ルーク4のブログ -11ページ目

ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教の真実 ⑦ 神さまの御心にかなう人間について」

 

聖書を読めば、神さまの御心にかなっている人間とはどのような人であるかが具体的にわかります。

 

イエス・キリスト御自身が教えられている「最後の審判」では、主イエス・キリストを信じているクリスチャンたち(聖霊の証印がある)は、最後の審判が行われる直前に空中に引き上げられて、主イエスと出逢って、いつまでも主イエスと共にいることになります。

 

そして、地上に残っている人々に対して「最後の審判のさばき」がくだされるわけです。

 

イエス・キリストを信じていても不法を行なっている「大勢のクリスチャンたち」は、地上に残されています。

 

そして、「不法を行なう者どもよ、わたしから離れ去れ!」という宣告を受けます。

 

イエスさまは、その不法を行なうクリスチャンたちは大勢いると教えられています。

 

この「不法を行なっている」というのは、次のような者たちのことです。

 

聖書の御言葉を曲解して自分自身に滅びを招いている者たち(第二ペテロ3章16節)

 

罪のうちを歩む者たち

「罪の内を歩む者は、悪魔から出た者です。(第一ヨハネ3章8節)

 

聖霊に逆らっている(汚している、欺いている)者たち

「聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。(マタイの福音書12:31~32)」

 

小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えている者たち

「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

 

つまずきを与えるこの世はわざわいだ。

 

つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。

 

もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまづかせるなら、それを切って捨てなさい。

 

片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。(マタイの福音書18章6~8節)」

 

 

さらに、旧約聖書では次のように教えられています。

「見よ

お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし

神に逆らって、こぶしを振るう。

 

お前たちが今しているような断食によっては

お前たちの声が天で聞かれることはない。

 

そのようなものがわたしの選ぶ断食

苦行の日であろうか。

 

葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと

それを、お前は断食と呼び

主に喜ばれる日と呼ぶのか。

 

わたしの選ぶ断食とはこれではないか。

悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて

虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。

 

更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え

さまよう貧しい人を家に招き入れ

 

裸の人に会えば衣を着せかけ

同胞に助けを惜しまないこと。

 

そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で

あなたの傷は速やかにいやされる。

 

あなたの正義があなたを先導し

主の栄光があなたのしんがりを守る。

 

あなたが呼べば主は答え

あなたが叫べば

「わたしはここにいる」と言われる。

 

軛を負わすこと、指をさすこと

呪いの言葉をはくことを

あなたの中から取り去るなら

 

飢えている人に心を配り

苦しめられている人の願いを満たすなら

 

あなたの光は、闇の中に輝き出で

あなたを包む闇は、真昼のようになる

 

主は常にあなたを導き

 

焼けつく地であなたの渇きをいやし

骨に力を与えてくださる。

 

あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。

 

人々はあなたの古い廃虚を築き直し

あなたは代々の礎を据え直す。

 

人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び

「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。

(イザヤ書58章4~12節)」

 

 

最後の審判において、地上に残っているイエス・キリストを信じていない人々(未信者・ノンクリスチャン・聖霊の証印がない)に対してのさばきの判断基準は次の通りです。

 

すべての国々の民が、その御前に集められます。羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

 

そして、右にいる人々に次のように宣告されます。

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 

こういうわけで正しい人たちは永遠の命に入ります。

 

そして、左にいる人々に次のように宣告されます。

『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

 

こうして、この人たちは永遠の刑罰に入ります。

 

つまり、イエスさまの最後の審判では、最も小さい者たちが裸であったり、飢えていたり、渇いていたり、旅人であったり、病いであったりした時に、助けたか助けなかったかということが判断基準でした。

 

 

前述のように聖書の教えを見てみると、

 

イエス・キリストを信じている人々に対しても、イエス・キリストを信じていない人々に対しても、神さまの最後の審判の判断基準は一致しているように思います。

 

神さまの御心にかなう人間は、イエス・キリストを信じている人々も信じていない人々も同じです。

 

ただ前述のイザヤ書58章のように、イエス・キリストを信じている人々については、さらに深いものになっています。

 

 

前回記事では、イスラエル建国について伝えましたが、

争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るうように建国されました。

 

それゆえ、最も小さい者たちの多くが虐殺されたり、家を失い、親を失い、さまよう旅人となりました。

 

そのようなイスラエル建国を素晴らしい神の御計画の成就とか、イエスさまの御業だとか言っているクリスチャンは大勢います。

 

多くの教会の牧師たちがそのように教えているわけです。

 

どうして、そのような教えになるのか?

 

それはイエス・キリストの再臨と最後の審判が行われるには、聖書に書かれている通りの状況にならなければならないからです。

 

聖書に書かれている状況は、イスラエルはユダヤ教徒とキリスト教徒しか書かれていません。

 

イスラム教徒のことは書かれていないのです。

 

イスラム教は7世紀初め、アラビア半島で預言者のムハンマドが天使を通じて神の啓示を授かったことをきっかけに布教がはじまったとされています。

 

それゆえ、イスラム教をエルサレムから排除しないと都合が悪くなります。

 

さて、イエスさまが教えられている主イエス・キリストの再臨と最後の審判の時期はいつでしょうか?

 

聖書には具体的に教えられています。

 

つづく

 

 

 

 

「日本におけるキリスト教の真実 ⑥ イスラエルと聖地エルサレムとイエス・キリストを信じる人々」

 

ここで、キリスト教会がイスラエルの聖地エルサレムを奪回した歴史を見てみましょう。

 

十字軍 『悲惨な幻想』イタリアの「目ざめよ!」通信員より

 

今から900年ほど前の1096年に,第1回十字軍が出発しようとしていました。その集団は,西暦7世紀以来イスラム教徒に支配されていた聖都エルサレムに向かっていました。

 

それは最初の十字軍でした。多くの歴史家は主要な8回の十字軍運動を挙げています。それらの遠征隊は東西関係の歴史に傷痕を残しました。

 

十字軍運動には,神とキリストに名を借りた大虐殺や残虐行為がつきものだったからです。

 

十字軍運動の表向きの動機は,エルサレムといわゆる聖墳墓をイスラム教徒から奪回することでした。

 

しかし,その原因はより深いところにありました。

 

少数の事件を別にすれば,中東に住んでいた自称クリスチャンとイスラム教徒との関係は比較的平穏なものでした。

 

十字軍運動を起こすに至った重要な要素の一つは,ヨーロッパの不穏な政治的,経済的,および宗教的な一般情勢でした。

 

ローマ・カトリック教会も混乱期を迎えていました。1054年には東方教会に対する支配権を失った上,多くの僧職者が不道徳や政治への干渉のかどで告発されていました。

 

このような状況のもとで,教皇ウルバヌス2世が第1回十字軍を召集しました。

 

同教皇の見るところでは,エルサレムとパレスチナを奪還するための軍事行動は,幾つかの目的にかなっていました。

 

それは西方キリスト教世界の一致を強化し,ローマ教会の首位の地位を再確認するものとなり,また上流階級の人々が果てしない争いから抜け出す機会ともなるはずでした。

 

それらの人は宗教的な恩恵,とりわけ経済的な恩恵と引き換えに,教会の武装した下部機関となって,高潔な”大義名分のために自分たちの軍事手腕を発揮することになったのです。

 

1095年11月27日,フランスのクレルモンで開かれた公会議の席上,ウルバヌスはその訴えを始めました。

 

教会は敵対者を神からの報復に値する者と述べて実際よりも悪者に仕立て上げました。

第1回十字軍に参加した司祭フーシェ・ド・シャルトルによれば,その戦いは東方の“クリスチャン”をイスラム教徒から守るために必要でした。

 

そして,遠征中に死んだり戦死したりした人々の罪は即座に許されることが保証されました。

 

そういうわけで,封建諸侯は同胞同士で殺し合う争いを“異教徒”に対する“聖戦”に切り替えることができました。

 

その公会議では,第1回十字軍のモットーとなった,「神それを欲し給う」という叫び声が鳴り響きました。

 

引用以上

 

*

 

mattoarchives からの「十字軍」記事より

 

途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略し虐殺、レイプ、略奪を行いながらエルサレムを目指した。

 

イスラム教徒の諸領主は、十字軍の行動にまとまりがなく、行為も残虐な強盗・レイプ・殺人の繰り返しという野蛮さから、この集団が宗教的背景を持った侵略者だと気付かず、野蛮な西欧の強盗団が強大になったものだと考えていた。

 

一説によるとこのとき十字軍は、イスラム教圏で老若男女問わず一方的に7万人以上も虐殺をしたともいわれる。

 

平和に暮らしていたイスラム教徒の諸領主はこの殺人集団に対する大した備えもなく一致団結することもできず、十字軍の残虐非道ぶりから十字軍の襲撃を聞くだけで震え上がって敗走するか戦わずして十字軍を通した。

 

1099年、軍勢はついにエルサレムの征服に成功した。

 

エルサレムにおいても十字軍は城内のイスラム教徒やユダヤ教徒の虐殺と略奪を行った。

 

その後、ゴドフロワ・ド・ブイヨンがエルサレムの王となり、レーモンは海岸部のトリポリの伯となった。

 

この十字軍の結果、シリアからパレスチナにかけての中東地域にエルサレム王国、エデッサ伯国、トリポリ伯国、アンティオキア公国の主要4国をはじめとするいくつかの十字軍国家がつくられた。

 

引用以上

 

 

第1回十字軍は聖地の回復に成功し、その地にエルサレム王国を建設しました。そのためキリスト教徒も多数移住した。

 

カトリック教会のローマ教皇の権威は絶大なものとなりました。

 

 

舞夢さんのブログ記事「第一回十字軍のこと」から引用

 

「イスラム教徒、ユダヤ教徒のみならず東方正教会や東方諸教会のキリスト教徒正教会(ギリシャ正教)、アルメニア使徒教会、コプト正教会など、各教派のエルサレム総主教たちは追放され、カトリックの大司教がエルサレムに立てられた」

 

「キリストが架けられた『聖十字架』など聖遺物は、十字軍が現地キリスト教会の司祭達を拷問し、ほとんど全て強奪した」

 

十字軍によるエルサレム市民の虐殺が一段落すると、軍勢の指導者となっていたゴドフロワ・ド・ブイヨンは「エルサレム公」そして「聖墳墓の守護者」と名乗った。

 

これはゴドフロワが、主であるキリストが命を落とした場所の王になることを恐れ多いと拒んだからとも、他の十字軍諸侯の反感を恐れたからとも言われている。

 

陥落終了後、静かになった市内では、イスラム教徒、ユダヤ教徒、現地のキリスト教徒の血まみれの老若男女の死体が、無造作に積み上げられ。まるで川のように夥しく血が流れ出し、また酷い屍臭が漂っていた。

 

その血の川と酷い屍臭の中、ローマ教皇から派遣された十字軍兵士と、ローマ・カトリックの聖職者たちは、聖墳墓教会に集まり、「神」に「この上ない感謝と喜びの祈り」を捧げた。

 

異教徒も、現地のキリスト教徒も、老若男女も見境なく、残虐の限りを尽くし殺害した「その人たち」が、聖墳墓教会の聖なる祭壇に、泣きながら「この上ない感謝と喜びの心」でひざまずいたのである。

 

まさに、これは神の御心をかなえたのだろうか。

だとしたら、神とは何か。

 

なにゆえに、神は、こんな惨いことを望むのか。

神が好むのは、人の血と涙と絶望なのか。

 

ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、神そのものは共通であったはず。

この悲惨極まりない事件に対し、神への疑問は尽きない。

 

そして、つくづく、理解した。

人は「神の栄光のために」、「どこまででも残酷になれる」ということを。

 

引用以上

 

 

前述のように、カトリック教会の十字軍によって、「イスラエルの聖地エルサレム」に、イエス・キリストを信じるキリスト教徒たちのエルサレム王国が建設されましたが、その後に終焉したのです。

 

 

その後、次はプロテスタント教会の大きな支援協力によって、1948年「イスラエル建国」が成されます。

 

イスラエル問題を理解する 背景にある「譲れない一線」より引用

 

イスラエルをめぐるニュースが世界を騒がせている。

 

パレスチナ自治区ガザにある病院への攻撃といった情報に胸を痛める一方、そもそもイスラエルとパレスチナがなぜ争うのか、理解しづらいと感じる人もいるだろう。

 

本書『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』(鬼澤忍訳)

 

著者はまず、イスラエル‐パレスチナ紛争を言い表した11歳の少年の言葉を紹介する。それは「どちらも正しいが、どちらもほかに行くところがない」だ。

 

ユダヤ人はイスラエルの地を「祖国」だと主張するが、その根拠は紀元前のはるか昔にさかのぼる。

 

ヘブライ語聖書に、アブラハム(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の始祖とされる旧約聖書の人物)に対して現在のイスラエル、ヨルダン川西岸、ガザ地区を指して「あなたの子孫にこの地を与える」と記されていたのだ。

 

その後、ユダヤ人はローマ帝国やキリスト教徒に追われイスラエルからヨーロッパへ移住する。そこでも迫害を受け続け、数千年もの長い間に民族は離散する。

 

だが、ヘブライ語聖書の一節を忘れなかった一部のユダヤ人は、イスラエルの地に戻り民族自決を求める運動を始めた。この運動がイスラエルの建国につながっていく。

 

しかし、イスラエルにはすでに現在私たちがパレスチナ人と呼ぶ、アラブ系の住民がいた。

 

彼らにしてみたら、ユダヤ人は突然やってきて居場所や権利を奪う侵略者だ。反ユダヤ主義が高まり、武力衝突、虐殺などへと対立が深まっていった。

 

それぞれが生き残るために譲れない一線が、今日の惨状の背景にはある。

 

引用以上

 

 

次はイスラーム世界・キリスト教世界に対する、エルサレムに関する呼びかけエルサレムのためのムスリム・クリスチャン会議にて

ベイルート・6月14-16日からの引用です。

 

私達は預言者の間に区別を設けません。なぜなら、アブラハムやダビデ、ソロモン、モーゼ、イエスは、私達の預言者ムハンマドと同じ預言者達だと信じているからです。

 

私達は、預言者ムハンマド<彼に平安あれ>の敵に対峙するように、彼らの敵にも対峙するのです。ムスリム達の努力により、この地はさらに聖なるものとなりました。

 

ゆえに、アラブ諸国は、エルサレムを守り、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラーム教徒の礼拝の自由を守るにもっともふさわしいのです。

 

 何世紀にもわたり、ムスリムはエルサレムに奉仕する光栄に浴し、また、この地を守護してきました。その間、エルサレムは全ての人々に開かれ、信教の自由、行動の自由が保証されていたことは、歴史が証明しています。

 

 イスラームの支配下において、カリフのオマル・イブン・アルハッターブは、軍隊のエルサレムへの侵攻を拒絶しました。

 

ムスリムはシリアの地を征服することを計画しましたが、エルサレムに軍隊が入らなかったことは、歴史を学べば明らかなことです。

 

なぜならエルサレムは尊厳ある地位にあり、聖なる都であったからです。

 

ムスリムの軍隊がビザンチン帝国からエルサレムを分離させたときは、距離をかなりおいてエルサレムを包囲しました。

 

エルサレムは、ムスリムのカリフのみに対し、鍵が渡された都でした。エルサレムの支配者ソフロニウスは、オマル以外の人間に鍵を渡すことを拒絶しました。

 

その日から、エルサレムは、<アル・コドス―聖なる都>という名で呼ばれるようになりました。

 

 カリフのオマル・イブン・アルハッターブは聖墳墓教会での礼拝を主教達に薦められましたが、それを拒否しました。

 

彼は、もし自分がここで礼拝をしたら、ここをモスクにしようとする一部のムスリムに、その口実を与えてしまうのを恐れたからだ、と拒否した理由を説明しました。

 

 集約すれば、アッラーに祝福されたエルサレムとその周辺の地の守護、その神聖さの保護、人々の権利、アラブ人とムスリムの支配地域の守護は、イスラームの誓約の一部であり、その誓約は、ムスリムの子供が誕生するたびに更新されてきたようなものでした。

 

イスラームは全ての圧政に反対するものであり、圧政をしくものではありません。そして、人権を分け隔てなく守り、暴力的なことをするものではありません。

 

ゆえにイスラーム支配下の<アル・コドス>は、<平和の都>でした。

 

イスラエルの支配下ではしかし、アル・コドスは<紛争の都>です。

 

アル・アクサーモスクでは、悲惨な虐殺が起こりました。イスラエル兵とユダヤ人入植者が、武器を持たない礼拝者をモスクの中庭で殺したのです。

 

1968年、複数のシオニストがモスクに放火し、破壊しようと企てました。

 

1967年以降、シオニスト達はアル・アクサーモスクの廃墟の上に神殿を建てるために2億ドルを割り当てていました。

 

シオニストの伝道集団であり、イスラエルとつながっている<エルサレム・テンプル団>は、年間1億ドルを神殿建設のために寄付していました。

 

この目的は、ベン・グリオン首相の次のような宣言によって明らかにされているでしょう。<イスラエルはエルサレムなしには意味を持たず、エルサレムは神殿なしには意味をもたない。>

 

アル・アクサーモスクと岩のドームの下にトンネルを掘る工事は続いていますが、これは、イスラームの聖地を崩壊させ、神殿建設を企てるものです。それこそが、シオニストの主な目標の一つなのです。

 

 もしこれまでの13世紀にわたる歴史を学べば、ムスリム、クリスチャン、ユダヤ教徒がこれまでパレスチナ、エルサレムで共存し、これらの地は誰でも出入りできたことがおわかりになると思います。

 

しかし、シオニストとイスラエルの政策が、ユダヤ教徒達を、ムスリムとクリスチャンを脅かさなければ生きていけないまでに追い込んだのです。

 

 イスラエルのエルサレム占領以来、彼らはエルサレムをユダヤ人だけの都にしようとしてきました。強引な政策により、ムスリムとクリスチャンは強制移住させられたのです。

 

複数の著名人によれば、今やエルサレムのユダヤ人口は、ムスリムとクリスチャンを合わせた人口を上回っているということです。

 

 一例を挙げれば、クリスチャン人口は1967年以来激減しています。

 

1967年、エルサレムには38000人のクリスチャンがいましたが、今ではわずか12500人となってしまっています。本来、自然増加率に基づけば、今は12万人になっているはずなのです。

 

 なぜこのようなことが起こっているのでしょうか?それは、イスラエルによる、ムスリム・クリスチャンの土地、宗教施設の没収、エルサレムなどからの住民の追放が行われたためです。

 

この変化の深刻さは、1918年の、パレスチナの全人口70万人のうち、ユダヤ人の人口は、そのうちの8%にあたる55000人であったことからもわかると思います。

 

3. 西側のキリスト教会のあり方

 多くのプロテスタント教会が、イスラエルの建国を支援しました。

 

それは彼らが、新約聖書の最終章、<ヨハネの黙示録>が現実のものになると夢想していたからです。

 

ヨハネによれば、イエスの千年王国は、ユダヤ人が再びパレスチナに国家を建設するまで実現しないことになっていました。

 

この考えは、キリスト教的シオニズムのイデオロギーとなり、これにより、シオニズムは西側の教会や、パレスチナはユダヤ人のホームランドであると宣言した、イギリスのバルフォア卿のような、高い地位の人々の支援を受けることになったのです。

 

今や、多くの団体、特にアメリカの団体が、過去に自らが犯したこと(ユダヤ人排斥)の罪滅ぼしに、シオニストを支援しています。

 

このような団体の数は250以上に上ります。その一つの例が、1980年に設立された、<インターナショナル・クリスチャンエンバシー・オブ・ジェルサレム>で、23カ国の教会、1000人以上の会員がいます。

 

 1985年8月、スイスのバーゼルで、ある会議が開かれ、次のような声明が出されました。

 

<ここに集まった我々代表と多くの教会とその信者は、イスラエルとの団結を表明する。ユダヤ人はこれまで、自らを脅かしてきた、悪徳や有害な勢力に立ち向かってきたことを我々は認める。

 

我々はクリスチャンとして、過去、キリスト教会がこれまでの歴史の中で、ユダヤ人に対し公正でなかったことを認める。

 

我々はユダヤ人迫害から40年を迎えるにあたり、イスラエル支持のために、ヨーロッパ内で団結することを表明する。>

 

引用以上

 

 

次は、テレビ東京報道局記者/ニュースキャスター 豊島晋作氏のレポートから引用します。

 

「殺られる前に殺れ」と聖典が説いている

まず、イスラエルの論理を端的に要約する一文から紹介します。

「誰かが殺しに来たら、立ち向かい、相手より先に殺せ」

 

かなり強烈な印象を受ける一文ですが、これはユダヤ教の聖典のひとつである「タルムード」の一節、「サンヘドリン」篇72章1節の文章です。

 

当然、原典はヘブライ語ですが、英語では、「If someone comes to kill you, rise and kill him first.、つまり「殺やられる前に殺れ」という意味です。

 

イスラエルの首相や閣僚などの政治指導者、そして軍や情報機関の幹部は、ある意味でこの論理をもとに行動しているとも言えます。

 

豊島晋作『日本人にどうしても伝えたい 教養としての国際政治 戦争というリスクを見通す力をつける』(KADOKAWA)

イスラエル諜報機関 暗殺作戦全史』(小谷賢監訳)という有名な本の原題でもあります。

 

この本はモサドやアマンなどイスラエルの諜報・情報機関が実施してきた暗殺作戦や軍事行動を詳しく記述した本ですが、著者のバーグマンが執筆のため軍や諜報・情報機関の幹部にインタビューした際、彼らの口からこの一節がよく出てきたと言います。

 

バーグマンの本はイスラエルの暗殺作戦の実態を、ここまで書くかというほどに暴いており、イスラエル政府が出版を妨害しようとした著作でもあります。

 

内容は非常に豊富で読み応ごたえがあり、2023年10月以降にイスラエル周辺で起こった状況をより深く理解したい人にはお勧めの一冊です。

 

なぜイスラエルの指導者たちは「殺やられる前に殺れ」という論理を自分たちの行動指針にしたのでしょうか。

 

もちろん、どの国の政治指導者も国家と国民を防衛する役割があります。ただ、特にイスラエルの政治家や政府機関の指導者たちは、何十年にも渡って実際にこの国家防衛の義務を果たさなければなりませんでした。今もそうです。

 

イスラエルは過去に何度も戦争をしかけてきた敵国(アラブ諸国)や、今も攻撃を続けるヒズボラやハマスなどの敵対組織に国土を囲まれてきました。

 

さらに、自分たちが土地を奪ったせいで、イスラエルを強く憎むようになった大勢のパレスチナ人たちがすぐ近くに住んでいます。

 

「敵」が近くにいる以上、現実問題として、先に殺らなければ殺られるという実感は、イスラエルの過去の経験に由来しています。イスラエルは生まれながらにして戦うことを宿命づけられた国家なのです。

 

歴代首相は特殊部隊の出身者が多い

国が生まれた瞬間、つまり建国の翌日から周辺諸国に戦争をしかけられています。

 

1948年5月14日にイスラエルが建国された翌15日、周辺国のエジプトやヨルダン、シリア、レバノンなどアラブ諸国の軍隊がイスラエルに攻め込みました。これを第一次中東戦争と呼びます。

 

これ以来、イスラエルは4度もの戦争を経験してきました。まさに「殺さなければ殺される」状況に何度も直面してきたのです。

 

ここから、以下のような論理を抱くようになったのです。

「自分たちは国家がなければ生き残れない。そして国家を持った今でもなお自分たちは常に存亡の危機にあり、戦わなければ生き残れない。だから、たとえ世界を敵にまわしてでも戦い続ける」

 

イスラエルでは、首相をはじめとした多くの政治指導者が実戦経験のある元軍人です。

 

男女ともに徴兵制のある国なので、指導者が元軍人というのは当然ですが、特に歴代のイスラエル首相には、軍の中でも最前線に立つエリートである特殊部隊の出身者が複数いるのは無視できません。

 

特殊部隊員は、軍のイデオロギーを体現する存在でもあり、「確実に相手を殺す」意識がひときわ強い集団でもあるからです。

海軍の特殊部隊や空挺部隊の指揮官など

 

例えば現在のベンヤミン・ネタニヤフ首相は、イスラエル軍の最強部隊と言われるサイェレット・マトカルの元隊員です。同じくナフタリ・ベネット首相(2021―22年)、エフード・バラク首相(99―01年)もサイェレット・マトカル出身です。

 

イスラエルでは首相の次に国防相が重要な閣僚とされていますが、ネタニヤフ政権のヨアブ・ガラント国防相も海軍の特殊部隊として名高いシャイェテット・13の元隊員で、イスラム武装組織幹部の暗殺作戦に何度か従事した経験があります。

 

ほかにも、2000年代に首相だった、アリエル・シャロン首相は軍のエリートである空挺くうてい部隊の指揮官ですが、もともと、ハガナーと呼ばれるかつてのユダヤ人軍事組織の隊員でした。

 

ハガナーは今のイスラエル軍や情報機関の礎になった組織で、パレスチナとの和平合意で有名なイツハク・ラビン首相もシモン・ペレス首相もこのハガナーの隊員でした。

 

さらに、これらのどの人物も実戦経験があります。ネタニヤフ首相は実戦で負傷し、同じく特殊部隊員だった兄は作戦で死亡した「英雄」として知られています。

 

こうした指導者たちの戦場での経験が、イスラエル政府の政策決定に影響を与えているのは事実でしょう。

 

つまり、イスラエルは武人政治の国家なのです。

 

少なくとも、国家の歴代指導者にこれだけ特殊部隊の隊員や軍人がいる国家は、他に例がありません。

 

また、ガザで戦うイスラエル国防軍の兵士たちも、「殺さなければ殺される」というイスラエルの歴史を体現する場所で、兵士としての誓いを立てています。

 

伝統的にイスラエル兵は、マサダ要塞ようさいという歴史的な場所で入隊宣誓式を行います。

 

引用以上

 

 

パレスチナ人大虐殺「ナクバ」の生存者、世代を越えて語り継ぐ記憶より引用

 

1948年4月9日、ザルカさんが住んでいたパレスチナ(当時は英国の委任統治領)のエインカレムから1.6キロほど北東のデイル・ヤシーン村を、ユダヤ人武装組織が襲撃した。

 

国連の記録によると、女性や子どもを含む少なくとも100人が殺害された。多くは衣類をはがれ、整列させられ、自動小銃で射殺された。

 

この虐殺は「ナクバ(大惨事)」につながり、およそ70万人のパレスチナ人が、イスラエル建国を目指すユダヤ人武装組織によって家を追われたり、避難したりした。

 

「次は自分たちだと思った」。88歳になったザルカさんは、米ニュージャージー州の自宅でCNNの取材に応じ、そう振り返った。

 

「父が言った。『ここにはいられない。奴らが来て虐殺される』。私たちは何も持たなかった。武器も、自衛の手段も。あの日、私たちは難民になった」

 

ザルカさんは15日、ナクバの日のデモに加わった。世界中で何百万人ものパレスチナ人が、48年に殺害され、家を追われたパレスチナ人を追悼し、ガザ地区で今も続く残虐な戦争に抗議した。

 

この日を記念するのは、解放と帰還の夢が決して消えないよう、生き延びたナクバ世代が自分たちの経験を若いパレスチナ人に語り継ぐ意味もあるとザルカさんは言う。

 

それが現在の戦争について理解し、公正かつ恒久的な平和に向けて取り組むための唯一の道だと確信している。

 

「私の心は血を流している」。ザルカさんは静かに語った。「この年になってもまだ、家に戻ることを夢見ている。

 

パレスチナは今でも私の心と体に刻み込まれている。それは私が生まれた場所だ。私の思い出がそこにある。私の国だ」

 

引用以上

 

 

前述のように、またまたイエス・キリストを信じる人々が関わって、多くの虐待が起きています。

 

そこには当然ながら、最も小さき者たちの大勢が犠牲になっています。

 

その悲惨が起こされてイスラエル建国が成されて、戦争が続いているわけです。

 

かなり長くなりましたが、この聖地エルサレムとイスラエル建国について、皆さんはどう思いましたか?

 

私は舞夢さんの感想が心に残りましたので、最後にもう一度引用します。

 

「これは神の御心をかなえたのだろうか。

だとしたら、神とは何か。

なにゆえに、神は、こんな惨いことを望むのか。

 

神が好むのは、人の血と涙と絶望なのか。

この悲惨極まりない事件に対し、神への疑問は尽きない。

 

そして、つくづく、理解した。

人は「神の栄光のために」、「どこまででも残酷になれる」ということを。」

 

ここから聖書の「イエス・キリストの十字架」と「永遠の命」についての箇所によって、このイスラエル問題についてを見ていくつもりでしたが、長くなり過ぎたので、次回へつづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ⑤ 神のあわれみに従うか、悪魔のいけにえに従うか」

 

前回記事をさらに深く見ていきます。

 

今年のNHK朝ドラ「虎に翼」の文春オンラインの記事を引用します。

「最終盤のハイライトとなったのが尊属殺人の問題だ。

 

父母ら直系尊属を殺害した場合、通常の殺人より重い死刑か無期懲役に処されることを規定した刑法200条(現在は削除)は戦後、新憲法が制定されてから合憲か違憲か、論議が続いていた。

 

穂積の論旨は「尊属殺にも重軽各様の情状があり得る。

いやしくも親と名のつく者を殺すとは、憎みても余りある場合が多いと同時に、親を殺し、親が殺されるに至るのは言うに言われぬよくよくの事情で、一掬の(わずかな)涙を注がねばならぬ場合もまれではあるまい。」

 

1968(昭和43)年10月、栃木県で14歳の時から15年間にわたって実父から性的暴行を受け、5人の子どもを産んだ次女が、恋人との結婚を反対されて監禁されたことから、実父を絞殺した。

 

一審は尊属殺人罪そのものを違憲と判断。殺人罪だが過剰防衛に当たるとして刑を免除する判決。

しかし二審では合憲判断の下、一審判決を破棄して懲役3年6月の実刑を言い渡した。

 

引用以上

 

 

今から約56年前、14歳の時から29歳まで15年間も実の父親から性的虐待を受け続け、父親との子を5人も産まされたという女性が、恋人との仲を引き裂かれて監禁されたために、衝動的に絞め殺してしまった事件。

 

これより前の日本の法律では、理由はまったく考慮されずに、実の父親を殺せば、通常の殺人より重い死刑か無期懲役に処されることを規定した刑法200条によって判決が下されていました。

 

子が実の親を殺すというのは、それぞれ理由があります。

 

毒親の虐待が長年続いたがゆえの殺人罪は、過剰防衛に当たるとして刑を免除する判決になります。

 

また、その逆に、子が親の金を盗むという理由で計画的に両親を殺害したという殺人罪は、死刑判決になるでしょう。

 

このように最も重要なことは、「殺人の罪」よりも「理由」です。

 

聖書の教えもそうです。

その「理由」を明確に教えています。

 

 

聖書に書いてある「女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになったこと」ということに対しても、聖書の教えはその理由を明確に次のように伝えています。

 

「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。

 

彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、

不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

 

それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

 

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。

 

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。」

 

さらに次のように説明しています。

 

「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

 

彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

 

そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」

 

 

聖書は、そのようになった人々についても赤裸々に書いています。それがソドムの民です。

 

創世記 19章

1 そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。

 

2 そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。

 

4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。

 

5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」

 

9「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。

 

 

町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、二人の御使いたちに危害を加えようと集結したのです。

 

そして、ソドムの罪についての詳細は次の通りです。

 

エゼキエル書‬ ‭16章49~50‬ ‭節

「お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。

 

彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである。」

 

「ペテロの手紙第二2章4~7節

4 神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。

 

5 また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。

 

6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。

 

7 また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。」

 

「ユダの手紙

6 また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。

 

7 また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」

 

 

聖書の時代、御使いたちは人間と同じように交流が持てたようです。

 

現在の世界とはまるで違いますね。

 

そして、御使いの中でも、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちがいて、人間たちはその御使いたちと不自然な肉欲を追い求めたと書かれています。

 

それはノアの時代のことも含めて書かれています。

創世記6章

4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。

 

これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

 

5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

 

6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

 

 

そのネフィリム人がカナンの地に住んでいて、神さまはヨシュア軍に聖絶せよ!と命じられるわけです。

 

本来ならノアの箱舟の時に、大洪水で滅ぼされたと思われたネフィリムが、生き残っていたのです。

 

「そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。民数記13章33節」

 

しかし、ネフィリムの子孫はその後も生き残り、ダビデによってようやく聖絶した記述があります。

 

ネフィリム人とネフィリム人の子孫は同じ人間ではなく、神さまにとってイレギュラーな存在だったので、聖絶されました。

 

このことを知っておかなければ、相当めちゃくちゃ非常に恐ろしい教えとなります。

 

 

つまり、ノアの時代に大洪水で滅ぼされたのは、現在の人間と同じ人間が滅ぼされた。

 

また、ヨシュア軍が聖絶したのも、ダビデが殺しまくったのも、現在と同じ人間を聖絶して、殺されたという聖書解釈と福音理解をしていれば、

 

現在の戦争も虐殺も聖書の教えによって「聖絶」と教えれば正当化されるからです。

 

 

それゆえ、戦争と虐殺を聖絶のように正当化するクリスチャンたちにとって、現在の同性愛者(LGBT)と言われる方々を、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。」と言われたソドムの民たちと同じ人間にする聖書解釈と福音理解は、非常に都合がよいものとなります。

 

さて、どのような意味かさっぱりわからない人に、現在のイスラエルをどう思いますか?と問います。

 

もしも、「1948年のイスラエル建国と現在のイスラエルは、主イエス・キリストの十字架を汚すものになっている」と言えば、世界中のクリスチャンたちを敵に回すことになるでしょう。

 

次は、そのことを現実の世界に起きたことと、聖書の教えとを詳しく見ていくことによって、隠された悪魔の非常に恐ろしい策略を明らかにしていきます。

 

大勢のクリスチャンたちが、その悪魔のいけにえの教えに聞き従っているかも知れません。

 

私たちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ④ その聖書解釈は神or悪魔 同性愛者について」

 

今回は、約二週間前にコメントを頂いた「同性愛者」についての聖書解釈と福音理解を先に伝えさせてもらいます。

 

そのコメントの内容は次の通りです。

 

「以前ブログでLGBTの権利を擁護しておられたと思いますが、聖書はLGBTを禁止しています。

 

イェシュア(イエス・キリスト)を信頼するということは

聖書の内容で比喩と示されている箇所以外は事実として文字通り受け入れることだと思いますが、

整合性をどうされているのでしょうか。」

 

そして、「同性愛者を擁護する牧師たちは、聖書を否定している!」と激怒している小林牧師に導くためと思えるYouTubeの貼り付けもありました。

 

 

今回、イエスさまが、世界中の牧師とクリスチャンたちがまったく反証も批判もできないように与えてくださった現在の同性愛者の方々についての聖書解釈と福音理解を伝えます。

 

そのため、長くなりますが、いつもの通り、聖書の御言葉を引用して、そのまま理解するだけです。

 

「聖書はLGBTを禁止しています。」と断言する大勢の牧師とクリスチャンたちが主張する聖書箇所を一部だけではなく、全体を見てみましょう。

 

ローマ人への手紙1章~2章です。

 

「20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

 

21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。

 

22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、

23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

 

24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

 

25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。

 

造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

 

26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。

 

すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、

 

27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

 

28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

 

29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

 

30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

 

32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

 

1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。

 

あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。

 

2 私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。

 

3 そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。

 

4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

 

5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

 

6 神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。

 

7 忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、

8 党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

(ローマ人への手紙1章20節~2章8節)」

 

 

この「聖書箇所の前半だけ」をまとめますと、こうなります。

 

彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、

不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

 

それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

 

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。

 

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、

 

同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

 

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

 

彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

 

 

さて、この聖書の教えは、現在の同性愛者(LGBT)と言われている方々に当てはまるでしょうか?

 

かなりの違和感がありませんか。

 

そうです。この聖書の教えは

 

彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたから、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。と教えています。

 

つまり、イスラエルの民は、イスラエルの神を知っていながら、神の真理を偽りの教えと取り代えて、造り主の代わりに人間によって造られた物を拝み、これに仕えたと言う理由で、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されたのです。

 

 

さて、日本では、日本中がイスラエルの神をよく知りません。

というか、まったく知らない人も大勢いるでしょう。

 

それゆえ、大昔から現在に至るまで、日本中に人間によって造られた物を拝み、これに仕えている習慣が蔓延っている状況です。

 

キツネや狛犬、緑色の牛などなどを造って拝んでいます。

 

すると、日本中の多くの人々は、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべき行為を行なっていることになります。

 

しかし、現実はまったく違います。

 

 

そして、同性愛者(LGBT)と言われる方々は皆、イエス・キリストを信じて、イエスさまに仕えることは絶対にあり得ないということになります。

 

しかし、現実はまったく違います。

 

世界中に、同性愛者(LGBT)のままのクリスチャンたちが存在しています。

 

同性愛者(LGBT)のままのクリスチャンの方々の証が世界中に発信されていますが、皆、イエスさまを愛して隣人を愛しています。

 

人間によって造られた物を拝んだり、仕えたりしていません。

イエスさまだけを信じ、礼拝して賛美しています。

 

まったく、その聖書箇所と、現在の世界の現状とはまるで違うのです。

 

ですから、ローマ人への手紙1章20~27節の教えは、その当時のイスラエルの民にそのようなことが現実に起きたという教えになります。

 

ですから、32節に「 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」という教えがありますが、それに関連する聖書の教えがあるのです。

 

それが、次のような聖書の教えです。

 

「レビ記18章22節 あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。」

 

「レビ記20章13節 男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」

 

「申命記22章5 女は男の衣装を身につけてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。」

 

「第一コリント6章9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけまんせん。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、

10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」

 

 

これらの教えはすべて、彼らがイスラエルの神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたから、

神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されたという理由によるものだと、文章力をならった小学生でも理解ができるでしょう。

 

 

さらに次は「後半」を見ていきます。

 

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。

 

あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。

 

私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。

 

そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。」

 

 

イスラエルの民は、イスラエルの神を知っていながら、神の真理を偽りの教えと取り代えて、造り主の代わりに人間によって造られた物を拝み、これに仕えたと言う理由で、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。

 

それゆえ、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めがあるのは当然でしょう。

 

しかし、そのような人々(他人)をさばく人々も弁解の余地はないのです。

 

「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。」と明確に教えられているのです。

 

それゆえ、聖書の教えで死罪に当たる人々をさばくことは、神の御怒りを自分のために積み上げているだと明確に教えられています。

 

なので、イエスさまに聞き従っているクリスチャンたちは、この聖書箇所の教えに聞き従います。

 

 

しかも、現在の世界中の同性愛者(LGBT)と言われる方々は、イスラエルの神をよく知らない人もいますし、まったく知らない人も多いでしょう。

 

また、現在の同性愛者の方々(LGBT)と言われる方々は皆、イスラエルの神の真理を偽りの教えと取り代えて、造り主の代わりに人間によって造られた物を拝み、これに仕えたりしているでしょうか?

 

また、彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

 

そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者でしょうか?

 

それなのに、聖書箇所を恣意的に一部分だけを切り取って寄せ集め、悪意満々に、罪に定めて、さばかれています。

 

現在の世界中の同性愛者(LGBT)の方々の現実は、多くの牧師やクリスチャンたちから、聖書の教えによって深く傷つけられ、苦しみ続け、自死されてしまったり、自死を考えるようになる人も少なくないそうです。

 

まるで、聖書の教えを悪用して、父親である悪魔の欲望を満たす教えによって、現在の同性愛者の方々(LGBT)と言われる方々を深く傷つけ、苦しめ、自死に追い込んでいるように思われてしまうでしょう。

 

さらに、様々なことを聖書の教えによって確認していきます。

 

イスラエル建国について、イスラエルの戦争について、大患難時代と携挙について、反キリストについて、ヨハネの黙示録について、などなど、聖書の教えで確認していきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ③ イエス・キリストを信じれば永遠の命を持つという教えについて」

 

私は就労支援事業所のスタッフとしての仕事をしていますが、最近も、送迎中の車道で、キリスト教の宣教団体の宣教車がスピーカーで福音を伝えているところに遭遇しました。

 

「イエス・キリストを信じなければ永遠の滅びです。イエス・キリストを信じれば永遠の命を持ちます。」と大音響のスピーカーから聞こえてきます。

 

車中の皆は迷惑そうな顔をして、すかさず一人の障害者の方は腹を立てながら「信じません!」と大声をあげました。

 

この宣教車の宣教は皆が知っていましたが、相手にしないと言っていました。「誰が信じるか!」と言う人もいました。

 

 

さて、前回記事のつづきですが、「御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)」という教えでは、イエス・キリストを信じた人は皆、永遠の命を持つと思います。

 

しかし、そうではないことをイエスさま御自身が次のように教えられています。

 

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。(マタイの福音書7章21節)」

 

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せて集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。(ヨハネの福音書15章5~6節)」

 

 

イエスさまの教えが第一段階なら、その弟子たちは第二段階としてその詳細を次のように教えています。

 

使徒ペテロの教えです。

 

「無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。(ペテロの手紙第二3章16節)」

 

使徒ヨハネの教えです。

 

「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。

 

そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。

 

死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。

 

不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。

(ヨハネの手紙第一5章16~17節)」

 

使徒パウロはさらに最も詳しく、次のように教えています。

 

「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、

 

その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。

 

そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、

 

また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。

 

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。

 

私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。

衣食があれば、それで満足すべきです。

 

金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

 

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。

 

ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

 

しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。

 

信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。

 

あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

 

私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。

(テモテへの手紙第一6章3~13節)」

 

 

イエスさまは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と断言されています。

 

また、使徒パウロは、

「神の人よ。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」と断言しています。

 

イエス・キリストを信じている人々の中でも

 

イエスさまの御言葉にとどまらない人々、

聖書の御言葉を曲解させる人々、

死に至る罪を犯している人々、

 

違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人々、

金を追い求める人々

 

これらの人々は「永遠の命を持つことはない」と明確に教えられています。

 

しかも、そのような人々が大勢いると、イエスさまは明言されているのです。

 

 

ですから、イエス・キリストを信じれば永遠の命を持つとか、イエス・キリストを信じて行ないをすれば永遠の命を持つとか、そのような教えは聖書の教えに無知なことがわかります。

 

例えば、私が小学生の頃、「人を殺せば死刑」だと、友達同士で教え合っていました。

 

しかし、大人になれば、正当防衛や過失致死などで人を殺してしまうことがあれば死刑にはならないという法律を知ります。

 

もしも、大人になっても「人を殺せば死刑」と言っていれば、「法律を学べ」と言われて笑われてしまいます。

 

それと同じで「聖書を学べ」と言われて笑われてしまうでしょう。

 

 

さらに前回記事についての補足です。

 

イエスさまは来臨の時には、永遠の命を持つクリスチャンたちは携挙されると次のように教えられました。

 

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

 

そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 

そのとき、畑にいるふたりといると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。(マタイの福音書24章37~40節)」

 

 

使徒パウロは、そのイエスさまの教えをさらに詳細に教えています。

 

「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

 

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 

次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。

このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 

こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

(テサロニケ人への手紙第一4章15~18節)」

 

 

つまり、永遠の命を持っているクリスチャンたちは空中に引き上げられて、いつまでも主イエスとともにいることになって完結です。

 

ところが、最後の審判で「イエス・キリストを信じた人々は永遠の命を持ち、イエス・キリストを信じない人々は永遠の火に入る」という教えでは、そうではありません。

 

空中に引き上げられたクリスチャンたちは、また地上に戻されて、羊と山羊に分けられます。

 

そして永遠の命を持つクリスチャンたちは「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」という理由で、永遠の命に入るという教えになってしまいます。

 

あの「みこころを行なう者が入るのです。」という教えも、

 

「雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。

このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」という教えも

「ウソだぴょ~ん」ということになります。

 

「永遠の命についての教え、わたしに聞き従う者は、わたしを信じる者は、ということは、すべてウソ偽りなのだ!

 

最後の審判の基準は最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。と聖書に書いてあるではないか!」ということになってしまうのです。

 

 

ですから、イエスさまの教えをすべて信じれば、

 

最後の審判が行われる「主の日」に、永遠の命を持ったクリスチャンたちは空中に引き上げられて、いつまでも主イエスとともにいることになります。

 

そして地上では、すべての国々の民に対して

 

「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。こういうわけで、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」という最後の審判が行われるということになります。

 

 

そして、さらに「イエス・キリストを信じれば永遠の命を持ち、イエス・キリストを信じなければ永遠の火に入る」という聖書解釈と福音理解をしていれば、

 

悪魔が大喜びして、悪魔の欲望を満たすことになるという、相当めちゃくちゃ非常に恐ろしい教えになってしまうのです。

 

次回は、そのことについて見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ② 神は罪を犯したり、ウソを言われるの?」

 

さて、これまで見てきた通り、イエスさまの永遠の命についての教えは「三者三様(3人いたとすれば、3通りの方法があること)」ということでした。

 

 

まず1つは

 

夜、秘密裏にイエスさまを訪ねて来たイスラエルの教師であるパリサイ人のニコデモは、イエスさまが神の元から来られたことを知っていました。

 

この「知っている」という言葉は、「信じている」という言葉よりも深く、より信頼性を感じるものです。

 

例えば、「あなたが素晴らしい人だと、わたしは知っています。」と言われるのと、

 

「あなたが素晴らしい人だと、わたしは信じています。」と言われるのとでは、まったく違う印象を持つでしょう。

 

そのニコデモに対しては次のように教えられました。

 

「御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)」

 

 

2つ目は、迫害するユダヤ人たちには次のように教えられました。

 

「わたしを遣わした方(イスラエルの神)を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく(ヨハネの福音書5章24節)」

 

 

3つ目は、イエスさまの弟子たちに次のように教えられました。

イエスさまが来臨されて、すべての国々の民を右と左とにわけてこう言います。

 

「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。こういうわけで、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。(マタイの福音書25章31~46節)」

 

 

さて、もしもクリスチャンたちが、「御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)」という教えを福音宣教の土台の1つにすれば、とんでもないことになります。

 

なぜなら、他の2つの永遠の命についての教えが「ウソ・偽り」であり、イエスさまは迫害するユダヤ人たちやすべての国々の民に対して「だまし欺いた」ということになるからです。

 

その教えは、イエスさまの来臨における最後の審判で、イエス・キリストを信じる者たちが永遠の命に入り、イエス・キリストを信じない者たちは悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入るのです。という教えに変わるからです。

 

すると、イエスさま御自身が教えられているマタイの福音書25章31~46節の教えは、まったくのウソ偽りであることになってしまいます。

 

 

神さまがウソ偽りを言われたり、だまし欺いたり、罪を犯すでしょうか?

 

聖書には次のように教えられています。

 

「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。(ペテロの手紙第一2章22節)」

 

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

(コリント人への手紙第二5章21節)」

 

 

では、この三者三様(3人いたとすれば、3通りの方法があること)の永遠の命についての教えを、どう理解すればいいでしょうか?

 

聖書は次のように明確に教えられています。

 

「しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「しかり」と言って、同時に「否」と言うようなものではありません。

 

私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」と同時に「否」であるような方ではありません。

 

この方には「しかり」だけがあるのです。

 

神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。

 

それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰すのです。

 

(コリント人への手紙第二1章18~20節)」

 

 

つまり、この異なる3つの永遠の命についての教えをすべて「しかり」とすることが、神に栄光を帰すことになるのです。

 

永遠の命を持つ教えをすべて「しかり」にすれば、次のようになります。

 

イエスさまを信じた人々には「御子イエス・キリストを信じる者が永遠の命を持ちます。ヨハネの福音書3章16節」

 

イエスさまを迫害するユダヤ人たちには「わたしを遣わした方(イスラエルの神)を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがない(ヨハネの福音書5章24節)」

 

すべての国々の民には「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。こういうわけで、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。(マタイの福音書25章31~46節)」

 

すなわち、三者三様の「永遠の命に入る扉」が用意されていることになります。

 

さらに、クリスチャンの永遠の命に入る扉については詳細が書かれていますね。

 

 

ところが、イエス・キリストを信じた人々については、ヨハネの福音書3章16節の永遠の命を持つという教えが変更されているのです。

 

2段階に変更されています。

 

変更という言葉は、一応わかりやすいということで使用しましたが、適切ではないですね。

 

変更されているというよりは、元々がそういう意味だったと言ったほうが適切でしょう。

 

とにかく、字義通り、イエス・キリストを信じた人々は永遠の命を持つということではありません。

 

また、マタイの福音書25章31~46節もプラスして、イエス・キリストを信じて、最も小さき者たちを助ける行ないをすれば永遠の命を持つということでもありません。

 

そのような事が聖書に明確に書かれています。

 

それゆえ、現在の聖書を読むことが出来るクリスチャンたちが、ヨハネの福音書3章16節の教え

 

または、この教えに通じる聖書箇所だけによって「イエス・キリストを信じれば永遠の命を持つ」という聖書解釈と福音理解をすることは、あり得ないはずです。

 

聖書をよく読んでいるクリスチャンなら、もう、おわかりですね。

 

長くなったので、次回へ続きます。

 

1人、テキストの画像のようです

 

 

 

「日本におけるキリスト教の真実 ① イエス・キリストの十字架と永遠の命」

 

前回記事「日本におけるキリスト教144」のつづきになりますが、既成のキリスト教会の教えとはまったく違う聖書解釈と福音理解になっていますので、今回からタイトルも少し変えて①からスタートすることにしました。

 

前回記事でお伝えした「すべての国々の民」に対する主イエス・キリスト御自身による「永遠の命」についての教えは、

『最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』という理由で、『正しい人たちは、永遠のいのちに入るのです。』ということでした。

 

この「永遠の命」についての教えは「神さまの愛とあわれみ」を究極に現わしているものです。

そのことを詳しく見ていきます。

 

 

2014年10月に、名古屋柳城女子大学の大学礼拝で、志村真先生(中部学院大学短期大学宗教総主事)が「子どもの友イエス」と題する奨励をされた時の報告の一部を引用します。

 

「イエス様が生きた時代、子どもたちを取り巻く状況がいかに過酷なものだったかが語られました。

 

乳幼児死亡率が非常に高かった時代です。

 

当時の遺跡から出土した遺骨が語る、子どもの餓死、戦争による死、出産途中で亡くなった妊婦と赤ちゃん… 

 

チャペルは静まり返りました。志村先生は、イエス様が友としたのは、そのような時代の、そのような子どもたちだったことを語られました。」

 

引用以上

 

同じ大学の大学礼拝では、相原司祭の2020年9月の「イエス時代の子どもたち」と題する奨励をされた時の報告では、次のように言われました。

 

「イエスの時代、出生時の死亡率は30パーセントに及び、16歳になるまでには、子どもたちの実に60パーセントが亡くなっていたそうです。

 

加えて、飢饉、戦争、社会の混乱の中で、真っ先にその被害を被っていたのは、子どもたちでした。両親が早く亡くなるケースも多く、親を失った戦争孤児も多くいたようです。」

 

引用以上

 

 

さて、主イエス・キリストがこの世に来られて、地上での福音宣教が行われている時代のイスラエルは、約60%の子どもたちが16歳になるまでに亡くなっているという非常に信じられないほどの暗闇の時代だったことが、遺骨調査で判明しています。

 

イスラエルだけではなく、今から約2000年前は医療も乏しく、水質など生活環境も悪く、飢餓、戦争などなどで、世界でも同じような状況が多かったと調べて報告している人たちもいます。

 

約60%の子どもたちが16歳になるまでに亡くなっているということは、子どもが2人いると、どちらか1人は亡くなっている家族が圧倒的に多いということになります。

 

また、自分の子と親友の子がいれば、どちらかの子は亡くなるケースも圧倒的に多いということです。

 

 

現在でもそうですが、子どもが亡くなるということほど残酷なことはありません。

 

子どもたちは苦しんで、苦しんで苦しみの中で亡くなっていくケースも多いです。

 

その子どもたちを看病していた親は、「わが神、わが神。どうして、わたしとわたしの子をお見捨てになったのですか」と嘆き悲しんだことでしょう。

 

それゆえ、「永遠の命」について、聖書を調べたことでしょう。

 

この地上では我が子の人生は苦しんで亡くなっていった。

 

だけど、せめて子どもたちは死後に永遠の命を得ていて、死後の世界で再会したいと切望しながら聖書を調べていたことでしょう。

 

そのような親が非常に多いという状況でした。

 

また、親を亡くした戦争孤児も多かった。

 

その多くの孤児たちも16歳になるまでに亡くなっていってしまった。

 

生き残って大きくなった孤児たちは、せめて亡くなった親たちは永遠の命を得ていて、死後の世界に再会したいと切望したことでしょう。

 

 

そこでメシヤ(救世主)である主イエス・キリストが最後の審判における、すべての国々の民に教えられた「永遠の命」の教えは、死後に再会できることを約束された教えだったのです。

 

しかしながら、口先だけでは何とでも言えます。

 

イエスさまを迫害したユダヤ人たちには「わたしを遣わした方(イスラエルの神)を信じる者は、永遠のいのちを持つ」という教えでした。

 

 

そして、イエスさまは、その『最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』という永遠の命に入る教えを証明されたのが、十字架の贖いでした。

 

イエスさま御自身が苦しんで、苦しんで苦しみの中で十字架にかけられて死なれたのです。

 

十字架にかけられる前、丸裸にされて、先に金属片などを埋め込んだムチでも、数えきれないほどムチ打ちを受けました。

 

体の肉は無数に裂かれて、重症です。

 

さらに茨の冠を頭にかぶせられ、頭を殴られ、つばをかけられ、あざけられて、十字架を担いで、ゴルゴタの丘まで歩かされました。

 

両手両足は十字架に釘で打ち付けられました。

朝の9時から15時まで十字架上にかけられて、「私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。

私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。」

(詩編22篇14~15)

 

「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。

これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。

(マタイの福音書27章46節)」

 

 

イエスさまが苦しんで、苦しんで苦しみの中を通らされる姿を見た人々は、先に亡くなった我が子をそこに見たことでしょう。

 

まさに『最も小さい者たちのひとりはわたし(イエス・キリスト)』ということを証明されました。

 

そしてイエスさまが十字架上で『エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)』と叫ばれた時、

 

それは、我が子が苦しんで亡くなっていった時の、親の叫びだったのです。

 

 

それだけでなく、子どもたちが苦しんで、苦しんで苦しみの中で亡くなっていったのは、人間の罪によるものが大きいです。

 

その人間のすべての罪も十字架上で背負われたのです。

 

そのためにもイエスさまは苦しんで、苦しんで苦しみの中で死なれました。

 

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

 

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

 

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

(ローマ人への手紙5章6~8節)

 

 

ですから、「イエスさまの十字架の贖い」は、永遠の命の教えを証明するものであり、すべての人の罪を背負うためでした。

 

その2つのことを知っていれば、イエスさまの最後の審判の基準の理由が理解できます。

 

イエスさまの最後の審判では、『最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』という理由で、その正しい人々は永遠の命に入りました。

 

そして、『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』 という理由で、この人たちは永遠の刑罰に入ると明確に教えられています。

 

 

しかしながら、このような聖書解釈と福音理解をしているのは、私だけかも知れません。

 

約15年前から、同じような聖書解釈と福音理解をしている人を探して、プロテスタント教会、カトリック教会、聖公会、正教会、無教会などなど、SNSで何百という人や教会の聖書解釈と福音理解を調べましたが、1人も見つからないのです。

 

また、ありとあらゆるキリスト教関連の本、有名な信仰者たちの著書を何百冊と買い揃え、無名の牧師やクリスチャンたちのブログ記事やFacebookクリスチャングループ投稿記事、YouTubeなどなどを調べていますが、そこでも見つかりませんでした。

 

次回は、そのことについて見ていきます。

 

つづく

 

 

 

「日本におけるキリスト教 144 神さまと隣人を愛する人の心に響く永遠の命の教え」

 

聖書を読めば、イエス・キリストが教えられている「永遠の命についての教え」は、それぞれに対して違いました。

 

『イエスさまを信じたイスラエルの教師たち』に対しては次のように教えました。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)」

 

つまり、御子イエス・キリストを信じる者は、永遠のいのちを持ちます。

 

 

『イエスさまを信じることができず、迫害するユダヤ人たち』に対しては次のように教えられたのです。

 

「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネの福音書5章24節)」

 

つまり、イスラエルの神を信じる者は、永遠のいのちを持ちます。

 

 

さて、現在、日本在住の私たちにとって、最も重要なことは、すべての国々の民に対するイエスさまの永遠の命の教えです。

 

そこでとても気になる教えが次の聖書箇所です。

 

『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」

 

群集はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

 

しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。

 

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。

 

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

 

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

 

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。(マタイの福音書22章32~40節)」

 

この教えの一連において、世の終わり、主の来臨、そして最後の審判の教えになります。

 

ですから、すべての国々の民に対する永遠の命の教えは

 

「神を愛し隣人を愛している者は永遠の命を持ち、

神を愛せず、隣人も愛していない者は永遠の火に入る」という教えが最も適切だと思います。

 

 

しかし、この教えだとイスラエルの神と神の御子イエス・キリストを愛していない人々は永遠の火に入ることになります。

 

日本に生まれ育っていれば、イエス・キリストは外国の宗教という感じですし、よく知らない神を信じることも出来ないので、当然に愛することなど不可能だという人が圧倒的に多い状況です。

 

それが、日本の約99%の人々はイエス・キリストを信じていない現実に現れています。

 

また、イスラエルの神は「ユダヤ教」ということになるという認識です。

 

日本にユダヤ教徒は調べてもわかりませんでした。

極端に少ないのは確かなようです。

 

それゆえ、「永遠の命に入るか永遠の火に入るか」という基準が、もしも、神(イスラエルの神orイエス・キリスト)を愛しているか、愛していないか、

 

もしくは、神(イスラエルの神orイエス・キリスト)を信じているか、信じていないかという基準であれば、ものすごく残酷非道な教えです。

 

もはや、神ではなく、いけにえを超絶に好む悪魔です。

 

 

そして、その答えは次の御言葉通りでした。

 

31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

 

32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

 

34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。

 

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 

35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

 

36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

 

38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

 

39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

 

40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。

 

あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 

41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。

『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。

 

42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

 

43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

 

44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』

 

45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

 

46 こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。

 

(マタイの福音書25章31~46節)」

 

 

なんと、「すべての国々の民」に対する最後の審判の基準は、神(イスラエルの神orイエス・キリスト)を信じたか、信じなかったということではなく、

 

神(イスラエルの神orイエス・キリスト)を愛したか、愛さなかったかということでもありませんでした。

 

最も小さい者たちが助けを必要としている時に助けた人々は永遠の命に入り、助けなかった人々は永遠の火に入るということでした。

 

 

この基準であれば、日本在住の人々でも、大勢の人たちは永遠の命に入ると思います。

 

私が愛する人々は、すべての人が、最も小さき者が助けを求めている時に助けてくれる人です。

 

皆さんもそうだと思います。

 

どうして、その人を愛するようになったか?

 

それは、苦しんでいる時や孤独の時に側にいてくれた。

もうダメだと思っている時に励ましてくれた。

 

病気の時には看病してくれた。

飢えている時に、食事を与えてくれた。

渇いている時に、飲ませてくれた。

 

などなど、助けを必要としている時に助けてくれた人たちが、愛する人たちであります。

 

そのような人々は永遠の命に入るという教えです。

 

まさに、これ以上はない、心に響く教えです。

まさに神は愛です。という教えですね。

 

この教えは、本当の神さまとしか思えない教えです。

 

 

これがもしも「隣人を愛したか、愛さなかったか」という基準でもダメです。

 

ストーカーのような一方的に愛するケースもありますし、依存したり束縛することが愛だと思っている人たちもいます。

 

また口先だけで愛していることも多々あるでしょう。

 

 

この、イエスさまが教えられている「永遠の命の教え」は前述のように、

イエス・キリストを信じたイスラエルの教師たちへの教えがあり、

イエス・キリストを待ち望んでいるメシヤ(救世主)とは信じていないユダヤ人たちへの教えがあります。

 

そして、すべての国々の民への教えとがあることを明確に聖書に書かれていますね。

 

 

そのイエスさまのことばを守る人が、イエスさまを愛することになります。次の御言葉通りです。

 

イエスカリオテでないユダがイエスに言った。

「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。」

 

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。

 

そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

 

わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。

 

あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

 

このことをわたしは、あなたがたとっしょにいる間に、あなたがたに話しました。

 

しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

わたしは、あなたがたに平安を残します。

 

(ヨハネの福音書14章22~27節)

 

 

しかしながら、

イエスさま御自身が教えられた「永遠の命」についての教えを、そのまま純真に正確に伝えている人は何人いているでしょうか?

 

つづく

 

写真の説明はありません。

 

「日本におけるキリスト教 143 心優しくへりくだっておられる神さまから学びます。」

 

私がどうしてイエス・キリストを信じることが出来たのか?

 

それは、神さまを信じていなかったのですが、聖書に書かれているイエス・キリストの教えを知って、もしも神さまがいるとすれば、このイエス・キリストの教えになると衝撃を受けたからです。

 

その中の教えの一つが次の御言葉です。

 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11章28~30節)」

 

それから、聖書の教えには最も気になる言葉がありました。

それは「永遠の命」という言葉です。

 

 

「永遠の命」という言葉は、「永遠に生きる」ということになるでしょう。

 

現在も語り継がれているアニメ「銀河鉄道999」で初めて意識したという人も多いと思います。

 

主人公の少年「星野哲郎」は機械人間となって永遠に生きるために、謎の美女「メーテル」と銀河鉄道999に乗車して、宇宙の星々を旅するストーリーです。

 

 

あの池田小事件において天国にいる本郷優希ちゃんは、家族で出かけた絵画展で、「銀河鉄道999」を描いた幻想的な絵に心を奪われて「乗れたらいいな」と大きく夢がふくらんだそうです。

 

ちなみに優希ちゃんも聖書の御言葉が大好きだったそうです。

 

 

 

イエスさまが心優しくへりくだっておられる神さまであれば、当然に「永遠の命」についての答えも心優しくへりくだっておられることが伝わる教えになるでしょう。

 

そして、それは想像以上の答えでありました。

 

イスラエルの教師であるパリサイ人のニコデモはイエスさまを夜に訪ねて来て「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」と言いいました。

 

このニコデモたち、『イエスさまを信じた人々』に対しては次のように教えました。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)」

 

つまり、イエスさまを信じている人々には、御子イエス・キリストを信じる者は永遠の命を持つと教えたのです。

 

 

次に、イエスさまが、三十八年もの間、病気にかかっている人を安息日に癒したことで、ユダヤ人たちはイエスさまを迫害し殺そうとしました。

 

そのユダヤ人たちに、イエスさまは次のように教えられたのです。

 

「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネの福音書5章24節)」

 

つまり、そのユダヤ人たちが信じているイスラエルの神を信じる者は永遠の命を持つと教えられたのです。

 

ユダヤ人たちはイスラエルの神を信じて、イスラエルの神が遣わされるメシヤ(救世主)を信じて待ち望んでいました。

 

しかし、その来るべきメシヤ(救世主)は「お前じゃない!」ということでした。

 

softbankのCMで「犬のお父さんシリーズ」があります。その中で、歌手の浜崎あゆみさんが流しの歌手で、宮 史郎さんがギター演奏として飲み屋にやって来る話があります。

 

犬のお父さんが浜崎あゆみの歌に聞きほれて「あんた、いい声だなぁ」と言うと、宮 史郎さんが歌い出し、すかさず犬のお父さんが「お前じゃない!」と言いますが、個人的にはそのことを思い出します。

 

 

 

多くのユダヤ人たちはイスラエルの神を信じて、旧約聖書に預言されているメシヤ(救世主)を待ち望んでいました。

 

しかし、イエスさまが預言されている通りの御業を行なっても「メシヤ(救世主)はお前じゃない!」ということでした。

 

もしも、イエスさまが、イエスさまを信じている人々と同じく「御子を信じる者が、永遠のいのちを持つ」という答えを言えば、

 

そのユダヤ人たちは、その非常識すぎる教えに大激怒するでしょう。

 

その「わたし(イエス・キリスト)を信じる者は永遠のいのちを持つ。」という教えは、

 

先に死んでしまった愛する者たちも、先祖たちも永遠のいのちを持たずに滅びたという教えにもなります。

 

このようなやり取りがありました。

 

彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」

 

イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。

 

ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかった。」

 

「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」

 

そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」

 

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

 

すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。(ヨハネの福音書39~40、56~59節)」

 

ですから、イエス・キリストを信じないユダヤ人たちにとって、「わたし(イエス・キリスト)を信じる者は永遠のいのちを持つ。」という教えは、

 

先に亡くなった愛する人々、先祖、すべてのユダヤ人たちは永遠のいのちを持つことがなく、滅びたという相当めちゃくちゃ非常に恐ろしい教えになります。

 

まるでイエス・キリストは悪魔です。

 

 

ですから、心優しくへりくだっているイエスさまは、イエスさまを信じていないユダヤ人たちにそのような教えをするはずはありませんでした。前述でいいましたが、このように教えられました。

 

「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

 

この教えだと、「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」というイエスさまをただの人間だと思っているユダヤ人たちも納得できます。

 

確かに、先に亡くなった愛する人々も先祖たちも、イスラエルの神とイスラエルの神が遣わされるメシヤ(救世主)を信じて亡くなったので、永遠のいのちを持っていることになるという教えは、実に素晴らしい!超めちゃくちゃ素晴らしい!

 

本物のメシヤ(救世主)の教えもそうだといいなぁ~と感動したことでしょう。

 

 

そして、イエスさまは「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。」と言われました。

 

前述のように「永遠の命」についての教えが、

 

イエス・キリストを信じた人々には「御子イエス・キリストを信じる者は永遠のいのちを持つ」

 

イエス・キリストを信じていない人々には「イスラエルの神を信じる者は永遠のいのちを持つ」ということであれば、

 

イスラエルの家の失われた羊たちは、いずれにしても永遠のいのちを持つという教えになります。

 

 

しかし、異邦人である「日本人」は、御子イエス・キリストもイスラエルの神もどちらも信じていないので、永遠のいのちを持つことはあり得ないという話になります。

 

特に旧約聖書に書かれているイスラエルの神はどうでしょう。

 

無教会のサザエさんの著者「長谷川町子」先生は、昭和47年の朝日新聞に掲載された劇作家の飯沢氏との対談で次のように言っています。

 

「私だんだんと聖書が面白くなってきましてねぇ。特に旧約を面白く読みました。

あそこに出てくる神様は原始的で面白いんです。」

 

この長谷川先生の「原始的で面白い」は、ものすごくユニークで、とても気に入りました。

 

なので、少し拝借して、私の場合は「旧約聖書の神さまは原始的で好きになれない。」と言うことにしています。

 

こんな調子だと、信じて永遠のいのちを持つはずがありませんね。

 

 

ですから、イエスさまは、異邦人に対しての「永遠のいのちを持つことの教え」は、

 

イスラエルの神を信じる者ということでもなく、

 

御子イエス・キリストを信じる者ということでもないという新しい教えを明確に教えられたのです。

 

その教えだと、日本において、イエス・キリストを信じずに亡くなった愛する人々は永遠のいのちを持つことになります。

 

私の愛する人々は皆、永遠のいのちを持って、天国にいると信じることができる超超超すばらしい教えです。

 

イエスさまは、あらゆる国の人々、すべての人に対して、まさに心優しくへりくだっておられる神さまだということを宣べ伝えたくなります。

 

その相当めちゃくちゃ素晴らしい感動する永遠のいのちを持つことの教えを次回に詳しく見ていきます。

 

その御言葉は、イエスさまを愛して聞き従い、隣人を愛しているクリスチャンたちなら、もう、おわかりですね。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 142 ひとりの人の従順によって、多くの人が義人とされて、命を与えられます。」

 

139の記事から永遠の命についての教えを見ていくと、クリスチャンにとって最も重要な聖書解釈と福音理解は「神さまの教えに従順」だということに気づきます。

 

そのことをもっとも言い現わしているのがピリピ人への手紙2章に書いてあります。

 

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

 

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

 

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。

 

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

 

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

 

すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 

そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。

 

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

 

すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、

いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。

 

そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

(ピリピ人への手紙2章6~16節)」

 

 

キリストは、神の御姿である方なのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

 

人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。

 

イエスさまが御父の命じられたこと、すなわち十字架の死にまで従われた行為によって、すべての人が義と認められて、命が与えられたのです。

 

そのことがローマ5章に次のように書かれています。

 

「また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。

 

さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。

 

もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

 

こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、

 

ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。

 

すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、

ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

 

(ローマ人への手紙5章16~19節)」

 

 

つまり、聖書解釈と福音理解において、最も重要なことは、御子イエス・キリストが御父の神に終始一貫として従順に聞き従われたことであるといっても過言ではないでしょう。

 

アダムの神に不従順によって多くの人が罪人とされましたが、御子イエス・キリストは神に最初から最後まで従順に聞き従われたことによって、すべての人が義人とされるのです。

 

 

そして、イエス・キリストを信じたクリスチャンといえば、クリスチャンになっても罪を犯し続けることが次のように教えられています。

 

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

 

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 

もし、罪を犯していないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

(ヨハネの手紙第一1章8~10節)」

 

つまり、人間は神さまを信じても、終始一貫として神さまに従順に聞き従うことは不可能なことがわかります。

 

一生、罪を犯し続けて、その度に悔い改めることが必要です。

 

 

しかしながら、クリスチャンになれば、イエスさまが教えられていることについては終始一貫として従順に宣べ伝えることができます。

 

なぜなら、そのまま聖書に書いてある御言葉だけを伝えるだけで良いのですから。小学生でも出来るでしょう。

 

そのことについて明確に教えられているのが次の御言葉です。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。テモテへの手紙第二4章2節」

それから、ペテロの手紙第二3章の中に次のように書いてあります。

 

「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。

それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。

 

その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。

 

その手紙の中には理解しにくいところもあります。

 

無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。

(ペテロの手紙第二3章15~16節)」

 

さらに、箴言30章にも次のように警告されています。

 

「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。

 

神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように

(箴言30章5~6節)

 

 

イエスさまが地上のイスラエルの地で、イスラエルの民に福音宣教を始められた時は、次のような状況でした。

 

イスラエルの民はイエスさまの御父であるイスラエルの神を信じて、イスラエルの神が遣わされるメシヤ(救世主)が来るのを信じて待ち望んでいました。

 

 

例えば、現在の教会でいえば、「父牧師」が築き上げてきた教会を「子牧師」が受け継ぐ状況です。

 

その教会の信徒たちは皆、父牧師が伝道して、種を蒔き、水を注いで育んできた者たちです。

 

もしも、子牧師が「これからの時代は私が主任牧師だから、私の教えに聞き従ってください。」などと、

 

父牧師をないがしろにするような教えをしていけば、父牧師と信徒たちは怒るでしょう。

 

しかし、子牧師が「今までもこれからも父牧師に従順に聞き従っていきます。私を信じることが出来なくても父牧師を信じてください。」という教えをしていけば、

 

父牧師は信徒たちを子牧師に与えることができ、信徒たちは安心します。

 

 

新約聖書を読めば、イエスさまの教えは、これ以上はないぐらいに最大限に、御父に従順に聞き従っていることを言い現わされることに満ちあふれています。

 

まさに、徹底的に御父に従順であることを教えられているのです。

 

「イエスは彼らに答えられた。『わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。

 

わたしが父の御名におって行うわざが、わたしについて証言しています。

 

しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。

 

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

 

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

 

わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

 

わたしと父とは一つです。

(ヨハネの福音書10章25~30節)」

 

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。

 

それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。

 

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

 

あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。

 

(ヨハネの福音書17章1~4節)

 

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。

 

子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。

 

父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。

 

それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子に示しになるからです。

 

また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたに驚き怪しむためです。

 

父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。』

 

『それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。

 

まことに、まことに、あなたがたに告げます。

 

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、

 

さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』(ヨハネの福音書5章19~20、23~24節)」

 

まだまだありますが、この3カ所の御言葉だけでも、イエスさまの教えの中心は、御子は、唯一のまことの神である御父に従順に聞き従うだけだということが伝わります。

 

また、イエスさまは地上で、唯一のまことの神である御父の栄光を現わされたのです。

 

クリスチャンの使命は、そのイエスさまの御言葉を従順にそのまま伝えることです。

 

 

ところが、日本におけるキリスト教の教えは、イエスさまが唯一のまことの神である御父の栄光を現わされたことを曲解させるかのように、御子イエス・キリストの栄光が現わされたことを宣べ伝えています。

 

すると、クリスチャンたちは、ただ御子イエス・キリストに栄光が現わされるように祈ります。

 

永遠の命についても、イエスさまが従順に聞き従っておられる唯一のまことの神である御父のことは排除するかのごとく、

 

特にヨハネの福音書3章16節の大事な部分を切り取って、イエス・キリストを信じれば救われて、永遠の命を持つというように教えているのです。

 

それゆえ、このイエスさまの切なる願いの御言葉

「あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」

 

さらに、イエスさまが成し遂げられた御父の栄光が現わされたこと

「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」

 

このイエスさまの御父に従順を証明する教えを曲解させる教えのオンパレードとなっています。

 

 

しかも、さらにエスカレートして、ヨハネの黙示録の教えの一部分や他の聖書箇所の一部分を組み合わせたりして、次のような相当めちゃくちゃ非常に恐ろしいイエス・キリストの教えを作り上げました。

 

それは「イエス・キリストを信じれば永遠の命を持ち、イエス・キリストを信じなければ滅びる。滅びる人々は死後の最後の審判で永遠の火に投げ込まれる。」という教えです。

 

その教えは、イエス・キリストを信じていない人々が聞けば、イエス・キリストは冷酷非道な悪魔のように思わせる教えです。

 

 

これまでキリスト教の福音が日本に宣べ伝えられてから、多くのキリスト教の教師たち、クリスチャンたちが、キリスト教会の神学・聖書解釈と福音理解を発信しています。

 

しかし、それは、御子イエス・キリストが最も偉大であることを最大限に言い現わすものであります。

 

つまり、イエス・キリストが唯一のまことの神である御父に従順である教えがどこか遠くへ追いやられている教えになっています。

 

 

イエスさまの成し遂げられたことは、イエスさまが唯一のまことの神である御父に十字架の死までも従順であったことにより、御父の栄光が現わされて、

 

すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 

さらに、「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」と言われました。

 

そのイエスさまの御言葉を曲解せず、ありのままに純真に誠実に伝えることが、神さまに認められて、すべての人が義と認められて、命を与えられる教えになるでしょう。

 

クリスチャンは、イエス・キリストを信じていない人々と同じように罪を犯します。

 

そして同じように悔い改めます。

 

ですから、クリスチャンたちの言うことを信じられなくても、聖書に教えられているイエスさまの御言葉を聞けば、心に残るという人は少なくありません。

 

つづく