「日本におけるキリスト教の真実 ⑮ 神の御心は、あわれみの神イエス・キリストを信じること」
前回で見た通り、イスラエルの神は「いけにえを好む神」でした。その聖書箇所の一部です。
「モーセはイスラエル人の全会衆を集めて彼らに言った。『これは、主が行えと命じられたことばである。
六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目には、主の聖なる全き休みの安息を守らなければならない。
この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。』(出エジプト記35章1,2節)」
「主はモーセに告げて仰せられた。
人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。(レビ記20章9,10節)」
*
そのために「いけにえを好むイスラエルの神」を信じて聞き従ってきた「イスラエルの民」は、皆で平然と罪を犯した人を殺すことが常識であり、習慣となっていました。
それゆえ、かなり過激な性格になっていることが聖書を読めばうかがえます。
例えば、ステパノの場合です。
「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。
証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた。使徒の働き7章57~60節)」
*
また、主イエスの場合です。
主イエスがイスラエルの民に成された神の御業は次の通りです。
「イエスは答えて、彼らに言われた。
『あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。』マタイの福音書11章4~6節)」
「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、『あの方は罪人のところに行って客となられた』と言ってつぶやいた。
ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。
また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』
イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』(ルカの福音書19章5~10節)」
*
つまり、主イエスがイスラエルの民に成されたことは、すべて素晴らしく、100%良い行ないだけでした。
現在でも、超超超素晴らしい!100%超絶に良い行ないが成されたことに感動することです。
死にたくなるほどの難病を癒やしてくださり、死んだ愛する者たちを生き返らせてくださる。
目が見えるようになり、歩けるようになり、聞こえるようにしてくださる。
日本ではオレオレ詐欺などで、老後のための貯金をだまし取られてどん底に落とされている高齢者の方々がたくさんいますが、それが4倍になって返されるのです。
まさにイエス・キリストは命の大恩人です。
そのような命の大恩人の主イエス・キリストを、イスラエルの民は次のような残酷な仕打ちをしたのです。
「ピラトは彼らに言った。『では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。』
彼らはいっせいに言った。『十字架につけろ。』
だが、ピラトは言った。『あの人がどんな悪い事をしたというのか。』
しかし、彼らはますます激しく『十字架につけろ』と叫び続けた。
そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で言った。
『この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。』
すると、民衆はみな答えて言った。
『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』(マタイの福音書27章22~25節)」
*
このイエスさまに対する残酷な仕打ちを見れば、イスラエルの民は非常に恐ろしい冷酷非道な、あわれみのかけらもなく、いけにえを超絶に好む民のように思います。
旧約聖書では、イスラエルの神が、イスラエルの民のことを「うなじのこわい民」と表現されるほどでした。
「牧師の書斎」のブログ記事から引用します。
「神が恋い慕って、選ばれ、愛された民は、なんと、『うなじのこわい民』であるということばが登場します。
しかもそれは、エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは逆らいどうしであった(9:7)と記されているのです。
『うなじのこわい』民(者)という表現は9章、10章に3回出てきます(9:6/9:13/10:16)申命記では他に31:27にも出てきます。
この『うなじのこわい』と訳されたことばはヘブル語の形容詞「カーシェ」(קָשֶׁה)、動詞は「カーシャー」(קָשָׁה)です。旧約では形容詞と動詞あわせて64回使われています。
本来の意味は、牛がくびきをかけられるのを嫌って抵抗する表現です。
それが『首がこわばる』『強情』『頑固』『手に負えない』様子を表わします。
『うなじのこわい』を日本語訳では『かたくなな』(新共同訳)、『強情な』(口語訳)、『項(うなじ)強(こわ)き』(関根訳)、『項を固くして』(岩波訳)と訳されています。
実に、神の言われることに耳を傾けず、聞くこともせず、訓戒を受け入れることもしようとしない『心をかたくなにする』民の姿を表わす表現です。」
引用以上
※
このままイスラエルの民が成長していけば、非常に恐ろしいことになる。
石で打ち殺していたのが、石から爆弾に変われば、いけにえを好んで、爆弾による無差別殺人が行なわれてしまうでしょう。
そのような思いがあるかの如く、イスラエルの神は「いけにえを好む神」を廃止する選択を成されました。
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」という神の御子イエス・キリストにすべての人類を任せられたのです。
ですから、主イエス・キリストは100%あわれみの神です。
イエスさまの十字架上の死によって、罪のためのいけにえと犠牲はなくなったのです。
*
いけにえを好むイスラエルの神は、一週間の7日目(安息日)に仕事をする者は誰でも殺されなければならない!と命じました。
しかし、あわれみを好むイエスさまは次のように真逆のことを教えられました。
「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
人の子は安息日の主です。」
イエスはそこを去って、会堂に入られた。
そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。
イエスは彼らに言われた。
「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。(マタイの福音書12章7~14節)」
*
また、いけにえを好むイスラエルの神は、人がもし、他人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならないと命じました。
しかし、あわれみを好む主イエスは、その真逆の教えを次のように成されています。
「そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。
「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。
それは、イエスを告発する理由を得るためであった。
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
彼女は言った。「だれもいません。」
そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネの福音書8章2~11節)〕
律法学者とパリサイ人は、イエス・キリストがあわれみを好む神であれば、イスラエルの神が命じられたモーセの律法とまるで違う教えになるので告発できると企みましたが、あわれみの神の教えは、それを上回ったのです。
※
いけにえを好む世界は、「あわれみを好むが、いけにえは好まない」と教えられる神の御子イエス・キリストによって、あわれみを好む世界へと変貌するはずでした。
しかし、非常に信じられないことが起きたのです。
なんとイエス・キリストを信じた人たちは、イエス・キリストを冷酷非道な超超超絶に「いけにえを好む神」に仕立て上げたのです。
それゆえ「イエス・キリストを信じない人々に救いはない!」という真理と教義、聖書解釈と福音理解を作り上げたのです。
それがカトリック教会の場合「教会の外に救いなし」という教えです。
それは、イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行くということが真理だというものです。
日本宣教のフランシスコ・ザビエルからカトリック教会のイエズス会への手紙には次のように書かれています。
「〔日本人には〕地獄に落ちた者になんの救いもないのはたいへん悪いことと思われ、神の教え〔キリスト教〕より、彼らの宗派の方がずっと慈悲に富んでいると言います。」
*
しかしながら、現在はカトリックも少し変わりました。
聖パウロ女子修道会のブログ記事「第2バチカン公会議から50年」から引用します。
「第2バチカン公会議までのカトリック教会は、『教会の外に救いなし』という『真理』を固く守り続けてきましたが、
公会議は仏教、ヒンズー教、イスラム、ユダヤ教など他宗教について、教会がそれぞれの宗教の中にもある真理を受け入れ、相互理解を深めることを勧めました。」
以前として、『教会の外に救いなし』という『真理』は根本にあるものの、その枝の教えとして他宗教について、相互理解を深めることを勧めているようです。
*
しかしながら、カトリック教会の『教会の外に救いなし』という『真理』は、イエス・キリストを超絶に「いけにえを好む神」に仕立て上げ続けています。
※
そして、カトリック教会から別れて誕生した「プロテスタント教会」は、さらにイエス・キリストを超超超絶に冷酷非道な「いけにえを好む神」になるように作り上げています。
次のような御言葉を前後の文章の意味を無視して、恣意的に部分的に切り取ります。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネの福音書3章16~18節)」
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネの福音書3章36節)」
「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。(使徒の働き4章12節)」
このように、イエス・キリストを信じる者たちは救われるが、イエス・キリストを信じない人々は救われない。
そして、死後にさばきがあり、イエス・キリストを信じない人々は永遠の火の中に投げ込まれて、永遠に炎の中でもがき苦しむという聖書解釈と福音理解となります。
※
前回記事から伝えていますが、聖書を読めば、神の御心は、「あわれみを好むが、いけにえは好まない」と教えられる神の御子イエス・キリストによって、あわれみを好むが、いけにえは好まないという世界へと変貌することです。
しかしながら現実は、「〔日本人には〕地獄に落ちた者になんの救いもないのはたいへん悪いことと思われ、神の教え〔キリスト教〕より、彼らの宗派の方がずっと慈悲に富んでいると言います。」と思えることが多い状況です。
世界を見ても、クリスチャン国家と言われる「アメリカ」
米大統領の就任式では宣誓の時に、歴代大統領は右手を掲げて、左手を聖書に置き、「神に誓って(So help me God)」と宣誓するのが慣例となっています。
そのクリスチャン国家のアメリカは、原子力爆弾を2発も日本の広島と長崎に落として、無差別大量殺人を決行しました。
しかし、多くのアメリカ人は無差別大量殺人とは思っていないようです。
何かの式典での原爆投下の映像を見たオバマ大統領たちは拍手しています。
その動画はYouTubeで拡散されていました。
他にも朝鮮戦争における老斤里事件
ベトナム戦争における枯葉作戦(枯葉剤)ソンミ村虐殺事件
北爆(捏造したトンキン湾事件を根拠とした)
アメリカ軍によるドミニカ共和国占領 (1965年-1966年)
リビア爆撃 (1986年) パナマ侵攻 イラク戦争
アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)
シリア空爆 (2019年) カブール空爆
*
アメリカは別格としても、世界中の数多くのクリスチャンたちによる他宗教への迫害、同性愛者たちへの迫害などは日常茶飯事に行なわれています。
それらは、聖書の神の御言葉に聞き従うため、神の栄光のため、イエス・キリストの御名によって、聖霊に導かれてという大義名分によって行われ続けています。
なので、イエス・キリスト・父なる神・聖霊の三位一体によるものが「いけにえを好む神」となっているために、もはや変わることはないでしょう。
*
そして、何も知らない人々が、『教会の外に救いなし』という『真理』を学び、
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。
なので、イエス・キリストを信じない人々は滅びに向かっているということを学びます。
そうして多くの人々が、イエス・キリストはいけにえを超絶に好む神だということを植え付けられていきます。
それは、これまでの日本の歴史で、何万人、何十万人、何百万人になるでしょうか。
結果的に日本のクリスチャン人口は約1%弱という状況が長年続いています。
*
そして、私は、今まで、多くの牧師やクリスチャンたちから壮絶なイジメや迫害に会い続けていますが、
たった一人だとしても、イエス・キリストは100%あわれみの神であるという聖書解釈と福音理解を宣べ伝えていくだけです。
「それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。(ローマ人への手紙9章23,24節)」
つづく
