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ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教の真実 ㊲ プロテスタント教会から批判されたクリスチャン中村哲医師」

 

聖書にはイエスさまが「あなた方は世界の光です。」と教えられました。

 

最近、日本人のクリスチャンで世界の光となったのは、アフガニスタンで殉教された「中村哲」医師です。

 

2024年12月の文藝春秋にも次のような特集記事が掲載されています。

 

「 “アフガニスタンの60万人を水路で救った”といわれる医師の中村哲さんは、2019年12月4日の朝、武装勢力に襲われて命を落とした。あれから5年、親交の深かったノンフィクション作家の澤地久枝さんのインタビューを一部紹介します。」

 

引用以上

 

 

あの2019年12月4日から、世界中で中村哲医師について報道され続けているわけです。

 

中村哲医師がクリスチャンだということで、クリスチャンたちは大喜びしましたが、次のような報道によって、一転して、中村哲医師を批判することになったのです。

 

AbemaTV より引用

 

中村さんは用水路や井戸の建設に尽力し、事業で潤った土地は東京ドーム約3500個分にあたる約1万6000ヘクタール。

 

約60万人が恩恵を受けたとされる。

 

またそれだけにとどまらず、モスクやマドラサ(イスラム神学校)を建設し、

 

「水が来た時ももちろんよろこびましたけど、モスクが建つと聞いてもっとよろこんだんですよ。『これで解放された』と言った。

 

それまで自分たちが営んできた伝統的な生活がすべて、外国の進駐によって否定されてきたわけですよね。

 

イスラム教徒であることが悪いことであるかのように、一種のコンプレックスが(村を)支配していた。

 

やっぱり“地元の人が元気がでるには”というのはありましたよね」と話している。

 

引用以上

 

 

なんと、中村哲医師はクリスチャンでありながら、イスラム教のモスク(礼拝堂)やマドラサ(イスラム神学校)をいくつも建設して喜んでいるのです。

 

中村哲医師の著書「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束」の中で、プロテスタント教会のバプテスト派で洗礼を受けて、「いちおうキリスト教徒になりました。」と言っています。

 

 

 

プロテスタント教会の教えは、イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行くということが信仰の根本です。

 

プロテスタント教会の中でも「日本キリスト教団」は神学的にいうと『自由主義神学』をベースにしており、『リベラル』とも呼ばれているそうです。

 

その日本キリスト教団の中でも最も寛容な教えをしていると言われているのが「佐古純一郎」名誉牧師です。

 

それゆえ、NHKの番組「こころの時代」で、1996年4月~1997年3月の一年間「新約聖書を語る」というタイトルでメッセージを語る牧師に抜擢されたのです。

 

その後、反響が大きかったので、NHK出版から「新約聖書を語る」が出版されたのです。

 

 

なので、プロテスタント教会の中で、最も多くの日本人に顔と名前が憶えられて影響力がある牧師は、佐古純一郎名誉牧師ということになるでしょう。

 

 

テレビを視聴することが出来なかった人々も本を購入して、キリスト教の教えを知ることが出来ました。

 

私も昨年、NHK出版の佐古純一郎名誉牧師の著書「新約聖書を語る」を購入しました。

 

その著書の中には次のように書かれていました。

 

「いちばん大事な点は、神はお創りくださった私たちが一人も滅びないように願っていてくださるということです。

 

『滅び』というのは、私たちの感覚では、地獄に行くこと、と考えていいと思います。

 

先ほど述べた『ローマの信徒への手紙』七章でパウロは、『善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっている』ということを、

 

『わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか』(二四節)と、

 

『死に定められた体』というところまで突きつめていきます。

 

この『死に定められた体』は『地獄行き』と言い換えてほとんど違わないと思います。

 

神は罪人としかいいようのない、この私をなお、滅びないように願っていてくださる。

 

〈中略〉

 

神の側から言えば、『死に定められた体』としかいいようのない人間が一人だって滅びないようにというのが、お創りくださった神の愛の御心なのです。

 

〈中略〉

 

「したがって『イエス・キリストの福音』ということは、ナザレの大工の息子として生まれたイエスが神の独り子であり、

 

そのイエス・キリストによって罪が赦され、永遠の命を得ることができるようになるという、まことに喜ばしいおとずれのことなのだといってよいのです。」

 

引用以上

 

 

この著書を読めばわかるように、多くの人々は、佐古純一郎名誉牧師を通して、

 

キリスト教の教えはイエス・キリストを信じていない人々は地獄へ行くことになり、イエス・キリストを信じれば永遠の命を得るということを認識したことでしょう。

 

 

なので、プロテスタント教会の教えは、無神論者や他宗教、イスラム教徒のままで死んでしまえば、地獄へ行くのです。

 

ですから、クリスチャンの使命は至極当然に、イスラム教徒たちを悔い改めさせて、キリスト教に改宗させて、救いに導かなければなりません。

 

それゆえ、プロテスタント教会で洗礼を受けた中村哲医師が、イスラム教の礼拝堂のモスクやマドラサ(イスラム神学校)をいくつも建設しているのは、背信行為です。

 

まるで、イスラム教徒の人々が地獄へ行くことに協力しているという行為は、批判されて当然です。

 

 

しかし、前述の中村哲医師の著書を読めば、中村哲医師はそのような教えのプロテスタント教会をやめて、無教会派になったことがわかりました。

 

次のように発言されています。

 

「実際、私はクリスチャンになっても、三位一体とか、教理(プロテスタント教会の教理)を聞けば聞くほどよくわからないんですよ。

 

どうして、イエス・キリストと聖霊が一体なのか。どういうことかなと。

 

その疑問を解いてくれたのは、内村鑑三という人でした。

 

日本的な色彩の強いクリスチャンですが、内村鑑三のインパクトというのが、非常に大きかったです。

 

それもあって、クリスチャンになったということだと思います。」

 

「滝沢克己教授という方が九州大学にいて、クリスチャンでした。その先生を通じて、神学者のカール・バルトの著作に触れることがありました。

 

自分は、いちおうクリスチャンで(笑)、クリスチャンであるということと、儒教徒に近いということがどう折り合えるのか。

 

内村鑑三を通して感じたものをさらに明瞭にしてくれた。

フッと『あ、これでいいんだな』と……。」

 

「だからよく、キリスト教会のほうから、イスラム教徒と接して、最近はモスクまでつくっているので、

 

『矛盾はないのか』と言われるけど、矛盾はありません。」

 

「私は、日本人がキリスト教というときに、あれはほんとうのキリスト教ではなくて、ヨーロッパ教というものがあって、それをキリスト教と勘違いしているんじゃないかという気がします。」

 

引用以上

 

 

中村哲医師は、イスラム教徒のまま、儒教徒のままで、イエス・キリストを信じることなく死んでも地獄へ行かないという信仰が、イエスさまから与えられていると思いました。

 

その信仰は「十字架につけられたキリスト」によって成立します。

 

十字架につけられたキリストは『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』(ルカの福音書23章33~34節)」と

 

イエスさまを信じることができない人々を赦しました。

 

また、聖霊に満たされたクリスチャンのステパノは『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』と大声で叫びました。

 

そして、最後の審判において、イエス・キリストを信じなかった罪とイエス・キリストとクリスチャンを迫害して殺した罪は無罪放免となっていたのです。

 

ここに御父と御子イエスと聖霊が一つとなって、イエス・キリストを信じなかった人々をそのままで赦している「あわれみと愛」が現わされています。

 

 

それは、使徒パウロが体験したことでも現わされていることが次のように書かれています。

 

「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、

 

大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。

 

それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。

 

ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。

 

彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。

 

彼が、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、お答えがあった。

 

『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

 

 

さて、主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えているサウロに対して、イエスさまは『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。』と言われたのです。

 

プロテスタント教会の教えでは、まず罪を指摘し、悔い改めさせて、イエス・キリストを信じなさい、そうすれば、あなたの罪は赦されて、救われます。ということです。

 

しかし、イエスさまは、罪を指摘せず、悔い改めもさせず、信じることも求めませんでした。

 

それは当然です。十字架につけられたキリストによって、イエス・キリストを信じずに殺した罪は

『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』という理由によって、すでに赦されているわけです。

 

それゆえ、その罪を指摘したり、悔い改めをさせたり、信じることを求めることをするはずがありませんでした。

 

 

イエスさまは、クリスチャンに対する脅かしと殺害の意に燃えているサウロに、「わたしがイエスである。」と自己紹介をされたあと、

 

もうすでに弟子と同じ扱いで「立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」と言われたのです。

 

 

サウロ(のちの使徒パウロ)は、このことについて、

 

「イエス・キリストを信じていない時に、知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」と語り、

 

さらにクリスチャンたちに同じようにしなさいと教えています。

 

長くなったので、次回、そのことについて詳しく見ていきますが、この教えから、中村哲医師の信仰が正しいことがわかります。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㊱ 十字架につけられたキリストと聖霊に満たされたクリスチャン」

 

前回記事ではサザエさんの著者の長谷川町子先生が無教会派のクリスチャンであり、「救い」についての教えが、無教会派とプロテスタント教会とはまったく違うことを見ていきました。

 

さらに今回は「十字架につけられたキリスト」と「聖霊に満たされたクリスチャン」は一致していることの教えを見ていきます。

 

無教会派の創設者である内村鑑三先生は、キリスト教は十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えることを主張しました。

 

それは次の御言葉によるものです。

 

「 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。(コリント人への手紙第一1章22~23節)」

 

その十字架につけられたイエス・キリストは次のように言われました。

 

「『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

 

そのとき、イエスはこう言われた。

 

『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』

(ルカの福音書23章33~34節)」

 

 

以前の投稿記事でも言いましたが、なんということでしょう!

 

十字架につけられたイエス・キリストは、十字架につけて残酷非道に殺す人々の罪を無条件で赦してくださいと言われたのです。

 

そして「イエスは大声で叫んで、言われた。

『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』

 

こう言って、息を引き取られた。

(ルカの福音書23章46節)」

 

 

今度は、聖霊に満たされたクリスチャンについて見ていきます。

 

そのクリスチャンは「ステパノ」です。次のようにステパノの証が書かれています。

 

「さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。

 

ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。

 

しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対応することができなかった。

 

そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた」と言わせた。

 

また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行った。(使徒の働き6章8~12)

 

その議会でのステパノの発言です。

 

「あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。

 

彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

 

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」

 

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。

 

しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。

 

『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』

 

人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。

 

そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。

 

証人たちは、自分たちの着物をサウロ(後の使徒パウロ)という青年の足もとに置いた。

 

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。

 

『主イエスよ。私の霊をお受けください。』

 

そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。

 

『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』

こう言って、眠りについた。

 

(使徒の働き7章52~60節)」

 

 

このように、聖霊に満たされたステパノは、十字架につけられたイエス・キリストとまったく同じことを言って死んでいきました。

 

イエスはこう言われました。

 

『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』

 

聖霊に満たされたステパノはこう叫びました。

 

『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』

 

 

また、イエスは大声で叫んで、言われました。

『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』

こう言って、息を引き取られた。

 

そして、聖霊に満たされたステパノはこう言いました。

『主イエスよ。私の霊をお受けください。』

 

 

つまり、聖霊に満たされたクリスチャンは、十字架につけられたイエス・キリストとまったく同じ「愛とあわれみ」の言葉で一致していたのであります。

 

イエス・キリストをメシヤ(救世主)と信じない人々が、自分を残酷非道に殺すわけです。

 

しかし、そのイエス・キリストを信じない罪人たちを、無条件で赦すという愛とあわれみを言い現わしているのです。

 

それが、聖霊に満たされたクリスチャンであります。

 

 

自分を残酷非道に殺す人々を無条件で赦すというのは、人間には不可能です。

 

普通の人間であれば、自分を残酷非道に殺す人々を絶対に赦さない!

 

「そんなことをすれば地獄に行くぞ!」と言い放ちます。

 

 

どうして、ユダヤ人たちはイエス・キリストとステパノを殺したかといえば、先祖代々から、イエス・キリストを来るべきメシヤ(救世主)と信じなかったからです。

 

それゆえ、ステパノは次のように言いました。

 

「あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。

彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」

それを聞いた人々が怒って、ステパノを殺したのです。

 

 

イエスさまは『彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』という理由で、

 

天におられる御父に『父よ。彼らをお赦しください。』と言われました。

 

今度は、聖霊に満たされたステパノはイエスさまにこう叫びました。

 

『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』

 

それゆえ、その後に、昇天されたイエス・キリストが来臨されて、最後の審判の判決理由に、

 

イエス・キリストを信じなかったという理由と、残酷非道にイエスさまやクリスチャンたちを殺した理由は、無罪放免とされていたのです。

 

 

この教えは人間にとっては驚くべき教えです。

 

人間の思いでは、イエス・キリストをメシヤ(救世主)と信じないで、イエスさまとクリスチャンたちを残酷非道に殺す人々に対する最後の審判を次のように定めたいです。

 

「イエス・キリストを信じなかった罪によって、地獄に行き、永遠に炎の中でもがき苦しめ!」

 

とにかく、イエス・キリストを信じない人々を赦さない!

 

イエス・キリストを信じた私たちは天国へ行く!

 

しかし、イエス・キリストを信じなかった人々は地獄へ行き、永遠に炎の中でもがき苦しむという教えを無理やりに作り上げます。

 

それが罪を持っている人間というものです。

 

 

しかし、十字架につけられたイエス・キリストと聖霊に満たされたクリスチャンの教えは、まったく違いました。

 

イエス・キリストをメシヤ(救世主)と信じないで、残酷非道にイエスさまとクリスチャンたちを殺す人々に対して

 

『彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』という理由によって、無条件で赦してくださいという教えでした。

 

 

人間の努力や知恵では不可能です。絶対に赦すことはできません。

 

イエス・キリストを信じない人々を地獄行きにする聖書解釈と福音理解を作り上げるでしょう。

 

それが罪人のなせることです。

 

つまり、聖霊を受けていないクリスチャンたちは、イエス・キリストを信じない人々を地獄行きにする聖書解釈と福音理解を作り上げることになります。

 

 

ですが、聖霊に満たされたクリスチャンは、聖霊の助けによって、赦せるようになるのです。

 

そのことを使徒パウロが体験しました。

 

それゆえ、前述の「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」と教えています。

 

さらに、そのことについて、使徒パウロは詳しく教えている聖書箇所があります。

 

そして現在では、無教会派の内村鑑三先生が、そのことを強調して教えていました。

 

長くなったので、次回からもその教えについて見ていきます。

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉟ サザエさんの著者がプロテスタント教会を嫌う理由」

 

サザエさんの著者の長谷川町子先生が「私の自叙伝」として描かれた「サザエさん うちあけ話」の中で、プロテスタント教会について、次のように言っています。

 

「このうらめしいメソジスト教会に、私は泣く泣く先生・奥さまのお供をして毎週かようハメとなりました。」

 

(メソジスト教会とはプロテスタント教会の福音派の中の一つの教会です。)

 

そして、無教会の矢内原忠雄先生との思い出が4ページも描かれていました。

 

著書「長谷川町子 思い出記念館」の中には、クリスチャンとしての証がいくつもありますが、次のように無教会を主張されています。

 

「私、クリスチャンといっても、内村鑑三先生から矢内原忠雄元東大総長につながる無教会派なんです。」

 

 

私は、長年、プロテスタント教会の福音派に所属していましたので、長谷川町子先生の「このうらめしい教会に泣く泣く、毎週かようハメになりました。」と言われているページを見た時、救われる思いで感動しました。

 

と言いますのは、まったく同じ心境だったからです。

 

そして、長谷川町子先生と同じ無教会派になったわけですが、その最大の理由は、今までお伝えした通り、「救い」についての教えがまったく違うからです。

 

 

それでは、プロテスタント教会と無教会の教えを比べてみます。

 

プロテスタント教会は次のように教えています。

 

「ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる。

 

それが私たちプロテスタント教会の信仰の根本です。」

 

それは、ローマ人への手紙10章9~10節のこの教えです。

 

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

 

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

 

つまり、プロテスタント教会は、このローマ人への手紙10章9~10節から、イエス・キリストを信じた人々は義と認められて救われて、天の御国に入ります。

 

しかし、イエス・キリストを信じなかった人々は、義と認められない罪人であるから救われない。

 

最後の審判でさばかれて、永遠の火に入るのです。ということが信仰の根本にしているのです。

 

しかしながら、この教えでは、約99%のイエス・キリストを信じていない日本人が永遠の火に入ることになります。

 

なので、「神のあわれみがある」「もしかしたら、イエス・キリストを信じていたかもしれない」などと、うやむやにする牧師やクリスチャンたちが増えています。

 

それゆえ、「イエス・キリストを信じなかった人々は、義と認められない罪人であるから救われない」という信仰の根本をハッキリと伝える牧師やクリスチャンたちから𠮟咤激励を受けています。

 

 

そして、プロテスタント教会に通えば、ローマ人への手紙10章9~10節の御言葉から

 

「ただ生前に、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる。

 

しかし、生前にイエス・キリストを信じなければ、義とされることはないので、罪人のままである。罪人のままでは救われない。

 

最後の審判でさばかれて、永遠の火に入ります。」という教えを植えつけられて(洗脳されて)、信じるようになるのです。

 

 

今度は「無教会派」の教えです。無教会に牧師や伝道師、宣教師など上の立場の人たちはいません。

 

無教会の創始者の内村鑑三は「私は師では無く友です」と発言。

 

内村先生の弟子、矢内原忠雄先生も「私は牧師でも神学者でもない。信仰に専門家も素人も区別はない。信仰は全の人にわかる共通の真理で、共通の恩恵である」と教えています。

 

つまり無教会はすべてのクリスチャンが信徒であり、エゼキエル書にあるようにイエスさまご自身が養って下さる環境です。

 

その無教会派の立場からローマ人への手紙10章9~10節の教えを見ていきます。

 

このローマ人への手紙は、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロが、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ書かれた手紙です。

 

ローマ人への手紙10章9~10節の続きには、次のように書かれています。

 

13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。

 

 

つまり、ローマ人への手紙10章9~14節を読めば、イエス・キリストを信じれば、至極当然に、イエス・キリストの御名を呼び求めます。

 

イエス・キリストの御名を呼び求める者は、誰でも救われるということです。

 

ですから、死ぬ前にイエス・キリストの御名を呼び求めていない者は、最後の審判のさばきで地獄行きが決定的だと言えるでしょう。

 

このローマ人への手紙10章9~14節だけを切り取って見れば、プロテスタント教会信仰の根本をハッキリと伝える牧師やクリスチャンたちが正しいことになります。

 

 

なので、先に亡くなってしまった、私の祖父母、両親、友人知人、テレビなどを通して生きる糧を与えてくださった俳優の方々、歌手の方々は、イエス・キリストの御名を呼び求めていないことは明白なので、地獄行きが決定的ということになります。

 

 

その中の1人の超名優であられる「高倉健」さんは、文藝春秋2015年1月号に病床で綴った最後の手記が掲載されています。

 

その最後の手記にはイエス・キリストのことは何も書かれていません。

 

お世話になった天台宗の阿闍梨さんとのことが切実に書かれていて、最後は、次の文で締めくくられています。

 

「『往く道は精進にして、忍びて終わり、悔いなし』

阿闍梨さんが浮かべる満面の笑みとともに、僕に一つの道を示し続けて下さっている。合掌」

 

 

この日本では、高倉健さんのように仏教徒の方に影響を受けた人も少なくありませんし、浄土真宗の信者が最も多く、仏教徒として亡くなる方も多いでしょう。

 

また、無宗教の人々は非常に多く、亡くなる直前は、愛する人たちを想って亡くなると思います。

 

そういう時に、イエス・キリストの御名を呼び求める人を聞いたことがありません。

 

なので、プロテスタント教会の信仰の根本を教えられれば、絶望しますし、そんなイエス・キリストを信じないという理由で地獄行きにする神など、悪魔のようです。

 

大勢の日本人たちを最後の審判のさばきで、イエス・キリストを信じないと義とされないという理由で地獄行きにする悪魔のような神など、到底、信じることはできません。

 

それゆえ、サザエさんの著者の長谷川町子先生が泣く泣く、プロテスタント教会に毎週かようハメになりました。という理由がわかります。

 

 

ところが、無教会派の教えは、プロテスタント教会のようにローマ人への手紙10章の教えを9~14節だけを切り取って教えず、続きを見ていくものでした。

 

その続きは次のように教えています。

 

「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。ローマ人への手紙11章1節」

 

「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

 

かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。

 

それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。ローマ人への手紙11章11節」

 

「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。

 

それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。

 

その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

 

こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。ローマ人への手紙11章25,26節」

 

「ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、

 

彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

 

なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

 

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

(ローマ人への手紙11章31~33節)」

 

 

無教会派の内村鑑三先生の著書「内村鑑三聖書注解全集第十七巻ロマ書の研究(下)には次のように書かれています。

 

(ローマ人への手紙11章31~33節について)

 

「これ偉大なる賛美の歌にして、(ローマ人への手紙)八章終尾の賛歌と相対してその美を競うものである。

 

かれは救いの確実なるを知りて挙げたる凱歌、

まことに(ローマ人への手紙)九章より十一章にわたる人類救済論の結尾としてふさわしきものである。」

 

引用以上

 

 

内村先生は、ローマ人への手紙11章31~33節を、ローマ人への手紙九章より十一章にわたる人類救済論の結尾として教えました。

 

その教えによって、プロテスタント教会の信仰の根本の教えとは真逆となります。

 

日本人は、イエス・キリストを信じることはなく、イエス・キリストに対して不従順のままで亡くなる人が圧倒的に多いです。

 

それは、ローマ人への手紙九章より十一章にわたる人類救済論の結尾として、

神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

 

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

 

このように、神の究極のあわれみと神の愛を現わす教えになります。

 

 

プロテスタント教会の教えは、ローマ人への手紙をローマ人への手紙10章9~14節を恣意的に切り取って「信仰の根本」にすることによって、

 

イエス・キリストを信じない人々を地獄行きに定めました。

 

ところが、無教会派の内村鑑三先生は、ローマ人への手紙11章31~33節を、ローマ人への手紙九章より十一章にわたる人類救済論の結尾として教えました。

 

つまり、イエス・キリストを信じない人々が、イエス・キリストに対して不従順でも、あわれみを受けるという聖書に忠実な教えです。

 

長くなったので、次回へつづく

 

 

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉞ まったく違うクリスチャンの聖書解釈と福音理解について」

 

前回記事をさらに詳しく、例えと聖書から説明します。

 

例えです。ある女性に結婚したい男性が現われました。しかし女性の父親はその男性の噂や感じるものから不安が大きく反対しました。

 

けれど、その女性は家を出て行き、男性と結婚したのです。

 

女性の父親は「不幸になるぞ!」「親子の縁を切る」「二度と実家に帰って来るな!」などと厳しく見捨てる発言をしました。

 

その後、父親の不安は的中して、女性は不幸のどん底に陥りました。

 

すると、父親は以前の厳しく見捨てる発言を無効にして、「もう赦しているよ。帰っておいで」とあわれみ深い親の愛の言葉を伝えたのです。

 

 

さて、その話を聞いた女性の友達は、女性の父親をどう思うでしょう?

 

以前の父親の言葉「不幸になるぞ!」「親子の縁を切る」ということをいつまでも根に持って、冷たい親だと思うことなく、あわれみ深い父親と思うことでしょう。

 

聖書が教える神イエス・キリストも同じです。

今度は聖書を見ていきます。

 

 

地上でのイエス・キリストの言われたことの中に、イエス・キリストを信じていない人々に対して非常に冷酷に見捨てる次の言葉があります。

 

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、

 

『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。

 

こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。

 

おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

 

だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。

 

それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。

 

(マタイの福音書23章29~35節)」

 

 

このイエスさまの教えは、預言者たちを殺した者たちの子孫である蛇ども、まむしの末どもの律法学者とパリサイ人たちが死ねば、地獄行きが決定だと思います。

 

 

そして、その蛇ども、まむしの末どもの律法学者とパリサイ人たちが、父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たす時が来ます。

 

それが、イエス・キリストを十字架につけて殺す時です。

 

人間の思いでは、その時、十字架につけられたイエス・キリストが言われることは、念を押して、もう一度、地獄行きを宣告されると思います。

 

また、次の御言葉を念を押して、わたしを信じない者はさばかれていて滅びると言われると思います。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

(ヨハネの福音書3章16~18節)」

 

 

しかし、十字架につけられたイエス・キリストが言われたことは、人間の想像を遥かに超えた「神のあわれみと愛」に満ちあふれた次の言葉でした。

 

「そのとき、イエスはこう言われた。

 

『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』

 

(ルカの福音書23章34節)」

 

 

なんと、前述の地獄行きを宣告する言葉(マタイの福音書23章29~35節)も、

 

信じない者はすでにさばかれているので滅びを宣告する言葉(ヨハネの福音書3章16~18節)の言葉も、

 

十字架につけられて無効にされたのです。

 

「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

(コロサイ人への手紙2章14節)」

 

 

しかしながら、人間の思いでは、それを果たして天の御父の御心であるかはわかりません。

 

そのことが判明するのが、十字架につけられたキリストが死なれて、三日目によみがえられ、昇天され、右の座に着かれ、来臨時における最後の審判でした。

 

そのイエス・キリストの来臨時の最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)において、イエス・キリストを信じなかった罪や、預言者を殺し、イエス・キリストを殺したという罪は判決理由になかったのです。

 

つまり、十字架につけられたキリストが言われた『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』という理由と、十字架に釘づけにされたことによって、無罪放免となっていたのです。

 

 

ですから、クリスチャンたちはの使命は、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。(コリント人への手紙第一1章22~23節)

 

なので、十字架につけられたイエス・キリストの人として死なれるラストメッセージに現わされた「あわれみと愛」によって、地獄行きを宣告する言葉(マタイの福音書23章29~35節)は無効であり、

 

信じない者はすでにさばかれているので滅びを宣告する言葉(ヨハネの福音書3章16~18節)も無効であることを宣べ伝えるのです。

 

 

それゆえ、使徒パウロは次のように教えています。

 

「ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、

彼らも、今は不従順になっていますが、

 

それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

 

なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

 

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

 

(ローマ人への手紙11章30~33節)」

 

「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。

 

それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

 

(テモテへの手紙第一1章13節)」

 

 

しかしながら、このような聖書解釈と福音理解とはまったく違う教えがあります。

 

カトリック教会の神父は次のように教えています。

 

「カトリック教会には『教会の外に救いなし』という言葉があります。

 

教会の外の世界は悪にまみれた世界であって、教会の中にとどまるときにだけ救われることができるという意味で使われてきた言葉です。」

 

つまり、イエス・キリストを信じない人々に救いはないのです。

 

 

また、プロテスタント教会は次のように教えています。

 

「ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる。

 

それが私たちプロテスタント教会の信仰の根本です。」

 

さらに、ヨハネの福音書3章16節を一冊の聖書を要約した聖書の中の聖書として、イエス・キリストを信じない人々は滅びに向かっていて、すでにさばかれている。

 

そのまま死ねば、最後の審判におけるファイナルアンサー(イエス・キリストを生前に信じなければ義とされない)という判決理由によって、地獄行きとなり、

 

イエス・キリストを信じなかった人々は、永遠に炎の中でもがき苦しむという聖書解釈と福音理解です。

 

 

このように、クリスチャンといっても、その聖書解釈と福音理解はまったく違うのです。

 

ただ、カトリック教会においては、ごく一部において、マザーテレサの聖書解釈と福音理解は容認されていますし、

 

万人救済を思わせる晴佐久昌英神父の教えも反発の声が多くてもなんとか容認されています。

 

それゆえ、カトリック教会の中では批判非難、争いが絶えません。

 

 

また、プロテスタント教会の中でも、セカンドチャンス論(死後に福音宣教があり、そこで救われる可能性がある)という教えがあり、激しい論争になっています。

 

そして、プロテスタント教会の「ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる。

それが私たちプロテスタント教会の信仰の根本です。」ということに付け足して、

 

しかしながら、イエス・キリストを信じていない人々を、神はあわれんでくださることを信じましょう。という意味不明の教えがあり、さっぱりわからなくさせています。

 

「ただ、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる。

 

でも、信じなくて義とされていなくても、神のあわれみがあるから救われるとでもいう意味か?

 

そういう教えは二律背反であり、さっぱり意味がわかりません。」というような困惑する声をよく見聞きしました。

 

 

それから、プロテスタント教会の中では、「福音派」の中で「イエス・キリストを信じない人々は罪人だから地獄行き」ということを強調する教会も少なくありません。

 

大学教授の阿満利麿氏の著書「日本人はなぜ無宗教なのか」の中ではこのように書かれています。

 

「たとえば、東京銀座で銀ブラを楽しんでいる最中に突如、強力なスピーカーで「あなたがた罪人は悔い改めよ」と説教されることがある。

 

だが、通行人の大方は自分たちが『罪人』だとは思わない。

 

むしろスピーカーの主に常識のない言いぐさだと侮蔑の視線を投げかけるのがおちであろう。

 

もちろん、キリスト教のすべてがこのような強圧的な説教をしているわけではないが、

 

人間はすべて『罪人』だという考え方をもっていることはたしかである。」

 

引用以上

 

 

プロテスタント教会の教えは、すべての人間は生まれながらの「罪人」であり、地獄へ行くことが当然であった。

 

しかし、イエス・キリストを信じれば、すべての罪は赦されて、義とされて救われる。

 

ところが、イエス・キリストを信じなければ、罪は赦されることはないので、そのまま死ねば、最後の審判において、罪を赦されていないという判決理由で地獄へ行く。という教えです。

 

「そのような教えを信じません!」と言い放っているのが、無教会の内村鑑三先生であり、

 

反発されているのが、無教会(所属教会はない)中村哲医師であり、無教会の長谷川町子先生でした。

 

この使徒パウロの教えを思い起こさせるものです。

「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。

それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

(テモテへの手紙第一1章13節)」

 

長くなったので、次回に続く

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉝ 聖書の最も大切な教えについて」

 

今回の記事は、これまでの記事の集大成というべき、クリスチャンとして最も大切な教えは次の通りです。

 

「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

 

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。

 

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

 

(コリント人への手紙第一15章2~5節)」

 

「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。

 

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。(コリント人への手紙第一1章22~23節)」

 

 

つまり、クリスチャンとして最も大切な教えは、私たちの罪のために死なれて三日目によみがえられたという「十字架につけられたキリストを宣べ伝えること」です。

 

この福音によって、私たちは救われると明言されています。

 

では「十字架につけられたイエス・キリスト」の聖書箇所を見てみましょう。

 

 

「『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

 

そのとき、イエスはこう言われた。

『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』

 

(ルカによる福音書23章33~34節)」

 

 

イエス・キリストを来るべきメシヤ(救世主)と信じない人々は、この偽キリストと定めたイエス・キリストを滅ぼすために残酷非道に十字架につけて殺します。

 

その時、十字架につけられたイエス・キリストは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と言われたのです。

 

そして、殺されたキリストが三日目によみがえられて昇天し、天の右の座に着かれました。

 

その後、来臨時の最後の審判において、なんと、十字架上の御言葉通りに、イエス・キリストを信じなかったという罪と、残酷非道に殺した罪は無罪放免になっていたのです。

 

なぜなら、最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)は、イエス・キリストを信じなかったという罪と残酷非道に殺した罪ではなかったのですから。

 

つまり、イエス・キリストを信じなかった罪と残酷非道に殺した罪を、イエス・キリストは背負われて死なれたということです。

 

それゆえ「彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」という理由で、赦されたのです。

 

なんという驚くべき神のあわれみでしょうか、なんという驚くべき神の愛でしょうか。

 

まさに次の御言葉通りです。

 

「キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

 

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

 

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 

(ローマ人への手紙5章6~8節)

 

 

ですから、私たちはこの十字架につけられたイエス・キリストを通して、驚くべき神のあわれみと神の愛を伝える福音によって救われると聖書は明確に教えているのです。

 

この聖書解釈と福音理解をされている筆頭が、無教会の内村鑑三先生です。

 

内村先生は、キリスト教は「十字架教」というべきで、十字架につけられたキリストによる「万人救済論」を説かれています。

 

この「万人救済」というのは、イエス・キリストを信じない人々が、十字架につけられたイエス・キリストによって罪が赦されているという意味です。

 

そして、内村先生の弟子の宮澤賢次の有名な詩「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」のモデルといわれている斉藤宗次郎氏、

 

東京大学総長を務め、正三位勲一等瑞宝章を授与された無教会主義キリスト教の指導者としても知られる矢内原忠雄先生、

 

その矢内原先生を家族みんなで慕って教えを受けたサザエさんの著者で国民栄誉賞が授与された長谷川町子先生。

 

長谷川さん先生は「家庭漫画を通じて第2次世界大戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えた」というのが授賞理由でした。

 

1946年に新聞連載が始まった「サザエさん」は1969年にテレビアニメの放送も開始。いまも放送は続いており、驚異的なクリスチャンの証人です。

 

それから、アフガニスタンで45万人の命を救って殉教された無教会の中村哲医師、

 

最近では、この中村哲医師が驚異的なクリスチャンの証人となったことは記憶に新しいですね。

 

さらに、インドで多くの最も小さき者たちを救われたマザーテレサ、三重苦の聖女といわれたヘレン・ケラー、

 

元真珠湾攻撃総隊長の 淵田美津雄伝道師は『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』(ルカによる福音書23章34節)だけを伝えておられました。

 

 

このように、十字架につけられたキリストによって、イエス・キリストを信じなかったという罪は赦されたという聖書解釈と福音理解を宣べ伝えている信仰者は世界の光となって、大きく用いられています。

 

 

しかし、プロテスタント教会はこの聖書解釈と福音理解とはまったく違います。

 

「ヨハネの福音書3章16~18節」を最も大切な教えとしているからです。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

(ヨハネの福音書3章16~18節)

 

この聖書箇所を聖書のすべてを要約している。聖書の中の聖書がヨハネの福音書3章16節です。とすべての牧師が一致して教えています。

 

すると、イエス・キリストを信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 

つまり、最後の審判において、当然にイエス・キリストを信じなかった人々は地獄の火に投げ込まれるという聖書解釈と福音理解となります。

 

最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)は、イエス・キリストを信じなかった罪によって、さばかれる。

 

なので、イエス・キリストを信じていない人々は滅びに向かっていると断言します。

 

 

このように、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。という御言葉(コリント人への手紙第一1章23節)を最も大切な教えにしているクリスチャンたちは、

 

十字架につけられたキリストが言われた『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』という御言葉(ルカによる福音書23章34節)が、

 

最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)の御言葉(マタイによる福音書25章31~46節)において成就されていることを純真に信じて、

 

イエス・キリストを信じなかった罪は十字架につけられたキリストによって赦されたことを伝えます。

 

 

しかし、プロテスタント教会のようにヨハネの福音書3章16~

~18節を最も大切な教えとしているクリスチャンたちは、イエス・キリストを信じない人々はさばかれると教えます。

 

つまり、生前にイエス・キリストを信じなかった人々は、最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)において、永遠の火に入るのです。と宣べ伝えているのです。

 

このように、クリスチャンといっても、同じクリスチャンではないことがわかりますね。

 

長くなったので、次回へつづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉜ 聖書の教えを曲解させると滅びを招くについて」

 

最近、静岡地方裁判所は、死刑判決の再審(やり直し裁判)で無罪となるまで約50年もの間、死刑囚として過ごしてきた袴田巌さん(89)に対し、刑事補償として2億1700万円を交付すると決定しました。

 

袴田さんに対するファイナルアンサー(判決理由)は冤罪による無罪判決でした。

このファイナルアンサー(判決理由)による無罪判決は変更されることはあり得ません。

 

 

聖書の教えも同じです。

 

新約聖書を読めば、ユダヤ人とサマリア人、異邦人とがいて、それぞれの福音宣教の内容が異なることがわかります。

 

「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。

 

『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。』

(マタイによる福音書10章5,6節)」

 

 

そして、ユダヤ人たちについては、次のように詳細に教えられています。

「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、

 

異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。

こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。

 

しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。

(テサロニケの信徒への手紙第一2章15~16節)」

 

この教えを知れば、ユダヤ人への最後の審判のファイナルアンサー(判決理由)は、主イエスと預言者たちを殺し、クリスチャンを迫害し、あらゆる人々に敵対し、異邦人への福音宣教を妨害した罪という理由で、地獄に行くと思います。

 

この判決理由での地獄行きは、至極当然でしょう。

 

しかし、イエスさまの最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)はまったく違ったのです。

 

次の通りです。

 

『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

 

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

(マタイによる福音書25章41~43節)

 

 

この最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)は、十字架のキリストの贖いにおけるイエスさまの人間としての御父への最後の願いが聞き入れられたことがわかります。(次回に見ていきます。)

 

 

しかも、福音宣教の場合、ユダヤ人、サマリア人、異邦人と、三者三様で、異なる内容でしたが、最後の審判におけるファイナルアンサーは次のように同じなことがわかります。

 

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

 

そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置く(マタイによる福音書25章31~33節)

 

言うまでもなく、このイエスさま御自身の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)は、変わることはありません。

 

しかし、不義を行なうクリスチャンたちが、このイエスさまの最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)を曲解して教えることは可能です。

 

それは、他の聖書箇所を悪用して曲解させるという手口です。

 

 

イエスさまの最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)は、最も小さい者たちのひとりが助けが必要な時に助ける人々か、助けない人々かでした。

 

すると前回記事でお伝えしたように、先に亡くなってしまった私の愛する人々は皆、「正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」ということになります。

 

仮の姿である肉体は滅びても、霊魂は、天国でまた逢えます。しかも永遠です。

 

なので、実に、イエス・キリストという神は愛であり、あわれみ深い神だということがわかります。

 

 

しかし、このイエスさまの最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)を曲解させて、まるで違うファイナルアンサー(判決理由)にしてしまえば、どうなるか?

 

例えば、こうです。

 

「罪が支払う報酬は死です。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 

つまり、イエス・キリストを信じれば無償で義とされて、永遠の命を得るのです。

 

しかし、イエス・キリストを生前に信じなければ義とされない。つまり最後の審判でさばきがあり、永遠の火に入るのです。」

 

このように他の聖書箇所から、最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)を

 

「イエス・キリストを信じれば救われて御国に入ります。

しかし、イエス・キリストを信じなければ救われない。つまり永遠の火に入るのです。」と曲解させて、まるで違う教えにすればどうなるか。

 

前述のイエスさま御自身の教えから、一転して、先に亡くなってしまった私の愛する人々は皆、最後の審判において、永遠の火に入ることになります。

 

すると、この日本では、文化庁『宗教年鑑』令和3年(2021年)版によると、2020年12月31日時点で、キリスト教系が191万5294人(1.1%)です。

 

これは長年ほとんど変わっていません。

 

つまり、約99%はイエス・キリストを信じていない人々です。

 

この約99%の人々が、イエス・キリストを信じることなく亡くなり続けています。

 

その大勢の人々が最後の審判で永遠の火に入ることになると言う教えは、相当めちゃくちゃ超絶にイエス・キリストという神は無慈悲で、冷酷非道な悪魔のような神だと思います。

 

 

イエスさまの最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)を純真に正直に教えると、イエスさまは愛であり、あわれみ深い神だということが伝わります。

 

ですが、その最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)を他の聖書箇所を悪用して曲解させて教えると、イエス・キリストは無慈悲で、冷酷非道な悪魔のような神だと思わせるのです。

 

 

聖書では、律法学者たちが、イエス・キリストを悪魔のように思わせる教えをしています。

 

「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、

 

また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。

 

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。『どうして、サタンがサタンを追い出せよう。

 

国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。

 

同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。

 

はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。

 

しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。』

イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである。

(マルコによる福音書3章22~30節)

 

 

このように、律法学者たちは、イエス・キリストは「悪霊の頭であるサタン(悪魔)」というように教えて、聖霊を冒瀆していました。

 

その当時はまだ新約聖書はありませんが、現在は全世界のベストセラーと言われるぐらいに普及しているために、イエス・キリストを悪魔というように教えることは出来ません。

 

しかし、不義を行なうクリスチャンたちは、聖書の教えを他の聖書を悪用して曲解させる手法によって、イエス・キリストを無慈悲で、冷酷非道な悪魔のような神に思わせることが出来るのです。

 

それは聖霊を冒瀆していることになります。

 

それゆえ、不義を行なうクリスチャンたちは、最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)において、次のようにイエスさまが教えられている通りになります。

 

『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。

 

そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。

 

しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。

 

あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。

(ルカによる福音書13章25~28節)」

 

そして、イエスさまは来臨された時に、不義を行なうクリスチャンたちと、不法を働くクリスチャンは大勢いると明確に教えられています。

 

 

私は、どうして不義を行なうクリスチャンたちと不法を働くクリスチャンたちは大勢いるのか?不思議でなりませんでした。

 

私自身、長年、キリスト教会に所属して、福音を伝える音楽制作の働きを通して、多くの教会と、多くのクリスチャンたちと出会って交流がありました。

 

その多くのクリスチャンたちが、最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)で不義を行なうクリスチャンたちになるとは思えません。

 

 

しかし、最近になって、ようやくその意味がわかってきたのです。

 

それは、イエスさま御自身が教えられている最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)を他の聖書箇所を悪用して曲解させることによって、

 

イエスさまを無慈悲で、冷酷非道な悪魔のような神に思わせることは、非常に恐ろしい罪だということです。

 

つまり、イエスさま御自身が教えられている来臨時の最後の審判におけるファイナルアンサー(判決理由)を純真に正確に伝えているか、

 

それとも、巧妙に他の聖書箇所に変更して曲解させているかです。

 

それは「滅びの門」になります。

 

イエスさまは、大勢のクリスチャンたちがその滅びの門(広い戸口)から入って行くことを明確に教えられているのです。

 

長くなったので、次回に続く

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉛ クリスチャンたちが天国に入れない最後の審判の判決理由について」

 

前回記事から引き続きマザーテレサの福音理解を見ていけば、多くのクリスチャンたちから批判非難されるために、重要なことを先に確認しておきます。

 

聖書を読めば、イエス・キリストの来臨における最後の審判で、大勢のクリスチャンたちが天国に入れない判決理由が明確に教えられています。

 

イエスさまは、福音宣教を始められた最初のころ、イエスさまに従って来た群衆と12弟子たちを山上へ連れて行き、次のように教えられました。

 

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

 

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

 

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。

 

わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

 

かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。

 

そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 

(マタイによる福音書5章20~7章23節)

 

 

つまり、イエスさまは、イエスさまに従って来た群衆と12弟子たちに、山上での垂訓において、このように宣告されました。

 

あなたがたの義(クリスチャンの義)が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがた(クリスチャン)は決して天の国に入ることができない。

 

それは、イエスさまを信じるクリスチャンでも、不法を働く者どもは天の国に入ることができないということでした。

 

その不法を働く「滅びの門」から入って行くクリスチャンが大勢いると教えられたのです。

 

「不法」を働くとは、法(聖書の教え)に違反していることであり、故意に罪を犯すこと

 

 

さらにイエスさまは福音宣教の終盤となったエルサレムへ向かう道中で、次のように教えられました。

 

「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。

 

すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。

 

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。

 

家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。

 

そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。

 

しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。

 

あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。

 

(ルカによる福音書13章22~28節)

 

 

つまり、イエスさまは、イエスさまと一緒に食べたり飲んだりして、イエスさまにお教えを受けているクリスチャンたちでも、

 

不義を行なう者どもは、神の国の外に投げ出されて、泣きわめいて歯ぎしりすると明確に教えられています。

 

大勢のクリスチャンたちが不義を行なう「広い戸口」から入って行くので、救われるクリスチャンは少ないのです。

 

「不義を行なう」とは、人として守るべき道に外れること。つまり、クリスチャンが聖書の教えから外れること

 

また、義に背くこと。つまり、クリスチャンが神の義に背くこと。

 

 

使徒パウロも、このイエスさまの教えに聞き従い、その教えに忠実に次のように教えています。

 

「あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。

 

あなたがたは主キリストに仕えているのです。

 

不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。

 

(コロサイの信徒への手紙3章24~25節)」

 

 

使徒パウロも、不義を行なうクリスチャンたちは、不義(聖書の教えから外れ、神の義に背く)の報いを受けると断言しています。

そこには分け隔てはないのです。

 

 

そして、使徒ペテロは、不法を働くクリスチャンと不義を行なうクリスチャンたちの共通点について、このように教えています。

 

「無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。

 

(ペテロの手紙第二3章16節)」

 

 

つまり、不法を働くクリスチャンと不義を行なうクリスチャンたちは、聖書の教えをいくつも曲解して教え、自分自身に滅びを招いているのです。

 

 

使徒ヨハネも、当然ですが同じことを次のように教えています。

 

「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。

 

神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。(ヨハネの手紙第一2章3~4節)」

 

つまり、不法を働くクリスチャンたちと不義を行なうクリスチャンたちは、神の命令(御言葉)を守らない偽り者であり、真理はその人のうちにはないので、神の国に入ることはありません。

 

 

さらに、神と主イエス・キリストの僕であるヤコブもイエスさまの教えに忠実にさらに深めたことを教えています。

 

「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

 

(ヤコブの手紙2章13節)」

 

つまり、不法を働くクリスチャンたちと不義を行なうクリスチャンたちは、人にあわれみをかけない者たちなので、あわれみのない裁きが下されると明確に教えられています。

 

 

このように、イエスさまは、イエスさまが来臨されて、最後の審判において、大勢の不法を働くクリスチャンたちと不義を行なうクリスチャンたちに対して、

 

『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不義を行う者たち。みな出て行きなさい。』と宣告されて、

 

神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。と断言されました。

 

そのイエスさまの教えを、使徒パウロも使徒ペテロも使徒ヨハネも、神と主イエス・キリストの僕であるヤコブも、従順に聞き従い、それぞれの手紙の中で忠実に教えています。

 

 

そして、「イエス・キリストを信じていない人々」に対する最後の審判の「ファイナルアンサー(判決理由)」は、次の通りです。

 

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

 

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

(マタイの福音書25章34~36節)」

 

 

さて、こうして、主イエス・キリストの最後の審判におけるイエス・キリストを信じている人々と、イエス・キリストを信じていない人々に対する「ファイナルアンサー(判決理由)」を忠実に伝えました。

 

どうでしょう?

 

いずれも理解ができるものです。

 

このように忠実に教えると、キリスト教の教会の中で、不法を働くクリスチャンたちと不義を行なうクリスチャンたちが居場所を失って、出て行くことになります。

 

または悔い改めて、不法を働くことをやめる。不義を行なうことをやめて、教会に残るかです。

 

すると、教会が守られて、世の中においてもキリスト教の教会は安全な場所になっていきます。

 

 

さらに言えば、クリスチャンになって、聖書の教えを曲解させて、不法を働いたり、不義を行なうことなどあり得ないと思う人は圧倒的に多いでしょう。

 

ですから、クリスチャンに対するイエス・キリストの最後の審判のファイナルアンサー(判決理由)は理解ができるものです。

 

 

そして、イエス・キリストを信じていない人々に対するファイナルアンサー(判決理由)はどうでしょう?

 

私の個人の話をすれば、祖父母も両親もイエス・キリストを信じることなく亡くなりました。

 

祖父母は浄土真宗の檀家なので、祖父母と父親の兄弟は皆、浄土真宗の信者として亡くなっています。

 

また、中学三年生の時に壮絶なイジメにあい、人生に絶望して自殺未遂をしていた時期に、テレビ番組を見て、生きる希望を見い出しました。

 

その時に再放送のドラマで、主人公を演じていた石原裕次郎さん、渡哲也さん、田村正和さん、竜雷太さん、八千草薫さん、映画では高倉健さん、大原麗子さんたちは、心の支えになった恩人です。

 

その方々は皆、亡くなってしまいました。

かなりショックでしたし、今でも深い悲しみがあります。

 

しかも葬儀の模様や遺言などを見聞きすると、クリスチャンではありません。

 

ですが、その方々の親近者の方たちが、イエス・キリストの最後の審判のファイナルアンサー(判決理由)を知れば、

 

イエス・キリスト御自身の教えでは、その方々はイエスさまの父に祝福された人たちであり、世の初めから備えられた御国を継いだことを知るでしょう。

 

その方々は、最も小さい者たちが助けを求めている時に助けている証言にあふれているからです。

 

また、私の祖父母も両親も同じです。

両親の最後の言葉は、子どもに対する愛情の言葉でした。

 

自分の子のためなら、自分の命を犠牲にする覚悟で助ける親も多いです。

 

ですから、イエス・キリストを信じていない人々も、イエスさまの最後の審判のファイナルアンサー(判決理由)は理解ができるものになるでしょう。

 

 

マザーテレサの働きは、この前述の聖書の教えに気づきを与える働きです。

 

ところが、前回記事でお伝えしたように、カトリック教会とプロテスタント教会の教えはまったく違う教えを作り上げて、その作り上げた聖書解釈と福音理解を教えているのです。

 

それで、マザーテレサの信仰と福音理解を批判非難するわけです。

 

長くなったので、次にそのことを見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉚ 神さまのファイナルアンサーとマザーテレサの信仰について」

 

元大学教授で作家の森下 辰衛氏のブログ記事「貧しさ ー マザー・テレサのこころ」から、引用します。

 

「シスター・テレサは、イエスの言葉を額面通りに受け取る数少ない人間の一人でした。

 

彼女が読んだ聖書の言葉は、彼女自身に語りかけているとしか思えなかったのです。

 

それは、『あなた方によく言っておく。わたしの最も小さな兄弟姉妹の一人にしてくれたことは、わたしにしてくれたことである』(マタイ25・40)でした。

 

シスター・テレサは1946年9月、『神からの呼声』を聞き、自分の生涯を捧げるべき仕事が何であるかを悟りました。」

 

引用以上

 

 

そのことについて、マザーテレサは次のように答えています。

 

インドのカトリック・ジャーナリスト、アント・アッカラ氏が1995年11月17日、ニューデリーでマザー・テレサに行ったインタビューから引用します。

 

アッカラ氏:あなたの全ての活動の動機は何ですか? 

それは批評家たちが言うように原理主義的な宗教的動機ですか?

 

マザー・テレサ:イエスは福音書の中でとてもはっきりと言われました。

 

「何をするにせよ、私の仲間の中で最も小さき者たちにしなさい」と。

 

はっきりしていますか? それがイエスの働きだったのです。

 

もう1つ、イエスは言われました。「来なさい、わたしの父に祝福された人たち、お前たちのために用意されている国のイスに座りなさい。

 

お前たちは、わたしが飢えていたから食べさせ、のどが乾いていたから飲ませ、裸のときに着せ、家がないときに家に連れて行き、病気のときに見舞ったからだ」。

 

そして私たちはただそれをやっているだけです。

 

修道士たちも、神父たちも、修道女たちも、私たち神の愛の宣教者会のみんなが、同じことをしているのです。

 

私たちはみな愛し愛されるために、神によって創られたのです。私たちはこの働きに関わっています。

 

それをするとき、そこには喜びがあり、一致があり、そして愛があるのです。

 

引用以上

 

 

このようにマザーテレサの働き(福音理解)は、最後の審判における主イエス・キリストのファイナルアンサー『あなた方によく言っておく。わたしの最も小さな兄弟姉妹の一人にしてくれたことは、わたしにしてくれたことである』(マタイ25・40)ということでした。

 

 

そして、カトリック教会の福音理解は、片柳神父がブログ記事でわかりやすく教えていることを引用します。

 

《教会の唯一絶対性》

 

カトリック教会は現在に至るまで、カトリック教会の伝えるイエスの教えこそが、神の救いに至る唯一完全な道だと主張しています。

 

このことを難しい言葉では教会の唯一絶対性の主張と言います。

 

こんなことを言うと日本の社会では嫌われてしまうに決まっていますが、キリスト教信者にとってはとても大切な教えです。

 

この教えについてわたしたちはどう理解し、人にどう説明したらいいのでしょうか。

 

1.教会だけが唯一の救いの道なのか?

 

 「教会の外に救いなし」という言葉があります。

 

教会の外の世界は悪にまみれた世界であって、教会の中にとどまるときにだけ救われることができるという意味で使われてきた言葉です。

 

もともとこの言葉は、教会を分裂させることを戒めるためにキリスト教徒に対して使われた言葉でしたが、次第に教会の外にいる人たちに対しても使われるようになっていったと言われています。

 

引用以上

 

 

つまり、カトリック教会は、教会の中にとどまる人々、つまりイエス・キリストを信じたクリスチャンが救われて、教会の外の悪にまみれた世の中に生きて、イエス・キリストを信じない人々は救われない。という福音理解です。

 

 

次にプロテスタント教会の福音理解です。

日本基督教団の横浜指路教会のホームページから引用します。

 

「ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる、それが私たちプロテスタント教会の信仰の根本です。

 

救いは、私たちがどれだけ善い行いをするか、清く正しい人間になるか、によってではなく、

 

イエス・キリストの十字架と復活によって神が実現して下さった罪の赦し、贖いによって、神の恵みとして与えられるのです。

 

救いにあずかるために私たちに求められているのは、善い行いをし、清く正しい人になることではなくて、イエス・キリストを信じること、それだけなのです。」

 

引用以上

 

 

つまり、プロテスタント教会は、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われるので、イエス・キリストを信じなければ義とされないので救われない。

 

それゆえ、生前にイエス・キリストを信じなかった人々は、最後の審判で裁かれて、永遠の火に投げ込まれるという福音理解です。

 

紹介したのはプロテスタント教会の日本基督教団ですが、福音派の教会の教えもまったく同じです。

 

私は長年、プロテスタント教会の福音派に所属していましたから、「まったく同じだ!」と感心しました。

同じプロテスタント教会ですから当然ですね。

 

ただ、福音派のほうはもっと過激で「地獄に行く」と断言する教会も少なくないので、穏やかな日本基督教団のほうを紹介しました。

 

 

このように、カトリック教会とプロテスタント教会の福音理解は同じように思いますが、マザーテレサの福音理解はまるで違います。

 

しかしながら共通しているのは、「主イエス・キリストの人間に対する天国行きか地獄行きかのファイナルアンサー」についての福音理解ということです。

 

カトリック教会とプロテスタント教会は、「イエス・キリストを信じない人々に救いはない」という「主イエス・キリストのファイナルアンサー」になっています。

 

それは、イエスさまが来臨されて、最後の審判におけるファイナルアンサーではなく、イエスさまの教えとはまったく違うファイナルアンサーを作り上げています。

 

どうしてイエスさまの教えに聞き従わないのか?

まったく不可解です。

 

まるで、イエス・キリストを信じない人々は地獄行きにするというファイナルアンサーでなければならないという神学です。

 

 

一方で、マザーテレサの働きは、イエスは福音書の中でとてもはっきりと言われました「何をするにせよ、私の仲間の中で最も小さき者たちにしなさい。」

 

「来なさい、わたしの父に祝福された人たち、お前たちのために用意されている国のイスに座りなさい。

 

お前たちは、わたしが飢えていたから食べさせ、のどが乾いていたから飲ませ、裸のときに着せ、家がないときに家に連れて行き、病気のときに見舞ったからだ」

 

そして私たちはただそれをやっているだけです。ということです。

 

なので、そのマザーテレサの話を聞いた人たちが、聖書を確かめれば、地上に来臨された「主イエス・キリストの最後の審判」におけるファイナルアンサーの御言葉(マタイの福音書25章31~40節)だということを知るでしょう。

 

つまり、イエス・キリストの御言葉を純真に受け入れて信じれば、最も小さい者が助けを求めている時に助けるような人々は救われるということです。

 

イエス・キリストを信じたか、信じなかったかという理由ではないことが、小学生の子たちでも明確にわかります。

 

 

そのことを念頭に置いて、マザーテレサの信仰を見ていきます。

前述のインタビューの続きです。

 

アッカラ氏:改宗だという非難についてはどうですか?

 

マザー・テレサ:人を改宗させることは神様以外には誰にもできません。

 

たとえもし私が望んだとしても、私は人に「神様ごめんなさい」と言わせることはできません。

 

言うまでもなく、私は誰かをカトリックやプロテスタントにすることはできません。

 

人は自分で自らの宗教を変えたいと思い、そして神様がその恵みをお与えになるのでなければ、人の宗教を変えることなど誰にもできないのです。

 

それはその人と神様の間だけの問題です。人に強制することなど誰にもできないのです。

 

私たちは虫がいっぱい付いて死につつある人たちを街路で救い出します。私たちは4万人を超えるその人たちを救い出しました。

 

もし私がそのような人を起こして、彼をきれいにし、彼を愛し、そして彼に奉仕をしたら、それは改宗でしょうか?

 

彼は獣のようにずっと街路にいたのですが、でも私は彼に愛を与え、そして彼は平安のうちに死んでいくのです。

 

その平安は彼の心から来るのです。それは彼と神様の間だけのことです。それに干渉することは誰にもできません。

 

たとえもし私がそうしたいと思ったとしても、私には何もできません。

 

彼らが死ぬとき、私たちはいつも彼らの同宗信者を迎えに行きます。

 

イスラム教徒たちはイスラム教徒の遺体を受け取って埋葬しますし、ヒンズー教徒たちはやって来て死んだ人を連れて行っては火葬しますし、キリスト教徒たちはやって来て死んだ人を埋葬します。

 

もし改宗が、きよい心をもって神を愛するために、本当に人々を神へと立ち返らせる転換を意味するのであれば、私は改宗をしていますよ。それが本当の改宗ですから・・・。

 

引用以上

 

 

カトリック教会とプロテスタント教会では、生前にイエス・キリストを信じなければ救われないという福音理解です。

 

なので、イスラム教徒やヒンズー教徒のままで死ねば、救われることがないので、熱心にキリスト教へ改宗させる努力をするでしょう。

 

しかし、マザーテレサは「それは彼と神様の間だけのことです。それに干渉することは誰にもできません。」という信仰でした。

 

その信仰は、イエス・キリストの最後の審判のファイナルアンサーにおいて、イエス・キリストを信じたか、信じなかったかはまったく関係がないというイエスさまの教えと一致しています。

 

なので、イスラム教徒のままで、ヒンズー教徒のままで亡くなっても問題はないのです。

 

そのことをマザーテレサは証されているのです。

 

長くなったので、次回そのことについて見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉙ 神が人間を地獄行きにする理由と異邦人の罪」

 

私の両親は祖父母の時代から浄土真宗でしたので、地獄の教えはありませんでした。

 

しかし、小学校の行事で仏教の教えの地獄の話を聞いた時、あまりの恐ろしさに、みんなで悲鳴をあげたのです。

 

そして、キリスト教の多くの牧師やクリスチャンたちから「イエス・キリストを信じない人々は永遠の火に投げ込まれる」という教えに、人生で最も衝撃を受けるほど恐怖で満たされました。

 

その後、そのようなキリスト教とは縁を切ったのです。

 

 

それから現在は、無教会のクリスチャンとして、無教会の内村鑑三先生のように独自で聖書を学んで、プログ記事で発信しています。

 

さて、聖書には、イエス・キリストが来臨されて「最後の審判」で、天国に行く人々と地獄行きの人々のことが次のように明確に教えられています。

 

人の子(イエス・キリスト)が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

 

そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

 

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。

 

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

 

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 

それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。

 

『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。

 

おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

 

わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

(マタイの福音書25章31~43節)

 

 

備えられた御国に入る理由が、『あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』ということです。

 

つまり字義通りですと、クリスチャン(わたしの兄弟たち)しかも、クリスチャンの子どもたちのひとり(最も小さい者たちのひとり)が助けを求めている時に助けた人々ということになります。

 

聖書はクリスチャンたちが迫害されて、散らされたことが次のように書かれています。

 

「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

 

サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。(使徒の働き8章1~3節)

 

逃げたクリスチャンたちは、家族連れもたくさんいたでしょう。

 

逃亡生活の中で親たちは「私たちは結構ですから、この子に食べさせ、飲ませ、泊まらせて、着させて、もらえませんか。」と嘆願したことでしょう。

 

その最も小さき者たちのひとりに、食べさせ、飲ませ、泊まらせ、着させて、あげた人々がいました。

 

しかし、それが最後の審判の天国行きの理由になるとは思わなかったことが次のように書かれています。

 

「すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

 

いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。(マタイの福音書25章37,38節)」

 

 

そして、地獄へ行く者たちに答えて言います。

 

『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

 

こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。(マタイの福音書25章45、46節)

 

つまり、神さまは子どもたちを最も愛して、そのことが最後の審判の判断基準になっていることがわかります。

 

そして、聖書が教える「異邦人」たちは、悪魔の支配の悪霊に従って歩んで、他の神々を崇拝して、無慈悲だったので、子どもたちをまったく愛していなかったことが聖書に書かれています。

 

「モレク ウィキペディア(Wikipedia)」から引用

 

『レビ記』18:21に「子どもをモレクにささげてはならない」、

 

『レビ記』20:2-5に「イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。

 

すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。わたしは顔をその人に向け、彼を民のうちから断つであろう。

 

彼がその子供をモレクにささげてわたしの聖所を汚し、またわたしの聖なる名を汚したからである。

 

「ソロモンはモアブの神である憎むべき者ケモシのために、またアンモンの人々の神である憎むべき者モレクのためにエルサレムの東の山に高き所を築いた。」

 

列王記下16:3では、アハズ王が「イスラエルの王たちの道に歩み、また主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべきおこないにしたがって、自分の子を火に焼いてささげ物とした」とある。

 

歴代誌下28:2-4では、「イスラエルの王たちの道に歩み、またもろもろのバアルのために鋳た像を造り、ベンヒンノムの谷で香をたき、

 

その子らを火に焼いて供え物とするなど、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべき行いにならい、また高き所の上、丘の上、すべての青木の下で犠牲をささげ、香をたいた。」とある。

 

引用以上

 

つまり、他の神々を拝む無慈悲な「異邦人」たちは、子どもたちを犠牲にして殺していました。

 

その異邦人たちの憎むべき行ない(子殺し)を、イスラエルの王たちも行なったのです。

 

 

さらに、異邦人たちの子どもたちに対する憎むべき行ないは残酷非道です。

 

「子どもたちは、飢餓の時の非常食」ということが聖書に書かれています。

 

「ユダの町々、エルサレムの巷で彼らがどのようなことをしているか、あなたには見えないのか。

 

子らは薪を集め、父は火を燃やし、女たちは粉を練り、

 

天の女王のために献げ物の菓子を作り、異教の神々に献げ物のぶどう酒を注いで、わたしを怒らせている。

(エレミヤ書 7章2~11、17~18節)」

 

その続きです。

 

「またわたしは、包囲と、彼らの敵、いのちをねらう者がもたらす窮乏のために、彼らに自分の息子の肉、娘の肉を食べさせる。

 

彼らは互いにその友の肉を食べ合う。(エレミヤ書 19章9節)」

 

 

生まれながら御怒りを受けるべき子であり、悪霊に従い、無慈悲な「異邦人たち」にとって、「子ども」は虫けら同然でした。

 

飢えに直面すれば、非常食として子どもたちを食べていたことも不思議ではありません。

 

その異邦人たちが崇拝する天の女王を、イスラエルの民が崇拝するようになれば、至極当然に、飢えに直面すれば、異邦人と同じように、子どもたちを食べるようになります。

 

また、次のようにも教えています。

 

「あなたのうちの最も優しく、上品な男が、自分の兄弟や、自分の愛する妻や、まだ残っている子どもたちに対してさえ物惜しみをし、

 

自分が食べている子どもの肉を、全然、だれにも分け与えようとはしないであろう。

 

あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が、自分の愛する夫や、息子や、娘に、物惜しみをし、

 

自分の足の間から出た後産や、自分が産んだ子どもさえ、何もかも欠乏しているので、ひそかに、それを食べるであろう。

(申命記28章54~57節)」

 

 

聖書が教えている、生まれながら御怒りを受けるべき子らであり、悪魔の支配の霊に従い、自分の肉の欲の中に生きる無慈悲な「異邦人」と、他の神々を拝む人々とは、飢えに直面すれば、子どもたちを食べるのです。

 

そのような者たちが「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」だということが、理解できるでしょう。

 

 

さて、現在の「異邦人(ユダヤ人・イスラエルの民以外の人々)」はどうでしょう。

 

将軍様だけを崇拝し、他の宗教の教えを禁止している「北朝鮮」の人々を見ていきます。

 

脱北者のパク・ヨンミさんの著書「生きるための選択」には次のように北朝鮮の実態が書かれています。

 

「『”子供は宝だ”』というモットーを学校で唱和し、帰り道に、お腹だけぽっくりふくれた子供がひもじそうな目でこちらを見ている孤児院の前を通ることだ。

 

たぶん、心の奥底では何かがおかしいとわかっていた。

でも北朝鮮人は自分自身にさえも噓をつく名人だ。

 

飢えた母親に置き去りにされて凍死した赤ん坊は、自分の世界観には合わないから、見なかったことにする。

 

ごみ捨て場に捨てられた死体や川に浮かぶ死体を見るのは普通だったし、知らない人が助けを求めていても、何もしないで通りすぎるのも普通だった。

 

母は、困っている人がいたら、できるかぎり助けていた。

 

ときどき、家のない人が食べ物をめぐんでくれと家に来ることがあった。

 

娘を連れた若い女の人が来たときのことをよくおぼえている。

 

『寒くて、お腹がすいています。何か食べ物をくれませんか。娘に食べさせたいんです。』

 

母も小さな子供がいたので深く同情し、ふたりを招きいれて食事をあげた。

 

祖母は近所の子供たちの面倒も見ていて、みんなに食べさせるため、自分はほんの少ししか食べなかった。

 

鶏ガラみたいに瘦せていても、なお祖母は自分が厄介者なのではないかと心配していた。私はこの義足の祖母が大好きだった。」

 

引用以上

 

 

北朝鮮という国は、『”子供は宝だ”』というモットーを学校で唱和させていますが、多くの子どもたちが飢え死にしています。

 

また、まだ13歳の少女だった横田めぐみさんを拉致して、めぐみさん一家を地獄の苦しみにあわせて、日本国民を悲しませています。

 

北朝鮮は、お金がありながら、飢えで苦しむ子供たちを見殺しにして、何億とする多くの人々を殺害するための弾道ミサイルを次々に作って、海に捨てています。

 

 

しかしながら、そのような残酷非道な国で生まれ育った人々でも、極限の飢えた状態においても、子供を食べて生き延びるということはしていないのです。

 

飢えた母子の母親は「娘に食べさせたいんです。」と自分を犠牲にして、子供を助けようとしています。

 

その最も小さい者を招き入れて食事を与えたヨンミさんのお母さん。

 

またヨンミさんの祖母は近所の子どもたちに食べさせるために、食事を分け与え、自分は鶏ガラのようにやせ衰えています。

 

 

北朝鮮では、生きている時に、クリスチャンに会うこともないし、聖書の教え、イエス・キリストの教えも知ることもなく死んでいきます。

 

パク・ヨンミさんも脱北してから、このように言っています。

 

「私たちはどちらも(ヨンミさんと母親)宣教師が何を言っているのかまるでわからなかった。

 

北朝鮮では宗教が禁じられていて、キリスト教の神について聞いたのはそのときがはじめてだった。」

 

引用以上

 

 

近所の子どもたちに食べさせるために、食事を分け与え、自分は鶏ガラのようにやせ衰えていたヨンミさんの祖母は亡くなったそうです。

 

聖書のイエス・キリストの最後の審判の教えでは、ヨンミさんの祖母は備えられた御国に入ります。

 

もちろん、ヨンミさんの母のように、飢えている子供を招いて食事を与える人々も備えられた御国に入ります。

 

マザーテレサや中村哲医師も同じ聖書解釈と福音理解です。

 

長くなったので、次回はその証を見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㉘ 今の悪の世界から救うキリストの教え」

 

聖書を読めば、イエス・キリストの救いは次のように明確に教えられています。

 

「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。

 

私たちの神であり父である方のみこころによったのです。

どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン

(ガラテヤ人への手紙1章4~5節)」

 

そして至極当然に、それはどういうことなのかを具体的に、詳細に教えられていますので、見ていきます。

 

「そこで、自分に仕えている者の中からテモテとエラストのふたりをマケドニヤに送り出したが、パウロ自身は、なおしばらくアジヤにとどまっていた。

 

そのころ、この道のことから、ただならぬ騒動が持ち上がった。

それというのは、デメテリオという銀細工人がいて、銀でアルテミス神殿の模型を作り、職人たちにかなりの収入を得させていたが、

彼が、その職人たちや、同業の者たちをも集めて、こう言ったからである。

 

「皆さん。ご承知のように、私たちが繁盛しているのは、この仕事のおかげです。

 

ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、

 

エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。

 

これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、

 

全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」

 

そう聞いて、彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と叫び始めた。

(使徒の働き19章22~28節)

 

 

この新約聖書が書かれている時代は、全アジヤ、全世界は「大女神」を拝んでいたと聖書は明確に教えられています。

 

それ以前の旧約聖書が書かれている時代も同じだったことが次のように書かれています。

 

「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。

 

お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。

 

主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。

 

この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。

 

そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。

 

しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。

 

盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、 

 

わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。

 

お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。

 

わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。

 

ユダの町々、エルサレムの巷で彼らがどのようなことをしているか、あなたには見えないのか。

 

子らは薪を集め、父は火を燃やし、女たちは粉を練り、

 

天の女王のために献げ物の菓子を作り、異教の神々に献げ物のぶどう酒を注いで、わたしを怒らせている。

 

(エレミヤ書 7章2~11、17~18節)」

 

 

イスラエルの神が怒っておられる理由は、イスラエルの民が、盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言っていたからです。

 

その異教の神々の元締めの存在が「天の女王」でした。

 

そして、天の女王を拝む人々は盗み、殺し、姦淫をして、偽って生きていました。まさに悪魔が支配して、悪霊に従っている状態だったのです。

 

 

この「天の女王」は新約聖書の時代になっても、「大女神」などと言われて、全アジヤ、全世界で拝まれていたわけです。

 

そして、前回記事でもお伝えしましたが、

大女神を拝む異邦人は愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れていて、

 

そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りませんでした。

 

それゆえ、情欲に迷わされ、滅びに向かっています。

 

それから、隣人に対して真実を語らず、偽っていました。

ずっと怒っていて、悪魔が入り込んでいました。

 

また、盗んで生活をしていて、悪い言葉を言い放っていました。

 

そして、無慈悲でした。

 

さらに、悪意に満ちて、憤り、怒り、わめき、そしりが当然の行為になっていました。

 

新約聖書の時代の全アジヤ、全世界の異邦人たちはこのように、この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。

 

肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。と教えられている通りです。

 

まさに、悪魔が支配している世界で、悪霊に従って生きていたのです。

 

 

そのような、悪魔に支配される世界で、悪霊に従っていることになることが、大女神=天の女王という偶像によって隠されていることが悪魔の知恵といえます。

 

その大女神=天の女王(他の神々)を信じて拝んでいる人々が救われるには、世界(天下)にイエス・キリストを信じる以外に救いはありませんでした。

 

なぜなら、イエス・キリストという神の教えは次の通りだからです。

 

「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。

 

神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。

 

愛をもって互いに忍耐し、 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。

 

体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。(エフェソの信徒への手紙4章1~4節)

 

キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。

 

だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、 心の底から新たにされて、

 

神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。(エフェソの信徒への手紙4章21~24節)

 

このように隣人愛を教えられる神は、この聖書の時代は、唯一イエス・キリストだけだったのです。

 

 

さて、現在はどのような世界でしょう?

 

クリスチャンの立場で他の宗教の教えを聞くと、他の宗教の教えは、聖書の時代とはまったく違います。

 

聖書の時代の大女神=天の女王(他の神々)を拝む全アジヤ、全世界の異邦人たちは、

「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、(エフェソの信徒への手紙5章5節)」と言われていました。

 

それゆえ、「キリストと神との国を受け継ぐことはできません。」と教えられたのです。

 

しかし、現在の他の宗教の教えは、みだらな者、汚れた者、貪欲な者たちを人の道を外れてはいけないというように、諭す教えです。

 

まるで、聖書のキリスト教の隣人を愛する教えに共感して、追随する教えのようです。

 

特に日本の宗教で最も信者数の多い「浄土真宗」の教えは、新約聖書の教えをそのまま引用していると思われる教えがいくつもあります。

 

現在の他の宗教の教えは、聖書の時代の大女神=天の女王を拝んだ偶像礼拝者たちの生き方を否定して、人の道を外れてはいけないと諭す教えです。

 

さらにキリストの教えと同じく、盗んではいけません。自分の手で働いて、困っている人に施しをしなさい。

 

慈悲深くありなさい。困っている人を助けましょう。

 

飢えている人がいれば食べる物を与え、渇いている人がいれば飲ませてあげましょう。病気の人は見舞って慰めましょう。という教えです。

 

次回は、マザーテレサや中村哲医師の証などを通して、そのことを深く見ていきます。

 

つづく