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ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教の真実 ⑰ 滅びに至る門は大きく、入って行く者は多い」

 

前回記事で、カトリック教会は、『教会の外に救いなし』という『真理』があり、

 

プロテスタント教会は「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行く」という神学があることを紹介しました。

 

プロテスタント福音派の教会では、さらに次の御言葉によって、イエス・キリストを信じない人々は滅びに向かっているということに確信を与えていました。

 

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

 

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイの福音書7章13~14節)」

 

さて、この聖書箇所だけを見れば、イエス・キリストを信じない人々は滅びに至る門に入って行く者であり、

 

イエス・キリストを信じた人々は、いのちに至る門を見い出している者と思い込まされてしまいます。

 

しかし、その聖書箇所を詳しく見てみると、まったく違う解釈になるのです。

 

その滅びに至る広い門といのちに至る狭い門についての聖書箇所を見てみましょう。

 

 

13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

 

14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

 

15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやってくるが、うちは貪欲な狼です。

 

16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。

 

17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。

 

18 良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。

 

19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

 

20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

 

21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 

22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。

 

『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

 

23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 

24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

 

25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

 

26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。

(マタイの福音書7章13~26節)

 

 

22 イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。

 

23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」という人があった。イエスは、人々に言われた。

 

24 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。

 

25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、

 

もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

 

26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。

 

『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』

 

27 だが、主人はこう言うでしょう。

『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

 

28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。

(ルカの福音書13章22~28節)

 

 

さて、何度も読んでみてください。

どうですか?

 

この聖書箇所から、文章力を学んだ小学生たちに、「イエス・キリストを信じない人々が滅びに至る門に入って行く者なんですよ。」と教えても、

 

「どうして、イエス・キリストを信じない人々が出て来るのか?」と不可解に思って、理解することは出来ないと思います。

 

しかし、イエスさまを「主よ」「ご主人さま」と慕っている者たちが滅びに至る門に入って行く者なんですよ。と教えれば、理解するでしょう。

 

イエスさまが、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と言われている通りですね。

 

『私たちは、イエスさまとごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』

 

だけど、イエスさま(主人)はこう言うでしょう。

『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

 

また、『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』と主張する者たちもいます。

 

しかし、その時、イエスさまは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 

 

前回記事で、イエスさまは、イエスさまにつき従って来た群衆と弟子、弟子たちに対して、地獄行きについて教えられていることを見てきました。

 

それは、そのイエスさまを信じた人々の中に、父親が悪魔であり、義のしもべに変装したサタン(悪魔)の手下たちがいるためです。

 

この「滅びに至る門に入って行く者」についての教えも同じです。

 

羊のなりをしてやってくるが、うちは貪欲な狼である「にせ預言者たち」によって、不法を行なうクリスチャンたちが大勢いるのです。

 

イエスさまは、不法をなすクリスチャンたちは、滅びに至る門に入って行く者であり、最後の審判で、イエスさまから離れて行き、神の国の外に投げ出されて、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。と教えられています。

 

 

さて、カトリック教会では『教会の外に救いなし』という『真理』を信じています。

 

ところが、聖書にそのような教えはどこにも書いていません。

 

それどころか、イエスさまはその真逆なことを教えられているのです。

 

次回へつづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ⑯ どうしてキリストを信じなければ地獄行きなのか?」

 

この日本では前回記事について、このような疑問を持つ人が多いです。

 

どうして、カトリック教会は、『教会の外に救いなし』という『真理』を信じているのか?

 

そして、プロテスタント教会はどうして「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行く」という神学なのか?

 

その答えは簡単です。プロテスタント福音派の教会で大きく用いられている牧師や神学校では次のように教えています。

 

「聖書を読めば、イエス・キリスト御自身が「地獄行き」について教えているからです。」

 

さらに、人間の死後の世界は「天国」か「地獄」であるというように信じているからです。

 

すると、イエス・キリストを信じているクリスチャンたちは当然に天国へ行く。

 

そうなると、地獄に行くのは至極当然にイエス・キリストを信じない人々である。という答えになるからです。

 

京都恵みキリスト教会の「地獄の説教者イエス(2016年春号)」より引用します。

 

「新約聖書には、死後の苦しみの場所を指す『ゲヘナ』ということばが12回出てきます。

 

そして、その内11回がキリストのことばです。キリストこそ、人々に地獄について誰よりもはっきりと語られたお方なのです。

 

地獄を警告する理由

 

では、なぜキリストは地獄を語られたのでしょうか。

それは、本当に地獄が存在するからです。

 

神は、聖書を通して地獄があると語っておられます。

一度も死んだことのない人間の語る死後観には何の説得力もありませんが、神のことばは確かです。

 

神は決して偽ることも騙すこともされません。

神が『地獄はある』と仰るのですから、地獄は存在します。

また、罪に対して刑罰があるというのは、当然のことです。」

 

引用以上

 

このように教会で教えられれば、

 

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者(イエス・キリストを信じない人々)は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。つまり地獄行きである。」という聖書解釈と福音理解となります。

 

 

さて、プロテスタント教会やカトリック教会から離れて、無教会の立場で個人的に聖書を読めば、前述の教えは致命的な欠点があることに気づきました。

 

それは、イエスさまは、地獄行きについての教えは、イエス・キリストを信じていない人々に対してではなく、イエス・キリストを信じた群衆や弟子たちに対して教えているのです。

 

常識では、「イエスは、信じていない人々に言われた。」

 

「イエスは、信じていない人々にこのように伝えなさい」というように、地獄行きについて話されたのであれば、

「イエス・キリストを信じない人々は地獄行き」ということになります。

 

しかし、聖書を読めば、イエスにつき従って来た群衆と弟子、弟子たちに対して「あなたがたは」と言って、地獄行きについて教えているのです。

 

またの機会にすべてを紹介しますが、以前の投稿記事で紹介しているので、今回は、その中の1つを紹介します。

 

「 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群集がイエスにつき従った。

 

この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。

 

そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

 

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 

しかし、わたしはあなたがたに言います。

兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。

 

また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

(マタイの福音書4章25~5章2節、20~22節)

 

 

どうして、イエスさまは、イエス・キリストを信じた群衆や弟子たちに地獄行きについて教えたのでしょう。

 

答えは簡単であり、そのことについてイエスさまは明確に教えておられます。

 

そのことを見てみましょう。

 

「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。

 

そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。

 

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 

彼らはイエスに答えた。

「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。

あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

 

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。

 

奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。

ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

 

わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。

 

しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。

 

わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。

 

わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行うのです。」

 

彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」

 

イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。

 

ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。

 

アブラハムはそのようなことはしなかった。

あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っています。」

 

彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」

 

イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。

 

なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。

あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。

 

あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。

 

悪魔は初めから人殺しであり、真理には立ってはいません。

 

彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

 

しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。

(ヨハネの福音書8章30~45節)」

 

 

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。

 

ところが、人々が眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。

麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。

 

それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』

 

主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』

 

だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。

 

だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。

 

収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

 

イエスは、これらのことをみな、たとえで群集に話され、たとえを使わずには何もお話にならなかった。

 

それは、預言者を通して言われたことが成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」

 

それから、イエスは群集と別れて家に入られた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。

 

イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。

畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。

 

毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。

 

ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。

 

人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、

火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

 

そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

(マタイの福音書13章24~30、34~43節)

 

 

つまり、イエスさまが教えられる地獄行きの人々とは、悪魔が蒔いた悪い者の子どもたちのことです。

 

悪魔が蒔いた悪い者の子どもたちについて、イエスさまはこのように明確に教えられました。

 

「あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。

悪魔は初めから人殺しであり、真理には立ってはいません。」

 

 

それからイエスさまは次のように教えられました。

 

「毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。」

 

毒麦は悪魔から出た子どもたちです。悪魔の欲望を満たすために人を殺します。つまずきを与え、不法を行ないます。

 

それゆえ、世の終わりに火の燃える炉に投げ込まれます。

つまり地獄へ行って、泣いて歯ぎしりをし、永遠に炎の中でもがき苦しむことになります。

 

「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。

 

しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

 

ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。」

(コリント人への手紙 第二 11章13~15節)

 

 

つまり、地獄へ行く者たちは、サタンの手下どもが義のしもべに変装して、キリスト教会の中にいるのです。

 

あの12弟子の中にもいました。

 

「しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。

 

それでも、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

 

しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」―イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである―

 

そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。

 

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

 

そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」

 

すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行けましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。

 

私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。

 

イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」

 

イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。」

(ヨハネの福音書6章61~71節)

 

 

悪魔が蒔いた悪い者の子どもたち、つまり父親が悪魔であり、義のしもべに変装したサタン(悪魔)の手下たちは、滅びに向かっていて、世の終わりには火の炉の中に投げ込まれます。

 

イエスさまは、その地獄行きの者たちを救いたいので、イエスさまを信じてつき従って来た群衆と弟子たちに対して、地獄へ行くことについて教えられたのです。

 

こうして、聖書のイエスさまの教えを詳しく見てみれば、

 

現在の日本で、前述のような、イエス・キリストを信じていない人々が地獄へ行くという聖書解釈と福音理解をするキリスト教会を信じることが出来るでしょうか?

 

長くなったので、次回へつづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ⑮ 神の御心は、あわれみの神イエス・キリストを信じること」

 

前回で見た通り、イスラエルの神は「いけにえを好む神」でした。その聖書箇所の一部です。

 

「モーセはイスラエル人の全会衆を集めて彼らに言った。『これは、主が行えと命じられたことばである。

 

六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目には、主の聖なる全き休みの安息を守らなければならない。

 

この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。』(出エジプト記35章1,2節)」

 

「主はモーセに告げて仰せられた。

人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。(レビ記20章9,10節)」

 

 

そのために「いけにえを好むイスラエルの神」を信じて聞き従ってきた「イスラエルの民」は、皆で平然と罪を犯した人を殺すことが常識であり、習慣となっていました。

 

それゆえ、かなり過激な性格になっていることが聖書を読めばうかがえます。

 

例えば、ステパノの場合です。

 

「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。

そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。

 

証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』

 

そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた。使徒の働き7章57~60節)」

 

 

また、主イエスの場合です。

 

主イエスがイスラエルの民に成された神の御業は次の通りです。

「イエスは答えて、彼らに言われた。

『あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

 

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

 

だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。』マタイの福音書11章4~6節)」

 

「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』

 

ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。

 

これを見て、みなは、『あの方は罪人のところに行って客となられた』と言ってつぶやいた。

 

ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。

また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』

 

イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』(ルカの福音書19章5~10節)」

 

 

つまり、主イエスがイスラエルの民に成されたことは、すべて素晴らしく、100%良い行ないだけでした。

 

現在でも、超超超素晴らしい!100%超絶に良い行ないが成されたことに感動することです。

 

死にたくなるほどの難病を癒やしてくださり、死んだ愛する者たちを生き返らせてくださる。

 

目が見えるようになり、歩けるようになり、聞こえるようにしてくださる。

 

日本ではオレオレ詐欺などで、老後のための貯金をだまし取られてどん底に落とされている高齢者の方々がたくさんいますが、それが4倍になって返されるのです。

 

まさにイエス・キリストは命の大恩人です。

 

そのような命の大恩人の主イエス・キリストを、イスラエルの民は次のような残酷な仕打ちをしたのです。

 

「ピラトは彼らに言った。『では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。』

 

彼らはいっせいに言った。『十字架につけろ。』

 

だが、ピラトは言った。『あの人がどんな悪い事をしたというのか。』

 

しかし、彼らはますます激しく『十字架につけろ』と叫び続けた。

 

そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で言った。

『この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。』

 

すると、民衆はみな答えて言った。

『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』(マタイの福音書27章22~25節)」

 

 

このイエスさまに対する残酷な仕打ちを見れば、イスラエルの民は非常に恐ろしい冷酷非道な、あわれみのかけらもなく、いけにえを超絶に好む民のように思います。

 

旧約聖書では、イスラエルの神が、イスラエルの民のことを「うなじのこわい民」と表現されるほどでした。

 

「牧師の書斎」のブログ記事から引用します。

 

「神が恋い慕って、選ばれ、愛された民は、なんと、『うなじのこわい民』であるということばが登場します。

 

しかもそれは、エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは逆らいどうしであった(9:7)と記されているのです。

 

『うなじのこわい』民(者)という表現は9章、10章に3回出てきます(9:6/9:13/10:16)申命記では他に31:27にも出てきます。

 

この『うなじのこわい』と訳されたことばはヘブル語の形容詞「カーシェ」(קָשֶׁה)、動詞は「カーシャー」(קָשָׁה)です。旧約では形容詞と動詞あわせて64回使われています。

 

本来の意味は、牛がくびきをかけられるのを嫌って抵抗する表現です。

 

それが『首がこわばる』『強情』『頑固』『手に負えない』様子を表わします。

 

『うなじのこわい』を日本語訳では『かたくなな』(新共同訳)、『強情な』(口語訳)、『項(うなじ)強(こわ)き』(関根訳)、『項を固くして』(岩波訳)と訳されています。

 

実に、神の言われることに耳を傾けず、聞くこともせず、訓戒を受け入れることもしようとしない『心をかたくなにする』民の姿を表わす表現です。」

 

引用以上

 

 

このままイスラエルの民が成長していけば、非常に恐ろしいことになる。

 

石で打ち殺していたのが、石から爆弾に変われば、いけにえを好んで、爆弾による無差別殺人が行なわれてしまうでしょう。

 

そのような思いがあるかの如く、イスラエルの神は「いけにえを好む神」を廃止する選択を成されました。

 

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」という神の御子イエス・キリストにすべての人類を任せられたのです。

 

ですから、主イエス・キリストは100%あわれみの神です。

 

イエスさまの十字架上の死によって、罪のためのいけにえと犠牲はなくなったのです。

 

 

いけにえを好むイスラエルの神は、一週間の7日目(安息日)に仕事をする者は誰でも殺されなければならない!と命じました。

 

しかし、あわれみを好むイエスさまは次のように真逆のことを教えられました。

 

「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。

 

人の子は安息日の主です。」

 

イエスはそこを去って、会堂に入られた。

 

そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。

 

イエスは彼らに言われた。

「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。

 

人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」

 

それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。

 

パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。(マタイの福音書12章7~14節)」

 

 

また、いけにえを好むイスラエルの神は、人がもし、他人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならないと命じました。

 

しかし、あわれみを好む主イエスは、その真逆の教えを次のように成されています。

 

「そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。

 

すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。

 

「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。

モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

 

彼らはイエスをためしてこう言ったのである。

それは、イエスを告発する理由を得るためであった。

 

しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。

けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。

 

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

 

そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。

 

彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。

 

イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

 

彼女は言った。「だれもいません。」

 

そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネの福音書8章2~11節)〕

 

律法学者とパリサイ人は、イエス・キリストがあわれみを好む神であれば、イスラエルの神が命じられたモーセの律法とまるで違う教えになるので告発できると企みましたが、あわれみの神の教えは、それを上回ったのです。

 

 

いけにえを好む世界は、「あわれみを好むが、いけにえは好まない」と教えられる神の御子イエス・キリストによって、あわれみを好む世界へと変貌するはずでした。

 

しかし、非常に信じられないことが起きたのです。

 

なんとイエス・キリストを信じた人たちは、イエス・キリストを冷酷非道な超超超絶に「いけにえを好む神」に仕立て上げたのです。

 

それゆえ「イエス・キリストを信じない人々に救いはない!」という真理と教義、聖書解釈と福音理解を作り上げたのです。

 

それがカトリック教会の場合「教会の外に救いなし」という教えです。

 

それは、イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行くということが真理だというものです。

 

日本宣教のフランシスコ・ザビエルからカトリック教会のイエズス会への手紙には次のように書かれています。

 

「〔日本人には〕地獄に落ちた者になんの救いもないのはたいへん悪いことと思われ、神の教え〔キリスト教〕より、彼らの宗派の方がずっと慈悲に富んでいると言います。」

 

 

しかしながら、現在はカトリックも少し変わりました。

聖パウロ女子修道会のブログ記事「第2バチカン公会議から50年」から引用します。

 

「第2バチカン公会議までのカトリック教会は、『教会の外に救いなし』という『真理』を固く守り続けてきましたが、

 

公会議は仏教、ヒンズー教、イスラム、ユダヤ教など他宗教について、教会がそれぞれの宗教の中にもある真理を受け入れ、相互理解を深めることを勧めました。」

 

以前として、『教会の外に救いなし』という『真理』は根本にあるものの、その枝の教えとして他宗教について、相互理解を深めることを勧めているようです。

 

 

しかしながら、カトリック教会の『教会の外に救いなし』という『真理』は、イエス・キリストを超絶に「いけにえを好む神」に仕立て上げ続けています。

 

 

そして、カトリック教会から別れて誕生した「プロテスタント教会」は、さらにイエス・キリストを超超超絶に冷酷非道な「いけにえを好む神」になるように作り上げています。

 

次のような御言葉を前後の文章の意味を無視して、恣意的に部分的に切り取ります。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネの福音書3章16~18節)」

 

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネの福音書3章36節)」

 

「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。(使徒の働き4章12節)」

 

このように、イエス・キリストを信じる者たちは救われるが、イエス・キリストを信じない人々は救われない。

 

そして、死後にさばきがあり、イエス・キリストを信じない人々は永遠の火の中に投げ込まれて、永遠に炎の中でもがき苦しむという聖書解釈と福音理解となります。

 

 

前回記事から伝えていますが、聖書を読めば、神の御心は、「あわれみを好むが、いけにえは好まない」と教えられる神の御子イエス・キリストによって、あわれみを好むが、いけにえは好まないという世界へと変貌することです。

 

しかしながら現実は、「〔日本人には〕地獄に落ちた者になんの救いもないのはたいへん悪いことと思われ、神の教え〔キリスト教〕より、彼らの宗派の方がずっと慈悲に富んでいると言います。」と思えることが多い状況です。

 

世界を見ても、クリスチャン国家と言われる「アメリカ」

 

米大統領の就任式では宣誓の時に、歴代大統領は右手を掲げて、左手を聖書に置き、「神に誓って(So help me God)」と宣誓するのが慣例となっています。

 

そのクリスチャン国家のアメリカは、原子力爆弾を2発も日本の広島と長崎に落として、無差別大量殺人を決行しました。

 

しかし、多くのアメリカ人は無差別大量殺人とは思っていないようです。

 

何かの式典での原爆投下の映像を見たオバマ大統領たちは拍手しています。

その動画はYouTubeで拡散されていました。

 

他にも朝鮮戦争における老斤里事件

ベトナム戦争における枯葉作戦(枯葉剤)ソンミ村虐殺事件

北爆(捏造したトンキン湾事件を根拠とした)

アメリカ軍によるドミニカ共和国占領 (1965年-1966年)

リビア爆撃 (1986年) パナマ侵攻 イラク戦争

アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)

シリア空爆 (2019年) カブール空爆

 

 

アメリカは別格としても、世界中の数多くのクリスチャンたちによる他宗教への迫害、同性愛者たちへの迫害などは日常茶飯事に行なわれています。

 

それらは、聖書の神の御言葉に聞き従うため、神の栄光のため、イエス・キリストの御名によって、聖霊に導かれてという大義名分によって行われ続けています。

 

なので、イエス・キリスト・父なる神・聖霊の三位一体によるものが「いけにえを好む神」となっているために、もはや変わることはないでしょう。

 

 

そして、何も知らない人々が、『教会の外に救いなし』という『真理』を学び、

 

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。

 

なので、イエス・キリストを信じない人々は滅びに向かっているということを学びます。

 

そうして多くの人々が、イエス・キリストはいけにえを超絶に好む神だということを植え付けられていきます。

 

それは、これまでの日本の歴史で、何万人、何十万人、何百万人になるでしょうか。

 

結果的に日本のクリスチャン人口は約1%弱という状況が長年続いています。

 

 

そして、私は、今まで、多くの牧師やクリスチャンたちから壮絶なイジメや迫害に会い続けていますが、

 

たった一人だとしても、イエス・キリストは100%あわれみの神であるという聖書解釈と福音理解を宣べ伝えていくだけです。

 

「それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

 

神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。(ローマ人への手紙9章23,24節)」

 

つづく

 

 

「日本におけるキリスト教の真実 ⑭ 『いけにえ』についての教え」

 

前回記事の続きで聖書が教える「いけにえ」についての教えを見ていきます。

 

Got Questions Ministriesのブログ記事の説明がわかりやすいので引用します。

 

「神は、罪の一時的な赦しを提供し、イエス・キリストの完全で完璧な犠牲を予表するために、動物のいけにえを義務付けられました(レビ記4:35、5:10)。

 

動物のいけにえは聖書全体を通じて見ることのできる大切なテーマです。

 

なぜなら、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からです(へブル9:22)。

 

アダムとエバが罪を犯したとき、神は彼らに着るものを用意するために動物を殺されました(創世記3:21)。

 

カインとアベルが主にささげものを持ってきました。カインのささげものは、地の作物だったので受け入れられませんでしたが、

 

アベルのささげものは、「彼の羊の初子」であったので受け入れられました(創世記4:4-5)。

 

洪水がひいたあと、ノアは動物のいけにえを神にささげました(創世記8:20-21)。

 

神はイスラエルの民に、神によって定められた一定の方法に従ってたくさんのささげものをするように命じられました。

 

まず、動物は非のうちどころのないものでなくてはなりません。

 

第二に、ささげものをする人が動物と自分を同一のものと認めなければなりません。

 

第三に、動物をささげる人はその動物に死を負わせなければなりません。

 

信仰によって行われるときに、このささげものは罪の赦しをもたらしたのです。

 

レビ記16章に説明されている、贖いの日のために求められた別のささげものは、罪の赦しと罪が取り去られることを実演しました。

 

大祭司が二頭の雄やぎを罪のためのいけにえとしてとりました。一頭はイスラエルの人々の罪のためのいけにえとしてささげられ(レビ記16:15)、もう一頭は荒野へ放されました(レビ記16:20-22)。

 

罪のためのいけにえは赦しを与え、もう一頭のやぎは罪を取り除くためでした。

 

引用以上

 

 

次に牧師の書斎のブログ記事から引用します。

 

「旧約聖書において最初に『全焼のいけにえ』をささげたのはノアです。

 

洪水後にノアは主のために祭壇を築いて、その上できよい家畜と鳥の中からいくつかを選び取って『全焼のいけにえ』としてささげています(創世記8:20)

 

このとき主は、その「なだめのかおり『レーアッハ・ハンニーホーアッハ』רֵיחַ הַנִּיחֹחַ)をかがれて、心の中で、洪水ですべての生き物を打ち滅ぼすことはすまいと決意されたのでした。」

 

引用以上

 

 

このように「イスラエルの神」は、動物による「いけにえ」を求めて、いけにえが注ぎだす血によって、イスラエルの民の罪をゆるすという神さまでした。

 

それゆえ、誰もが「いけにえ」を超絶に好む神だと思うでしょう。

 

さらにイスラエルの民は神に近づくことができませんでした。

 

旧約聖書の律法によれば、大祭司がたった一人だけ選ばれて、その大祭司だけが神の臨在に触れることができ、神の御前に立って生け贄を献げ、民の罪の執りなしをしたのでした。

 

そのことが次のように書かれています。

 

「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。

 

その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。

 

モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、

「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。

 

また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具に同様に血を注ぎかけました。

 

それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。

 

また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

(へブル人への手紙9章7、19~22節)」

 

 

イスラエルの神とイスラエルの民は、このようにして歩んできたのです。

 

イスラエルの民は、「神」というものは「いけにえ」を好み、そのいけにえの血を注ぎだすことによって、神はイスラエルの民の罪を赦してくださるだろうというアイデンティティが確立されています。

 

 

しかし、その神が遣わされた御子イエス・キリストは、その真逆の神だったのです。

 

イエス・キリストは次のように教えられました。

 

「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。(マタイの福音書12章7節)」

 

なんと、イエス・キリストという神さまは「あわれみは好むが、いけにえは好まない」という神だったのです。

 

すると、これまでの神は「いけにえ」を好んで、いけにえを捧げてきたことはいったい何だったのか!!!

 

また、いけにえを捧げないとなると、罪の赦しができないということか!!!

 

そんな今までとはまるで違う神など、誰が信じるか!という話になります。

 

まったく整合性がつかない話です。

それゆえ、次の教えがあるのです。

 

「11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、

 

12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 

23 天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。

 

24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。

 

25 それも、年ごとに自分の血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。

 

26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。

 

しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

(へブル人への手紙9章11~26節)」

 

このような教えによって、いけにえを好む神からあわれみを好む神へ変わった整合性を持たせることができたのです。

 

 

さて、現在の日本人はどうでしょうか?

聖書が書かれている当時のイスラエルの民とはまるで違います。

 

前述のイスラエルの神とイスラエルの民との関係を知ると、信じられない思いになると思います。

 

動物のいけにえは聖書全体を通じて見ることのできる大切なテーマということや、いけにえの血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないということなど、受け入れることは到底できないでしょう。

 

いけにえを好む神など本当の神ではないと思います。

 

 

日本で「いけにえ」と聞けば、「人身御供(ひとみごくう)」のことを思い浮かべる人が多いと思います。

 

「人身御供(ひとみごくう)とは、人間を神への生贄とすること。人身供犠(じんしんくぎ/じんしんきょうぎ)とも。

 

また、生贄の「贄(ニエ)」は神や帝に捧げる鳥・魚・新穀などの食物の意味である。

 

転じて比喩的表現として、権力者など強者に対して通常の方法ではやってもらえないようなことを依頼するため、もしくは何らかの大きな見返りを得るために、理不尽にもかかわらずその犠牲になることに対しても使われている。

 

概要

人身御供の行為は、特にアニミズム文化を持つ地域の歴史に広く見られる。

 

人間にとって、最も重要と考えられる人身を供物として捧げる事は、神などへの最上級の奉仕だという考え方からである。

 

災害においては、自然が飢えて生贄を求め猛威を振るっているとして、大規模な災害が起こる前に、適当な人身御供を捧げる事で、災害の発生防止を祈願した。」

 

ウィキペディアより引用

 

 

また日本で「いけにえ」と聞けば「人柱」という人も少なくありません。

 

「歴史プレゼンター」2023年11月30日の歴史ライターの山内琉夢の記事を引用します。

 

「築城の最盛期である戦国時代では、何事もなく工事が終えられるようにと若い娘や僧侶を生贄(いけにえ)として捧げる『人柱』を起用することがありました。

 

この生贄として用意された人の殆どが、誘拐されて連れてこられた美しい未婚の女性たちだったのです。

 

この信じがたい迷信は、『地盤問題で築城できなかった土地に人柱を採用したところ、無事に建築が成功した』として噂が広まったのだとか。

 

しばらくすると、人柱を採用した城の周辺で変死体が相次ぐなど『呪い』や『人柱の霊が出現する』といった噂までもが広まるようになります。

 

こうして語り継がれてきた『人柱伝説』のなかでも、全国的に知られているのが『米子城の人柱伝説』です。」

 

引用以上

 

 

また、現在では「生贄(いけにえ)」というのは刑事ドラマなどで登場する凶悪な殺人鬼が「いけにえを好む」という教えが有名です。

 

そして、善良な市民や刑事たちが犠牲となります。

 

このような事からも、いけにえを好む神、いけにえが血を流す犠牲によって民の罪を赦すような神など、本当の神ではないと思っても至極当然でしょう。

 

 

イエス・キリストは、「いけにえ」や「犠牲」を廃止するために、十字架上で死なれたことが次のように明確に教えられています。

 

「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。

 

「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。

 

あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。

 

そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」

 

すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、

 

また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。

 

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

 

また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。

 

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、

それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

 

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

 

聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。

 

「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。

 

「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」

これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。

 

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。

 

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

(へブル人への手紙10章5~20節)」

 

 

イエスさまは「いけにえ」と「犠牲」を廃止されるために、十字架上で死なれたということを聖書は教えています。

 

また、いけにえやささげ物を望まないという神さまの御心も伝えられています。

 

それゆえ、現在の日本人たちに対して「いけにえ」という聖書箇所によって、

 

「イエス・キリストは、いけにえとなり犠牲になられたのは、人間が地獄へ行くことから救うために十字架上で死なれた」という教えは、まったくの見当違いだということがわかります。

 

そもそも「すべての人間は地獄へ行く」という教えも、かなり聖書の教えを曲解しなければなりません。

 

長くなったので、次回につづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ⑬ 贖罪論について」

 

個人的に、プロテスタント福音派の教会の牧師たちが説明している「贖罪論」について理解することは出来ませんでした。

 

なので、色々と調べているうちに、的を得ていると思ったことを紹介します。

 

イクトゥス・ラボのホームページから富田正樹牧師のメッセージを引用します。

 

「このイクトゥス・ラボでは、「贖罪論」というものを見直し、それに替わるものを提示するための学びの構想を練り始めています。

 

 贖罪論は復活論と並んで、キリスト教の根幹をなしており、それなしにはキリスト教というものが成り立たないとまで言われるような教義です。

 

確かに、『イエスが十字架につけられて殺されたのも神の意志であり、その死によって人間の罪は贖われ、人間は罪の力から解放された』というのは、キリスト教の中心的な教えであるとされています。

 

これを見直すというのは冒涜であり、異端であるという指摘が生じるのも理解できます。

 

 しかし、この贖罪論にはいくつかの問題点があります。

 

 まず、『イエスは父なる神の怒りを人間に代わって受けてくださることによって、人間が赦された』という考え方ですが、

 

これは『父なる神の怒り』を手付かずのまま肯定してしまっています。

 

『神は人間に恐ろしい罰を求める父である』という神像が、実は現在も多くの家庭内暴力・虐待を受ける人を苦しめ続けています。

 

そして、十字架で痛めつけられる『父の子』イエスの姿に自分を重ね合わせ、この虐待以外に父の怒りを晴らす方法は無いということを痛感させられ、逃げ場がなくなるのです。

 

 この教義によって苦しみが倍増させられる人々のことを、この教義を正当化する人たちは配慮してくれません。

 

『だってそれが正しいんだからしょうがないじゃないか。それはどこかで受け止め間違っているんだよ』という訳です。

 

しかし、ある人を痛めつけ、苦しめるような解釈を、そのまま見直さず、放置していて本当にいいのでしょうか。

 

 次に、この贖罪論からは、『イエスが私たちを守るために命を捨ててくださった。イエスの私があるから、私たちは生きていられる』という発想が生まれます。

 

こういった形で犠牲の死を美化することは、古今東西の宗教、あるいは一見非宗教的な社会現象の中でもよく起こってきたことです。

 

 しかし、これによって社会がスケープゴートを生み出し、痛めつけることで、その社会の安寧を図るというシステムを肯定し、暴力の温存に加担してきたという面があるのではないでしょうか。

 

 また、旧日本軍の特攻隊のように、実際には失政のために犠牲者となった人々の死を美化することで、失政の責任を追求せず、

 

むしろ『新たに命を捨てる者、出よ』と、犠牲を奨励するような危険な体制を作ることに繋がりはしないでしょうか。

 

 さらに、贖罪論を根拠にして、『私たちは既にイエスによって罪を赦されているのだから、今私が犯した罪も赦されている』と居直ったり、

 

差別や暴力の被害者に対して、

『あなたもあの人を赦しなさい』、『あなたも私を赦しなさい』と要求するような事象があちこちで起こっています。

 

 端的に言って、これはキリスト教の教理・教義を利用した、差別・虐待の正当化であり強化に他なりません。

 

『赦し』という教えを、罪の容認、加害者への加担・擁護、そして被害者の声を封じ込めるために使っているのです。

 

 これは最も弱い者、小さな者が愛されるのだと伝えたイエス・キリストの教えと全く相反するものだとは言えないでしょうか。

 

 こういった体験に基づく思索の中から、私たちには、『贖罪論こそがクリスチャンを堕落させている諸悪の根源なのではないか』という疑問が生まれました。」

 

引用以上

 

 

今度は、プロテスタント福音派の「贖罪論」についての聖書解釈と福音理解を紹介します。

 

プロテスタント福音派の教会で、カリスマ牧師の中でも絶大な人気を誇る中川健一牧師の教えは次の通りです。

 

「旧約聖書には『いけにえ』の動物の血を流すということがよく出てきます。

 

『いけにえの動物を捧げよ』という命令は、神の恵みによるものです。

 

『罪責感』を取り去るための『恵み』の方法として、神は、『罪の贖い』ということを教えて下さったのです。

 

それが、『いけにえの血を流す』ということなのです。

しかし、この『いけにえの血」は、実は不完全なものです。

 

なぜ不完全かというと、それが動物の血だからです。動物の血で人間の罪を贖うことなど、できません。

 

ですから、『いけにえの動物の血を流す』ということは、『罪を取り去る』のではなく、『一時的に罪を覆う』、つまり罪をカバーするということで、これはあくまでも応急処置なのです。

 

と同時に、その『いけにえの血』は、『イエス・キリストが十字架の上で、罪なき御子としての血を流してくださる』ということを暗示しているわけです。

 

『キリストの血』は完全なものです。

 

キリストは罪のない生涯を送り、私たちの身代わりとして死なれました。『動物の血』ではなく『キリストの血』が流されたことによって、私たちの罪が赦されました。

 

本来私たちが受けるべき『罪の罰』をキリストが受けてくださったからです。

 

イエス・キリストを信じるということは、『あなたを赦したよ』と言ってくださったキリストの愛と赦しを、贈り物として受け取ることです。これが『信仰による救い』ということです。

 

いけにえの動物は『影』であり、キリストが『本体』です。

 

あなたも、イエス・キリストを救い主として受け入れ、罪の赦しを体験なさってください。

 

参考になる聖句

 

『律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです』(ヘブル人への手紙10:1)

 

『しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです』(ヘブル人への手紙10:12〜13)

 

引用以上

 

「この中川牧師の聖書解釈と福音理解は非常に理解しやすい!」と多くの牧師やクリスチャンたちが絶賛しています。

 

 

しかし、私個人はドラマ「ガリレオ」の福山雅治さんの決めセリフのように、「さっぱり、わからない」と言います。

 

なぜなら、この中川牧師の聖書解釈と福音理解を聞いて、致命的な欠点があることにお気づきになったでしょうか?

 

それは、根本的に旧約聖書によく出て来る『いけにえの動物を捧げよ』という命令は、神の恵みによるものです。ということを理解していなければ、まったく理解不能になるということです。

 

聖書に書かれている時代は旧約聖書しかありません。まだ新約聖書は存在していません。

 

しかも当時のイスラエルの民、及び異邦人のクリスチャンたちは、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々でした。

 

使徒パウロも使徒ペテロたちもそうです。

 

異邦人がいきなりクリスチャンになったのはごく一部という状況です。(この事について、また、まとめて記事にしたいと思います。)

 

ユダヤ教の人々は旧約聖書の教えを糧に生きていて、旧約聖書によく出て来る『いけにえの動物を捧げよ』という命令は、神の恵みによるものという教えは心に刻まれています。

 

しかし、旧約聖書の教えなど知らないし、そのような教えを聞いたとしても受け入れることは非常に難しい現在の日本人たちが、

 

「キリストは罪のない生涯を送り、私たちの身代わりとして死なれました。『動物の血』ではなく『キリストの血』が流されたことによって、私たちの罪が赦されました。

 

本来私たちが受けるべき『罪の罰』をキリストが受けてくださったからです。」という教えを聞いても、まったく理解することは不可能なのは当然と言えるでしょう。

 

それゆえ、前述の富田牧師が指摘している様々な悪影響が起こっています。

 

さらに『贖罪論こそがクリスチャンを堕落させている諸悪の根源なのではないか』という疑問が生まれました。ということになっても至極当然だと思います。

 

 

さて、旧約聖書の教えを理解することは不可能と思える現在の日本人たちに教える「私自身の聖書解釈と福音理解」は次のようになります。

 

イエス・キリストの受難、十字架の贖いについてです。

 

イエスさま御自身が苦しんで、苦しんで苦しみの中で十字架にかけられて死なれたのです。

 

「 しかし、イエスは黙っておられた。それで大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

 

イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

 

すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒瀆だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。

どう考えますか。」

 

彼らは答えて、「彼は死刑に当たる」と言った。

 

そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、

 

こう言った。

「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。(マタイの福音書26章63~68)」

 

「祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群集を説きつけた。

 

しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」

彼らは言った。「バラバだ。」

 

ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」

彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」

 

だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」

しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。

 

そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。

 

「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」

 

すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」

 

そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。(マタイの福音書27章20~26節)」

 

(むち打ちは、先に動物の骨や金属片などを埋め込んだものでも、数えきれないほどムチ打ちを受けました。

 

それゆえ、体の肉は無数に裂かれて、多くの血が流されて重症です。)

 

「それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。

 

そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」

 

また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。

 

こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。

 

そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。

 

ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、

彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒をのませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。

 

こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわって、イエスの見張りをした。

 

また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

 

そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。

 

道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

 

同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

 

「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

 

彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。

 

イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

 

さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。

 

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。

 

これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイの福音書29~46節)」

 

 

「わたしの神よ、わたしの神よ

なぜわたしをお見捨てになるのか。

 

なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず

呻きも言葉も聞いてくださらないのか。

 

わたしは虫けら、とても人とはいえない。

人間の屑、民の恥。

 

わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い

唇を突き出し、頭を振る。

 

『主に頼んで救ってもらうがよい。

主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。』

 

苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

雄牛が群がってわたしを囲み、バシャンの猛牛がわたしに迫る。

 

餌食を前にした獅子のようにうなり

牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。

 

わたしは水となって注ぎ出され

骨はことごとくはずれ

 

心は胸の中で蝋のように溶ける。

 

口は渇いて素焼きのかけらとなり

舌は上顎にはり付く。

 

あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。

 

犬どもがわたしを取り囲み

さいなむ者が群がってわたしを囲み

獅子のようにわたしの手足を砕く。

 

骨が数えられる程になったわたしのからだを

彼らはさらしものにして眺め

 

わたしの着物を分け

衣を取ろうとしてくじを引く。」

 

(詩編 22章2~19節 ダビデの詩より、マタイ27章15~49節のイエス・キリストの受難と一致している箇所を引用)

 

 

このイエス・キリストの受難は、人間の残酷な罪の餌食となり、人の罪を背負われたことがわかります。

 

人は生きていくと、人間の残酷な罪の餌食になる時があります。

 

学校や職場などでの壮絶なイジメ、パワハラ、セクハラなど、

 

また、家庭での親などからの壮絶な暴力・暴言・虐待・性的虐待

 

それからレイプ被害、拉致、監禁、事件、事故などなど

 

それは体験した人でないと本当に理解することは出来ないでしょう。

 

イエス・キリストの受難・十字架上の贖いは、神ご自身が体験されたのです。

 

「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

 

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。

 

罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

 

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル人への手紙4章14~16節)」

 

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、

 

彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、

神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。(へブル人への手紙5章8~10節)」

 

 

ですから、イエスさまの受難・十字架の贖いは、人間の残酷な罪の餌食となった人々と同じような痛み、苦しみ、悲しみ、絶望、暗闇に神ご自身が会われたという聖書解釈と福音理解となります。

 

長くなったので、次回からさらに詳しく見ていきます。

 

つづく

 

 

 

「日本におけるキリスト教の真実 ⑫ イエス・キリスト以外に救いはないという聖書解釈と福音理解」

 

日本のキリスト教会で最も多い信徒数は、東京基督教大学の国際宣教センター内に設置されている日本宣教リサーチ(JMR)の「JMR調査レポート(2018年版)」によれば、

 

クリスチャン人口は105万人。

 

その内、カトリックが44万人で、次に、プロテスタント教会では最も群を抜いて信徒数が多い「福音派」です。約35万人~40万人の間でしょうか。

 

ですから、日本のクリスチャンの約80%が、カトリックとプロテスタント福音派のクリスチャンということになります。

 

そのカトリック教会の80代の司祭のメッセージです。

「私は、自分がカトリックであることをとてもうれしく思います。

以前は『教会の外に救いなし』と教えられていたけれども、第二バチカン公会議は、そのことを認めながらも、

その教会の範囲を広げて、教会には境目がなく、すべての人がその中に含まれていると教えました。

 

もしそうだったら、誰でもうれしく思うでしょうが、世の中の悪と罪の現実をどう説明する、また人が神を拒むことを否定するのか。

 

もし、皆同じだとしたら、地獄は閉鎖される。が、イエスが言われた『主よ、主よという者が皆、天の国に入るのではない』、

 

また、左に置かれた者に『永遠の火に行け』、さらに『信じて洗礼を受けるものは救われる、信じないものは罰を受ける』ということばをどう解釈するか。聖書の改訂版を出すべきでしょうか。」

 

引用以上

 

この司祭と同じ考えの司祭は多く、カトリックでは現在も『教会の外に救いなし』という教えが根強く残っているそうです。

 

 

そして、プロテスタント福音派の最も大切で根本となる教えが「イエス・キリストを信じる以外に救いはなし」というのは次の御言葉からの聖書解釈と福音理解です。

 

「5 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。

6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。

 

7 彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問しだした。

 

8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。

 

9 私たちがきょう取り調べられていつのが、病人に行った良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、

 

10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。

 

11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。

 

12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

 

13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかってきた。

 

14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

(使徒の働き4章5~14節)」

 

この中の12節だけを切り取って、「イエス・キリストを信じる以外に救いはない」という聖書解釈と福音理解になります。

 

 

さらに、毎度おなじみになりましたが、このヨハネの福音書三章十六節の教えです。

「1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。

 

2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。

 

神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。』

 

その、イエス・キリストの御業のしるしによって、神の元から来られたことを信じたパリサイ人のニコデモに、イエスは言われた。

 

16 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネの福音書三章十六節」

 

この御言葉を福音の中心に置くことで、「イエス・キリストを信じる以外に救いはない」ということに確信をさらに強めます。

 

 

さらに、次の御言葉もよく使われます。

 

「22 群集もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、

23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。

 

24 この命令を受けた看守は、ふたりの奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。

 

25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

 

26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

 

27 目を覚ました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。

 

28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。

 

29 看守はあかりを取り、駆け込んで来た、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。

 

30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。

 

31 ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』と言った。

 

32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。(使徒の働き16章22~32節)」

 

この中の31節の御言葉だけを切り取って、「イエス・キリストを信じる以外に救いはない」という聖書解釈と福音理解となります。

 

 

つまり、いずれの御言葉にも共通していることは「イエス・キリストを信じる以外に救いはない」という教えを根本に植え付けるのです。

 

すると、「イエス・キリストを信じない人々は滅びに向かっていて、そのまま死ねば、罪を持ったままなので永遠に炎の中に投げ込まれます。」という教えが確立されます。

 

それゆえ、「クリスチャンは天国、イエス・キリストを信じていない人々は地獄へ行く」という教えに確信をもたらせます。

 

さらに贖罪論でこの上ない確信をもたらせるのです。

 

 

さて、前述の御言葉、「使徒の働き4章5~14節」「ヨハネの福音書三章一~十八節「使徒の働き16章22~32節)」を何度か読んでみてください。

 

個人的には、いずれの御言葉も根本にある土台となる御言葉は次の御言葉だと確信しています。

 

34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはないか。

 

35 もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は破棄されるものではないから、

 

36 『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。

 

37 もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。

 

38 しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。

 

それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。(ヨハネの福音書10章34~38節」

 

 

つまり、いずれの御言葉の教えに共通しているのは「イエスさまの父の御業を行なっているなら信じなさい。行なっていなければ信じないでいなさい」という教えが根本的に植え付けられているという聖書解釈と福音理解となります。

 

なので、いずれの御言葉の共通する根本的な教えは「イエス・キリストを信じる以外に救いはない」という聖書解釈と福音理解には絶対にならないはずです。

 

というか無理があり過ぎるでしょう。

 

次は贖罪論について見ていきます。

「イクトゥス・ラボ」のケン・フォーセット氏の記事から引用します。

 

「刑罰代償説 (Penal Substitution Theory)

アンセルムスの満足説は、それまでの贖罪論よりも、人間の罪深さが義なる神との関係を破壊したという側面を強調したが、宗教改革者たち、特にジャン・カルヴァンは、キリストの死を神による罰だと説き、人間の罪を「法的」なものとして扱った。

 

神がその義の性質ゆえに罪を見過ごすことができず、罪を犯した人間は本来神によって永遠の罰を受けるべきだったのを、キリストが代わりにその罰を受けて死んでくださったということである。

現在、多くのプロテスタント教会ではこの説が受け入れられている。」

 

引用以上

 

この「贖罪論」について見ていきます。

 

つづく

 

1人、テキストの画像のようです

 

 

「日本におけるキリスト教の真実 ⑪ 人間の死についての聖書の教え」

 

2025年の初めに人間の死についてを記事にすることになったのは今年は非常に特別な年になる予感がしています。

 

日本の名優で最も人気の高いと言われている「高倉健」さんの著書「あなたに褒められたくて」の中で、愛する母親の死について赤裸々に語っておられました。

 

本のタイトルにあるのは、最愛の母に褒められたくて人生を生きてこられたことが伝わります。

 

また、高倉健さんも高倉健さんのお母様もクリスチャンではないこともわかりました。

 

私の母親も人生の幕を閉じる最後の日まで息子の幸せだけを願っているほど愛してくれました。

 

その告別式には、とても純粋で可愛いいいとこ姪が10代で人生の幕を閉じたというショッキングなことが伝えられました。

 

私の母も可愛いいいとこ姪もクリスチャンではありません。

 

もしもプロテスタント福音派の教会に所属していれば、絶えられなかったでしょう。

 

というのは、福音の中心である御言葉「ヨハネの福音書三章十六~十八節」によって、イエス・キリストを信じていない人々は滅びに向かっていて、そのまま死ねば永遠の火に投げ込まれて、永遠にもがき苦しむという聖書解釈と福音理解だからです。

 

 

実際に経験してわかったことですが、愛する者たちの死というのは、その現実を受け入れようとすれば体が引き裂かれるというか、頭の線がプツンと切れて気が遠くなりそうというか、まともに生きていくことができない状態になりそうです。

 

ですから、現実を深く考えない、受け入れる手前でとめる。悪い夢を見ているかのような、それでいて心にポッカリ穴が開いた状態が続きます。

 

高倉健さんは母の遺骨をかじったほどで、気が狂ったと思われたことが書かれていました。

 

まして、親よりも先に子が人生の幕を閉じるというのは、残酷すぎます。

 

神も仏もないという心境になるでしょう。

 

聖書の教えでは「慰められることを拒んでいる状態」であり、「悲しみに悲しみが重なっている状態」です。

 

それでキリスト教の教えが、「イエス・キリストを信じていない人々は永遠の刑罰に入り、永遠に炎の中でもがき苦しむ」というのです。

 

そのような聖書解釈と福音理解を聞けば、愛する者を亡くされているイエス・キリストを信じていない約99%の日本人(隣人)たちは呆れたり、苦しんだり、悲しんだり、激怒したり、絶望したりします。

 

それゆえ、『隣人に害を与える教え』になっているといっても過言ではないでしょう。

 

しかし、牧師やクリスチャンたちは平然と「それが真理です。聖書に「 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

 

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」

 

「イエス・キリストを信じる以外に救いはない!」とはっきりと真理が教えられているのですから、人間のヒューマニズムによって、その聖書のイエスさまの真理の教えを否定してはいけません!と教えます。

 

 

さて、そのプロテスタント福音派の教会の教えに反する聖書解釈と福音理解を伝えていれば、何人もの牧師やクリスチャンたちから批判非難の嵐を受けて

 

「この異端が!」「あなたは神学校へ行って学ばなければならない!」とよく言われました。

 

神学校(福音派の神学校)で学べば、プロテスタント福音派の教えに洗脳されて、「イエス・キリストを信じなければ地獄へ行く」という教えに確信を持てるようになるからです。

 

私はお断りして、家でアニメ「フランダースの犬や「小公女セーラ」「宇宙戦艦ヤマト」テレビドラマ「ひとつ屋根の下2」「救命病棟24時」など、人の命の大切さを学ぶほうが恵まれます。

 

そして、無教会の内村鑑三先生の次の教えを知って、衝撃を受けて目が覚めました。

 

(原著:内村鑑三 現代語化:さかまき氏)

 

「確かに、私は人を救うために伝道に従事しない。これは、私には絶対にできないことである。

 

私は未だかつて、ただの一人も救ったことはない。

 

〔また〕たとえ、〔私に〕救うことができたとしても、世界の人口は15億余り〔現在の人口は約76億人〕であって、その中の千人や万人を救ったところで、その他〔の者たち〕はどうなるのか。

 

私は、その人たちが滅び行くのを見て、耐えられるだろうか。

 

​もし、人類の救済がわれわれ少数の伝道者の尽力によるもの〔とする〕ならば、人類を救済することは絶望的な努力である〔としか言いようがない〕。

 

私は、私のすべての祖先と十数億の同胞とを残して、ただ少数の信徒〔のみ〕と一緒に天国に行くことは耐えられない。

 

「そのような場合には、私は、世の最大多数〔の人々〕と永遠の運命を共にしたいと願う。」

 

私は、わずかに百人や千人の人〔だけ〕を救い得て、他〔の人々〕はすべて永遠の死〔滅〕にゆだねなければならないような、そんな絶望的な仕事に〔は〕従事したくない。

 

引用以上

 

この内村先生の教えによって、自分の気持ちに正直に生きていけると思いました。

 

しかしながら、そのように生きるためには、聖書解釈と福音理解によって確信を得なければなりません。

 

 

さらに、内村先生の聖書解釈と福音理解の方法は、聖書の一部分で判断するのではなく聖書全体から、また聖書の時代と現代のことその背景などを詳しく見ていきながらという感じで、奥が深いです。

 

私もそのように心掛けながら、自分の気持ちに正直な思いと聖書解釈と福音理解が一致できるのか、聖書の教えを徹底的に調べて、こうしてブログ記事で発表しているわけです。

 

 

さて、イエスさまの地上で福音宣教されている時代のイスラエルで、「イエスさまを信じない人々」と言われる代表格が「律法学者とパリサイ人(パリサイ派の人々)」です。

 

イエスさまは次のように警告されました。

 

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓のその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。

 

そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

 

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、

 

『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。

 

こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。

 

おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

 

だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。

 

それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。

 

まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。」

 

 

しかしながらイエスさまは、パリサイ人の中で、イエスさまを神のもとから来られた教師であることを知っているニコデモに対しては

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネの福音書三章十六節)」と教えられたわけですが、

 

それは救いをもたらす教えではなく、ニコデモのように、イエスさまの御業を見て信じたパリサイ人たちに確信を与えるものでした。

 

なぜなら、パリサイ人たちは、イエスさまが言われた通り、父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たし続けたからです。

 

イエスさまを殺す計画を立てて、実行しました。

 

そして、イエスさまが十字架上で死に三日後に復活されて、昇天された後、使徒たちクリスチャンたちは、イエスさまの教え通りに生きます。

 

「 あなたがたは、世界の光です。

 

あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイの福音書5章16節)」

 

このイエスさまの教えを忠実に行っていることが聖書に書き記されています。

 

「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。

 

ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。

 

そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。

 

ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。

 

また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。(使徒の働き12~16節)」

 

 

それでも、パリサイ人たちは、父親である悪魔の欲望を満たすごとく、父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たします。

 

教会に対する激しい迫害を起こしました。

 

人々に尊敬されているクリスチャンたちを男も女も捕らえて、殺していったのです。

 

そのことについて、次のように書かれています。

 

「それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。

 

このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。

 

つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、

苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。

 

そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。

 

そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。

 

そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(テサロニケ人への手紙 第二1章4~9節)」

 

 

さて、現在の日本人はどうでしょうか?

 

もしも現在の日本人がその聖書が教えるイスラエルの初代教会の時代に共に生きていれば、

 

イエス・キリストを信じていなくても、クリスチャンたちを迫害し、捕らえて殺そうなどと思うはずがありません。

 

世界の光となって、すべての病いをいやしてくださる使徒たちとクリスチャンたちを尊敬して、生涯の友とすることでしょう。

 

愛する者の病いをいやしてくださった初代教会の使徒たちとクリスチャンたちは「命の恩人」です。

 

その命の恩人たちが、激しい迫害にあって、最も小さい者たちとなり、着るものもなく、飢えて、渇き、病いになり、さまよう旅人となれば、助けるのが、現在の日本人の生き方でしょう。

 

イエスさまは最後の審判において、そのような正しい人々は「永遠のいのちに入るのです。」と宣言されました。

 

あなたの地上での人生の幕を閉じた愛する人は、どのような人でしたか?

 

目の前に、最も小さき者のひとりが助けを求めている時に、助ける人であれば、イエスさまは次のように告げられます。

 

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』

 

つまり、先に人生の幕を閉じた愛する人たちと、備えられた御国でまた逢えるのです。

 

イエスさまはこう告げられます。

 

慰められることを拒んでいる人たちよ、あなたの将来には望みがある。

愛する人は自分の国に帰って来る。

 

だから、泣きやむがよい。

 

あなたに立てている神の計画は災いではなく、平安を与えるものであり、将来に望みを与えるものだから。

 

 

そして、クリスチャンたちには次のように教えられます。

 

「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

 

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、

 

それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。

 

愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(ローマ人への手紙13章8~10節)」

 

クリスチャンが隣人を愛しているという証明は、隣人に害を与えているか、害を与えていないかで証明されます。

 

次回は、神が死んだ人とご遺族をあわれんで、また逢わせてくださることによって、多くの人々がイエス・キリストを信じたことについて見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ➉ プロテスタント教会の実態について」

 

今回は、プロテスタント教会の実態と、どうして聖書解釈と福音理解がまるで違ってくるのかについて見ていきます。

 

東京基督教大学の国際宣教センター内に設置されている日本宣教リサーチ(JMR)の「JMR調査レポート(2018年版)」によれば、

 

教派別では、カトリックが44万人(対人口比0・35%)、オーソドックスが1万人(同0・01%)、プロテスタントが60万人(同0・47%)。教会数の概数はそれぞれ、970、70、8000で、日本には約9040のキリスト教会が存在することになる。教師数(聖職者数)は約1万700人だった。

 

このうちプロテスタント(聖公会を含む)については、教団別の統計が出ている。

教会員数は、日本基督教団(16万7千人)が最も多く、2位が日本聖公会(4万8千人)、3位が日本バプテスト連盟(3万4千人)、4位が日本福音ルーテル教会(2万2千人)、5位が日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(1万2千人)だった。

 

引用以上

 

 

まずは日本のプロテスタント教会は、最も信徒数が多いのは「日本キリスト教団(日本基督教団)」です。

 

しかしながら、その実態は実に衝撃的なものです。

 

2005年発行のクリスチャン精神科医「工藤信夫」氏の著書「これからのキリスト教」の最初のページを引用します。

 

工藤医師が親しくされている引退牧師の伝道礼拝で語られたメッセージの要点をまとめたものです。

 

「私の属している教団の十三年間の統計を見ると、信徒総数は約20万人で、陪餐会員は約十万人。

 

そして現実に礼拝に出席する会員は六万人という統計が出ています。

 

しかし、厳密に言うとその六万は全部会員とは限りません。

求道者とか、会堂の見学とか、たまたま来た人とか。

そういうのを引くと五万人と考えられます。

 

つまり大ざっぱな話ですが、私どもの教団の信徒二十万人のうちの半分の十万はすでに信仰を失っており、

 

実際に教会と生きた関係をもっているはずの現住陪餐会員の半数五万人は教会に魅力を感じなくなっていると言えます。」

 

引用以上

 

 

その後、『日本基督教団年鑑』の最新版となる2024年版によれば、「日本キリスト教団の日曜礼拝出席数」は、2022年度の日曜礼拝出席数は3万7930人です。

 

2019年度が4万8219人と言う公表でした。

 

この推移を見ていると、かなり衝撃的です。10年後には2万人弱になっても不思議ではない状況だと思えます。

 

 

聖公会の信徒数は、文化庁編宗教年鑑平成30年版によると、信者数はおよそ48,500人ですので、ほとんど変わっていません。

 

プロテスタント教会の全体が約60万人ですので、そのうち福音派は約35~40万人と推測できます。

 

しかし、日曜礼拝出席者数のデーターが重要ですが、残念ながら日本キリスト教団のように公表はされていないのでわかりません。

 

どうして、プロテスタント教会の日本キリスト教団は劇的に衰退しているのか?

 

個人的には「聖書論」の違いがあると思います。

 

日本キリスト教団の齋藤真行牧師がYouTubeで福音派とエキュメニカル派(日本キリスト教団)の聖書論の違いを説明していますが、まさに的を得ていると思ったので、そこから引用します。

 

エキュメニカル派(日本キリスト教団)も福音派も共通しているところは、聖書は神の言葉と信じている。聖書の霊感を信じている。聖書には誤りがないと信じている。

 

ところが、その内容をみていくと重要な違いがある。

 

「エキュメニカル派(日本キリスト教団)は、聖書は神の恵みの手段、聖書の言葉それ自体より、言葉の示す思想、対象、意味内容に注目する。

 

そのために、聖書解釈では自由な発想をする。シンボル・メタファー・暗喩的解釈も許容する。

 

また、世の中の諸文化、学問に対して開放的になり、対話が成立する。その反面、それらかの影響を受けやすく、世俗化してしまう。

 

「聖書」は信仰と生活の規範という点においては誤りがないが、歴史的・科学的には誤りもあるという立場(聖書の無謬性を認める立場)

 

 

福音派は、聖書はそれ自体が神の言葉。聖書を読むことは神の言葉を聴くこと。聖書の言葉自体に注目

 

聖書解釈では「字義的解釈」をし、シンボル・メタファー・暗喩的解釈のような種々の解釈は認めない(傾向である)

 

世の中の諸文化・学問に対して閉鎖的になり、対話がしにくい。

その反面、それらからの影響を受けにくいが、世の常識から外れる。世の中から離れてしまう

 

聖書はあらゆる点において(歴史的・科学的にも)誤りがないという立場

 

聖書の無誤性を認める立場

 

引用以上

 

 

私自身は長年、福音派の教会に属していましたので、YouTubeなどでいくつもの日本キリスト教団の牧師のメッセージを拝聴して驚きました。

 

何というか世俗的なものを感じましたし、聖書以外の教えも紹介したり、教えが優柔不断のように感じたからです。

 

聖書を読めば、イエス・キリストの教えは世俗的ではありませんし、聖書以外の教えはされません。また次のように権威ある教え方です。

 

「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。

というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。(マタイの福音書7章28~29節)

 

 

日本人はアメリカ人などから、YESかNOと決めずに曖昧だと言われますが、政治や宗教には確かな答えを明確にすることを求めている傾向にあります。

 

ですから、福音派のように聖書の御言葉を用いて「イエスさまはこう言われています!」などと答えを明確に教えるほうが魅力的です。

 

 

しかしながら、福音派の聖書の御言葉を用いて答えを明確にする教えには大きな特徴があります。

 

それは「キリストの救い」について最も大切で中心的な御言葉をヨハネの福音書三章十六節に定義していることです。

 

福音派の教会の重鎮のひとり「舟喜順一」牧師は、聖書宣教会を羽鳥明牧師とD・E・ホーク牧師とともに創設し、聖書同盟を設立し、新改訳聖書編集主事と理事長を歴任されました。

 

その舟喜牧師の著書「聖書の教える救いについて」から引用します。

 

冒頭のタイトル 「救われる」(永遠のいのちを持つ)ヨハネの福音書三章十六節 

 

「ここでまず、救いのことを明確に述べている聖書の箇所として、ヨハネの福音書三章十六ー十八を読んでみましょう。

 

16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 

この箇所は、聖書の中でも最もよく知られたところなので、ご存じの方も多いでしょう。

 

特に十六節は、聖書の中でも大事な中心的なことばです。

 

ここで分かることは、神がこの十六節に言われている方であるということです。

 

引用以上

 

 

舟喜牧師のように、カリスマ牧師たちは「ヨハネの福音書三章十六節」を聖書の中で大事な中心的な御言葉として教えています。

 

あのミクタムレコード設立で、福音派の教会の賛美に革命を起こされた、世の中でも活躍されたミュージシャンの「小坂忠」牧師もヨハネの福音書三章十六節を英語で言う「John 3:16」という御言葉を熱心に伝えていたことで有名です。

 

またテレビ番組『ライフ・ライン』は、1980年より、タイトルなどを変えながら日本各地の民放テレビ局で放映している「プロテスタント伝道番組」です。

 

もう44年も続いていますが、番組のメインの司会とメインメッセンジャーの関根弘興牧師も、ヨハネの福音書三章十六節を大事な中心的な教えとしていて、

 

その番組のメッセージにおいて、

何度も「イエス・キリストを信じていない人々は滅びに向かっています。」と断言しています。

 

 

このヨハネの福音書三章十六~十八節に着目すると、イエス・キリストを信じているクリスチャンたちにとっては「永遠のいのちを持つ」という最高に喜ばしい御言葉ですが、

 

まだイエス・キリストを信じていない人々にとっては「滅びに向かっていて、さばかれる」という相当めちゃくちゃ非常に恐ろしい教えです。

 

私が福音派の教会に所属していた時、親しくなったクリスチャンたちと牧師の聖書解釈と福音理解について、よく批判非難していました。

 

特にヨハネの福音書三章十六節~十八節の教えなど、「イエス・キリストを信じていない人を憎んでいる教えだ!どこが神は愛だ!」と非難していたものです。

 

しかし、福音派の教会にとどまっていたのは、もしも教会から離れたら、永遠のいのちを手放すという恐怖があったからです。

 

また、牧師や伝道師、信徒リーダーたち(教会の教師たち)は尊敬も信頼もできませんでしたが、信徒たちとは仲が良かったので、教会に行くのは楽しみだったこともあります。

 

 

さて、現在は、どこのキリスト教会にも所属していない、あの尊敬するクリスチャンのアフガニスタンで殉教された「中村哲」医師と同じような無教会のクリスチャンになりました。

 

その立場からヨハネの福音書三章十六~十八節の聖書解釈と福音理解をすると次のようになります。

 

このイエスさまの御言葉は誰に教えたのかを見ていきます。

 

1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。

2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。

「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。

 

神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。(ヨハネの福音書三章1~2節」

 

つまり、ユダヤ人の指導者のパリサイ人であるニコデモが、夜、秘密裏にイエスさまを訪ねて来ました。

 

そのパリサイ人のニコデモに教えていることです。

 

このパリサイ人に対して、イエスさまは次のように警告されました。

 

「29 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、

30 『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。

 

31 こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。

 

32 おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 

33 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

 

34 だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。

 

35 それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。

 

36 まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。(マタイの福音書23章29~36節)」

 

 

このように、パリサイ人はゲヘナ(火の池)の刑罰を免れない者たちでした。

 

つまり明確に滅びに向かっている人たちです。

 

その理由も「義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。」と明確に教えられています。

 

しかし、その中でもニコデモのように、イエス・キリストが行われるしるしを見て、イエスさまが神のもとから来られた教師であることを知っています。と救いに導かれる人たちが起こされたのです。

 

ヨハネの福音書三章十六節~十八節の教えは、ゲヘナ(火の池)の刑罰を免れることができないという滅びに向かっているパリサイ人の中で、イエスさまを神のもとから来られたことを信じた人に対する教えです。

 

ですから、聖書の教えをそのまま伝えれば、現在の日本のイエス・キリストを信じていない人々に対しての教えではないことがわかります。

 

現在の日本人の先祖は、イエスさまが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、そのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行ったりしたことはないのですから。

 

また、ユダヤ人にはユダヤ人のように、パリサイ人にはパリサイ人のように、現在の日本人には現在の日本人のようにです。

 

すべての人と平和を追い求め、平和をつくる者は神の子どもと呼ばれます。

 

このような聖書解釈と福音理解をしています。

 

 

このように、キリスト教の教えでも聖書解釈と福音理解は、まるで違っています。

 

また、無教会でもまったく違います。

 

次もそのことについて見ていきます。

 

つづく

「日本におけるキリスト教の真実 ⑨ 人間の死と死後についての教え」

 

キリスト教会において「人間の死と死後についての教え」は大きく異なります。

 

プロテスタント福音派の教会では、日本の福音派の教会で最も多い信徒数(約2千人)を誇る大和カルバリーチャペルの大川従道主任牧師は著書「永遠と復活」の中で次のように教えています。

 

「罪が赦される唯一の方法が『イエス・キリスト』を地上にいる間に信じることで、それなくして死んでいった人たちは、天国に行くことができない、

 

つまり地獄へ行くのである、と教えてきました。

 

『罪の代価は死である』から、その帰結として、罪赦されることなく死んでいく者は、天国に行けずに、地獄へ行く…

 

私も子どもの頃から、そう教えられてきました。

 

私が幼かった頃からすでに、ほとんど例外なく、教会ではそのように教えられていたようですから、私の生まれるずっと前から、100年以上そのような考えと教え(神学)の中で教会は営まれてきたのだと思います…」

 

引用以上

 

 

私は長年、プロテスタント福音派の教会に所属していて、超教派の聖会にもたくさん出席して、多くの牧師、世界中の有名な牧師のメッセージを見聞きしてきました。

 

前述の大川主任牧師が教えている通り「イエス・キリストを信じていない人々は罪が赦されていない状態なので、そのまま死んでしまえば永遠の炎の中に入り、永遠にもがき苦しむことになる。」という教えで、福音派の教会の世界中のすべての牧師が一致していました。

 

 

ただ、それは正しい教えだけれど、そのまま教えるのはよくないという牧師も増えています。それは次の御言葉からです。

 

「モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。

 

しかし、信仰による義はこう言います。『あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを引き降ろすことです。

 

また、『だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを死者の中から引き上げることなのです。

 

では、どう言っていますか。『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。(ローマ人への手紙10章5~8節)」

 

この聖書箇所だけを切り取って、誰が天国に行って、誰が地獄に行くかなどと言ってはいけない。

 

それはイエスさまが決められることなのです。

 

なのに、天国で逢えるなどと言ってしまえば、神に代わって、自分自身が神となっているのです。

 

このような教えを言い放つ牧師やクリスチャンたちが増えてきています。

 

 

しかし、このローマ人への手紙10章の教えは申命記30章の引用です。

 

「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。

 

これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。

 

また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。

 

まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。(申命記30章11~14節)」

 

 

つまり、神の御言葉は、誰かが天に上ったり、地の奥底に下ったりしなくても、「神の御言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。という教えです。

 

 

では、人間の死と死後について、聖書の神の御言葉はどのように教えられているのか、見てみましょう。

 

「その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。

 

その年齢は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。

 

そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。

 

『ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。

 

ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。』(マタイの福音書2章15~18節)」

 

「また祭司のたましいを髄で飽かせ、わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。―主の御告げ―

 

主はこう仰せられる。

『聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。

 

慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。』

 

主はこう仰せられる。

「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。

 

―主の御告げ―彼らは敵の国から帰って来る。

 

あなたの将来には望みがある。

 

―主の御告げ―あなたの子らは自分の国に帰って来る。(エレミヤ書31章14~17節)」

 

 

さて、何と教えられているでしょう。

 

子どもたちがいなくなった母親は、慰められることを拒んで泣いています。

 

そのような暗闇と絶望、深い悲しみの中にいる人に、神さまはこのように告げられました。

 

「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。

 

―主の御告げ―彼らは敵の国から帰って来る。

 

あなたの将来には望みがある。

―主の御告げ―あなたの子らは自分の国に帰って来る。」

 

 

主イエスは、子どもたちは死んで終わりではなく、敵の国から自分の国に帰って来る。

 

その自分の国(天国)でまた逢えるという将来の望みを告げられたのです。

 

愛する人が死んで、もはや慰められることを拒んで、暗闇と絶望、深い悲しみの中にいる人々たちに

 

「神による将来の希望の御言葉を宣べ伝えなさい」と主イエスは教えているのです。

 

 

聖書には、人間の死に対して、将来に望みを与える御言葉にあふれています。

 

「イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。

 

『私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。』

 

イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て言われた。

 

『あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。』すると、彼らはイエスをあざ笑った。

 

イエスは群集を外に出してから、うちにお入りになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。

 

このうわさはその地方全体に広まった。(マタイの福音書9章18,19、23~26節)」

 

 

「イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。

 

主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた。

 

そして近寄って棺にに手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた。

 

すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。

 

人々は恐れを抱き、『大預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がその民を顧みてくださった』などと言って、神をあがめた。

 

イエスについてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった。(ルカによる福音書7章12~17節)」

 

 

「主はその母親を見てかわいそうに思い」と訳されていますが、この「かわいそうに」というのは、ギリシャ語スプランクニゾマイという動詞です。

 

内臓という言葉が組み込まれた動詞です。

 

腸がちぎれるほどの思いが、この「かわいそうに思い」という言葉の意味です。

 

十字架上で主イエスは脇腹を槍で刺された痛みです。

 

息子を亡くした母親と、十字架のイエスさまに示される共感・共苦が、スプランクニゾマイという動詞に表れています。

 

 

そして、使徒パウロは信仰の友の死について、次のように教えています。

 

「 しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。

 

彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。

 

ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。

 

彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。

 

そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。

 

ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。(ピリピ人への手紙2章25~29節)」

 

 

エパフロデトの死は、使徒パウロにとって悲しみに悲しみが重なることでした。

 

神は彼をあわれんで、死ぬほどの病気から生かしてくださったのです。

 

もし死んでいれば、信仰の友の死は、あの偉大な信仰者の使徒パウロでさえも悲しみに悲しみが重なるほどなのです。

 

ですから、信仰が乏しいクリスチャンなら、愛する者の死は耐えられないほどの悲しみであります。

 

「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。

 

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙第一10章13節)」

 

 

まだまだありますが、これらの御言葉によって、愛する者の死と死後について、将来に平安と希望を与える御言葉を宣べ伝えることが、神の御心だと確信しています。

 

主イエスは、愛する者が死んで、慰められることを拒んでいる大勢の人たちにこのように教えられるのです。

 

「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。

 

―主の御告げ―彼らは敵の国から帰って来る。

 

あなたの将来には望みがある。

 

―主の御告げ―あなたの子らは自分の国に帰って来る。

 

神さまは、愛する者の死で暗闇と絶望、深い悲しみの中にいる人々に、自分の国(天国)でまた逢えるという将来の望みを告げられています。

 

その、将来に希望と平安を与える御言葉を宣べ伝えていきます。

 

 

 

「日本におけるキリスト教の真実 ⑧ 神の御心を行なう者が天の御国に入ります」

 

2024年は私にとって母親が地上での人生の幕を閉じるという非常に悲しい年になりました。

 

母は長女ですが、弟2人、妹1人が次々に若くして亡くなり、死を恐れるようになっていました。

 

そして、2021年に新型コロナウイルスのファイザー社ワクチンを接種した後で、激しい激痛によって救急搬送されました。

 

それから買い物に行けない体となり、ますます死を恐れるようになり、過敏性腸症候群を発症しました。

 

昨年の夏ごろには救急車を何度も呼んだりしました。そして、時間がわからなくなったり、幻聴が聞こえて、自殺しなければならないという指令に従うようになりました。

 

それで生活安全課の警察官が親切丁寧に対応してくださり、強制入院させるために同行してくださったのです。

 

そこで認知症の診断がなされて、市の調査で「要介護4」と認定されました。

 

しばらくぶりに母に会った弟は、その時、母の死を覚悟したようです。

 

ところが劇的に良くなったのです。

幻聴も聞こえなくなり、元気に歩けて、記憶もしっかりしています。

 

 

私の父親は2005年に亡くなったのですが、いわゆる「毒親」でした。

 

母も私も弟も心の安らぎが大きかったので、葬式には涙は出ませんでした。

 

父親の実家は浄土真宗の檀家でしたし、母親の実家も浄土真宗でしたので、父の死後に全長135センチの仏壇を購入して、母は毎日、親鸞聖人さんに拝むようになりました。

 

ところが、過敏性腸症候群はまったく治りませんでした、いくら拝んでも無意味だと怒って、親鸞聖人さんに拝むのをやめました。

 

「苦しい時の神頼み」だったのです。

 

 

それから、母が会社努めをしていた時に、いつも電車の中で会っていた創価学会の婦人と再会したのが縁で、交流が始まりました。

 

その時に母は白内障の手術をするのに、付き添いが必要で、その創価学会の婦人が4回も病院に付き添ってくれたのです。

 

その内2回は、私が付き添うと言ったのですが、創価学会の婦人が「私が4回とも付き添う」と言い放って、母はその勢いに押されて、4回とも創価学会の婦人が付き添いました。

 

手術の日は7時間も付き添い、昼食もとらなかった創価学会の婦人に母は感動して、創価学会に入会すると言い出しました。

 

それが2023年のことです。

 

しかし、創価学会に祈ってもらっても、過敏性腸症候群は悪化する一方で、また、創価学会の婦人の親切は入会させるための手段だったことを感じ取って、怒って、創価学会の婦人とは縁を切りました。

 

そうして、2024年の強制入院から帰宅して、在宅介護が始まったわけです。

 

運よく、金曜日から火曜日までショートステイ、水曜と木曜はディサービス、毎日施設を利用することができました。

 

それから母は、自宅に帰って寝れることだけで感謝し始めました。

 

それでよく祈るのですが、浄土真宗の親鸞聖人さんに祈っていました。

 

 

私がクリスチャンであることをよく知っている母は、一時は「クリスチャンになるわ」と言って、キリスト教の祈りを教えてと頼まれたので教えたのですが、馴染めずに、すぐにやめています。

 

 

2023年1月、長編の書き下ろしノンフィクション作『証し 日本のキリスト者』を刊行された最相葉月氏。

 

北海道から沖縄、奄美、五島、小笠原まで全国の教会を訪ねられ、135人のキリスト者の声を聞くという、1000ページを超える大作です。

 

その最相さんは、インタビュー記事で次のように語っています。

 

「ひと言でいえば、自分はキリスト教というものを、まったくわかっていませんでした。

 

これまでも私はいわゆる一般的な日本人として、クリスマスのお祝いをしたことはありましたし、

 

出身大学の関西学院大学はミッションスクールで神学が必修でしたから、少しは勉強しました。

 

あるいはキリスト教作家として知られる遠藤周作の著作や映画なども読んだり観たりしていましたが、

 

いま振り返ってみれば、それらは「信仰とは何か?」という問題意識をもたなければ、まったく理解できないものでした。

 

ただ、それは「信仰しているから理解できる」というものではありません。

 

あくまで「信仰とは何か?」を問わなければスタートラインにすら立てない、ということです。」

 

引用以上

 

 

最相さんはミッションスクールの出身で、神学が必修なので勉強していても、全国のキリスト教会を訪ねて、信仰についての証を聞くと

 

「自分はキリスト教というものを、まったくわかっていませんでした。」と痛感されたのです。

 

2013年のデーターですが、日本の大学でキリスト教の大学は約10%です。

 

それにも関わらず、日本でのクリスチャン人口は約1%弱のままです。

 

なので、キリスト教の大学で神学を学んでも、実際に教会に通えば、最相さんのように「自分はキリスト教というものを、まったくわかっていませんでした。」ということが実態だと思います。

 

そして、教会に通う人はごくわずかと思われます。

 

最相さんが痛感されるように、あくまで「信仰とは何か?」を問わなければスタートラインにすら立てない、ということが的を得ていると思います。

 

私の母もそうでした。

 

 

私の母の場合は「苦しい時の神頼み」でした。

 

もしも過敏性腸症候群と認知症が癒されたら、その宗教を信じるということです。

 

これではスタートラインにすら立てないでしょう。

 

まして、馴染みのないキリスト教よりも、昔から馴染みのある浄土真宗の親鸞聖人さんに祈ってしまうこともわかりました。

 

 

さらに深刻なのは、キリスト教はすべて同じではなく、聖書解釈と福音理解がまるで違うという大きな問題もありました。

 

私の場合、プロテスタント福音派の教会に導かれたのですが、そこで出会って仲良くなったクリスチャンたちは皆、プロテスタント福音派の教会をやめています。

 

クリスチャンをやめた人も少なくありません。

 

まったくプロテスタント福音派の教会の聖書解釈と福音理解は理解不可能でした。

 

牧師のメッセージはいつも大きな矛盾を感じるものでしたが、教会の人たちの手前、「ええ?」「おかしすぎるぞ」と思いながら「アーメン!」と言い続けるのも疲れ果てていました。

 

他のカトリック教会や聖公会、正教会などの教えも調べまわりましたが、どれも納得することが出来ませんでした。

 

前述の最相葉月の著書『証し 日本のキリスト者』を購入して、読みました。

 

その中にはプロテスタント福音派の教会、日本のプロテスタント教会最大の日本基督教団、カトリック教会、正教会、聖公会、救世軍、無教会など、様々な証が掲載されていますが、どれも自分には合わないと思いました。

 

そのような状態で、母親や他の人たちにキリスト教の福音を伝えることは不可能です。

 

そして、どこの教会にも属していない約45万人のアフガニスタン人を救われた証がなされた中村哲先生を通して、内村鑑三先生の信仰を知りました。

 

内村先生は、高校の教科書でも紹介されていますが、天皇を神のように崇拝するような時代において「不敬事件」を起こして、壮絶な迫害を経験されました。

 

所属していた教会に迷惑がかかってはいけないので、個人で無教会を始めたのです。

 

その証によって、個人で無教会として始めればよいと確信して救われました。

 

 

しかし、長年にわたり、プロテスタント福音派の教会に所属していたために、福音派の教会の聖書解釈と福音理解を否定することに葛藤がありました。

 

2024年の春頃から吹っ切れたのです。

 

完全に吹っ切れて「日本におけるキリスト教の真実」を書き出しました。

 

それで、母親にもようやく福音を伝えられると思ったところで、母は突然に地上での人生の幕を閉じたのです。

 

ある日、突然でした。施設から連絡があり、突然に様子がおかしくなり、救急車を呼んでくれました。

それから13時間後です。

 

 

告別式の日に、親戚の10代の子も人生の幕を閉じたことを知らされました。

その子はとても良い子でした。

ある日突然だったそうです。

 

その子はまだ10代です。親の立場になれば「意味が分かりません。理解不能です。なんて理不尽すぎます。神も仏もないという話です。」

 

 

私の母もその10代の親戚の子もイエス・キリストをよく知りませんでした。

 

当然に信じることは不可能です。

 

 

私は死生観について、よく調べました。

 

仏教の親より早く死んだ子たちは、親不孝の罪で地獄へ行っているという教えなど論外です。

 

世界が震撼した非常に心が痛んだ池田小事件が起きた時、8人の子どもたちのご遺族たちは子どもたちは天使になったという願いを込めて「8エンジェルス」と名付けられていました。

 

なので、私は当時6カ所の教会でゴスペル教室を開催しているプロデューサーでしたので、池田小がある池田市のキリスト教会に電話して、「追悼コンサート」を開催したいと申し出ました。

 

しかし、牧師や神父たちは「どうして、そんな事を考えるのか」と否定的でした。

 

プロテスタント福音派の教会では「子どもたちはイエス・キリストを信じていないので、天国に行ったかどうかわからない」という理由で断られました。

 

その時、私は「キリスト教会は狂っている」と心の中で吐き捨てました。

 

御遺族の方のインタビューを聞けば、子どもたちはこの地上で、痛み苦しんで亡くなった、今も苦しんでいる。早くそばに行って一緒に苦しんであげたい」という悲痛な叫びです。

 

それなのに、キリスト教会は「子どもたちはイエス・キリストを信じていないという理由で、地獄に行き、永遠の刑罰に入ることになると思われる。

 

御子イエス・キリストを信じる者は永遠の命を持つが、信じない者は滅びる。

 

天下にイエス・キリストを信じる以外に救いは無いと聖書に書かれてある。

 

だけど、神のあわれみがあることを祈ります。」というような聖書解釈と福音理解を信じている。

 

個人的に正直に思ったことを言いますと、まさに狂っているとしか言いようがない。

 

もはや宗教ではなく、悪魔の欲望を満たす教えのように思いました。

 

あの内村鑑三先生は、未信者の奥さんと娘さんを亡くす経験をされていて、「そんな神さまなど信じない!」と言い放ちました。

 

その事を知って勇気づけられて、個人で聖書を徹底的に調べて、それを日々、ブログ記事にして発信しているわけです。

 

すると、聖書には明確にこのように教えています。

 

イエスさまの来臨時、イエス・キリストを信じている者たちは引き上げられて、空中で主イエスと会い、いつまでも主イエスと共にいることになります。

 

すると、地上では、イエス・キリストを信じていない人だけになります。

 

ですから、最後の審判のさばきの判断基準は至極当然ながら「イエス・キリストを信じているか、信じていないか」ということではありません。

 

地上に残されたすべての国民がイエス・キリストを信じていなかったのですから。

 

すると、どのような判断基準になるのか?

 

その神さまの答えは「最も小さい者たちのひとりが助けを求めていた時に助ける人であったか、助けない人であったか」でした。

助ける人たちは神の御心にかなう人たちでした。

 

これは、素晴らしいと思いました。

 

さらに、子どもたちについては、わたし(イエス・キリスト)のところに連れて来なさい。妨げてはいけません。と教えられています。

 

まさに無条件の無償の愛であります。

 

 

キリスト教の死生観では、肉体は滅びても霊魂は永遠に生き続けています。

 

死は終わりではなく、また、天国で逢えるのです。

 

その素晴らしい福音を伝え続けるのが、私の使命です。

 

これからも聖書の御言葉をありのままで伝えるだけです。

 

母の死を通して、その使命が明確にわかりました。

今年もよろしくお願いいたします。