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ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教の真実 ㉗ 聖書が教える異邦人と福音宣教」

 

聖書を読めば、イスラエルの民(ユダヤ人)以外の異国の人々を「異邦人」として区別しています。

 

現在のキリスト教会の教えも同じで、「日本人」は「異邦人」として教えられています。

 

ちなみに「異邦人」と言えば、日本では歌手の久保田早紀さんの1979年の大ヒット曲「異邦人」を思い出す人は多いでしょう。

 

さらに2003年、日本が誇るロックバンドB'zのギタリスト・松本孝弘氏が日本の歌謡曲をカヴァーするというソロ・プロジェクトの第1弾は、日本が誇る歌手の坂井泉水さん(ZARD)を起用した「異邦人」でした。

 

聖書が教える「異邦人」はイスラエルの民(ユダヤ人)から忌み嫌われていました。

 

使徒ペテロでさえ、異邦人はきよくないとか、汚れているとか言ってはならないと、神から示されたほどです。(使徒への手紙10章28節)

 

また、使徒パウロでさえも「私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」と言うほどでした。(ガラテヤ人への手紙2章15節)

 

 

使徒パウロは異邦人がどのような罪人であるかを具体的に詳細に次のように教えています。

 

「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。(エフェソの信徒への手紙2章2節)

 

「そこで、わたしは主によって強く勧めます。

もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。

 

彼らは愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。

 

そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。

 

しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。

 

だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、 心の底から新たにされて、

 

神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

 

だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。

 

わたしたちは、互いに体の一部なのです。

 

怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。 悪魔にすきを与えてはなりません。

 

盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。

 

むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。

 

悪い言葉を一切口にしてはなりません。

 

ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。

 

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。

 

無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。

 

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

(エフェソの信徒への手紙4章17~32節)」

 

 

つまり、「異邦人」とは、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。

 

彼らは愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。

 

そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りませんでした。

 

なので至極当然に、情欲に迷わされ、滅びに向かっています。

 

それから、隣人に対して真実を語らず、偽っていました。

 

ずっと怒っていて、悪魔が入り込んでいました。

また、盗んで生活をしていて、悪い言葉を言い放っていました。

 

そして、無慈悲でした。

 

さらに、悪意に満ちて、憤り、怒り、わめき、そしりが当然の行為になっていました。

 

このように、神の命から遠く離れて、滅びに向かっている罪人が「異邦人」であると聖書は明確に教えています。

 

 

それゆえ「異邦人」は至極当然に、最も小さき者たちが飢えていても食事も与えず、渇いていても飲ませず、旅人を泊まらせず、裸であった時に着る物を渡さず、病気の時や牢にいた時も訪ねたりすることはなかったでしょう。

 

 

そして、そのような滅びに向かっている罪人の異邦人に対しての福音宣教が、繰り返しますが次の御言葉でした。

 

「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、 心の底から新たにされて、

 

神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」

 

 

さて、「現在の日本人」は、聖書が教える「滅びに向かっている罪人の異邦人」と同じでしょうか?

 

まったく同じとして教えているのが、「イエス・キリストを信じなければ救われない」という聖書解釈と福音理解のプロテスタント教会です。

 

また「教会の外に救いなし」と教えるカトリック教会もそうでしょう。

 

 

そして、私は無教会の立場で正直に純真に伝えさせてもらいますと、この聖書が教える「滅びに向かっている罪人の異邦人」と「現在の日本人」はまるで違うと断言します。

 

現在の日本は、聖書の御言葉に共感する教えに満ちています。

 

ドラマ「ひとつ屋根の下」で主人公のあんちゃんのよく言うセリフが「幼稚園で習わなかったか、ウソをついてはいけませんと」

 

このように、日本人は、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語るように教えています。

 

また、怒ったままだと暴言や暴力をふるうことになるので、怒ることがあっても罪を犯してはいけないと教えています。

 

盗みを働く者は犯罪者となります。

 

自分の手で働くのが常識であり、困っている人に分け与えることも多々あります。

 

慈悲深くあれと教えられます。

 

困っている人が飢えている時は食べる物を与え、渇いている時は飲ませます。

 

また、困っている旅人には無料で宿を貸します。

そして、裸な人がいれば着る物を着せてあげます。

 

病気の時には見舞いますし、拘置所に入れば面会に行って励まします。

 

それから、憤り、怒り、わめき、そしりは悪いことであり、悪意は捨てなさいと教えられています。

 

さらに、互いに親切にして、憐れみの心で接し、赦し合うことに努めています。

 

それが現在の日本人、世界の人々の常識であります。

 

つまり、聖書に書かれている滅びに向かっている罪人の異邦人とはまったく違うのです。

 

現在はまさに、聖書の使徒たちが教えていることが受け入れられているのです。

 

 

それゆえ至極当然に、イエスさまの来臨時の最後の審判の基準も「イエス・キリストを信じたか、信じていないか」ではなく、

 

最も小さき者のひとりが助けを求めている時に助けた人か、助けない人かということでした。

 

もしも、現在の日本人も滅びに向かっている罪人の異邦人と同じであれば、最後の審判の基準は「イエス・キリストを信じたか、信じていないか」ということになったはずです。

 

なぜなら、滅びに向かっている罪人の異邦人が救われるには、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、 心の底から新たにされて、

神にかたどって造られた新しい人を身に着けなければならないからです。

 

しかし、現在の日本人はイエス・キリストを信じていなくても、滅びに向かっている罪人の異邦人のような生き方とはまったく違って、聖書の御言葉と同じことを教えているのですから。

 

つまり、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んではいないということです。

 

正確にいえば、そういう者もいますが、そういう者たちは犯罪者として逮捕されてしまうか、闇の中で生きて行くしかありません。

 

また、そういう者たちが全員、不従順な者たちの内に今も働く霊に従っているとは限りません。

 

誰からも愛されず、見捨てられ、自暴自棄になっている場合もあるからです。

 

こうして聖書を理解すると、聖書の書かれている時代は、この世は悪魔が支配していましたが、現在は聖書の神の教えを基にした教えが広まり、その素晴らしい教えに聞き従って生きる人が大勢いる世の中になったと思います。

 

「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。(エフェソの信徒への手紙1章19節)」

 

次回へつづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉖ この世を支配する悪魔に従う人々について」

 

私が教会の牧師たちの教えで最も衝撃を受けたのは、「すべての人は生まれながら地獄へ行く運命」という教えでした。

 

私はまったく意味がわからないし、いくら考えても理解不可能です。

 

それは昔の日本人もそうでした。

 

カトリック神学研究者の菊地章太教授の著書「日本人とキリスト教の奇妙な関係」から引用します。

 

6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる「新井白石」と、その時代の最後の潜伏宣教師「シドティ宣教師」の詮議の一部が以下の通りです。

 

「シドティは語る。デウスのさだめた戒めを人間は破った。その罪はあまりにも重く、自分たちの力でそれをあがなうことはできない。

 

デウスはそれをあわれんで、イエスとなってこの世に生まれ、その罪をあがなったのだと。

 

これこそキリスト教のもっとも大事な教えなのだが、白石はそれを聞いているうちに理解不能におちいってしまう。

 

罪をあがなえないようにしておいて、それをあわれんで自分であがなう……

 

しまいにこう言い放った。「いかむぞ、嬰児の語に似たる」と。

 

シドティはさらに最後の審判について語った。白石はそれを聞いて思う。

 

そうした教えがあることを知らない者がいるとしても、とがめる理由などないはずだ。

 

それなのに最後に誰も彼も滅ぼしてしまうとはどういうことなのか。

 

「いかむぞまた、これを生じこれを養ふ大父大君とは称ずべき」と、かつはあきれ、かつはいきどおったのだ。

 

引用以上

 

 

カトリック教会のシドティ宣教師と新井白石の詮議は1709年(宝永6年)の話ですが、今の時代でもカトリック教会とプロテスタント教会の教えはシドティ宣教師の教えと概ね一致しています。

 

すべての人間は罪人であり、イエス・キリストを信じれば救われるけれど、信じなければ救われない。という聖書解釈と福音理解のようです。

 

その根拠となる御言葉を牧師たちは確信をもって教えます。

それがこの御言葉です、

 

「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。

 

この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。

 

わたしたち(使徒パウロたち)も皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、

 

ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。

 

しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、

 

――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― エフェソの信徒への手紙 2章1~4節」

 

 

この御言葉の教えによって、すべての人間は、この世を支配する悪魔と不従順な者たちの内に働く悪霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいるために、生まれながら神の怒りを受けるべき者なのです。

 

それゆえ、すべての人間は滅びに向かっていて、そのまま死ねば地獄へ行くという教えを成立させています。

 

この聖書の御言葉の教えを否定してはいけません!と教えられれば反論することもできませんでした。

 

 

さて、どこかのキリスト教会に所属していれば、その教会の牧師や神父たちの教えが正しいと思いこんでしまいますが、私はどこの教会にも所属していないので自由です。

 

その自由の立場から聖書解釈と福音理解を言わせてもらいましょう。

 

まず、聖書には、この世を支配する悪魔と不従順な者たちの内に働く悪霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいるとはどのような事になるのか、具体的に詳細に教えられています。

 

「わたしたち(使徒パウロたち)も皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、

 

ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」

 

このことについての詳細が次の御言葉です。

 

「このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

 

律法学者たちとファリサイ派の人々(新改訳聖書ではパリサイ人)、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。

 

そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。

 

こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。

 

先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。

 

蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。

 

だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

 

こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。

 

はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

 

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、

 

めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。

だが、お前たちは応じようとしなかった。 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。(マタイによる福音書23章28~38節)」

 

まさに、肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、

ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。と教えられていることがよく理解できます。

 

 

さらに、このエフェソの人々についても見ていきます。

 

その事について色々調べてみると、詳しく教えているのが「ものみの塔」だったので、そこから引用します。

 

「エフェソス(エフェソ)」は異邦人の中でも,放とうやみだらな行ない,つまり甚だしい不道徳で知られた都市でした。

 

ギリシャ人もアルテミスを崇拝していました。

 

しかし,エフェソスで崇拝されていたアルテミスはギリシャのアルテミスと同じではなく,幾分似ていたにすぎません。

 

ギリシャのアルテミスは狩猟と出産の処女神でした。エフェソスのアルテミスは多産の女神です。

 

エフェソスにあったその巨大な神殿は,世界の七不思議に数えられました。天から落ちてきたと考えられていたその彫像は,多産の化身としてのアルテミスを表わしており

 

使徒パウロが背教を予告したのは,エフェソスにあったクリスチャン会衆の長老たちに対してでした。パウロは,背教者たちが起こって「曲がった事柄」を言うであろうと警告しました。(使徒 20:17,28-30)

 

アルテミスの神殿は一種の聖域だったため,犯罪が助長され,エフェソスの犯罪者の人口は増加しました。

 

どんな犯罪を行なった人でも,その神殿の城壁の周囲の一定の領域内に入れば,逮捕されずにすむことがありました。

 

その結果,神殿の周囲には泥棒や人殺しなどの住む集落が生じました。

 

ですから,悪意のある苦々しさ,わめき,有害な事柄などと共に盗みに関して述べたパウロの言葉は不適当なことではありませんでした。

 

エフェソスはあらゆる種類の悪霊崇拝の中心地でした。

 

実際,この都市は様々な形態の魔術が行なわれていることで世界中に知られていました。

 

それで,エフェソスでは悪霊が特に活発に働いていました

 

ですから,パウロが神の霊により奇跡を行なったのは,魔術や呪術の影響を相殺し,心の正しいエフェソス人がそのような悪霊崇拝の慣行から離れるのを助けるためだったに違いありません。

そのような奇跡には,邪悪な霊を追い出すことさえ含まれていました。―使徒 19:11,12。

 

引用以上

 

 

まさに、自分の過ちと罪のために死んでいた者たちでした。

 

この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいることがよくわかります。

 

 

悪魔が支配するこの世というのは、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺すことが平然と行われていました。

 

また悪霊崇拝が当然のように行われていて、悪霊が活発に働いていることです。

 

 

昔、日本も悪魔が支配している時代がありました。

 

終戦直後にソ連(現ロシア)が樺太を侵攻するという空前の暴挙と、9人の乙女たちを襲った悲劇の実話を伝える名作映画「氷雪の門」の中で「一億玉砕 国のため」というセリフが出てきます。

 

第二次世界大戦時に日本は「一億玉砕」などをスローガンとしたそうです。

 

これらの「一億」とは、当時日本の植民地であった満洲・朝鮮半島・台湾・内南洋などの日本本土以外の地域居住者(その大半が朝鮮人や台湾人)を含む数字であり、日本本土の人口は7000万人程であった。(ウィキペディアより引用)

 

つまり、日本は満洲・朝鮮半島・台湾・内南洋などを侵略して植民地にしていました。

 

そこには当然に悪魔の特徴である盗み・殺し・滅ぼすことが行われています。

 

さらに、国のために、すべての日本国民は玉砕せよ!他国の人々を抹殺せよ!という命令は、まさに悪魔が支配している世の中です。

 

まさに、「 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」と教えられている通りです。

 

さらに、その続きにこのように教えられている通りでもあります。

 

「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。

 

彼らは愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。

 

そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。

(エフェソの信徒への手紙 4章17~19節)」

 

 

さて、現在の日本と日本在住の人々はどうでしょうか?

 

聖書の教える悪魔が支配している世と、生まれながら御怒りを受けるべき子らと同じでしょうか?

 

現在の日本では、人殺しをすれば大きな罪になります。

 

もしも、肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していることが発覚すれば、その罪に対して厳しく罰せられます。

 

ニュース報道では日常茶飯事に、わいせつ行為、盗み、虐待、殺人などで逮捕されたりすることを見聞きしています。

 

また、悪霊崇拝をしている人はどこにいるのかわからない状況ですし、悪霊が活発に働いているということを見聞きすることもない生活をしています。

 

日本在住の人々の姿は、弱肉強食・競争社会の世の中で必死に働いて、自分自身や家族を守ることで精いっぱいという人が多いというのが実態と思います。

 

その中で、誰かを愛することに価値を見い出している人も多いでしょう。

押し活もブームですね。

 

 

なので、聖書の教えでは、現在の日本は、悪魔が支配しているこの世ではないし、生まれながら御怒りを受ける子らではないことがわかります。

 

その中の一部の人々は、肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していますが、多くの人々は理性があり、自制心があります。

 

愛する人を悲しませることはできないし、人を傷つけるわけにはいかない。

 

また、捕まって自分の人生を台無しにしてはいけないという自制心です。

 

また、ここ数年、芸能界では長年第一線で活躍していた芸能プロダクションの社長や俳優、タレントたちが欲望のままに行動していたことが次々に発覚して大きな騒ぎとなっています。

 

影響力のある芸能人の1人である武田鉄矢さんは、「個人的な思いだが」と前置きし

 

「私ども、テレビに出ておりまして、一番避けなければならないのは分かっている。人を傷つけないということ」と断言。

 

それが「芸能、エンターテインメントで生きる人間の絶対の使命なんです」と伝えた。

 

 

現在の日本で、聖書の時代の異邦人のように、愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れて、

 

無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。 という人がいれば、批判非難されてしまうでしょう。

 

そういう人と関わりたくないと思います。

 

ですから、繰り返しますが、現在の日本は聖書の時代の異邦人とはまったく違う世界であり、悪魔が支配している世でもないでしょう。

 

それゆえ至極当然に、すべての人間は、生まれながら御怒りを受けるべき子らでもありません。

 

聖書を読めば、このような聖書解釈と福音理解になります。

 

何が善であるか、神さまが求めておられることは告げられます。

 

「人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである

(ミカ書6章8節)」

 

毎度のことですが、長くなりすぎましたね。

次回へつづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉕ 聖書の教えと牧師の教えはまるで違うことについて」

 

私は度々お伝えしているように、無教会(どこの教会にも所属していない)の立場で、個人的に聖書の御言葉だけを伝えています。

 

すると、教会の牧師たちとまるで違う聖書解釈と福音理解になるので、「あなたは本当のクリスチャンではない!」というようなコメントがたくさん来ます。

 

それは当然でしょう。

 

私は既成の教会を何十と行きましたし、SNSで何百という教会の牧師たちの聖書解釈と福音理解を見聞きしましたが、どこにも私と一致している聖書解釈と福音理解はありませんでした。

 

カトリック教会は、『教会の外に救いなし』という『真理』がある聖書解釈と福音理解です。

 

そして、プロテスタント教会は「イエス・キリストを信じる人々は救われるが、信じない人々は救われない」という聖書解釈と福音理解です。

 

私自身は、そのどちらでもありません。

 

そして、個人的に聖書を調べると、アブラハムとモーセ、使徒パウロの聖書解釈と福音理解は、まさに一致しました。

 

神が人間を滅ぼす。または地獄行きを宣告しても、「私が信じる神はそのようなお方ではありません!」という信仰によって、神の隠されている奥義である御心が現わされて、その信じた通りにされるという聖書解釈と福音理解となります。

 

 

すると、大勢の牧師やクリスチャンたちは「その教えは万人救済だ!異端だ!聖書の御言葉を曲解させている!あなたは本当にイエスキリストを信じていない!」などと攻撃してきます。

 

私のブログ記事を確認すればわかりますが、私は「万人救済」とか一度も言っていません。

 

ただ聖書の御言葉を曲解せず、自分の私的解釈を足したりせず、聖書の御言葉をありのままを繰り返して伝えているだけなので、多くの牧師やクリスチャンたちから攻撃されても、まったく動じることはありません。

 

さらに「これが本当のイエス・キリストを信じた人たちだ!これが本当の正しい聖書解釈と福音理解だ!」とその牧師たちとそのメッセージを紹介されますが、

 

俳優の柴田恭兵さんの流行した決めセリフ「関係ないね」の一言で終わりです。

 

 

何年か前にFacebookのメッセージで執拗に攻撃してきた牧師の1人があるクリスチャングループで、最近、次のように投稿しています。

 

「"それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。

 

わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」"

ヨハネの福音書 8章 24節

                                                                           この世で創造主であるイエス様と正しい信頼関係を持たなくては

それが「罪」ハマルティア=的外れ、なのです。

 

罪はこの世の神である悪魔の支配の中に在るので悪魔と共に最終的に処分されます。

 

イエス様を信じ従わない事=悪魔に従ってしまっている=罪だという事です。」

 

引用以上

 

 

この投稿記事を見れば、聖書の「ヨハネの福音書 8章 24節」の教えから、イエス・キリストを信じない人々は悪魔に従っている罪を犯しているので、悪魔と共に最終的に処分される。

 

つまり、イエス・キリストを信じない人々は罪の中で死ねば、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入ることになると思います。

 

 

さて、ヨハネの福音書 8章 24節の教えですが、その続きの要点をピックアップして見ていきます。

 

ヨハネの福音書8章24~49節

24 それでわたしは、「あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」

 

29 「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです。」

 

30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。

 

31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。

 

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

 

32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 

44 「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理には立ってはいません。

 

47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」

 

48 ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。

 

「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」

 

49 イエスは答えられた。

「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。」

 

引用以上

 

 

さて、どうでしょう。

 

30節には、イエスの話を聞いて「多くの者がイエスを信じた。」とあります。

 

そして31節には「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。」とあるのです。

 

多くのユダヤ人たちは、表向きはイエスを信じたクリスチャンになりましたが、心ではイエス・キリストは悪霊につかれていると思って、イエス・キリストを卑しめているのです。

 

 

くり返しますが、プロテスタント教会の牧師はクリスチャングループの投稿記事で、ヨハネの福音書8章24節から、次のように教えています。

 

「この世で創造主であるイエス様と正しい信頼関係を持たなくては それが「罪」ハマルティア=的外れ、なのです。

 

罪はこの世の神である悪魔の支配の中に在るので悪魔と共に最終的に処分されます。

 

イエス様を信じ従わない事=悪魔に従ってしまっている=罪だという事です。」

 

引用以上

 

この牧師の聖書解釈と福音理解は一歩踏み込んでいますが、

 

「あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」ということだけで、

 

プロテスタント教会の福音の原則「イエス・キリストを信じた人々は救われる。しかし、信じない人々は救われない」という聖書解釈と福音理解は正しいことですね。となります。

 

 

すると、イエス・キリストを信じていない人々が、その教えを聞けば、イエス・キリストはまるで悪魔のような冷酷非道な神に思えるでしょう。

 

それはちょうど、前述のヨハネの福音書8章の教えを知っていれば、多くのユダヤ人たちは、表向きはイエス・キリストを信じたクリスチャンですが、心ではイエス・キリストは悪霊につかれていると思って、イエス・キリストを卑しめているということを思い起こさせるでしょう。

 

 

イエス・キリストの教えの真理を知るならば、真理はその人を自由にするはずです。

 

前回記事で使徒パウロは、このように教えました。

 

「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。

 

私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

 

もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。

 

兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです

 

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

 

 

すると、イエス・キリストを信じない人々である同胞、肉による同国人は救われないことになります。

 

それゆえ、大きな悲しみと心には絶えず痛みがあり続けます。

まったく自由ではありません。

 

それで、使徒パウロは神は信じない人々を救わないという神ではないことを信じて、次のようにその信仰を告白します。

 

「神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません!」

 

「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。

絶対にそんなことはありません!」

 

その使徒パウロの御心にかなう信仰をイエスさまは喜んでくださり、奥義である御心を告げ知らせてくださいました。

 

その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。

 

その真理によって、自由になったのです。

 

私自身も使徒パウロの教えを通して、イエスさまの御心の奥義を知って、日本はみな救われるという真理によって、自由になりました。

 

「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。

真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。

(ヨハネの福音書18章37節)」

 

さらに、そのことについて見ていきます。

 

次回へつづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉔ 使徒パウロが信じる神イエス・キリストについて」

 

前回記事の続きです。

使徒パウロはパリサイ人であります。

まず、そのパリサイ人というのはどういう人間なのかを見ていきます。

 

「それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。

 

パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。

 

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやした。

(マタイの福音書12章13~15節)

 

そのとき、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。

 

群集はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」

 

これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」

 

イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。

 

〈中略〉

 

また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。

 

しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

 

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。

 

木のよしあしはその実によって知られるからです。

 

まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。

 

良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。

(マタイの福音書12章22~35節)

 

 

そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

 

しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

 

そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を招集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。

 

もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる

 

そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。

(ヨハネの福音書11章45~48、53節)

 

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。

 

おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

 

だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。

 

それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。

 

まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。

(マタイの福音書23章33~36節)

 

 

サウロ(使徒パウロの以前の名前)は、ステパノを殺すことに賛成していた。

 

その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。

 

サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

(使徒の働き8章1~3節)

 

 

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。

 

悪魔は初めから人殺しであり、真理には立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。

 

彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。(ヨハネの福音書8章44節)」

 

 

このように聖書で、パリサイ人に対して、イエスさま御自身が教えられていることを見ていけば、神に地獄行きを宣告されても当然だと思います。

 

イエスさまと弟子たちの福音宣教は次の通りです。

 

「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。

霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。

(マタイの福音書10章1節)」

 

人々が非常に苦しんでいる汚れた霊どもを追い出してくださり、また、非常に悩み苦しんでいるあらゆる病気やわずらいを癒やしてくださったのです。

 

命の大恩人です。

 

その命の大恩人を捕らえて抹殺していくというのは、まさに、パリサイ人は父である悪魔から出た者であって、父である悪魔の欲望を成し遂げたいと願っている者たちです。

 

もしも、現在の日本に。聖書に書かれているパリサイ人たちが在住して、同じことを行なっていれば

「てめえら人間じゃねえ!」「血も涙もない鬼畜の仕業である!」などと断罪されて、死刑判決は確実でしょう。

 

また、聖書でイエスさまが「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」と地獄行きを宣告されているのも理解ができます。

 

 

しかし、そのパリサイ人の中でもイエス・キリストを信じる人がいました。それがニコデモです。

 

「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。

 

この人が、夜、イエスのもとに来て言った。

『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。

神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。』ヨハネの福音書3章1~2節)」

 

 

しかしながら、他のサウロ(使徒パウロの以前の名前)たち大勢のパリサイ人たちは、イエスが行われている「しるし」を見聞きしても信じませんでした。

 

サウロの場合は、昇天されたイエスさま御自身が会われて、信じることができたのです。

 

「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、

 

ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。

 

ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。

彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。

 

彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

(使徒の働き9章1~6節)

 

 

そして、サウロはイエス・キリストを信じて、使徒パウロとなるわけですが、使徒パウロの兄弟たち、同胞の人々はパリサイ人であるわけです。

 

 

それでは、使徒パウロが信じる神イエス・キリストとはどのようなお方かを見ていきましょう。

 

使徒パウロは次のように語っています。

 

「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。

 

私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

 

もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。

(ローマ人への手紙9章1~3節)」

 

兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです

 

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

 

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

 

遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

 

しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。

 

「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

 

でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」

 

またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

(ローマ人への手紙10章1,13~18、21節)

 

 

すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。

 

この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。

 

神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。

 

では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。

 

選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。

こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」

 

ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。

その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」

 

では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。

 

絶対にそんなことはありません。

 

かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。

それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。

 

もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。

 

そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。

 

そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。

 

もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。

 

初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。

 

 

兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。

 

それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。

 

その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

 

こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。

 

こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。

 

これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」

 

彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。

 

神の賜物と召命とは変わることがありません。

 

ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、

 

彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

 

なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

 

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

 

なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。

 

また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

(ローマ人への手紙11章1、2、7~16,25~36節)

 

 

このようにパウロは「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」ということを信じています。

 

すると、イエス・キリストを信じていないパウロの同胞、肉による同国人は救われないということになります。

 

なので、大きな悲しみがあり、心には絶えず痛みがありました。

 

使徒パウロが心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることだからです。

 

使徒パウロは同胞、肉による同国人はすべて救われることを信じる信仰でしたので、イエスさまはその信じたとおりになるように、神の教えの奥義を与えてくださったのです。

 

その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

こうして、イスラエルはみな救われる、ということでした。

 

 

使徒パウロのように、この日本で、心の望みとし、また日本のために神に願い求めているのは、日本在住の人々が救われることだというクリスチャンたちには、

 

使徒パウロと同じ御言葉「日本はみな救われる」という神の奥義を宣べ伝えるでしょう。

 

しかし、それでは「万人救済か!聖書には最後の審判で永遠の刑罰に入ると書かれているだろう!」と猛反発するクリスチャンたちが大勢いるでしょう。

 

次から、そのことについて見ていきましょう。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉓ 神の御心はあなたの信じたとおりになること」

 

前回記事のおさらいです。神は、ソドムとゴモラの罪は極めて重いので滅ぼす決心をされました。

 

しかし、アブラハムは神に向かって、次のように異議を申し立てたのです。

 

「正しい者を悪い者といっしょに殺すようなことを、あなたがなさるはずがありません。

 

とてもありえないことです。

 

全世界をさばくお方は、公義をを行うべきではありませんか」

 

そして神はアブラハムの信じたとおりにしてくださいました。

 

残念ながらソドムに正しい者は10人もいなかったのですが、初めは正しい者も一緒に殺されることが、正しい者とされたロトの家族は助かりました。(ロトの妻は振り返って塩の柱となってしまいましたが)

 

 

また、モーセがイスラエルの民をエジプトの地から救出した後で、

彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのための鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、

『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言っている。」

 

わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。

 

しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言いました。

 

「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。

 

また、どうしてエジプト人が、『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。

 

どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。」

 

すると、主はモーセの信じたとおりに、その民に下すと仰せられたわざわいを思い直されました。

 

 

しかし、その後でモーセは前言撤回をするのです。

 

モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。

 

宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。

 

それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。

 

そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」

 

レビ族は、モーセのことばどおりに行った。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。

 

翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」

 

そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。

 

今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら—。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

 

すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。

 

しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」

 

こうして、主は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。

(出エジプト記32章15~35節)

 

 

まさに、聞くと見るとでは大違いなのです。

 

例えば、友人から「あなたの夫は愛人をつくって、会っているよ」と聞かされると、「私は夫と愛人を許します。離婚はしません。」と決断していても、

 

その後、夫と愛人が寝ている現場を目撃して、夫が「本当に愛しているのはお前だよ」と言っていれば、

 

激怒して「夫と愛人を絶対に許さない!離婚します!」と言い放つことになるケースを見聞きします。

 

 

モーセも同じでした。

 

モーセは、主から、イスラエルの民が子牛を造って、これを神として礼拝していることを聞かされた時、自分自身の信じていることを嘆願して言いました。

 

「ご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。

どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。」

 

すると、主はモーセの信じたとおりに、その民に下すと仰せられたわざわいを思い直されたのです。

 

ところが、モーセは実際にイスラエルの民が子牛を造って、これを神として礼拝している姿を見た時に、怒りが燃え上がって、

 

せっかく主が、その民に下すと仰せられたわざわいを思い直されたのに、前言を撤回して、「おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ!」と命じて、

 

レビ族は、モーセのことばどおりに行った。

その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れたのでした。

 

 

もしも、モーセが実際にイスラエルの民が子牛を造って、これを神として礼拝している姿を見ても、怒りを収めていれば、主がその民に下すと仰せられたわざわいを思い直されたままだと思います。

 

モーセが主に「どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。」と申せば、その信じたとおりになります。

 

しかし、モーセが前言を撤回して、怒りの言葉を発せば、その信じたとおりになり、三千人が倒れました。

 

前言撤回した後で、再び民の救いを求めても、主は民を打たれました。

 

 

この旧約聖書の教えは、「あなたの信じたとおりになるように!」という神さまの御心を教えられています。

 

それは新約聖書の主イエス・キリストも同じでした。

その聖書箇所を見ていきます。

 

すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」

 

イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

 

そして、百人隊長に言われた。

「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」

 

ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

(マタイによる福音書8章8~13節)

 

 

イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。

二人は、「はい、主よ」と言った。

 

そこで、イエスが二人の目に触り、

 

「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、 二人は目が見えるようになった。

(マタイによる福音書9章28~30節)

 

 

そして、使徒パウロは最も「主イエス・キリストは、あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると固く信じている信仰者でした。

 

なぜなら、使徒パウロはパリサイ人であり、イエス・キリストを信じる前は、イエス・キリストに敵対していて、クリスチャンたちを迫害し、男も女も捕らえて殺していたからです。

 

そして、イエスさまは、パリサイ人に対して「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」と地獄行きを宣告しているからです。

 

使徒パウロの兄弟たち、同胞の人々はパリサイ人です。

 

使徒パウロが信じることは、同胞の人々であるパリサイ人たちが救われることです。

 

イエスさまが地獄行きを宣告しておられる同胞のパリサイ人たちも救われると信じて、その通りになるのです。

 

長くなりすぎるので、その使徒パウロと主イエス・キリスト(主の霊)とのやり取りを次回に見ていきます。

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉒ 神の国と神の義を求めることについて」

 

前回記事からの続きですが、神さまを信じた人が神さまを信じていない人々に宣べ伝えていることで、神の国と神の義が現わされていることを見ていきます。

 

聖書には、イエス・キリストを信じてつき従って来た群衆と弟子たちに次のように教えられいます。

 

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

(マタイの福音書6章33節)」

 

そして、そのことについて、次のように教えられているのです。

 

「さて、神の国はいつくるのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。

「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。

 

いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

(ルカによる福音書17章20~21節)」

 

 

神の国は、あなたがたのただ中にあると言われる通り、神を信じた人と、神を信じていない人々(神を裏切った人々)のただ中にあるのです。

 

そのことについて証明しているのが、旧約聖書の最も重要人物の信仰者「アブラハム」と「モーセ」、そして新約聖書の重要人物の信仰者「パウロ」です。

 

では、アブラハムのただ中にある神の国と神の義から見ていきましょう。

 

そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。

 

わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」

 

その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。

 

アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。

 

もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれうのですか。

 

その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。

 

正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とがおなじようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。

 

とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義をを行うべきではありませんか。」

 

主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」

 

アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。

 

もしも五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるのでしょうか。」

 

主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」

 

そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしそこに四十人見つかるかもしれません。」

 

すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」

 

また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」

 

主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」

 

彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」

 

すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」

 

彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」

 

すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」

 

主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

(創世記18章20~33節)」

 

 

神は、ソドムとゴモラの罪は極めて重いので滅ぼす決心をされました。

 

しかし、アブラハムは神に向かって、次のように異議を申し立てたのです。

 

「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とがおなじようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。

 

とてもありえないことです。

 

全世界をさばくお方は、公義をを行うべきではありませんか。」

 

そうして、アブラハムは神に交渉していき、神は10人のために他の悪い者たちを滅ぼすまい。と約束されたのでした。

 

神が滅ぼすと決心されても、異議を申し立てて、すべての人を救おうとするのが、アブラハムのただ中にある神の国と神の義でした。

 

神は、そのアブラハムのただ中にある神の国と神の義をすべて受け入れてくださり、応えられました。

 

 

次にモーセのただ中にある神の国と神の義を見ていきます。

 

主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。

 

彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのための鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、

 

『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言っている。」

 

主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。

 

今はただ、わたしのするままにせよ。

 

わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。

 

しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」

 

しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。

 

「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。

 

また、どうしてエジプト人が、『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。

 

どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。

 

あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。

あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる』と仰せられたのです。」

 

すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。

(出エジプト記32章7~14節)

 

 

この神とモーセとの対話は驚きます。

 

神は、このように命じられたのです。

「わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。

 

しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」

 

つまり、神の御怒りを受ける人々は絶ち滅ぼされて、モーセは祝福されます。

 

この神の命じられたことは、モーセにとって理解できることです。

 

神の御怒りを受ける人々は絶ち滅ぼされて当然です。

 

神を裏切り、自分たちのための鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、

『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言っているのですから。

 

そして、モーセは祝福されるのですから。

 

 

現在でいえば「私はイエス・キリストを信じているので、永遠の命を持ち、あなたはイエス・キリストを信じていないので滅ぼされる」という福音宣教と同じです。

 

 

けれど、この神が決められたことにモーセは猛反発して、次のように異議を申し立てます。

 

「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。

 

また、どうしてエジプト人が、『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。

 

どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください!」

 

このモーセのただ中にある神の国と神の義に対して、神は受け入れてくださり、

 

その民に下すと仰せられたわざわいを思い直されたのです。

 

 

このように、アブラハムとモーセのただ中にある神の国と神の義は、神が滅ぼすと決心されて命じられても、神に異議を申し立てて、すべての人を救おうとすることでした。

 

そして、神は、そのアブラハムとモーセのただ中にある神の国と神の義をそのまま受け入れて応えてくださるのです。

 

まるで神は、その人の中にある神の国と神の義を確認されるのが目的のように思います。

 

 

さらに、このアブラハムとモーセのただ中にある神の国と神の義を受け継いでいるのが、使徒パウロでした。

 

使徒パウロは「わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。」と教えています。

 

使徒パウロのただ中にある神の国と神の義に対する主の霊による答えは、

 

イエス・キリストを信じていない人々に対して平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものでありました。

 

長くなったので、次は使徒パウロがアブラハムやモーセのように、すべての人をお救いになられる神を信じる信仰によって、

 

神がその使徒パウロのただ中にある神の国と神の義を受け入れてくださって、ついに秘められた神の御計画を聞き出すことの過程を見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉑ 神さまを信じない人々について」

 

プロテスタント教会の救いの原則は「イエス・キリストを信じる人々は救われて、信じない人々は救われない。」ということだと教える牧師・伝道師・宣教師たちは大勢います。

 

プロテスタント教会の中でも伝統があり評判が高い神学校「生駒聖書学院」の名誉院長である榮義之牧師の著書「天の虫けら」にはこのように教えています。

 

「罪の支払う報酬は死であり、そのために地獄がある。

そして罪の本質は、人が神から離れて己を義とし、神を認めず信じないことである。

 

人は生まれながらに罪人であり、神との関係では霊的に死んでおり、肉体の死と同時に滅び、やがては審かれ、地獄へ行く。」

 

引用以上

 

 

また、プロテスタント教会の中では最も信徒数が多いと言われている大和カルバリーチャペルの大川従道主任牧師は著書「永遠と復活」の中で、このように教えています。

 

「罪が赦される唯一の方法が『イエス・キリスト』を地上にいる間に信じることで、それなくして死んでいった人たちは、天国に行くことができない、

 

つまり地獄に行くのである、と教えてきました。

 

『罪の代価は死である』から、その帰結として、罪赦されることなく死んでいく者は、天国へ行けずに、地獄へ行く……

 

私も子どもの頃から、そう教えられてきました。」

 

引用以上

 

 

榮牧師と大川牧師の二人ともが、プロテスタント教会の神学に従って、イエス・キリストを信じないで死んでいく人々は地獄へ行くと断言される根拠の御言葉が「罪が支払う報酬は死です。(ローマ信徒への手紙6章23節)」です。

 

 

それでは、イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行くという教えの根拠となるローマ信徒への手紙6章を見ていきます。

 

「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。

 

つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。

 

しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、 罪から解放され、義に仕えるようになりました。(ローマ信徒への手紙6章16~18節)」

 

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ローマ信徒への手紙6章23節)」

 

 

このように、このローマ信徒への手紙6章を読めば、

あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。

 

罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

 

ということは、イエス・キリストを信じない人々は罪に仕える奴隷となって死に至るので、地獄へ行くという教えが成立します。

 

そして、イエス・キリストを信じた人々は義に至って、永遠の命を得るという教えも成立するのです。

 

ですから、福音宣教において次のように教えます。

 

義なる神イエス・キリストは、罪をお赦しにならない。

 

すべての人は罪をもっている罪人である。

 

イエス・キリストを信じて、罪が赦され、義とされたクリスチャンたちは永遠の命を得ます。

 

しかし、イエス・キリストを信じずに、罪をもったまま死ねば、義とされることなく、地獄に行くのです。

 

 

さて、そのような教えは正しいでしょうか?

 

実は、ローマ信徒への手紙は6章で終わりではありません。その続きがあります。

 

その続きはこのように教えられています。

 

「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。

 

すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、

 

こうして全イスラエルが救われるということです。

 

次のように書いてあるとおりです。

『救う方がシオンから来て、

ヤコブから不信心を遠ざける。

 

これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、

彼らと結ぶわたしの契約である。』

 

福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。

 

神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。

 

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。

 

それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。

 

神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

 

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

 

『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。

だれが主の相談相手であっただろうか。

 

だれがまず主に与えて、

その報いを受けるであろうか。』

 

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

(ローマ信徒への手紙11章25~36節)」

 

 

ローマ信徒への手紙6章を読めば、イエス・キリストを信じた人々は義とされて永遠の命を得る。

 

しかし、イエス・キリストを信じない人々は罪の奴隷のまま死に至るということで、

 

クリスチャンたちはイエス・キリストを信じていない人々たちを地獄へ行く罪人と定めて、裁きます。

 

しかし、続きのローマ信徒への手紙11章においては、そのようなクリスチャンたちに対して、

 

「自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」と警告しています。

 

一部のイスラエル人がかたくなになって、神を信じない理由は次の通りです。

 

「すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、

 

こうして全イスラエルが救われるということです。

 

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。

 

それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。

 

神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」

 

 

現在の日本においては、イエス・キリストを信じた人々は人口の約1%弱で、残りの約99%はイエス・キリストに対しては不従順です。

 

日々の生活の中で、イエス・キリストという神のことなど思ったこともなく、思う必要もないという人々が圧倒的に多いという状況です。

 

それは、イエス・キリストを信じていない人々が罪に仕える奴隷となって、滅びに向かっていて、地獄へ行くということではなく、神の御心でした。

 

神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

 

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

 

『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。

だれが主の相談相手であっただろうか。

だれがまず主に与えて、

その報いを受けるであろうか。』

 

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

 

私自身は、この信仰に生きているクリスチャンです。

 

 

キリスト教の世界の現状は、ローマ信徒への手紙6章の教えによって、イエス・キリストを信じていない人々を地獄行きに定めるクリスチャンたちが圧倒的に多いです。

 

カトリック教会は、『教会の外に救いなし』という『真理』があり、

 

プロテスタント教会は「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行く」という神学があります。

 

 

しかし、ローマ信徒への手紙6章の続きのローマ信徒への手紙11章の教えによって、

 

イエス・キリストを信じて義とされて、永遠の命を得ていると教えられたクリスチャンである自分を賢い者とうぬぼれないように日々戒めて、

 

次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。と宣べ伝えるクリスチャンもごく少数だけど存在します。

 

何度でも伝えます。

 

「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

 

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」

 

次回へつづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ⑳ 福音宣教の救いの原則」

 

イエス・キリスト御自身が教えられた福音宣教の救いの原則はこの御言葉です。

 

「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。

 

しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。

 

そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。

(ヨハネによる福音書 10章37~38節)」

 

新約聖書を読めば、この福音宣教の救いの原則によって、大勢の人々がイエス・キリストを旧約聖書に預言されているメシヤ(救世主)だと知ることが出来ました。

 

パリサイ人のニコデモたちもそうだったことがヨハネの福音書3章に書かれています。

 

「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。

 

この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。

 

神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。』

 

それゆえ、イエスさまは次のように教えられたのです。

 

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章14~16節)」

 

 

もしも、イエスさまが父の業を行なっていなければ、ニコデモはイエス・キリストを神の元から来られた教師だと知ることはなかったのです。

 

なので、夜にイエスさまのもとに来ることもなく、当然ながら、ヨハネの福音書3章14~16節の御言葉を聞くこともありませんでした。

 

 

そのイエスさまの福音宣教の救いの原則を、12弟子たちに授けられました。

 

「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。

 

さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、

熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。

 

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。

 

イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。

 

病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイの福音書10章1~8節)」

 

 

そのイエスさまと12弟子たちの福音宣教の救いの原則である「イエス・キリストの御業」について疑問をもったバプテスマのヨハネは確認しました。

 

「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。

 

『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

 

イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

 

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。(マタイの福音書11章2~6節)」

 

 

そして、イエスさまは信じる者にも福音宣教の救いの原則である神の業を「しるし」として授けられました。

 

「 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、

 

蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

 

主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。

 

そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。

(マルコによる福音書16章17~20節)

 

 

つまり、イエス・キリストを信じた者たちが行なう神の業の「しるし」は、イエスさまが共におられることを証明し、御言葉を確かにすることによって、大勢の人々がイエス・キリストを信じたのです。

 

 

また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。

 

また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。(ヨハネの福音書12章44~46節)」

 

つまり、このイエスさまと同じように、しるしを行なったクリスチャンたちではなく、しるしを行なわれたイエス・キリストを信じるのです。

 

 

さて、現在のクリスチャン(イエス・キリストを信じた者たち)は、神の業(しるし)を行なう人はどこにもいないことが、2020年からの新型コロナウイルスの襲来によって明らかです。

 

 

BBC 2021年8月7日の報道記事を引用します。

 

「米報道によると、米CNNは新型コロナウイルスのワクチンを受けていない状態で出社した従業員3人を解雇した。

 

フェイスブックやグーグルなど多くの大企業は、今後オフィス勤務を全面再開した時点で、従業員がワクチン接種を済ませていることを要求する方針を示している。

 

アメリカでは、企業が従業員にワクチン接種を求めるのは合法。

米政府は今年5月に、職場に入るスタッフがワクチンを接種していることを雇用主が要求するのは、合法だとしている。

 

AP通信によると、デルタ航空とユナイテッド航空は、新規採用のスタッフにワクチン接種証明の提示を求めている。投資銀行ゴールドマン・サックスは、接種完了を求めてはいないものの、従業員にワクチン接種状況を開示するよう求めている。

 

ジョー・バイデン米大統領は7月末、連邦政府職員200万人に、ワクチン接種証明を提示するか、あるいはウイルス検査受診とマスク着用の義務に従うか、どちらかを選ぶよう命令した。」

 

引用以上

 

 

もしも、現在、聖書に書かれているイエス・キリストを信じた者たちがいれば、イエス・キリストの御名によって、すべての病いは癒されます。

 

もちろん、新型コロナウイルスも癒されます。

 

しかし、現実に、聖書に書かれている「しるし」を行なえる「イエス・キリストを信じた者たち」がいないために、

 

世界のリーダー的存在の大国でありクリスチャン国家の「アメリカ」も、ワクチン接種により頼む事態になりました。

 

しかし、ワクチン接種をしても、新型コロナウイルスは次々に変異するために、ワクチン接種した人たちが新型コロナウイルス変異種に感染しました。

 

何回、ワクチン接種しても、新型コロナウイルスに感染します。

日本の総理大臣もそうでした。

 

「政府は21日、岸田文雄首相(65)が新型コロナウイルスに感染したと発表した。

首相は今月12日、4回目となる新型コロナのワクチン接種を受けたばかりだった。」

 

 

しかしながら、プロテスタント福音派の教会に長年、所属していた人たちはわかるのですが、世界中に自称「しるし(神の御業)を行なえる」という牧師や伝道師、宣教師、クリスチャンが少なくありません。

 

中には自称「400人を生き返らせた」という牧師や、病いの癒しの賜物があるという牧師や伝道師は日本でも何人もいます。

 

そういう人たちは、世界中が、新型コロナウイルスに苦しんでいる時こそ、最大の出番だったのですが、出て来て活躍することはありませんでした。

 

もし出て来て活躍すれば、世界は、ワクチン接種により頼むことはなかったでしょう。

 

 

しかし、そもそも、病いをいやす賜物があると自称する人々は、神からのしるしを行なっていません。

 

また、多くの牧師やクリスチャンたちに支持されている人たちは、見世物のように行ない、金儲けをしています。

 

そして、その病いの癒しのショーに参加した数パーセントかの人が癒された!と興奮しています。

 

しかし、数パーセントの成功ならば、他の病いを癒やす宗教、真光教なども毎回行っていますし、神を信じない無宗教の人々の中でも病いが癒される奇跡は起こっています。

 

まったく、聖書に書かれていることと、現在とでは、まるで違うのです。

 

 

では、どうなるのでしょう?

イエスさまはこのように断言されました。

 

「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。」

 

つまり、「イエス・キリストを信じた者たちが、しるしを行なうことが出来なければ、イエス・キリストを信じなくてもよい」ということになります。

 

 

実は、イエス・キリストを信じた者たちが、しるしを行なわなくてもよい理由があります。

 

それは、イエス・キリストを信じていない人たちも、聖書に書かれている時代と現在の時代では、まるで違うからです。

 

どうして、そのようなことが起きたのでしょう?

 

それは、イエス・キリストの十字架上の死によって、この世を支配する者が追い出されて、人間はその支配から解放されたからです。

 

「『今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

 

わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。』

 

イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。(ヨハネの福音書12章31~33節)」

 

 

また、イエス・キリストの流された十字架上の血によって、万物は和解したからです。

 

「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、

 

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。

 

地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

(コロサイ人への手紙1章19~20節)」

 

「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ人への手紙2章15節)」

 

 

さらに、聖書に書かれている時代のイエス・キリストを信じていない人々と、現在のイエス・キリストを信じていない人々は、まるで違うことを見ていきます。

 

現在の人間は、聖書の時代の人々とは違い、基本的にはまるで神の御心に従うように心がけて生きているのです。

 

その聖書箇所とマザーテレサの証も見ていきます。

 

長くなったので、次回へつづく

 

 

 

「日本におけるキリスト教の真実 ⑲ 聖書の教えでは、イエス・キリストを信じている人は現在どこにもいない」

 

前回記事では、「神は人を男と女に創造された。(創世記1:27)」と聖書に書かれているという理由で、LGBTQの方々を擁護するクリスチャンたちは聖書を否定している。と断罪する牧仕(牧師)のYouTubeを紹介しました。

 

そのことについて、現実は性分化疾患(DSD)の方々のように、生まれた時に、医師も男か女かと決められないことを伝えるYouTubeを紹介したわけです。

 

つまり、現実は聖書には書かれていないことが起きているわけです。

しかも、重要なこともたくさん起きています。

 

 

最も重要なことは、イエス・キリストを信じたクリスチャンたちのことです。

 

聖書にはイエスさま御自身が、イエス・キリストを信じた人はどのような人であるかを次のように明確に教えられています。

 

「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

 

信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

 

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。』

 

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。

一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。

 

主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

(マルコによる福音書16章15~20節)」

 

 

つまり、イエス・キリストを信じたクリスチャンというのは、このような者たちのことです。

イエス・キリストを信じる者には次のようなしるしが伴う。

彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

 

手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。

 

主イエス・キリストは彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになったのです。

 

 

聖書はそのことについて、詳細に教えられています。

 

「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。

一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。

 

しかし、民衆は彼らを称賛していた。

そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。

 

人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。

 

また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

(使徒言行録 5章12~16節)」

 

 

次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。

 

そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。

 

そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、

 

その人が何によっていやされたかということについてであるならば、 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。

 

この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。

 

この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、

隅の親石となった石』です。

 

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 

議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。

 

しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。

(使徒言行録 4章5~14節)」

 

 

イエスさまの地上での福音宣教もまったく同じでした。

 

「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。

 

しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。

 

そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。

(ヨハネによる福音書 10章37~38節)」

 

 

「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。

 

人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。

 

こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

(マタイによる福音書4章24~25節)

 

 

さらに、使徒たちだけでなく、教会の食事の世話係に任命された「フィリポ」もイエス・キリストを信じる者に伴う「しるし」を行なっています。

 

「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。

フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。

 

群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。

 

実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。

 

町の人々は大変喜んだ。

(使徒言行録 8章4~8節)」

 

 

しかし、聖書にはその教えが変わることがあります。

例えば、次のようにです。

 

「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。

行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

 

病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

 

帯の中帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。

(マタイによる福音書10章7~10節)

 

 

ところが、イエスさまが逮捕される時が来ると、その教えが次のように変わりました。

 

「それから、イエスは使徒たちに言われた。

『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。』

 

彼らが、『いいえ、何もありませんでした』と言うと、

イエスは言われた。『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。

剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。』

 

(ルカによる福音書22章35~36節)」

 

その後、剣を取る者についての教えが変わっています。

 

「そこで、イエスは言われた。

『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 』

(マタイによる福音書26章52節)」

 

 

さて、イエスさまは、このように明言されました。

 

「信じる者には次のようなしるしが伴う。

彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 

そして、その教えは変わることがありませんでした。

 

聖書のどこにも、「信じる者はしるしが伴わないようになる。」と教えられていないのです。

 

この中の「新しい言葉を語る」ということについては、やみます。と教えられています。

 

「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

(コリントの信徒への手紙一 13章8~10節)」

 

ところが、イエス・キリストを信じる者は「悪霊を追い出し、手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」という「しるし」が伴うことについては、やむ、廃れるという教えはありません。

 

 

しかしながら、キリスト教会の大勢の牧師などの教師たち、大勢のクリスチャンたちは、聖書の教えの一部分だけを恣意的に切り取って教えます。

 

「イエス・キリストを信じて洗礼を受ける者は救われるが、イエス・キリストを信じない者は永遠の滅びの宣告を受ける。つまり滅びに向かっていて、地獄へ行くのです。」

 

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリスト)のほか、人間には与えられていないのです。

 

つまり、イエス・キリストを信じなければ救われない!

 

最後の審判で、イエス・キリストを信じていない人々は、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入ると、イエスさま御自身がハッキリと教えておられるのです。」

 

 

はて?

 

イエスさまはハッキリとこのように教えられていますね。

 

「イエス・キリストを信じる者には次のようなしるしが伴う。

彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

 

手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 

その中の新しい言葉を語ることはやむ。ということですが、「毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」はどうでしょう。

 

記憶に新しい新型コロナウイルスの襲来。

 

その時、キリスト教会は信仰によって、聖日礼拝を行ないました。

 

「イエス・キリストを信じる者は、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」という御言葉も信じて行ったのです。

 

ところが、全国のいくつものキリスト教会で、次々とクラスターが発生したのです。

 

その中の最も拡散したニュースです。

 

「大村知事は13日の会見でこのクラスターがキリスト教の教会で発生したことを明らかにしました。

 

 この教会では、午後2時から4時までと午後6時から8時までの2部制でそれぞれ50人と80人が集まって会話や食事をしていたということですが、教会の管理者によると、検温やマスクの着用、換気は実施し、席の間隔もあけていたということです。

 

 大村知事は『宗教行事かもしれないがこういうコロナの状況で密になって大声で歌ったことは極めて遺憾』などと述べ、豊田市と協議して厳正に対処するとしています。」

 

 

キリスト教会で次々にクラスターが発生したので、ほとんどのキリスト教会は新型コロナウイルスと世間体を非常に恐れて、教会に集まることをやめました。

 

聖日礼拝もしばらく「オンライン礼拝」に変わりました。

 

 

私は個人的に思ったのは、これは神さまの警告だと思いました。

 

何度も繰り返しますが、この御言葉

 

「それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

 

信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

 

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 

 

しかしながら、現在のキリスト教会とイエス・キリストを信じた者たちは「しるし」が伴わないのです。

 

もしも「しるし」が伴っていれば、世界の光となり、新型コロナウイルスの襲来においても害を受けず、癒やしの御業において大活躍しているでしょう。

 

世界中の人々は、そのイエス・キリストを信じた者たちを通して行われる癒しの御業に驚き、イエス・キリストを褒め称えたことでしょう。

 

 

ところが、現実のキリスト教会は、新型コロナウイルスと世間体を非常に恐れたことを露見させながら、

 

「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」だけを切り取って、イエス・キリストを信じていない人々を地獄行きに定める。というキリスト教会の教えは変わりません。

 

「キリスト教の福音の原則は、イエス・キリストを信じた者は救われるが、信じない者は救われない。」という教えは永遠に不滅です。という如しです。

 

その教えから

カトリック教会は、『教会の外に救いなし』という『真理』があり、

 

プロテスタント教会は「イエス・キリストを信じない人々は救われない。滅びに向かっていて、地獄へ行く」という神学がある。

 

これでは、誰が、キリスト教会を信じることができるでしょうか?

 

イエスさまは、そのことを気づかせるために、キリスト教会で次々とクラスターが起こり、ほとんどのキリスト教会はオンライン礼拝となったと思います。

 

 

さて、聖書の時代では、イエス・キリストを信じた者たちに、しるしが伴いましたが、現在の世界ではしるしは伴わなくなりました。

 

そして、イエス・キリストを信じていない人々についても、聖書の時代と現在の世界とではまるで違うことが、聖書に書かれています。

 

そのことについて見ていきます。

 

次回に続く

 

1人、、「信じて洗礼を受ける者は救われるが! 信じない 言じない者は減びの宣 告を受ける 信じる者には次のようなしるしが伴う 信じる者には次のよ しるしが伴う彼らはわたしの名に 彼らはわたしの名に よて悪霊を追い 出し、 新い督る 新し 手で蛇をつかみ、 また、 毒を飲んでも決して害を受けず 病人に手を置けば治 ३. 主は彼らと共に動き、 彼らの語る言葉が真実であることを それに伴うしるしによってはっきりとお示し、 しによってはっきりとお示しになった。 節) 【マルコによる福音書16章16~20 6~20」というテキストの画像のようです

「日本におけるキリスト教の真実 ⑱ 現実の世界は、性別は男と女ではないのです」

 

急遽、予定を変更します。

 

ブログのコメントに、小林拓馬というプロテスタント福音派の教会で人気が高い牧仕(牧師)のYouTubeを見るように勧められていました。

 

それで見てみると、とんでもない論争になっていました。

 

小林拓馬のクラウドチャーチの最新動画のタイトルです。

 

【悲報】歌手の岩渕まことさん「性別は男と女しかない」に違和感表明。脱福音派化か

 

小林牧仕(牧師)とプロテスタント福音派の教会の牧師たち、クリスチャンたちは次の聖書の御言葉を切り取って、人間の性別は男と女しかない!

 

それを否定する牧師やクリスチャンたちは、聖書を否定する者たちだ!と断罪しているのです。

 

創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に創造された。

生めよ。増えよ。地に満ちよ。(創世記1:27~28節)」

 

神は人を「男と女」に創造することによって、人に新しい生命の誕生の恵みを授けられました。

 

それゆえ、イエスさまは、男が女のようになったり、女が男になったりすることを一切認めることはない!

 

それを認めるのは、聖書の神の言葉を否定している!と痛烈に断罪しているのです。

 

 

 

さて、性分化疾患(DSD)として生まれて来られた人たちがいます。

 

その方々は過酷な人生を歩まれています。

 

女性として生まれてきたのに、子宮と卵巣がなく、男性がもつ精巣があった。

 

多くの女性の場合の染色体XX→XY染色体として生まれてくれば、そのような体になるそうです。

 

そして、このままでは支障が出てくるために停留睾丸を摘出した時に、女性としての子宮と卵巣がなく、男性としての使い物にならない睾丸も摘出した。

 

女でも男でもないということになった時に、ぶっ壊れたそうです。

自傷行為を繰り返しました。

 

(最後にその動画をシェアしています。

どうぞご覧ください。)

 

 

たまひよの専門医の話から引用します。

 

「単純に男の子・女の子と分類できない。性分化疾患ってどんな病気?」

 

DSDは男性または女性の典型的な性の形をとらない、先天的な体質

 

ヒトの性には6つの考え方があり、DSDは染色体、性腺、内性器、外性器の性が関係します。(慶應義塾大学病院性分化疾患センターサイトを参考に編集部で作成)

 

――DSDとは、どのような病気なのか教えてください。

 

浅沼先生(以下敬称略) DSDのことを理解するためには、まずヒトの「性」について理解する必要があります。

 

ヒトの「性」は、6つの考え方で構成されます。「染色体」「性腺」「内性器」「外性器」「ジェンダーアイデンティティ」「法律上の性」の6つです。

 

この6つの性のうち、染色体、性腺、内性器、外性器のいずれかの性が、典型的な男性または典型的な女性の形をとらない先天的な体質のことを、DSDと呼びます。

 

――「DSD」という1つの病気ではないのですね。

 

石井先生(以下敬称略) そうです。DSDは先天性な体質の中の1つのグループの名称、と考えるとわかりやすいと思います。

 

DSDというグループの中にはさまざまな疾患が含まれ、疾患によって症状が異なるため、疾患ごとに治療や対処方法も異なります。

 

――DSDのグループには何種類くらいの疾患が含まれるのでしょうか。

 

浅沼 非常にレアな疾患なども含めると100種類くらいになると思います。私と石井先生が勤める慶應義塾大学病院の性分化疾患(DSD)センターでは、その中で比較的患者さんが多い32の疾患が対象となることが多いです。

 

――DSDはどれくらいの割合で発症するのでしょうか。

 

石井 ヨーロッパで行った調査では、生まれたときに性別を決めるために検査が必要なDSDは5000人に1人というデータがあります。

 

日本では全国規模の調査を行っていないので、日本国内での正確な発症率はわかりません。当センターには1年に数十人ほどの方が新たに受診されます。

 

※1 停留精巣(ていりゅうせいそう)/陰嚢(ペニスの下のふくろ)の中に精巣が入ってない状態。男の子の先天的な異常の中でもっとも頻度の高い疾患。

※2 尿道下裂(にょうどかれつ)/男の子の陰茎(ペニス)の生まれつきの異常。通常は尿道の出口は亀頭の先端にあるが、尿道下裂だと尿道の出口が下にずれて陰茎や陰嚢にある。

※3 尿道上裂(にょうどうじょうれつ)/生まれつき尿道が亀頭の先端まで作られず、尿道の出口がおなかに近い方にずれて陰茎にある状態。

※4 陰唇融合(いんしんゆごう)/女の子の左右の小陰唇がくっついて、腟や尿道の穴が見えない状態。

 

「アンドロゲン不応症候群」だと男性ホルモンが出ていても外性器は女性型に

 

――世界的な大会で、女子ボクシングに出場したアルジェリアのイマネ・ケリフ選手の性別が話題になり、DSDも注目されました。

 

報道などによると、ケリフ選手は「アンドロゲン不応症候群」と言われているようです。どのような病気ですか。

 

浅沼 ケリフ選手がアンドロゲン不応症候群なのかどうかは、報道されている情報だけでは私たちには判断できません。だから、ケリフ選手とは関連づけずに、アンドロゲン不応症候群についてを説明します。

 

アンドロゲン不応症候群の人は、染色体が46,XYで精巣を持ち、精巣からはテストステロンというアンドロゲン(男性ホルモンを意味します)が、正常な男性と同じくらい、またはそれ以上に分泌されています。

 

ところが、そのアンドロゲンが存在はしても作用しないので、男性化が起こらない疾患です。

 

この病気には完全型と不完全型があり、タイプによって性器の状況は異なります。完全型の場合、外性器は完全に女性型となり、第二次性徴期には乳房が大きくなりますが、子宮はないので生理は起こりません。

 

引用以上

 

 

下の動画の最後に性分化疾患(DSD)のクラインフェルター症候群(4500人に1人)の方がこのように訴えています。

 

「男性的、女性的という性の押しつけをしないような世の中になっていったら、僕たちのような人は、生きるのが楽になると思います。」

 

 

さて、クリスチャンの立場とすれば、どう答えるでしょう。

 

イエスさまは、「男か女か」などと絶対に言われないでしょう。

なぜなら、このように教えられているからです。

 

「そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。

 

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

 

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 

これがたいせつな第一の戒めです。

 

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

 

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。

(マタイの福音書22章35~40節)」

 

 

現在でも、律法の専門家やパリサイ人のような牧師やクリスチャンたちは、他のクリスチャンたちを試します。

 

性分化疾患(DSD)の人たちやLGBTQの人たちを連れて来て、次のように言うでしょう。

 

「聖書には神は男と女に創造された。と書かれています。だから、この人たちは罪を犯していますね。」

 

すると、このように答えなさいと主イエス・キリストは言われるでしょう。

 

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』