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ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教 141 神は人間を永遠に生きることがないようにされた」

 

今回はキリスト教史上において最大級に衝撃が走る恐ろしい話になります。

 

前々回から「永遠の命」について聖書の教えを見てきました。

今回はそのルーツ創世記から見て行きます。

 

「神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

 

神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。(創世記2章8~9節)」

 

「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

 

神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。

 

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2章15~17節)」

 

けれど、アダムとイブは神に聞き従うことができず、蛇にだまし欺かれて善悪の知識の木から取って食べてしまいました。

 

なので、神は次のように言われました。

「神である主は仰せられた。

『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。

 

今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』(創世記3章22節)」

 

つまり、人間がいのちの木から取って食べることがないようにして、永遠に生きることがないようにされたのです。

 

 

この神さまの御心を知れば、人間は、永遠の命については、もう何も言えない。言ってはいけないと思います。

 

それゆえ、旧約聖書では「永遠の命」の言葉はたった一か所だけ登場するだけです。

 

(SNSで永遠の命の聖書箇所を徹底的に調べている人が何人もいて、旧約聖書では申命記32:40だけということで一致していました。)

 

それはモーセの遺言にあたる長い歌の一部で「私はとこしえに生きる。」新共同訳では「わたしの永遠の命にかけて」と訳しています。

 

マルコの福音書9章4 節では、エリヤとモーセが共に現れて、イエスさまと語り合っていた場面があります。

 

エリヤは『列王記下』の第2章で生きたまま炎の馬車で天に上げられたことが記されています。

 

また、モーセの死については、「今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」と記されています(申命記34章6節)。

 

なので、イスラエルの民の間では、モーセは生きたまま天に上げられたと信じている人々もいたようです。

 

ですから、旧約聖書ではモーセのように特別な存在以外の人間は誰も「永遠の命」について教えることはなかった。

 

『人間は永遠に生きないように。』という神さまの御心を知れば、教えてはいけなかったというほうが適切かもしれません。

 

 

しかし、新約聖書の時代のイスラエルの民の教師たちは「永遠の命」について旧約聖書を調べるようになっています。

 

ですが、旧約聖書にはその答えはあるはずがありません。

なにせ神さまの御心が『人間は永遠に生きないように。』ということなのですから。

 

 

しかしながら、そもそも神さまは、エデンの園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせて、その中の「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と命じられています。

 

つまり、初めは死ぬことがないアダムとイヴが神さまにずっと聞き従っていれば、いのちの木から取って食べさせたのではないかと思われるのが、御子イエス・キリストが永遠の命についての答えにありました。

 

そのイエスさまの答えは、アダムとイヴが誕生から死ぬことがなかったのは、神の無償の愛であり、ありのままで愛されていることを現わしているからです。

 

 

イエスさまは、イエスさまを迫害するユダヤ人たちが質問していないのに、次のように「永遠の命」について答えました。

 

「 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。

 

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネの福音書5章23~24節)」

 

この永遠の命の答えは、最大限に御父である神を尊重する答えでした。

 

そのことが、永遠の命を定義している御言葉と言われているヨハネの福音書17章に現わされています。

 

1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。

 

2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。

 

3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

 

4 あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。

 

5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

 

6 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。

 

彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。

 

7 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。

 

8 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。

 

彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。

 

9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。

 

なぜなら彼らはあなたのものだからです。

 

 

このイエスさまが教えられた「永遠の命の定義」をまとめます。

 

「御父の御子が、御父の栄光を現すために、御子の栄光を現してください。

 

それは御子イエスが、御父からいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、御父は、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。

 

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神である御父と、御父の遣わされた御子イエス・キリストとを知ることです。

 

御子は、御父が世から取り出して御子に下さった人々に、御父の御名を明らかにしました。

 

彼らは御父のものであって、御父は彼らを御子に下さいました。彼らは御父のみことばを守りました。

 

いま彼らは、御父が御子に下さったものはみな、御父から出ていることを知っています。

 

なぜなら彼らは御父のものだからです」

 

 

イエスさまの「永遠の命」についての定義は、まさに創世記において、『人間は永遠に生きないように。』と言われた御父が、『人間に永遠の命を与えよう』と言われるかごとくというものでした。

 

つまり、御父を最大限に尊重しない限り、「永遠の命」についての教えはあり得ません。

 

 

イエスさまの永遠の命を持つことの答えは、イエスさまを迫害しているユダヤ人たちも告発も反論も反証もできませんでした。

 

なぜなら、イスラエルの民のユダヤ人たちは、御父であるイスラエルの神を信じて、御父が御子であるメシヤ(救世主)を遣わされることを信じて、その教えに聞き従うことが常識だったからです。

 

つまり、イエスさまの永遠の命についての答えは、すべてのイスラエルの民はありのままで永遠の命を持っているということになります。

 

あのアダムとイヴが最初、御父である神さまは無償の愛で、ありのままで死なないようにしてくださったことと同じであります。

 

 

「永遠の命」の教えは、御父である神が『人間は永遠に生きないように。』という教えを『人間に永遠の命を与えよう』という教えにされた最も超絶に重要な教えです。

 

ですから、悪魔が遣わす「滅びの子・反キリスト」と「偽預言者」たちは、

 

「この方を信じれば永遠の命を持つが、信じなければ滅びる」という教えは絶対に出来ませんでした。

 

男はつらいよの寅さんの名セリフ「それを言っちゃあ、おしまいよ」ということがわかっていたのでしょう。

 

さすがの滅びの子(反キリスト)・偽預言者・悪魔とその使いたちも、イエスさまの御父を最大限に尊重された永遠の命の教えに手を出すことは出来なかったのです。

 

まさにアンタッチャブルでした。

 

なので、滅びの子と偽預言者たちは「そらキリストがここにいる」と言い広めて、大きなしるしや不思議なことをして見せることによって、選民をも惑わそうとしました。

 

ヨハネの黙示録では、獣の像を拝まない者は殺して、すべての人の右の手か額に刻印を押して、その刻印がなければ買うことも売ることも出来ないようにしたのです。

 

 

ですから、私たちが「永遠の命」について教えることは、一歩間違えれば、相当めちゃくちゃ超絶に非常に恐ろしいことになることがわかります。

 

それゆえ、「永遠の命」の教えによって、隣人に恐怖・不安・絶望・怒り・悲しみを与えることは絶対にあり得ないはずです。

 

イエスさまが永遠の命の定義を教えられているヨハネの福音書17章1~9節を心にとどめているクリスチャンたちは理解できるでしょう。

 

 

そして最も重要なことは、イエスさまは永遠の命についての定義・教えをイスラエルの民だけに教えています。

 

その前にイエスさまは、このように命じられたからです。

 

「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。

 

『異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。

 

イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。』マタイの福音書10章5~6節」

 

しかしながら、アダムとイヴのように、イスラエルの民は御父であるイスラエルの神と御父が遣わした御子イエス・キリストを信じることは出来なかったのです。

 

次は、イスラエルの民の中でも、御父であるイスラエルの神を信じていなかった人たち、異邦人についての教えを見ていきます。

 

つづく

 

 

「日本におけるキリスト教 140 永遠のいのちを持つのは誰か?イエスさまの答え」

 

前回記事では理解できなかった人たちへ、もっと詳しく説明します。

 

ヨハネの福音書5章です。(内容は同じですが、公平を期すために、今回は新改訳で見ていきます。)

 

「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。

 

このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。

 

イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』

 

このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。

 

イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」

 

このイエスを迫害して、殺そうとするユダヤ人たちに、イエスさまは「永遠のいのち」について、詳しく教えられたのです。

 

 

イエスさまは、イエスさまを神の御子キリスト(救い主)と認めない律法学者やパリサイ人たちから、いろいろと試されました。

その1つにこの有名な話があります。

 

「すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、

イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。

 

モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

 

彼らはイエスをためしてこう言ったのである。

それは、イエスを告発する理由を得るためであった。

 

しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。

けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。

 

『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』 (ヨハネの福音書8章1~7節)」

 

このように、主イエス・キリストを偽キリストとして、神の御子だと信じない人々は、告発する理由を得るためにいろいろと試したのです。

 

 

しかし、イエスさまの答えはすべて、告発も反証も反論も何もできないほど見事な答えで、ただその神さまの知恵に圧倒されるばかりでした。

 

そして今回は、ユダヤ人たちにとって、最も重要な「永遠のいのち」についての答えです。

 

もしも、「イエス・キリストを信じる人たちは永遠のいのちを持つ」という答えであれば、イエス・キリストを信じない人々は永遠のいのちを持たないことになります。

 

イスラエルの民の「イエス・キリストを信じない人々」にとって、イエス・キリストは偽キリスト(救世主)です。

 

偽キリスト(救世主)が、偽キリスト(救世主)を信じると永遠のいのちを持ち、偽キリスト(救世主)を信じなければ永遠のいのちを持たない。という教えとなり、絶好の告発できる答えになります。

 

「わたしを御子キリスト(救世主)と信じれば永遠のいのちを持つが、わたしを御子キリスト(救世主)と信じなければ永遠のいのちを持たない」と脅して信じさせるのは、悪霊の頭の証明だ!などと言われてしまいます。

 

また、イエス・キリストを信じなければ永遠のいのちを持たないという答えは、イエス・キリストが福音宣教する以前の亡くなった人々、先祖は皆、永遠のいのちを持たないということになります。

 

そのような恐ろしすぎる教えは、イエス・キリストを迫害し、殺したいユダヤ人たちの告発・反論・反証のしたい放題になります。

 

 

イエスさまの答えはこうでした。

 

「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。

 

まことに、まことに、あなたがたに告げます。

 

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネの福音書23~24節)」

 

つまり、「御父・イスラエルの神を信じる者は、永遠のいのちを持つのです。」

 

 

当時のイスラエルの民は、イスラエルの神を信じて、旧約聖書で約束されている神の御子キリスト(救世主)が来られることを信じて待ち望んでいました。

 

また、モーセを信じて、モーセの教えと預言者の教えを信じていたので、その教えに書かれている「ダビデの子・メシヤ(救世主)」が来られるのを信じて待ち望んでいました。

 

それは、イスラエルの民であれば、私も父母も祖父母も兄弟姉妹も友達も恩人も尊敬する人々も皆同じという人がほとんどでした。

 

イスラエルの教師であるパリサイ人たちは、そのようなことを教えていたのです。

 

ですから、イエスさまの

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。

 

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」という「永遠のいのちを持つ」についての答えは、ユダヤ人たちにとって超超超素晴らしいものです。

 

「わたし(イエス・キリスト)を信じたら」ということではなく、わたしを遣わした方、つまり御父・イスラエルの神を信じる者は、永遠のいのちを持つというのです。

 

この教えだと、イエスさまの福音宣教が始まる以前に亡くなった人々、先祖たちもイスラエルの神を信じていて、御子キリスト(救世主)を待ち望んでいたので、永遠のいのちを持つことになります。

 

 

そして、イエスさまを信じた人々も、御子キリスト(救世主)を信じることによって、御父・イスラエルの神を本当に信じている証明になるので、永遠のいのちを持つということです。

 

あくまでも御父・イスラエルの神を信じていることが、永遠のいのちを持つことになるのです。

 

なので、イエスさまを迫害したり、殺そうとしたユダヤ人たちは、まったく告発も反論も反証も出来ませんでした。

 

聖書(旧約)を調べてもわからなかった「永遠のいのちを持つ」ということの答え

 

その答えをイエスさまは明確に教えました。その答えは、すべてのユダヤ人たちが絶賛する答えでありました。

 

まさに、イエスさまの答えは、神さまの知恵であります。

人間はただただ感服するのみです。

 

 

つまり、イエスさまの「永遠のいのちを持つ」という教えは、すべてのイスラエルの民に愛・喜び・平安を与えるものでした。

 

まさに神は愛であります。

 

しかしながら、現在の日本におけるキリスト教会の教師たち(牧師や神父、宣教師、伝道師、信徒リーダー、クリスチャンたち)の多くが教えることは、そのイエスさまの教えとは真逆です。

 

というか、イエスさまに反逆する悪魔の欲望を満たしているとしか思えない。と言われても仕方がない教えです。

 

「イエス・キリストを信じれば永遠のいのちを持つが、イエス・キリストを信じないで死ねば滅びる、最後の審判で永遠の火に投げ込まれる。」という新しく作り出された教えは、

 

日本の無神論者たち、イスラエルの神を信じるユダヤ教の人々やイスラム教、仏教、その他の人々

 

すべてのイエス・キリストを信じていない人々に恐怖・不安・憤り・怒り・悲しみを与えるものになっています。

 

主の目は偽りを語らず、平和を求めてこれを追い求める義人の上に注がれます。

 

つづく

「日本におけるキリスト教 139 イエス・キリストを信じれば永遠の命を得るという教えについて」

 

前回の続きです。少し古畑任三郎風に話すかもしれませんがご了承ください。

 

えー何事もそうですが、人に教えるには違いがあるものです。

 

会社では新入社員に教えることとベテラン社員に教えることは違います。

 

もしも、まだ会社のことは何もわからない新入社員に対して、よく知っているベテラン社員のように教えると、「マジあり得ない!超ムカつく!」と言って会社を辞めてしまうでしょう。

 

教会もそうです。イエス・キリストを信じていない未信者に教えることと、イエス・キリストを信じたクリスチャンに教えることは違います。

 

未信者の人たちに対しては、イエス・キリストを信じていないことを前提に教えます。それは初めの段階の教えです。

 

しかし、クリスチャンになった人たちに対しては、その初めの段階の教えは不必要ですから、次の段階の教えから教えていきます。

 

もし、未信者の人たちに初めの段階を教えずに、次の段階の教えから始めれば、相当めちゃくちゃ非常識ですし、つまずきます。

 

また、クリスチャンの人たちに初めの段階を教えれば、クリスチャンとは認めていないことになり、深く傷つき、つまずきます。

 

聖書を読めば、イエスさまも、まことに当然ですが、神を信じていない人々には最初の段階から教えられていますし、神を信じた人たちには次の段階から教えられています。

 

その聖書箇所が「ヨハネの福音書」に書いてあります。

 

 

それでは、イエスさまが、イエスさまをメシヤ(救世主)とは信じていないユダヤ人たちに最初の段階を教えられていることを見ていきます。

 

長くなりますが、イエス・キリストを信じることについて、永遠の命を得ることについての最初の段階の教えですから、知らないわけにはいきません。

 

イエスさまは、安息日に癒しの御業を行なわれたことによって、イエスさまを迫害し始めたユダヤ人たちに言われた。

 

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

 

はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。

 

父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。

 

また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。

 

驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、

善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

 

わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。

わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

 

「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。

 

わたしについて証しをなさる方は別におられる。

そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。

 

あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。

 

わたしは、人間による証しは受けない。

 

しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。

 

ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。

 

しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。

 

父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。

 

また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。

 

また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。

父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。

 

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。

 

ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。

 

それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

 

わたしは、人からの誉れは受けない。

 

しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。

 

わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。

もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。

 

互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。

 

わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。

あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。

 

あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。

 

モーセは、わたしについて書いているからである。

 

しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。

 

(ヨハネによる福音書5章24~47節)新共同訳聖書」

 

 

イエスさまは、イエスさまをメシヤ(救世主)と信じないユダヤ人たちに、わたし(イエスさま)の言葉を聞いて、

 

わたし(イエスさま)をお遣わしになった方(御父・イスラエルの神)を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。と教えられました。

 

つまり、イエス・キリストを信じたら永遠の命を得るのではなく、イエスさまの言葉を聞いて、イエスさまをお遣わしになられた御父・イスラエルの神を信じる者は永遠の命を得ることになるのです。

 

そのことについての詳細を親切丁寧に教えられています。

 

もし、イエスさまが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。と言われます。

 

そして、「あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。」とこのように言われました。

 

しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。

 

父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。

 

また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。

 

あなたたちは聖書(旧約)の中に永遠の命があると考えて、聖書(旧約)を研究している。

ところが、聖書(旧約)はわたしについて証しをするものだ。

 

 

つまり、旧約聖書に書かれている御父・イスラエルの神の御言葉を心にとどめていれば、御父が遣わされた御子イエス・キリストを信じることになるはずだと教えられています。

 

なぜなら、旧約聖書は御子イエス・キリストについて証しをするものだからです。

 

さらにこのように教えられました。

 

イエスさまが御父・イスラエルの神にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。

あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。

 

あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。

モーセは、わたしについて書いているからである。

 

つまり、モーセの教えは御子イエス・キリストについて書いてあるので、モーセを信じていれば、必然的に御子イエス・キリストも信じるようになるのです。

 

まずはモーセを信じて、モーセの教えを信じなければならないのです。

 

 

その教えは、ルカによる福音書16章のラザロと金持ちの教えと一致しています。

 

金持ちは死後、炎の中でもがき苦しんでいました。

それで、その金持ちには生存中の兄弟5人がいました。

 

金持ちは、その生存中の兄弟5人が、死後に地獄の炎の中でもがき苦しまないためには、死者が生き返って、死後に地獄へ行くことを教えることができれば、地獄に来ることはないと考えました。

 

しかしアブラハムはこのように答えたのです。

 

『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 

モーセを信じていれば、御子イエス・キリストを必然的に信じることができるから、モーセと預言者の教えを聞いて信じることが、地獄に行かないことになると明確に教えています。

 

 

次に、御子イエス・キリストを信じた者たちへの教えを見ていきます。

 

それが「ヨハネによる福音書3章」です。

 

イスラエルの教師であるパリサイ人のニコデモは、ある夜、イエスのもとに来て言った。

「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。

 

神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

 

 

つまり、ニコデモたちは、旧約聖書のイスラエルの神の言葉と、モーセの教えを信じているので、御子イエス・キリストがイスラエルの神のもとから来られた教師であることを知ったのです。

 

ですから、イエス・キリストを信じていない人たちに教える「初めの段階の教え」は不必要になります。

 

本来は「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得る」という教えから始まります。

 

しかし、その最初の教えは省略して、次の段階をこのように教えられました。

 

「イスラエルの神は、その独り子イエス・キリストをお与えになったほどに、世を愛された。独り子イエス・キリストを信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

 

つまり、前回記事のラストで「みなさんは、もう おわかりですね。」と言った答えは、最初の時点で、ヨハネによる福音書3章16節の教えは、イエス・キリストを信じていない人たちへの教えではなく、イエス・キリストを信じている人たちへの教えであることが明確にわかるということでした。

 

それゆえ、ヨハネによる福音書3章16節の教えを、現在の日本のイエス・キリストを信じていない人たちに教えることは相当めちゃくちゃ非常に恐ろしいことになっています。

 

まるで、イエス・キリストは、日本の約99%のイエス・キリストを信じていない人たちを死後の最後の審判で永遠の火に投げ込む悪魔のように思わせるからです。

 

しかも、その教えだと、ルカの福音書16章のラザロと金持ちの教えを、金持ちがイエス・キリストを信じていない人たちだということになり、イエス・キリストを信じていない人たちは死後、永遠の火に投げ込まれる根拠の教えになるのです。

 

 

また、ニコデモはモーセを信じているので、イエスさまは、本来の最初の教え

「あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。

あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。」という教えを省略して、次の段階をこのように教えられたのです。

 

「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

 

 

つまり、旧約聖書の教えを信じて、イスラエルの神を信じて聞き従い、モーセと預言者の教えを信じているユダヤ教の「イスラエルの民」に対する教えですね。

 

ですので、当然に、異邦人に対する救いの教えは、また違います。

 

そのことをイエスさまは明確に教えておられるのです。

 

長くなったので、次にそのことを見ていきます。

 

つづく

 

 

 

「日本におけるキリスト教 138 なにも愛さなかった罪について」

 

最近、再放送で韓国ドラマ「薯童謡〔ソドンヨ〕」を楽しみに見ていました。個人的に韓国歴史ドラマの中ではBEST1です。

 

 

このドラマは主人公のチャン(百済の第四王子)と新羅の第三姫のソンファ姫との恋愛が中心の物語です。

 

その中で登場するサテッキルは、ソンファ姫に一目ぼれして、ソンファ姫の父親である新羅の王と取引をします。

 

百済にスパイとして侵入し、百済神技を奪ってくれば、娘のソンファ姫と結婚させてやる。という取引です。

 

その話にサテッキルとサテッキルの父親は大喜びして、サテッキルは百済にスパイとして侵入することに成功しました。

 

一方のソンファ姫は、チャンと出会って、二人の愛を育んでいました。

 

そして、サテッキルのほうは、スパイの宿命ですが、スパイ活動が失敗したので、百済と新羅の両国から命を狙われます。

 

また、そのサテッキルの生き様はソンファ姫から軽蔑されました。

 

最後は、チャンとソンファ姫との結婚を阻止しようと、チャンを抹殺しようとします。

 

サテッキルはチャンに問います。

 

「教えてくれよ。俺が一体なにをしたというんだ。これほどまでに何も残らず、すべてに見放されるほどの罪とはなんだ!」

 

チャンは「何も愛さなかった罪だ」と答えました。

 

サテッキル自身は、自分のため、自分の父のため、新羅の国のため、新羅の王のため、ソンファ姫のためにスパイとなったことが、すべてを愛することになっていると思っていたようです。

 

しかし、最後に、すべてから見放されたのは、結論として、何も愛していなかったということに気づかされたのでした。

 

 

聖書の教えも一歩間違えれば、このサテッキルのように、最後に、何も愛さなかったということに気づかされることになるでしょう。

 

例えば、この聖書の中の聖書と言われている御言葉です。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)」

 

この御言葉から、このように解釈しています。

 

「イエス・キリストを信じた人々は、永遠のいのちを持ちます。死後は天国です。

 

しかし、イエス・キリストを信じていない人々は滅びる。死後は地獄(永遠の火に投げ込まれる)です。」

 

 

さて、このように解釈していれば、約99%の人々がイエス・キリストを信じていないという現実の日本では、相当めちゃくちゃ非常に恐ろしすぎる教えとなります。

 

それはそうでしょう。日本の約99%の人々が、イエス・キリストを信じていないという理由で、死後の最後の審判で、永遠の火に投げ込まれて、永遠に炎の中でもがき苦しむというのですから。

 

しかし、その解釈を断言している大勢の世界中の牧師や神父、宣教師、伝道師、信徒リーダー、クリスチャンたちはこのように説明しています。

 

「ヨハネの福音書3章16節にハッキリとイエス・キリストを信じる者が永遠のいのちを持ち、イエス・キリストを信じない者は滅びると書いてあるので、言い逃れはできません。

 

その聖書の御言葉を曲解させれば、滅びを自分に招くと書いてあるのだから。」

 

 

はて?

 

聖書を読めば、そのような、まるでイエス・キリストが冷酷非道な悪魔のような、相当めちゃくちゃ非常に恐ろしすぎる聖書解釈と福音理解は、まったくの間違いであることがわかります。

 

それを詳しく見ていきます。

 

 

例えば、私の母親は今年の6月に、突然に認知症が始まりました。

 

私はまだ若くて働かなければならないので、在宅介護は無理です。

 

母親は一人では食事も薬を飲むことも出来ない状態なので、朝から夕方まで放置することはできません。

 

そのことを聞いた人は、このように対処する答えを言います。

 

「施設に入居させたらいいよ。施設で面倒を見てくれるので、安心して働きに行けるから」

 

この答えは正しいと思います。

 

しかし、現実には、この答えは大きな間違いを起こしているのです。

 

 

家の近くに「サービス付き高齢者向け住宅」という施設がありましたので、相談しました。

 

まず要介護認定が必要で、要介護1~5の人を受け入れます。

現在、空室が3部屋あります。

 

必要となる毎月の費用はおよそ18万~23万程度ということでした。

 

他の施設も調べましたが、やはりほとんど同じ条件です。

 

金を持っている人なら、毎月18~23万は大丈夫ですが、年金が少なく、貯金のない人は無理です。

 

そういう人たちのために「特別養護老人ホーム」があります。

 

家から自転車で行ける距離の特別養護老人ホームの月額利用料金は約10万円ぐらいでした。

 

介護保険負担限度額認定証があれば、1万5千円くらい安くなります。個室は多床室よりも1万円くらい高くなります。

 

しかし入居条件は要介護3以上です。

 

そして、どこの特別養護老人ホームも満室で、空室待ちの人がたくさんいる状況です。何か月か何年待つかわからない状況なのです。

 

このような実態から、

 

「施設に入居させたらいいよ。施設で面倒を見てくれるので、安心して働きに行けるから」という答えは、金を持っていて、年金も18万以上の人たちには正解です。

 

しかし、多くの人の場合、年金は18万円もなく、そんなには金を持っていない人たちには失望させる答えになります。というか答えになっていません。

 

現実には、とりあえず、特別養護老人ホームの入居待ちをして、ショートステイとディサービスを最大限に利用するしかないでしょう。

 

しかし、点数の問題があり、要介護1~3だと、利用日数が限られます。

 

結局は在宅介護をしながら、仕事に行くことになります。

 

私の場合、神のあわれみにより、金曜日~火曜日はショートステイ、水曜と木曜はディサービスが利用することとなりました。

正月の期間もショートステイが決まりましたので、安心して働くことが出来ています。

 

 

聖書の話に戻します。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)」という聖書解釈を

 

「イエス・キリストを信じた人々は、永遠のいのちを持ちます。死後は天国です。

 

しかし、イエス・キリストを信じていない人々は滅びる。」という解釈をすれば、

 

イスラエルの神を信じる者たちには正解ということもできますが、イスラエルの神を信じていない者たちには間違いだということです。

 

 

もしも、そういう聖書解釈と福音理解が正解であれば、この日本において、愛する隣人たちは皆、イエス・キリストを信じていない人々です。という状況の人が圧倒的に多いです。

 

祖父母も父母も兄弟姉妹も親友も恩師も尊敬する人々も皆、イエス・キリストを信じていないので、永遠の滅びに定める。

 

そのような、イエス・キリストを信じていないという理由で、永遠の火に投げ込むというイエス・キリストはまるで冷酷非道な悪魔と思わせる。

 

さらに、何年も何十年も経てば、祈っている愛する人々が、次々にイエス・キリストを信じずに死んで行くので、自分自身が重荷に耐えられなくなる。

 

結局は、最後に残るのは、神も隣人も自分自身も、何も愛さなかったということに気づかされる。

 

そのようなことにならないために、イエスさまは、そういう聖書解釈と福音理解は間違っていることを具体的に詳細に教えられているのです。

 

長くなったので、次回はその聖書箇所をじっくりと見ていきます。

 

名優の田村正和さん演じるドラマ「古畑任三郎」は、完璧と思われていた犯行の真相を解明していく高視聴率刑事ドラマですが、古畑任三郎のように言えば、

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」という最初の時点で明確にそのことがわかります。

 

みなさんは、もう、おわかりですね。

古畑任三郎でした。

 

 

「日本におけるキリスト教 137 恋愛とストーカーとキリスト教の教え」

 

世の中でよく教えられることが「物事には順序がある。」ということです。

 

例えば「恋愛」です。

 

人は失恋したり、信頼していた人から裏切られたり、夢が破れたり、被害にあってしまったり、様々なことによって、死にたくなる時もあります。

 

すると、家族の者も同じ苦しみを負って、暗くて地獄のような日々になります。

 

しかし、ある人との出会いによって、生きる希望を見い出し、明るくなっていくケースも多いです。

 

物事には順序があり、深く傷つき、暗闇の状況の時があり、ある人との出会う時があり、心優しくへりくだった暖かさに包まれて育まれる時があります。

 

そして、心が開かれて、お互いに好き同士になり、愛し合うようになる時があるのです。

 

すると、相手を信じることができて、救われます。

そのことによって家族も救われるのです。

 

 

しかし、ストーカーの人の恋愛は違います。

 

物事に順序はなく、一方的であり、自己中心的です。

 

一方的に相手を好きになり、自分を信じれば、あなたは救われる。幸せになれる。

 

だけど、他の人を選べば救われない。不幸になると決めつけるのです。

 

そのような人と出会えば、家族も一緒に恐怖におののき、警察に相談することになります。

 

 

聖書を読めば、すべてにおいて、物事には順序があるという教えです。

 

その中の一つに使徒の働き16章があります。長くなりますが引用します。

 

9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。

 

10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

 

11 そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。

 

12 それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。

 

13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。

 

14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

 

15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊りください」と言って頼み、強いてそうさせた。

 

16 私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。

 

17 彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。

 

18 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。

 

19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。

 

20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、

21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。

 

22 群集もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、

23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。

 

24 この命令を受けた看守は、ふたりの奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。

 

25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

 

26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

 

27 目を覚ました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。

 

28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。

 

29 看守はあかりを取り、駆け込んで来た、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。

 

30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。

 

31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。

 

32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。

 

33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。

 

34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

 

35 夜が明けると、長官たちは警吏たちを送って、「あの人たちを釈放せよ」と言わせた。

 

36 そこで看守は、この命令をパウロに伝えて、「長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。どうぞ、ここを出て、ご無事に行ってください」と言った。

 

40 牢を出たふたりは、ルデヤの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出て行った。

 

 

この聖書箇所の始まりは、パウロが「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願する幻を見たことです。

 

そして、「私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」ということで、マケドニヤのこの地方第一の町「ピリピ」に導かれて福音を伝えました。

 

そこには、イスラエルの神を敬う、ルデヤという女がいました。

 

このルデヤの救いは、まずルデヤはイスラエルの神を敬っていたユダヤ教に改宗した異邦人でした。

 

そして、主イエス・キリストは彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされました。

 

ですから、彼女も家族もバプテスマを受けることに至りました。

 

このように救いに至る順序があることがわかります。

 

 

それから、占いの霊につかれた若い女奴隷が、パウロたちのあとについて来て、

 

「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と何日も叫び続けて、福音伝道を妨害しました。

 

困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言うと霊は出て行きました。

 

その事によって、パウロとシラスはムチ打たれて、牢に入れられます。

 

 

しかし、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、とびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

 

目を覚ました看守は、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとしました。

 

パウロは大声で、囚人たちは皆ここにいると叫んだので、 看守はパウロとシラスとの前に震えながらひれ伏しました。

 

そして、看守が「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と質問したので、

 

パウロとシラスは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と答えたのです。

 

それから、彼とその家の者全部に主のことばを語ると、彼とその家の者全部がバプテスマを受けたのです。

 

 

この看守の救いも順序があります。

 

まずは、囚人たちの鎖が解けて、扉が開いたのにも関わらず、囚人たちは一人も逃げなかったという神の御業を体験しました。

 

本来であれば、剣を抜いて自殺をしなければならないところをパウロとシラスが救ってくださったのです。

 

その命の恩人に対して、看守は心を開いて「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と質問したのです。

 

それから、看守家族に主イエスの言葉が語られて、バプテスマを受けるに至りました。

 

このように、聖書の教えは物事には順序があることを詳細に教えています。

 

つまり、この聖書箇所の教えは、まずは、神の御業によって、命が救われるという体験をしたことによって、クリスチャンたちに心を開き、主イエスの御言葉を聞いて、バプテスマを受けるに至るということです。

 

 

ところが、キリスト教会では、このように教えていないのです。

 

SNSで「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。使徒16章」で調べるとわかります。

 

牧師や伝道師、宣教師、クリスチャンたちの話しの中心は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」ということです。

 

ほとんどの日本人は、ルデヤのようにイスラエルの神を敬っているユダヤ教に改宗した異邦人ではありませんし、イエスさまに心を開いていません。

 

また、看守のように、神の御業によって、クリスチャンたちに命を救われたこともありません。

 

それなのに、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という教えが話の中心にされると、

 

荒唐無稽であり、相当めちゃくちゃ激しく意味の解らない教えになります。

 

また、物事に順序はなく、一方的であり、自己中心的な教えのストーカの気質のようなものを感じてしまいます。

 

さらに、この聖書箇所だけではなく、他の聖書箇所も同じように、物事に順序はなく、一方的であり、自己中心的な教えをしています。

 

それは、「イエス・キリストを信じていない人々(罪人)は永遠の滅びに定められている」ということを確信しているがゆえに、そのような教えになるのは当然と言えるでしょう。

 

しかし、そのような教えによって、牧師やクリスチャンたちに恐ろしい気質を芽生えさせたり、育んだりしていると思われることが現実に起きています。

 

個人的に、キリスト教会の不祥事や性的虐待事件が想像以上に起き続けていることと無関係とは思えないのです。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 136 天国か地獄かというキリスト教の教えについて」

 

前回の投稿記事で、プロテスタント福音派教会の聖書解釈と福音理解は「私たちが自分の罪のために永遠の滅びに定められているなかで、」と紹介しました。

 

つまり、「イエス・キリストを信じていない人々は永遠の滅びに定められている」ということです。

 

そのように定めて、聖書の御言葉を解釈していきます。

 

 

この世では、定めることもありますが、定めないこともあります。

 

格闘技の場合です。

 

「アントニオ猪木対モハメド・アリ」は、ウィキペディアにこのように書かれています。

 

1976年(昭和51年)6月26日に行われた「格闘技世界一決定戦」。日本のプロレスラーであるアントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリによる異種格闘技戦で「世紀の一戦」とされた。

 

15ラウンドのほぼ全ての時間を寝ながら戦った猪木と何もなす術のないアリに対して、観客は物を投げたり、罵声を浴びせた。

 

それどころか、翌朝のスポーツ新聞朝刊1面には、「世界中に笑われたアリ・猪木 スーパー茶番劇・何が最強対決だ」(日刊スポーツ)、

 

「ファン置き去り パンチもなければ投げもなし 15回ダンスと昼寝」(西日本スポーツ)

 

つまり、プロレスラーのアントニオ猪木はプロレスに定めて、ボクサーのモハメド・アリはボクシングに定めて戦った結果、世界中に笑われた茶番劇となってしまいました。

 

 

しかし、その2年後の1978年に映画「ブルース・リー死亡遊戯」が公開されると、世界中が熱狂し、絶賛しました。

 

ブルース・リーはあらゆる格闘技に対抗できるためにルールを定めないファイティングスタイル「截拳道(ジークンドー)」を開発したのです。

 

死亡遊戯では、五重の塔の三階にヌンチャクの達人がいて、ブルース・リーはヌンチャクに合わせてヌンチャク対決で戦って勝ちました。

 

四階に上ると、そこには合気道の達人がいて、先程とは異なり接近戦で投げ技等を繰り出して、合気道のように戦って勝ちます。

 

五階に上ると、そこには2メートルの大きな格闘家がいて、その大男の格闘には、その格闘のように戦って勝ちました。

 

その格闘シーンは46年経った現在でも絶賛されて、新たなファンが世界中に増え続けています。

 

 

さて、「私たちが自分の罪のために永遠の滅びに定められているなかで、」と、イエス・キリストを信じていない人々を永遠の滅びに定めるキリスト教会の大勢の指導者や大勢のクリスチャンたちが、

 

定めることが正しいことだと説明するにあたって、次の御言葉を大きく用いています。

 

さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

イエスは彼らに言われた。

 

ある金持ちがいた。いつも紫色の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

 

ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、

金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

 

さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

 

その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

 

彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先に水を浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

 

アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

 

そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えてくることもできないのです。』

 

彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。

 

私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

 

しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

 

彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』

 

アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』ルカの福音書16章14,15,19~31節」

 

 

この聖書箇所で、このように定めます。

 

「ラザロ」という名前は、ヘブル語で「神が助け」という意味ですから、イエス・キリストを信じた人です。

 

そして、金持ちはイエス・キリストを信じていない人です。

 

なので、イエス・キリストを信じた人は死後、天国に行き、イエス・キリストを信じていない人は死後、地獄に行って永遠に炎の中でもがき苦しむと聖書にハッキリと教えられていますね。

 

ですから弁解の余地はないのです。というように定めて教えます。

 

その定めた教えは、私が教会の超教派で出会った牧師たちは皆、一致していましたし、有名な牧師たちの著書の中でも一致していたので、絶望しました。

 

なぜなら、私の両親、祖父母、友人知人、尊敬する人々は皆、イエス・キリストを信じていない人だからです。

 

また、そのような教えを隣人に教えると、怒られたり、笑われたり、茶番に思えると言われました。

 

ちょうど格闘技の戦いで言えば、アントニオ猪木とモハメド・アリ戦のようです。

 

 

今度は、個人で聖書を純真にそのまま伝える聖書解釈と福音理解によって、見ていきます。

 

前回記事で伝えたように、イエスさまは、モーセの座を占めているパリサイ人であるニコデモには、モーセの教えによって、永遠のいのちを持つことを悟らせました。

 

そして、バプテスマのヨハネにはイザヤ書のイザヤ預言の教えによって、メシヤ(救世主)だと悟らせたのです。

 

その事は、このルカの福音書16章の教えていることでも一致しています。

 

この聖書箇所での救いに重要なことは次のことです。

 

『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

 

『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』

 

さて、何と教えられているでしょう。

 

どこにも「イエス・キリストを信じなければ」とか「私たちが自分の罪のために永遠の滅びに定められている」などと教えられていません。

 

イエスさまは明確に「モーセと預言者(イザヤたち)との教えを聞きなさい」と教えられているのです。

 

ニコデモとバプテスマのヨハネはそのイエスさまの教えに聞き従いました。

 

モーセの教えを信じる者たちにはモーセの教えによって教えて、

 

イザヤや預言者の教えを信じる者たちには預言者の教えによって、イエス・キリストがメシヤ(救世主)だということを確信したのです。

 

現在もイエスさまに聞き従うクリスチャンたちは同じです。

 

日本人には日本人がそれぞれ信じるものがあります。その信じるものと聖書のそれぞれの御言葉が一致しているのです。

 

ちょうど格闘家でいえばブルース・リーのように、定めることがなく、それぞれが持っているものに合わせる聖書解釈と福音理解になります。

 

ちなみに貧乏人ラザロは、イエス・キリストを信じていませんでした。

 

なぜなら、来るべきメシヤ(救世主)を信じた貧乏人、盲人たちはメシヤ(救世主)を待ち望んで「ダビデの子よ。あわれんでください」と叫び続けていました。

 

なので、メシヤ(救世主)を待ち望んでいる者たちが、金持ちの門前に居座って、金持ちにより頼むことはありません。

 

さらに次回はもう1つ、大きく用いられている御言葉を見ていきます。

 

その正体は実に背筋が凍るほど恐ろしいことに気づかされるでしょう。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 135 聖書の教える救いについて」

 

私が引用している聖書は新改訳が多く、時々新共同訳です。

 

その新改訳聖書の生みの親の1人が、プロテスタント福音派の教会の神学教育者で福音派の指導者の一人であり、

 

元・聖書同盟主事、元・新改訳聖書刊行会編集主事、同理事長。という肩書を持っている「舟喜 順一」牧師です。

 

その肩書から、プロテスタント福音派の教会の重鎮ともいえる舟喜牧師は召天されていますが、著書『聖書の教える救いについて、I・II』は現在も多くの牧師や伝道師、クリスチャンたちの学びに用いられている名著と言われています。

 

その名著「聖書の教える救いについて」から、聖書の教える救いを見ていきます。

 

 

まず初めのタイトルが、これです

「救われる」(永遠のいのちを持つ)ヨハネの福音書三章十六節

 

 

舟喜牧師が初めにこの御言葉をタイトルにしたのは、福音派のすべての神学校がこのように教えているからです。

 

「ヨハネ3章16節の御言葉は、『聖書の中の聖書』と呼ばれる箇所です。

 

それは、聖書をコンパクトにコンパクトにしていくと、最後はこの3章16節の御言葉になると言われるからです。「黄金の言葉」と呼ばれたり、「小さな聖書」とも呼ばれます。

 

 

舟喜牧師の著書に戻ります。

 

「救われる」から「贖い」と言うタイトルがあり、マルコの福音書10章四一~四五節などの御言葉から「贖い」について説明されます。

 

そして、「義と認められる」というタイトルで次のように説明されます。

 

「私たちが自分の罪のために永遠の滅びに定められているなかで、その定めがくつがえされて、無罪の宣告を受け、神との正しい関係に入れられ、恐れることなく神に語りかけることができる者とされることを表すことばです。

 

また、「義と認められる」と同じ意味で、「さばかれない」ということばもあります。

 

第一章一項で学んだヨハネの福音書三章十六~十八節をもう一度

開いてみましょう

 

「御子を信じる者はさばかれない」ということばが十八節にあります

 

罪に定められている者がキリストのみわざの結果にあずかることによって、有罪の判決を受けない、死に定められないということです。

 

しかし、人の罪を神が赦すために必要なことを、キリストが成し遂げてくださっているのに、そのキリストを自分の救い主として受け入れないなら、その人は罪に定められている人なので、有罪のままである。

 

つまりすでにさばかれているのです。

 

引用以上

 

 

舟喜牧師の「聖書の教える救いについて」における聖書解釈と福音理解では

 

「私たちが自分の罪のために永遠の滅びに定められている」ということが根底にあります。

 

これは、福音派の神学校の学びでも最も重要で大切な教えになるので至極当然なことです。

 

大勢の牧師やクリスチャンたちが最も大切にしている教えです。

 

つまり、聖書が教える救いとは、永遠の滅びに定められているすべての人々が、イエス・キリストを信じて救われるということになります。

 

当然、イエス・キリストを信じなかった人々は救われません。

つまり、永遠の滅びに定められているので、地獄に行くのです。

 

 

今度は、私個人の「聖書の教える救いについて」伝えさせて頂きます。

 

このヨハネの福音書三章十六節の教えはユダヤ人の指導者であり、イスラエルの教師であるパリサイ人のニコデモという人に教えられていることです。

 

そのニコデモは初めにイエスさまにこう言いました。

 

「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。

 

神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 

それはどういう意味であるかというと、

パリサイ人たちはモーセの座を占めています。

 

「イエスは群集と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。(マタイの福音書23章1~2節)」

 

そのモーセとは神から与えられた「しるし」によって、エジプトの奴隷だったイスラエルの民を救い出します。

 

モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現れなかった』と言うでしょうから。」

 

主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」

 

すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。(出エジプト記4章1~3節)

 

その他にも神は紅海を真っ二つに分けて、イスラエルの民を海の底を歩かせて脱出させたり、天からマナをふらせたり、モーセを通して数々の「しるし」を行なって救い出します。

 

なので、ニコデモたちは、イエスさまがモーセと同じ「神からのしるし」を行なっているので、神の元から来た教師だと知ったのです。

 

それはイスラエルの民が待ち望んでいる「来るべきメシヤ(救世主)」だということです。

 

 

イエスさまは、そのニコデモに対して、モーセの教えによって、永遠のいのちを持つことを次のように教えられました。

 

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

 

それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書三章十四~十六節)」

 

大きなポイントは「モーセが荒野で蛇を上げたように」ということでした。

 

モーセの座を占めている者たちには、モーセと同じ「しるし」によって、来るべきメシヤ(救世主)だと知ることが出来ました。

 

そして、モーセの行動と同じ意味によって、永遠のいのちを説かれました。

 

 

しかし、バプテスマのヨハネはまったく逆でした。

 

「しるし」のみわざによって、イエスさまを疑ったのです。

 

なので、イエスさまはニコデモとはまるで違う御言葉によって、メシヤ(救世主)だということを信じさせるのです。

 

それがこの聖書箇所です。

 

「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、

イエスにこう言い送った。

 

『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。』

 

イエスは答えて、彼らに言われた。

 

『あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

 

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

 

だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。』(マタイの福音書11章2~6節)」

 

 

このイエスさまのみわざは、預言者イザヤが来るべきメシヤ(救世主)のみわざについての預言の成就でした。

 

「心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。』

 

そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。

 

そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒れ地に川が流れるからだ。(イザヤ書35章4~6節)」

 

 

このように、イエスさま(聖書)が教える「救い」は、その人その人にあわせた救いの御言葉でした。

 

モーセの座を占めている者たちには、モーセの教えにあわせて永遠のいのちを持つことを教えられました。

 

また、バプテスマのヨハネには、イザヤ預言の成就の御言葉を教えて、メシヤ(救世主)だと確信を得させます。

 

まさにイエスさまの救いの御言葉は、聖霊によるものです。

ですから、その人その人にあわせた御言葉があります。

 

私が信じる神はこのようであると心に思った通りに救われます。

 

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ人への手紙5章22~23節)

 

人が救われる時は必ず愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を体験します。

 

 

そのイエスさまの救いに対する教えを使徒パウロは忠実に受け継いでいる御言葉が次の通りです。

 

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。

 

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。

 

律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。

 

律法を持たない人々に対しては、—私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが—律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。

 

弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。

 

私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。(コリント人への手紙第一9章19~23節)」

 

 

ですから聖書を読めば、モーセの教えもイザヤ預言も知らない、聖書の教えをよく知らない「日本人」に対する救いの教えの御言葉を定められるはずがないのです。

 

また、日本人でもそれぞれにあわせた救われる御言葉は違うことがわかります。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 134 悪霊からの教えと聖霊からの教えについて」

 

教育で有名な教えは、人に伝える時にこの5Wが最も重要だということです。

 

What何を  Whyなぜ  Who誰が  Whom誰に  When いつ Whereどこで

 

例えば、小学校の運動会の終了時、先生は「下級生は教室に戻って、上級生は後片付けをしてください。」という指示をしたとします。

 

その理由は、下級生の特に一年生は疲れているので早く休ませてあげたいし、人数的にも上級生だけで十分ということもあります。

 

しかし、もし何人かの上級生がきちんと聞いてなくて、教室に戻る下級生に対して

 

「先生はすべての生徒に後片付けをしなさいと言った、どうして後片付けをしないんだ!」と注意すれば、

 

その場にいた上級生と下級生、先生、運動会を見に来た親たちに苦いねたみと敵対心が芽生えて、雰囲気は悪くなります。

 

これは家族も同じです。

 

母親が中学生の長女に頼んだことを、長女がめんどくさくて、小学生の次女や長男たちに「お母さんはみんなに頼んだことをどうしてしないんだ!」と責任転嫁すれば、家族に苦いねたみと敵対心が芽生えます。

 

ですから、人に伝える時は、苦いねたみと敵対心が芽生えないように5Wをしっかりと伝えることがものすごく重要ですね。

 

聖書の教えも同じです。このように教えています。

 

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。

 

そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。

 

ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。

 

しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。

 

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。(ヤコブの手紙3章14~18節)」

 

 

さて、前回の投稿記事では、ヨハネの福音書3章16節の教えは、イエスさまを神のもとから来られた教師であることを知っているユダヤ人の指導者であり、

 

イスラエルの教師であるパリサイ人のニコデモという人に教えられていることなので、

 

日本のイエス・キリストを信じていない人々はさっぱり理解ができないので不必要だと伝えさせて頂きました。

 

今回はその後の36 節「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」という教えについて見ていきます。

 

 

この36節の教えは、バプテスマのヨハネがバプテスマのヨハネの弟子たちとバプテスマを授けたユダヤ人たちに教えていることです。

 

その大きな理由は、バプテスマのヨハネの弟子たちは、主イエス・キリストを軽んじているからです。

 

マタイの福音書9章10~14節です。

 

10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓についていた。

 

11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」

 

12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

 

13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 

14 するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

 

 

私はこの聖書箇所を読んだ時、ヨハネの弟子たちはイエスさまをなめとんのか!と思いました。

 

パリサイ人はイエスの弟子たちのところへ行って「あなたがたの先生は」と言いました。

 

イエスさまを先生扱いしていますし、イエスさまに配慮して、直接には行きませんでした。

 

しかし、バプテスマのヨハネの弟子たちは、直接、イエスさまのところに行って、イエスさまのことを「あなた」と言って注意しています。

 

バプテスマのヨハネの弟子たちよ、お前たちは何様だ!

 

誰に向かって注意しているんだ!

それにイエスさまに向かって「あなた」とは何だ!

 

まったく、イエスさまに対して尊敬も敬意もありません。

見下していると思えます。

 

「俺様たちはバプテスマのヨハネの弟子で最もえらいんだぞ!」というプライドがあるようです。

 

 

ですから、バプテスマのヨハネは「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」と教えました。

 

その前には「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(ヨハネの福音書3章30節)」と最大限に自分を卑下してまで教えています。

 

さらにこのように教えるくらいです。

 

「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。

 

私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。(マタイの福音書3章11節)」

 

つまり、ヨハネの福音書3章36節の教えは、バプテスマのヨハネが、イエスさまを見下すようになるバプテスマのヨハネの弟子たちに対して、厳すぎるがちょうど良い教えになります。

 

このように5Wもしっかりと教えている聖書の教えを忠実に誠実に教えれば、クリスチャン人口が約1%弱という日本においても、

 

「なるほど」と理解できる教えですし、苦いねたみと敵対心は芽生えることはあり得ません。

 

 

しかしながら、このような聖書解釈と福音理解の教えをするキリスト教会は聞いたことがありません。

 

試しに「ヨハネの福音書3章36節の教え」で検索してきてください。

 

まるで違う聖書解釈と福音理解であふれています。

 

それは、「聖書は、すべての人々に対して、御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまると教えているのです!」という聖書解釈と福音理解です。

 

 

つまり、前回の投稿記事でのヨハネの福音書3章16節とまったく同じ原理ですが、こういう事になります。

 

このヨハネの福音書3章36節の教えは、バプテスマのヨハネがバプテスマのヨハネの弟子たちに対して教えていることですね。

「そんなの関係ない!」

 

教えているバプテスマのヨハネって誰?

また、私はバプテスマのヨハネの弟子ではありません

「そんなの関係ない!」

 

しかも、教えられているバプテスマのヨハネの弟子たちに対してまったくわかりません。

「そんなの関係ない!」

 

36節の前の35節には「 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」とあるのですが、

 

父って誰?御子って誰?さっぱりわからない。

「そんなの関係ない!」

 

聖書は、すべての人々に対してハッキリとこのように教えているのです!

 

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる!ヨハネの福音書3章36節」

 

つまり、イエス・キリストを信じていないすべての人々は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまっているので、滅びに向かっているのです!

 

このヨハネの福音書3章36節において、イエス・キリストを信じていないすべての人々は、神の怒りがその上にとどまっているとハッキリ書かれているのです!

 

聖書にハッキリと書かれていることを信じてください。

 

 

このような教えにあふれています。

 

また、このような教えを、大勢のクリスチャンたちが信じて、教え方はもっとやわらかく、要所は隠しながらですが、多くの人々に宣べ伝えているのが現状です。

 

 

前回の投稿記事でも伝えさせて頂きましたが、誰も聖霊によらなければ「イエスを主」ということは出来ません。

 

聖霊が教える御言葉、つまり上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。

 

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。(ヤコブの手紙3章17~18節)」

 

長くなったので次回にバプテスマのヨハネが確信を得た御言葉と救いについて見ていきます。

 

つづく

 

テキストの画像のようです

 

 

「日本におけるキリスト教 133 日本の未信者の方々には不必要なヨハネの福音書3章16節の教え」

 

今から2年位前に、高齢者の女性の方が、橋の上でうつ伏せ状態で倒れていたので援助したことがあります。

 

その時、通りがかった3人の方と一緒になって援助したのですが、とりあえず救急車を呼んだのですが、4人とも到着するまでの援助方法がわかりませんでした。

 

すると、看護師の方がたまたま通りかかって、事情を察してテキパキと指示をしてくださり助かりました。

 

4人は「援助の仕方がわからないので助かりました。」とお礼を言いました。

 

看護師の方は「医療従事者ではない人は知らなくても当然ですから、気にしないでね」と優しく言われたので、微笑ましい時になりました。

 

当然ながら「看護師とか、そんなの関係ない!医療従事者とか、そんなの関係ない!どうして援助方法がわからないのか!」と注意されることはあり得ません。

 

聖書の教えもまったく同じです。

 

その1つ、プロテスタント教会の牧師たちが「福音の原則・聖書の中心的な御言葉」などと最も重要であり大切にしている「ヨハネの福音書3章16節」の教えを見てみましょう。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 

当然ながら、これだけではよくわからないので、初めから見ていきます。

 

 

ヨハネの福音書3章1節~21節

 

さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。

 

この人が、夜、イエスのもとに来て言った。

 

「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。

 

神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 

ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」

 

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。

 

肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

 

あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

 

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

 

ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」

 

イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

 

まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。

 

あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

 

だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

 

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

 

それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。

 

その行いが悪かったからである。

 

悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

 

しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」

 

 

さて、小学生で習うことですが、文章を理解するには、誰が、どのような人に、どのようなことを教えているか、ということが最も大事です。

 

この聖書箇所では、イエスさまは、ユダヤ人の指導者であり、イスラエルの教師であるパリサイ人のニコデモという人に教えられていることです。

 

ニコデモは、イエスさまがなさる「しるし」を知って、イエスさまを「神のもとから来られた教師」だと信じました。

 

しかも「私たちは」と言っているので、ニコデモだけではなく、他のユダヤ人の指導者たちも同じくイエスさまを神のもとから来られた教師だと信じていることになります。

 

イエスさまがニコデモに教えられたことは、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

」ということでした。

 

 

イスラエルの教師であるニコデモは、当然にその教えを理解したことが次の御言葉でわかります。

 

イエスさまがすべての罪人の罪を背負われて十字架上で死なれた時のことです。

 

「そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。

 

それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。

 

前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。

 

そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。(ヨハネの福音書19章38~40節)」

 

 

さて、日本人がこのヨハネの福音書3章1~21節を続けて読めば、この教えは「さっぱりわかりません」

 

そもそもニコデモのようにイエス・キリストがなさったという「しるし」を見たことも聞いたこともありません。

 

それゆえ、神のもとから来られた教師であるとはまったく思いません。というか、どうでもよいことです。

 

また、ニコデモのようにイスラエルの教師ではないので、水と御霊とか何?、新しく生まれるとか何だ?、モーセが荒野で蛇を上げたって何???さっぱりわからない。

 

はて?モーセって誰? 確か宇宙に行った人かな? それは日本人初の宇宙飛行士に選定された毛利 衛(もうり まもる)さんや!

 

はて?人の子って誰?意味わかんない 

 

はて?モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられることは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためですって、なんじゃそりゃぁぁぁぁぁ!さっぱりわからない。という感じです。

 

あのNHK朝ドラ「虎に翼」の主人公を演じる伊藤沙莉さんのように「はて?」を連発して、

 

さらにドラマ「ガリレオ」で主人公を演じる福山雅治さんの決めセリフの1つ「さっぱりわからない」を連発します。

 

 

なので、このヨハネの福音書3章1~21節の、イエスさまがユダヤ人の指導者でありイスラエルの教師であるパリサイ人のニコデモに教えられたこの御言葉は、

 

日本のイエス・キリストを信じていない人々には不必要なことがわかります。

 

もちろん、クリスチャンになれば、重要で大切な御言葉の1つになります。

 

けれど、イエス・キリストを信じていない人々にとっては意味の解らない、特に教える必要がない御言葉になります。

 

例外はあるかもしれませんが、基本的に知らなくても問題はない御言葉です。

 

 

しかしながら、イエスさまがユダヤ人の指導者でありイスラエルの教師であるパリサイ人のニコデモに教えられたヨハネの福音書3章1~21節を

 

「イエスさまは、すべての人に教えているのです!

 

特にイエス・キリストを信じていない人々の救いにとって必要不可欠な御言葉です!」と断言している大勢のクリスチャンたちの教えは、次のようになるでしょう。

 

ニコデモのようにイエス・キリストがなさったという「しるし」を見たことも聞いたこともありません。

「そんなの関係ない!」

 

また、ニコデモのようにイエス・キリストが神のもとから来られた教師であるとはまったく思いません。

「そんなの関係ない!」

 

それから、ニコデモのようにイスラエルの教師ではないので、水と御霊とか何?、新しく生まれるとか何だ?、モーセが荒野で蛇を上げたって何???さっぱりわからない

「そんなの関係ない!」

 

はて?モーセって誰? 人の子って誰?意味わかんない

「そんなの関係ない!」

 

はて?モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられることは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためですって、なんじゃそりゃぁぁぁぁぁ!さっぱりわからない。という感じです。

「そんなの関係ない!」

 

ガリレオの福山雅治さんのように「さっぱりわからない」

 

とにかく「そんなの関係ない!そんなの関係ない!そんなの関係ない!オッパッピィ!」

 

イエスさまはすべての人々にこのようにハッキリと教えられているのです!

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネの福音書3章16節」

 

つまり、イエス・キリストを信じた人は救われて、ひとりとして滅びることはありません。永遠のいのちを持ちます。

 

しかし、イエス・キリストを信じない人々は滅びるのです。つまり地獄へ行き、永遠に炎の中でもがき苦しみます。

 

ヨハネの福音書3章16節。はっきりとイエスさまはすべての人々に教えられているのです!

 

その続きの36 節には、さらにこのように教えられています。

 

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

 

このように、イエスさまはすべての人々に教えているのです!

 

ですから、言い逃れは出来ません!

聖書の教えを間違って教えてもいけません!

 

この聖書のイエスさまの教えを信じて、聞き従うことが本当のクリスチャンです!

 

 

ちなみに、

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」という教えは、

 

バプテスマのヨハネが、ヨハネの弟子たちとバプテスマを受けたユダヤ人たちに教えています。

 

 

このように、クリスチャンでも聖書解釈と福音理解はまったく違います。

 

今回は、ニコデモがイエス・キリストを信じた御言葉と確信を得た御言葉ヨハネの福音書3章1~21節について見ていきました。

 

人は聖霊によって、イエス・キリストを信じる御言葉と確信を得る御言葉があります。

 

それぞれ違う御言葉だから面白いです。

 

しかし、同じ御言葉の人たちもいるので、それもまた面白いです。

 

ニコデモと同じくユダヤ人の指導者でありイスラエルの教師であるパリサイ人は、ニコデモと同じくイエスさまがモーセのように「しるしを行なう」御言葉によって信じて、

 

ヨハネの福音書3章1~21節の教えで確信を得ることになると思われます。

 

次回はバプテスマのヨハネが確信を得た御言葉を見ていきます。

 

その御言葉はニコデモとは違うので面白いですよ。

 

そこから、「救い」について見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 132 地獄の教えでわかる悪魔の知恵と正体」

 

ここまで聖書から「地獄行き」についての教えを見てきました。

 

世の光として活躍している人々は、たった一つの「失言」やたった一度の「わいせつ・セクハラ行為」「子どもの一人にでもつまずかせる行為」をすれば、すべてを失うことが「世の中の義」のようなものです。

 

イエスさまの教えは、クリスチャンたちに対して、その「世の中の義」を遥かに上回る「クリスチャンたちの義」を教えました。

 

それが、「バカ者」という者、情欲を抱いて女性を見る者、子どもの一人にでもつまずかせる者は地獄に投げ込まれるということでした。

 

 

クリスチャンとは「世界の光」であり、「地の塩」であります。

 

また、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」という者であり、キリストの御霊を持っている者です。

 

それから、ローマ人への手紙14章には次のように教えられています。

 

「私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

 

13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。

 

いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

 

17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

 

18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。」

 

 

イエスさまは山上の垂訓において、「クリスチャンたちの義」を教えられた後、有名なこの御言葉を教えられました。

 

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイの福音書6章33節)」

 

ですから、世の中の義を遥かに上回る「クリスチャンたちの義」の教えは受け入れることが出来るでしょう。

 

 

例えば、「情欲を抱いて女性を見る者」について、

 

世の中で最も多くの人々に愛されている映画の一つに「男はつらいよ」があります。

 

主人公の寅さんとマドンナになる魅力的な女性たちとの出会いが物語の中心です。

 

毎回、出会うマドンナの方々はいずれも超魅力的な方々です。

 

そして、二人きりの夜の宿屋でいいムードになります。

世の男性なら誰でも情欲を抱きます。寅さんもそうでした。

 

しかし、寅さんは絶対に手を出しません。毎回、情欲の思いを断ち切ります。

 

(世の男性は、どうして抱かないんだ!と残念に思います。)

 

しかしながら、その美学によって、その後、何年、何十年経っても、マドンナの方々と素晴らしい親愛関係が保たれるのです。

 

 

世の中でも、そのような「情欲を断ち切ったほうが素晴らしい人間関係が築けるよ。」という教えがいくつもあるのですから、

 

聖書のイエスさまの情欲を抱いて女性を見る者は、からだ全体が燃えるゲヘナに投げ込まれるという教えによって、情欲の思いを断ち切るということは、神の国と神の義を求めるクリスチャンたちにとって必要不可欠だと思います。

 

まして、イエス・キリストを信じて永遠のいのちが得られるクリスチャンたちが、イエスさまの教えに聞き従うのは当然です。

 

ですから、クリスチャンたちにとって、地獄行きの教えは受け入れられるものであり、理解ができるものです。

 

 

ところが、「イエス・キリストを信じていない人たちは、罪をもったままなので、神の怒りがその上にとどまり、滅びに向かっていて、そのまま死ねば永遠の火に投げ込まれる。」という教えはどうでしょう。

 

それは「のろい」になります。

 

なぜなら、そういう恐怖の言葉によってはイエス・キリストを信じることはできないからです。

 

世の中でも「言うことを聞かなければ殺すぞ!」と脅して言う通りにさせることを、「ヤクザみたい」と言われます。

 

聖書の教えでは、次のように教えられています。

 

「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、

また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。(第一コリント12章3節)」

 

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ人への手紙5章22~23節)」

 

つまり、イエス・キリストを信じる時は、聖霊が結ばせる実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)でしか無理なことがわかります。

 

 

なので、悪魔の知恵はその真逆の御言葉を利用します。

 

イエス・キリストを信じていない人々に対して、死後さばきにあう。

 

滅びに向かっている。地獄に行く。などと恐怖を与える御言葉を利用するのです。

 

それは、苦いねたみと敵対心を植え付ける「のろい」です。

 

 

日本では、戦後から海外の宣教師や伝道師、牧師が日本宣教に燃えて来日しました。

 

戦略の一つにキリスト教関係の学校や孤児院、老人ホーム、病院などが数多く建設されました。

 

また、日本人の牧師や神父をはじめ教会のクリスチャンたちが熱心に伝道をし続けています。

 

しかしながら、クリスチャン人口は約1%と言われている状態が長年続いています。

 

日本の歴史上では福音が伝えられるまでの0%とその後1%という状況がほとんどと思われます。

 

つまり、日本では、本当にイエス・キリストを信じることは非常に困難なわけです。

 

それなのに、イエス・キリストを信じていなければ、神の怒りがその上にとどまるとか、死後にさばきにあうとか、滅びに向かっているという教えは残酷非道としか思えません。

 

しかし、その教えによって、地獄行きが怖いので、「イエス・キリストを信じます。」と言ってクリスチャンになった人もいます。

 

けれど、本当に信じているのか半信半疑な信仰生活に疲れ果てて、クリスチャンをやめていった人を何人も知っています。

 

 

ですから、まさに、イエス・キリストを信じていない人々に対して、「さばきにあう。」「滅びに向かっている。」「地獄に行く」などの恐怖を与える御言葉を伝えることは

 

イエス・キリストを信じていない人々に対する「苦いねたみと敵対心」があるとしか思えません。

 

それゆえ「人をのろっている」ことになるでしょう。

 

まるで悪魔の知恵と思います。

そのことを聖書は明確に教えているのです。

 

 

前回記事でも伝えさせて頂いたこの御言葉です。

 

「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。

 

私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。

 

舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」

 

その続きにこのように教えています。

 

「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

 

私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

 

賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

 

泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。

 

私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。

 

塩水が甘い水を出すこともできないことです。

 

あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。

 

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。

 

真理に逆らって偽ることになります。

 

そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。

 

(ヤコブの手紙3章8~15節)」

 

 

このように、神を賛美しながら、人に対して「のろい」の言葉を言う人々は、悪魔から来る悪霊に属するものと明確に教えられているのです。

 

つづく