「日本におけるキリスト教の真実 ⑥ イスラエルと聖地エルサレムとイエス・キリストを信じる人々」
ここで、キリスト教会がイスラエルの聖地エルサレムを奪回した歴史を見てみましょう。
十字軍 『悲惨な幻想』イタリアの「目ざめよ!」通信員より
今から900年ほど前の1096年に,第1回十字軍が出発しようとしていました。その集団は,西暦7世紀以来イスラム教徒に支配されていた聖都エルサレムに向かっていました。
それは最初の十字軍でした。多くの歴史家は主要な8回の十字軍運動を挙げています。それらの遠征隊は東西関係の歴史に傷痕を残しました。
十字軍運動には,神とキリストに名を借りた大虐殺や残虐行為がつきものだったからです。
十字軍運動の表向きの動機は,エルサレムといわゆる聖墳墓をイスラム教徒から奪回することでした。
しかし,その原因はより深いところにありました。
少数の事件を別にすれば,中東に住んでいた自称クリスチャンとイスラム教徒との関係は比較的平穏なものでした。
十字軍運動を起こすに至った重要な要素の一つは,ヨーロッパの不穏な政治的,経済的,および宗教的な一般情勢でした。
ローマ・カトリック教会も混乱期を迎えていました。1054年には東方教会に対する支配権を失った上,多くの僧職者が不道徳や政治への干渉のかどで告発されていました。
このような状況のもとで,教皇ウルバヌス2世が第1回十字軍を召集しました。
同教皇の見るところでは,エルサレムとパレスチナを奪還するための軍事行動は,幾つかの目的にかなっていました。
それは西方キリスト教世界の一致を強化し,ローマ教会の首位の地位を再確認するものとなり,また上流階級の人々が果てしない争いから抜け出す機会ともなるはずでした。
それらの人は宗教的な恩恵,とりわけ経済的な恩恵と引き換えに,教会の武装した下部機関となって,高潔な”大義名分のために自分たちの軍事手腕を発揮することになったのです。
1095年11月27日,フランスのクレルモンで開かれた公会議の席上,ウルバヌスはその訴えを始めました。
教会は敵対者を神からの報復に値する者と述べて実際よりも悪者に仕立て上げました。
第1回十字軍に参加した司祭フーシェ・ド・シャルトルによれば,その戦いは東方の“クリスチャン”をイスラム教徒から守るために必要でした。
そして,遠征中に死んだり戦死したりした人々の罪は即座に許されることが保証されました。
そういうわけで,封建諸侯は同胞同士で殺し合う争いを“異教徒”に対する“聖戦”に切り替えることができました。
その公会議では,第1回十字軍のモットーとなった,「神それを欲し給う」という叫び声が鳴り響きました。
引用以上
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mattoarchives からの「十字軍」記事より
途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略し虐殺、レイプ、略奪を行いながらエルサレムを目指した。
イスラム教徒の諸領主は、十字軍の行動にまとまりがなく、行為も残虐な強盗・レイプ・殺人の繰り返しという野蛮さから、この集団が宗教的背景を持った侵略者だと気付かず、野蛮な西欧の強盗団が強大になったものだと考えていた。
一説によるとこのとき十字軍は、イスラム教圏で老若男女問わず一方的に7万人以上も虐殺をしたともいわれる。
平和に暮らしていたイスラム教徒の諸領主はこの殺人集団に対する大した備えもなく一致団結することもできず、十字軍の残虐非道ぶりから十字軍の襲撃を聞くだけで震え上がって敗走するか戦わずして十字軍を通した。
1099年、軍勢はついにエルサレムの征服に成功した。
エルサレムにおいても十字軍は城内のイスラム教徒やユダヤ教徒の虐殺と略奪を行った。
その後、ゴドフロワ・ド・ブイヨンがエルサレムの王となり、レーモンは海岸部のトリポリの伯となった。
この十字軍の結果、シリアからパレスチナにかけての中東地域にエルサレム王国、エデッサ伯国、トリポリ伯国、アンティオキア公国の主要4国をはじめとするいくつかの十字軍国家がつくられた。
引用以上
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第1回十字軍は聖地の回復に成功し、その地にエルサレム王国を建設しました。そのためキリスト教徒も多数移住した。
カトリック教会のローマ教皇の権威は絶大なものとなりました。
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舞夢さんのブログ記事「第一回十字軍のこと」から引用
「イスラム教徒、ユダヤ教徒のみならず東方正教会や東方諸教会のキリスト教徒正教会(ギリシャ正教)、アルメニア使徒教会、コプト正教会など、各教派のエルサレム総主教たちは追放され、カトリックの大司教がエルサレムに立てられた」
「キリストが架けられた『聖十字架』など聖遺物は、十字軍が現地キリスト教会の司祭達を拷問し、ほとんど全て強奪した」
十字軍によるエルサレム市民の虐殺が一段落すると、軍勢の指導者となっていたゴドフロワ・ド・ブイヨンは「エルサレム公」そして「聖墳墓の守護者」と名乗った。
これはゴドフロワが、主であるキリストが命を落とした場所の王になることを恐れ多いと拒んだからとも、他の十字軍諸侯の反感を恐れたからとも言われている。
陥落終了後、静かになった市内では、イスラム教徒、ユダヤ教徒、現地のキリスト教徒の血まみれの老若男女の死体が、無造作に積み上げられ。まるで川のように夥しく血が流れ出し、また酷い屍臭が漂っていた。
その血の川と酷い屍臭の中、ローマ教皇から派遣された十字軍兵士と、ローマ・カトリックの聖職者たちは、聖墳墓教会に集まり、「神」に「この上ない感謝と喜びの祈り」を捧げた。
異教徒も、現地のキリスト教徒も、老若男女も見境なく、残虐の限りを尽くし殺害した「その人たち」が、聖墳墓教会の聖なる祭壇に、泣きながら「この上ない感謝と喜びの心」でひざまずいたのである。
まさに、これは神の御心をかなえたのだろうか。
だとしたら、神とは何か。
なにゆえに、神は、こんな惨いことを望むのか。
神が好むのは、人の血と涙と絶望なのか。
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、神そのものは共通であったはず。
この悲惨極まりない事件に対し、神への疑問は尽きない。
そして、つくづく、理解した。
人は「神の栄光のために」、「どこまででも残酷になれる」ということを。
引用以上
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前述のように、カトリック教会の十字軍によって、「イスラエルの聖地エルサレム」に、イエス・キリストを信じるキリスト教徒たちのエルサレム王国が建設されましたが、その後に終焉したのです。
※
その後、次はプロテスタント教会の大きな支援協力によって、1948年「イスラエル建国」が成されます。
イスラエル問題を理解する 背景にある「譲れない一線」より引用
イスラエルをめぐるニュースが世界を騒がせている。
パレスチナ自治区ガザにある病院への攻撃といった情報に胸を痛める一方、そもそもイスラエルとパレスチナがなぜ争うのか、理解しづらいと感じる人もいるだろう。
本書『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』(鬼澤忍訳)
著者はまず、イスラエル‐パレスチナ紛争を言い表した11歳の少年の言葉を紹介する。それは「どちらも正しいが、どちらもほかに行くところがない」だ。
ユダヤ人はイスラエルの地を「祖国」だと主張するが、その根拠は紀元前のはるか昔にさかのぼる。
ヘブライ語聖書に、アブラハム(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の始祖とされる旧約聖書の人物)に対して現在のイスラエル、ヨルダン川西岸、ガザ地区を指して「あなたの子孫にこの地を与える」と記されていたのだ。
その後、ユダヤ人はローマ帝国やキリスト教徒に追われイスラエルからヨーロッパへ移住する。そこでも迫害を受け続け、数千年もの長い間に民族は離散する。
だが、ヘブライ語聖書の一節を忘れなかった一部のユダヤ人は、イスラエルの地に戻り民族自決を求める運動を始めた。この運動がイスラエルの建国につながっていく。
しかし、イスラエルにはすでに現在私たちがパレスチナ人と呼ぶ、アラブ系の住民がいた。
彼らにしてみたら、ユダヤ人は突然やってきて居場所や権利を奪う侵略者だ。反ユダヤ主義が高まり、武力衝突、虐殺などへと対立が深まっていった。
それぞれが生き残るために譲れない一線が、今日の惨状の背景にはある。
引用以上
※
次はイスラーム世界・キリスト教世界に対する、エルサレムに関する呼びかけエルサレムのためのムスリム・クリスチャン会議にて
ベイルート・6月14-16日からの引用です。
私達は預言者の間に区別を設けません。なぜなら、アブラハムやダビデ、ソロモン、モーゼ、イエスは、私達の預言者ムハンマドと同じ預言者達だと信じているからです。
私達は、預言者ムハンマド<彼に平安あれ>の敵に対峙するように、彼らの敵にも対峙するのです。ムスリム達の努力により、この地はさらに聖なるものとなりました。
ゆえに、アラブ諸国は、エルサレムを守り、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラーム教徒の礼拝の自由を守るにもっともふさわしいのです。
何世紀にもわたり、ムスリムはエルサレムに奉仕する光栄に浴し、また、この地を守護してきました。その間、エルサレムは全ての人々に開かれ、信教の自由、行動の自由が保証されていたことは、歴史が証明しています。
イスラームの支配下において、カリフのオマル・イブン・アルハッターブは、軍隊のエルサレムへの侵攻を拒絶しました。
ムスリムはシリアの地を征服することを計画しましたが、エルサレムに軍隊が入らなかったことは、歴史を学べば明らかなことです。
なぜならエルサレムは尊厳ある地位にあり、聖なる都であったからです。
ムスリムの軍隊がビザンチン帝国からエルサレムを分離させたときは、距離をかなりおいてエルサレムを包囲しました。
エルサレムは、ムスリムのカリフのみに対し、鍵が渡された都でした。エルサレムの支配者ソフロニウスは、オマル以外の人間に鍵を渡すことを拒絶しました。
その日から、エルサレムは、<アル・コドス―聖なる都>という名で呼ばれるようになりました。
カリフのオマル・イブン・アルハッターブは聖墳墓教会での礼拝を主教達に薦められましたが、それを拒否しました。
彼は、もし自分がここで礼拝をしたら、ここをモスクにしようとする一部のムスリムに、その口実を与えてしまうのを恐れたからだ、と拒否した理由を説明しました。
集約すれば、アッラーに祝福されたエルサレムとその周辺の地の守護、その神聖さの保護、人々の権利、アラブ人とムスリムの支配地域の守護は、イスラームの誓約の一部であり、その誓約は、ムスリムの子供が誕生するたびに更新されてきたようなものでした。
イスラームは全ての圧政に反対するものであり、圧政をしくものではありません。そして、人権を分け隔てなく守り、暴力的なことをするものではありません。
ゆえにイスラーム支配下の<アル・コドス>は、<平和の都>でした。
イスラエルの支配下ではしかし、アル・コドスは<紛争の都>です。
アル・アクサーモスクでは、悲惨な虐殺が起こりました。イスラエル兵とユダヤ人入植者が、武器を持たない礼拝者をモスクの中庭で殺したのです。
1968年、複数のシオニストがモスクに放火し、破壊しようと企てました。
1967年以降、シオニスト達はアル・アクサーモスクの廃墟の上に神殿を建てるために2億ドルを割り当てていました。
シオニストの伝道集団であり、イスラエルとつながっている<エルサレム・テンプル団>は、年間1億ドルを神殿建設のために寄付していました。
この目的は、ベン・グリオン首相の次のような宣言によって明らかにされているでしょう。<イスラエルはエルサレムなしには意味を持たず、エルサレムは神殿なしには意味をもたない。>
アル・アクサーモスクと岩のドームの下にトンネルを掘る工事は続いていますが、これは、イスラームの聖地を崩壊させ、神殿建設を企てるものです。それこそが、シオニストの主な目標の一つなのです。
もしこれまでの13世紀にわたる歴史を学べば、ムスリム、クリスチャン、ユダヤ教徒がこれまでパレスチナ、エルサレムで共存し、これらの地は誰でも出入りできたことがおわかりになると思います。
しかし、シオニストとイスラエルの政策が、ユダヤ教徒達を、ムスリムとクリスチャンを脅かさなければ生きていけないまでに追い込んだのです。
イスラエルのエルサレム占領以来、彼らはエルサレムをユダヤ人だけの都にしようとしてきました。強引な政策により、ムスリムとクリスチャンは強制移住させられたのです。
複数の著名人によれば、今やエルサレムのユダヤ人口は、ムスリムとクリスチャンを合わせた人口を上回っているということです。
一例を挙げれば、クリスチャン人口は1967年以来激減しています。
1967年、エルサレムには38000人のクリスチャンがいましたが、今ではわずか12500人となってしまっています。本来、自然増加率に基づけば、今は12万人になっているはずなのです。
なぜこのようなことが起こっているのでしょうか?それは、イスラエルによる、ムスリム・クリスチャンの土地、宗教施設の没収、エルサレムなどからの住民の追放が行われたためです。
この変化の深刻さは、1918年の、パレスチナの全人口70万人のうち、ユダヤ人の人口は、そのうちの8%にあたる55000人であったことからもわかると思います。
3. 西側のキリスト教会のあり方
多くのプロテスタント教会が、イスラエルの建国を支援しました。
それは彼らが、新約聖書の最終章、<ヨハネの黙示録>が現実のものになると夢想していたからです。
ヨハネによれば、イエスの千年王国は、ユダヤ人が再びパレスチナに国家を建設するまで実現しないことになっていました。
この考えは、キリスト教的シオニズムのイデオロギーとなり、これにより、シオニズムは西側の教会や、パレスチナはユダヤ人のホームランドであると宣言した、イギリスのバルフォア卿のような、高い地位の人々の支援を受けることになったのです。
今や、多くの団体、特にアメリカの団体が、過去に自らが犯したこと(ユダヤ人排斥)の罪滅ぼしに、シオニストを支援しています。
このような団体の数は250以上に上ります。その一つの例が、1980年に設立された、<インターナショナル・クリスチャンエンバシー・オブ・ジェルサレム>で、23カ国の教会、1000人以上の会員がいます。
1985年8月、スイスのバーゼルで、ある会議が開かれ、次のような声明が出されました。
<ここに集まった我々代表と多くの教会とその信者は、イスラエルとの団結を表明する。ユダヤ人はこれまで、自らを脅かしてきた、悪徳や有害な勢力に立ち向かってきたことを我々は認める。
我々はクリスチャンとして、過去、キリスト教会がこれまでの歴史の中で、ユダヤ人に対し公正でなかったことを認める。
我々はユダヤ人迫害から40年を迎えるにあたり、イスラエル支持のために、ヨーロッパ内で団結することを表明する。>
引用以上
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次は、テレビ東京報道局記者/ニュースキャスター 豊島晋作氏のレポートから引用します。
「殺られる前に殺れ」と聖典が説いている
まず、イスラエルの論理を端的に要約する一文から紹介します。
「誰かが殺しに来たら、立ち向かい、相手より先に殺せ」
かなり強烈な印象を受ける一文ですが、これはユダヤ教の聖典のひとつである「タルムード」の一節、「サンヘドリン」篇72章1節の文章です。
当然、原典はヘブライ語ですが、英語では、「If someone comes to kill you, rise and kill him first.、つまり「殺やられる前に殺れ」という意味です。
イスラエルの首相や閣僚などの政治指導者、そして軍や情報機関の幹部は、ある意味でこの論理をもとに行動しているとも言えます。
豊島晋作『日本人にどうしても伝えたい 教養としての国際政治 戦争というリスクを見通す力をつける』(KADOKAWA)
イスラエル諜報機関 暗殺作戦全史』(小谷賢監訳)という有名な本の原題でもあります。
この本はモサドやアマンなどイスラエルの諜報・情報機関が実施してきた暗殺作戦や軍事行動を詳しく記述した本ですが、著者のバーグマンが執筆のため軍や諜報・情報機関の幹部にインタビューした際、彼らの口からこの一節がよく出てきたと言います。
バーグマンの本はイスラエルの暗殺作戦の実態を、ここまで書くかというほどに暴いており、イスラエル政府が出版を妨害しようとした著作でもあります。
内容は非常に豊富で読み応ごたえがあり、2023年10月以降にイスラエル周辺で起こった状況をより深く理解したい人にはお勧めの一冊です。
なぜイスラエルの指導者たちは「殺やられる前に殺れ」という論理を自分たちの行動指針にしたのでしょうか。
もちろん、どの国の政治指導者も国家と国民を防衛する役割があります。ただ、特にイスラエルの政治家や政府機関の指導者たちは、何十年にも渡って実際にこの国家防衛の義務を果たさなければなりませんでした。今もそうです。
イスラエルは過去に何度も戦争をしかけてきた敵国(アラブ諸国)や、今も攻撃を続けるヒズボラやハマスなどの敵対組織に国土を囲まれてきました。
さらに、自分たちが土地を奪ったせいで、イスラエルを強く憎むようになった大勢のパレスチナ人たちがすぐ近くに住んでいます。
「敵」が近くにいる以上、現実問題として、先に殺らなければ殺られるという実感は、イスラエルの過去の経験に由来しています。イスラエルは生まれながらにして戦うことを宿命づけられた国家なのです。
歴代首相は特殊部隊の出身者が多い
国が生まれた瞬間、つまり建国の翌日から周辺諸国に戦争をしかけられています。
1948年5月14日にイスラエルが建国された翌15日、周辺国のエジプトやヨルダン、シリア、レバノンなどアラブ諸国の軍隊がイスラエルに攻め込みました。これを第一次中東戦争と呼びます。
これ以来、イスラエルは4度もの戦争を経験してきました。まさに「殺さなければ殺される」状況に何度も直面してきたのです。
ここから、以下のような論理を抱くようになったのです。
「自分たちは国家がなければ生き残れない。そして国家を持った今でもなお自分たちは常に存亡の危機にあり、戦わなければ生き残れない。だから、たとえ世界を敵にまわしてでも戦い続ける」
イスラエルでは、首相をはじめとした多くの政治指導者が実戦経験のある元軍人です。
男女ともに徴兵制のある国なので、指導者が元軍人というのは当然ですが、特に歴代のイスラエル首相には、軍の中でも最前線に立つエリートである特殊部隊の出身者が複数いるのは無視できません。
特殊部隊員は、軍のイデオロギーを体現する存在でもあり、「確実に相手を殺す」意識がひときわ強い集団でもあるからです。
海軍の特殊部隊や空挺部隊の指揮官など
例えば現在のベンヤミン・ネタニヤフ首相は、イスラエル軍の最強部隊と言われるサイェレット・マトカルの元隊員です。同じくナフタリ・ベネット首相(2021―22年)、エフード・バラク首相(99―01年)もサイェレット・マトカル出身です。
イスラエルでは首相の次に国防相が重要な閣僚とされていますが、ネタニヤフ政権のヨアブ・ガラント国防相も海軍の特殊部隊として名高いシャイェテット・13の元隊員で、イスラム武装組織幹部の暗殺作戦に何度か従事した経験があります。
ほかにも、2000年代に首相だった、アリエル・シャロン首相は軍のエリートである空挺くうてい部隊の指揮官ですが、もともと、ハガナーと呼ばれるかつてのユダヤ人軍事組織の隊員でした。
ハガナーは今のイスラエル軍や情報機関の礎になった組織で、パレスチナとの和平合意で有名なイツハク・ラビン首相もシモン・ペレス首相もこのハガナーの隊員でした。
さらに、これらのどの人物も実戦経験があります。ネタニヤフ首相は実戦で負傷し、同じく特殊部隊員だった兄は作戦で死亡した「英雄」として知られています。
こうした指導者たちの戦場での経験が、イスラエル政府の政策決定に影響を与えているのは事実でしょう。
つまり、イスラエルは武人政治の国家なのです。
少なくとも、国家の歴代指導者にこれだけ特殊部隊の隊員や軍人がいる国家は、他に例がありません。
また、ガザで戦うイスラエル国防軍の兵士たちも、「殺さなければ殺される」というイスラエルの歴史を体現する場所で、兵士としての誓いを立てています。
伝統的にイスラエル兵は、マサダ要塞ようさいという歴史的な場所で入隊宣誓式を行います。
引用以上
※
パレスチナ人大虐殺「ナクバ」の生存者、世代を越えて語り継ぐ記憶より引用
1948年4月9日、ザルカさんが住んでいたパレスチナ(当時は英国の委任統治領)のエインカレムから1.6キロほど北東のデイル・ヤシーン村を、ユダヤ人武装組織が襲撃した。
国連の記録によると、女性や子どもを含む少なくとも100人が殺害された。多くは衣類をはがれ、整列させられ、自動小銃で射殺された。
この虐殺は「ナクバ(大惨事)」につながり、およそ70万人のパレスチナ人が、イスラエル建国を目指すユダヤ人武装組織によって家を追われたり、避難したりした。
「次は自分たちだと思った」。88歳になったザルカさんは、米ニュージャージー州の自宅でCNNの取材に応じ、そう振り返った。
「父が言った。『ここにはいられない。奴らが来て虐殺される』。私たちは何も持たなかった。武器も、自衛の手段も。あの日、私たちは難民になった」
ザルカさんは15日、ナクバの日のデモに加わった。世界中で何百万人ものパレスチナ人が、48年に殺害され、家を追われたパレスチナ人を追悼し、ガザ地区で今も続く残虐な戦争に抗議した。
この日を記念するのは、解放と帰還の夢が決して消えないよう、生き延びたナクバ世代が自分たちの経験を若いパレスチナ人に語り継ぐ意味もあるとザルカさんは言う。
それが現在の戦争について理解し、公正かつ恒久的な平和に向けて取り組むための唯一の道だと確信している。
「私の心は血を流している」。ザルカさんは静かに語った。「この年になってもまだ、家に戻ることを夢見ている。
パレスチナは今でも私の心と体に刻み込まれている。それは私が生まれた場所だ。私の思い出がそこにある。私の国だ」
引用以上
※
前述のように、またまたイエス・キリストを信じる人々が関わって、多くの虐待が起きています。
そこには当然ながら、最も小さき者たちの大勢が犠牲になっています。
その悲惨が起こされてイスラエル建国が成されて、戦争が続いているわけです。
かなり長くなりましたが、この聖地エルサレムとイスラエル建国について、皆さんはどう思いましたか?
私は舞夢さんの感想が心に残りましたので、最後にもう一度引用します。
「これは神の御心をかなえたのだろうか。
だとしたら、神とは何か。
なにゆえに、神は、こんな惨いことを望むのか。
神が好むのは、人の血と涙と絶望なのか。
この悲惨極まりない事件に対し、神への疑問は尽きない。
そして、つくづく、理解した。
人は「神の栄光のために」、「どこまででも残酷になれる」ということを。」
ここから聖書の「イエス・キリストの十字架」と「永遠の命」についての箇所によって、このイスラエル問題についてを見ていくつもりでしたが、長くなり過ぎたので、次回へつづく