に何十回と出席させて頂きました。

 

その多くは牧師・宣教師・伝道師家族かクリスチャン家族の中の誰かが洗礼を受けていました。

 

教会のクリスチャンたちは、自分の家族を教会に連れていくのが常識のような信仰があります。

 

それゆえ、クリスチャンホームで生まれ育った子どもたちは、物心ついた時から、「イエス・キリストが神である」ということと聖書の御言葉を教え込まれます。

 

それでも、イエス・キリストを信じることができない息子や娘、父母のことを、次の御言葉を信じて、熱心に祈り続けます。

 

「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。

こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。

ヨハネ14章13-14節」

 

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。

1ヨハネ5章14節」

 

 

日本の脚本家、劇作家、演出家「倉本 聰」先生は、『石原プロの大都会』『前略おふくろ様』『北の国から』など多くのヒット作を生み出されました。65歳で紫綬褒章、75歳で旭日小綬章を受章されています。

 

倉本先生の両親は、おじのキリスト教界の中で大きく用いられている「山谷省吾」牧師の影響で、クリスチャンとなったそうです。

 

そのクリスチャンホームで生まれ育った倉本先生は、自叙伝「いつも音楽があった」の中で、このように言っています。

 

「幼い頃両親の命令で日曜学校へ通っていた。

 

いやでいやで仕方がなかったのだけど、父も母も熱心な信者だったから有無をいわさず通わされた。

 

幼児洗礼というのまで受けた。

 

しかし中学高校とすすみ他にやることがいっぱい出来て教会から次第に足が遠のいた。

 

それでもクリスマスが近づくと、何か自分だけ取り残される気がしてあわてて教会に通い出す。

クリスマスが済むともう行かない。そんなことが二、三年くり返された。

 

多分三年目のクリスマス、日曜学校の先生から皆の前で皮肉を言われた。

 

近頃、クリスマスが近づくと教会に来だす生徒がいるー

 

それ以来本当に行かなくなった。キリスト教と縁が切れた。

ところがー」

 

「すると、突然どうしてか脳裏に一つの讃美歌が聞こえてきたんです。

 

主われを愛す 主は強ければ われ弱くとも 恐れはあらじ

 

終焉であります。最期であります。将にそのいまはの際に立たされて、小生突然にクリスチャンになった。」

 

倉本先生は、幼い頃から両親の命令で日曜学校へ通っていました。

いやでいやで仕方がなかったそうです。

 

そして教会学校の教師の皮肉によって、教会と縁を切ったのですが、讃美歌「主われを愛す」が聞こえてきて、イエス・キリストを信じたのです。

 

つまり、キリスト教会とは縁を切っても、イエス・キリストとはつながっていたのです。

 

 

キリスト教会では、倉本先生のような証をよく見聞きしました。

 

親が牧師やクリスチャンの子どもが、教会には行かなくなっても、数年後か何十年後にイエス・キリストとつながっていたという証です。

 

 

ですから、クリスチャンの家で生まれ育てば、イエス・キリストを信じる可能性は非常に高いと実感しています。

 

ですが、その反対に祖父母からイエス・キリストとは無縁の家に生まれ育てば、イエス・キリストを信じる可能性は非常に低いのです。

 

私自身もそうです。私の両親は、祖父母のその前の先祖代々から「浄土真宗」でした。

 

父親の実家は浄土真宗の檀家ですので、父親は「浄土真宗のコチコチ」と言うくらいで、死ぬまで浄土真宗の信者でした。

 

母親のほうも、最近、死ぬほどの痛みが続いた時、「親鸞聖人様」に必死で祈り続けていました。

 

私が長年、イエス・キリストを伝え続けた努力は何だったのだろうと虚しい感じがしました。

 

私のような経験を持つ元クリスチャン(キリスト教と縁を切った)は数多いです。

 

ですから、いつまでも日本はクリスチャン人口は約1%弱だと言えるでしょう。

 

 

しかし、牧師やクリスチャンたちはいいです。

 

自分たちの子どもはイエス・キリストを信じる可能性は非常に高いですし、もし生前にイエス・キリストを信じると告白しなかったとしても、

 

死ぬ直前にでも、倉本先生のように、突然に讃美歌が聞こえたり、イエスさまがサウロ(パウロ)に現れたように、その人の心の中でイエス・キリストを信じたという可能性があるのです。

 

それは前述の「ヨハネ14章13-14節」「1ヨハネ5章14節」の御言葉によって、可能性どころか、信じたと確信することも出来ます。

 

また、親がクリスチャンというクリスチャン二世、三世の牧師夫妻も数多いです。

 

ですから、牧師たちクリスチャンホームは「神から愛されている」「ハレルヤ!主に感謝します!」という喜びの声で満ち溢れています。

 

 

それから、どこの国で生まれ育つかということも影響します。

 

クリスチャン国家で生まれ育てば、祖父母から父母、私たち子どもも、友人たちもクリスチャンです。という人は多いです。

 

アメリカにホームステイした時、「皆がクリスチャン」という状況に驚きました。

 

その反対に、北朝鮮で生まれ育てば、祖父母から「家族や友人、皆が将軍様を崇拝しています。」ということになるでしょう。

 

インドネシアは、人口の87.2%、約2億人のムスリムを擁する世界最大のイスラームの国ですので、インドネシアで生まれ育てば先祖代々から「イスラム教徒」という家族は圧倒的に多いそうです。

 

アフガニスタンですと、米国中央情報局(CIA)の『ザ・ワールド・ファクトブック』によると、イスラム教のスンナ派は人口の84.7〜89.7%、シーア派は10〜15%を占めている。0.3%は他の少数派の宗教を信仰している。ということです。

 

なので、100%近い約99,7%はイスラム教徒であるから、アフガニスタンで生まれ育つと、皆がイスラム教徒という家族ばかりです。

 

 

このように、どこで生まれ育つかによって、イエス・キリストを信じる可能性は非常に高かったり、非常に低かったりします。

 

もしも「イエス・キリストを信じる以外に救いはない!」ということが本当だとすれば、

 

平等ではありません。不平等であり、非常にアンフェアです。

 

イエス・キリストを信じることが非常に低いところで生まれ育った人たちからすれば

 

「そんな非常にアンフェアな神をどうして信じることが出来るか!」という話です。

 

イエス・キリストの三年半の地上での福音宣教は、イスラエルとその周辺という感じですが、どうして、全世界を行き巡らなかったのか!という話にもなります。

 

 

ですが、何度も繰り返しますが、聖書を読めば、このように教えているのです。

 

「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。

 

彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

 

なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

 

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。」

 

 

この御言葉通りに、「イスラエルの民」の現状は、このようになっています。

 

ユダヤ教(約74.0%)、イスラム教(約18.0%)、キリスト教(約1.9%)、ドルーズ(約1.6%)

(2020年、出所:CBS)

 

イスラエルの民の約98,1%はイエス・キリストを信じていないのです。

 

そうではなく、イエス・キリストを憎んでいます。かなり憎んでいるそうです。

 

その憎悪は、中国や韓国が日本を憎んでいる比ではないそうです。

 

次の記事で書きますが、イスラエルの民がイエス・キリストを憎んでいるのは、既成のキリスト教会の牧師・神父・クリスチャンたちの神学・聖書解釈と福音理解による行ないによるものです。

 

そうして、イスラエルの民は、イエス・キリストに対して不従順のうちに閉じ込められています。

 

 

イエスさまは、「選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者たち」をイエスさまに対する不従順のうちに閉じ込めました。

 

それで、すべての民は平等です。

 

どこで生まれ育っているかは関係がありません。

 

もしも、現実とは真逆に、イスラエルの民の約98,1%がイエス・キリストを信じているならば、不平等であり、アンフェアです。

 

イエスさまの御父は「イスラエルの神」です。

 

そのイスラエルの神を信じているイスラエルの民は、イエス・キリストを信じているので天国に行き、他の国の民はイエス・キリストを信じていないので地獄に行くということになります。

 

そんな、「自分の民をめちゃくちゃ愛しているけれど、他の民はどうでもいいというアンフェアな神さまなど、誰が信じるか!」という話です。

 

 

ですから、至極当然に、イエスさまは最後の審判における「さばき」をイエス・キリストを信じているか、信じていないかということにされませんでした。

 

イエス・キリストを信じていない人々に対する「さばき」は、

神に不従順のうちに閉じ込められた状態でもよい。

 

ただ、最も小さき者の1人が助けを求めている時に、水の一杯でも飲ませてあげる行ないがあれば、

 

「わたしの父に祝福された人よ。あなた方のために備えられた御国を継ぎなさい」「正しい人は、永遠のいのちに入るのです。」と言われました。

 

 

ですが、「罪」の問題がありました。

 

イエスさまの「わたしの父」であるイスラエルの神は、罪を赦されませんでした。

 

なので、イエスさまがすべての人の罪を十字架で背負われたのです。

 

「 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

 

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

 

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ローマ人への手紙5章6~8節」

 

なんと、イエス・キリストを信じた人たちのためではなく、イエス・キリストに不敬虔な罪人たちのために十字架上で死んでくださったのです。

 

そのイエス・キリストの十字架の死によって、すべての人の罪が赦されました。

 

ちなみに、無教会の内村鑑三先生の聖書解釈と福音理解は、このローマ人への手紙5章6~8節からも万人救済を説いています。

 

アフガニスタンで殉教された中村哲先生と同じく、この無教会の内村鑑三先生の聖書解釈と福音理解との出会いによって、自分自身の聖書解釈と福音理解が開かれました。

 

 

その無教会になってからの聖書解釈と福音理解は次の通りです。

 

イエスさまは、御自身に不敬虔な罪人たちのために十字架上で死んでくださいました。

 

それゆえ、イエスさまの最後の審判では、「イエス・キリストを信じていない罪」など、罪の問題で、「さばき」はくだされなかったのです。

 

まさに、すべての人は平等とされたゆえで、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。と使徒パウロが感嘆した通りですね。

 

次は、この聖書解釈と福音理解とは真逆のことを教えている既成のキリスト教会の聖書解釈と福音理解を見ていきます。

 

つづく

 

 

「日本におけるキリスト教 123 最後の審判に現わされた神さまの教えは『人の想像を超えた完全なる教え』です。」

 

私事ですが、今から二か月ほど前に、母親が強制入院になりまして、車で一時間半かけて面会に行く日々が続いていましたが、劇的によくなって、来週には退院予定です。

 

一時は、数年ぶりに母親と会った弟は「葬式の準備をしたほうがいい」と言っていたぐらいでしたが、今は母親がその弟にお礼の手紙を書いて、感動しています。

 

今は「デジタル時代」となったので、書くことがほとんどなくなりましたが、「文字を書く」ことはとても感動しますので、書くことの推進派になりました。

 

そして、愛する人たちの死について、聖書の教えから発信していくことの大切さもさらに実感したのです。

 

 

聖書には、神さまの教えは完全で、魂を生き返らせるものだと教えています。

 

「主(神)の御教えは完全で、たましいを生き返らせ、

主(神)のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。詩篇19:7」

 

なので、人間の死と救い=最後の審判においての教えも、完全であるはずです。

 

それは前々回から伝えているこの御言葉です。

 

「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

 

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。ローマの信徒への手紙 11章32~33節」

 

 

前回にも伝えましたが、

 

イスラエルの民は、現在においてもイエス・キリストを信じていない人々は人口の約98%です。

 

なので、約99%がイエス・キリストを信じていない人々日本とほぼ同じです。

 

つまり「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められました」という神の御計画の状況が約2000年前から続いています。

 

イスラエルの民も日本の民も、数えきれない大勢の人々が、イエス・キリストを信じることなく、亡くなり続けているのです。

 

そして、死後にはさばきがあり、最後の審判では御国に入る者たちと、永遠の火に投げ込まれる者たちがあります。

 

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」 へブル人への手紙 9章27節

 

 

さて、このブログでずっとお伝えしている通り、聖書が教える「イエス・キリストを信じていないイスラエルの民」には2つの人種がいます。

 

1つの人種にイエスさまは、このように警告されました。

「こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。

おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」

 

そして、もう1つの人種のことを使徒パウロは次のように教えています。

 

「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。

神の賜物と召命とは変わることがありません。」

 

 

一方は「預言者を殺した者たちの子孫」だから地獄行きを警告される者たちです。

 

もう一方は、選びによれば、「父祖たち」のゆえに、愛されている者たちなのです。

 

そして、「異邦人」に至っては、地獄行きを警告される「預言者を殺した者たちの子孫」でもないし、「父祖たち」のゆえに、愛されている者でもありません。

 

イエス・キリストとは無関係で、イエス・キリストの話など皆無です。

 

このように、まるで違う人種を「最後の審判」でさばくには、「平等」にさせる必要があります。

 

それゆえに、「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」という究極の神の奥義が成されました。

 

使徒パウロが「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」と言った通りです。

 

 

つまり、神は、「最後の審判」において、

すべての人は、神に不従順でよい。当然に、神を信じていなくても良い。また、神を愛していなくても良い。神に不従順で良いのです。とされました。

 

これで、すべての人は平等となったわけです。

 

その上で、『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』という理由によって、

 

「この正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」という審判を下されたのです。

 

それは、イエスさまが次のように言われた約束が、最後の審判において果たされたことでもありました。

 

「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。マタイによる福音書 10:42 新共同訳」

 

なんという「さばき」の基準でしょう。

 

このような最後の審判の判断基準であれば、すべての人が納得できます。

 

現在の日本人なら、例外はありますが、大勢の人々が備えられた御国に入ることができるでしょう。

 

 

もしも、「最後の審判」の神さまの判断基準が「イエス・キリストを信じているか、信じていないか」というものであったなら、

 

神は、すべての人をイエス・キリストに不従順の状態に閉じ込められておいて、最後の審判において、イエス・キリストに不従順な者たちを皆、永遠の火に投げ込むという教えになります。

 

しかも、イスラエルの民の「選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者」たちも、イエス・キリストに不従順の状態に閉じ込めて、永遠の火に投げ込むのです。

 

これは「神」ではなく、もはや「悪魔」です。

 

「悪魔」の成せる仕業です。

 

ですから、そんなイエス・キリストが悪魔であるような教えであるはずがありません。

 

イエス・キリストが悪魔のように教えることは、聖霊を汚すことになるのですから。

 

 

それにしても、聖書の「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」という教えは、

 

イエス・キリストを信じることなく亡くなられた大勢の人々にとって、これ以上のない大きな神の愛も伝わります。

 

イエス・キリストに不従順の状態でも良い。

 

次の御言葉通りです。

 

「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。

 

また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。

(マタイの福音書12:31~32)

 

人は、神さまに不従順のうちに閉じ込められて、神に対するどんな罪も冒涜も、イエス・キリストに逆らうことを言っても赦されるという教えは、人の想像を超えています。

 

 

現在の日本人のほとんどの人は、キリスト教関係の学校や職場などに行っていない限りは、イエス・キリストと無関係のように生きているでしょう。

 

私自身の体験でも、家族や学校、職場など生活する場でイエス・キリストの話を見聞きすることはありませんでした。

 

家に訪問に来る「エホバの証人」の信者が来たり、駅前や神社前などで「死後にイエス・キリストのさばきがある。イエス・キリストを信じなさい」などと一生懸命に伝える信者の話を聞いても

 

「怖い」という印象を持って、「キリスト教が私と何の関係があろうか?」という感じです。

 

また「神は愛です。」と教えていても、イエス・キリストを信じさせようとします。

 

それは「イエス・キリスト以外には救いはない」という神学(聖書解釈と福音理解)のゆえなのですが、

 

そういう教えに拒否反応があります。

 

聖書の教えは「それでも良い」のです。

 

何度も繰り返しになりますが、神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順の状態に閉じ込められたのですから。

 

 

ところが、神さまに不従順な状態を「滅びに向かっている罪」だと教えている教会が主流になっているのです。

 

つづく

 

 

 

「日本におけるキリスト教 122 子どもたちに教えたい聖書が教えている地獄へ行く者たちの正体」

 

もう9月になりました。危険レベルの夏ももう少しで終わりですね。夏前はどうなるかと思いましたが、こうして乗り越えられたら自信になります。

 

今度は、秋が長くなることを願っています。

 

さて、前回でも伝えましたが、イエスさまの教えに聞き従うならば、聖書の教えによって、子どもたちをつまずかせることはあり得ません。

 

聖書には、人間が最も恐ろしい「地獄行き」の話がいくつもありますが、イエスさまの教えを素直にそのまま教えれば、つまずくことはないので安心します。

 

前回に続いて、もう一度確認しますと、イエスさまが教える地獄へ行く者たちと、その理由について、次のように具体的に教えています。

 

イエスさまから「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう」と地獄行きを宣告された者たちは、「預言者を殺した者たちの子孫」です。

 

それゆえ、父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たすから、地獄へ行くのです。

 

「父祖たちの罪の目盛りの不足分」とは、父親である悪魔の欲望を満たすことの最大目標であるイエス・キリストを殺すこと。

 

さらに、イエス・キリストが悪魔だというように教えて、他の人々がイエス・キリストを信じさせないようにすることでした。

 

それは聖霊を汚すことになるので、地獄へ行くのです。

 

 

一方で、イエス・キリストを信じない人々の中でも、次のような人々が大勢いました。

 

「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。

 

彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

 

なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

 

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。」

 

 

その前には、次のように教えられています。

 

「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。

 

かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。

 

彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。

ローマ人への手紙11章11~12節」

 

 

つまり、ユダヤ人たちがイエス・キリストを信じない罪によって、異邦人に救いがもたらされる結果となり、クリスチャンに敵対するという失敗が異邦人の富となったと教えています。

 

「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。」という「神の知恵と知識との富」は、人間には計り知れないものです。

 

 

そして、現在もイスラエルの大勢のユダヤ人たちは不従順のうちに閉じ込められたままです。

 

イスラエルのクリスチャン人口は1,9%ですから。約1%弱の日本とほぼ同じです。

 

キリスト教の立場からすれば、イスラエルの民も日本人もイエス・キリストを信じていない不従順のうちに閉じ込められている状況です。

 

ですが、それは神さまが「すべての人をあわれむため」なのですから、素晴らしいことだと感謝するのです。

 

 

繰り返しますが、聖書の舞台のイスラエルにおいて、聖書の教えは、

 

「イエス・キリストを信じない人々」には2つの人種がある。

 

1つの人種は「預言者を殺した者たちの子孫」であり、

父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たすから、地獄へ行く運命の人々です。

 

もう1つの人種は、クリスチャンたちのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者であり、神さまが不従順のうちに閉じ込めている人々です。

 

 

現在の日本人は、どちらの人種に当てはまるかと言えば、

「預言者を殺した者たちの子孫であり、父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たす人々」とはまったく違うと断言できます。

 

この「悪魔が蒔いた毒麦・まむしの末ども」の大きな特徴は、次のように教えられています。

 

まむしの子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。

 

人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。

 

善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。

 

マタイによる福音書12章34~35節」

 

 

「悪魔が蒔いた毒麦・まむしの末ども」の大きな特徴は「悪い人間であり、良いことが言えません。」

 

つまり「全的堕落した人々」であり、「性悪説(生まれながらにして悪人)の人々」です。

 

当然ながら、最も小さき者のひとりが、助けを求めている時に助けませんし、その真逆に、最も小さき者たちを苦しめています。

 

それゆえ、最後の審判では、イエスさまから地獄行きを宣告されます。

 

「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。

 

『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。

 

おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

 

わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。

マタイによる福音書25章41~43節』

 

 

さて、現在の日本人は、悪い人間であり、良いことが言えない人種でしょうか?

 

もちろん悪いところもあり、罪も犯します。

 

それはクリスチャンも同じです。聖書は次のようにクリスチャンたちに明確に教えています。

 

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

 

もし、罪を犯していないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

ヨハネの手紙第一1章8,10節」

 

そして、日本のイエス・キリストを信じない人々は、クリスチャンと同じく、罪を犯せば後悔して、悔い改めることができる人種です。

 

そして、良いことがたくさん言える人種でもあります。

 

また、最も小さき者のひとりが、助けを求めている時には助けます。

 

自分の命が犠牲になるかもしれないけれど、助けに行かなければと思う人は多いです。

 

 

その証拠に、私はクリスチャンですが、クリスチャンになる前から、良いこともたくさん言えましたし、罪を犯せば罪悪感があり、後悔して、悔い改めることができる人間でした。

 

また、クリスチャンになったから、自分の命が犠牲になるかもしれないけれど、助けに行かなければと思うようになったわけではありません。

 

クリスチャンになる前からです。

 

クリスチャンになる前に二度ほどあります。

少女と小犬を助けました。

 

そして、川でおぼれている小犬を助けようとして亡くなってしまった小学生や、線路に落ちてしまった高齢者の方を助けて、身代わりで亡くなった若者、

 

そういう自分の命を犠牲にして助けようとした話は日本の長い歴史の中で、たくさんあるわけです。

 

日本は約99%がイエス・キリストを信じていない人々です。

 

ですから、聖書の教え(イエス・キリストの教え)では、現在の日本人は、地獄へ行くことはあり得ません。

 

けれど、例外はあるでしょう。

 

もしも日本でも「悪魔が蒔いた毒麦・まむしの末ども」のような全的堕落&性悪説の人がいれば、そういう人たちは地獄に行くのかもしれません。

 

 

ここで、この教えに猛反発する牧師やクリスチャンたちに対して、さらに説明しておきましょう。

 

もう1つの父祖たちのゆえに、愛されている者とは違うことも確かです。これはイスラエルの民である父祖のことですから。

 

「あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。(申7:6-7、13)」

 

ですが、日本人は、最後の審判の基準である「最も小さき者のひとりが助けを求めている時に、助けることができる人種」であるので、地獄へ行くことはあり得ないのです。

 

 

このように、子どもたちへ、聖書が教える地獄行きについての教えをしていけば、子どもたちがつまずくことはありません。

 

ですから、「イエスさまの教えで、子どもたちがつまずくことはあり得ません!」という信仰と聖書解釈と福音理解です。

 

 

ところが、このような「子どもたちがつまずくことはあり得ない」という信仰と聖書解釈と福音理解を伝えているクリスチャンは、個人的に調べてみたところでは、見たことも聞いたこともありません。

 

その真逆の信仰と聖書解釈と福音理解はたくさんあります。

 

SNSのブログ記事、ホームページ、YouTubeなどでも満ちあふれていました。

 

映画批評家の服部 弘一郎氏のブログ記事

「キリスト教を信じなければ地獄行き?」では、

このようにキリスト教のことが紹介されています。

 

「キリスト教というのは、キリスト教徒だけが天国に行き、それ以外は地獄に落ちると教えている宗教」と考えている人は少なくない。

 

これを簡潔な標語にしたのが、「信じる者は救われる」という言葉。

 

信じる人は救われる(天国に行く)が、信じない人は救われない(地獄に行く)。

 

じつにシンプルだ。

 

だがこれは、キリスト教に対する大きな誤解だと思う。

 

問題はその誤解をしているのがキリスト教の外にいる人たちだけでなく、同じように考えているキリスト教徒が少なくないこと。

 

むしろそう考えるのが、歴史の中ではキリスト教の多数派であり主流だった。」

 

引用以上

 

 

服部 弘一郎氏と同じように思っている人は少なくありません。

 

次は、満ちあふれて伝えられ続けている「キリスト教というのは、キリスト教徒だけが天国に行き、それ以外は地獄に落ちると教えている宗教」について、

 

それは、相当激しくめちゃくちゃ非常に恐ろしい事実が隠されていることについて、聖書の御言葉から解き明かしていきます。

 

 

3人、テキストの画像のようです